3 現れた邪神

 「見よ!我らは見事に悪しき竜を討ち果たしミゼルグェストを守り通した!我ら天族は強き魂を持ち戦えば、魔にも屈することはない!」
 城の徽章を誂えた垂れ幕を後ろに、バーフェルヘイツは猛々しく語る。その彼を台に据えられた水晶玉の放つ光が照らし、球には理知的な印象の女性天族が手を触れていた。光は彼女の手を源とし、水晶によって増幅されている。
 「変なの、悪い竜を倒したのは僕たちなのに。」
 そんなバーフェルヘイツの姿を柱の影から覗き見て、リュカは釈然としない様子で言った。
 「それが大人の社会ってものなのよ。」
 「辛いよねぇ。」
 「___」
 その言葉をませた態度で切り返すルディーと応じるリュカ。百鬼は小さな子供たちを見下ろして、複雑な微笑みを浮かべた。
 「でも本当に趣味悪いですよね。ああやって親交のある島の連中に手柄を自慢してるんですから。」
 「そうだな、どれだけ犠牲が出たかは言いもしねえし。」
 不満を抱いているのはトーザスも同じ事。実はこの部屋、投影室と呼ばれている。あの水晶は魔力の込められた通信装置。同じ魔力が込められた水晶を持つ物に、投影したビジョンを送り届ける仕掛けになっている。つまり、バーフェルヘイツは一際飾られたこの部屋で、顔見知りでもある他島の頭首たちに勝ち戦の報告をしているのだ。
 「これで他の島の連中が触発されて、戦いも知らないくせにアヌビスの軍勢に立ち向かったらことだぜ。」
 「本当ですよねっ。」
 部屋の外の廊下、柱の影でバーフェルヘイツの重低音を聞く四人。それぞれに不満たらたらであった。
 「あれ?おじちゃん、何か光ってるよ?」
 部屋の中を窺うのに飽きたか、リュカが後ろを振り返る。そしてトーザスが腰に付けている巾着が、内側から光を発しているのに気が付いた。
 「あっ!」
 トーザスはさも慌てた素振りで巾着を腰からはぎ取り、そそくさと向かいの壁に走って百鬼たちに背を向けた。
 「おい、どうした?」
 「い、いえなんでもないんですよ。あ、リュカ君だっけ?私のことはお兄さんって呼んでくれると嬉しいなぁ。」
 百鬼の問いかけに、トーザスは顔だけ振り返って辿々しく返答した。
 「何これ、水晶?」
 「あっ!」
 間隙を縫って___と言っては大げさだが、ルディーが抜け目無く彼の側へと近寄り、隠し持っていた光る水晶を取り上げた。
 (本当にソアラに似やがって___)
 ルディーの不貞不貞しいまでの大胆さに、百鬼はしみじみと思った。
 「あ〜、や、やめてください!お嬢ちゃん魔力強いのに___!」
 「え?」
 水晶の光に反応して、ルディーの手も朧気に光り始めた。彼女が体に秘める魔力を水晶が導き出したのだ。光はルディーの魔力を受けて丸い水晶の上方に結集する。そして___
 『トーザス!貴様何をしておるか!』
 突然、光に煽られるようにして可愛らしい幼竜の姿が浮かび上がった。しかも現れるなり勇ましい口調でトーザスを一喝している。
 「も、申し訳ございません!」
 当のトーザスも素早く幼竜の前にひれ伏していた。水晶玉が映し出した像は向こう側が透けて見えるうえに、ルディーの顔ほどの大きさでしかない。
 「うわぁ、なんか可愛いよこれ。」
 「本当だなぁ。」
 だから水晶玉を持つルディーも、おもしろそうに近寄ってきたリュカと百鬼も、この幼竜が「あのお方」だなんて想像もしなかった。
 「ああ!皆さんそんな軽々しく!その方は竜神帝ですよ!」
 「へえ、これが竜神帝ね___なにぃっ!?」
 トーザスの叫びを聞いて、像の顔の辺りで指を動かしていた百鬼は飛び上がらんばかりに驚いた。
 「雄かな?雌かな?」
 「下から見たら分かるんじゃないの?」
 「だーっ!おまえらっ!」
