2 皇蚕の中の棕櫚
「騒がしくなってきた___気づかれたかな。」
首尾よく番人を眠らせることができたが、鵺はその先までは考えていない。虫の中にいる妖魔の数はいつもに比べて少なかったが、要所要所で衛兵のように立っている。外に出るつもりが、人の目のないところへと進むうちに皇蚕の奥の奥までやってきてしまった。
「そうだ!」
皇蚕の奥には牢がある。牢とは言っても、鴉烙の契約そのものが生きた牢屋なのだからここが使われることは滅多になく、近づく者もない。隠れるにはうってつけ、そう思った鵺は前へと進んだ。
「って、あなた誰よ。」
牢にたどり着いた鵺は、しっかり降ろされた錠前と、覗き穴から見える人影に憮然としていた。
「捕まってるんです。」
「そんなの見れば分かる。」
人影の主、棕櫚は突如やってきた少女が鵺であるとすぐに分かった。顔も知らないではなかったが、この皇蚕の中でこれほど屈託無く過ごせるのは鴉烙の娘くらいしかないと思ったからだ。
「あたしが隠れようと思ってたのに。錠を開けるからすぐに出なさいよ。」
「いや、ちょっとそれは___」
「えっと、鍵は___」
棕櫚が困惑しているのも気にとめず、鵺はそこいらに鍵がないかと探し始めた。
「あの〜、開けられてしまうと俺も困るんですよ。」
「なんで?あ、あった。」
皇蚕の壁の一部にできもののように盛り上がった場所があった。鵺がそこに指を押し込むと、押し出されるようにして小さな鍵が吐き出された。
「大人しく捕まっていなければ、あなたのお父様に殺されてしまいますから___」
「___」
それを聞いた鵺は手で鍵を遊ばせながら、目を細めて棕櫚を見つめた。
「ならあたしをそこに入れなさい。」
「はい?」
「隠れさせるのよ。断ったらあたしからお父様にあなたを消すように頼むわよ。」
「無茶苦茶な___」
棕櫚は引きつった笑みを見せるしかなかった。
「なぜ隠れん坊なんてしてるんですか?」
「ん〜?」
暗くて狭い部屋の中、棕櫚と鵺は向かい合って座っていた。体型や面立ちにまだ幼さは残るが、鵺はとても理知的で、自我の強そうなはっきりとした顔をしていた。芯の強さ、それは鴉烙に通ずるものがある。もうすこし年を重ね、そして良い恋でもすれば、さぞ美しい女になると感じた。
「お父様があたしを閉じこめるからよ。」
「閉じこめる?」
「お客様が来るといつもそうなの。今日も誰が来たのかは知らないけど、あたしは部屋に閉じこめられた。」
風間ことバルバロッサが鴉烙攻略のために鵺を浚い、結局彼女の純粋さに心を咎められて解放した話を棕櫚も良く知っている。それ以来、まあそれ以前から警戒してはいたのだろうが、鴉烙は未知なる相手を前にするとき、まず鵺を徹底的に防備する。
「お父様が心配してるんじゃないですか?」
「いいのよ、お父様なんて。あたしの幸せなんて考えてくれないんだもの。」
「そうですか?お父様はあなたを心配して守ってくださっているのに。」
「違うわ。」
鵺は強い口調できっぱりと否定した。
「お父様はあたしのことなんて考えてない。あたしを守るのだって、本当にあたしのためなのか分からない。」
「どうして?」
鵺は父が彼女の身を守ろうとしていることは認めてはいる。しかし父の真意に疑いを持っている、そんな口振りだった。棕櫚も鴉烙に命を握られている身。鵺に問い返した声には、彼女の言葉から鴉烙攻略の糸口を探れるかも___という期待が滲んでいた感が否めない。
「___」
それが分かったのか、鵺は黙ってしまった。
「あ、すみません、家庭の事情ですね。」
棕櫚も自嘲して笑い、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「ねえ、あなた恋をしたことはある?」
「はい?」
「ある?」
唐突に恋の話をはじめた鵺に、棕櫚はあっけにとられながらも小さく頷いた。
「人並み程度には___」
「うまくいった?」
「いえ。人を幸せにするのが下手なものですから。」
「?」
