1 全てを飲み込むもの

 「冥府」とはどのような世界だろうか?
 冥府はアヌビスやダ・ギュールの故郷であり、邪神の歴史もこの世界に築かれる。光の神の居場所である天界と対になるように思われるが、天界は中庸界、地界を含めた三元世界の一つである。つまり冥府は、天界と同等の距離を中庸界、地界にも持っている。これは黄泉にも通じるところがあるのだが、黄泉との距離に比べれば遙かに近い距離感だと思っていただきたい。
 冥府に巣くう者たちは、破壊のサガを持つ者たち。彼らの原点は無であり、しかもそこに創造という言葉はない。冥府とは無の世界であり、本来、そこに草木鮮やかな大地などは存在しない。最初に生まれたのは邪神だ。彼らは元は実体を持たない存在。アヌビスも、生後にあの体を一生の塒として選んだから、黒犬なのである。
 最初の邪神は冥府という無に生まれた霧に過ぎなかった。彼は野心に満ちあふれ、手を伸ばせば届きそうなところに、華やかな光に溢れた有の世界があることを知った。霧である邪神は無の中でも生きられる。しかし、有であった方がより自身の安定、さらに同志の繁栄が早まると考えた。
 しかし古き邪神は創造という手段を知らなかった。彼は己に秘められた悪しき欲望を力に変え、やがて冥府は光の世界に近づいた。
 そして世界の端を飲んだのだ。
 光の世界からいくらかの陸地と、獣と、人が飲まれた。それらは冥府の陸となり、魔獣となり、魔族となる。冥府には創造ではなく「略奪」で世界が築かれていった。それがこの世界の気質を表している。
 これが昔の冥府だ。
 今の邪神であるアヌビスは創造を知っている。いや彼に限らず、邪神が我が子を残すという事柄を知った時点から、創造の歴史は始まっている。だから冥府が新たなる略奪のために動く必要はなくなった。
 つい先達てまでは___
 アヌビスが、冥府そのものを「究極の武器」として使おうなどという突飛な発想をするまでは___

 「邪神の根城か___」
 左目を飾るような仮面を付けた黒麒麟。彼女は荘重な神殿を歩いていた。黒石の床と、禍々しい鬼神が彫刻された壁は、緑の灯火を浴びて生きたように凹凸を揺らす。光の世界に暮らす女ならば震え上がろうかという恐ろしげな廊下も、黒麒麟にとっては可愛いものかもしれない。
 (まさか私が冥府を歩くことになるとは思わなかった。まして、その心臓部に導かれるとは___憎らしいことをする。アヌビスは私の正体を知っていながら、己の世界の核をさらした。奴め、信頼を見せつけたつもりか?)
 黒麒麟を筆頭とした新八柱神は冥府に導かれた。といっても暗黒の略奪地、冥府の広き世界を眺めることは許されず、この神殿へと押し止められた。黒麒麟以外の面々は広い部屋にまとめて入れられて「待て」としか説明されない状況で、竜樹あたりはかなり苛立っている。
 一方で黒麒麟は監視の一人も付けられることなく、ダ・ギュールの指示に従って神殿の最深部へと歩みを進めていた。長い廊下を進むと、やがて中央が下へと吹き抜けになった螺旋階段に辿り着く。長い階段を下りきった先、つまり底の床には六角の魔法陣が描かれていた。そこに魔力を感じた黒麒麟は陣の中央へ立つ。
 フッ___
 瞬時に彼女は消え、次の瞬間には別の場所へと立っていた。足下には同じ魔法陣、しかし体には移動した一瞬だけ浮遊感と、血の巡りの異変があった。
 (天地が逆転したか?ここはさっきの魔法陣の裏だな?)
