4 守りの執念
「ガルルルル___」
白狼が森を徘徊する。狼は獲物の姿を見つけてここへとやってきたが、いたはずの獲物は消えていた。小振りな白狼は毛に秘められた任務を遂行するために彷徨う。
「犬にしては、鼻が利かないようだ。」
その姿が行きすぎると、何の変哲もない木が喋った。
「急ごうぜ。」
互いの姿を見失わないために、塗装は落とす。仙山が前に、方向感覚にはあまり自信がない耶雲が後へと続いた。
「この!」
襲いかかる白髪の獣たちを蹴散らし、前へと進むソアラ。立ちはだかった白いイノシシを退けると、束となって抜け落ちた毛がフワリと舞い上がったため足を止めた。
「これは___!」
白髪の行く先は木の上。そこには白湯仙を思わせるほど長い毛に包まれたフクロウがいた。大きな目でソアラを見下ろしている。
「言ったそばから仲間を連れてきた___あなた様は愚か者だ。」
「北斗___!」
声色は違うが、口調は確かに北斗だ。
「彼女は白廟泉じゃなきゃ救えないのよ___救う手段を知っているのに見捨てるなんてあたしにはできない!」
「やはりあなた様は救うべきではなかった。血統だけで浅はかに導くべきではなかった。綺麗事のために、危機の可能性を高めるような愚か者を。」
一陣の風と共に、フクロウから毛が束となって飛ばされていく。白湯仙の時と同じなら、言葉まで込められた毛は北斗の元に戻るはず。あの毛を追いかければ北斗の元に辿り着く!
「いたっ!」
しかし足首に走った強い痛みが彼女を進ませない。見れば彼女の右足に、白毛を纏った蛇が食らいついていた。ソアラはすぐさまプラドの爆発で蛇の胴を叩きつぶす。毛が散り散りになって抜けていくと、その蛇は骨にはならず、やや変色してはいるがまだ艶のある鱗を残した状態だった。
つまり、殺したてだった。
「!?」
彼女の意志に反し、右足が震えた。足首から始まった麻痺はすぐさま足先へと進み、じわりと右足全体の筋肉が収縮しはじめ、足が棒のように伸びてしまう。明らかに毒、それも即効性のものだった。
「新しい死体ならまだ牙に毒液が残っている___北斗め!」
満足に立っていることもできず、ソアラはよろめきながら近くの木に体を預けた。痺れが腰へと広がってくる。
「!」
いつの間にか、ソアラの視界の及ぶ範囲に、まるで白皮の団子でもばらまいたかのように白い丸が散らばっていた。よく見れば、それは小さな耳と長く毛深いしっぽを持ち、少し尖った鼻を持ち上げると二本の前歯が覗いた。
(鼠か___!)
身を守らなければならない。しかし体が動かない。せめて呪文を!ソアラは感覚が曖昧になってきた腕を振るい、広範囲に炎を放つ。しかし飛びかかるもの、地を駆けてくるもの、数多の鼠の半分はソアラを殺すために炎をかいくぐった!
