2 我慢する人

 現れた眼帯の小柄な男と、肉の塊のような縦横にも大きな男。短い間を経て、兄者が口を開いた。
 「お宅らから頂きたいものがある。」
 兄者は弓と次の矢を手にしたまま言った。決して警戒は緩めていない。
 「人に尋ね物をするときは先に名乗るのが礼儀だぜ。」
 「なんだとぉ!」
 「てめえは黙っておけ。」
 「へ、へぃ。」
 粋がったたんこうだが兄者に諫められるとすぐに黙り込んだ。
 「俺は空雪(くうせつ)、こいつは弟分の丹下山。改めて言うがお宅らから頂きたいものがある。」
 「俺は砂座、こいつは___美希だ。」
 もう小鳥と呼ぶこともない。そう思ったサザビーは咄嗟に彼女を美希と呼んだ。ミキャックはちらりと横目で彼を一瞥したが、すぐにまた空雪を睨み付ける。緊迫状態だからか、サザビーと肌が触れ合うことには躊躇いがない。
 「俺たちから何が欲しいんだ?このやり方ってのはお願いって感じじゃねえよなぁ。」
 気丈に話し、空雪と渡り合う強さを見せるサザビー。しかし矢に貫かれた掌からは止めどなく血が流れ落ち、額には脂汗が滲んでいた。ミキャックは空雪を睨みながらも、サザビーを支えるようにして背に宛った手を朧気に輝かせていた。だがようやく大腿の傷が癒えつつあるところでしかなく、矢が刺さったままでは手の傷は塞ぎようがない。
 「言わなくたって分かるだろう?俺はある妖魔から依頼されてこうして来たんだ。」
 「___」
 「返答次第では見逃してやっても良いぞ。何しろ、俺たちは別にお宅らに恨みがあるわけじゃない。」
 それは空雪の誘い文句だった。実際のところ彼は依頼主から「首」も要求されていたのだ。見逃すなどという文句は最初から詭弁でしかなく、サザビーもそれは十分に感づいていた。
 「なんのことだ?俺たち夫婦水入らずの二人旅を邪魔するつもりか?」
 だからほらを吹いた、しかも不適な面もちで。空雪は一時だけ憮然とし丹下山が騒ぎ出す。これもサザビーの駆け引きの一つ。
 ほらを吹き続けていれば、ギリギリまで殺されることはない。彼らの依頼主は二人の殺害よりも鴉烙の契約書を望んでいる。
 「契約書はあたしたちが持っているんじゃない!」
 「なっ!」
 だが空雪を睨み付けていたミキャックが、不意に凛とした声でそう言ったためサザビーは当惑した。
 「ほぅ。」
 空雪は目を細めてニヤリと笑う。
 「契約書は別の男が持っていったんだ。だからあたしたちを襲っても何もでない。さあ、分かったらさっさと消えて!」
 手負いのサザビーを助けたい。ミキャックにしてみればその一心だったが、サザビーにとっては誤算も甚だしい。
 「いや、それが分かったのなら、是が非でもおまえたちからその男のことを聞き出さなくちゃいけねえ。」
 「そんな___!」
 驚くようなことでもない。まあ遅かれ早かれ詰問にあうのは目に見えていたが、自分から「手ががり」を持っていると教えることはない。そうすることで相手の隙が消えてしまう。ましてや傷をどうにかする時間も消えた。
 「片方は殺してもいいな。」
 空雪の言葉にミキャックは絶句していたが、そう言い出すのも予想できたことだ。
 「男の方を殺すとするか。」
 「兄者!俺にやらておくれよ!」
 丹公は肩を揺さぶりながら早口で喋った。
 「欲張りめ、だからてめえは豚なんだ。まあいい、やってみろ。」
 兄者の許可を得ると丹公は跳び上がって喜んだ。着地と同時に肉がけたたましく揺れる。彼はすぐさまへその回りの贅肉を揉み解した。するとへそが弛緩して、中から出てきたのは巨大な金槌だった。まったくどういう体をしているのか、サザビーはギョッとしてミキャックはひときわ危機感を煽られた。
 「男の名前は風間よ!赤光鬼の風間って呼ばれているわ!」
 そしてそう捲くし立てる。隣でサザビーが小さな舌打ちをした事にも気づかないほど焦って。
 「風間!鴉烙の部下でも有名なやつだな___で、そいつはどこに行った?」
 「それは___」