 黒麒麟は冥府の構造さえ知っている深い知識の持ち主だ。体に感じた違和感に、彼女は迷わず答えを出した。
 (この黒タイルは引石か。)
 冥府の構造は奇異である。
 まず、冥府の外貌は巨大な黒い球である。しかしそれは冥府の外側を覆う、一種のバリアーのようなものだ。その黒いオーラこそが、全てを食らう冥府の口。冥府は食事のための口を外に向かって全周囲に持っているのだ。
 黒い球の内側は空洞になっている。そして、口から食した異世界の大地は、この空洞内に再構成される。その際に、陸地は冥府のオーラの一端をもらい受け、引石(いんせき)を作り出す。引石は強い引力を持ち、生き物はその面に対して垂直に立つ。
 冥府はその内側にいくつもの小さな大地を持つ。広大な空に無数の島が浮遊する天界に近いものがあるが、冥府の違いは、その島のあらゆる面に対して垂直に立てることだろう。
 建造物の中に引石を、たとえば床と天井に用いれば、天井も一方では床となる奇怪な建物が出来上がるのだ。長くなったが黒麒麟はいま引石で床が逆さになった状態となった。
 (あの先が最奥だな___強烈な力を感じる。)
 黒麒麟が肌を撫でる力に一度とはいえ生唾を飲んだ。それほどそこに集積された力___察するに魔力だが、その波動は凄まじかった。
 「ようこそ、闇の女神様。」
 行く先がポゥと明るくなった。廊下を照らす緑の炎は、黒麒麟から奥に向かって橙へとグラデーションしていく。一番奥は広い部屋になっているようで、光に照らされて揺らぐ人影が黒麒麟の目にも見えた。
 「お待ちしておりました。お出迎えに上がりたいのですが、あいにく私はここを動けません。どうぞこちらにいらしていただけますか?」
 魔の手の者とは思えないほど、棘を感じさせない柔らかな声と口調。呼ばれるままに前へと進んだ黒麒麟は、部屋に入る少し前に中の女性を見ることができた。
 「レイノラ様にお会いできるとは光栄です。」
 彼女は実に柔和に微笑みかける。ただ彼女自身と、その目前の橙色の球体から放たれる力は並はずれたものがあった。
 そこは不思議な部屋で、部屋の中央には橙に光り輝く球体があり、それは四方八方の壁や天井から伸びる黒い火柱のようなもので支えられていた。部屋には他にこの柔和な女がいるだけ。
 「その名で呼ばれまいとする仮面だ。黒麒麟と呼んでもらいたい。」
 「これは失礼を致しました。私はテイシャールと申します。」
 女は首だけで振り返り、ささやかな会釈をする。気持ちでは深々とお辞儀したいのだろうがどうやらそうもいかないらしい。彼女は六角の魔法陣の上に立ち、その足の膝下まで黒い紐のようなものが絡みついていた。両手は臍の前あたりで付かず離れずの位置に置き、その狭間では小さな火花が散っていた。
 「この橙に魔力を送り込んでいるようだな。それもかなり莫大な。」
 「さすがに良く分かってらっしゃいますね。」
 テイシャールは橙へと向き直った。
 「これは冥府の核です。」
 「核?」
 「すなわち中心部ですよ。ここは冥府の核の神殿です。本来は黒ですが、今は私の魔力を受けてこんな色になっています。」
 確かにこの橙の核は強い暗黒の波動を放っている。だがそれ以上に、全てを埋め尽くさんばかりのテイシャールの魔力の凄まじさと言ったらなかった。彼女は会話の間も魔力を核に送り続けており、その移動が黒麒麟には流動するマグマのように感じられていた。
 「いつからこうしている。」
 「5年くらい前でしょうか?」
 テイシャールは平然と言ってのけた。良く見ると彼女の首には黒い管が伸び、その先端は首に刺さっているようにも見えた。それが今、少し膨らんでドクンと脈打った。
 「それは食事か?」
 「そうです。肉体に活力を蘇らせ、魔力を補填する秘薬が注射されます。これならお腹は空っぽなので排泄をしません。」
 まるで道具だ。黒麒麟は彼女の扱いを嫌悪したと同時に、スマートなアヌビスにしてはらしくないと感じた。
 「早速なんですが、冥府はもう今すぐにでも、蓄えられた魔力で動き出すことができます。目標は天界です。」
 「そうだろうな。いや、振り向くのも辛いだろう、前を向いて喋ってくれればいい。」
 「ありがとうございます。」