___
「な、なんなんだこいつらは?」
耶雲と仙山は白毛の猿に睨まれていた。全身を長い白髪で覆った猿は一つ目で、十頭もの群れとなって地べたから、木の上から、二人を取り囲んでいた。そう、ソアラが襲われ、北斗に助けられた時のあの猿たちだ。
「ただでは通してくれそうもないが___」
「ふざけんな、俺たちは先を急ぐ!」
危険な吐息が先ほどからずっと耶雲の耳を打ちつづけている。時に声にならない喘ぎが聞こえ、より一層彼を焦らせた。
「ギギィ!」
構わずに耶雲が走り出すと、正面に立ちはだかっていた猿三匹がいきり立って襲いかかってきた。
「どらぁっ!」
榊を背負うために両手が塞がっている。彼女の左手は肘が硬直し、耶雲の首の横から棒が飛び出したような状態になっている。寄生草そのものである右手はダラリと下ろされて、時に脈打つように大きく震えた。榊は自力で耶雲にしがみつくことができない。だから両手が必要だった。自ずと、耶雲の武器は脚に限られる。
「ギュギッ!」
生身で闘えば耶雲は棕櫚や仙山よりも強い。元々彼の能力はそれだけで敵を仕留められるものではないから、過酷な黄泉を放浪して生きるには自分が強くなる必要があった。今も鋭い前蹴りで、向かってきた猿の胸板を蹴飛ばしたところだった。
「おらぁぁ!」
さらに二匹の猿を蹴散らそうとした耶雲だったが___
「ぎぃぃぃ!」
猿は目に手裏剣を突き刺して悶えていた。
「姫の負担になる!あまり暴れるな!」
蹴りが空を切った耶雲、仙山が怒鳴りつけるように言った。彼の背後では、猿たちが巧妙に彩られたまきびしを踏みつけて悲鳴を上げていた。
逃した。包囲網を突破された猿たちから白髪が束となって抜け落ち、生き物のように動き、吸い込まれて消えていく。残されたのは猿の惨たらしい骸だけだ。
「愚かしき者共が___」
その姿を現した北斗は匂いの道を睨み付け、真っ白い牙を晒しながら今にも唸り声を上げんばかりの形相だった。
ブーン___
深淵へと突き進む耶雲と仙山。その耳に、機械的な音が聞こえていた。ソアラは狼が襲ってくると言っていたが、どうやら敵はそれだけではなく、それこそ五万十万といたようだ。
「これは___恐るべき敵だ___」
最初は霧が出てきたのかと思った。遠目にも、目の高さあたりに白い霞が漂っているのが見えたからだ。しかしそれは近づくほどに、二人の度肝を抜く強敵だと分かった。仙山がゾッとしたのも無理はない。
そこには大量の虫たちが待ちかまえていた。到底数など数えられないほど寄り集まり、飛行している。そのいずれもが白い毛に包まれていたからどの虫も同じに見えるが、大きさから察して羽蟻や蜂がほとんどのようだ。そして地面にも、黴のように白い塊が蠢いていた。これも虫、おそらくは編隊を組んで肉を食らう蟻の類が中心だろう。
「しかしこれだけの大群でお出迎えだ、いよいよこの先に本命が待ってる予感がするぞ!」
耶雲にはこの大群を蹴散らす策など無かったが、幾ら寄って集ろうと所詮相手は虫だ。強行突破できると踏んでいた。しかし彼よりも冷静な仙山は、確実に怯んでいた。自分が傷つくから?いや、違う。
「待て耶雲、安易に進むなよ。」
「何で!?時間がないんだ!」
漂う虫たちを睨み付けながら、耶雲は反発した。
「この虫たちが毒蜂である可能性___おそらくは極めて高い。蜂の毒は心臓に大きな負担となる。」
「!」
耶雲は愕然とした。
「姫が刺されたら、寄生草は一気に勢いを増すだろう。」
「だが___だったらどうしたらいいんだ!?」
「___」
仙山にも為す術は思い浮かばなかった。耶雲は焦れるが、榊にもしものことがあったらと思うと脚が前へと進まなかった。そうしている間にも虫は知恵者のように動き、大きな輪となって二人を取り囲んだ。
「姫の体を我らの服で包む___」
「そんなことやってる余裕はねえと思うぞ。」
「たしかにな。」
輪に取り囲むと、虫たちはゆっくりと輪の中心、つまり二人へと近づき始めた。もはや逃げ場はない。外側にいた虫たちは輪に蓋をするようにして二人の上へ。退路は完全に断たれた。
「突破するぞ。」
「本気か?」
疑いつつも、仙山は着物を脱いで榊の頭からかぶせていた。
「一時的に、能力をさっちゃんのために使うのをやめる。」
「なんだと?」
「ソアラの話じゃ俺たちを狙ってるらしい狼ってのは相当の手練れだ。しかも白いって言ってた。これまで俺たちを襲ってきた奴らも全部白だ。」
耶雲の黒髪が一時だけざわめいた。
「狼が能力を持っていてもおかしくはないと思うぜ。」
虫たちが一気に加速した。仙山は榊を守るようにして、後方から迫る虫たちに手裏剣を投げつけた。耶雲は一際落ち着いていた。そして___
ボトボトボトボト!