 ミキャックには分からない。皇蚕の存在そのものは聞かされたが、それがどこにあるのかは聞いていない。
 「そして、おまえたちはどこに向かっている?」
 誰も殺さないうちの方がよほど聞きだせると思ったのか、空雪は丹公の腰巻きを掴んで、踏みとどまらせていた。
 「あたしたちは___」
 「もうよせ。」
 洗いざらい喋ってこの場を切り抜けようとしているミキャックをサザビーが諌めた。矢で繋がれた痛々しい両手のままで、器用に立ち上がる。
 「いくら話したって同じだ、こいつらは俺たちを殺すつもりでいる。これ以上、周りに迷惑をかけるな。」 
 周り、それはソアラや朱幻城の人々を指す。
 「でも!」
 「先に彼女だけ逃がす。」
 サザビーはミキャックの一歩前へと進み、空雪を見つめてそう言った。
 「俺は風間の行き先を知っているぞ。」
 「いや!やめてよ!」
 ミキャックはサザビーの背中に叫んだ。
 「だが彼女は知らない。」
 「サザビー!」
 我を忘れているから、ミキャックは砂座と呼ぶ事さえ忘れていた。
 「あいつが皇蚕に辿り着く前に仕掛けたいよなぁ、さすがに皇蚕の側で待ち伏せってのは無謀だもんなぁ。」
 背に彼女の声を聞きながら、サザビーは続ける。
 「もし彼女を少しでも傷つけてみろ、俺は一言も喋らねえ。」
 「___まあいいだろう。」
 空雪はサザビーのにやけを鼻で笑い、言った。
 「聞いたな。さっさと逃げろ。」
 「嫌よ!なに勝手に決めてるの!?」
 「逃げろ。」
 サザビーの念押しにも首を縦に振らず、ミキャックは彼の治療のために蓄えていた掌の魔力を瞬時にして攻撃へと切り替えた。
 「ディオプラド!」
 光の球体が放たれる。空雪が弓を引き絞るよりも早く、ディオプラドは大地に炸裂した。
 「ちっ!」
 爆発の衝撃もさることながら、巻き上げられた大量の泥土が両者の間に壁を作った。この隙に逃げる?いや、あの矢で狙われては分が悪い。ミキャックの出した答えは攻めだ!
 「はぁぁっ!」
 土の驟雨を突き抜けて、ミキャックが空雪に飛びかかる。すこしでも冷静さがあれば、まずは空雪が持つ弓を蹴飛ばすところだ。しかし今はただ真っ直ぐに魔力を込めた拳を空雪の顔へと放っていた。
 「っ___!」
 空雪は体を捻るが、鋭い拳は彼のこめかみを掠めて眼帯の紐を掻き切る。二人の体が交差していく。入れ違えざまに矢で仕留めてやる___そう思っていた空雪だったがミキャックの武器は手足だけではない。
 「ぐおっ!?」
 大きく広げた翼が空雪の胸から上にぶつかる。張りつめた風呂敷にだって勢いよくぶつかれば衝撃がある。黒い羽に顔を包まれるようにして、空雪は転倒した。
 「兄者!」
 丹公が金槌を振りかざして襲いかかってくる。ミキャックは素早く地を蹴り、迫る丹公に向かって飛びながら体を捻る。
 ドボッ!
 鋭い回し蹴りは確かに丹公の腹を捉えた。しかしあまりにも綺麗に腹の中心を蹴りすぎていた。
 「!?」
 ミキャックの右足は、膝まで丹公のへその中にめり込んでいた。臑から足首までを肉が締め付ける。丹公はへそにぶら下げた彼女を見て一笑し、金槌を振り下ろす!
 「ぎえっ!」
 しかし丹公の目に大量の血糊がへばりつき、怯んだ瞬間にミキャックは逆の脚で腹を蹴飛ばしてへそから抜け出した。
 「させるかよ!」
 血糊を飛ばしたのは両手を真っ赤に染めたサザビー。彼はすぐさま翻って、力ずくで抜き取った矢を空雪に向かって投げつける。
 「ちっ!」
 今まさにミキャックに向かって矢を放とうとしていた空雪は、真っ直ぐ喉笛を狙ってきた矢の回避を優先するしかなかった。サザビーはそのまま悶絶している丹公の背後に回り込み、腰に巻き付けたロープを彼の首に回して締め上げた。
 「はああ!」
 丹公のへそから飛び出した勢いをそのままに、ミキャックは錐揉み状に宙を滑空して空雪に突っ込む。今なら空雪の構えは解かれている。冷静に回避の動きを見極めれば、呪拳を当てられるはずだ!
