1 迷いの旅
天界でも最も大きな島、シュバルツァー。大きいと同時に最も大勢の人が住む島でもある。世界の統治者たる竜神帝ではあるが、各島の政治にまで直接顔を出すことはしない。島にはそれぞれ頭首がおり、島それぞれの毛色を出す。中でもシュバルツァーはかつての頭首が多島を我が者にしようと力を蓄えた経緯があり、今でも抜群の経済力を誇る。反面、多島への侵略が失敗に終わった結果、産業として衰退した部門があり、スラムも生まれた。
両親を失った幼きミキャック・レネ・ウィスターナスも、シュバルツァーのスラムにいた。良家に生まれ、それまで何不自由のない暮らしをしてきた彼女にとって、あまりにも続く試練の日々。しかし彼女は純真無垢な心と、一生懸命さで一つ一つ壁を乗り越えていく。
やがて年の頃の同じ仲間もでき、いつの間にか彼女はスラムの日々に楽しささえ見いだしていた。仕事をして、仲間と語り合って、そりの合わない奴らと喧嘩して、時には悪さをして殴られたりもした。でも充実していた。恋人ができてからは一層___
楽しかったから、余計に裏切られたときの傷は深かった。
裏切られることなど想像もしていなかったから。
しかも、恋人に。
「あのウィスターナス家の令嬢がこんな薄汚い町にいるとは思わなかったよ。君のような娘を我が手に抱けることはまたとない喜びだ。」
その日の夜、ミキャックは恋人と会うために彼の住んでいた倉庫跡に向かった。前夜、互いの愛は極限まで高まっていたが、ミキャックは身を捧げる怖さに身体が硬直し、彼を拒んでしまっていた。だから今日こそは___そういう気持ちでいた。
しかし、そこで裏切りが待っていた。彼女はベッドに拘束され、彼女の前で上物の衣服を脱いでいくのは紳士だった。
激しい苦痛の後、恋人が登場したことで彼女は心まで打ちひしがれた。
「悪いな、ミー。でもさ、この人がおまえを差し出せば俺にまともな暮らしをさせてくれるって言ったんだ。こんなチャンス、もうこの先ないかもしれないだろ?」
怒りも何もなかった。ミキャックはただ悲しみに暮れ続けた。
___
「はっ!」
唐突に目が覚めた。行灯にはまだ光が灯り、板屋根に朧気な光の波を広げていた。随分と歩いて辿り着いた妖人たちの集落、そこで間借りした奥座敷である。ミキャックはここに床を引いて眠り、サザビーとバルバロッサは襖を隔てた隣の座敷にいた。
「___」
体が火照り、汗でぐっしょりと濡れている。布団を弾き飛ばして、苦しみ藻掻くように浴衣の裾を握りしめていた。髪も千々乱れ、肩が片方剥き出しになっていた。
「っ___」
今の自分の状況を知る一時だけ、ミキャックの頭から悪夢の情景が消えた。しかし乱れた着衣を直そうとしただけで悪夢は再び彼女の思考の全てを塗りつぶしていく。この過去、遠い彼方に押しやり、忘れ果てていたことだった。そして誰にも話したことがない出来事だった。でも、記憶を掘り返されて鮮明に蘇ってしまった。
悲しみに暮れる日々を経て、何とか隙を見つけて紳士の手から逃れ、着の身着のままでシュバルツァーの市街地を彷徨い、向けられる視線に恐怖して、カビくさい裏路地に逃げ込んで震えていたあのときの心地。それが強烈に蘇る。それは嗚咽するような悲しみ。
「ぅぅ___」
それでも考え無しの小鳥とは違う。今は思慮深く、我慢強い天族の騎士に戻った。だから隣の座敷にサザビーが居ることを思い出し、彼女は呻き声を必死に殺した。
「ぅぁ___」
目覚めても悪夢は終わらない。むしろ上重ねをしていく。あの紳士と、かつての恋人に悲しみの中で辱められる時と、涼妃の男たちに嬲られる時が重なる。涼妃に関してそこに裏切りはなかったが、恐怖と悲しみと裸の男が合致してしまう。記憶を失っている呆然と、悲しみの呆然もまた、重なる___
「ぁぁ___」
ミキャックはただすすり泣いた。汗で湿った布団を頭から被り、とにかく泣いた。泣いておさまるものでもない。でも泣かずにはいられなかった。
