4 女王の死闘

 辿り着いた地は黒々とした岩が一面を覆い尽くし、所々に建物の屋根、壁、煙突などが顔を覗かせる。所々に灰色の吹きだまりがあり、岩の狭間から僅かだが緑の草が顔を覗かせていた。
 「歩きにくいね。」
 「この家ってどうやって入るのかな?」
 ルディーはゴツゴツとした足下を気に掛け、リュカは岩から顔を出す民家の石屋根に乗って首を傾げていた。
 「ここが母さんの故郷だ。」
 百鬼はそんな二人を振り返り、言った。あまり笑顔になれなかったのは、ポポトルが想像以上に滅茶苦茶になっていたからだ。
 「ここが?」
 「昔はこの黒い岩の下にちゃんとした町があったんだ。ほら、煉瓦町みたいなのな。母さんは小さいころここで育ったんだよ。」
 土地の少ないポポトルでは建物は上に伸びる。四階建てのアパートも珍しくはなく、潮風でも腐食しないように頑強に作られている。半分以上が押し寄せるマグマで倒壊してしまったようだが、黒岩から巨大なツクシのように顔を出した建物を見れば、ここがかつての町だったことは明白だった。
 「へぇ〜!」
 「なんていうところだっけ?」
 「ポポトルさ、昔はたくさんの人が住んでいたが___」
 百鬼は初めて来たときとは随分その形を変えたであろうポポトル山を指さした。確かに山の原形はとどめているのだが、山頂の位置ははっきりしない。
 「あの山が噴火してなぁ、町が飲み込まれちまったんだ。」
 「へぇ〜!凄いね、あの山!」
 ああっけらかんとしたリュカの言葉を聞いていると、子供の無邪気に心が躍る。
 「ねえお父さん、この島に来てこれからどうするの?」
 「しばらくここで過ごしてみようかと思うんだ。」
 子供たちは驚いていた。リュカは笑顔だったが、ルディーはこんな岩だらけの場所で過ごすという父の発想に少し嫌な顔をした。母の故郷と聞いて期待していただけに、がっかりした面も強い。
 「なぁに、心配するなよ、たしかにここは溶岩でどうしょうもないけど、さっき空から島を見たら反対側には森が広がっていた。そっちで暮らすんだ。」
 「楽しそう!」
 「そうかなぁ。」
 どうもリュカとルディーの間に温度差がある。
 「いつも雪のソードルセイドもいいけどさ、おまえたちにはこういう暖かい島で育った母さんの血も流れてるんだ。そのうち気に入ると思うぞ?」
 百鬼はあまり乗り気でないルディーに顔を近づけて離した。ルディーは子供のくせに鼻で笑うような顔をして、何度か頷いた。
 「よし、それじゃあまずは島の反対側を目指そう。海岸の近くの森に家を作るんだ。」
 こうして百鬼一家は今や不毛の島と化したポポトルでの生活を始めることにした。

 クーザーで奇怪な病気が流行っていることは、商人の手で世界に広く知れ渡りはじめた。患者も死者も日に日に増えてくる町の事情を、旅人に説明しないわけにはいかない。フィラの仁義は旅人を戦々恐々とさせ、商人は自らの命惜しさにクーザーに立ち入ることを避けた。しかしそうすることで、クーザーからは一層活気が失われていく。
 そんなクーザーに堂々と、何の躊躇いもなく二人の旅人が入り込んできたのは、すでに死者が百人を越えた頃だった。
 「まさかおいで頂けるとは___心よりお礼申し上げます、院長。」
 コリンズはテンペスト医院の院長室で、クーザーにやってきた二人の旅人を出迎えた。
 「院長はあなたでしょう?」
 脱いだコートを寄ってきた医師に手渡し、フローラはその一時だけ笑みを見せてすぐに真顔に戻った。一方、彼の旦那であるライは終始険しい顔つきでいた。
 「彼は私の主人で、ライデルアベリア・フレイザーと言います。」
 「おおこれは、ご結婚なされていましたか___私はアーサー・コリンズです。」
