1 蒼き天の竜神
その青さ___
その白さ___
目映いばかりの白と青。その中に広がる鮮やかすぎる緑。
光が最高に際だつ輝ける空の世界、それが天界だった。
「___」
ソアラは初めてその地に降り立ったとき、あまりの感銘に指先一つ動かなくなった。そこは彼女の原点とも呼べる土地。彼女は雲の上の世界を想像していたが、本当の天界はまぶしい中庸界といった印象。
空は突き抜けるような青さで、草葉の緑は光を浴びて煌めくほどに輝かしい緑。土までもが砂のような白さ、そして何より空気だ。
「スゥ___」
これほど「体に合う」空気を感じたことはなかった。気持ちが高ぶりすぎて胸の拍動は周りに聞こえてしまうかと思うほど激しい、その中で彼女はまず思いきって深呼吸を試みた。
透き通った空気が全身に染み渡る。ソアラは頭の奥底から指先まで染み渡る新鮮な活力に笑顔になっていた。
「___凄い!なんて気持ちいい世界!」
自然と声高になり、両手を広げて草の上で一回転する。
「そう思えるってところが竜の使いなんだな。確かに爽やかだが、俺にはちょっとまぶしすぎる。」
サザビーは目元に片手を翳し、もう一方の手で掴んだ煙草をポケットに戻した。
「こう爽やか過ぎちゃ、煙草で噎せそうだ。」
ソアラは真っ青な空を見上げた。この身体に漲る躍動感、これが故郷の素晴らしさ。清々しい気持ちの中で、ソアラは自分に最も適応した世界の存在にこみ上げる笑みを抑えきれなかった。
「ん?」
青い空中の一点で、ソアラの視線がとまる。
「えぇっ!?」
そして目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。
「お?」
サザビーもそちらを振り向く。そこに見えたのは___
「あれは、島か?」
「そうです。」
トーザスがにこにこして頷く。空には陸地が浮かんでいた。下からでは逆錘形の岩肌しか見えないが、近づけば相当な大きさの島だろう。
「あっちにもありますよ。」
「あ、ほんとだ!」
そう、よくよく落ち着いて空を見てみれば、様々な島が浮かんでいる。
「もしかしてここも___」
「そう、ここも島です。天界はこういう無数の島々の世界なんですよ。」
トーザスの答えに、サザビーは感心しきりな顔で何度も頷いた。
「なるほどなぁ、こりゃ空を飛べないとろくに動けないわけだ。」
「サザビー、来ない方が良かったんじゃない?」
ソアラは悪戯っぽく笑い、彼の額を指でつついた。
「あ、一つ気になるんだけど、島から落っこちたらどうなるの?」
「___それは___」
ソアラの質問は初めてこの世界に来た者なら誰でも気になるところ。だがトーザスは露骨に口ごもった。
「それは?」
「それはそれは想像に難いような虫たちの世界が___」
「うっ___」
期待して耳をそばだてていたソアラは、身じろぎして肘を抱く。
「あるのではなく___いでっ!」
「虫に絡めた冗談はあまり好きじゃ無いなぁ___」
「調査済みです。はっはっはっ。」
ソアラが嫌がると知っていての冗談では、トーザスがもう一発拳骨を食らったのは言うまでもない。
「島から落ちたら中庸界か地界に落ちると思います。ほら、良く地上に落ちた天使とかいうでしょ。」
トーザスはにこにこしながら一本指を立てて話した。
「一応確認しておくけど、それは本当なのね?」
ソアラは疑いをたっぷりと込めた目で、トーザスの顔をのぞき込む。
「だいぶ私の性格を分かってきたようで___」
「やっぱり___」
「ただ全部が全部嘘ではありませんよ。天界の空には異世界へと続く『穴』があるんです。まあその辺は帝に聞いてくださいよ。」
そう、天界といえば竜神帝だ。まだその声しか耳にしたことがない神をこの目で見れるというのだから、ソアラは身震いの来る思いだった。
「で、これからその竜神帝のところに連れていってくれるんだろ?」
「そういうことです。帝は___」