 水晶で映し出された幼竜のお尻を気にしている子供たち。百鬼は水晶を手にしているルディーをそのままに、リュカだけ自分の側へと引きはがした。
 『コホン、落ち着いたかな?中庸界の勇者たちよ。』
 「いや、竜神帝って言ったらもっと凄いドラゴンを想像していたから、まだちょっと落ち着かない___ですよ。」
 思い出したように丁寧語を添えて、百鬼は言った。そんな彼の姿が見えているのだろう、幼竜はささやかな笑みを覗かせる。
 『言葉など気にすることはない。このような形とは言え、ソアラの愛すべき者たちと出会えたのは喜ばしきことだ。彼女の支えとなり続けていること、竜の使いの祖たる者として心より礼を言う。』
 「礼って___確かに俺とソアラは支え合ってきた、でもそれは夫婦なんだから当然のことだ。」
 その言葉には若干の憤りが感じられた。ソアラは竜の使いだ、それはまちがいない。しかし竜の使いである前に自分の妻である。一方的な別離を告げられたことで、その思いは一層強くなっていた。
 『そうだな___その言葉、我が身に重く刻みつけよう。』
 短いやり取りであった。しかし帝はソアラを失ってからの百鬼の葛藤と、その中から見出した明日への希望、ソアラとの再会を望む強い意思を感じ取った。
 『しかし、この度はとんだ足労をかけた。トーザスがよもやおまえたちを呼びに中庸界へ走るなどとは思ってもみなかったのだ。』
 「え?」
 驚いてトーザスを振り返った百鬼。しかしいつの間にか彼の姿がない。
 「お父さん、上。」
 ルディーに言われて天井を見上げると、竜の彫刻の縁からトーザスの翼が飛び出していた。
 ___
 「すみません!でも私一人じゃ本当にどうしょうもなくて!」
 『だからといって、無碍に彼らを巻き込んで良いのか?おまえのことだ、また口八丁に彼らを口説き落としたのであろう。』
 天界の危機に竜神帝も手をこまねいていたわけではない。浸食を進める冥府への偵察はことごとく失敗に終わっており、ましてアヌビスの狙いであろう当人がドラゴンズヘヴンを離れることはできない。各島への逃亡を勧める言葉も効果的ではなかった。
 ただせめて意思の疎通を図るべく、大きな島へは直属の天族を派遣して、できるだけ生存することを優先としたタクトを振らせている。そしてミゼルグェストに派遣されたのがトーザスだった。だが頭首のバーフェルヘイツはあの通りの気質の持ち主。トーザスの言葉も右から左に抜けるばかりであった。
 自らの仕事を果たせない焦りから、トーザスは助っ人を求めた。かつてアヌビスと戦い、勝利した人物の言葉なら、バーフェルヘイツも耳を貸すかも知れない。そう思って二度目のノウハウを生かして中庸界へ飛んだのだ。
 『ニックよ、天界は私が守ってみせる。おまえたちまでもが混沌に足を踏み入れることはない。中庸界へ戻るのだ。』
 ひとしきりトーザスを叱りつけると、竜神帝は改まって百鬼に言った。だが百鬼にとっては、トーザスの本心こそが寝耳に水。
 「いや待ってくれよ帝さん。天族たちのあんな戦い振りを見せられたら、正直このまま中庸界に戻っても、空の上が気になっておちおち寝られない。」
 リュカとルディーも気持ちは同じと言わんばかりに頷いている。
 「俺たちだってそれなりの覚悟を決めてこっちに来たんだ。それに___ソアラだってまだ黄泉で戦っているんだろ?」
 『それはどうか分からない。』
 竜神帝から帰ってきた言葉は辛辣だった。
 『アヌビスの軍勢がこちらに来ている今、楽観的な見方はできないと思っている。』
 「そんな___」
 「違うよ!お母さんは闘っている!」
 神たる者の言葉に困惑を隠せなかった百鬼に代わり、声を荒らげたのはリュカだった。
 「絶対に負けたりなんかしないんだ!」