目一杯甘えてくれ___
サザビーはそう言っていた。でも、ここに来るまではまだ自分の身体が言うことを聞かなかったから、彼に手を引かれてもどうすることもできなかった。でも背すじは確かに緊張していた。
甘えることなんて___例えそれがサザビーであっても、男の胸で泣きじゃくるなんて怖くてできない。だから彼女は一人で泣くしかなかった。
「___」
敷布に仰向けになり、両手を枕にしたサザビーは天井を見ていた。行灯はすでに消していたから何が見えるわけでもなかったが、彼は眠らずにそうしていた。
(衣擦れの音がしなくなったな___)
ミキャックは眠れずにいるのかもしれない。ただ、今は静かになった。一人で眠ることが彼女にとって良いことなのかどうかは分からない。これまでサザビーに対して嫌がることはあっても怖がることのなかった彼女が、体の調子を取り戻すほどに不意な接触などで肩を震わせ、目を丸くする様は見ていて苦しかった。また、それをさも何でもないと言うように、気丈に微笑みを作る姿には胸が痛んだ。
せめて無理な気苦労をさせないために、サザビーは彼女の希望も聞いた上で部屋を分けて眠ることにした。だから、気になっても今日はまだ声を掛けずにいようと決めていた。
「皇蚕を出てから時間が経ちすぎているか___」
今、バルバロッサは座敷の外で気を張りつめながら、浅い眠りを味わっているかも知れない。まあとにかくサザビーと同じ座敷にはいない。しかし先ほどまではここにいて、そんな話をしていた。
(大量の契約書という土産はできた。しかし鴉烙から与えられた任務は黒麒麟の監視、それは結果として果たせずにいる。時間のことも考えると、そろそろ鴉烙の元に帰らなければ何らかの警告なり咎めがあるかも知れない。ただミキャックを連れて行くのは絶対に駄目だ。)
サザビーにも葛藤があった。落ち込んでいるミキャックに活力を取り戻させるには、急激なショック療法では駄目だ。時間を掛けて優しく彼女の傷を取り除いてやらなければならない、そう感じていた。でも、彼女を鴉烙の元に連れ帰ってはそれこそ本末転倒。より苛酷な坩堝へ落とす結果となるだろう。
(ソアラのところに届けるのが一番だ。でも、それまでに少しでも元気にしてやらにゃ___)
一つの襖を隔て、二人はそれぞれに思いを抱いていた。
しかし互いの心の距離は、まだ遠いところにあった。
「おはよう。」
サザビーが床上げと着替えを終えて暫くすると、奥座敷の襖が開いて着替えをすませたミキャックが出てきた。目元が赤くなって少し腫れていたが、微笑みは昨日より少し前向きに見えた。
「おっす。眠れたか?」
「まだちょっと頭がボーっとしてるけどね。」
ミキャックは苦笑しながら手首の辺りで軽く額を叩いた。
「バルバロッサは?」
「ああ、ちょっと訳があってな、別行動を取ることにしたんだ。」
サザビーは胡座を組み、この屋敷の住人から買い取った煙草をくわえていた。まるで古くからこの屋敷にいたかのような馴染み方である。
「そうなの?」
「理由は後で話すよ。握り飯を貰ったんだ、とりあえず食事にしよう。」
「待ってよ、すぐに話して。」
間をあけられると奇妙な想像が頭を巡りそうだった。だからサザビーの膝小僧に手を伸ばして、しかし触れはせずにそう言った。
「んじゃ話すか。食いながら聞いてな。」
「うん、ありがとう。」
それからサザビーは今の自らの立場を語った。鴉烙の能力、命を契約を握られて自由の身ではないことを。
「それじゃあ___サザビーは黄泉から離れられないってこと?」
「そうなるな。ただ、俺もバルバロッサも好きで鴉烙に従っている訳じゃない。何とかする手だてが見つかれば何とかするさ。」
「でも___」
ミキャックの困惑が見て取れた。彼女も昨夜一頻りに泣いて、また昔のように時間を掛けて過去を封印していこうと思っていた。ただそれには誰か少しでも安心できる男性が側にいてくれなくてはいけない。それはサザビー以外にはないと感じていた。