 「はじめまして。」
 ライの声には芯がなく、コリンズは彼と握手を交わしたときに少し強く手を握られた。
 ___
 「当たり前だけど___何らかの病原体による感染症であるのは確かでしょうから、まずその原因物質が何かを探さなければなりませんね。」
 フローラはこの流行病に関する資料を渡され、熱心に一枚一枚目を通していく。ライはただ黙って座っていた。
 「しかし何も見つからないのです。我々も手をこまねいているわけではないのですが___」
 コリンズの目にははっきりとした隈が浮かんでいた。
 謎の病気に関しては未だはっきりとした原因が分かっていない。ただ経口感染であることは間違いないようで、何らかの菌が原因と考えられている。コリンズは調べられる方法を全て用いて、糞便中の病原菌を探した。しかし見つからなかった。
 「菌はないんです。しかし下痢は激しく、腎機能は低下し、やがて粘膜が荒れて腹腔、特に胃袋が潰瘍に陥ります。」
 「最初はただの風邪だと思っていながら___やがて下痢が起こり、死に至る。」
 「しかし空気感染しないのです。」
 「___」
 コリンズは早くからこれを経口感染するものと考え、フィラ・ミゲル都市長より食事前の手洗い徹底が住民たちに伝えられた。それでも発症を疑われる人は増え続け、目に見えた効果は現れていない。しかしこの病気如何に関わらず、薬液での手洗い消毒を徹底していたテンペスト医院からは誰一人として感染者が出ていない。
 「この病気を特定できる何かがあるはず___それを探さなければいけませんね。」
 「開腹手術をしても治療の施しようがないため、今は薬での治療に終始しています。しかしこのままでは何も発見できないと感じているのも事実です。」
 「解剖は?」
 「可能な範囲で。午後からありますが___ご覧になりますか?」
 「是非。」
 フローラはすでに医師の顔だった。まだそのお腹は目立たないが、彼女は今一人の体ではない。熱心にカルテを見比べる姿に、ライは一抹の不安を感じた。
 「コリンズさん!」
 ライが突然立ち上がり、コリンズを真っ直ぐに見つめた。
 「フローラには絶対に無理をさせないでください!」
 「ライ、やめて。」
 フローラがクーザーに向かうことにライは強く反対した。かつて百鬼に話したことが現実となった彼は、やっぱり百鬼と同じように冷静ではいられなかった。フローラもソアラがそうしたように「一人で行きたい」と言い、結婚して以来初めて___ソアラと百鬼のように激しくなることはなかったが___喧嘩をした。
 「フローラは妊娠してるんです。」
 それを聞いたコリンズはさすがに閉口した。
 「ライ、その話は私たちの間で済んだことでしょう?」
 「君が黙っているつもりみたいだったから話したんだ。」
 二人の会話は互いにいつもより語気が強かった。
 「コリンズさん、僕にも手伝いをさせてください。」
 「やめて。院長、他の医師の話も聞いてみたいのですが。」
 二人それぞれに迫られて当惑したコリンズだったが、救いのノックが鳴った。
 「失礼します、院長___あ、これはお客様でしたか。」
 現れたのはテディだった。そしてもう一人___
 「あれ!?おまえら!」
 ついついゼルナス流の言葉が出てしまい、フィラはハッとして口を押さえた。
 「あっ!ゼ___んむむっ!」
 ゼルナスと呼びそうになったライの口を押さえ、彼女は「フィラって呼べ!」と耳打ちした。
 「フィラ、お知り合いかい?」
 「え?ええそう!」
 別にゼルナスと呼ばれても、昔のあだ名だと言えばテディはそれで納得するだろう。でもなぜか、彼にはゼルナスの名を知ってほしくなかった。
