2 見過ごされた前兆
さて、舞台はがらりと変わり、時も幾分遡る。
金城で死闘が繰り広げられようとしていた頃、中庸界でも世界を揺るがす騒動が巻き起ころうとしていた。騒動の発端はクーザーにあった。時節は丁度、百鬼親子がライとフローラの家を経て、カルラーン西岸の港町ポーリースからゴルガに向かう船に乗る頃である。
「新聞!新聞はいかが!?」
港町には情報が溢れている。百鬼も最新版の新聞を手に、先に船に乗り込んだ子供たちを追いかけた。
「キャッキャッ。」
汽笛を鳴らして旅客船が動き始めるといつものようにリュカがはしゃぎ出す。客の多くは港を離れるまで、見送りに来ている友や家族にデッキで手を振っており、誰も迎えに来てはいないがリュカはそれを真似るのが好きだった。ルディーは彼の隣に立っているものの、身動きせずに遠くを見ている。船酔いしやすいという弱点を持つ彼女は、なるべく遠くの景色を見るのが良いと聞いて、外にいる間はいつもこうしていた。
親父は何をしているかというと、二人が見える辺りの椅子に腰掛けて新聞を開くのだ。
「___」
気になる一面は何だろう?子供たちを一瞥してから百鬼は新聞を広げた。
「なになに___フィラ・ミゲル都市長結婚、か。」
見出しを何気なく呟いてから内容に目を通そうとした百鬼は、眉間に皺を寄せてピタリと止まった。
「なに?フィラ・ミゲル?」
どちらかと言えばもう一つの名前で定着しているので、百鬼が叫ぶまでの間合いはかなり長かった。
「ゼルナスがぁっ!?」
新聞を覗き込みながら叫ぶ百鬼に、デッキにいた乗客の視線が集まる。
「お父ぅむっ。」
キョトンとして後ろを振り返り、父に呼びかけようとしたリュカの口をルディーが塞いだ。
「他人のふりよ。」
父の奇行のせいか、船酔いが始まったのか、ルディーは冴えない顔で言った。見栄や格好付けが気になる年頃のようだ。
その日、港湾都市クーザーは朝から晩までお祭り騒ぎ。仕事を休んで祝杯を上げるのは当たり前。その酒を只で振る舞う店主や、何を血迷ったか裸で町を闊歩する酔っぱらいまで現れる、何でもありの一日だった。
「フィラ・ミゲル万歳!!」
「クーザーに栄光あれ!!」
「ちくしょ〜!旦那がうらやましいぃ!」
と言うのも、クーザー都市長フィラ・ミゲルと、テディ・パレスタインの結婚式が行われたからである。シルクのウェディングドレスに身を包んだ我らの元女王陛下が、愛しき男性と腕を組み、大聖堂から城まで赤い絨毯が敷かれた一本道を歩く。昼はその姿を見ようと多くの人が通りに詰めかけ、夜は夜でどんちゃん騒ぎだ。
国家の枠組みが排除されてからクーザーでは海港の開放に拍車が掛かった。それとともに良からぬ薬物が持ち込まれ、静かに都市が蝕まれていることも話題となっている。二人の結婚式はそんな暗い空気を吹き飛ばすにはもってこいの祝典だった。
「ふぅ___」
町の騒ぎが聞こえるほど城の衣装室が開放的なわけはないが、日付が変わろうという頃でもお祭り騒ぎが続いているという話は聞いていた。
「は〜、さすがに疲れたね。」
メイドの手を借りてウェディングドレスときついコルセットから逃れ、ようやくシャツとズボンの楽な格好に戻ることができたフィラは、両肩を回してから大きく息を付く。首のあたりでまとめ上げていた麗しい黒髪を解くと、波打った髪は背を隠すように広がった。
「ご苦労様でした、フィラ様。」
「おまえたちも今日は遅くまでご苦労様。休暇が欲しかったらいつでも言いなさい。」
メイドたちの労いの言葉にフィラは笑顔で応えるが、さすがに疲れが隠せない。化粧が滲んでいることもあって、若々しいはずの肌が少しくすんで見える。
「まあ、ありがとうございます。」
メイドたちが手を合わせて喜んでいると、部屋にノックの音。
「どうぞ。」
