3 異界への穴
中庸界からは少しでも離れたい。未練をかきすてるためにソアラは強くそう思い、黄泉に赴くことへ極めて積極的だった。竜神帝はサザビーの黄泉行きを許可せず、彼はまあそれなら仕方ないと暫く天界で過ごしてから中庸界に帰るつもりでいた。やきもきしていたのは___
「お願いします、私も同行させてください!」
ミキャックだ。
「何度言われても私の考えは変わらない。おまえはこのドラゴンズヘブンの守護が今の勤めだ。」
彼女は執拗にソアラへの同行を希望し、竜神帝に訴え続けた。
「ダギュールを見逃して今まで忘れていたんですよ___それでソアラに後は任せるなんて___竜の使いを守ることだって帝にお仕えする天族の勤めではありませんか!」
「何を心配している?」
竜神帝の前でごまかしが通じないのは彼女が一番分かっていることだ。見た目は小さなドラゴンでも、その尊き瞳で一睨みされるとミキャックの背筋に電撃が走る。
「私がアヌビスに脅かされる日が近いと考えているな___?」
ミキャックは俯いた、しかしすぐに顔を上げ、勇気を振り絞るようにして翼を広げた。
「アヌビスに出会って思いました___あの邪神にこれ以上好きにやらせていたら、いずれ帝のお命は奪われます!それにソアラだって___このまま彼女一人で黄泉に行くなんて過酷すぎます!」
彼女は竜神帝がソアラに与えた指示に不安を抱いていた。アヌビスは計算高く動き、全てを欺いて黄泉へ向かったという説が有力とされている。しかし竜神帝はソアラに黄泉に行くことは求めたが、積極的な動きまでは求めなかった。
アヌビスを発見し、奴が何のために黄泉に向かったのかを探ることが重要。戦い急ぐことはない___
「ただアヌビスの存在、そして目的を探るのだけが目当てだったらソアラでなく私が行けば良いんです。ソアラには帝を守ってもらいます!」
「ミキャック、人には気質というものがある。ソアラは探求することに優れた能力を発揮し、おまえは何かを守ることに優れた能力を発揮する。そういう気質なのだ。おまえは単身で未知なる世界へ赴き、生き抜けるような精神力は持ち合わせていない。」
辛らつな言葉にミキャックは口を閉ざした。
「棕櫚とバルバロッサを覚えているな、ミキャック。」
「___はい。」
「黄泉という世界のことは私も詳しくは知らないが、あの二人の言葉を思う限り、ソアラの力強さでなければ生き抜くことはできない。だからサザビーの動行も許可しなかった。」
ミキャックはソアラたちが棕櫚の口から黄泉について明かされた時には、まだ竜の社にいた。だからその世界のことは掻い摘んでしか聞かされていない。広く、強健で、空には謎めいた闇が広がり、能力者である妖魔と、そうでない妖人がいて、有力な妖魔が派閥を持ち、勢力争いをしている、そんなところだ。
「引け、ミキャック。己の勤めに誇りを持って臨め。」
ミキャックは少しだけ唇を噛み、深々と頭を下げると小走りで帝の前から去っていった。
「諦めてはいないか___しかしおまえには己を見つめ直す時間が必要だ。」
竜神帝は若き才能に長くドラゴンズヘヴンのリーダーであって欲しいと考えていた。地界への派遣は彼女に指導者としての経験を積ませるためでもあった。二年たった今でも、彼女はあちらでの失態を忘れてはいない。竜神帝はそれが彼女の抱える課題の一つだと考えていた。その強すぎる責任感と使命感を。
「___黄泉。」
与えられた部屋で旅立ちの用意を調えるソアラ。その手を止め、まだ見ぬ己のもう一つのルーツの在処を思い描いていた。
黄金の髪と、空の如き蒼き瞳を持つはずの竜の使いが、紫になった理由が黄泉にある。アヌビスとの戦いを終え、紫であることに誇りすら感じるようになっていたソアラだが、アヌビスが生きているらしいという現実と同時に、己の真実の解明に対する思いが再燃してきた。
「竜の使いの力を発揮するのは女性___ということは、あたしの母親が竜の使いであることは間違いない。」
だとしたら、どこで妖魔の血脈を持つことになったのか?棕櫚のように黄泉から追放された妖魔と恋に落ちたのか___それとも何かの偶然で黄泉へと導かれたのか。
「そしてなぜ私はポポトルにいたのか。」