トーザスは満を持して空を指さす、それは南西の方角だった。浮かびゆく巨大な島。
「ドラゴン___!」
ソアラはまた驚きで身体を硬直させた。下から見ても分かるのだから、上から見ることができたらより一層明確だったに違いない。島は翼を広げた陸竜が気高き雄叫びを上げた形をしている。がっしりとした両足に対してあまり大きくない両腕、そして山一つもなぎ倒すであろう尾まで、島そのものが竜神の居場所であることを示していた。
「あそこにおられます。」
「凄い!早く行きましょう!」
「うおっ!?」
下から岩肌を覗くのでは到底満足できない。ソアラはその場で飛び跳ねて手を叩き、すぐさまサザビーの腕を取ると勢いよく地を蹴った。後れを取ったトーザスも、翼を目一杯に広げてソアラを追いかけた。
ドラゴンズヘブン___
竜神帝が住むこの島はそう呼ばれている。島の形がドラゴンであることももちろん、光の神であり、あらゆるドラゴンの頂点に立つ竜神帝の側に寄れること、それはどんな獰猛なドラゴンにとっても天国のような安らぎであるとの意からついた名である。
意図的に勢い余って島の上空まで舞い上がったソアラは、その美しく力強い風光に度重なる感嘆を覚える。まるで島が本当の竜であるかのように草木が彩りを加え、眼の部分には真っ青な池がある。両手、両足、尾の部分にはいくつもの建造物が建ち並び、島の中央、竜の心臓の位置に輝かしき城が鎮座する。城から各方の建造物群に伸びる石の道は、まるで竜の身体を巡る血管のよう。白い翼を煌めかせて道を進む天族の姿は、竜に生気をもたらす血液のようにさえ見えた。
「おい!あれ見てみ!」
言葉を失ってただこみ上げる笑顔のままでいたソアラ。手を握る力が弱まったため、サザビーは慌てて彼女の腰のベルトに掴まり、声をかける。
「あ___!」
「お、おい近寄るのか!?」
彼が指さした方角に目をやると、すぐにソアラは飛び跳ねるようにそちらへと滑空していった。
「きゃ〜!大人しいなぁ!」
ドラゴンズヘブンの背中の当たり、丈の低い草が生い茂ったところでは様々な大きさ、色とりどりな鱗を持ったドラゴンたちがのびのびと過ごしている。ソアラは岩苔を食べている四つ足の大きなドラゴンの側により、頬の辺りに手を触れた。頭だけでソアラの背丈にもなる竜は彼女に触れられていることも気にかけず、時折鼻息でソアラの髪を吹き上げながら夢中になって苔を舌で削ぎ取っている。
「ずいぶんたくさんのドラゴンがいるんだな。おっ?」
遠巻きにソアラの様子を見ていたサザビーの肩に、小さな翼竜がやってくる。
「ギュィッ!」
「いだだだ!」
そしてサザビーの髪に食らいついた。
「あ〜、そいつは人の髪に目がないんですよ、気をつけてください。」
ソアラに振り回され、ようやく追いついてきたトーザスが翼竜を後ろから抱き上げて空へ放り上げる。竜は食いちぎった髪をくわえて満足そうに飛び去っていった。
「いって〜。」
サザビーは少し短くなった前髪に手を当てて顔をしかめた。
「うわ、あんたおっきいねぇ。」
ソアラは仰け反るようにして、体中に剣のような棘をはやした二足歩行のドラゴンを見上げていた。いつの間にか周りから他のドラゴンがいなくなっている。よく見ればその剣竜は、牙を見せ、目を血走らせ、喉を唸らせてソアラを見下ろしていた。
「うわっソードドラゴン!あいつはここのボスなんですよ!テイマーたちでも触るのがやっとなんですから!」
それに気づいたトーザスが驚いて羽を膨らませる。しかし助けに行くつもりはないようで、彼は近くの岩陰に飛び込んだ。
「テイマー?」
「ドラゴンテイマー、世話係です!早く隠れた方がいいですよ!」
サザビーは「ふーん」と呟いて、にこにこ顔でいるソアラを見ていた。勘に過ぎないが、隠れないでもこの場は収まる気がしていた。そして___
「グルル___」
「やーん、あんたもかわい〜。」