 体は動かせないにしろ、首だけは捻って黒麒麟の目を見て語ろうとしたテイシャール。しかし首の管が撓っていて痛々しかった。黒麒麟の優しい言葉にテイシャールはポッと頬を赤らめて微笑み、前を向いた。
 「天界の端から浸食を始めます。しかし全てを食するのには日数が掛かりますし、何より竜神帝の抵抗にあうのは目に見えています。」
 「それで私たちの出番か。」
 「そうです。多くの者は、冥府に飲み込まれたと同時に激しい体力の消耗に襲われ、死に至るでしょう。しかし優れた生命力を持つ者は、体力を維持して冥府にやってくる可能性があるのです。まして、竜神帝は冥府に飲み込まれたところで息絶えることは決してありません。」
 「同感だな。」
 「冥府はこの核によって均衡を保たれている世界。竜神帝もそれを知っている可能性は大いにあります。だからきっと天界に現れた冥府を止めるために、自らが立つか優れた戦士を冥府に侵入させ、この核を破壊しに来るでしょう。」
 なるほどそれは大いにあり得ることだ。黒麒麟も知見には長けているが、如何せん長らく黄泉で時を過ごした身。アヌビスとの交戦を経た竜神帝が彼の故郷たる冥府に目を向けるのは当然である。
「黒麒麟様には八柱神やこの冥府にいる魔族、モンスターを指揮し、冥府の進行を妨げようとする竜神帝と天族を討っていただきたいのです。」
 「なるほど。」
 これから公然と竜神帝に立ち向かう。その事実だけで、秘められた積年の想いが沸々と滾り始めているのを感じ、黒麒麟は自嘲した。
 「お引き受けいただけますか?」
 「無論だ、そのためにここに来た。ただ一つ聞かせてほしい。」
 「なんなりと。」
 テイシャールはにっこりと微笑んで頷いた。
 「君はアヌビスの何か?肩書きじゃない、君自身の気持ちを聞かせてほしい。」
 「私は___アヌビス様のために尽くす女です。」
 微笑みながらはっきりとそう言いきれるのだから大した物だ。黒麒麟は彼女の深い愛情をひしと感じた。
 「あの方に喜んでいただけるなら、私は何でもします。」
 「愛しているの?」
 「愛しています。でもそんなのは烏滸がましいことです。私は、アヌビス様に喜んでいただいて、自己満足すれば十分なんです。」
 「随分と謙虚なのね。私は___あなたみたいに悟ることはできない。」
 黒麒麟が急に言葉を崩し、仮面を外した。テイシャールは驚き、両手の狭間から溢れる魔力が少し乱れた。
 「あなたがアヌビスのために尽くすというのなら、私はあなたのために働きましょう。あなたの献身を無としないために。」
 「そんな___勿体ないお言葉です。」
 褒められて動揺しているあたり、随所に謙虚さが滲んでいた。それでいてアヌビスへの愛を語る時は堂々としているのだから、実に純真な娘だ。魔族にもこんな人材がいたかと黒麒麟は素直に感心していた。

 「だーっ!いつまでこんな所に押し込めておくつもりなんだよ!?」
 竜樹は苛ついた様子で頭を掻き、地団駄を踏んだ。
 「少しは落ち着け。」
 「だってさぁ!」
 強い奴と戦えると聞いてやってきてみれば、こんな牢屋のような暗くて狭い部屋にいけ好かない妖魔たちと押し込められたのだ。竜樹が苛つく気持ちは分からないでもないが、冬美は彼女にもう少し大人になって欲しいと感じた。
 「おい嬢ちゃん、仮面の別嬪さんが戻ってくるまで待てねえのか?」
 一人で苛々している竜樹を見て、薄笑いしながら迅が言った。しかし「嬢ちゃん」がタブーであることを彼は知らない。
 「てめえ今なんて言った?」
 竜樹の動きがピタリと止まった。迅は彼女の斜め後ろあたりで多々羅と隣り合って座っていたが、竜樹は首だけでそちらを振り返り、座った目つきでそう言った。
 「あん?」
 迅がにやけて問い返すと、竜樹はゆらりと向き直る。
 「ちょっと、あんまりからかうんじゃないよ。あの子は女扱いしたら怒り出すって聞いてただろ?」
 「だから遊んでやってるんじゃねえか。退屈してるんだぜ、あいつは。」
 竜樹の体から殺気が湧き出ているのを感じたか、多々羅は迅の隣で少し心配そうに囁いた。しかし迅は意に介さない。
 「おいどうしたんだ?お・嬢・ちゃ・ん。」
 次の瞬間、竜樹は龍風を抜き放っていた。
 「うげっ!」
