4 恨みの連鎖

 ザンッ!
 いつの間にか宙へと舞い上がっていたバルバロッサ。マントを翻して現れた黒い長剣は、一撃で氷柱を両断した。客たちがあっけにとられる中、サザビーはテーブルを飛び石にして氷づけの小鳥の下へ回り込み、その身体を受け止めた。
 「どあっ!」
 氷の重みで、テーブルが潰れた。
 「捕まえた者勝ちよ!」
 その様を見て涼妃が叫ぶ。テーブルを囲む妖魔たちは色めきだったが、長剣のバルバロッサが簡単に一人を殺めて潰れたテーブルに躍り出ると手が伸びなかった。
 「捕まえる?それはこっちの仕事だぜ!」
 小鳥に押しつぶされるようになっていた姿は決して格好良くなかったが、サザビーは構わずに声を荒らげた。呼応するようにして、懐に手を入れたバルバロッサはなにやら文字が記された紙を取り出す。
 「死にたくなくば___名前、貰おうか。」
 低く深みある声には、いくつもの言葉を重ねる以上の説得力があった。
 裏社会に住む者たち、ましてここに集うような高位の者たちは誰しもがあの紙の意味を知っている。
 「あ、鴉烙だ!」
 客の誰かがそう叫んだのが引き金となり、会場は一気に喧騒の坩堝と化す。バルバロッサの長剣は逃げ出した者たちの脚を薙ぐように振るわれる。我先にと逃げ出す者もいれば、ただ舞い散る血飛沫に立ちつくすしかできないものもいる。
 「滅茶苦茶___あたしが作り上げた信頼が___」
 立ちつくしていたのは涼妃も同じだった。地獄から這いだしてここまでたどり着いた、高慢な妖魔たちの醜態を下に見る悦楽の場へ。それが___この狂乱はどういうことだ?
 血飛沫が彼女の頬を濡らす。現実を思い知った涼妃の顔はみるみるうちに強ばっていった。
 「茶坊!梗!誰一人屋敷から出すな!」
 滲んだ汗で化粧が乱れようと気にもとめない。動きやすくなるためにドレスの裾も膝上まで引き破った。
 「一人もですかい?」
 「死んだ奴はそれきりよ___でも生きていた奴は記憶を消し去ればそれですむ!」
 「なるほど!」
 誰一人としてこの屋敷から逃げ出させなければ、ここでの出来事はなかったものにできる。彼女の意図を理解した茶坊は不適な笑みを浮かべて唇を尖らせた。奇妙な歯並びは常人には聞こえない音を発する。それは牙狼たちへの指示となり、麻酔牙の獣たちは勇んで屋敷の中へと飛び込んできた。
 「おい、しっかりしろ!」
 サザビーは決して得意でない魔力で炎を作り出し、小鳥の口を塞いだ氷を溶かしていく。
 「くはっ___砂座!後ろ!」
 口元の氷に歪みが生じると、小鳥は激しく首を振って氷を引き剥がした。唇が少し裂けようと気にもとめず、声を裏返らせて叫んだ。
 「っ!」
 背後から迫っていたのは強烈な冷気と氷の結晶。サザビーは振り返りざまに刀を抜き晒す。冷気を浴びた刀身は瞬く間に切っ先から氷結していった。
 「たちの悪い能力だな!」