剣竜は首を擡げてソアラの前に鼻先を突き出し、ソアラはそれを撫でてやる。鼻の頭には甲羅のようなものがついていて、固くて滑らかだった。剣竜はうっとりと目を細め、ソアラを喜ばせた。
「あ、あれ?」
予想外の出来事にトーザスが岩陰から首を伸ばす。
「なんで?」
「やっぱりな。ソアラは竜神帝の系譜を持つ。ここのドラゴンたちならそれくらいわきまえるだろうって思ったぜ。」
何となくの想像が辺り、サザビーは満足げに頷く。一方のトーザスは剣竜とじゃれ合うソアラを呆然としてみていた。
ドラゴンズヘブンの美しさに心癒されながら、辿り着いた城。形は地界で皆の最後の拠点となった「栄光の城」によく似ているが、スケールが違う。マーブルのような白み帯びた石材で造られた城は、不燈火虫を使うでもなく城の頂点に差し込む光をあらゆる箇所に反射させ、輝きをもたらす。正面には大人五十人が横に並んでも余裕があるほどの大階段があり、それを上ると日差しまぶしいテラスへ。五本の見晴らし塔が城の中枢を取り囲むようにして番をし、光の源となる城の頂点には猛々しき竜の彫像。テラスを抜けて城の内側へ進めば、場内というのに美しい花が廊下の両脇に咲き誇り、涼やかな水音をもたらす噴水がある。そして貞淑でいて活気に溢れた天族たちは、見知らぬソアラにも笑顔で頭を垂れた。
「さすがに天界の中心___」
「中庸界でいう元法王堂みたいなもんだもんな。さすがにここでは煙草は吸いづらい。」
ソアラとサザビーは物珍しい城内をあまりキョロキョロせずに歩いた。本当はいちいち立ち止まって、壁に施されたきめ細やかな彫刻なども見て回りたかったが、そうすることさえどこか失礼に感じるほど城は気品に満ちている。
「ソアラ!」
聞き覚えのある声。そちらを振り向くと、やはり天界であっても長身には違いなかった彼女が、手を振って駆け寄ってくる。
「ミキャック!」
久しぶりの再会だ。ソアラは笑顔で、勢いのままに抱きついてきたミキャックを受け止めた。
「久しぶり!またあえて良かった!」
「あたしも___」
快活なソアラに比べ、ミキャックの喜びは潮が引いてしまったかのように一瞬だった。彼女の笑顔はどこか複雑で、目前でそんな表情を見たソアラは不思議に思った。
「どうしたの?」
「うん?なんでもないよ。」
ミキャックは自らソアラをギュッと抱きしめる。ミキャックは長身だけども細身で、女性らしい柔らかな体つきをしている。だから男に抱きしめられるような感覚とは違った。
「あっ、来てたの?」
ソアラを抱きしめたまま、顔を上げたミキャックはサザビーがいることに気が付いた。
「来てたのはねえだろ。おまえの顔が見てみたくなってな。」
「中庸界に女がいるんでしょ?あたしをからかっても何も出ないよ。」
ミキャックはソアラの肩越しにニコリと笑い、サザビーも苦笑いしながら頭を掻いた。
「トーザスご苦労だった、あとは私が。」
ミキャックの前では大人しかったトーザスとそこで別れ、彼女の先導で場内を歩き始めたソアラとサザビー。
「おまえゼルナスのことばらしたのか___?」
「あたりまえでしょ。彼女は純情で傷つきやすいの。遊びで付き合おうなんて許さないからね。」
「遊びだなんておまえ、俺は本気で___」
「じゃあゼルナスは遊び?」
「そうじゃなくってだな___」
ミキャックに聞こえないように声を殺して、彼女の後ろで口論する二人。
「帝のところに行く前にちょっとここに寄っていこう。」
「えっ!」
「お、おう!」
突然彼女が振り返ったのでどぎまぎしながら、二人はミキャックの後に続いた。
そこは場内でありながら、広々とした庭園が広がっていた。土の地面は外と変わりのない青々とした草木で満たされ、川のせせらぎに小鳥のさえずりまで、見事なまでの屋内庭園が作り上げられていた。
「うわぁ___」
今日は驚いてばかりだ。天井があることを忘れたら、まるで屋外と変わりがない。
「なんなんだここは?」
「ドラゴンの保育園よ。」