 しかし何かに足を取られて前のめりに転倒し、床に顔をぶつけた。
 「大概にしておけ。」
 竜樹の両足に白く光り輝く紐が巻き付いていた。紐を辿れば壁際に腰を下ろしていた冬美の元へと辿り着いた。
 「そちら様も無闇にけしかけないでほしい。ご覧の通り彼女は生まれながらの暴れ馬でね。」
 「誰が暴れ馬だっ!」
 竜樹は腕立てするように体を起こし、冬美を睨み付けて歯を剥いた。
 「暴れ猿だったかな?」
 「きぃぃっ!」
 冬美に対しては暴走を止めてもらった恩がある。だから滅多なことをする気はなかったが、彼女の冗談で幻夢や頭知坊が吹き出したのは気に入らなかった。
 「いや、すまなかったな。無邪気だから可愛がってみたくなったんだ。美人の姉さんに免じて謝ろう。」
 迅は軽薄に笑い、多々羅は彼を横目で睨んだ。この後は決まって迅が多々羅をからかい、いつの間にかじゃれ合っていたりする。どうやらこれが二人の愛情確認らしい。
 「竜樹、大人しく座れ。」
 「うるせえな、俺に指図するな。」
 鋭敏な刃が魔力の紐を断ち、竜樹は龍風を収めるとその場にどっかりと胡座をかいた。黒麒麟が戻ってきたのはちょうどその時だ。
 「さあ、入れ。」
 彼女は部屋の戸を開けて、先に一人の青年を招き入れた。
 青年は褐色の肌をして、決して大柄ではないが袖のない服から覗く腕には洗練された筋肉が盛り上がっていた。精悍だが、若干タレ目で穏やかさも垣間見せる。口は大きく、鼻はすらりと高く、全体的に凹凸がはっきりとした彫りの深い顔立ちだった。
 「アヌビスが追加の人員を送ってくれた。名は輪廻(りんね)だ。」
 「よろしくお願いします。」
 背丈も黒麒麟より少し小さい輪廻は、丁寧な口調で深々とお辞儀した。
 「追加って事は八人になったわけだな。」
 アヌビスが八人に拘っていると聞いていたからか、頭知坊が嬉しそうに手を叩いた。
 「急にいい人材が見つかったのか?おい兄ちゃん、おまえの能力はなんだ?」
 迅がからかい半分の口調、本気半分の視線で問いかけた。牙丸として黄泉の優秀な戦士を吟味していたというアヌビスが、やけにあっさり追加の人材を送り込んできたのが気になっているのだ。アヌビスを唸らせるだけの能力を持つからこそ、ここに来たのは間違いない。
 「僕たちはみんなお互いの能力を知らない。彼だけに詰問するのは仁義に反するよ。」
 輪廻は戸惑っている風ではなかったが、答えなかった彼を庇うかのように幻夢が言った。
 「そんな俺たちが一堂に会しているというのも変な気分だがな。」
 「能力は妖魔にとって命に等しい秘密だ。元々おまえたちに共同戦線は期待していないから明かす必要はない。」
 黒麒麟は簡単に言い切り、さしもの迅も呆れた顔で口を噤んだ。そもそも迅にしてみれば、この仮面の淑女が自分よりも格上と評価されていることが納得いかない。ただ、それに拘るほど根暗な気性でもなかった。
 そういった気性も見抜いてアヌビスは人選したのだろうか?だとすれば彼は初めから黒麒麟をこの戦いのリーダーにすると決めていた___と言えるかもしれない。
 (邪推か。)
 冬美は一つ目を閉じ、無用な詮索を恩師に悟られないよう心を静めた。
 「黒麒麟、いつになったらここを出れるんだよ。俺は闘うためにこっちに来たんだぞ。」
 一方で竜樹は沸々と滾る血液を抑えきれない様子で飛び上がる。
 「すぐに出番が来る。今は、愛を糧に生きる魔術師の偉業を待て。」
 「?」
 彼女の言葉の意味が分からなかった竜樹は、大きく首を傾げると尻餅を付くようにして腰を下ろした。

 やがて時は来たる。
 頭知坊は居眠りを始め、多々羅と迅は肩を寄せ合って時折言葉を交わし、幻夢は石の床に静かに座する黒麒麟の姿を紙に描いていた。その黒麒麟は何も言わず、微動だにせず、ただ目を閉じ、竜樹はふて腐れた顔で背を曲げていた。
 冬美は___
 (巨大な魔力が広がっている___)
 指先に震えを覚え、自分の体の中で魔力が脈打っているのを感じた。魔力を知るものだから、他の者たちよりも早く察知できた。その時はそう考えた。
 (___)
 だが黒麒麟が仮面越しの左目でこちらを見たことに気づき、その目が存外に驚いていたようだったので、冬美は戸惑った。
 (何だろう?なぜ驚いておられるのか?)
