3 死に逝く町並み

 「ふむ、どうかね?」
 その男、ヤン・シェンバーフィールドはチョコレート王と言われている。シェンバーフィールド・チョコレートといえば今やクーザーの名産品だ。気候上カカオの栽培ができないクーザーでは、チョコは子供のおやつにできるほど安いものではない。それを独自の原料輸送ルートを確立し、製造工場はクーザーに持つことで安価を実現したのがシェンバーフィールドだった。
 「むふ。」
 チョコレートの味見ばかりしているせいか、ヤンはすっかり肥満体。その体を包む最高級の生地で仕立てたスーツはもちろん特注品だ。禿げ上がった頭皮はチョコの脂肪のせいか、いつも油で光っていた。この日も自ら工場に赴いて、液状のチョコで満たされた鍋に手を入れて、味を確かめた。これは彼の日課である。
 「ふむ、味は良い。」
 チョコを嘗めた手でまた別の鍋に手を突っ込むのはうんざりだが、彼の指示によって出来上がったチョコレートの味はまた格別なのである。
 「むむ___」
 工場を見回っている最中、ヤンはかすかな息苦しさを覚え、足を止めた。
 「どうかされましたか?」
 彼の秘書である男が尋ねる。
 「いや、このところ少し体調がすぐれんのだ。先生に見てもらおうとは思っとるが。」
 ヤンの年齢はまだ五十過ぎ。確かに重度の肥満ではあるが、そう老け込む年ではない。
 「テイラー先生は明日からカルラーンにお出かけになります。よろしければテンペスト医院に予約を入れておきましょうか。」
 「テンペスト医院!?だめだあんな大っぴらなところは!かのチョコレート王があんな大病院に行ったと知れてみろ、文屋が黙ってはおらんっ!」
 心配した秘書の提案を不意にして、文屋嫌いのヤンは鼻息を荒くした。それから再び、甘い香り漂う工場内を少し早足で歩き始めた、その途端である。
 「うっ___ぅぅぅっ!」
 ヤンは突然左胸を押さえ、膝からその場に崩れ落ちたのだ。
 「社長!」
 秘書があわてて駆け寄る。そのときすでにヤンの瞳孔は開き、苦しそうに舌をつきだして呼吸を止めていた。
 「誰か!誰かテイラー先生を呼べ!」
 突然のことに作業員たちも手を止める。工場内は喧噪に包まれた。

 クーザー場内にある会議場。そこには長方形にテーブルがくまれ、その外側を取り囲むように五十人を超える正装した男女が座っていた。これは週に一度開かれるクーザーの議会である。
 上座に当たる場所だけテーブルがほかよりも荘重な作りで、フィラはそこにいた。議会の間、彼女の表情は緊張で常に凛々しく、男装の麗人のようにさえ見える。
 「都市長はそれほどにクーザーを悪漢の巣窟としたいのですか!?」
 議会はこのところ、紛糾するのが常だ。議題となるのは移民問題。この日も活発で知られる若い議員が、唾を飛ばしながら都市長フィラ・ミゲルに訴えていた。
 「彼らは決死の覚悟で海原を超えてくる。受け入れられないと言って突き放せば海の藻屑になるだけだ。」
 だがフィラは都市長席で静かに立ち上がると、いつものように落ち着いて反論した。彼女は当初から一貫して移民を容認している。はじめのうちはこの話題で討議が滞ることなどなかったのだが、最近では移民受け入れ反対派が急増してきた。その原因がゲルヴァトである。
 「実際に屑ではありませんか!奴らがゲルヴァトという悪魔を引きずり込んできたのですよ!?」
 この悪魔の薬は移民街を飛び出し、クーザー全域に静かにではあるが根を広げている。ミゲル家はクーザーの象徴であったから人々はフィラを愛し、指示している。でも、移民の受け入れについては市民からも批判の声が寄せられていた。
 「ゲルヴァトのことは私も憂慮しているし、取り締まりを強めたいとは思っている。ただだからといって全ての移民を否定するべきではない。受け入れの際に、念入りに彼らの身元と船舶、所持品をチェックすればいい。それには自警団の協力が必要だ。」