 男は泣くな、そう教わってきたリュカは目元に涙の滴を溜めても零すことはない。零れそうになると手の甲で力任せに掻き消し、水晶に映し出された幼竜を睨み付けた。根拠はない、ソアラが生きていると言い切る根拠はどこにもないが、百鬼もルディーも心はリュカと同じだ。
 『良い目だ、ソアラに似ている。』
 「えっ?」
 そんな思いを感じ取ったか、竜神帝はリュカの真っ直ぐな瞳に微笑みを返す。
 『無論、私もソアラの無事を信じている。それはそれでよい。信じることは時に力へと変わる。だが、今は最悪のことも考えながら戦いに望まなくてはならないのだ。天界が滅び、おまえたちもまた朽ち果てたとあって、ソアラはどこへ帰ったらよいのか?』
 「!」
 その言葉の意味するところは戦況の厳しさに他ならない。天界を治める者の口から発せられた、「天界が滅び」などと言う言葉。それが全てを物語っている。
 「本気で言ってるのか___帝さんよ___」
 『ああ。確証はないが、アヌビスは自らの故郷たる世界、冥府を移動させ、この天界にぶつけている。』
 「らしいな___トーザスから聞いた___」
 『冥府は強大な浸食の力を秘めた世界と聞く。現に天界は、世界の端より冥府に成すすべなく食われている。』
 「どうしたら冥府を止められる?策はあるんだろ?」
 『___』
 竜神帝は沈黙した。百鬼もまた、彼が言葉を発するのを待つ。独特の緊張感に、リュカとルディーも黙り込んだ。
 『確かに策はある。』
 痺れを切らしたように竜神帝は言った。
 『しかしそれを果たすには、各島に先陣を切って送り込まれる魔の手の者たちを討たねばなるまい。』
 「さっき襲ってきたようなのか___」
 『さあ、もう良いであろう。トーザス、彼らを中庸界に送り届けるのだ。』
 「ちょっと待ってくれ!」
 『おまえたちは中庸界で勝利を信じていてくれ。さあ、トーザス。』
 「あの、それが___」
 ばつの悪そうな苦笑を浮かべ、頭を掻いているトーザス。
 「導きの石をもう使い果たしまして___」
 『何だと?』
 「ソアラさんに壊されたりとか色々ありまして___」
 彼の歯切れの悪い言葉を聞いて、水晶に映された竜神帝は嘆くように頭を抱えた。
 「石がないってことは、俺たちは中庸界に帰りようがないってことか?」
 百鬼はこみ上げる笑みを殺さずに、トーザスに問いかけた。
 「そうなります。」
 「それじゃあしばらくは天界にいないといけませんねぇ、竜神帝様。」
 さもらしく敬語で語る百鬼に、竜神帝も口元を歪めた。
 『___やむを得ぬか。』
 「やった!」
 リュカが思わず声を上げ、ルディーも水晶を放り上げてハイタッチを交わした。トーザスが冷や汗を飛ばして落ちてきた水晶に滑り込んだのは言うまでもないが。
 ___
 「何を言うか!勝利を上げたにもかかわらず撤退を視野に入れて振る舞えと言うのか!?」
 百鬼親子の活躍で勝利したことを知っても、竜神帝からトーザスへの指示は変わらなかった。
 生存を第一に、撤退も厭わずに動け。しかしそれでバーフェルヘイツが納得するはずもない。戦いでは百鬼の意見を重視しろという言葉も、彼には通じない。
 「いや、ですから今回の勝利は百鬼さんたちの協力に寄るところが大きいわけでして___」
 「抜かせ!これは我らミゼルグェストの民が掴んだ勝利だ!」
 押しの弱いトーザスのこと、肩を落として謁見の間から出てくるのは時間の問題である。

 一方その頃___
 「___」
 仙山は落ち着かない様子で、朱幻城の中庭を歩き回っていた。庭石に腰掛け、玉砂利を踏み躙ってはまた立ち上がる。らしくない彼の挙動を城の掃除屋こと門司がほくそ笑んで見ていた。
 「じっと待たれたらいかがですか?仙山殿。」