 刀は少年の掌から伸びた氷柱で結ばれる。そのまま腕を凍らされては小鳥と同じように口や鼻まで封じられる。サザビーはあっさりと刀を諦めて横に飛んだ。すると氷柱が先端から砕け、氷の散弾となってサザビーを襲った。
 「ちっ___!」
 サザビーはさらに横っ飛びして舞台の近くへ。しかし氷柱は根本へと砕きを進め、鈴なりとなってサザビーを遅う。サザビーは舞台を照らしていた松明を手に取り、それを迫り来る氷に向かって翳した。
 「駄目だよ砂座!そんなものじゃ彼の氷は防げない!」
 小鳥は無意識に氷の中で掌を輝かせ、次第に自由を取り戻そうとしていた。サザビーの危機にそう口走った自分の不可思議にも気づいていない。「彼」とは小鳥が梗のことを知るから出た言葉。ミキャックであった頃に二人は確かに出会っている。
 「ドラゴンブレス!」
 サザビーには歴戦を乗り越えた老獪さがある。ただ呪文を放つだけでは氷の散弾を防ぐことはできなかっだろうが、松明の力を借りることで呪文の炎を飛躍的に拡大させた。
 「グァウ!」
 「おっと!」
 後ろから麻酔牙を煌めかせた牙狼が飛びかかってきた。サザビーは素早く転がって近くのテーブルの下へと滑り込む。牙狼は蹈鞴を踏んでサザビーを狙うが、炎の名残を突き破ってきた氷の弾丸に身を抉られた。
 「!」
 誤射で梗が怯んだのが見えた。
 「小鳥!」
 その隙を見逃さず、翼の彼女が氷から脱しかけているのを見て、サザビーが駆け寄る。
 「駄目!来ないで!」
 しかし、すでに腰以外は氷から脱している小鳥が必死の形相で怒鳴りつけた。踏みとどまらなかったサザビーの行く手には水が広がっていた。
 「!」
 足先が触れた瞬間、水が凍結して剣山に変わる。靴底を簡単に貫いた氷の棘はサザビーの足の裏にいくつも食い込んだ。
 「はぁい、お兄さん。」
 「涼妃___!」
 溢れ出した血が凍結する。傷口と氷が接着され、サザビーの足が離れなくなる。そこに現れたのが魔性の手を持つあの女。この混乱の中にあっても、彼女は冷静沈着に標的を絞っていた。
 ただ微笑を携えて、彼女の手はサザビーの額へ___
 「っ!」
 涼妃は素早く手を引いて後方へと飛んだ。一つでも間が遅れればバルバロッサの長剣に腕を切り落とされていたところだった。
 「気を付けろよ!あいつの腕を切り落としたら台無しだ!いでで!」
 「うるさい奴め。」
 バルバロッサはサザビーの脇を抱えて強引に氷の棘から引き抜いた。
 「いてて___一端退こうと思う、どうだ?」
 「___」
 バルバロッサは小さく頷き、小鳥に近づこうとしていた涼妃に向かって長剣の宝石を輝かせた。
 「ちぃっ!」
 涼妃は忌々しそうに舌打ちすると、素早い身のこなしで赤い光線を回避した。しかし小鳥からは離れてしまう。
 「梗!先に黒衣の男をやるんだ!」
 バルバロッサこそ止めねばならない強敵と悟ったのだろう、涼妃が叫ぶ。その隙にサザビーは小鳥に駆け寄り、彼女の腰を固めて放さない氷に渾身の拳をぶつけた。
 ビギィィンッ!