 ___
 「天下のミスティ先生が来てくれたのは心強い、でも身重なら無理をしてくれることはなかったんだ。」
 懐かしい顔との再会をはじめは素直に喜んでいたゼルナスだったが、フローラがコリンズの知らせを受けて重い体で飛んできたと知ると笑えなくなった。
 「フローラ、本当にごめん。まずあなたには謝らなくちゃならない。」
 「そんなことないわ、こんな時のために医学の研究をしているんだから。」
 ひれ伏すように深々と頭を下げたゼルナスの肩に手を触れて、フローラは慰めるように言った。
 「そうだよ、別に君が謝ることなんて___」
 「ある!」
 フィラは勢いよく顔を上げ、言い切った。
 「移民街で調査をしたら、ほとんどの奴が下痢か喉の痛みを訴えていた___」
 「なんと___」
 「議会では今回の騒動の発端は移民にあると決定されました。」
 近頃は、医院との橋渡しとしてテディも議会に出席している。彼は沈痛な顔で、それでも医者らしく気丈に話した。
 「みんな医者に行く金がないからって隠してるんだ___もう一万人以上がこの病気に掛かっている___」
 話しているうちにフィラの顔は俯いていき、歯を食いしばるから声も消え入りそうになっていく。
 「あたしは___あたしはお母様が___いや、代々の女王が守ってきたクーザーを滅茶苦茶にしちまったんだ___!」
 涙声で叫び、フィラはその場へ崩れ落ちた。フローラが慰めの言葉をかけるよりも、ライが手を差し伸べるよりも早く、テディはそっと彼女の後ろにしゃがみ込み、背中からその肩を抱いてやる。
 「君は間違ってはいない。ただ困難な道に踏み出しただけだよ。この困難に打ち勝てば、必ず希望に溢れた未来が待っている。」
 くさい台詞だ。しかしテディが言うと自然に受け入れられる。彼には嫌味が無く、自分の言葉に疑いを持っていないから、聞いた人々も疑いはしない。
 「フローラさん、妻に変わってお願いします。クーザーのために力を貸してください。そしてライさん、あなたのご婦人のお力を借りることを許していただきたいのです。」
 テディは泣き崩れたフィラの横に跪き、はっきりと言いきった。
 「___無理をさせないでくれるなら。」
 ライはフローラを一瞥して、一つ二つと頷いた。
 「約束します。それから___」
 フィラの耳元で「立てる?」と問いかける。フィラは震えるように頷き、先に立ち上がったテディの手を取って立ち上がった。
 「フローラさんは私が守ります。ライさんにはフィラを守っていただけないでしょうか?」
 「___そりゃもちろん!」
 一瞬呆気にとられたライだが、胸を張って力強く答えた。
 「フィラ、みんなでクーザーを守りましょう。」
 フローラはまだ肩を震わせているフィラの手を取り、勇気づけるように言い聞かせた。フィラはまた大粒の涙をこぼしながら、絞り出すように「ありがとう」と言った。

 「どうですか?」
 解剖の様子を見終え、両手を腕まで洗浄するフローラにテディが問いかけた。
 「院長から聞いた通りでした。」
 「どの患者もそうなんです。内蔵の機能障害は人それぞれですが、脱水症状と、胃腸内の血餅です。それ以上でもそれ以下でもありません。」
 「血餅も調べたそうですね。」
 フローラの問いかけにテディは頷く。
 「血と溶けた粘膜が混じり合ったものです。」
 「___ただお腹の中に残っているのがそれだけなら、やっぱり血餅に何か鍵があると思うわ。」
 「同感ですよ。」
 フローラの見解を聞き、テディは笑みを浮かべた。
 「自信になりますね、テンペスト先生の一番弟子と見解が揃うと。」
 「煽てないでください。亡くなられた患者さんのカルテをもう一度じっくり見直したいんですけど。」
