1 守護者の使命

 「全く、いきなり挨拶も無しにどつかれるとは思わんかったわい。」
 「本当にすみません、つい手が出ちゃうものですから___」
 湯から上がったソアラはベタベタと体に張り付く服を気にしながらまだ謝っていた。
 「まあそのずぶ濡れでいるわけにもいくまい。付いてくるがよい。」
 白湯仙はソアラに背を向けて歩き出す。その姿は白髪の生えた鞠が転がっていくようで、後ろから見るソアラは笑いを堪えていた。 
 「さ、わしが服を用意した。どれでも好きなのを着るがええ。」
 と、そこの木に掛けられた服は___腰と胸だけかろうじて隠せそうな葉っぱのビキニ。首を通す穴はあるが両脇がすかすかで前掛けにしかならない獣の皮。平べったい石ころに紐を通しただけの謎のもの、これでどこをどう隠せと言うのか。
 「さあどれじゃ!」
 「仕込むなっ!」
 変わった見た目、仙人を思わせる名とは裏腹に、白湯仙はアモンと似た人種のようだ。ソアラはまた反射的に自分の腰丈ほどしかない老人の頭を平手で叩いていた。
 「むむ___手の早い娘め。」
 白湯仙は遠慮のないソアラに少し圧倒されていた。
 「む?」
 しかし気の強さを臆面もなく発揮していた彼女が突然腹痛でも起こしたようにうずくまっているので、白湯仙は眉をひそめた。
 「どうした?持病の癪か?」
 見るとソアラは両手を自分の胸に抱え込み、微かに震えて硬く目を閉じ、歯を食いしばっていた。
 ミシミシ___
 そして軋む音が消えると、ソアラは目を開けて長いため息をついた。額には汗が浮かび、血が上った顔は赤らんでいた。
 「何じゃ?達したような顔をしおって。」
 エロじじいめ。しかし実際そんな顔かもしれない。手に蔓延った締め付けの痛みから解放された時の心地よさは、それに近いものがある。今も体から力が抜けて尻からその場にへたり込んでしまった。
 「また広がってきたな___」
 ソアラが手を広げ見て呟く。温泉から上がった時には両手の中指の先にだけ残っていた黒が、いつの間にか中指の付け根まで埋め尽くしていた。
 「お、何じゃそれは、闇食いか?」
 「知ってるんですか?」
 ソアラは驚いて振り向いた。へたり込んでいるくらいの高さが、白湯仙との会話には調度いい。
 「全てを真っ黒にする暗闇の力じゃな。白廟泉でも消せぬとなると、相当強烈な闇食いのようじゃのう。」
 どうやらスケベでも知識は一級品のようだ。
 「そんなものに体を食われる上に、北斗が許したとは___お主の名は?」
 「今は由羅と名乗っています。ただ、両親が名付けたのは紫龍という名でした。」
 博学の彼に一つの名でしか名乗らないのは勿体ないと感じ、ソアラは榊に貰った名に加え、無き両親から貰ったシェリルの源となった名も付け加えた。
 「はぁ、聞かぬ名じゃな。」
 しかし白湯仙の反応は期待はずれだった。
 「その闇食いはお主が好きで宿しておるのか?」
 「まさか!」
 ソアラ激しく首を振って否定する。
 「すると追い出せないのか?」
 「前までは体の半分を冒されて、とてもできませんでした。でも今だったら___」
 ソアラはおもむろに立ち上がり、両足を肩幅に開き、両手は拳を握って体側につけ、ゆっくりと目を閉じた。初めて自力で竜の使いの力を発揮した時を思い出すように、平静から高ぶりへと急沸騰させるべく、精神を静寂へと導いてゆく。
 プニュ。
 ベチッ!
 「人が精神集中してるってのに、何で胸をつつくわけ!?」
 「す、すまん、隙だらけだったのでつい。」
 はり倒された白湯仙の後ろで、狼の北斗は呆れたように欠伸をしていた。
 「ったく___」
 苛々がかえって起爆剤になったか、ソアラは舌打ちしてから目を閉じるとたちまち心を落ち着かせ、一気に己の「竜」を呼び覚ました。
 ゴッ!!
 (おおっ!)