「あらかじめ言っておくが、バルバロッサと別れたのはあいつだけ先に鴉烙のところへ戻ってもらったからだ。実のところ俺も早めに戻らないといけない。知っての通りあいつはあまり舌戦が得意じゃないんでね、別行動の理由をうまく誤魔化しきれるか分からない。」
サザビーは煙を吐き出してケラケラと笑う。しかしミキャックからはすっかり笑みが消えていた。
「あたしのことなんて後でも良かったのに___あなたは命を握られてるんでしょ?」
「気にするな。俺はなるようになる。でも今のおまえは___」
「___」
そこまで言いかけ、サザビーはまた煙草をくわえた。
「まあ、それはいい。とりあえずこれからソアラのいるだろうところを目指すつもりだ。あいつと一緒にいればおまえも安心だろ?」
「それは___まあ___」
ミキャックの返事は歯切れが悪かった。
「ああそうだ、謝らなきゃならねえことがあったな。」
「なにを?」
「すまなかった。あの時俺が手を離さなければこんな事にはならなかった。」
「なに言ってんの___あの時離したのはあたしの方じゃないか。」
「いや、おまえがそうするかも知れないと気づかなかった俺のミスだよ。」
「そんなことない。」
強情な姿勢を見せるミキャックを見てサザビーはニヤッと唇をつり上げた。
「少しはらしくなってきたな。」
「むっ___」
「いや、本当に謝りたいんだよ。俺がおまえを黄泉に誘ったから、おまえは体と心を傷つけられた、それは紛れもない事実だ。そして、その傷を俺が埋めることが出来るかどうかも分からない。」
「___」
「でも俺はおまえのためにできる限りのことをするし、絶対に天界に帰す。謝ったそばからこんな事を言うのもなんだが、もう一度俺を信じてほしい。」
サザビーは真っ直ぐにミキャックの目を見つめたが、彼女はすぐに視線を逸らし、行き場がないように泳がせて畳の目に落ち着く。答えはすぐには返らなかった。気持ちの上では躊躇う余地のない選択だ。勿論、サザビーのことは信頼している。でも今回の出来事は自分のせいだという彼の言葉を思い出すと、声がうまく出なかった。
「駄目か?」
「そ、そんなことない!」
信じていないなんて思わせたら失礼だ。ミキャックは慌てた様子で答えた。サザビーはそんな彼女を見て少し複雑な笑みを覗かせる。
「ああもう一つ、勝手に夫婦にして悪かった。」
「あぁ___いいよ気にしてないから。」
気にしてない___というのも何だか物足りない言葉である。しかし、今はそれくらいの方がいい。
体調が良いと言えば嘘になるが、嫌なことがあった後には体の一つでも動かしたくなるもの。ミキャックは早々に出発しようと言い、サザビーも妖人の集落に居続けるつもりはなかった。
素早い足取りで、ペースを乱さずに歩き続ける。一歩一歩確かめるように歩むのではなく、半ば駆け足かと思うような足取り、簡単なようで難しい。力強い足腰と、類い希なるスタミナが必要だ。旅慣れたサザビーは速歩で草原を進み、ミキャックは彼の直後を滑空していた。一つ妙なのは、サザビーの腰に結ばれた縄である。その一端はミキャックが手首に巻き付けていた。
彼女の足取りを案じたサザビーがこれまでのように手を繋いで歩もうかと尋ねると、彼女は「手を繋ぐのは___でも離れるのも___」といつになく煮え切らない答え。サザビーとは離れたくないが、男と手を結ぶことには酷い恐怖がある。結果として、猿回しのようなスタイルとなった。
「順調なら三夜で朱幻城の辺りに出れるだろうな。」
「そこにソアラがいるの?」
「多分な。でも落ち着きのある奴じゃないから___」
「そうだね。」
「それよりも、何か妙な気配を感じたらすぐに知らせろよ。」
「分かってる。」
風を掴まえて自在に飛行できるミキャックは、ヒラリと舞いながら彼の横へと並んだ。横目で見るサザビーの横顔は、額にうっすらと汗を浮かべ、何かの大きな目的に邁進する逞しさが滲んでいた。
「___」