 黒麒麟は小さく微笑み、冬美は長い瞬きをして目を逸らした。
 暫く時が経った。冬美は背筋が震えるのを抑えるのに一苦労していた。それほど莫大な魔力がこの建物全体に広がっていた。次に気づいたのは竜樹だった。
 「さっきから何か落ち着かない___いやな感じが蔓延っている。」
 彼女はそう言ってまた立ち上がり、龍風の鍔に親指を宛う。
 「確かにモヤモヤしたものはあるな。」
 迅も今度は彼女に同意した。
 「時が来たと言うことだ。これから我らがいるこの冥府は、戦場へと向かう。我らが不快に感じているのは、この世界を動かそうとする力だ。」
 「な、なんだって?」
 迅が首を傾げた。
 「この部屋から出ることのできないおまえたちには、ピンと来ないだろう。しかしこの世界は不動ではない。そしてアヌビスは己の大敵が治める世界へ、世界ごとぶつかる。」
 「確かにピンと来ませんが___壮大なことをしようというのは分かりますね。」
 幸い深く考え込まない連中が揃っている。幻夢の言葉に頭知坊も頷いていた。
 「無論、抵抗してくる者がいる。奴らは間違いなく、冥府を止めるためにこの世界への進入を目論むだろう。」
 「なるほど、読めてきたぞ。そこで俺たちの出番って訳だ!」
 相変わらずの先走りぶりだが、竜樹の言葉に間違いはなかった。
 「おまえたちはアヌビスの敵が治める世界、名を天界というが、冥府の進行に先んじて戦地へ赴き、抵抗するであろう翼を持った戦士たちを滅殺することだ。」
 新たなる八柱神は、その名こそ頂いてはいるがラングやジャルコといった先人たちとは大きく異なる。先人がアヌビスの側近であり、多くの魔族やモンスターを束ねる存在であったのに対し、彼らは傭兵に過ぎない。この冥府がどんな場所であるかも知らないし、魔族やモンスターとも関わりを持たない。
 彼らとて興味がないわけではない。むしろ竜樹や、黒麒麟を絵にしていた幻夢は好奇心旺盛な顔である。しかしそれ以上に、己の役割を弁えてこの場にいるのだ。アヌビスは彼らの力を、強さを買って引き入れた。彼らに闘い以上のことは求めていない。それが分かっていたから六人の妖魔と、一人の女と、一人の女神は誰も異を唱えたりはしないのだ。
 そして___
 「いざ___」
 神殿の奥底で、冥府の核を前にしたテイシャールの髪が逆立った。変身ではなく、己の体から放出される魔力の壮絶さで吹き上げられていた。
 「天界へ!」
 橙色の冥府の核を睨み付けるその先に、青空の世界は広がる。

 それは、天界にとって歴史的な夜だった。その日は「恵みの日」と呼ばれ、天界で最も光が長く差す日として知られている。実際のところは定かではないが、その日は光の神たる竜神帝の力が最も高まる時とされ、歴史的にも最も「勝利」の多い日として知られている。一年で最も短い夜、天族たちはパーティーを行う。それは昼間の勝利を称えた祝勝会が倣わしとして伝わったものだった。
 アヌビスは、テイシャールは、黒麒麟は、無論計ったわけではないだろう。
 しかし天界にとって最も悪鬼とは縁遠いこの日に、再び歴史の一ページが刻まれることとなった。
 「今日は素敵な夜ね___」
 天族の若い娘は、その長髪を涼やかな風に靡かせていた。テラスの小さな篝火が金髪を照らすとキラキラと光り、白い翼と相まって独特の美しさを醸す。天族は男も女も、顔の造形を抜きにした美しさがある。そしてその多くは髪と翼によるものである。
 「果ては神秘的だわ___とても美しい。」