そこが問題だ。ヘルジャッカルにいたときソアラはアヌビスの手で血を分析された。その方法については知るところではないが、結果としてありえない血の混入が認められ、それが妖魔の血である可能性がかなり高いとされた。もし妖魔の血ならば、その血の主とソアラは遠い縁でもないのだろう。だとしたら母親その人とある妖魔が結ばれたと考えるのが真っ当だ。ただ、その場所が中庸界だというのは少々考えづらい。
「見つけだしてみるさ、あたしのルーツ___」
ソアラは心の高ぶりを感じていた、それは非常に前向きなもの。ただ、そういう時ほど頭が現実を思い知らせ、冷静さを呼び込もうとする。ふと百鬼の、リュカとルディーの顔が浮かんできた。
「___あれ?」
ソアラは振り払うように首を横に振る。旅支度を進めようと手を動かすが、思考の流れから思いもよらない発見をした。
「あのとき___何でリュカは黄金に輝いてたの?男の子なのに!」
アヌビスとの戦いで、リュカは金色に輝いて黒犬を苦しめていた___大いなる疑問にソアラは難しい顔で腕組みし、大きく首を傾げてしまった。
ドラゴンズヘブンを隅々まで見て回ろうと考えていたサザビーは、翼のない男を物珍しそうに見てくる天族の女性たちに愛想を振りまきながら、城を練り歩いていた。
「ん?」
高層の廊下から、あまり見晴らしが良くないであろうかわりに人気もないテラスが見えた。そこには長身の彼女が冴えない顔で柵に頬杖を突いている。何があったのか大方察しのついていたサザビーは、下層のテラスへと足を速めた。
「___」
ミキャックは片手に菱形のクリスタルを握っていた。親指くらいの大きさのそれを、ミキャックは時折手を開いて一瞥し、また握りしめる。
(何考えてるんだあたしは___帝の言いつけに背くなんて馬鹿げてる!)
己の心の魔に戒めの言葉をかけ、ミキャックは強く首を振る。そのとき___
「よう、どうした。可愛い尻振って。」
「わっ!」
突然お尻を撫でられ、ミキャックは小さく飛び上がって勢いよく左に振り向く。
「うわっぷ!」
右側にいたサザビーは、豊富な羽毛に顔を擦られて呻いた。ミキャックはそのまま一回転し、きつい目つきでサザビーに向き直った。
「からかいに来ただけならほっといて欲しいな!」
「からかい?冗談、おまえがその気なら俺も乗せてもらおうってことさ。」
「!」
ミキャックの正直さは良く知っている。これだけ露骨に驚いてしまっては、彼女も嘘はつけそうにない。ミキャックもそれが分かったのだろう、突然眉をへの時にして数歩後ずさり、小さなため息をつくと柵に背を向けてもたれ掛かった。
「あたしはとんでもない罪を犯そうとしているんだ___軽々しい気持ちでそんなこと言わないで欲しい___」
ミキャックは右の拳を開いた。掌の上で菱形のクリスタルが光を浴びてキラキラと輝く。
「ソアラに同行する方法は思いついたんだな。でもそれが竜神帝の目を盗み、欺くことになる。」
「帝は心の内の騒がしさを見通されるから、欺くことなんてできないさ。でも、背いて逆らうことはできる___」
サザビーはミキャックに歩み寄り、彼女の逃げ場を塞ぐようにして両手を柵にかけた。
「一人が怖けりゃ俺も一緒にやってやるぜ。」
それは駆け落ちを持ちかける言葉にも似ていた。だからミキャックは彼の腕の間で失笑する。
「そんな___あたしがそんな女に見える?」
彼女の竜神帝への忠誠心は、地界での栄光の城、竜の社、光の源に対する献身を見れば一目瞭然。竜神帝はミキャックにとって、絶対の存在であり、組織の長であり、個人的な恩人でもある。
「見えるね、おまえは一途で、実は情熱に溢れた女だ。」
「フフッ、笑わせないでよ。」
彼の力説が嘘ら寒くて、ミキャックは笑った。
「本当はあなたが黄泉に行きたいんでしょ?あたしを利用しようってならやめた方がいい。私は少なくともあなたにそこまでの魅力は感じてないから。」
ミキャックは翼を広げ、サザビーの腕の狭間から上へと逃れようとする。しかし___
「!」
サザビーは彼女が舞い上がるよりも早く彼女の腰に手を回し、真正面から身体を密着させる。ほとんど背丈も変わらない、むしろミキャックの方がほんの少し大きいくらいの二人。煙草の臭いが鼻に焼き付いて、ミキャックは顔をしかめた。
「俺のことはどうでもいい、それでおまえの気持ちがすむのかってことさ。」