責任感___それが彼をいつになく奮い立たせ、凛々しく、逞しくさせている。しかし涼妃の件に関して、彼が自責の念に駆られるのは少し違うと思うし、気が咎める。
(いや___彼を信頼しているのならそんな考えは失礼だ___)
でもサザビーはミキャックが心苦しさを抱くことなど望んでいない。一生懸命な彼を頼り、甘えることを望んでいる。そしてミキャックも、少しずつではあるがそうできるように努力しようと思い始めていた。
(今はまだ男が怖い。でもいつか、あたしの気持ちに整理がついたら、あたしはきっとすぐにでも___)
ミキャックは昨夜よりも憂いの影が薄らいだ微笑みを浮かべ、フワリと舞い上がった。
「お?」
サザビーの肩に、絹のような柔らかくて軽やかな感触が舞い降りる。
「さあ、先を急ごう!」
「おっ?おぉぉぉぉ!?」
ミキャックに背を押されるようにして、翼の力を借りたサザビーは足取りも軽やかに、飛び跳ねるように草原を駆け抜けていった。その後ろ姿を睨み付けながら、蛇のごとく忍び寄る影も知らずに。
森へ入り込んだ二人は小さな沢のほとりの岩に横穴を見つけ、その中へと入り込んだ。入り口こそ一人が通れるほどでしかないが、中は鎌倉のようなドームが広がっており潜むにはちょうど良い。旅立ちの夜、二人はここで疲れを取ることにした。
「___」
それこそ鳥が羽の手入れをするように、翼を前に傾けたミキャックは黒い羽に指を通していた。サザビーは彼女が熱心になっているのを良いことに、じっとその姿を眺めていた。
「___っ!」
視線を感じたか、ミキャックは肩を竦めて両の翼で己の体を包み隠した。
「ああ悪い、翼を見てたんだよ。」
「ああ___あたしこそごめん、なんだか敏感になってて___」
瞬間的に取り乱してしまう自分の臆病に嫌気を感じながら、ミキャックは片方の翼を元に戻した。
「最初のうちは見慣れなかったが、こうしてみると黒もなかなか綺麗だな。」
「___ありがとう。でも、この翼で天界に帰るのはちょっとね。」
彼女自身も今の翼が決して嫌いではない。だが確かに青空の世界には少々似合わないところもある。
「黒麒麟にこうされたんだろ?」
「そう。」
「黒麒麟ってのはいったい何者なんだ?」
サザビーは黒麒麟本人を見たことがない。しかし彼女と日々を共にしていたのが、奇跡的に生き延びていたフュミレイと、全てを忘れてしまっていたミキャックだったというのは奇妙だ。まして、彼女の館には青空の絵があった。
「黒麒麟じゃない、あの方は姫凛っていうんだ。だから私たちは凛様って呼んでる。」
「何で異世界から紛れ込んだ奴らばかり集めている?」
「え?」
ミキャックは驚いた様子で繕いの手を止め、顔を上げた。
「冬美は俺の知り合いだ。もちろんソアラや百鬼やライたちともな。」
「どういうこと?」
「あいつの顔、誰かに似ていると思わないか?ああ、眼鏡を掛けてる姿を考えてみればすぐに分かる。何せあの髪の色___」
「レミウィス!」
サザビーの言葉尻をかき消して、ミキャックは叫んだ。
「似てるよ!姉様はレミウィスさんに似てる!」
「ねえさまなぁ。」
「あっ。」
どこか耽美的な物言いを指摘され、ミキャックはポッと頬を赤くして黒い翼で顔を隠してしまった。
「いいねぇ、女の園って感じで。」
「うるさいな〜!」
サザビーの笑い声を吹き飛ばすかのように勢いよく翼を広げたミキャック。風がサザビーの鼻っ面を叩いた。
「それで?冬美さんは誰なの?」
「あいつの本当の名前はフュミレイ・リドン。」
「リドン___」
「レミウィスの妹だ。」
ミキャックは思わず息を飲んだ。いや、彼女とレミウィスの関係に言葉を失ったのではなく、黒麒麟の行動にだ。確かに黒麒麟には他にも小間使いが数人仕えていたが、彼女と共に動くことを許されているのは冬美、そして小鳥の二人だけだった。異世界から紛れ込み、ましてソアラたちと関係浅からぬ二人だけを愛でるというのは、何か意味があるのではないか?