 偶然にもサザビーの拳は氷の臍を打っていた。氷は石職人がノミの一撃で巨大な岩を四分するかのごとく割れたのだ。
 「うっそ〜。」
 僅かな血が滲んだ拳を見つめ、サザビーも信じられないといった顔をしていた。
 「ありがとう!砂座!」
 どうやら小鳥も我を取り戻したらしい。先ほどの常軌を逸した目は消え、いつもの愛らしい笑顔を見せた。
 「ここはあいつに任せて逃げるぞ!」
 サザビーは彼女に手を貸して立ち上がらせる。すぐさま二人は逃げ出そうとする妖魔たちでごった返す出入り口へ走った。
 「茶坊!」
 二人を止めたい!涼妃は忠実なる僕の名を呼んだ。
 「うわぁぁ!」
 逃げようと出入り口に殺到していた妖魔たちが、牙狼の乱入で押し戻されてくる。人並みを弾き飛ばすようにして、牙狼の群が出入り口から駆け込んできた。これにはたまらずサザビーも踏みとどまった。
 「フフフッ、逃がしはしねぇぞ!」
 一際体の大きな牙狼の上に茶坊は跨っていた。サザビーと小鳥、それから他の妖魔たちの前に立ちはだかる麻酔犬の大群。
 「む___」
 一方のバルバロッサも、いつの間にか地を這う氷に足を捕らえられていた。
 「やべぇ___かな?」
 サザビーは苦笑する。じりじりと犬が間合いを詰めると、彼も半歩下がる。そして、近くで同じように後退った妖魔と肘がぶつかった。
 それはあの男だった。
 「児玉!」
 「!」
 初めて会ったときは、珠のような心地よい汗を浮かべていた児玉。しかし今は粘り着く脂汗で顔を濡らしていた。サザビーの顔を見ると引きつけでも起こしたかのように息を飲み、硬直した。彼は明らかにサザビーを恐れていた。
 それは彼が鴉烙に契約を握られているからに他ならない。
 「良いところで会ったなぁ___」
 サザビーにはそれがすぐに分かったから、ニヤリと笑った。
 ___
 「く___」
 梗の氷がバルバロッサの下半身を飲み込む。さらには牙狼たちも三匹ほどで身動きの取れない彼を取り囲んでいた。
 「勝負は決したようね。」
 この状況に、涼妃は余裕を取り戻した。バルバロッサの剣がまだ氷に飲まれていないことだけに注意を向け、舞台へと上がる。
 「一気に片を付けるわ!茶坊!」
 それでも慎重な攻めは崩さない。二十頭以上もいる牙狼で余すことなく眠りに誘う手はずだ。
 「合点!」
 涼妃がこういった窮地でも判然と立ち居振る舞えること、それは彼女の過去を知る茶坊にとって、喜びであった。
 ___
 涼妃は生まれながらに、幸福を掴むには困難な環境に置かれていた。
 涼妃の母は人の記憶を読みとることができた。それ以上でもそれ以下でもない。むしろ注目されるのはその美貌だった。粛々と日々を送っていた涼妃の母は、黄泉の裏社会で横暴を振るっていた色欲の塊のような妖魔に狙われた。そして彼女はその男の手に落ち、己の意志に反して体を熱くする日々を強いられた。
 やがて彼女は子を授かる。男の色欲は変わらなかったが、子を産ませることには肯定的だった。そして涼妃が生まれた。美女の娘であったから、その男は大層喜んだ。それはつまり、一から育てられる喜びである。しかし娘の不幸を悟った母は、何とかして彼女をこの男の元から引き離そうとした。その時、彼女が思いの丈をうち明けたのが、男に仕えていた犬飼い、茶坊だった。常人には聞こえない音で牙狼を操る茶坊。牙狼を使って娘を安息の地へ連れ去って欲しいということだった。
 茶坊は彼女を手伝うつもりでいた。淫らな地獄の中でも、純情たる一輪の花でいようとする涼妃の母の心に救われる思いがしたのだ。しかし結局この願いが叶うことはなく、突発的な胸の病で母は死んだ。
 涼妃は歪んだ形で育てられた。自分の能力さえ知らずにいた。彼女はそれに何の疑問も抱いていなかったが、母の願いを知る茶坊にとっては心苦しい日々だった。しかし、転機は訪れる。