 この言葉を何度言ったことだろう。聞き飽きたというように、ほかの議員たちからヤジが飛んでいた。町の治安を守る白竜自警団だが、元々古くから法王のお膝元で不可侵が約束された国家だけに、国民の防衛意識が低い。自警団のなり手が少なく、そこまでフォローできないのが実情だった。
 「港には移民の受け入れで私腹を肥やしている者もいます。移民を格安の労働力として使う者もいれば、売春宿で暗躍している者もいます。クーザーにとって何一つ良いことはございません。」
 移民がクーザーの人々の心まで腐らせる。この女性議員の決めぜりふはいつもそれだった。
 「___」
 反対する理由は次から次に噴出するのに、移民たちの養護を後押しするような出来事が起こらない。言い訳というのは語弊があるが、フィラはなぜ移民を受け入れるのか?という問いに、革新的な答えを出せないでいた。
 それは行き詰まりである。
 「___次の議会までに移民の町を視察する。現状をこの目で確かめてきたい。」
 多数決では移民反対派が勝利する。だが議案の決定権は都市長にあった。フィラは過酷な海原を超えてまで救いを求めてきた人々の希望と、都市が廃墟と化すことへの恐怖で板挟みになっていた。
 「それは、平等な立場でということでしょうか?」
 「もちろんだ。この目で見て、移民など受け入れるに値しないと思えば、考えを改める。議会や市民の意見を無視し続けるわけにもいかないから。」
 この彼女の決断で、その日の議会はスムーズに次の議案へと移っていった。その最中である、フィラの元に城の者が忍び寄り、何かを耳打ちした。
 「静粛に、今重大な情報が入った。ヤン・シェンバーフィールド氏が亡くなられた。主治医によると、死因は心臓発作だ。」
 議会場がざわめく。議員たちは隣り合う者と、噂話のようにクーザー有数の富豪の最近出会った印象などを口にした。
 「まず氏への哀悼を捧げ、我々はクーザー商業界の動向を注視したい。」
 議会を終えたフィラは私室に戻るなりチョーカーを取り、正装の第一ボタンをはずす。
 「お疲れさまでした。」
 「ああ。」
 確かに疲れた。肉体的なものよりも、常に張りつめていなければならない精神的な疲労だった。しかも、思わぬ訃報のおかげで今日はいつにも増して体が重くなった。
 (シェンバーフィールドには跡継ぎがいない。とんだ火種にならなきゃいいけど___)
 悩みはつきない。第一ボタンを外したのは身も心も息苦しかったからだった。
 「___」
 フィラは少しだけ開いた胸元から、肌身離さず掛けているロケットを引っ張り出して握りしめた。

 「生憎だったね。」
 「確かに心臓発作なんだがそれまでも検診は続けていた。まぁ肥満体だから汗疹持ちではあったけど、動悸や息切れがするわけでもなかった。秘書が言うには亡くなる直前にこのところ調子が悪いとこぼしていたらしいが___」
 テンペスト医院にすでに独立した二人の医師がやってきていた。一人はいまやミゲル姓を名乗ることになったテディ、もう一人はヤンの主治医であるジョン・テイラーだ。二人は医院の一階奥にある研究室で語らっていた。
 「解剖できないのかい?跡継ぎはいないんだろう?」
 「それができればわざわざここに来ないよ。心臓病の症例についてアドバイスを受けに来たんだ。といってもおまえとしか話せなさそうだけど。」
 ジョンもまたテディと同じく若い医師である。ただテディに比べれば体ががっしりとして、顔も日に焼けているし少し汗かき。どっしりしているように見えて口調が早口なので、どこかせわしない印象を与える男だった。
 「それにしてもこのところ忙しそうだな。」
 研究室の隣には医師たちの休憩室があるが、昼時も静かなままだった。いつもなら、昼の休憩時には食事をとる医師たちで少しは賑やかになるものだが。
 「君は忙しくないのかい?」
 テディは立ち上がると、部屋の端に据え付けられている釜から木箱を取り出した。釜からは蒸気が立ち上り、箱は所々炭のように黒くなっていた。
 「俺は決まった相手の検診専門だからね。あ〜、だからって何も知らない訳じゃないぜ。いま風邪が流行ってるらしいな。しかもかなりたちの悪い奴だ。何か調べてるのか?」