「ねえ、サザビー___確かソアラのルーツは___」
ソアラのルーツは黄泉にある。黒麒麟はソアラの母では?___そう口にしようとしたミキャックだったが、横穴の入り口から思わぬ邪魔が転がり込んできた!
「っ!」
球状のそれには短い紐がつき、紐はジジッ!と音を立てながら火花を散らしていた。
すぐに岩場から光が零れた。間髪入れずにくぐもった爆音が響き、横穴の入り口から粉塵が吹き出す。
「おい、丹公よ。」
立ちこめる煙を眺めながら、眼帯をした小柄な男が不服そうな面で呟いた。男は大きな弓を背負っていたが、矢筒はどこにもなかった。
「どうだい兄者!おいらに掛かればこの通りよっ!」
岩場の方から、はち切れそうな体を揺さぶりながら男がやってきた。腰布を巻いているだけで上半身は裸。弛んだ体を目一杯に上下させ、太った男ははしゃいでいた。しかし眼帯の男は足下に落ちてる棒きれを拾い上げ、彼の顔に向かって投げつける。
「いでっ!」
「馬鹿かてめえは!俺たちの仕事は奴を粉々にすることじゃねえ、奴らから契約書を奪い取ることだろうがよ!」
「いいじゃないかよぉ、殺してから探せばさぁ。」
太っちょは顔についた赤い一筋を撫でながら口を尖らせて言った。
「おい丹下山(たんげざん)よ、いやさこのクソ丹公よ!奴らがどこかで他の仲間にブツを渡していたらどうする?おまえは誰にどうやって聞き出すつもりだ?あぁ?」
「うぅんぅ___」
丹公と呼ばれた太っちょは簡単に黙り込んでしまい、ゴム鞠のような頬をもごもごと動かしていた。
「ん?」
その時、眼帯の男は太った相棒の足下に木の球が転がってきたことに気が付いた。球には短くなった紙巻き煙草が差し込まれていた。
「げげっ!」
ドパァァァンッ!!
「お〜、やっぱり湿気たかな?あんまり派手に爆発してねえな。」
背後からの爆音を聞き、サザビーは立ち止まって振り返った。薄暗い木々の向こうに白い煙が確かに見える。
「感心してる暇があったら早く逃げる!」
ミキャックは悠長なサザビーの腰縄を引っ張った。そして二人は再び走り出す。二人が無事だったのは、投げ込まれた爆弾が爆発するまでほんの僅かだが余裕があったためだ。ミキャックが素早く氷結呪文で導火線の火を消し、誤魔化しのために岩に呪拳プラドを打ち込んで、岩全体に爆発の衝撃を表現する。サザビーは導火線代わりに煙草を取り出して爆弾に差し込み、追っ手の二人組の隙を窺って、爆弾を転がしてから走り去ったというわけだ。
「ったく驚かせるなぁ、おい。」
「本当だなぁ、兄者。」
二人組はいずれも体を土で汚していたが、傷はなかった。しかし決して回避したというわけでもなく、爆弾の威力が乏しかっただけのようだ。
「しっかし___てめえの汗をたっぷり吸って、爆弾がただの癇癪玉になってたとはなぁ!」
「ご、御免よぉ。」
眼帯の兄者は丹公の尻を蹴飛ばした。ささやかな発散を終えると健常な右目を仄暗い森の奥に向ける。
「だが生きていたのは好都合。丹公!」
そして徐に背の弓を取り、相棒の名を呼んだ。
「合点で!」
丹公は何を思ったかでっぷりした腹の肉、へそを中心としたその両側をグッと摘んだ。そしてへそに向かって円を描くように揺り動かす。するとどうだろう、突如として丹公のへそは大きく弛緩し、その中から大人の二の腕ほどはあろうかという木筒が飛び出してきたのだ。
「へい兄者!」
筒が頭を出すと丹公は涼しい顔でへそから引き抜き、兄者へ渡す。へそは何事もなかったようにその門を縮めていった。