 禁断の行為の最中、父は我が娘を抱きながら彼女の母を抱いている気になっていた。過去の思い出が走馬燈のように駆けめぐった。しかしそれが涼妃の能力によるものだとは思わない。ただ父は、娘が運ぶ思い出をひたすら恐怖した。彼の元で息絶える女は、往々にして狂気の沙汰である。しかし涼妃の母は正気のまま死んだ。恨みの意志と力を秘めて。
 それはあらぬ恐怖であったが、父は涼妃を捨てた。遠くで殺せと命ぜられたのは茶坊だった。しかし彼にはできない。涼妃の母のことを思うと殺すことはできない、いやむしろこれは好機だ。母の願いをようやく実現する好機。
 茶坊は涼妃もろとも男の元を去った。時間を掛けて彼女に己の能力を気づかせ、茶坊自身の記憶を読ませることで自我を目覚めさせた。それからの涼妃は復讐の権化となった。そして彼女は初めて人の記憶を消し去ったのだ。誰でもない、自分の記憶。母の仇に、肉の虜として仕立て上げられた忌まわしき過去を消した。涼妃の記憶の中で、あの男は母の仇としてだけ浮かびあがり、彼女の復讐心を際立たせた。
 それから、涼気は裏社会の高位な人買いたちを相手に商売をはじめ、仇を探した。しかし仇たる男はすでにこの世になかった。茶坊が牙狼と連れだって消えたことが恐怖を助長し、また彼の命を狙う物たちを色めきだたせていたのだ。
 復讐は叶わなかった。しかし涼妃は類い希なる優越感の中にいた。高慢な妖魔たちを卑下の眼で見られる舞台の上、それは彼女にとって何よりの快楽の地であったのだ。
 ___
 (涼妃にとっちゃあ、欲望にまみれた妖魔たちを見下ろしている時間が何よりも幸せなんだ。せっかく作り上げた彼女の安息を滅茶苦茶にした奴ら___しかし、今の涼妃を見ていると、難局を乗り越えて妖魔として成長したように見える!)
 思いの丈を込め、茶坊は口笛を吹いた。そして牙狼たちが舞い踊る!
 「な___!?」
 茶坊だけではない、涼妃にとっても信じられないような光景が広がっていた。牙狼たちは茶坊がどんなに口笛を吹こうとも彼の指示が耳に入っていない。同族だろうと、腰掛けだろうと、人だろうと、手当たり次第にのし掛かっている___男を露骨にして。ついには相手が見つからず、夢中になって床に股ぐらを擦りつけている奴までいた。
 「ど、どういうこと!?」
 涼妃は困惑した。しかしそうしている間にも痴態は獣たちだけでは止まらなくなっていった。会場に甘酸っぱい香りが広がっていることを知ったのはその頃だ。
 「!」
 まるで靄のかかったような熱気が、会場の、牙狼が取り囲んでいた妖魔たちの中から立ち上っていた。その中心にいたのは___
 「児玉___!」
 生物を発情させる香りを放つ能力。人を殺めるような威力はないが、その効果は尋常ではない。従わなければ烙印を押す___サザビーのその一言で、児玉は全身の毛穴から臭気を放った。ついには妖魔たちがふらつくように腰を揺り動かし、自らの手で衣服を脱ぎはじめた。相手など誰と構わずに、その肌を絡ませる。
 「ひっ!」
 涼妃も例外ではなかった。脳髄に淫蕩な香りが充満しようというとき、背後から突然尻を掴まれ、柄にもない悲鳴を上げていた。
 「梗!?」
 青髪の青年はそれこそ獣のように荒い息をつき、涼妃の背中に体を密着させ、衣服のことなど構いもせずに涼妃の尻に己の腰を擦りつけた。
 「やめろ!貴様は___!」
 それは涼気に一瞬の恍惚の後、酷い屈辱感をもたらしていた。
 「こいつは並じゃねえな!牙狼の包囲網を解くためだったが、ここまでとは!」
 サザビーは小鳥を連れて、廊下ではなく会場の隅へとやってきていた。できるだけ発情の香を吸い込まないように、口と鼻に服の袖を宛うことは忘れない。ここから逃げ出せれば良かったのだが、空気の流れで廊下のあたりほど靄の充満が強い。あれでは通りようがなかった。