ふと思い浮かぶ榊の顔。彼女の安否を思うと棕櫚の顔には自然と口惜しさが滲んだ。そんなことを知らない鵺は棕櫚の答えに首を傾げる。
「それがどうかしましたか?」
「あたしもうまくいったことがないんだ。」
感情の豊かな娘だ。悲しい思い出があるのだろう、鵺の表情は見る見るうちに寂しげなものへと変わる。
「あたしが好きになった人はみんないなくなっちゃうのよ。」
「___」
近づく男には容赦しない、年頃の娘を持つ父親には時折あることだ。しかし鵺が先ほど鴉烙が心から彼女を守ろうとしているのか定かでないと言ったことが引っかかる。鵺は自身の感情が豊かであると同時に、周囲の感情にも敏感である。棕櫚の下心を読みとったほどなのだから。
「今まで何度も恋をしたみたいですね?」
「そうよ、好きになった人は一杯。生きているのは風間と砂座の二人だけ、でも二人も今はお父様の言いつけでここにはいないわ。」
「砂座?」
「うん。知ってるの?」
俯いて話していた鵺が顔を上げ、白い歯を覗かせて問い返した。
「え〜、煙草が好きで、ちょっと髪がぼさぼさで、飄々としていて、スケベな話とかする砂座ですか?」
「そ〜そ〜!」
鵺はニコニコ笑いながら何度も頷いた。棕櫚は相変わらずな彼の風体を思い描き、失笑した。
「風間のことも良く知ってますよ。まあ彼はああいう性格なので俺のことを嫌がるかも知れませんけど。」
「へぇ〜。ねえ、あなたの名前は?」
鵺は目を輝かせながら棕櫚の手を取った。
「棕櫚と言います。」
「棕櫚かぁ。あたしは鵺よ、よろしく!」
「こちらこそ。」
棕櫚は鵺と握手を交わして微笑みかける。しかし心では、鵺と近づくことで鴉烙に警戒されれば寿命が縮まるとも思っていた。
「で、あなたは何でこんなところにいるのよ。」
「実は前に泥棒をやっていまして、あなたのお父様に捕まったことがあるんです。もう足を洗いましたが運悪く皇蚕の前を通りかかってしまいまして___そうしたら今日は厳戒態勢ですね。」
「限界?」
「怪しい奴がいないかってみんなで見張ってるって事ですよ。」
「あ〜、今日はお客様が来るからね。」
「で、甲賀さんに捕まってしまいました。」
棕櫚が苦笑いすると鵺はふくれっ面になった。
「酷いなぁ、それじゃああなたは何もしてないんじゃない。」
「そうなんですけどね。ところでお客様ってどういう方なんですか?」
気になったら黙って見過ごせないのが棕櫚。黄泉の大戦が餓門の勝利でひとまずの決着を見たこの時勢に、影の帝王である鴉烙に近寄る人物。まして鴉烙をそれほどに警戒させる人物___徒者ではないだろう。
「良く分からない。閉じこめられていたし、まだ来てないのか、もう来たのかも分からないよ。」
鴉烙に目通りされる前に牢に閉じこめられ、すでにそれなりの時間が経過した。なのにいまだに誰も呼びに来ない。先ほどから床へ密やかに草の根を伸ばし振動を感じていたが、どうやらずいぶんと駆け回る足音が増えている。外にいた連中の一部が中へと戻ったと言うことだ。
(ついさっき来てもう帰った、或いは始末された___可能性が高そうですね。いや、始末されたというのはないか。)
鵺を探しているのだろう、皇蚕を駆けずり回る足音が感じられる。皇蚕そのものが生命であり動くので、感じ取りづらいのは確かだ。しかしそれにしても鴉烙の部下たちの動きは落ち着きを欠いているように思えた。
この客との何らかの話し合いが不調に終わり、挙げ句たまたま鵺の脱走と時が合致したために、客が鵺を浚ったのではないかと憶測に振り回されている。そう考えるのが良さそうだと棕櫚は思った。
(だとするとその客は、鴉烙の契約に乗らずに話し合いを切り抜け、無傷で、誰に睨まれることもなくこの皇蚕から脱出を果たしたことになる。)
憶測が正しければ相当な手練れだ___不可能に思えることをやってのけたのだから。
「ねえってば。」
鵺に膝を叩かれ、棕櫚は彼女が呼びかけていることに気づいた。
「棕櫚はこの辺に何しに来たの?」
「泉を捜していたんです。」
「泉?池のこと?」