「俺には見えるぞ___おまえらの後ろ姿が。」
そして兄者は筒の蓋を開いて背に掛ける。中には沢山の矢が入っていた。慣れた手つきでそのうちの一本を手に取ると、すぐさま森の薄闇に向かって弓を引き絞った。
「すぐに殺しはしねえ、だが逃がしもしねえ。」
悠長である、こうしている間にも二人は離れていくのに、まして木々が入り乱れる森の中だというのに、兄者は牙のような八重歯を見せて笑っていた。
「捉えたぜ。」
目一杯まで引き絞られ、矢が放たれた。凄まじい勢いで飛び出した矢だが、数メートルも先には太い枝葉を携えた木々が入り乱れている。だが兄者も丹公も、何一つ不安を見せることもない。なにしろ矢は枝葉を掠めもせず、まるで風切って進む鳥のように障害物を避けていったのだから。
「もう追いかけて___!?」
その時たまたま後ろを振り向いたサザビーは仰天した。唐突に背後の木の裏から矢が飛び出してきたのだ。
「ちっ!」
避けられるか?鏃の先端がミキャックの方を向いているのを見たサザビーは、彼女に覆い被さるように押し倒した。
「きゃぁっ!?」
「くっ!」
軟らかな土の上に倒れ込む二人。突然のことに狼狽したミキャックは、すぐに体を捻って彼の下から抜け出そうとする。しかし___
「サザビー!?」
しかしサザビーが苦悶していることに気が付くと、一瞬で我に返った。
「やられた___避けたと思ったんだがな___」
彼の右の大腿のど真ん中に、矢が突き刺さっていた。ミキャックは慌てて彼の下から抜け出すと、その手に魔力の光を灯した。
「どういう事!?この森の中で___!」
「さあな、だがこいつは木を避けていた。」
サザビーは歯を食いしばって自ら矢を引き抜き、蕩々とあふれ出る血に蓋をするようにミキャックがその手を寄せた。
「木を避けた?」
「大方追っ手の能力だろう。俺の足に突き刺さったのも、おまえと一緒に倒れ込む直前だ。どうやら___この矢は狙った獲物を逃さない。」
治療も半ばというとき、ミキャックもまた驚異を目の当たりにする。矢が二本三本と、続けざまに木々を縫ってくる姿が見えたのだ。幸いだったのは、優れた視力を持つ彼女がまだ矢が離れているうちにその存在に気づいたことだった。
「ディオプラド!」
ミキャックの放った白熱球は目前の木々にぶつかると壮絶な爆音を轟かせ、木々を砕く。飛び散る木片、枝、倒れかかる木々、確かに数本は飛び散る木の皮に鏃を打たれ、地にめり込んだ。しかし一本だけはなんとその喧噪の中さえ突破して見せた!
「そんな!」
呪文そのものが久しぶりだ。魔力は十分でも、瞬発力には欠ける。迫り来る鏃に対し、ミキャックは腕と翼で身を守るしかなかった。
「___?」
しかし痛みがない。彼女は固く閉じた目を怖々と開き、翼を開くと絶句した。足の傷もふさがっていないサザビーが、彼女の目前で矢を食い止めていた。硬く握った両の拳、それが一本の矢で結ばれていた。
「サザビー!」
「危なかったな。」
「なに笑ってるの!?」
苦痛で頬が引きつっているというのに、こんな時でも笑みを覗かせる彼の神経がミキャックには信じられなかった。
「すぐに治療を!」
「いや、そうも言ってられそうにねえ___」
「!」
サザビーの向ける視線の先、ディオプラドで倒れた木々を踏みしめて、対照的な男二人が立っていた。
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