 フローラもささやかな微笑みは見せたが形だけ。すぐに顔色を変えて次の行動へ移る。
 「それなら院長のところへ行きましょう。」
 彼女は精力的に動いた。しかし原因探しにはこれといった進展がないままに時が過ぎていく。一方で、謎の病が移民街から出たという噂はたちまち広がり、町では移民追放を訴えるデモが連日行われていた。
 「ねえゼルナス、町があんな状態なのに移民街に行くなんてまずいよ。」
 ライは鏡の前で変装に念を入れるフィラの後ろで、落ち着きを失っていた。
 「今日行くしかないんだよ。明日は議会だからね。」
 鏡を見つめ、ゼルナスは自分の頬骨が前より随分出っ張って見えたのにゾッとした。
 「どこか当てはあるの?」
 「移民街の人たちだって医者に行かないとは限らない。移民街に一番近い開業医さ、何か知ってるかもしれないだろ?」
 最近、公務に出るときは化粧を少し厚めにしている。理由は隈隠し。今はスッピンだと少し病的なくらいで、フィラ・ミゲルに見えなくてちょうど良い。
 「___」
 そのころ、医院の資料室にいたフローラは行き詰まっていた。分かったのは、下痢よりも先に喉の痛みが出る場合がほとんどだと言うこと。だから患者たちはまず軽い風邪を想像する。ただその後数日を経て激しい下痢に至り、やがて死亡する。
 「仮説はできたけど___正体は分からない。」
 喉の痛みは喉の渇きによるものだ。つまり、最終的に内蔵の機能障害の元となっていた脱水症状から、この病はスタートしている。つまり、何らかのものが口から腹の中に入り、胃袋に居座りながら水分を吸い、やがて粘膜まで食い尽くしていく。死に至るまでの期間の差は、察するに患者がどれだけ水分を良く取ったかの違いだろう。摂取量の少ない人ほど早く潰瘍に至る。
 「死亡したときに、胃腸に残っているもの___やっぱりあの血餅に原因があるとしか思えない___」
 血餅についてはフローラも調べた。しかしどうしても多少粘り気のある血液にしか見えない。熱すれば乾き、冷やせば固まる。
 「っ___」
 焦りを感じ始める。死者は日々増えていき、感染を疑われる人で医院はパンク状態。医師たちにも疲れが見えている。苛立ちが募ると新たな命を育む腹部が抓られるように痛み、フローラは再び見えない敵に平静に立ち向かう心を取り戻すのだ。
 しかし、平静でいられないような出来事が、この日は連発した。
 「ゲルヴァト?」
 「いわゆる麻薬です。」
 「ああ。」
 フローラが医院の一室にいるテディの元を訪れると、彼はしきりに書籍を漁っていた。
 「噂には聞いていました、クーザーに麻薬が出回っているって。」
 「僕はこの病気の調査に関わるまで、ずっとこの草の成分を調べていたんです。」
 本はテディが持ち込んだものだ。いずれもソードルセイド南部地区、原住民のような人々だけが住む密林地帯の探検記である。この密林地帯はヴァットゥバと呼ばれており、レミウィスの愛しき人、ナババもこの近辺の出身者であった。
 「ゲルヴァトはヴァットゥバに生えている草です。これを粉末にし、火にくべると覚醒効果のある煙が発生します。一時的に気分が高揚とし、快感を得ますが、中毒性は強いです。」
 「何か気になることがあるみたいですね。」
 テディは頷く。
 「この病、ゲルヴァトと一緒に持ち込まれた気がしてならないんです。確証はないですが、病気よりも少しだけ早く暗躍し始めたのがゲルヴァトですから。もしかしたらヴァットゥバにもこの病気があるかも知れないでしょう。」
 「なるほど___」
 手詰まりの感はあるが、今は藁にも縋る思いだ。フローラは腰掛けを引いて書籍を一つ手に取った。
 「手伝います。」
 「すみません。」
 ___
 ドンドンッ!