 「む___いや___」
 老翁の悪戯っぽい笑みに当てられた仙山は、少し気まずいような仕草をしてまた庭石に座り込む。その時である___
 ヴヴ___
 突如中庭の空間に赤い文字が浮かび上がり、いつもとは少し様子が違う、青白い火花などを散らして闇の出入り口が開いた。
 「わっ!」
 そして転げ落ちるようにしてまず飛び出したのがソアラ。
 「くっ___!」
 次に苦痛に顔を歪めながら闇から放り出されるミキャック。
 「っ!」
 最後に背中から榊が飛び出し、中庭には中、大、小の女三人の山ができあがった。山の頂に当たる榊は二人に乗っかったまま素早く闇を閉じた。
 「ふう___」
 「いててて。」
 「重い〜!」
 山の三人それぞれに言えるのは、皆一様に汗を滲ませている。果たして彼女たちは何をしようとしていたのか。 
 「ほれ見い!だから無理だと言ったのじゃ!」
 「すみません___」
 榊が扇子がソアラの頭を打つ。ソアラはまだ少し肩で息をしながら、ペコリと頭を下げた。
 「凄い___まさかあんな風になってるとは思わなかった。まだ身体が千切れそうですよ___」
 ミキャックは腕を交差させて両肩をさすりながら、興奮さめやらぬ顔で言った。
 「少々無理をしたからのう、一歩間違えば実際に身体を引き裂かれておったじゃろう。どこぞの阿呆の案で我ら皆朽ち果てるとこじゃった。」
 仙山に渡された布で顔の汗を拭い、榊は庭石に腰を下ろした。
 「すみません、でもあんな風になるとは思わなくって。勉強になりましたね。」
 まるで一仕事終えた後のように、爽やかに微笑んでみせるソアラ。さもらしさが榊の癇に障る。
 「由羅___黄泉の果てに飛ばしてやろうか?」
 「嘘です嘘です、ほんの冗談ですから!」
 そんな彼女たちのやりとりを見て、額に手を当てて首を横に振る仙山。一方で門司は女同士の陽気なやりとりをにこにこ顔で見ていた。
 「やっぱり闇の中でヘヴンズドアってのは無理があったか___」
 玉砂利を踵で擦りながら、ソアラは考えを巡らせる。
 「お主には世話になったからのう、私も礼のつもりで力を貸すことは厭わぬ。じゃがさすがに黄泉の闇からあても知らぬ場所を探し当て、お主らを飛ばすというのはあまりにも難しい。」
 「元はと言えばあの蝿男のせいで___」
 つまり事の顛末はこうだ。黄泉から天界へ帰ることを思い立ったソアラとミキャックだが、ソアラは竜神帝に託された「帰巣の指輪」を失っている。困り果てたソアラの目に止まったのが榊。棕櫚を連れ戻しに地界へ赴いた経験を持つ彼女の力を借りて、天界へ帰ろうとしたわけだ。しかしさしもの榊も何ら手がかりのない世界へ導くことはかなわない。地界へ行けたのは、あくまで棕櫚と風間、そしてフォンという信号があったからだという。
 そこでソアラの妙案。闇の中で移動呪文ヘヴンズドアを使ってみようと言うのだ。
 で、結果は失敗。光りに包まれた三人は闇の中を高速で動き出したが、すぐに闇の吐き出す力によって光が消し去られ、あげくバランスを崩した三人の手が放れてソアラもミキャックも黄泉の闇に身体を引き裂かれかけた。榊が奮闘して二人を救い出してくれたから事なきを得たが、一歩間違えれば闇の藻くずと消えていただろう。
 「なにか、やはり正確に目的の地へと導く手がかりがなければいかん。闇の中で方向だけでも示されれば、そちらへ向かって出口を開くこともできようぞ。しかし___私にも限界があるからのう、まして異界へ出口を開くのは本来は禁忌であり、実に骨の折れること___」
 「分かってます、姫にもしものことがあってはいけませんから。ね?」
 「む___」
 突然同意を求められた仙山は呻いた。ソアラがウインクしていたからなおのこと。