 しかし確信は空雪の嘲笑にかき消された。
 ビギッ!!
 ミキャックの体が突然硬直し、残存する勢いのまま土へと滑り込んだ。
 「あ___ぐっ___」
 ミキャックは必死に歯を食いしばる。しかし彼女の体は電気が走ったように痺れ、微かに震えるだけで動かない。翼も目一杯広げた形で硬直してしまった。
 「おまえの拳が俺に奥の手を出させたってことだな。」
 眼帯に隠れていた空雪の左目だが、そこにはしっかりと眼球があった。しかし右目と瞳の色が違うし、若干飛び出していた。
 「美希!」
 目の痛みと首の締め付けに藻掻いている丹公の肩越しに、サザビーは叫んだ。
 「じゃじゃ馬め、だがこうしてみればなかなかいい女じゃねえか。」
 空雪は構えを解き、突っ伏して身動きできなくなったミキャックに近づいた。嫌らしい、嘗めるような視線と笑みで見下ろされると、戦いの中で掻き消された悪夢がミキャックの脳裏に舞い戻る。
 「い___」
 闘争心に溢れた顔が、急激に怯えの色に変わる。
 「やめろ!そいつに触るな!」
 これ以上恐怖を煽ってはいけない。サザビーは丹公の背中越しに叫んだ。首を絞める縄に力を込める。しかし甚だしく流血する掌では、その力はいつもの半分も発揮されていない。
 「___!」
 空雪は構わず、ミキャックの横にしゃがみこんでその頬に手を当てた。硬い弦を引くその指は太く、武骨で、柔肌に触れただけでミキャックは痺れとは別の震えが止められなくなった。
 「てめえやめろ!相棒がどうなっても良いのか!?」
 サザビーは足を丹公の尻にかけ、両の縄を目一杯突っ張る。だが空雪は意に介さなかった。ミキャックの首筋から鎖骨へ手を這わせ、服の内側へと侵入して急に荒々しく豊潤な膨らみを握る。もうミキャックの双眼は涙に濡れ、虚空を見ていた。
 「ふざけやがって!」
 「丹公。おまえに首があったのか?」
 丹公を絞め殺そうとするサザビー。しかし空雪の冷静な言葉で流れが変わった。
 グニュッ!
 「なっ!?」
 突如丹公の首が膨れあがり、あれほど食い込んでいたはずの縄がするりと肉の山を頭の方へ外れてしまった。勢い余ったサザビーは尻餅を付く。
 「よくもやってくれたな!」
 「う、うおぉ!?」
 丹公は直前まで首に巻き付いていた縄を掴むと、力任せに背負い投げのようにした。サザビーの体は腰から引き上げられて軽々と宙に舞い、数本の木に激突しながら倒れた。丹公とサザビーを背にして硬直していたミキャックだったが、放り投げられたサザビーの体は視界に入る位置に落ちた。
 「___」
 しかし硬い男の手に胸を弄ばれ、大粒の涙と共に放心した目には彼の姿は映らない。
 「おまえの旦那、随分と派手に飛んだな。」
 「よくもやったなこの野郎!」
 目に入った血を涙で洗い落とした丹公は、顔をくしゃくしゃにし、巨体を揺らして昏倒するサザビーに突進した。
 「こいつめ!こいつめ!」
 丹公は怒りに任せてサザビーの体を蹴り飛ばし、さらにその巨体で踏みつけはじめた。打ちのめされる彼の姿、焦点の合っていないようなミキャックの目に若干の光が舞い戻る。
 「ほどほどにしておけよ、丹公。そいつを殺すと後で事だ。」
 空雪が言うと、丹公は肩で息をしながら高ぶった気を押さえるように足を止めた。彼の足下ではサザビーがぐったりとして倒れていた。そしてミキャックは我を取り戻した。
 「ん?」
 空雪は背中に違和感を覚え、首を捻った。次の瞬間強烈な熱で肌が引き裂かれたような痛みに変わる!
 「あちちち!」
 空雪が飛び跳ねた。背の矢筒に火が灯っており、彼はすぐさまそれを投げ捨て、服に燃え移った炎を湿った土に擦りつけて消火する。
 「サザビー___」
 痺れていても呪文はできる。俯せのまま放った意地の炎だった。胸の周りに蔓延る嫌悪感を断ち切り、ミキャックは棒のような体を必死にねじ曲げて、立ち上がっていた。
 「この女!」
 ビギッ!