 フィラとライは移民街に一番近い町医者の前までやってきた。先ほどから何度も扉を叩いているが応答がない。ノブを回してみても錠前が下りているようだった。
 「いないみたいだよ、出直そうよ。」
 「こんなときにか!?町中のみんなが苦しんで、町中の医者たちが頑張っているってのにか!?」
 後ろで気まずそうにしていたライを振り返り、フィラは激高した。
 「無駄ですよ___」
 医院の隣のアパート入り口の階段に、古ぼけた服を纏い、やつれた顔の女が座っていた。髪に白いものが広がり、酷く老いて見える。
 「私も三日前から毎日ここに来ています___」
 彼女はその胸に布でくるんだ幼子を抱いていた。
 「ここだけが頼みの綱だったんです___」
 彼女が幼子を傾けると、フィラとライにも一切の血色を失い黒ずんだ死に顔が見えた。
 「三日前、ここまでやってきてドアを叩いているときに死にました。それから毎日来ています___」
 見せしめか?いや、そんな深い理由はないのだろう。我が子を失った悲しみに、我をも失っているのだ。フィラは徐に彼女に近づいていった。
 「あなたは___移民?」
近づくと、彼女が決して年老いてはいないと分かった。
 「ええ北方の島から___ケルベロスの支援で生きながらえていたような島でしたから、レサが崩壊してからはすっかり忘れられた島になってしまい___希望を求めてこのクーザーへとやってきて、夫も子供も失いました___」
 「旦那様はどうして?」
 「夫は___いい仕事を見つけた___輸送船の乗組員だ___といって家を出ていき、そのまま帰ってきませんでした。」
 フィラは絶句した。
 「麻薬の話はご存じですよね?夫は騙されて麻薬の輸送船に乗り込み、仕事を終えて___」
 それ以上、彼女は語ることができなかった。殺されたということだろう。
 「奥さん___こんなこと言っても軽口に聞こえるかも知れないけど___あなたはまだ生きているんだから、絶対に絶望しちゃ駄目だ。」
 フィラは彼女の肩に手を触れ、言い聞かせるように話した。
 「クーザーに潜む悪は___あたしが必ず叩きつぶす。」
 彼女は少しだけ顔を上げ、フィラの熱い眼差しに勇気づけられた。フィラは彼女の息子に祈りを捧げ、踵を返した。
 「ライ!構わない!扉を破れ!」
 「えっ!?」
 「いいから破れ!」
 半ばやけくそになってライはドアに体当たりする。二度もぶつかると、錠前が壊れた。

 「___まさか、こんなことになっていたとはな。」
 医院に踏み込んだ二人は慄然と立ちつくしていた。診察室に向かうのとは別の扉の先にあった医師の私室、そこで初老の医師が倒れていた。口には乾いた血がこびり付き、胸をかきむしるようにして仰向けに倒れていた。
 「心臓病___?」
 「そうみたいだ。」
 部屋には死臭が漂っている。医師にさらに近づこうとしたライの腕をフィラが掴んだ。
 「例の病気と関係あるかもしれない、死体には近づかない方がいい。」
 フィラは己の胸に手を添えて短い祈りを捧げ、早々に部屋を出た。ライが追いかけたときには診察室に入り込んでいく後ろ姿が見えた。
 「ゼルナス?」
 診察室、彼女は構わずにカルテだろうか、資料の類を棚から引っ張り出していた。
 「あたしは医者の嫁、あんたは医者の旦那。大切な人の助けになるための捜し物をするんだよ。」
 彼女の言葉にピンと来たライは、「よしっ」と息巻いて資料を棚から引っ張り出した。

 「たぶん___」
 フィラとライが持ち帰った資料にフローラは唸った。
 「分かっている中ではこれが最初の感染者ね。」
 移民街に最も近い初老の開業医は、娼婦が連れてきた子供のカルテを作っていなかった。しかし、クーザーにこの病が蔓延するに連れ、彼もあの子供のことを思い出したのである。それは彼自身の葛藤は日記の中に記されていた。