「ただの池じゃありませんよ。万病、万障、万難を消し去る効果を持つと言われています。」
探してみたがこの辺りにはなかった。いや、そんなもの黄泉中のどこにもないのかも知れない。だから棕櫚は巻物を見せることこそしなかったが、軽々しく口にした。
「その話、俺にも聞かせてもらおうか。」
「!?」
突然の声は天井から聞こえた。牢屋の中は薄暗い、だから分かりづらかったが天井には確かに黒い染みが付いていた。それは鴉烙の部屋の天井に広がり、消え失せたものと同じだ。
「なになに?わっ。」
興味津々で天井を見上げた鵺の手を引き、棕櫚は彼女を自分の後ろへと引っ張り込む。彼の研ぎ澄まされた直感は、この黒が秘めるおぞましさを感じていた。
「大した嫌われぶりだな、初対面でもないのに。」
天井の肉が蠢き、声を発する。そして次第に闇は何かの形を作っていく。
「!」
そして棕櫚は絶句した。その形と黒、神出鬼没さ、全てを重ねてこの声の主が誰であるか理解できた。
「何あれ、犬?」
「そう。犬だ、お嬢さん。」
闇は天井で犬の横顔を描き出していた。
「アヌビス___」
アヌビスが黄泉にいる可能性が高い。ソアラからそう聞いていたから棕櫚はまだ冷静でいられた。しかしこの狭い牢屋の天井から見えない威圧を掛けられては、いつものように薄ら笑いを浮かべることはできなかった。
「万能の泉のこと、是非聞かせてもらいたいなぁ。棕櫚。」
「棕櫚、あたしも聞きたいわ。」
たとえ闇だけでも、アヌビスを知る棕櫚には強烈な威圧になる。しかし鵺にはただの黒い染みにしか見えないのだろう。彼女は棕櫚の心も知らずに彼の袖を引いた。
「俺も詳しいことは知らない。ただそういう泉がこの辺りにあると聞いただけです。」
「何でそれを探していたんだ?」
「興味本位ですよ。」
榊の名は出したくない。だから棕櫚はそう答えた。
「そうかな?本当のことを言わないとためにならないぞ。」
天井の闇は犬の形を取りながら、闇の一筋を棕櫚の背後の壁へと伸ばしていた。壁の近くには鵺がいる。アヌビスはその気になれば鵺を手に掛けることができるとでも言いたいのだろう。
棕櫚に鵺を守らねばならない義理はないが、もしここで鵺に何かがあっては鴉烙の元に突き出されたときに命がない。道は限られてくる。
「___助けたい人がいるんです。もう手遅れの状態で、助け出す方法を探しているときにその泉の話を知りました。でも結局見つけられませんでしたから、きっとその人はもう___」
何かを包み隠そうとする棕櫚の問答にアヌビスの闇が笑ったように見えた。
「どこで知ったんだ?」
「全く___あなたには隠し事の一つもできそうにない。」
棕櫚は渋々ながら懐の巻物を取り出した。
「これに書いてありました。」
「開いて見せてくれ。」
言われるがままに棕櫚は巻物を広げ、天井に向かってそれを翳した。
「___これを手がかりに、この辺りを探していたのか?」
不服そうな声だ。無理もない、何しろあの地図は滲んでいる上に、打点らしきものが二箇所ある。しかし巻物に書かれていることは事実であり、すでに榊は復活している。もしアヌビスがこの地図を頼りに万能の泉を捜せば___彼は辿り着く。
「こんなもので良くこの辺りを探す気になったな。」
「藁をも縋る思いだったんですよ。」
だがアヌビスの声には呆れも混ざっていた。それもそのはず、地図のほとんどには黒ずんだシミが広がり、打点らしきものの数も十以上に増えていた。しかも仙山が探していたもう一つの点は黒いシミに塗りつぶされている。
シミも増やされた打点も植物の汁。棕櫚の胸の中で草が蠢き、巻物にちょっとした細工が施されたのだ。こうすることでアヌビスと榊、仙山の接点を少なくする。そして万が一の可能性をアヌビスに嗅ぎ取られなくする。せめてもの予防線だった。
「それくれるか?おまえにはもう必要がないみたいだし、もちろん礼はする。俺が手に入れたいいものをおまえにやるぞ、決して損した気分にはさせない。」
棕櫚は見せてと裾を引く鵺に巻物を手渡した。
「邪神の言うことを信じろと?」