 「っ!」
 しかし再び煌めいた空雪の左目。硬直の上乗せをされたミキャックは、立ったままそれ以上動けなくなった。
 「その目は___っ!」
 眼帯に隠されていた左目と視線がかち合うと、ミキャックの全身に電撃のような痺れが走る。だがこの男の能力は狙いを外さない弓ではないのか?ミキャックは痺れて満足に出ない声を絞り出して問うた。
 「前に殺した片目の男が金縛りの眼力を持っている奴だった。俺も片目だったもんでね、そいつが生きているうちに目を奪ってはめてみた。するとどうだ、能力が残ってやがる。だがこいつが見境なく金縛りにかけちまうから普段は眼帯で隠しているわけだな。」
 空雪は近くに転がっていた紐の切れた眼帯を拾い上げ、それを目に当てる仕草だけして懐にしまう。
 「満足したな?おい丹公、金ヤスリあるか?」
「へぇ、あったかなぁ。何に使うんだい兄者?」
 「旦那に吐かせるために女を抱こうと思うがあの手が危ねえ。ヤスリで皮をそぎ落としてやろうってのさ。」
 「あった。」
 丹公のへそから皮布に包まれた鉄棒が引っ張り出される。布を取り去ると、鉄棒には細かい棘がビッシリと付いていた。硬直したミキャックには自ずとそれが視線に入る。「抱く」という言葉も耳に入る。
 しかしミキャックは怯えていなかった。グッタリとして動けずにいるサザビーを助けたい、ただその思いが彼女を強くしていた。騎士である前に女、いや違う、女である前に騎士だ!そう心に言い聞かせて。
 「大した度胸だなぁ___おまえみたいな女は初めてだ。」
 空雪はミキャックを見つめたまま、手にヤスリを遊ばせてゆっくりと近づいてくる。
 「___」
 さっきのように己を見失うことはないだろう。しかし抵抗もできない。呪文を放とうにも魔力の蓄積が全くうまくいかない。ただ悶々とした時間が過ぎ、ミキャックの手は空雪の手に取られていた。
 「痛いだろうが、気を失うな。それくらいの方が抱き甲斐がある。」
 そしてヤスリを走らせる!
 「な?」
 空雪は己の目を疑った。
 「痛てぇぇ!?」
 ヤスリは空を切り、勢い余って空雪は自分の掌を一擦りしてしまった。
 「あれ!?」
 驚いたのは丹公も同じだった。
 「ど、どういうことだ!?」
 掌から血を滴らせ、空雪は辺りを見渡した。驚くことにミキャックもサザビーも、すっかりと姿を消していたのだ。
 「なんなんだ!?消えちまったよ兄者!」
 ボカッ。
 わめきながら寄ってきた丹公の頭を空雪は何も言わずに飛び上がって叩いた。
 「いってぇ!何すんだよ兄者!」
 「うるせえ。」
 空雪は眉間に皺を集め、舌打ちした。狙った獲物は逃がさない、そういう能力の持ち主が二兎を追い一兎を得ずとは名折れも甚だしい。彼は明らかに苛立っていた。
 (完全に追いつめていた。あの女は奇妙な光を飛ばす能力を持っていたが、男の方は能力を見せていない。奴の能力だったのか?)