 梗が我を忘れたことで、バルバロッサもまた氷を砕いて部屋の隅へと飛んできた。
 「大丈夫か?」
 「ああ。」
 彼はこんな時でも沈着。しかしマントの襟でしっかりと口元を抑えていた。影響がないわけではないらしい。
 「逃げてえな、このままだと俺たちまでおかしくなる。壁をぶちこわせないか?」
 「やろう。」
 先ほどから牙狼たちの声が響き、それとともに栗の花粉のような匂いが香に織り交ざり、一層強烈な臭気となっていた。さすがにたまりかねたか、バルバロッサはサザビーの言葉尻に被せるようにして、壁を向き剣を振りかざしていた。
 「ぐああっ!?」
 しかし野太い悲鳴がその動きに待ったをかける。声の主は児玉。彼の首には小指大の投げ矢が刺さっていた。放ったのは涼妃だ。
 「なめるな___」
 護身用の仕込み。毒の染みた針は、すぐさま児玉を断末魔へと誘った。まずはこの香りを止めたい、それゆえの判断だったが問題はまだ続いていた。
 「あっ!」
 梗が膝上ほどまで裂いたドレスの裾をたくし上げると、涼妃はつんのめるように倒れる。尻を突き出す事に恐怖を感じた涼気は素早く体を捻るが、梗の手が力任せに胸を握ると体に痺れが走った。
 「やめなさい___梗!」
 これを快感と覚えないのは相手が梗だから。梗だから涼妃は毒矢も使わない。彼女の体をむさぼろうとする彼に対し、憎悪の裏に悲哀を漂わせるのはなぜだろう。次の瞬間、堪え続けていた答えを、涼妃は口にした。
 「おまえは___母を汚す気か!」
 彼女の体に没頭する梗の頭に、涼気がその手を押し当てた。一瞬、梗の体が大きく痙攣すると、発狂したように揺らし続けていた腰が止まる。
 「___涼妃___!」
 梗が呆然として、自分が組み敷く半裸の女を見ていたのはほんの一瞬だった。瞳に驚愕が差し込むと、彼は弾けるように後方へと飛んだ。涼妃が毒矢を投げたのはその時だった。
 「っ___」
 矢は梗の胸へと突き刺さる。しかし彼もまた一瞬遅れて氷の刃を放っていた。発情の香のせいだろう、涼妃の腰はまるで立たない。目前に迫る氷に、彼女もまた覚悟を決めた。
 シュオオァァ!
 「え?」
 しかし氷は涼妃には届かなかった。彼女の目の前に走った赤い輝きは、その夥しいエネルギーで氷を瞬時に蒸発させていた。輝きを放ったのは、瞳を赤色に変えたバルバロッサだった。
 「赤甲鬼の風間___!」
 彼の腕に蔓延る赤い宝石を見て、涼妃はようやくその正体を知った。
 「涼妃さん、あんたの舞台を滅茶苦茶にしたのは悪かった。」
 腰が抜けて立ち上がれないでいる涼妃の元へ、サザビーがやってきた。小鳥は彼の後ろで、怒りと憎しみを精一杯噛み殺して涼妃を睨み付けている。
 「だがあんたも彼女やいろんな人たちの人生を滅茶苦茶にしたんだ。」
 「___」
 サザビーは打ち掛けを脱いで、半裸で動けずにいる涼妃に被せた。
 「あんたにも色々な事情があった___それは何となくだけど分かるよ。そうでもなきゃ人の売り買いなんてまねはしないだろうしな。だが___俺は同情はしないぜ。」
 サザビーはバルバロッサから受け取った紙切れを涼妃に見せつけた。
 「彼女の記憶を戻せ。そうすれば契約書は免除してやる。」
 「冷たい男だね___この期に及んで脅迫かい?」
 涼妃は小さく笑った。
 「おまえが油断できない奴だからこうしてるんだ。悪く思わないでくれ。」
 その笑みに彼女の観念が見て取れたから、サザビーもそれ以上の責めはしなかった。
 「分かったよ、記憶を戻そうじゃないか。それで復讐の炎を一つ消せるなら、安いものさ。」
 それから___涼妃の掌が小鳥の額へ。いよいよ彼女がミキャックに戻る。サザビーは緊張の先に一際の安堵を期待した。しかし、涼妃はただでは転ばない。
 ビクゥッ!