 実に久方ぶりの変化である。紫を黄金に変え、光り輝いた彼女の姿。白湯仙の眉は驚いて持ち上がり、少しだけ彼の目玉が見えた気がした。
 「ぐうううぅぅぅ!」
 だが変化は完全ではない。ソアラはそのままの姿勢で強く歯を食いしばり、眉間に力を込めていた。なぜなら、彼女の両手、両足は輝いてなかったのだ。だがソアラは怯まない。さらに己に眠る力全てを露出させるほどに、気を高ぶらせる。白廟泉の湯がいつもとは違った波を立たせ、周囲の木々が激しくざわめく。
 「あああああ!!」
 絶叫と共にソアラが天を仰いだ。その時である。
 ドパァッ!!
 ソアラの両手、両足が火を噴いた。皮膚が弾け飛び、血肉をまき散らし、同時にその傷口から黒いものが霧のように吹き出した。ソアラの体から追い出された闇食いである。
 痛みなど気に掛けていられるか。ソアラは脚の傷口から骨を覗かせながらも気力だけで立ち、血みどろの両手を彷徨う闇に向けた。
 「竜波動!!」
 気合い一線!ソアラの掌から放たれた夥しい光の力は、瞬く間に闇食いを飲み込んだ。闇を追い出すために体に溜め込んだ光の力を一気に放出した波動は、今までのソアラにはあり得ないほど巨大だった。
 黄泉には眩しすぎる光が消えた時、黒麒麟の闇食いは跡形もなく消え失せていた。
 「ニッ___」
 ようやく打ち克てた。ソアラはニヤリと笑い、そのまま前のめりに倒れた。脚が言うことをきかず、真っ赤に染まった手では支えにもならない。
 「北斗!」
 白湯仙は力強く狼に命じ、北斗は直ぐさまソアラをくわえて白廟泉へ走った。
 ___
 「傷が深いからのう、さすがの白廟泉でもそうすぐには治らんぞ。」
 また服のままで湯に放り込まれたソアラは、今度は意識のしっかりした中で両手足の傷からみるみる痛みが引いていくのを感じていた。血の赤でさえ、最初は白い湯を僅かに桃色にしたものの、あっという間に消えて無くなっていた。
 「この温泉は___なんなんですか?」
 まったくもって不思議である。ただの白い温泉のように見えるのに、フローラの回復呪文でもかなわないほどの治癒力を持っているのだから。 
 「生命の活力に満ちあふれた泉じゃ。ここには志半ばで朽ち果てた黄泉の戦士たちの行き場を失った力が集う。」
 「え___?」
 軽い気持ちで問いかけたソアラだったが、白湯仙から帰ってきた言葉は重苦しいものだった。
 「ここはいわば黄泉の輪廻の源じゃ。おぬしの傷は寿命まで生きることが出来なかった死者が残した力で癒されておる。力とは熱を伴うもの。だからぬくいのじゃ。」
 バシャ___畏れ多い。肩まで浸かっていたソアラはたまらずに立ち上がった。両手はまだ再生が不十分で、深い傷がくっきりと彫り込まれていた。
 「駄目じゃ、お主はしっかりと力を受け入れて己の糧とせねばならん。」
 だが上がろうとしたソアラの腹を、白湯仙は杖で突いた。
 「でも___心苦しいわ___」
 この湯で体を癒すことは人の命を吸って生きるに等しい。まるで自分が吸精鬼のように思えて実に忍びない。
 「わしの勤めはこの泉に誰一人近づけぬことじゃ。それは北斗も同じ。じゃが北斗は傷ついたお主を助け、ここへと導いた。」
 「なぜ?」
 ソアラは困惑気味に尋ねた。
 「___はて、なんじゃったかのう。」
 「い?」
 重苦しい諭しでも聞けるのかと思っていたソアラだったが、白湯仙は白髪を傾げて考え込んでしまった。
 「じゃが、お主は人の命を吸わせてでも生かさねばならんと、北斗がそう思ったのは確かじゃろう。」
 「なぜなんです?」
 「さあ、なぜじゃったかは思いだせん。実のところのう、わしがなぜここにいるのか、それもようわからんのじゃ。」
 「えぇ?」
 「ほれ、話は浸かって聞かんか。」
 「いてっ。」