フィラの声を聞くとすぐにドアが開き、ブロンドの好青年が入ってきた。お酒のためか頬はかなり赤くなっているが色白で、鳶色の瞳にはっきりとした二重と、貫禄をつけるために伸ばし始めたささやかな顎髭が特徴。細面で体もどちらかといえば華奢な部類だ。
「フィラ、お疲れさま。」
「テディ。」
彼を見るとフィラは破顔して、何を言うでもなく柔らかく抱き合って軽いキスを交わす。
「大変だっただろ?普段あんな窮屈な格好しないから。」
「本当、体中が痛くなりそう。」
フィラの笑顔は作り笑いでもなんでもない。彼女は誰かの押しつけや、都市長という立場のしがらみで彼と結婚したわけではなく、本当に一人の男として愛したから心を決めた。
「それにしても今日は驚いたよ。君がどれだけクーザーの人たちに愛されているのか良く分かった。」
「これからはあなたも同じになるんだよ?」
「どうかな、嫉妬されて町を歩けないかも。」
はにかむようにテディが言うと、フィラも白い歯を覗かせて笑った。いつの間にか、メイドたちは二人を残して衣装室から消えていた。
「僕はこれからミゲル家の人間になるんだなぁ、感慨深いよ。」
「でもパレスタインの名前を捨てることないわ。あなたはご両親や兄弟の誇りを大事にし続けた方がいい。」
「ああ、それは分かっている。」
フィラを和ませる彼の笑みはとても柔らかだ。それでもテディの視線にはこれからの人生に前向きな、心の強さを感じさせる。彼の血族、パレスタイン家は著名だが悲劇的な末路を辿っていた。
ゴルガ西部、ジャムニに栄えた名家であるパレスタイン家は、音楽で富を築いた芸術の家系だ。テディの父ジョナサン・パレスタインは有名なピアノ奏者であり作曲家だった。妻のリンダは声楽家である。長男であるテディも音楽家への道を嘱望されたが、彼が目指したのは医者の道だった。そのため父と毎日のように喧嘩をし、ついに彼は勘当されてしまった。
「懐かしいなぁ、あのころはまさか僕がクーザーのお姫様と結婚するなんて夢にも思わなかった。」
その後テディはゴルガの町医者の元に転がり込み、無償ながら三食寝床つきで彼の助手を務めた。ポポトルとの戦争が本格化すると家族への心配が募ったが、一家が永世中立を名乗っていたローザブルグへ居を移したと聞いて胸をなで下ろしたものだった。
しかしその安心も一瞬。
まずはゴルガがポポトル軍の「紫の牙」の活躍により、壊滅的な戦禍を被る。テディも医師として戦い続けたが、多くの難民とともにクーザーに渡った。
「クーザーに来て本当に良かったよ。ここに来なければ僕が君と出会うことはなかったんだ。」
それからローザブルグがドルゲルドの襲撃で滅び、一家も町と運命を共にした。それを聞いたときは、この世の終わりを見た気がしたものだった。その場にいて、何らかの助けになれなかったことがあまりにも悔しかった。
その後、悲しみを乗り越えたテディはテンペスト医院に籍を置き、世界最高の医師アーロン・リー・テンペストの指導を受けて大成する。
二人が出会ったのは去年のこと。「あのとき」世話になったテンペスト医院をフィラがお忍びで訪れたとき、すでに独立して開業していたテディがたまたま新薬研究の手伝いに来ていた。
「私もテディと出会えて良かった。辛いときも、あなたが居てくれたから元気になれたって思ってる。」
「二人で幸せな家庭を作ろう。」
体を寄せたまま語らっていた二人はまた、さっきよりも強く抱きしめ合い、少し長めの口づけを交わした。
「それじゃあ、後で。」
「うん。」
先にテディが部屋を出て、フィラだけになると衣装室は静まりかえった。フィラの首には銀のロケットが掛かっていた。彼女はそれを手にとって蓋を開くとそこにはテディの写真が。
「___」
だが、笑顔のテディに強く指を押し当てて動かすと、ゆっくりと二重蓋が開く。
「あたしは___フィラ・ミゲルはテディを愛している。それは確かだよ。」
二つ目の蓋の下ではあいつが笑っていた。