 医師としてはテンペスト医院に情報を伝えるべきである。しかし患者の身なりが汚く麻薬常習者だったから、まともな診察をせず、カルテさえ作らなかったことが明るみに出てしまう。
 「この医者は胸をかきむしるようにして死んでいたんだよ。」
 ライの言葉を聞き、フローラはその手を顎に添える。
 「心臓___うん、体の水分が失われると血が濃くなるから心臓に掛かる負担が大きくなる。心臓が元々丈夫じゃない人なら、この病気をきっかけに心臓病に陥ることもあり得るでしょうね。」
 「でもこれでこの病気は移民街から始まったことが証明された。議会の判断は正しかったんだ。」
 フィラは気丈に言い放つが、その表情は複雑だった。自分が推進した移民の受け入れが全ての引き金だったと認めているのだから。
 (まてよ___そういえばシェンバーフィールドも心臓病で___)
 不意な閃きにフィラはハッとした。彼女の中で、無数の点から一つの線が生まれる。
 「この病気___たとえば原因が食べ物の中に混ざって、それを食べた人に移っていくってことはあるか?」
 「あり得るわ。」
 背筋に寒気が走った。彼女が思い描いた線が確かなら、病気の原因は広く世界にまで蔓延しているかも知れない。
 (チョコレート王のヤン・シェンバーフィールドは移民街の娼館に出入りしていた。そしてあの男は確か心臓病で死んだはずだ___)
 血の気の引く思いだ。シェンバーフィールド・チョコレートはクーザーの名産品である。その会社の社長が例の病気に感染していたかもしれない。
 「あれ?そう言えばテディは。」
 「テイラーさんのところに行ってるわ。何か重要なことが分かったみたいで、新聞屋の子供を使って呼びに来させたくらいだからよっぽどじゃないかしら。」
 ジョン・テイラーはシェンバーフィールドの主治医で、テディと懇意の医師だ。
 「ライ、あたしたちもテイラーのところへ行こう!」
 「えっ?あ、ちょっと!」
 フィラはライの手を引き、駆け足で医院を飛び出していった。

 テディの友人であるジョン・テイラーはシェンバーフィールドの邸宅からそう遠くない場所に一軒家を構えている。クーザーでいえば高級な住宅が並ぶ地区で、その中ではかなり小さな家だが、こういった地域にいたことでシェンバーフィールドとの出会いにもつながった。
 「もしもだよ、もしもこの病気の原因が唾とかでも感染するとしたら、シェンバーフィールド・チョコレートはとんでもなく危険だということになる。」
 「そうか___そのチョコを食べた人が病気に掛かる!」
 テイラー宅を目指す二人は声を潜めながら、しかし時に興奮した様子で語り合っていた。
 「本当はそんなこと無いといいんだ___シェンバーフィールドのチョコはクーザーには欠かせない名産品だから。でもきっとテイラーは、シェンバーフィールドの死因があの病気だって気づいたから慌ててテディを呼んだんだと思う。見えた、あれだ。」
 広大な敷地の邸宅が並ぶその狭間に、二階建てのログハウスがある。医師ジョン・テイラーと書かれた看板が風に揺れていた。
 「テイラーさん。」
 ノックをして亭主の友人の名を呼んでみる。だがログハウスからは人の声はおろか、まるで物音が聞こえない。
 「留守みたいだね。」
 「入れ違いになったかな___?」
 期待はずれの結果にゼルナスは口を尖らせて鼻を鳴らした。
 「テイラーさん、テディも、いないの?」
 もう一度ノックをして呼びかけてみる。さすがに諦めたフィラだが、最後の足掻きでドアノブに手を掛けて引いてみる。
 「開いた___」
 全く軽い手応えで、扉は開いた。フィラはライと顔を見合わせ、中へ。
 「テイラーさん?」
 夕方になって家の中は薄暗い。しかし火の一つも入れている様子はなかった。一階の部屋を覗き見るが人影はなく、しかし人のいた痕跡はある。
 「もう冷えてるな___」
 キッチン。コーヒーが少しだけ残ったカップは冷え切っていた。朝のものかも知れない。