 そこは天界の西の果て。オークロウスと言う名の小さな島が浮いている。オークロウスには有力者の別荘がいくつも建っていた。有力者の多くは大きな島に住んでおり、時に別荘地で休日を過ごす。恵みの日には活動拠点たる大きな島で、社交的なパーティーを催すのが一般的だ。
 「君の方が美しいよ。」
 ここに来ている二人、そのうちの男が有力な天族の息子だった。彼は愛する人を連れて、閑散としているであろうオークロウスへとやってきたのだ。二人だけであろう島で、愛の恵みを得るために。
 「ん___」
 二人はテラスで口づけを交わす。風は二人の髪を強く靡かせ、互いの金髪が混ざり合った。
 「?」
 口づけを祝福するには少し風が強い。唇が触れ合い、数秒のうちに強い風が二人に吹き付けた。しかもその風が少し妙だ。テラスから外側へと背を向ける男が、強い風を「背中」に感じていた。女の髪は男の肩を越して外側へと靡いていた。
 これは妙だ、別荘の中から突風が吹き付けているわけでもあるまい。風は男に吹き付けるのではなく、男を吸い込むようにして吹いていた。
 「な、なんだこの風は!?」
 「!あれは___!?」
 唇を離し、西の果てを見た二人は我が目を疑った。いつもの果ては何もない。永遠の空が広がるだけ。しかし果ての空、そこに黒い円が浮かんでいた。
 そしてその円に向かい、風が動いているのが二人の目にもはっきりと見えた。
 「なんだあれは!?」
 黒い円は徐々に大きくなっていく。それと共に、風は強さを増していった。
 「怖いわ___」
 風が強まる。翼が引き寄せられていくような気がした。
 「とにかく中へ入ろう!」
 二人は急いで別荘の中へ。外開きのガラス戸を目一杯の力を込めて閉じた。一瞬の安堵に胸を撫で下ろした二人だが、すぐにガラス戸がガタガタと揺れ始め、不安に駆られた。
 「あれは何なの?果てでは良くこんなことが起こるの?」
 「そんなことは___僕もあんなのを見たのは初めてで___」
 「そんな___」
 なぜこんな時にここへ呼びつけたのだ?女は身勝手な怒りを飲み込み、苛ついた様子で額に手を当てた。
 ビシッ!
 徐々にではある、しかし確実に黒い円は大きくなっていった。立て続けの振動で、ガラス戸の一つが罅入った。
 「!」
 「このままじゃいけない!ここを離れよう!」
 「でも!」
 外に出るのが怖い。女は困惑した。しかしガラスが音を立てて砕け、破片が全て円に向かって消えていく様を見たら、居ても立ってもいられなくなった。
 「行こう!」
 穴が一つ開くと部屋の大気が一気に動き出す。一つの穴に集まった力はすぐに戸の枠を壊し、別のガラスへと崩壊を広げていく。こうなっては室内も安心ではない。二人は互いに見つめ合って頷き、館の外へ___
 飛び出したその時、二人が思っていた以上に円が巨大になっていたため、振り返った瞬間に硬直してしまった。
 「あ、悪夢だ___これは!」
 西の果てから顔を覗かせた円は、もう別荘よりも大きくなっている。壮絶な景色に気を失いかけた彼女の肩を揺すり、男は有力者である父にこれを伝えなければならないとの使命感に駆られた。
 「くっ___」
 翼を広げると風の抵抗が強く掛かる。しかし飛ばねばならない。向かい風は飛行に悪い条件ではないはずだ。
 「頑張れ!」
 「ええ!」
 我を取り戻した女も必死に羽ばたいた。二人は互いに手を取りながら、円から逃れるために飛んだ。後ろでは、別荘の屋根板が少しずつ剥がれ始めていた。
 円はどんどん広がってはいるが決して速くない。離れるほどに風も弱まっていき、二人は少しずつ安堵を抱き始めていた。束の間の、円の中央から何かが飛び出し、あっという間に二人を追い越していくまでのささやかな安堵を。
 「え?」