 「あたしの髪飾りがあればそれでも良かったけど___」
 「そうなの?」
 「あのクリスタルにも帰巣の魔力が込められているからね。でも、それも今はどこに行ったのか分からないわ。」
 ミキャックは膝に肘を立ててため息をついた。
 「天界に帰るための道具か___」
 ソアラも同じような姿勢で考え込む。
 「天界___」
 そのまま石のように動かなくなったソアラ。何かを忘れている?そう思ったから必死に答えを導き出そうとしていた。
 「仙山、茶でも立てるとするか。」
 「左様ですな。」
 見かねた榊は仙山と共に先に庵へと引き上げようとする。そのときソアラが手を叩いて庭に乾いた音を響かせた。
 「そうだ!レイノラ、黒麒麟よ!彼女の館に行けば天界のものがあるかも知れない!」
 「なるほど、たしかに凛様がレイノラ様なら期待できるね。」
 「でしょ!?早速行きましょうよ!」
 ソアラは笑顔で手を叩き、ミキャックに駆け寄って彼女を立たせようとした。しかしミキャックの腰が重い。なぜなら___
 「あのさ、言い出しづらいけど___あたしを頼りにしてるんなら期待しないでよ。どこにあったのか全然覚えてないから___」
 肩を落とし、暫くその場を動けなかったソアラ。ミキャックは彼女の眼前で手を振って「お〜い」と呼びかけている。呆れた様子の榊も仙山と共に庵へと消えてしまった。
 天界への道は茨の道のようである。

 「さすがに慌ただしいな。」
 城のテラスから町の様子を眺めている百鬼。魔竜の襲撃にも危機感の無かった天族の町だが、イエロードラゴンの稲妻で一部が大きな被害を負った。建物が崩れ、埃はまだ青空に薄曇りを掛ける。
 「___」
 崩れた建物の下敷きとなった天族もいるのだろう。翼の人々は瓦礫の除去に慌ただしく動いている。そこには瓦礫に縋って泣く女性天族の姿もあった。
 (手伝いに行けないのは歯がゆいな。)
 トーザスからの指示で百鬼親子は城の外へ出ることを禁じられている。この状況で翼のない彼らが町に出ては、混乱を招くだろうから。
 (あれ?兵士が働いてるのか___?)
 瓦礫を取り除く天族たち、その中心となっているのは先ほどの魔竜との戦いを凌ぎきった兵士たちだ。またいつ次の戦いがあるか分からない状況では体を休めることを優先すべき。しかし百鬼も同じ立場であれば、身を粉にして働くだろう。バーフェルヘイツは別にしても、彼に仕える天族たちは共感できる正義感の持ち主のようだ。
 (さて、敵はいつ攻めてくるか___アヌビスの軍勢があの魔竜だけで終わりとは思えない。ましてこれが天界勢の初勝利なら、勢いを付けないためにもより強力な刺客で叩きつぶしに来るはずだ。)
 百鬼の考察は間違いではなかった。
 「ん___?」
 壊されたものとは別の見晴台。そこで抜群の視力を効かして空を睨み付けていた男が呟く。
 「ん___あっ!」
 雲の切れ間から、黒い砂粒のようなものがいくつも見えた。
 「まさか___!」
 視力を超越してさらに遠くを伺える望遠鏡。屋根の張りに釣り下げたそれを慌てて引き下ろし、覗き込む。そして慄然とした___
 望遠鏡の先に映ったのは数多の魔獣たち。無数の黒い砂粒一つ一つが、凶悪な化け物だった。
 「うあああっ!」
 もはや狂気の沙汰か。彼はすぐさま猛烈な勢いで鐘をうち鳴らした。
 「きたかっ!」
 魔竜の襲撃とは鐘のけたたましさが違う。露骨に取り乱したその音に、百鬼は緊張を掻き立てられた。歴戦の彼でさえそうなのだ、町は言い得ぬ恐怖にたちまちパニックに陥っていた。
 「すぐに軍勢を集結せよ!一気に迎え撃つ!」
 「げっ!」
 下方から豪快な怒鳴り声を聞き、百鬼はテラスから身を乗り出した。気が早いというか無鉄砲というか、武装したバーフェルヘイツは早くも城門を脱しようとしている。