 「上じゃないの?」
 階段を上り始めたライを、フィラは少し小走りになって追いかける。その先、ライは正面の部屋の扉を開けた。
 「人___?」
 カーテンが閉じられた部屋はほとんど真っ暗だった。しかし朧気に見えたのは人影と___
 「血の臭い___?」
 ライの横から顔を覗かせたフィラは、慣れ親しんだその人影を見て震えた。
 「テディ!?」
 フィラはライを突き飛ばす勢いで部屋に駆け込み、壁際に座り込む人影へと走り寄った。
 「テディ、どうしたの!?」
 両足を投げ出し、壁に体を寄せて俯く男。フィラは彼の肩に触れ、硬直した。手に滑った感触があったのだ。
 ライが勢いよくカーテンを引くと、西向きの窓から日が差し込んだ。
 「ひっ!」
 フィラの引きつった声にライは耳を疑った。あのゼルナスでも、こんな怯えた声を出すのかと。
 「いやああああっ!」
 彼女の悲鳴の意味はすぐに分かった。テディが寄りかかる壁には、血の筋が描かれていた。彼の瞼は閉じられ、フィラの叫びにもその指先さえ動かさない。
 「ゼルナス!」
 その時、彼女は我を忘れていた。茫然自失とするフィラの背後では、天井から飛び降りてきた黒づくめの男の刃をライが腕で食い止めていた。
 「ゼルナス!!」
 その時、天井からもう一人の男が刃を煌めかせ、彼女に向かって飛び降りてきた。ライは刃を握る男を殴り飛ばし、フィラの名を叫ぶ。それは彼女の目に輝きを取り戻させた。海賊のキャプテン・ゼルナスであった頃の感覚をも引き連れて。
 ドガッ!
 倒立するように伸び上がったゼルナスの足は、しなやかに男の胸を蹴飛ばした。バランスを崩しながらも着地した男にライが掴みかかる。あとは歴戦の拳が一撃で男を気絶させた。
 再び静けさを取り戻した部屋。ライが男二人を縛り上げたとき、フィラはテディに縋り付き、啜り泣いていた。ライの前で声を上げて泣かない、弱いところを見せようとしないその姿は、昔と何も変わっていなかった。

 別の部屋にはテイラーの遺体があった。そして捕らえた男二人の自白から全てが明るみに出る。ゲルヴァトの密輸組織、そこにシェンバーフィールドが一役を買っていた。テディはシェンバーフィールドの死因と例の病気の関係に興味を持ち、それについて探りを入れていた。ただそれはシェンバーフィールドと移民街のつながりをはじめとした、幾重もの暗闇のヴェールを引きはがす行為である。
 だからテイラーは命を狙われた。彼がシェンバーフィールドの移民街における振る舞いに感づき、新聞屋の少年を呼びつけたその時が終焉だった。黒ずくめの男たちは彼を監視しており、新聞売りを走らせたのは文屋と接触を取るためと考えた。だから行動に出るしかなかった。しかし実際に呼ばれたのはテディであり、彼もまた悲劇を見る。
 「ギルバート・ホーン!密輸幇助の罪で逮捕する!」
 大物の議員とその関係議員数名が逮捕された。邸宅に自警団の捜索が入り、移民街でもその日のうちに白竜自警団が奔走した。全ての指揮を執ったのはフィラ・ミゲル。彼女は気丈に、クーザー城で裁きの鉄槌を振るい続けた。クーザーを愛している人々を悲しませないため、親愛なるテディ・パレスタインの死を公表せずに。
 加速した物事は止まるところをしらない。テンペスト医院ではテディの発想をフローラが結実させていた。
 「重大なことが分かったわ。」
 「なに?」
 町の喧噪がフィラの悲しみの声にでも聞こえたか、医院の屋上で悲しげな顔をしていたライのところへフローラがやってきた。
 「この病気の原因はナメクジよ。」
 「な、ナメクジ?」
 驚いたライは素っ頓狂な声を上げて問い返した
 「ゲルヴァトの原生地を巡った旅行記で見つけたわ、ヴィルヴァントと呼ばれる透明なナメクジ。」
 「透明!?」