「でも、テディはゼルナスを知らないんだ。」
別に当てつけだとかそんなことは全くない。今でもサザビー・シルバのことは大好きだ。でも彼はいつも一緒にいられる人ではないし、クーザーに閉じこめるのが彼にとっていいことだとも思わない。
フィラは早い内からサザビーにだけは、テディと結婚しようと思っていることを伝えていた。彼は相変わらずあっけらかんとしていたのでそれはそれで腹が立ったものだが。
でも___
「しばらくおまえからは距離をおくよ。その方がおまえにも、旦那のためにもいい。おまえはクーザーの人たちにいつも見られてるんだからな。」
と、言い残して彼が去っていった時には、なぜだか涙がこぼれた。彼とはいつでも会えるはずなのに、今生の別れのような喪失感があったのだ。
そして実際に、それきりサザビーとは音信不通になった。
「たまには会いたいし、テディのことも紹介したいのに___あんたいったいどこ行っちゃったのさ?」
サザビーの写真に向かって話すと口調も少し変わる。フィラ・ミゲルではない、海賊の女ボス「ゼルナス」は今でもサザビーのことを誰よりも愛おしく思っていた。
若いカップルの新婚生活はクーザーの人々の注目を集めた。特に後継ぎへの期待の声は毎日のように人々の世間話で聞かれたものである。そんな喜びの絶頂の中で騒動の現況はクーザーに広がりはじめていた。
「先生、うちの子がひどい熱を出して___!」
若い母親が幼い我が子を抱きかかえ、初老の医師の医院へと駆け込んできた。母親はあまり身なりがいい方ではなかった。
「ふぅむ___流感ですな。」
医師は幼児の喉を覗き込み、額に手を当てる。
「薬は使いますかな?」
「いいえ、お金は使えません。」
あれほど必死に駆け込んできたにしては、金に話題が及ぶとその母親は急に険しい顔になって首を横に振った。目の下にうっすらと青い隈が走っているが、顔の造形は悪くない。痩せ形で、その子供はもっと痩せていた。
(自分の薬のために使う金はあるのにか?)
ゲルヴァトという草の「麻薬」が暗躍していることはクーザーに住む人なら大体が知っている。常習者は青胆のような隈が出るのですぐわかる。この女もそうだ。医師は胸中で侮蔑の言葉を吐き出した。
「もっと食べさせて、栄養をとらせることですな。」
「それは無理だよ!この子に腹一杯食べさせるなんて。」
馬鹿げている。麻薬のせいなのか、感情の変動が激しい。この幼児の幸福な未来は想像できそうにもなかった。下手に慈悲を与えてまた転がり込まれてはそれこそことだ。麻薬常習者に関わってはろくなことがない。
「なら水を与えて暖かくしてやりなさい。汗をいっぱいかけば熱は引く。」
だから初老の医師は、顔色を変えずに事務的な応対に終始した。一方は追い出すように、一方は食い逃げでもするように、医師と患者は離ればなれになる。
「ひゅぅ___ひゅぅ___」
幼児は息苦しそうに喉を鳴らして、母親の胸の中で遠くを見ていた。
その子供が「最初」なのかどうかはわからない。確かなのは、いろいろな負の要素が重なって医師は見逃し、災いの現況が滅殺されなかったことだ。
母親が薬におぼれた女だったこと。
医師が不潔な体をしていた幼児になるべく手を触れまいとしていたこと。
「やれやれ、このあたりにもおかしな奴らが増えてきたものだわい。」
医師であるにもかかわらず、彼はこの患者を拒否した。だから、幼児が腹を下していることにも気づかなかった。
「暖かくして水を飲ませろだなんて、そこら辺のババアだって知ってることじゃないか!医者だったら簡単に治せっていうんだ!」
クーザーの一角は、各地から寄り集まってきた貧しい移民たちの巣になっている。あの医院はこの近辺でただ一軒のまともな医院。ほかには___いわゆる精神的な高揚のもとに全て快楽で塗りつぶす薬を与えてくれる藪医者たちしかいない。