「何が!?放してよ、煙草臭い!」
ミキャックはサザビーの腕を掴んで爪を立てる。
「ソアラを気にしてるんだろ?あいつがどんな思いでこっちに来たかを知ったら、放っておけなくなったんだ。」
サザビーがはっきりとした黒い瞳でミキャックを覗き込む。
「___」
「___」
互いに視線を交錯させての沈黙。やがてミキャックは爪に込めていた力を消した。
「だったらあたしはどうしたらいいのさ___」
「おまえ鳥だ。」
「は?」
サザビーはミキャックの背に手を移し、彼女の柔らかな羽に触れた。
「鳥って___」
ミキャックは不可解な面持ちでサザビーを見る。サザビーは彼女の羽の隙間に指を通し、その心地よさを味わった。ミキャックはくすぐったかったのか、少し肩を竦める。
「鳥なら飛び回れ。」
「そういう問題じゃ___ちょっと、くっつきすぎ!」
流されそうになっていたミキャックは急に我に返り、腰や胸までピッタリとくっついてしまうほど密着していた体を腕を張って離そうとする。
「ならこうしようぜ。」
それでもサザビーは構わずに、まるで恋人にそうするようにして彼女を抱きしめた。その両腕の力強さ、彼の温もり、互いの頬までがふれあいそうな距離感、抱擁___そしてサザビーは___
「俺はおまえに惚れた。俺が竜神帝からおまえをさらって黄泉に逃げる。」
「___へ?」
突然の告白に頬を染め、あっけにとられているのもつかの間。
「いっ!?」
ミキャックはサザビーの唇が目前まで迫っていたのに気づき___
ゴッ!
「調子に乗るなっ。」
背筋に走った強烈な悪寒に任せ、彼の脳天に痛烈な肘打ちを叩き落とした。
「あへ〜。」
「まったく___っておいこら!」
サザビーの唇はミキャックから離れていったものの、彼は脱力したふりをして彼女のふくよかな胸の狭間に顔をめり込ませる。再びミキャックの鉄槌が下ったのは言うまでもなかった。
「あ〜ら〜、なんだか随分いちゃいちゃしちゃって。」
サザビーがミキャックの姿に気づいた高層の廊下で、ソアラが楽しそうに二人の様子を見ていた。
「あんなに仲良かったっけ?」
と思いきや、サザビーがテラスの外へ投げ飛ばされそうになっており、ソアラの笑みも苦笑いに変わっていた。
「もう旅立つのか?」
「はいっ。」
全ての支度を整えたソアラが竜神帝の前に現れたのは、ミキャックそしてサザビーと別れの言葉を交わしてからすぐのことだった。彼女はアヌビスとの戦いで身に纏っていた服装のまま、帝の前で背筋を正していた。そしてその服のポケットには、サザビーから貰ったクリスタルがあった。「俺のつもりで持っていけ」なんて彼らしい言葉ではなかったが、ソアラは笑顔でそれを受け取っていた。
「実のところ___私でもおまえを確実に黄泉に送り届けられるかは分からない。天界の空は、時に魔導口であり、ときに話しに聞く黄泉の闇である。すなわち、何処へも行ける可能性がある空間なのだ。」
幼い竜はソアラを真っ直ぐと見つめ、それこそ時折瞬きする意外はピタリと静止して彼女に話を告げることに集中する。
「ただどこかへ続く穴は通常は閉ざされ、見えはしない。そして、果てしなく落ち続ける恐怖感、終わりのない恐怖は筆舌にし難いものでもある。それは己の馴染みの土地を離れることで被る精神的衝撃にも似ている。それを克服して、穴は開くのだ。」
高い崖から眼下の大地を見て飛び降りるのは怖かろう。ただそれ以上に怖いのは、眼下の空に飛び降りることである。大地の影さえも見えない、一切のとりつく島のない空間に飛び出すことだろう。
「穴によって、行ける世界が変わるんですね?」
「そう、黄泉に続くと思われるのは一つの不可思議な穴だ。しかし私はその先の世界に行ったことがないし、その先から帰ってきたという者も知らない。」
ソアラは薄ら笑いを浮かべてはいたが、頬には奇妙な汗が滲む。
「全ては推測でしかない。その穴は古くから、死を望む者が行く道としてその存在だけが伝えられてきた。しかし実際そこに穴はあり、穴の先はどこかに繋がっている。」
竜神帝の言葉一つ一つを反芻し、ソアラは理解の紐を繋いでいく。