ある程度輪の中心に近づくと、空を飛ぶ虫たちはまるで壁にでもぶつかったように動かなくなり、地を這う虫たちもそれ以上奥へと踏み進むことができなくなった。
「やっぱりだ。」
耶雲を中心とした円周に、虫の死骸が山積みになっていく。分かりやすかったのは空を飛ぶ虫たちだ。白髪の中身にあった虫の死骸だけが地に落ちて、毛はフワフワとゆっくり宙を舞い落ちていく。
「まめまめしい能力だな!」
耶雲がキッと目を見開くと、抑止のフィールドが一気に広がった。虫たちは一斉に白髪の鬘を外し、ただの死骸となって転げ落ちた。仙山が榊に被せた上着に施された色合いも、消え落ちていた。
「この白い毛が虫たちを操っていたらしい。」
「なるほどな___」
「先を急ぐぜ。」
「うむ。」
虫の死骸の山に、鳥の羽のようにして白髪の束が舞い落ちていく。耶雲は構わずに前へと歩き出し、仙山は死骸の輪を脱してから一度振り返り、耶雲を追った。
それからすぐに、死骸は力強い犬足に踏みつけられ、白髪は瞬時に主人の元へと吸い込まれた。
「見ろ!あれだ!」
また白い霞が見えたので思わず舌打ちしたが、滝の音が聞こえると耶雲は歓喜の笑顔を見せた。森の狭間から、湯気の立ちこめる場所が見えたのである。二人は走る。少し進むと森の中まで湯気で真っ白になってしまったが、滝の音を目指して進めばすむことだった。
しかしソアラが見たら奇怪に思っただろう。確かに白廟泉の湯気は豊富だが、森の中にまで蔓延るほどではなかった。ましてや湯気の中に所々、細い白髪が舞っていることなど決してない。
しかし実際に白廟泉は近いのだ。これは、北斗の最後の砦であった。
白い湯気は彼の姿を眩まし、滝の音は彼の足音を消す。北斗は湯気に姿を隠し、良く利く鼻で的確に獲物を仕留めるだけだ!
ギャウン!
「!?」
その時、耶雲は我が身を疑った。突然左足に激痛が走ったかと思うと、体が左に大きく傾いだのだ。血飛沫は耶雲の膝から吹き出していた。
「耶雲!?」
「迂闊だ___足を食われた___!」
耶雲は倒れたが、それでも榊を傷つけないようにと体を捻り、胸から地に伏した。その左膝から下が、噛み切られていた。鋭利な刃物で切り落としたのとは違う、雑な、潰したような傷口から血が溢れだした。
「また来るぞ!」
「ちっ!」
仙山は湯気を見渡す。一瞬、赤い飛沫が見えたが、この中に潜む敵の姿は掴めない。
「見くびるな!」
しかし仙山が一念を込めると、純白の湯気が見る見るうちに赤く変色していく。そしてその中に、高速で走り回る巨大な狼の影を見つけた。仙山は素早く手裏剣を投げつけ、白狼は確かに一瞬呻いた。
しかしすぐさま身を翻すと、赤く染められた湯気を断ち切って北斗が飛び出す。狙いは仙山の首!