「交換してやるって言ってるだけましだと思うが。」
確かにその通りか。なにしろ闇の一筋はすでに床へと伸びている。
「全く、強引ですね。」
「悪いな。ソアラに会ったらよろしく言っておいてくれ。」
天井から闇が紐となって下りてきた。つまらないものだったからか、あっさりと鵺から返された巻物をまとめると、棕櫚はそれを紐に近づけた。闇の紐はすぐさま巻物に絡みつき、天井へと引き上げていく。それと入れ違えるように別の紐が何か紙切れを携えて下りてきた。
棕櫚を「あっ」と言わせる紙切れが。
「娘が世話になった。」
それから暫くして、棕櫚はようやく鴉烙との対面を果たした。棕櫚は鵺を浚ったと疑われるのではないかと恐れていたが、彼女の部屋の番をしていた男が扉にやられたこともあり、彼が嫌疑を掛けられることはなかった。
「貴様は闇の番人を使って私を陥れようとした男、確か棕櫚だったな。」
しかし過去が清算されるわけでもないし、鴉烙の契約が破棄されるわけではない。鴉烙の前に立つ棕櫚はすでに見えない鎖で雁字搦めにされているようなものである。
「偶然皇蚕に出くわしたというのが嘘にせよ誠にせよ、おまえの命は我が手中にある。それは分かっているな。」
「分かっていますよ。そうでなければ牢から逃げ出しています。」
棕櫚は神妙だった。後ろで甲賀が睨んでいることもあるが、指先一つ動かさずにいた。
「ならばおまえが生きる道も一つしかないと分かっているな。」
鴉烙の笑みを受け入れ、棕櫚は一つ頷く。
「良い心がけだ。さっそくだがおまえの能力は___」
「今は植物を操ることです。」
「それは捜し物に役立つか?」
ドキリ。棕櫚は鴉烙の言葉に面食らったが、顔には出さない。しかしアヌビスにその話で詰られてすぐだったから少し戸惑った。
「___植物は根で大地を感じ、葉で風を感じます。探すものの種類によっては有効です。」
努めて冷静に語る棕櫚だが、いつものに比べて歯切れが悪かった。間違っても自分から「泉」などと口走ることはあってはならない。
「例えば、地形を探るのはできるか?」
「遠くの地形を計ることは難しいですが、例えば深い森の中がどうなっているのかと言ったことなら、木の根を頼りに知ることはできます。」
それを聞いた鴉烙は白い歯を見せて笑った。
「それで十分だ。おまえには私の捜し物に手を貸してもらおう。探すのは___生命力の湧き出る泉だ。」
やはりか。だとするとアヌビスと鴉烙の接触のテーマはこの「泉」である公算が大きい。しかしアヌビスは「泉」を知らなかった口振りだったし、皇蚕の中が慌ただしくなったことを考えると、まともな話し合いもできないままに物別れに終わったようだ。
(どちらにせよ、アヌビスから鴉烙に接触を図ったのは間違いない。そして時を同じくして俺はアヌビス、鴉烙と言葉を交わした。)
棕櫚は無数の点が繋がりはじめている気がした。
「分かりました、殺されてはたまりませんから手伝いましょう。」
「良い返事だ。」
いつの間にか、恐るべき邪神と、黄泉の支配者と、紫の竜の距離が近づいている。
三者とも目指すものは白廟泉。
(どうやらあの巻物には信憑性がありそうですね。)
榊のことは心配だが、どうやら白廟泉は実在するらしい。もしかすると、すでに仙山が泉を見つけているかも知れない。
(一度朱幻城にいる誰かと会って、状況を確認する必要がありますね___)
鴉烙は泉について「生命力が沸く」と口にした。だとするとこの車椅子の老人の目的は、若さと、尽き果てない命だろうか?そしてアヌビスも、同じ目的で鴉烙に近づいたのだろうか?
(そしてもし白廟泉が実在し、その正体が生命力の沸く泉だったなら___俺はこの皇蚕にいて鴉烙を白廟泉から遠ざける努力をすべきなのでしょう。そして___)
復讐を___いや今はその言葉、胸の奥底にしまい込もう。
密やかな決意を胸に、棕櫚の皇蚕での日々が始まった。
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