天界の空は落下するとなればどこまででも続く無限の空。しかし、落下に恐怖を感じなければ、空には穴が現れる。その穴は、勇気ある者を別世界へ運ぶ架け橋。これは後で聞いた話だが、どの穴にも入ることができず、それでも落下し続けると空全体を飲み込むような穴が現れて___天界の島々の上空に放り出されるらしい。つまり本当の無限ではないということ、しかしソアラの興味はそんな理屈には向かない。
「今までその穴に飛び込んだ人は?」
「私の知る限りで極数えるほどだ。何しろ穴は水平座標でこのドラゴンズヘブンの尾の辺りにある。」
竜神帝は目をギラギラと光らせるソアラを眺め、小さな手で髭に触れた。
「___おまえは___」
そして白くて小さな牙を覗かせる。
「己のルーツにことが及ぶと、顔色が変わるな。」
「___それを糧にしてきましたから。」
「もう紫色のソアラ・バイオレットで納得したのではないのか?」
確かに、アヌビスを倒した後、ソアラは帝の像の前で胸を張って語った。
「再燃しました。もう一つのルーツに触れることが、あたしの黄泉へ行きたいという思いを頑なにしてます。」
あの言葉は嘘ではないことを伝えるため、ソアラは感情を隠さずに告げる。すると帝も頬を緩めた。
「最後に穴に飛び込んだのは女だ、名前はネメシス・ヴァン・ラウティ。」
「彼女は___竜の使いですか?」
ソアラは名前を聞いただけて全身の震えを抑えるのに必死だった。それでも上擦りかけた声で精一杯問いかける。
「シェリル・ヴァン・ラウティの母だ。」
「シェリル___?」
「おまえだ。」
「!」
ソアラの全身、踵から脳天へと熱い血潮が駆け抜ける。瞬間的に彼女は紅潮し、目を見開いたまま瞬き一つせずに硬直していた。
「おまえがどうして中庸界に現れたのか私は知らない。だが、おまえがネメシスの娘であり、その名がシェリルということは彼女の声が教えてくれた。娘のシェリルを見守ってください___たった一言だった。しかし私はその時すでに今の姿であり、中庸界には超龍神がアヌビスの色に染められて憚っていた。ネメシスの願いを果たすことはできなかったが、おまえはソアラ・バイオレットとして力強く成長し、私の前に現れてくれた。おまえのその活力ある精神はネメシスによく似ている。」
下手な感情を込めず、竜神帝は淡々と事実を伝えてソアラを扇情しない。ソアラもまた、ようやく口を動かせるほどに落ち着いてきた。
「母は___今どこに?」
だが質問は冷静でなかった。
「おそらく黄泉だろう。」
それは聞かずとも分かることだ。分かっていれば竜神帝はもっと詳しく彼女のこと、そしてソアラがシェリルである頃のことを語る。
「おまえが黄泉で両親探しに奔走することを私は止めはしないし、止められる手段もない。だが本来おまえを黄泉に導く理由だけは忘れるな。」
「それは___分かってます、大丈夫です。」
胸に手を当てて呟いたその言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。
「私に教えられるのはこれだけだ。後は、おまえに全てを託す。」
「___畏まりました。」
ソアラは襟を正し、粛然として帝の前に跪く。
「これを持て。」
帝の指先から小さな光が走り、ソアラの目の前でピタリと止まる。ソアラは光の下で両手を皿のようにした。すると光が弾け、オパールを思わせる宝石が埋め込まれた指輪が彼女の手の上に落ちた。
「効果があるかは分からないが、その宝石はドラゴンズヘブンでのみ取れる魔法の鉱石、ここでは竜の瞳と呼ばれているものだ。」
「竜の瞳___」
それはその名の通り、ドラゴンズヘブンを上空から眺めた時、瞳にあたる池の底でのみ採取される魅惑の鉱石。
「石でありながら、竜の瞳は帰巣の魔力を秘めている。おまえがヘヴンズドアの魔力を指輪に巡らせることで、瞳はドラゴンズヘブンへとおまえを導いてくれる。」
便利な道具があるものだ。ソアラは指輪を右手の小指に通し、物珍しそうに光に翳して眺めた。
「黄泉からでは効果があるか分からないんですか?」
「そうだ、試したことがないからな。しかし、中庸界や地界からは効果がある。」
「なるほど___」
「効果は一度きり。宝石の中に込められている力の量は一度おまえをドラゴンズヘブンに運ぶものでしかない。たとえ帰巣が失敗に終わったとしてもな___」
竜神帝は大きな瞳をきつくして、ソアラに言い聞かせるように話した。ソアラも彼の目を見て大きく頷く。