 梗にそうしたときとは比べ物にならないほど、小鳥が激しく痙攣した。翼の先までピンと真っ直ぐに伸ばし、目玉が飛び出るかと思うほど大きく見開き、全身が総毛立っていた。
 「小鳥!?」
 「サザビー!」
 目があった瞬間、彼女はそう叫んだ。サザビーはハッと笑顔になるがそれも束の間、急に小鳥の瞳がグルグルと動き回り、全身の力が失せて仰向けに倒れた。
 「おい!」
 サザビーは彼女を抱き起こす。呼吸はしているが目は閉じていた。そして彼女の体には力が入らない。
 「フフ、記憶を戻してあげたわ。」
 「何をした___!」
 「何もかも一瞬で呼び戻したのよ。でもあまりにいろいろなことを思い出しすぎて頭が爆発しちゃったみたい___」
 冷涼なる心と美しさを秘めた妃。しかしこのときの涼妃の嘲笑は、猟奇と呼ぶのが相応しかった。微笑みながら血に染まっていくその姿は___
 「涼妃!」
 彼女を傷つけているのは小さな氷の粒だった。バルバロッサの閃光で蒸発した水分と、彼女自身の緊張で体を濡らしていた汗、これを梗が氷の飛礫に変えていた。
 サザビーが彼女に触れようとしたその時には、涼妃の首や顔には大量の氷の粒が抉り込んでいた。時すでに遅し、彼女は血反吐を吐いて事切れた。
 「仇は討ったよ___」
 最後の力を振り絞って涼妃を討った梗。彼もまた倒れたきり動かなくなった。
 「なんだよ___どうなってんだ!?」
 「悲劇だ___」
 児玉の死で発情の香がだいぶ薄らいできた。舞台上の惨劇を知った茶坊が、憚らずに涙を流しながらフラフラと歩み寄ってきた。
 「どういうことなんだ?これは___」
 ただ小鳥を抱きしめ、サザビーは茶坊に問うた。
 「どういうこと?へっ、復讐の堂々巡りでやんしょ。恨みが新たな恨みを呼び、一つの復讐が終わった瞬間次の復讐が生まれる___そういうことで。」
 茶坊は悲しげに言い、目を見開いたまま息絶える涼妃の瞼を閉じさせた。
 「あの青い髪の坊やはなんなんだ?」
 「涼妃の息子さ___この娘が復讐心を抱いてやまなかった男に植え付けられた種。いや、もうそんなことはどうでもいいだろうよ。」
___
 涼妃が梗を産んだのは男に捨てられてから暫くしてだった。余計な過去を消し、ただ母の敵としてあの男を憎んでいた涼妃にとって、なぜ自分が彼の子を身籠もっているのかは到底理解できなかった。涼妃は我が子の存在を拒否した。そしてあの男への恫喝の道具として、乳飲み子のうちに牙狼を使って男の元へ届けた。
 それは男の精神を追い込むには最高の手段だった。でも成長した梗が、涼妃を父の仇と追いかけ始めたのは誤算だった。
 我が子は涼妃に挑み、涼妃は我が子の記憶を消した。だが血統のせいか、涼妃が動揺していたのか、記憶の消去はいつも不十分で、梗は良く思い出した。ミキャックと出会ったあの時も、不意に過去を思い出した梗は涼妃の元から逃走を図っていた。
 梗は涼妃を殺すことに一切の躊躇いもなかった。一方で涼妃は、梗を我が子と認めてはいなかったが、商品として売りに出すことも決してしなかった。そして時には、笑みを持ってその髪を撫でたものだ。
 そこには愛があったはずだ。だから茶坊は、この結末を悲劇と言った。
 最後の最後。梗に組み敷かれた時、涼妃の脳裏に巡ったのはおそらく忌まわしき過去。消し去ったはずの、父に抱かれる自分の姿を思い出した。だから彼女は矢を投げたのだ。恨み続けた相手の姿が重なったから___