 箱の中身が気になるのか、ジョンは丸椅子に座りながら首を伸ばした。
 「ゲルヴァトの成分。」
 「!」
 驚いて身じろぎしたジョンの椅子が倒れそうになり、彼はあわてて体勢を立て直した。
 「おまえゲルヴァト焼いてるのか!?」
 「早とちりしないように。確かに今僕が取りかかっている研究はゲルヴァトの成分だけど、あんなもの焼いたら大変さ。これは___」
 テディが蓋を開けると研究室内に甘い香りが広がった。
 「焼きプリン〜。」
 「げ〜。」
 ジョンは脱力して椅子から滑り落ちそうになった。
 「妻の好物なんだ。あの滅菌装置で作ると良いのができるんだよ。」
 「おまえは実験装置で作ったプリンを元王妃に食わせてる訳か___」
 机にしがみついて元の姿勢に戻ったジョンは、蔑むような目でテディを見た。
 「ああ見えて結構豪快なんだよ。僕よりよほど気にしてなかった。」
 「あ〜そうかい。」
 ___
 「あのさ。」
 「むん?」
 なんだかんだでジョンは一つもらった焼きプリンを食べていた。試薬を取るためのスプーンをくわえて返事をする。
 「さっきのあれだけど、風邪のこと。どう思う?」
 テディはルーペで大きな葉っぱの切断面をのぞき見ていた。緑色の太い茎の左右に均等に艶々した葉っぱが並ぶ、これがゲルヴァトだ。
 「ああ、少したちが悪いよな。なかなか治らないみたいだ。喉だろ?あれ。」
 「腹だよ。」
 「いや、喉じゃなかったか?」
 「両方かも知れないね。」
 「___普通はそうか。」
 テンペスト医院がこれだけ忙しいのは、風邪で訪れる患者が増えたから。その症状は、喉痛、熱、腹痛、嘔吐などだった。いずれも風邪を思わせる症例だ。ただ治りの遅さが目立っているようで、一度診察を受けた患者がもう一度やってくるケースも多かった。

 フィラとテディが二人だけの時を過ごすのは、もっぱら広々とした寝室である。ここには大きなベッドだけでなく、ソファやテーブル、書棚に、大きなものではないがワインセラーもあった。
 「たちの悪い風邪?」
 「そうなんだ、今町で流行っているみたいで。」
 ソファに深く腰掛けて、テディの焼きプリンを口にするとホッと心が和む。ただ話がクーザー社会のことに及ぶとフィラの顔つきには凛々しさが舞い戻った。
 「テンペスト医院も外来の患者でごった返していたよ。」
 嗜む程度にグラスのワインを口にして、テディは晴れやかとは言えない顔で話した。
 「新しい病気かな___?」
 プリンのスプーンを止め、フィラは覇気のない声で尋ねた。
 「かもしれない。」
 「___」
 「どうしたの?元気ないよ。」
 俯いてしまった彼女を気遣い、テディは隣に腰掛けてその手に触れた。フィラは掌を返して、彼の手をグッと握った。
 「きっと移民を受け入れてきたのが原因だ___」
 「そんな___思い詰めるのは良くないよ。君が正しいと思ってやった事じゃないか。」
 フィラは俯いたまま首を横に振る。髪が彼女の横顔まで隠していた。
 「ゲルヴァトだってあたしが持ち込んだようなもんだ___母様やそれ以前の女王たちが守ってきた町をあたしは汚している。」
 議会のあった日は彼女の気分の落ち込みが強いことをテディは知っていた。もちろんそんなことを彼女に話すと余計に気にしてしまうから言えっこない。男勝りというほど荒っぽくはないけど、芯の強い気だてのはっきりしたフィラが、今日は特に落ち込んで見えた。
 「新しいことに挑戦するときは全てがうまくいくなんてあり得ないよ。医者だってそうさ、全ての命を救いたくてもそれはできない。」
 「それは分かるけど___」
 国家の枠組みが消え、旧国家の頭首がそのまま都市を納めているのはいまやクーザーだけとなった。そしてクーザーの町を取り仕切る議員たちは旧態依然とした者たちが多い。それはクーザーが法王のお膝元で、歴史的に他の国家とは一線を画して誉れ高き存在だったからだろう。クーザーの人々は国家の枠組みが消えても、クーザー国民であることに誇りを持ち、外交には閉鎖的なのだ。