 「おい!おっさん!」
 溜まらずにそう呼びかけたが、バーフェルヘイツは聞く耳も持たずに飛び去ってしまった。
 「ひゃ、百鬼さ〜ん!」
 入れ違えるようにテラスへと駆けてきたのがトーザスだ。
 「またバーフェルヘイツが、止めたんですけど全然聞かなくて!」
 「聞きたくねえ言葉は無視だ。あれじゃどうしょうもねえ。」
 百鬼は呆れた様子で言った。
 「敵の軍勢は?」
 「それがまだ___」
 「トーザス様!」
 その時、テラスの外側から切羽詰まった叫びが聞こえた。振り返ると、焦ってバランスを崩しながら、天族の男が飛んできた。
 「君は見張りの___」
 「て、敵はもの凄い大軍です!」
 男はあまりの恐怖に見張りを続けられなかった。そう言えばけたたましい鐘の音も止んでいる。
 「お、落ち着いて、ど、どんな敵が、な、何匹ぐらいですか?」
 落ち着かせようとしているトーザスが落ち着いていないのだから話にならない。
 「モンスターが、数なんて恐ろしくて数えていられませんよ___!」
 「ひぃぃ!」
 「おまえが震え上がってどうすんだ!」
 怯えるトーザスの頭を百鬼が平手で一叩き。
 「お父さん!」
 次にテラスに駆けてきたのはリュカとルディーである。
 「ああ!君たちはさっきの!」
 魔竜を退けた救世主の登場に、見張りの顔色に希望の光が差した。
 「また島のドラゴンさんたちに手伝ってもらうね!」
 「待て!」
 それだけ言い残して駆け出そうとした二人の肩を、百鬼は強引に捕まえた。
 「なんで!?」
 ルディーが不服そうに振り返る。
 「頼むからちょっと待ってくれ、竜の力、別のことに借りた方がいいかもしれないんだ。」 「別?」
 リュカは首を傾げ、ルディーと不思議そうに顔を見合わせた。

 「な、なんて数だ___」
 「か、勝てるのかよ___こんなのに___」
 数分もすると、ミゼルグェストの町からも敵の影がはっきりと確認できるようになった。礼によって町を背にして集結していたバーフェルヘイツ軍。しかし兵士たちも敵のあまりの数に弱音を口にすることしかできなかった。
 「ぐうう___」
 さしものバーフェルヘイツも呻いた。綺麗な編隊を組んで飛んでくるモンスターの数は百にもなるか。ガーゴイルと呼ばれる悪魔のような形態をしたもの、魔竜ほど巨大ではないが鱗に金属のような滑りを帯びた翼竜、黒い翼と鋭い爪を持つ禿鷲。そして極めつけは先頭を行く一際巨大な魔獣。獅子とヤギと蛇の頭を持つ伝説の魔獣キマイラ___
 「ええい怯むな!数ではこちらの方が多い!」
 バーフェルヘイツの怒声もむなしく聞こえる。たった三頭の魔竜にあれほどの苦戦を強いられた後では、無理も無いだろう。それでも勝利の味を忘れられない頭首は、血気盛んに怒鳴り続けた。
 しかしもしも、もしも彼が、この編隊の中央に浮遊する、この魔獣たちの中にあってはあまりにも洗練された敵将が誰であるかを知っていたなら、腰を抜かしてへたり込んでいただろう。
 「嘘だろ___」
 事実、百鬼の驚愕はそれほどに激しかった。
 「ど、どうしたんですか?」
 「なんであいつがここにいるんだ___!」
 百鬼でさえ取り乱す。彼の視線の先を追い、トーザスも目を飛び出さんばかりに見開いて、硬直してしまった。
 魔物の集団の中心で悠然と浮遊するのは漆黒の犬男。引き締まった筋骨の鎧に包まれた肉体、大きくて長い耳に尖った口。犬の顔に人の身体を持つあれは紛れもない___
 「アヌビス___!」
 「わっ、ほんとだ!」
 「久しぶりに見たね。」
 「おいっ。」
 妙に緊張感を欠く子供たち二人。百鬼の肩によじ登るようにして空を見つめていた。ただおかげで百鬼の驚愕も和らいだというものだ。