「帰れない可能性もあるということですね。」
「そうだ。それを踏まえて、もう一度おまえの意志を聞きたい。」
気遣ってくれている。神なのに___そう思うとソアラは笑顔になれた。
「今更ですよ、あたしの思いは変わりません。」
彼女の心に迷いはない。竜神帝とて人の心を完璧に読みとることはできないが、表情や、胸の拍動、汗、呼吸のテンポなどで相手の感情を推し量るのはさして難しいことではない。このときソアラに緊張は皆無で、これからへの恐怖心を連想させる動揺さえなかった。
「分かった。おまえには、本当に感謝の言葉もない。」
「そんな___」
竜神帝が小さな身体を折り曲げるようにして頭を下げたので、ソアラは少し慌てた。
「感謝されるのはまだ早いですよ。黄泉から役目を終えて帰ってきたら感謝してください。」
その言葉に、竜神帝も顔を上げて笑みを見せる。
「そうだな。」
「あの___」
ソアラは少し俯き、恥じらうように頬を染める。
「もう一度抱いてもらって良いですか___?」
「ああ。」
竜神帝は玉座から飛び降りるようにして床に立ち、ソアラはゆっくりと歩み寄って跪くと、暖かな帝の身体を抱きしめた。「抱いてもらう」というのとは少し印象が違うようにも思えたが、そうするだけで、帝の小さな身体からは考えられないほどの包容力がソアラの全身に行き渡り、身体の芯までが暖かくなれる。
「無理をする必要はない___もし安全に確実に戻れる手段を見つけたら、役目が済んでいなくても戻ってきて構わないからな。」
耳元で竜神帝が優しく囁くと、ソアラは切なくなって少しきつく彼の身体を抱いた。
「ありがとうございます___そのお心遣いだけで十分です。」
そして呟きを返す。
「___」
抱き合っている最中、帝は小さな手で彼女のポケットにあった堅い物を取りだしていた。それは見たことのあるクリスタル___しかし帝はそれを元に戻した。
(やはり、ソアラには助けが必要だ___)
この抱擁で、彼女が寂しさに駆られていると感じたからこそ余計に。
旅立ちは極簡単だった。
帰りのための指輪と、サザビーから貰ったクリスタル、あと路銀にするようにと持たされた宝石類がいくつかが荷物。武器は抜群な高度を誇るクリスタルのナイフを一つ貰ったが、服装はソアラの希望でかつての旅装束だった。竜神帝はアヌビスの名残が染み付いた服はいざというときに危険極まりないと釘を差したが、ソアラはかつての仲間たちの力を感じられる服まで脱ぎ捨てていく気にはなれなかった。
そしてトーザスに連れられてやってきたのは、ドラゴンズヘブンの尾の先端。少し身を乗り出せば、内陸へ食い込むような崖と眼下に広がる果てなき空が見える。
「ごくっ___」
ソアラは音が聞こえるかと思うほどに、顎をしっかり動かして固唾をのんだ。雲がかかっているとむしろ安心感が出る。何しろどこまでも真っ青で行き着く先が見えない。吸い込まれるどころではない、こんなところに飛び降りたら死ぬまで落ち続けるのではないかと錯覚してしまうだろう。
(こりゃ確かに怖いな___)
「こっちですよ、ソアラさん。」
トーザスに呼ばれてソアラは島の突端から離れた。尾の先から島の内側にほんの十歩も進んだところで、トーザスが呼んでいる。そこには大人一人がすっぽりと落ち込めそうな穴が開いていた。周りに穴の存在を知らせるものといえば簡単な石版くらい
「なるほど、天族は飛べるから落ちることでの危険ってのはないわけだ。」
危険な穴でありながら柵がないのはそのため。それにつけても空が飛べるというのは便利なことだ。
「ここから飛び降りて、無抵抗に落下し続ければ問題の穴に辿り着きるそうです。」
「なるほどね、分かったわ。」
穴を覗き込むとその先に空が見えた。島を真っ直ぐ貫く実に珍妙な穴だ。
「それじゃ行ってくるから。」
ソアラは服のズレを整えて、穴の縁ギリギリのところに立つ。脚から真っ直ぐに飛び込まなければ島の内壁に身体をぶつけてしまいそうだ。
「お気をつけて。」
「色々ありがとね。あんたのことは忘れられ無そうだわ。」
「それは光栄!」
ソアラはトーザスに手を差しだし、彼も真っ当に握手を交わす。ささやかな見送りだったがソアラは勇気づけられ、手を放すとこれっぽっちの躊躇いもなく穴へと飛び込んだ!