___
 「こいつはどうなる___?」
 サザビーにとっては茶坊の言うとおり、涼妃の生い立ちや梗との関係などどうでも良いことだった。ただ、彼の胸の中で力無く放心し続ける彼女のことが心配で仕方ない。
 「さあ、俺の知ったこっちゃねえ。」
 「___」
 確かに、記憶を操れるのは茶坊でなく涼妃だ。彼に言っても無駄だというのは理解している。しかし失うばかりで、何も得ることが出来なかったこの結末に、やるせなさばかりが募った。
 「すまねえ___」
 サザビーは温もりだけが痛々しい小鳥の体を抱きしめる。そして、絞り出すように詫びの言葉を呟いた。
 自分の判断が招いた最悪の結末。
 彼女を助けるはずが破滅させてしまった。
 反吐が出そうな胸中。こんなに悔しいのは___
 「泣いてくれるの?」
 抱きしめた耳元。弱々しかったが、女の声が耳を撫でた。
 「あたしのために___?」
 サザビーは彼女を抱いたまま硬直した。聞き覚えのあるその声、だが彼はそちらを見るのが怖かった。
 「サザビー___」
 名前を呼ばれて、彼の衝動が弾けた。まだ体には力が入っていない。しかしその両肩を掴み、真正面に彼女を見据えた。二人の視線は真っ直ぐに交錯する。
 サザビーは彼らしくもない、酷く恐る恐ると口を開いた。
 「名前は___?」
 「ミキャック・レネ・ウィスターナス___」
 小鳥の時とは違う、大人の微笑み。体に力が入らないままでも、彼女は心の底からの笑みをサザビーに送る。
 「___」
 サザビーの胸に情熱が迸った___死を悟ったナターシャ・ミゲルに愛をうち明けたあの時のように。しかしすぐに興奮を押さえ込み、まだ朦朧として見えたミキャックを気遣って、ゆっくりと彼女を抱きしめた。
 「久し振りだな___」
 「___うん___」
 ミキャックは彼の暖かさを肌に感じながら目を閉じる。一筋の涙が、彼女の頬を濡らした___
 「どういうことだ?」
 二人の世界を一瞥し、バルバロッサは茶坊に問いかける。
 「記憶を一気に戻すと、暫くは頭が思うように動かなくなるんでさ。」
 「涼妃はなぜ素直に記憶を戻した?」
 「姉御はこれまでずっと誰かを恨んで、そして誰かに恨まれ続けてきた。息子である梗を殺しちまって、何かが吹っ切れたんでしょうや。もう誰かに恨まれるのは御免。それに___動機がなんであれ守って貰った借りは返す、そういうことで。」
 「___」
 「でも、一杯食わされた仕返しはしたかった。だから少しだけ絶望を見せたんで。」
 茶坊はニッと奇妙な形をした歯を見せて笑った。
 「涼妃の供養は俺たちがしておこう。」
 バルバロッサは茶坊の横に立ちながらも、彼の方は振り向かずに話した。茶坊は茶坊で、倍の背丈があるバルバロッサのことを一瞥はしても見上げようとはしなかった。
 「おまえの主人に免じて、逃がしてやる。」
 「ひひっ___旦那もなかなか粋なことをするね。」
 「気が済んだら、早く去れ。」
 「合点承知で。」
 その日、大量の契約が結ばれた。鴉烙の契約書に血判を押したのは、いずれも涼妃のセリに買い手として参加していた者たちばかりだった。




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