 「おいおまえら!すぐに翼竜を町の裏手に集めろ!みんなを逃がすのを手伝って貰うんだ!」
 待ちに待ったお役目である。
 「了解!」
 二人は互いに笑顔で見つめ合い、ビシッと敬礼を決めると一目散に走り出していった。その道すがら___
 「ねえ、アヌビスって前はもっと怖かったような気がしない?」
 「あたしもそう思った。今日はちっとも怖くなかったよね。」
 そんなことを話して。
 「皆さん!敵の軍勢はあまりにも大きい!町の裏手に先ほど魔竜を退治してくれた翼竜たちを集めてあります!竜の背に乗ってミゼルグェストから逃げましょう!」
 トーザス、百鬼、さらには城に残っていたバーフェルヘイツに懐疑的な連中を説得し、町の天族たちを裏手へと導く。多くの天族たちが、迷いながらも危機を察して彼らに同調した。そしてその動きはバーフェルヘイツ軍の耳にも届く。
 「な、なんだと!?トーザスが島の民を逃がしている!?」
 報せはバーフェルヘイツを狼狽させただけでなく、兵たちの動揺を誘った。
 「敵の大将は邪神アヌビス!早急に兵を引いて逃げてくださいと!」
 「アヌビス!?馬鹿な!」
 伝令の言葉に豪傑なる頭首も息を飲んだ。しかしこの呻き、臆病風とは全く別物である。
 「これはまたとないチャンスではないか!我らが敵の総大将を倒すのだ!」
 この期に及んでまだ現実を知らないバーフェルヘイツ。兵士たちも彼に心酔している者が半数以上。逃げ出せるはずがない。
 「行くぞ!」
 魔竜に先制された教訓は生かす。敵の大軍が仕掛ける前にバーフェルヘイツの軍勢は空へと舞い上がった。
 「さあ急げ!」
 町の裏手の平原にリュカとルディーが集めた翼竜たちが待っている。百鬼も半信半疑でやってくる天族たちを急がせていた。
 ゴッ___!
 そして背後に爆音を聞く。
 「!?」
 町に粉塵が吹き上げる。遅れて建物の崩れる音が地響きを伴って轟いた。そしてさらに大きな土煙。
 「仕掛けてきたか!」
 「百鬼さん!バーフェルヘイツが立ち向かってます!」
 空から町の人々に呼びかけていたトーザスが、声を裏返らせて叫んだ。
 「なんだと___!」
 逃亡の手助けにはなる。しかしどこまで無謀だ___!
 「トーザス!おまえは背中の埋まった翼竜から飛び立たせろ!行き先は任せる!リュカ、ルディー!おまえたちは先に行ってみんなを守れ!」
 「はいっ!」
 トーザスは空で、子供たちは竜の背の上で、それぞれに力強く答えた。百鬼はまだ背中の空いていた少し小振りな翼竜に駆け寄る。
 「力を貸してくれよ。」
 子供たちと血のつながりを感じたか、百鬼に触れられても臆することも威嚇することもない翼竜。彼の強さを感じた百鬼は、その背中へと跨った。

 「グゥアアアッ!」
 「うぁ___!」
 キマイラの獅子の口が兵士に三人まとめて食らいつく。蛇は口から吹雪を吹きつけ、山羊の目が光ると風が刃と化して猛威を振るった。
 「ううっ___何をしておる!仕留めろ!」
 集団の後方で吠え続けるバーフェルヘイツ。しかし戦いの時が経つに連れ、傷ついた天族たちが血の雨を降らせ、自らも大粒の雨となって落ちていく。
 「最悪だ___!」
 その様に百鬼は舌打ちをして吐き捨てる。
 「おい、わかるか?俺が首を叩いたら火の玉を頼むぞ!」
 「ギュゥァ!」
 「いい子だ!」
 風を切って進むドラゴン。戦場は見る見るうちに近くなる。敵軍の先頭に立ち猛威を振るうのはあのキマイラ。この翼竜では力及ばないだろう、しかし不意を付けば怯ませることくらいはできるはず!
 「今だ!」
 攻撃に夢中になり、百鬼の接近に気づかないキマイラ。逃れようのない隙を見つけた瞬間、百鬼は翼竜の首を叩いた。
 ゴウッ!