「む___」
しかし飛び散ったのは北斗の血だ。彼が食らっていたのは巧妙に仙山が描かれた彼の上着だった。それは仙山の刀で背丈に近い高さにあわされ、顔の部分にはまきびしを詰め込んで膨らみを作ってあった。この顔を食らったがために、いくつものまきびしの先が北斗の舌を刺し、顎に食い込み、いくつかは下顎を貫いてその先端を覗かせていた。
描かれた仙山の姿は確かに巧妙だったが、その凹凸などは滅茶苦茶だ。しかしこの赤い湯気の中では北斗もあまり目が利かない。榊を隠すために使われた仙山の上着は、耶雲の血で塗れたから匂いが強烈。それ故に陥った罠だった。
そして、罠にはさらに上乗せがあった。
「___」
木の上にいた耶雲。その手には小太刀を握り、一気に北斗めがけて枝を蹴った。しかし耶雲の左足からはまだ血が蕩々と溢れている。夥しい匂いと共に。
北斗の頸椎めざし、刃を煌めかせる耶雲。その思いはただ榊のために。
北斗は、彼の匂いをすでに強く感じていた。
「ここか___」
白廟泉に現れたのは仙山だった。左足を失った耶雲の機転もあって、あの罠を仕掛け、体を真っ赤に塗って榊を背負い駆け抜けた。
「姫___」
榊の痙攣が激しさを増しているように思えた。仙山は躊躇うことなく、不可解な滝から沸き出る白き温泉に近づいていく。
「止まれ。」
しかし背後から重厚な声。そこに込められた示威に、仙山は足を止め、顔だけで振り返った。
「この男を食い殺されたくなくば、白廟泉には近づくな。」
北斗だ。額から、右目、頬まで、一直線に深い裂傷をつけ、顔の半分を真っ赤に染めてゆっくりと森から出てきた。まきびしにまみれようとも構わずに、その口には耶雲の首をくわえていた。
耶雲は両腕を失っていた。しかし、その思いはまだ潰えていない。
「分かってるな___仙山___」
微かににやついて、掠れた声でそう言ったのだ。そして仙山もまた、一つ頷いて彼に背を向けた。
「正気か?貴様。」
首に少し強く牙を食い込ませ、北斗が耶雲に問うた。耶雲はすでに青ざめた顔をしていたが、鋭気は失わない。
「榊を救うんだ___俺もあいつも、彼女のためなら命なんて惜しくない。格好付けじゃないぜ、本気さ。」
死をも恐れぬ顔とはこのことか。耶雲は首に牙が食い込むことも構わず、北斗にその横顔を見せつけた。開き直りとは違う、愛しく思う女のために死ねる名誉で満たされた顔を。
「何をしている仙山___」
仙山は負ぶっていた榊の体を、己の体の前へと運んだ。抱きかかえられながら息も絶え絶えに榊が呟いたので、仙山は少し驚いた。
「耶雲を___助けぬか___」
だが仙山は構わなかった。その声は蚊の鳴くほどに小さくて、彼にしか聞こえなかったからだ。後で罰を受けるならそれはそれで良い、今は耶雲の犠牲を尊ぶためにも、榊を回復させるのが最優先だった。
「耶雲を助けぬか!仙山!」
しかし榊は己の命をも省みずに叫んだ。彼女は目も開けられないほどの苦痛の最中にあってなお現状を知り、耶雲の行動の意味も察していた。
「これが耶雲の願いなのです___姫。」
仙山は毅然と言い放ち、彼女の体を白廟泉へ沈めるため、しゃがみ込んだ。
「おのれ___!」
根負けである。耶雲にとどめを刺すよりも、白廟泉に踏み込もうとする二人を阻止することが優先だ。北斗は耶雲の首を放し、仙山の首を狙って地を蹴った。
ドンッ!