 沈黙して思案を巡らせる空雪を前に、丹公はどうして良いか分からずにいた。
 「行くぞ。」
 「え!どこへ!?」
 そして驚いた様子で飛び上がる。
 「決まってんだろうが、赤甲鬼を追う。」
 「なるほど!」
 空雪は服の裾を少し破って包帯代わりに傷つけた手に巻き付けた。そして二人が本当に契約書を持っていないと感じたのだろう、元来た方角へ颯爽と駆け出した。丹公も重そうな体を揺さぶって、その後に続いた。
 やがて、喧噪の森に静寂が舞い戻る。
 ズ___
 木々の狭間のその奥は闇影。鬱蒼たる木々に覆われて光を絶たれ、奥底の見えない闇影。
 ズズ___
 その闇に、綻びが生じる。
 ズズズ___
 底なしの沼からはい上がるように、黒の中に白く、細い指が現れる。それは宙を掴むように闇をかき分け、必死に光の世界へと抜け出そうとしているようだった。やがて手が現れ、拳を握り、腕が出る。そして、美しき顔の高い鼻先、薄紅の唇とその姿を覗かせていく。
 「おいおい、そんなに慌てるなよ。」
 重厚な声色。たった一度、指のスナップが聞こえた。
 「うわっ!?」
 蔓延っていた闇影が一気にはじけ飛ぶと、ミキャックはバランスを失ってつんのめった。しかし彼女はまるでまだ空雪と対峙しているかのように、素早く身を翻して闇影の名残へと向き直った。
 「何で貴様がこんなところにいる!?」
 そして、闇に溶け込むようにして悠然と絶つ長身を睨み付けた。
 「せっかく助けてやったのに、随分とご挨拶だな。」
 黒い肌は闇に同化する。ただその長細い口で笑みを作ると、はっきりと白い牙が浮かび上がった。
 アヌビスは、本来の姿でそこにいた。
 「あたしは助けてくれなんて頼んだ覚えはないし、何で貴様があたしたちを助ける!?」
 「その黒い翼に惹かれた___というのでは理由にならないか?」
 「ふざけたことを!」
 悠然と立つアヌビスに対し、ミキャックは腰を落として身構え、敵意剥き出しの目で彼を睨み付ける。しかしそれは巨大な獣の前で怯えながら威嚇を繰り返す猫のようでもあった。
 「ほんの気まぐれ、それでいいか?」
 「___」
 冷や汗が額から鼻筋へと伝う。
 「いいな。まあまた会うとしよう。それから、いつ結婚したのか知らないが大切な亭主を死なせるなよ。」
 アヌビスのすぐ後ろにサザビーが突っ伏していたことに、ミキャックはようやく気が付いた。アヌビスから目を離し他へ意識を向けることが恐ろしくてたまらなかった、だから気づかなかったのだ。
 「!」
 次の瞬間、アヌビスは消え失せていた。
 「サザビー!」
 アヌビスの能力は時の停止であって瞬間移動ではない。だからまだ近くにいるかも知れない。それでもミキャックは一目散にサザビーに駆け寄った。飄々としていて、周りを心配させることのない男が、あまりにも力無く倒れたままでいる。
 「サザビーしっか___!」
 彼を抱き起こそうとしたミキャックはしゃがみ込む途中で硬直し、石のように動かずに彼を見据えた。
 「よう、やっぱ手が痛くってちょっと火が___」
 こともあろうかサザビーは寝転がったままで煙草をくわえていた。穴の空いた両手でマッチを擦ろうと悪戦苦闘している。
 「つけてくれるか?」
 その一言で硬直が解けた。
 「人が心配してんのになんなんのよっ!」
 「いででで!」
 頭をグリグリと踏みつけられ、サザビーの顔は半分ほど土にめり込んだ。

 「心配させて悪かったな。」
 「___」
 火のついた煙草をくわえ、汚れた顔でニコリと笑うサザビー。ミキャックは憮然として彼に回復呪文を施していた。実際のところ彼の傷は相当に酷かった。矢にやられた傷はもちろん、巨体の丹公に踏みつけられて内臓を痛めていたようで、口は血で濡れていた。
 「本当にかなりやばかったんだが、アヌビスに助けられたらなんだか痛みが和らいでさ。」
 「___」
 呪文のおかげでサザビーの傷も大部癒えた。全身のダメージを取り除くために、今ミキャックは彼の背中に回復呪文を施している。
 「それよりも、またおまえにやな思いさせちまって___」
 「___」
 ミキャックの指先に震えが走った。
 「ましてや俺が守らなきゃいけねえのに、先にやられちまった。」
 「ううん、矢からあたしを守ってくれた。」
 「いや、辱めからおまえを守る方が大事だ。でも俺はできなかった、信じろとか言ってたくせに全く情けねえ。」