 火の玉は決して大きくないが、弾丸のような速さでキマイラを襲った。
 「ギシャァァッ!」
 蛇の頭に炸裂した炎、たちまちその巨体を燃え上がらせる。
 「グアォォッ!」
 苦し紛れに山羊の頭が目を輝かせ、風が吹き荒ぶ。それは火の粉を飛び散らせ、百鬼を驚かす光景の引き金となった。
 「なんだ!?」
 飛び散る火の粉に魔物たちが一斉に怯んだのだ。考えられないような陳腐な光景、しかしこれはチャンスだ。
 「行くぞ!」
 百鬼は騎手のような姿勢で翼竜の首をしごき、竜は空中で素早く旋回すると猛烈な速さで滑空した。そして突撃する。ただし、バーフェルヘイツの軍勢に!
 「どけどけぇっ!」
 「のぉ!?おおおぉぉぉぉっ!?」
 人を背にした翼竜が真っ直ぐこちらに突っ込んでくる。バーフェルヘイツは迫り来る翼竜に身動き一つできなかった。
 ガシッ!
 「くっ!」
 片手でバーフェルヘイツの胴を捕まえた百鬼。肩は痛んだが気にもとめず、半ば放心している頭首を翼竜の背に座らせもう一度、戸惑う彼の軍勢に向かって大きく旋回する。
 「逃げるぞ!無駄死にする必要はない!今は生きてチャンスを待つんだ!」
 風の流れに掻き消されないよう、全身全霊を傾けて叫ぶ。
 「き、貴様、何を勝手な!」
 その声にようやく我を取り戻したバーフェルヘイツが百鬼に怒鳴った。
 「あんたに任しておいたら全滅だ!」
 しかしさすがに苛立った百鬼が一喝すると、クッと言葉を詰まらせ、それ以上反論することはなかった。
 「おい何をしている!早く逃げろ!」
 指揮官を失って混沌としている軍勢の動きはちぐはぐ。焦る百鬼を後目に、燃え尽きたキマイラが消え去ると、アヌビスの魔物たちは息を吹き返したように躍動しはじめた。
 「退けぇぇぇぇいっ!」
 その時、百鬼の横から広い空にも良く響く、豪快な声が轟いた。
 「おっさん!」
 バーフェルヘイツである。
 「今日ばかりは貴様の顔を立ててやる!」
 目を合わせない。ふて腐れた顔で、眉間に皺を寄せている。それが照れ隠しのように見えて、百鬼は思わず笑顔になった。
 「ありがてえ!よし!援護射撃だ!」
 指揮官の声に、バーフェルヘイツの軍勢は一気に撤退を始めた。追いかけようとする魔物たちも翼竜の火の玉の牽制で前に出ることができない。トーザスを先頭とした先発隊はすでに島を離れている。これに遅れて、一頭の翼竜を最後尾に、バーフェルヘイツの軍勢も自らの翼で島を離れていった。
 ___
 暫くして、いまだに島の空に漂っていた魔物たちが青白い輝きを発したかと思うと、次々と消え去っていった。
 「火を吹く奴はちょっと相手にしづらいな。」
 変わって戦場に現れたのは引石に立つ幻夢。彼は手に広げた絵を持っていた。それは勇敢なる天族たちと魔物の戦いを描いた絵画。空に漂う魔物たちが消えるたびに、絵画の魔物たちが増えていった。
 「あ〜、冴えない絵になっちゃった。」
 本来ならば、天族の先頭に立つ勇者はキマイラと壮絶な戦いを繰り広げている。しかし絵の中で、勇者の相手には黒く焼け焦げた跡が残るだけだった。
 「さ、アヌビス様もお戻りください。」
 幻夢が次に取り出したキャンバス、それは背景に多少の影を付けた以外は白紙だった。
 「むんっ。」
 しかし一念を込めると、魔物軍の中心にいたはずのアヌビスは消え、キャンバスにアヌビスの姿が現れる。
 「しっかり言いつけは果たしましたよ。」
 幻夢はキャンバスの黒犬に小さくキスをして、ニコリと笑った。竜樹や頭知坊は島を襲う際、逃亡者を出さず皆殺しにすることに拘っている。しかし彼の場合は違う。
 ありもしない存在を見せつけ、ありもしない不安を植え付け、ありもしない真実を伝播させる。それが重要なのだ。
 天界にいもしないアヌビスを見せつける。実力もさることながら、それができる妖魔だから、アヌビスは彼を新八柱神に選んだ。それは百鬼も、いや竜神帝でさえ、知る由のないことである。




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