「アマルダ!」
廃れた町並みには柄の悪い男たちがそこかしこで座り込んだりしている。そのうちの一人が彼女を見つけて呼び止めた。坊主頭で、額に大きな傷跡があった。
「いいところにいた!これから仕事だ!」
振り返った女は目をつり上げて顔を真っ赤にした。
「何言ってんのさ!今日は休みだっていっただろ!?それとも何かい?ジョシーの流感を治してくれるってのかい!?」
「いいから来い、薬がいらねえのか?」
「___ジョシーの面倒は見てよ!」
「ああ分かってるって。」
アマルダと呼ばれた女は我が子を坊主頭に託し、彼が指さすアパートへと向かった。入り口のあたりには、身なりのいい男が使うであろう整髪剤の臭いがプンプンと漂っていた。
一週間後、ジョシーが死んだ。
ただ、クーザーの汚点と見なされる一角で死人がでても誰も悲しみはしないし、関心を寄せることもなかった。都市長フィラもまた、結婚後のあわただしい公務の中でそこまで目を向けるゆとりを失っていた。
「定期船なんてあると思うか?火山がまだ燻ってるところだぜ?あんなところ誰もいかねえもの。」
シィットにたどり着いた百鬼はポポトル行きの船を探して尋ね歩いていた。
「でもまだ誰かしら人は住んでるんだろ?」
「しらねえよ。でも溶岩まみれの土らしいからきっと食べ物が作れねえ。だから誰も住んでねえと思うぜ。」
「ふぅん。」
百鬼は船乗りに礼を言って踵を返し、船から魚を降ろしている漁師たちの仕事ぶりをおもしろそうに見ている子供たちの元へ戻っていった。
「お〜い。」
「あ、どうだった?」
船酔いから解放されて少し上機嫌なルディーが笑顔で問いかけた。
「やっぱり船で行くのは無理みたいだ。遠いしな。」
「よかった!」
「じゃあどうするの?」
飛び跳ねて喜ぶルディーと残念そうなリュカが対照的。
「母さんの故郷だからなぁ、おまえたちも行ってみたいだろ?」
「うん。」
返事をしたのはリュカだったが、頷いただけのルディーの方が目つきは真剣だった。
「なら馬車だ。」
「えぇっ!?」
「どうやって馬車で行くの?」
「へへ、まあ俺に付いてこいって。」
百鬼はにっこりと笑って二人の頭を撫でた。
そして___
「ラッキーでしたね、所長がたまたまこちらに来ていて。」
「いや、本当についてた!」
百鬼はしてやったりの様子で笑う。彼の目の前にはガラス張りの景色が広がり、そこに見えるのは空だった。今、百鬼一家は小型飛空船の中である。
「すごいなぁ!」
一度ベルグランに乗せたことはあったが、貸し切り状態で空の旅を楽しむのはリュカもルディーも初めてのこと。酔いやすいルディーもリュカと一緒になって眼下の景色に夢中になっていた。
「それにしても珍しいですよ。あの所長があっさり許可するなんて。」
百鬼が訪れたのはジャンルカ・パガニンが所長を務める科学技術研究所のゴルガ支所。思えば死んだと思われていたソアラと再会した地、バドゥルに向かったときも、こうしてジャンルカに頼み込んで飛行船を貸してもらったものだった。
「まあマブダチって奴よ。」
偉大なる発明家一族の子ジャンルカ・パガニンは、ケルベロスの研究所本部にいることが多いがたまたまゴルガに来ていた幸運ぶり。ちなみに彼はサザビーとは親友でも、百鬼とはそれほど親しくない。ただ天の邪鬼なジャンルカは渋るどころか二つ返事で貸し出してくれた。しかもパイロット付き。予想以上の成果に百鬼も得意げだった。
「で、どこまで行くんでしたっけ。肝心の所を聞いてませんでした。」
「おう、ポポトルまでよろしく。」
「はっ!?ポポトルっ!?」
パイロット役の研究員が顔をしかめた。
「どした?うぉっ!?」
百鬼が問いかけるや否や、飛空船は大きく旋回した。
「戻ります!」
「何で?」
「あんな絶海の孤島まで行ったら何日かかると思ってんだ!?俺一人でずっと操縦してろって言うのかよ!食料だって積んでねえんだぞ!?」