 サザビーは傷が塞がったばかりの拳で膝を叩く。
 「ぬぉ〜___」
 しかし手も足も治りたて。両方の痛みで彼は悶絶した。ミキャックの気を紛らわす洒落のつもりだったのかも知れないが、彼女は黙ったまま。
 「___おまえ、大丈夫か?」
 さすがに彼女の心を案じたサザビーは、振り返ろうとする。しかし何か不安でもあるのか、ミキャックの手が彼の横目を遮った。
 「大丈夫だよ、あれくらい___」
 「おまえさ___思い出したくないことまで思い出したのか?克服したはずのトラウマとか___」
 「もういいから。」
 ミキャックはサザビーの頭に手を当て、強引に前を向かせた。
 「昔のおまえに何があったのかは分からないが___自分の胸の内だけで解決しない方がいいぞ。体の傷は無理だが、心の傷ってのは人と分かち合えるからな。」
 「もういいの___お願いだからやめて。」
 憂いを塗りつぶすように、ミキャックの声は気丈だった。
 「俺が最初に骨の髄まで好きになった人は、重い病に倒れた。」
 しばしの間をおき、サザビーはまた喋りだした。
 「サザビー。」
 「いいから聞けよ。彼女は俺よりもいくつも年上だったが、俺はその人にぞっこんだった。でもいろいろあってなかなか会えずに、何年ぶりかに出会ったその時、彼女はもう死を待つばかりの体になっていた。」
 ミキャックは沈黙し、ただ回復呪文を続けた。
 「俺は彼女に愛を語った。彼女は死を前にした人間にその言葉はあまりに酷だと言った。でも俺は構わなかった。若かったからな、無理矢理口づけを交わした。でもそれでよかったんだ。彼女は涙を零し、病床に伏してから誰を愛することも、誰に愛されることもなかったことを話してくれた。彼女は微笑み、俺は泣いた。互いに悲しみ、互いに愛し合い、互いに強さを得た。心の痛みを分かち合うってのはそういうことさ。」
 「___」
 彼の言葉をただ胸にしまい込み、ミキャックは手を朧気に輝かせる。サザビーもそれ以上は何も語らなかった。

 大部歩いた。ミキャックの魔力が限界近くに達したため、サザビーも完治といえるほどに傷を癒やしたわけではなかった。それにしても頭痛で顔つきが歪んでいることを押し隠し、魔力を絞り出そうとした彼女の気性は相変わらずだ。
 「ねえ、どうしてアヌビスは黄泉に来たのかしら___」
 谷川に面したガケの中腹、そこに横穴が開いていた。真に闇に落ちる前に、闇色の空に光の感覚が残るうちに休みを取るため、二人は空でも飛べなければ入り込めないこの横穴を選んだ。サザビーは魔力の喪失が激しいミキャックを横にならせ、自分は横穴の出口の辺りに腰を下ろしていた。ただミキャックは落ち着かない様子でサザビーに話しかけてきた。
 「そうだな、しかも気まぐれで俺たちを助けた。」
 「あたしたちがこっちに来ていることを驚きもしなかった。」
 「確かに。」
 「___何が狙いなんだろう___」
 「あの犬っころの考えることは良くわからねえからな___」
 サザビーは手元で遊ばせていた木の実を口に放りこんだ。
 「ただ狙って黄泉に来たのは確かだ。あいつは帝さんの睨んだ通り、初めから黄泉に来る気で茶番を演じていた。」
 「どうして分かるの?」
 「俺たちを助けるために時を止めたはずだ。」
 「!」
 「ヘルジャッカルでソアラにやられたときも、能力を失ったなんて茶番を打っていたってことだろ?」
 舌で遊ばせていた木の実を囓ると苦みの強い汁が飛び出し、サザビーは首をすくめて頬を強ばらせた。
 「嫌な予感がする___アヌビスは何かとんでもない目的に向かって暗躍しているんじゃないの?」
 羽織を布団代わりに仰向けになっていたミキャックが半身を起こす。
 「まあそうだろうな、軽い目的でこっちには来ないだろうよ。ほれほれ、おまえは起きないで寝てろ。」
 サザビーは渋みの残る顔で言い、ミキャックは仕方なくもう一度横になった。
 「はい、お喋りはおしまいな。ほら、ねんねんころころねんころりん。」
 「ふふ、変なの。」
 妙な節回しの歌に微笑して、ミキャックは目を閉じた。
 ___
 しかし眠りに落ちることはできない。彼女のために気を張っているサザビーだが彼も男だ。側に男がいるという意識が、ミキャックに眠りどころか目を閉じ続けることさえ恐怖させる。そして改めて自分の傷の深さを知る。不甲斐なさを知る。