 急に彼女の体から前へと進む力が失せ、腕を下に引っ張られたため男は狼狽した。
 「!!」
 彼女の両の翼が消えていた。翼は風に乗り、円へと吸い込まれていく。彼女の背中からは血が噴き出し、また帯となって円へと向かっていた。
 「助け___」
 哀願するように彼を見て、青くなった彼女は事切れた。よく見れば両足もなくなっていた。
 「弱い奴には興味がない。」
 「!?」
 恐怖と驚愕で、手から彼女が滑り落ちた。振り向いた先に、見たこともない服を着た青年が、見たこともない片刃の剣を握っていた。
 「女を殺せば逆上するかと思ったが、そうでもないみたいだな。」
 竜樹は冷徹に、しかし少しつまらなそうに言った。男は茫然自失とし、目の前に現れた得体の知れない青年を見ていた。よほど鍛錬された人物でもなければ、こう立て続けに予期せぬことが起きて自我を保てるはずなどない。彼は何もしないままに、その首を龍風に乗せていた。
 「ずいぶん浮ついたところだな、地面が少ない。」
 紙で龍風を一撫でし、鞘に収めると竜樹は広がる世界を眺めた。風は彼女の髪、袴を激しく撫でたが意に介さない。飛行が得意でない彼女が平然としていた。安心の種は足の下の石である。
 「前へ。」
 彼女がそう呟くと、足下の石が前へと動きだした。それは引石である。冥府名物、独自の引力を持つ石の上に竜樹は立っていた。しかしその石はいつも以上に黒光りしていて冥府の神殿にあったそれとは少し異なっていた。
 「すげえなぁ___あのおばちゃん、変わった能力持ってるぜ。」
 引石には黒麒麟の闇が練り込まれていた。そして竜樹はその片耳に、らしくもない黒真珠のイヤリングを付けていた。このイヤリングはいわば石のリモコン。これに指示を送れば、尽きることのない黒麒麟の闇の力で引石は飛ぶ。
 「さあ、仕事するか___!」
 竜樹の仕事、それは冥府の前に立ちはだかるであろう天族を始末すること。他の妖魔たちも同じ任務を受けてはいる。しかし広大な冥府全体をカバーするためには、それぞれが散らなければならない。竜樹は我が儘を言ってまず先陣を切り、巨大な球である冥府の周の、最も膨らんだ部分を担当することとなった。
 冥府は世界そのもので天界の浸食に掛かった。天族たちはこの事実を未だ知らない。気づいたのは、世界の有り様を知る一人の神だけ。
 「___大それたことをする。」
 ドラゴンズヘブンの玉座で、幼竜が唸った。
 まだ恵みの日を祝う饗宴の声が聞こえている。
 しかし竜神帝は明かりさえない玉座で、一人虚空を睨み付けていた。

 天界で全てを覆すほどの大事が起きた時、その引き金を握っていた男アヌビスは牙丸として黄泉を闊歩していた。実はこのとき、彼は念願適ってある男と出会う機会を得ることとなっていた。その男は大変に野心家で、アヌビスが黄泉の秘密を探るにあたり浮上してきた名である。
 その男「鴉烙」もまた、黄泉に秘められた謎を追究しているという。そして彼が求めるのは、不老不死をである___と。
 鴉烙と言う名前を知ってから、アヌビスが彼についての情報を集めるのは容易極まりなかった。彼の能力はオープンなほど効果的であり、己の存在そのもので黄泉全体を威圧する。そういった性質から、情報は至る所で繁茂していた。
 「俺と鴉烙の考えは合致させることができる。俺は鴉烙が漠然と求める不老不死の正体を知っており、鴉烙は俺の知らない不老不死の形を知っているに違いない。」
 不老不死、それは生命の活力に満ちあふれた言葉である。それは察するに、人に寄生する姑息な草が、大木のように伸び上がれるほどの力を秘めているのであろう。




前へ / 次へ