全く隙だらけだった仙山を仕留めるのは簡単に思えたが、一瞬のうちに森から飛び出した高速の光が、二人の間に割って入った。そして黄金の輝きを携えた手は、北斗の鼻っ面に宛われ、彼の突貫を食い止めていた。
「体中に穴を作ってくれたからね、そこから魔力で毒を噴き出したんだ。」
ソアラだ。彼女は全身に細かい傷を、それこそ顔に至るまで無数に付け、血のシャワーでも浴びたように皮膚を赤く染めていた。鼠に囓られた痕、一つ一つは小さいがこの数ではダメージは小さくないだろう。
榊の足先が白廟泉へ。北斗はソアラの力強さを畏怖することもなく、奥の手を出す。
「どけ!」
「!?」
北斗の毛が針のように固くなり、ソアラに向かって飛んだ。至近距離で放たれた無数の毛針は、ソアラの顔や首に深々と突き刺さった。
そこからの動きは、誰にもスローモーションのように見えた。
顔に首に、大量の針を突き刺されたソアラは仰け反るように後ろへと昏倒する。そこでは仙山が今まさに、榊を白廟泉に沈めようとしていた。北斗の思惑に反し、ソアラは二人を巻き込んで白廟泉へ。強烈な治癒力に晒される前に食い殺さなければと考えた北斗は、それを追って飛び込もうとする。
そこに耶雲がいた。
彼は口に小太刀をくわえ、右足で地を蹴ってすでに北斗のすぐ後ろにいた。強靱な歯でくわえられた小太刀の柄。耶雲は北斗の背後から体重を預け、刃を首に突き立てた。
首を貫かれた北斗は一瞬だけ目を剥き、口から血を吐き出しながら己の力を振り絞る。
全身の毛が針となって逆立ち、耶雲の体中が刺し貫かれる。その時点で、守ることに命を賭けた両者は、己の絶命を感じていた。
そして北斗と耶雲は繋がったまま白廟泉へ___
五つの命が沈んだ白き泉は波紋と共に一時の静けさに包まれ、そして急変する!
ズオオオオオ!
白き泉から最初に飛び出したのは、こともあろうか巨大な草だった。それは凄まじい勢いで天へと伸び、自らの重さに耐えられずにその葉を折り曲げた。白廟泉に秘められた強烈な生命力に寄生草は狂喜乱舞して膨れあがり、踊り狂っていた。すると草の狂乱を戒めるように、白廟泉から飛び出した光が葉の一つを叩き切った。
「こういうことになるから誰も近づけたくなかったって訳か___」
ソアラである。顔と首に突き刺された毛針は消え、ネズミに囓られた傷跡も全て消え失せた姿で白廟泉から飛び出していた。
「ドラギレア!」
浮遊したまま強烈な火炎を寄生草に浴びせかける。青々とした草は猛烈な火炎に包まれたが___
「うそっ!?」
炎は寄生草を焼き尽くすかに見えて、逆に蹴散らされてしまった。満ち満ちたる生命力は焼けた草をもすぐさま再生へと導いていく。
(白廟泉から出さないと手に負えない!)
これがこの泉の真の恐ろしさかも知れない。ここに籠城されたら草一本始末するのも容易ではなくなる!
「ソアラ!下だ!」
叫んだのは仙山だった。ソアラの下からは切り落とされたはずの寄生草が再び天へと葉を伸ばしていたのだ。切片が白廟泉に浸っていたからだった。
「このぉ!」
ソアラは宙で身を翻して氷結呪文を放つ。氷に包まれた寄生草は一瞬止まったかに見えたが、すぐに氷は突き破られた。
「どうしたらいいのよ!?」
竜波動か?駄目だ、寄生草を泉から引っ張り出さなければ何をしても再生する。
ソアラは策を失い、焦りと微かな恐怖を抱きはじめていた。しかし、それは空の変化と共に払拭される。
「あっ!」
湯気がいつも以上の速さで上昇していったことでソアラは異変に気づき、上を見た。そこには暗黒の真円が口を開け、その奥底には黒と青白のマーブルが煌めいていた。
「ようは、泉から引っ張り出せばいいのじゃろう?」
白廟泉に半身を沈め、小柄な彼女はそう呟いた。今まで草に居座られていた右腕を取り戻した姿で。
「榊!」
ソアラが歓喜の叫びを上げる。
「現金な草じゃ、この温泉が私よりも遙かに力に満ちあふれてると見るや、あっさりと鞍替えした。ま、それが命取りじゃがな。」
彼女は両手を空に突き出していた。その狭間には、赤い文字が浮かび上がっていた。
寄生草は天へと伸びる。そして円の中に先端を差し込んだ。
ギュオオオオオ!