 彼は甘えろと言ってくれた、信じろと言ってくれた、身を粉にして守ってくれた男がそこにいる。心の傷は分かち合うことができる。その言葉がミキャックの胸で何度も響いた。
 「サザビー。」
 どれくらいの時間が経っただろう、気を張りつめて崖の様子に目を向け続けていたサザビーをミキャックが呼んだ。眠ったものだと思っていた彼女が存外明瞭な声を出したので、サザビーは少し吃驚した。
 「あたしは___信じた人、愛した人に裏切られ続けているんだ。」
 「___」
 唐突に話し出す彼女、最初はあっけにとられながらもサザビーはすぐに落ち着いた面もちで、ただ目の前の岸壁を見て耳だけを傾けた。
 「それに___あたしは愛のあるセックスをしたことがない。」
 少しだけ声が上擦っていた。こんな言葉を吐き出すのにはどれほどの勇気が必要だっだろう。眠った「ふり」をしていた時間は、彼女の中で全てをうち明ける決心までの長い葛藤の時だったようだ。
 「幼いとき、大好きだった両親が死んだ。正確には殺された。あたしは天界でも最も荒んだ町で生きることを強いられたわ。悪友もたくさんできたし、その中には恋人もいた。でも彼はあたしを売ったんだ。彼に身を捧げて女になるつもりだったあたしを抱いたのは、金満な男だった。体の自由を封じられて___」
 天井を睨み付けながら語るミキャックは言葉に詰まり、一つ息を付いてから続けた。
 「彼は荒廃した町から抜け出す事を選んだ。そのために血統の良い娘だったあたしの体を売ったんだ。それから数日、奴隷以下の日々が続いた。でもどうにかして逃げ出すことができた。それから、路頭に迷っているあたしを助けてくれたのは一人の紳士だった。でもあたしは彼を殺してしまう___彼が両親の仇だと知り、彼を毒殺した。ただ、彼は知っていて毒を飲んだの___挙げ句自分の財産を私に残してくれた。この出来事は___あたしにとって一生消えない傷だ。」
 サザビーは無言で耳だけを傾け、煙草に火を灯した。
 「地界に出向してから、あたしは一人の男と恋に落ちた。でもそれは魔族で、ディック・ゼルセーナという盗賊だった。私は彼を信じていたけど、彼は誇り高い泥棒だったから、光の源に手を掛けた。」
 そう、サザビーにはじめて好感を抱いたのは、彼の声が少しディックと似ていたからだった。
 「黄泉に来てからは酷いものだったよ___」
 「そこはいいよ、話さなくても。涼妃のやっていたことは俺も知っている。」
 記憶を消した女に水を売らせるため、複数の男を宛って調教を施していた。そんなこと、彼女の口から言わせるのはあまりにも残酷だ。
 「___辛い思いをしてきたな。」
 「___最初に裏切られたことなんて、もう記憶の奥底に封印したつもりだった。でもあれ以来恋することが怖くて___ようやく好きになれたディックとはあんな結末になって___ソアラやあなたと出会ってからは楽しく過ごせたけど、黄泉に来てあんなことがあって______記憶を呼び戻されてから、あたしの頭の中には悲しい思い出しかないんだ!___ソアラと出会ってから楽しいことがいくつもあったはずなのに___嫌な思い出が強すぎて消せないんだ___」
 最後には涙声になりかけ、ミキャックは両手で顔を覆ってしまった。サザビーは煙草を谷川に投げ捨て、ゆっくりと立ち上がった。
 「なあミキャック。」
 「___」
 「立ち向かうことなんてないんだぜ。」
 顔を覆ったまま肩を震わせ、必死に涙を堪えているであろう彼女の側にサザビーは胡座をかいた。
 「おまえはいつもそうやって我慢するだろ?今だって泣き出しそうなのを必死に堪えてる。確かに我慢することも大事だとは思うけど、俺が知っているおまえは決して打たれ強い女じゃない。」
 ミキャックの姿勢は変わらない。しかし肩の震えは小さくなっていた。
 「打たれ強いって点じゃソアラもそうだ、あいつもああ見えて傷つきやすい女だ。でもあいつはあまり老け込まない。それは何でもかんでもすぐにベラベラと話すからさ。早い話あんまり我慢の効かない奴だな。」
 ___
 「ひぃっくしゅんっ!」
 久しぶりの登場だが、その時ソアラがクシャミをしたとかしないとか。
 ___
 「でもその分だけ、あいつはすぐに立ちなおる。周りの奴らと痛みを分け合って、あげくは元気まで貰おうってのさ。面白いもんでな、喜びは一人で味わうとすぐに縮み、大勢だと長く膨らむ。悲しみは逆でな、一人で味わうと膨らむくせに大勢だと縮んでいくんだよ。まあ全部が全部そうじゃねえかもしれないけどよ。」