ゴッ___
穴の中では風が共鳴してソアラの耳を打つ。そして広大な空へと解放された瞬間、一切の音が消え無重力状態になる。
「っ___」
中空であっという間に頭が下へと回転し、加速度が上がる。無音はあっという間に大気を引き裂く衝撃で轟音に代わり、ソアラは果てなき空に解き放たれた弾丸となった。
(これ___今すぐにでも浮上したくなる気持ち分かる___)
このままの加速で落下し続けたら身体がバラバラになる気がした。防衛本能が勝手に魔力を発動させないように、必死に己の気を強く持つ必要があった。
そのころ___
「今更迷ってもしょうがねえんだ。」
「___」
武具と簡単な治療薬を手に、旅の用意を調えたミキャックとサザビーがあのテラスにいた。
「さあ、やってくれ。」
サザビーは踏ん切りのつかないミキャックの肩に手をかけ、強く言った。するとミキャックは、ゆっくりと側頭部につけた翼を象った髪飾りを外す。それは地界でも度々使用していた神具。翼の髪飾りの羽はクリスタルでできている。これを一本へし折ったのが、ソアラに託した「あれ」だ。
「分かった、行こう。ただ、あたしの罪の意識のはけ口でいてくれよ。」
「当然だ。」
彼女の言葉に胸を張って笑顔を見せるサザビー。ミキャックは複雑な笑みを返し、髪飾りを強く握った。
「神の翼よ___我を導け!」
片手でサザビーの手を強く握り、ミキャックはクリスタルを空に掲げて魔力を込めた。これも竜の瞳に似た神具。切り離されたクリスタルの元に髪飾りの持ち主を導く。
二人の身体は瞬く間に輝かしい光に包まれ、テラスから消えた。
(まだ___なの!?)
ソアラは耐えかねていた。身体にかかる強い負荷はもちろん、必死に瞼をこじ開けて先を見ても真っ青が無限に続くばかり。心が急激に萎縮する。もはや魔力の解法を止められないほど、恐怖感が限界に来ていた。これ以上落下を続けたらいくら上昇してもドラゴンズヘブンに戻れないのではないかと本気で疑った。
そんなときである___!
カッ!
「!?」
突然彼女に併走するように大きな光が現れ、全く同じスピードで落下する。服のポケットではクリスタルが光っていたが、大きな光に気を取られた彼女はそんなことにはまったく気づかなかった。そして輝きが拡散すると、そこには二つの知った顔が現れる。
「どうして!?」
名前を呼べるほどの余裕もない。口を開けると空気が怒濤のように入り込んできてあまり喋れなかった。
「一人じゃ寂しいだろ!」
サザビーは宙お泳ぐようにして素早くソアラの手を取った。
「そんな気で来ないで!ミキャックあなたまで!」
ソアラは笑顔で迎えてくれるかと少し期待していた。しかし彼女は竜神帝がそうしたのと同じように、怒った顔だった。
(あたしは___なんて馬鹿だ!)
ソアラは助けよりも、二人が安息でいることを望んでいた。だから怒った。ミキャックは急に自分の愚かさに苛まれ、恐ろしくなった。そしてサザビーから手を放してしまった。
「おいっ!?」
サザビーが驚いて振り向く、その瞬間だった!
ヴォン___!
再び無音と無重力の瞬間が訪れた。身体の負荷が一気に掻き消されたその時、三人の頭は空に開いた赤い真円に食い込んでいた。
それが『穴』だ。
「ミキャ___!」
手を放していては危ない。そう感じたソアラとサザビーがとっさに手を伸ばそうとする。しかし瞬間のうちに三人の姿は消えた。手が動き出す反射よりも早く、声の残響だけを残して___
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