それからは簡単だった。榊が開いていたのは黄泉の闇の奥底への入り口。巨大な草は雑草を土から引き抜くよりも軽い手応えで、闇の口へと飲み込まれていった。
あとは闇が始末してくれる。四方八方からの吐き出そうとする力で、寄生草は散り散りに引き破られ、消滅するはずだ。
榊は闇の口を閉じ、白廟泉の喧騒は完全に消え失せた。
「姫!良かった!」
ソアラは満面の笑みで、榊の元へと舞い降りていく。喜びに任せて抱擁でもしたかったところだが、榊が厳しい目つきで彼女を睨み返したためピタリと止まってしまった。
「良かっただと?たわけたことをぬかすな___!」
ソアラはハッとした。そうとも、まだあいつが上がってこない。北斗と共にこの泉に落ち込んだ耶雲が。
「私のようなか弱き命のために___耶雲は!」
榊は歯を食いしばり、グッと拳に力を込めて湯面を叩いた。
「仙山!」
「はっ___」
怒号の標的となった仙山はただただ粛然としていた。
「あの判断___私は決して正しいとは思わぬぞ!」
だが彼女にもそれ以上の言葉が出てこなかった。仙山の判断が耶雲の意志と合致したものだというのは彼女も分かっていたから。それが耶雲の愛であり、男の馬鹿さ加減だと分かっていたから。
「耶雲___」
思い起こせば、実に愛おしい男だった。榊が棕櫚を愛していると知ると、やっかみ一つ言わずにその愛を助けようとする、不器用だが我慢強く、献身的な男だった。
榊が棕櫚を愛しているなら俺は身を引く。榊の幸せを思うから、俺は榊と棕櫚の愛を守る騎士でいればいい。照れ屋だから口が裂けてもそんな台詞は言わないだろう。ただ態度でそれを示す男だった。
「耶雲___!」
榊は涙をこぼし、顔を覆い、膝を折れた。
「___」
こんな言い方はすべきではないのだろうが、仙山は耶雲の恰好付けた引き際に少し嫉妬を感じたものだった。
「俺のために泣いてくれるなんて___」
その時である、不意に別の声がした。
「え?」
ソアラも、仙山も、榊も、声を零した。
「感激だぁぁ!」
なんと振り向くと、白廟泉の滝壺の側に白髪の男が立っていた。
「や、耶雲!?」
その顔立ちと声は確かに耶雲だったが、彼の頭には獣の耳が飛び出し、腰からは綺麗な白い尾が生えていた。
___
「生きているならさっさと姿を見せればいいのじゃ!人の悲しみを踏みにじるような真似をしおって!」
榊は湯沸かし器のように真っ赤になって、頬を膨らませて怒っていた。しかし本当の怒りとは異なり、内心が喜びで一杯だったのは明らかだった。
「いや、俺も自分の気持ちを整理するのに時間が掛かって___」
「その耳と尻尾、北斗ね?」
四人は白廟泉から上がり、立ち話をしていた。ソアラの問いかけに耶雲が頷く。
「お互いに何かを守るので必死だった。だから、命が融合したのかも知れない。」
「命の融合だと?」
「俺も北斗ももう死んでいた。ただ執念だけは満ちあふれていた。あいつは白廟泉を、おれはさっちゃんを守りたかった。その思いが重なった瞬間を確かに感じたんだ、そして___気が付いたら俺は北斗と一つになっていた。二つの命の残り滓が一つになって、白廟泉の力で何とか再生できたんだ。」
嘘のような本当の話。でも、それだけこの白廟泉が秘めた生命力は尋常ではないということだろう。「永遠の命の源」といっても言い過ぎではない。
こんなものをアヌビスにでも知られたら、それこそ悲劇どころではすまされないだろう。ソアラは改めて北斗の使命の大きさを感じた。
「それにしてもさっちゃんが復活してくれて本当に良かった!」
耶雲はこれ以上ない笑顔を榊に送る。榊はますます頬を赤くして、言葉に詰まった。
「あ、心が傾いてるなっ。」
「由羅!」