 「実際には完全な透明じゃないの。でも保護色で全身の色を変えることもできるから、探してもそう簡単には見つからない。体は酸性を帯びていて、酸には極端に強い。ただその成分が人の体液にあまりに似ているから、探しても見つからなかった。」
 フローラが話すナメクジの生態は異様だった。普通は小指の先ほどでしかないそいつは、水分と栄養を併せ持つものの中で生きる。密林のヴァットゥバではスコールを頼りに繁栄し、一週間も雨が無くなると大半が干からびて死んでいく珍妙な生き物だ。
 このナメクジが生きるのに最も適した環境が動物の体内。限りない水分と、食べ尽くせないほどの栄養がある。では彼らはどうやって動物の体内に潜り込むのか?実は、植物にその身を埋めるのである。草葉につかみ所のない体を押し込み、その水分を吸いながら動物に食われるのを待つのである。
 「それでお腹の中に入って暴れ出すのか___」
 屋上にあったブロックに腰掛けていたライは立ち上がり、彼女に座るように促す。しかしフローラは微笑んで首を横に振った。
 「直接食べなくても、その葉っぱに触ったことで動物なら毛にヴィルヴァントがついたのを知らないで毛繕いしたり、人なら手に付いたのを知らずにそのまま食事を取ったりすることで寄生されるわ。それから、ナメクジには雄雌がないから、栄養が豊富なら一匹でも子供が出来るのよ。」
 ライは表情豊かにギョッとする。
 「それで___どうすればいいの?」
 「お腹の中にいるヴィルヴァントを退治する方法はいま探しているところよ。予防法はとにかく石鹸で手を洗うこと、物は三日くらい天日に晒すか熱湯で消毒すれば大丈夫。ナメクジだけど塩はきかないわ。」
 「へぇ___」
 ライは感心して頷いた。
 「テディさんのおかげよ、彼のヒントが解明の決め手になった。」
 「そっか___」
 ゼルナスのことを思うと素直に喜ぶことは出来ない。短い時間では合ったが、テディと一緒にいるときの彼女は、サザビーといるときとは違った輝きを放っていた。本当に穏やかな、幸せそうな微笑みを見せていた。
 「それじゃあ、あたしは戻るね。」
 「働き通しじゃないの?少し休みなよ。」 
 笑顔で手を振ったフローラに、ライが心配そうな声を掛ける。フィラにあんな出来事があったばかりだから、余計に心配の虫に擽られた。
 「下ではコリンズさんもみんなも頑張っているの。少しでも早くクーザーの人たちを安心させるために、いま頑張らなくちゃいけないのよ。」
 「___」
 フローラはニコリと微笑んで、ライに近寄るとその手を取ってお腹に触れさせた。
 「大丈夫、あなたの子供と妻なのよ?」
 「絶対に無理だけはしないで___」
 「ええ。ヴィルヴァントはキスでも伝染するけど___大丈夫かな?」
 「あったり前だろっ。」
 二人は微笑み会い、口づけを交わした。
 ___ゲルヴァトに付着してクーザーに運ばれたヴィルヴァント。それを扱うことによって、手に付着したヴィルヴァントを口に取り込む。憎いナメクジがゲルヴァトの窟で繁栄したのも間違いない。不潔な生活をしていた移民たちの間でヴィルヴァントは蔓延し、売春婦に至ってはゲルヴァトを使うことで自ら感染するだけでなく、客と性行を交わすことでそれを一気に拡大させる。悪の循環がそこにはあった。
 数日後、密輸船を現行犯で押さえられ、言い訳さえ出来なくなった議員もまた、女を買っていたがためにヴィルヴァントに感染していることを吐露した。罪が覆されないと悟ると、彼は泣いて救いを請うたという。
 さらに数日を経て、チョコレートが腹中のヴィルヴァント駆除に効果的であることが、フローラらの研究によって判明した。一方でヤン・シェンバーフィールドの死因は心筋梗塞、チョコレートの食べ過ぎによる脂肪過多が大きな原因になったとほぼ断定されたのであった。




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