 移民の受け入れには、その体質の改めという狙いもあった。
 「君は自分の信念を曲げずに戦える?僕はできるかぎり君の助けになりたいし、夫婦なんだから辛いことがあったらどんどんぶつけて、吐き出してね。」
 思えばこういう優しさに引きつけられたのだ。彼の言葉には下心など無く、そして言葉だけで止まろうとしない。辛いときに頼りになるだけじゃなくて、楽しいときには一緒に笑いあえる。テディは素敵なほど心穏やかにしてくれる人だった。そして、いつの間にか側にいて欲しい人になっていた。
 「ありがとう、テディ。」
 「風邪のことは僕が調べて、何か分かったら伝える。警報を出すとかそこまでの事態にはならないと思うけど、議会にかけてもいい話題だと思うよ。」
 「ええ、そうするわ。」
 フィラはようやく笑顔を取り戻し、テディと短い口づけを交わした。

 翌日、フィラは早速移民の町を見て回った。護衛が一人付いたが、仰々しい視察ではなく、昔を思い出させる男装をして町の実体を見回ることにした。
 (確かに___まるでクーザーではないみたいだ。)
 この辺りは古めかしいアパートが並び、クーザーの中でも独特の活気を呈していた居住区だった。ところが一つのアパートを移民用に提供してからは、後から後へと移民たちがこの地区に集まるようになり、やがて元いた人々は町の別地区へと引っ越した。
 そしてスラムが出来上がったわけだ。今ではこの地区には汚い身なりの男がのさばり、女たちは胸の大きく空いた服をだらしなく着て、体で金をせびろうとする。子供たちは少しでも身なりのいい人たちを見つけると駆け寄ってきた。
 (この町じゃ___人は廃れる。彼らの雇い手がないのも問題か___)
 スラムの一角に、いやに濁った蒸気を吐き出すアパートがあった。
 「フィラ様。」
 そちらに向かおうとしたフィラの腕を取り、護衛が止めた。
 「あそこはゲルヴァトの窟です。行ってはなりません。」
 「___あそこで薬を吸わせているのか?」
 「はい。」
 遠目に窟の様子をうかがっていると、近くのアパートの壁に寄りかかっていた男がゆっくりと近づいてきてた。
 「うちは秘密厳守がモットーだ。これで好きなだけ休んでいける。」
 その坊主頭の大男はドスの利いた声で、フィラに三本指を見せた。
 「初めてここに来たんだ。良くルールが分からない。」
 「中にはベッドがある。そこで好きなだけ夢を見れる。たったの300プライムだ。」
 「高いな。」
 坊主頭は口笛を吹き、片方の頬だけ引きつらせて笑った。
 「あれが簡単に手に入らないことくらい知ってるだろ?その気があったからここに来たんだろうが。」
 男は小柄なフィラの肩に手を乗せて、彼女の背を押そうとする。護衛の緊張が高まったが、フィラは彼を一瞥して静止を促した。
 「なら女はどうだい?いい娘が揃ってる。」
 丁度男が指さしたアパートの入り口から、どう見てもこの町には場違いな男が出てきた。
 「あれは___」
 「おっと、こいつはとんだ事故だ。俺は秘密を守る主義なんだぜ。」
 坊主頭は片手で自分の目を隠して見せる。出てきた男は議会で見たことがある顔だった。彼は側に待たせていた馬車に乗り込み、何も気づかずにフィラたちの横を通り過ぎていった。
 (ああいうのが助長させているわけか。)
 考えてみれば当然だ。移民たちは元々貧しい。貧しい者たちが世を忘れるためにゲルヴァトを使おうが、情事に明け暮れようがそれはそれでしかない。そこに金を与え、薬や女を欲しがる者たちがいること、それが問題なのだ。
 「悪いが今日はやめておこう。」
 フィラは坊主頭に素っ気ない返事をした。
 「おいおい、ここまで来てその仕打ちか?他の所に行くくらいなら俺の所だ。間違いないって!」
 彼はフィラの肩に手を回したまま、顔を覗き込むようにして訴えかけた。フィラの意識を上に向け、逆の手はそっと彼女の懐へ。
 「そこまで。」
 だが坊主頭の手はフィラのしなやかな手に止められる。
 グンッ!