悪戯っぽく笑ったソアラに榊が一喝。彼女の復活は、皆に明るい笑みを取り戻させていた。ただ、一つ欠けているものもある。
「さて、あとは復活した姿を棕櫚にも見せてやらねえとな。」
「ああ、そうよね!榊の大事な人だもの。」
「貴様ら___」
榊をからかうように話す耶雲とソアラを睨み、彼女はわなわなと拳を震わせていた。
「奴はまだ白廟泉を探しているはずだ。朱幻城にいなければ呼びに行くのが道義なのだろうが___」
「行きたくないって面だね。」
仙山の仏頂面を指さして、ソアラはクスクスと笑った。
「なにをぬかすか、あらぬ焦燥を与えては棕櫚が可哀想じゃ。すぐに朱幻城に戻って、棕櫚を探しに行く。」
確かにその通りだが、もとはと言えば棕櫚の寄生草が今回の騒動の発端だ。耶雲も仙山も、あげく榊の愛を独り占めにしている棕櫚に不平等を感じたソアラまで、少しは股間が縮み上がるような焦りと苛立ちを与えるのも良いかという意地悪な気持ちになっていた。
もちろんそんなことを榊が許すはずもないが。
「さあ、行くぞ!」
榊は鼻息を荒くして、空間に闇を開いた。ソアラは彼女の手を取り、ソアラの手を仙山が握る。しかし耶雲は動かなかった。
「耶雲、はやくしろ。」
「いや、俺はここに残らなくちゃならねえ。」
唐突な言葉だった。
「なんじゃと?何をたわけたことをぬかすか。」
「俺は耶雲でもあるが北斗でもある。あいつと一緒になったから、俺もあいつが命を賭けてこの泉を守っていたこと、それを無視することはできないんだ。」
「耶雲___」
今更だが、耶雲の片方の瞳は人のそれとは少し異なっていた。黄金の瞳、それは紛れもなく北斗の目だった。
「この泉が邪な力に使われたら一大事だ。それはみんなもよく分かっただろ?俺もよく分かった。だから___」
黒髪だった耶雲の変わり果てた白髪が騒いだ。それは北斗の能力だった。
「俺はあいつの使命を引き継いで、ここを守る。」
「本気なのか?」
榊の問いかけに、耶雲は真摯に頷いた。すると榊はソアラから手を放し、耶雲に近づくとフワリと舞い上がって彼の唇に己の唇を重ねた。瑞々しく、花のような甘い香りが耶雲を惚けさせる。その感触もまた、桃色の花びらのようだった。
(妬きすぎだっつの、忠臣のくせに。)
ソアラは愛の一幕に心を躍らせながら、一方で仙山の手の力が強まったことに苦笑していた。
「___」
唇が離れても、耶雲は魂が抜けたような顔でボーっと榊を見ていた。榊は純情なる乙女の目をしていた。
「はっ!な、なにやってんだ!?俺の口臭くなかったか!?」
耶雲はかなりの照れ屋である。茹で蛸のように真っ赤になって、どうして良いか分からずに頭を掻きむしっていた。そんな取り乱した彼を宥めるように、榊はもう一度短い口づけをした。
「ありがとう耶雲。おぬしのことは決して忘れぬ。そしておぬしの愛は、私の胸にしかと刻みつけられた。」
「さっちゃん___」
榊からそんな言葉が聞こえるとは思っていなかった。耶雲の目はたちまち潤みだし、柄にもなく大粒の涙をこぼした。
「い、いけねえ!なんで___!」
慌てて榊に背を向けて涙を拭く。
「ありがとう。私を救ってくれたのはおまえじゃ。私はこれから___辛くなったらおまえの姿を思い出す。」
その言葉は耶雲にとって最高の賛辞だった。しかし、礼の言葉は声にならなかった。
さよならの言葉も、背中で聞くことしかできなかった。
「さっちゃん___」
滝壺の音が響く。榊たちはもういなかった。結局、涙が止まらなくて、恥ずかしくて、振り向くことさえできなかった。
「俺は君のことを愛してる___!」
一人になってからこんなことを叫ぶ。耶雲はその場に崩れ落ちて、また泣いた。
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