「保育園?」
サザビーが首を傾げたそのとき。
「うわぁぁっ!かっわいぃぃぃぃっ!」
振り向くとそこでは、ソアラが近寄ってきた子供の陸竜を抱き上げて頬ずりしている。子供のドラゴンは目が大きくて、頭でっかちで、それでも足は太くて、表情もあどけなくて、ソアラが頬ずりしてしまったのも納得の可愛らしさだった。
「ピギッ!」
「あちちっ。」
さすがに子供ではソアラの血脈への礼節もない。抱きしめられて苦しかったのか、口から小さな炎を零していた。
「それにしても元気そうでよかった。」
彼女の声に引かれて小さなドラゴンたちが集まりはじめ、ソアラは子供のドラゴンを可愛がることに夢中になっている。そんな彼女の姿を見て、ミキャックはホッとしたような笑みを見せた。
「ソアラか?」
「うん、アヌビスのことで話があるなんて言ったら、どんな緊張した顔でくるかなって心配してたんだ___家族とだって離ればなれになるんだし___」
そう、その心配は現実のものである。ミキャックは心配性だから、あまり話さない方が良かったのかも知れないが、隠しておいては後々もっと彼女に責任を感じさせてしまう結果になりかねない。
「いや、ここに来るまでは相当落ち込んでたよ。」
「え?」
だからサザビーはソアラの心情は代弁した。
「どうやら縁を切ってきたみたいでな。」
「えっ___!」
ミキャックは凍り付いた。あの平和的で健やかな家族を___ソアラは捨ててきたのか。いや、確かにこれから起こることを思えばそれくらいの心構えは必要かも知れないが、それにしたって残酷だ。
「いや、黙って出てきたって言ってただけだから定かじゃないが、あいつがそれくらいの覚悟を決めてここに来ているのは確かだ。」
「そんな___」
「おまえが気にすることはないぜ。ただもしおまえがこうやってあいつを慰めようって思ってるならそれは余計だ。あいつは自分の覚悟に見合っただけの衝撃を少しでも早く聞かせて欲しいと思ってる。」
「そうか、辛いな___ソアラは。」
その時、二人の背後から声がした。振り返ったそこには、サザビーの腰丈ほどの大きさでしかないドラゴンが、二本足で立っていた。
「あれ?君はちょっと大きいなぁ。」
まだ牙も生えそろってないドラゴンを抱っこしていたソアラは、近づいてきたドラゴンの前にしゃがみ込んだ。そうするとちょうど顔が同じ高さになるくらいの大きさ。二本足で立っている子供のドラゴンは、黄金に煌めく鱗と、純白のささやかな顎髭を蓄えていた。
「___君、かっこいいかも。」
気のせいだろうか?子供のドラゴンにしては___どうも他のドラゴンたちのような幼稚さが感じられない。ソアラの胸の中でうたた寝しているドラゴンは、彼女の指をしゃぶっているというのに。
「良く来てくれた___」
その幼い竜が流暢に言葉を発した瞬間、彼女は気が付いた。
「待っていたよ、ソアラ。」
黄金の鱗、純白の顎髭、青い瞳、まだ短いけれど天を劈こうとする輝かしい角、クリスタルのように繊細でするどい爪、確かに大きさは小さいが___この幼い竜は___!
「竜神帝___様?」
まるで放心しているかのような虚ろさで、ソアラが呟いた。そして、幼い黄金竜が頷く。
「突然呼びつけてすまなかった___」
「う___うわぁぁぁ!」
突然だった。ソアラの顔があっという間にくしゃくしゃになり、まるで堰を切ったように涙を溢れさせて竜神帝に縋り付いた。竜神帝は竜の神であり、竜の父。それは竜の使いにとっても同じこと、だからソアラの中で抑えていたものが爆発してしまった。無性にその胸に縋って、号泣したくなった。
「辛い思いをさせたな___」
声を上げて泣きじゃくるソアラを、彼女よりも小さなドラゴンが必死に手を伸ばして抱きしめる。不思議だが、暖かな光景だった。
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