 「ぐあたたっ!」
 フィラの手は素早く男の手の甲から巻き込むように親指を捉え、力強くひねられた。大男でも関係ない。簡単な護身術だった。
 「今までどれくらいの富豪がおまえの商売に金を払った?答え次第では懐の物はくれてやる。」
 「___わからねえ、数え切れねえよ。」
 「個人名を少しだけでも聞かせて欲しいな。」
 「___シェンバーフィールド、死んだから言うがあれは買春の常連だった。」
 秘密厳守がよく言う。フィラは坊主頭の手を離すと、彼は慌てて彼女から離れ、手首を擦った。
 「そら、約束通り懐のものだ。」
 フィラは坊主頭に懐に忍ばせていた高級煙草を渡した。彼は複雑な顔をしていたが、悪い気はしなかったようで「どうも」と礼を口にした。
 それからもフィラは移民の町を一通り見て回った。同じ移民の町でも少し場所を外れると、まじめに工場労働に精を出す一家なども見られ、光と影を十分に知ることができた。
 フィラが充実した一日を送る一方で、テディが研究室を利用しているテンペスト医院では立て続けに不幸な出来事が舞い込んでいた。
 「残念ながら___」
 その日、医師は何度この言葉を口にしただろう。危篤状態の急患が五人も運び込まれ、その全てが亡くなった。彼らはそのほとんどがつい最近風邪で喉を痛め、通院してきた人たちばかりだった。死因は呼吸不全。咳はしないのだが、まるで呼吸が枯れたように弱々しく、やがて停止する。
 もう一つ、重篤な下痢を訴える患者が急激に増えた。中には鮮血を伴うものもいた。医師たちは便を採取して内容を調べたが水分が多いだけで異常はない。寄生虫を疑ったがその痕跡もなかった。血便を排泄後、激しい腹痛を訴えて運び込まれてきた男性の開腹手術も行われた。しかし腸に腫瘍はなく、ただ大量の血餅があり粘膜は酷く荒れていた。
 これが喉風邪で死亡した人々と何か関係があるのかは分からない。ただ、テンペスト医院には緊迫した空気が漂っていた。
 「風邪の診療にも慎重を期すべきだ。症状が軽くとも、関連が疑われる患者には採血を行う。再診も考えるべきだ。」
 ドタバタした一日がようやく終わりを告げようかという頃、テンペスト医院では全ての医師が総出で緊急会議を行っていた。若くして厳格な院長、アーサー・コリンズの重低音が緊迫を助長する中、テディもそこに加わっていた。
 「ゲルヴァトの研究は少し据え置いて、この疾病の研究をしましょうか?」
 「頼みます。できる限りのサンプル___亡くなられた人々もできるだけ解剖に処せるように努力しましょう。」
 齢三十半ばを過ぎたコリンズは、テディが修業をしていた頃からすでに一線級の医師として活躍しているテンペスト医院の屋台骨であり、独立することなく生涯をこの医院と共にしようと考えている殊勝な男だ。当然人望も厚い。
 「みんな、疲れもあるだろうが頑張ってほしい。楽観視だけはするな。この病気は未だ原因がはっきりせず、症状も一貫性に欠けている。感染経路もわからない。我々が感染拡大に荷担することなどないよう、各人診察の都度、手や器具の消毒を怠るな。」
 翌日、テンペスト医院からクーザーのまっとうな開業医に書類が送られた。それは、この謎めいた病気への警戒と、情報の提供を要求するものだった。
 このとき人々の間ではまだ深刻な噂にはなっていなかった。だが、日々少しずつ死者が出始めると徐々に事態はあわただしくなっていった。
 そして五日もすると、謎の死を遂げた人々は五十人に達し、噂が広まり始めた。緊急に議会が開かれ、フィラは移民の町の見聞録よりも夫テディから送られてくる研究情報を読み上げることに終始していた。
 「原因は未だに分からず。解剖を行っても、腹内に決定的な異常はなし。脱水症状から腎機能が低下しているのが共通の症例。いずれの部位からも寄生虫は検出されず。医師に症例の発症者がいないことから空気感染はないものと思われる。」 
 目立った進展はない。人民には不安が広がりはじめ、移民が新しい病気を持ち込んだとの声も俄に聞こえだす始末。喉痛、下痢などに苦しむ移民が心ない人たちに暴行を受け、殺害されるケースまで出てきた。
 やむなくフィラが出国禁止令を出したのはそれから数日後のこと。クーザーから世界各地に病気を輸出するわけにはいかないからだった。そして、アーサー・コリンズはある人物に救いを求め、一通の手紙を窘めていた。
 「クーザーは今混迷を極めています。謎の疾病は音もなく忍びより、人々は静かに、少しずつ確実に蝕まれています。死亡例、また感染が疑われる患者のカルテの写しを一部お送りいたします。お知恵を貸していただきたい。ミスティ・リジェート(フローラ・ハイラルド)様へ。」




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