 サザビーはケラケラと笑いながら話した。
 「我慢強いってのは、言い換えれば素直じゃないんだ。笑って、泣いて、怒って、楽しんで、何でもかんでも気の向くままに動いて見ろよ。そうすりゃ少しは気が楽になる。」
 「___」
 ミキャックは顔を覆ったままで動かない。サザビーは小さなため息をついて、立ち上がろうとする。
 ガシッ___
 しかし地についた手をミキャックが掴んだ。
 「お?」
 彼女があまりにも無表情だったのでサザビーは困惑した。胡座を崩すような形で尻餅を付く。ミキャックはまるで幽霊のようにゆらりと体を持ち上げ、サザビーを真っ直ぐに見た。
 「___泣いていい?」
 そしてぽつりと一言。サザビーは少し気の抜けたような優しい笑みで答える。
 「ああ、思いっきり泣け。ちゃんと慰めてやるから。」
 それから、谷川の小さな横穴に、心から突き上げたような女の泣きじゃくる声が響いた。それは谷を風が駆け抜ける音と重なり、不思議な響きを作り出していた。
 「___」
 ミキャックはサザビーの胸に縋りついていた。涙の堰が切れると、体が勝手にそう動いた。彼の胸に顔を埋め、憚ることなく声を上げて泣く。サザビーは彼女を怖がらせないように、まずその髪に触れ、それからそっと頭を抱いてやった。

 「や〜っと見えたな。」
 ミキャックの力を借りて不自然なくらい細長く縦に伸びた岩山に登ったサザビーは、遠くに見える朱の屋根を見た。天族であるミキャックにはサザビー以上に鮮明にその屋根の形、銀の夜雀像もはっきりと見えていた。
 「あの城___あたし小鳥の時に一度来たことあるかも。」
 「そうなのか?」
 「うん、多分。」
「そりゃいいや。仙山に顔を知られてりゃ黒塚に襲われることもないだろう。」
 岩山の頂点は所々平坦になっていて、ミキャックは風を浴びながら頂点に。サザビーは少し下がったところで岩肌に掴まっていた。
 「それじゃ、ここでお別れだ。」
 「うん。」
 別れなければいけない、それは分かっていたがミキャックはやはり寂しそうだった。しかし悲壮感はさほどない。全ての思いを吐き出したあの日から、ミキャックは明るさを取り戻していた。今もサザビーの高さまで舞い降りて、自ずから彼の手を取った。
 「ソアラに元気な顔見せてやれよ。」
 「本当に色々ありがとう、サザビーのおかげで大部元気になれた。」
 「そりゃよかった。」
 今のミキャックの微笑みには堅さがなく、サザビーも安心した様子で彼女の頬を軽くつねった。
 「やっぱおまえにゃそれくらい明るい顔がお似合いだ。」
 「サザビーこそぼさぼさ頭が良くお似合いで。」
 ミキャックもサザビーの髪を引っ張ってお返しをする。
 「何をやってんだ俺らは。」
 「そ、そうね。」
 急に気恥ずかしくなった二人は手を離し、互いに見つめ合ってクスクスと笑った。
 「どうだ、別れもそんなに悲しいもんじゃないだろ。」
 「そんなことないよ、やっぱりあなたと離れるのは悲しい。」
 だがミキャックは笑みを絶やそうとはしなかった。
 「でも、また会えるって信じてるから大丈夫。」
 「そうだな。俺ももっとおまえを幸せにしてみたくなった。」
 嬉しい言葉だ。ミキャックは少し頬を赤らめて、目一杯にはにかんだ。
 「じゃあな、次会うときは青空の世界にしようぜ。」
 「ええ。その時には二人で食事でもしましょう。」
 「いいね、約束だぞ。」
 「うん、約束。」
 ミキャックは最後の最後で黄泉に来てから最高の微笑みを見せた。翳りを消せば誰よりも美しい彼女は、サザビーの心にいつまでも焼き付くような微笑を残し、朱幻城に向かって飛び立った。何度か振り返って大きく手を振るミキャック。城へ向かって飛びながら、涙の雫を風に乗せた。
 一方のサザビーは___
 「さて、皇蚕に___」
 帰路への一歩を踏み出そうとして、その足を止めた。
 「って、俺はどうやって下りるんだ?」
 そう、ここは塔のような岩山の天辺である。サザビーは慌てて朱幻城の空を見やるが、ミキャックはもう米粒のように小さくなっていた。




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