「あ〜、なるほどね。」
どうやらとんだ見切り発車だったようである。
ジョシーの死から四日が経った。
「おい、アマルダ。」
坊主頭がアマルダを住まわせているアパートへとやってきていた。アマルダがジョシーの死にショックを受けていたので、確かに三日間は休みを取らせたが今日も彼女は現れない。坊主頭は怒りを沸々と蓄えていた。
「アマルダ!いるんだろ!?」
乱暴にボロドアをたたく。木が軋み、今にも蝶番がはずれそうだった。
「アミーなら今日は出てきてないと思うわ___」
隣のドアが開き、ボサボサ頭の女が眠そうな目をして言った。
「もう、せっかくの休みなんだからあんたの声なんて聞かさないでよ。」
彼女も坊主頭のところで働いている女だった。すぐに首を引っ込め、ドアが閉ざされる。
「っち。」
坊主頭は紐でベルトに結びつけてある曲がりくねった針金を手に取った。それを鍵穴に差し込んで軽く捻ると、さえないドアの鍵は簡単に開いた。
「うっ___」
ドアを開けるなり、坊主頭は顔をしかめた。異様な臭気が立ちこめている。脳みそを揺さぶるような、刺激の強い臭い。坊主頭は服の裾で口と鼻を押さえ、暗い部屋の奥に走り込むとすぐさま窓を開けた。クーザーらしい強い海風が吹き込み、臭気を中和していく。
「気がおかしくなるかと思ったぜ___」
男はこの臭気が何であるか知っていたから、すぐに窓を開けた。アマルダに渡していたのは乾燥させたゲルヴァト草。それをそのまま火にくべるとこんな臭いになる。ただ濃度が普通じゃなかった。
「とち狂いやがったか、アマルダ。」
女は全裸でテーブルに突っ伏していた。そこには上蓋の開いたランプがあり、中には焦げたゲルヴァトの残骸が山のように積もって炎を包み消していた。これだけの量を燃したのなら___
ゴロン。
坊主頭がアマルダに手を触れると、彼女の体はバランスを失ってごろりと床に転がった。その死に顔といったら___悪魔のような画家に地獄の風景を書かせたら、こんな顔がいくつも並ぶだろう。それほど引きつり、目をむき、舌をつきだし、醜い死に顔だった。
「ん?」
アマルダの股間に大量の血がこびりついている。血は足先までべっとりと滴り、時に黒っぽい滓が混じっているようだった。月経か?いや、ゲルヴァトの常習者でもそれがきっかけでとち狂った女は見たことがない。
「なんなんだ___」
血は床にもこぼれ落ちている。時に黒い固まりを交えて。坊主頭は冷や汗をぬぐい、血の跡をたどった。
「うっ!」
股間がきゅっと引き締まった。これまでも女たちを薬漬けにしてきた坊主頭は、発作のようにして死んだ女を何度も見てきた。だがさすがの彼も身を凍り付かせた。
「糞か___こりゃ?」
たどり着いたのは便所だった。そして便器には、アマルダのであろう便が残っていた。だが便器の中に無ければそれが便だとは思えないほど、赤黒い。
「血便___ってやつか___」
生物の腐乱臭のような匂いが残っている。坊主頭は吐きそうになり、たまらず部屋を飛び出した。
「ちょっとぉ、うるさいって言ってんのよ!」
隣の女が廊下に顔を出して文句を言ったが、坊主頭は階段を転げ落ちるようにして走り去っていった後だった。
アマルダは血便にショックを受け、絶望してありったけのゲルヴァトを炊き込み、死に至った。本来ならば、自殺など事件性のある死に対しては白竜自警団の調査が行われる。ただ彼女の死はもみ消された。
坊主頭が町の権力者とつきあいがあったこと。
クーザーでは薬も売春も御法度だったこと。
全てが隠蔽へと傾く要素だった。
そして、またも現況は明らかにされなかったのである。十日のうちに、熱に魘された子供が息絶え、その母が大量の下血をしたというのに。
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