 杖の先っぽで頭を叩かれたソアラは、少し腑に落ちない様子でもう一度湯に沈み込んだ。
 「わしは気づいたときにはここに北斗と共におってのう、この白廟泉を悪どい奴らの目から守ることだけを生き甲斐としてきた。」
 「確かに___この回復力に野心的な奴らが目を付けたら厄介ですね。」
中途半端で湯から上げた手の傷にはまた少し血が滲んでいたが、もう一度ほんの短い時間沈めただけで出血は止まった。
 「そうじゃろう?じゃからわしも北斗も非情になろうともここに人を導くことはしなんだ。一人でも知られればどこから噂が広まるやもしれんからのう。しかしわし以上に冷血な北斗がお主をここに連れてきた。これがようわからんのじゃな。いや、わしじゃったらお主を近づけなんだも知れぬ。」
 ガサ___
 茂みから、姿を消していた大きな白狼がやってきた。黄金色をした凛々しい目、そちらを振り向いたソアラは彼と目があったのを感じた。
 「お?なにやら持ってきたのか?」
 北斗はソアラを連れてきた時と同じようにして、何かをくわえてきた。彼は湯に浸かるソアラの側までやってきて、口を放す。縁まで寄ってきたソアラが塗れた指で折り重なった布地を開くと、それは質の良い衣服だった。
 「わぁ、ありがとう北斗!」
 ソアラは白湯仙の隣に座り込んだ北斗に心からの笑顔で礼を言った。彼は少しだけ目を細め、ほんの短く尻尾を振っていた。
 「こやつめ、余計な気を遣いおって。わしが用意した服を無駄にするきかっ。」
 白湯仙は北斗の鼻を杖の先で軽く押した。ガキンチョを無視するように平静でいる北斗を見ていると、まるで北斗が白湯仙の主人のようで少しおかしかった。
 「あれ?そう言えばどこから持ってきてくれたの?」
 「さあのう、どこぞの集落の干し物でも持ってきたのではないか?」
 「へぇ〜___」
 それって泥棒じゃんと思いながらも、ソアラは北斗の心遣いに感謝した。ただ気になるのは、なぜ白湯仙が「冷血」と言ってのけたこの狼が、こんな気を利かせてくれるのかというところだ。

 白廟泉は常に湯気が立ち、温泉の奥の滝を遡ってみても、塔のような岩の天辺からこの白い湯が湧き出ているだけ。それ以外はなにもない。これだけお湯が沸き出しているのに、白廟泉そのものは溢れることを知らない。
 湯は湯気となり、闇へと向かう。そしてまた新たな生命となる、そう白湯仙は語った。
 湯の中で空を見つめ、ソアラは己の身体に蓄えられた生命力に心よりの感謝の気持ちを捧げた。その時素朴な疑問が浮かぶ。
 この秘密の温泉は、空から丸見えなのでは?
 しかし白湯仙は否定した。湯の白き輝きが湯気を輝かせ、それは人に幻覚を見せる。例え空から遠巻きに眺めようと、真上から見下ろそうと、ここは森にしか見えないという。
 「可能性はのう、血の匂いじゃな。」
 傷も癒え、乾いた服に袖を通したソアラは、朧気に光る温泉を前にして白湯仙にもらった果実を囓った。
 「北斗は鼻が利くからのう、人の血を嗅ぎ分けることができる。」
 「血?確かにあのときは怪我をして、血も出ていたけど___」
 覚えていないというのが嘘にしろ誠にしろ、白湯仙が顔かたちも分からない容姿に反してお喋りなので、ソアラは「なぜ北斗が私を助けたのか?」について深く問い続けていた。
 「すなわち血統じゃな。じつはもう随分と昔になる、ここに二人ばかり人を呼び込んだのじゃ。一人は女じゃ。黒髪の美しい人でのぅ、あのお姿は今でも忘れられなんやな。」
 「へぇ、どんな感じの人なの?」
 「さぁて、どんな人じゃったかのう。」
 おいおい。
 「で、もう一人は男でのう、こやつがもう生きているのが不思議なくらいの状態じゃった。」
 「彼も北斗が助けたの?」
 「いやいや、その美女がここに連れてきたんじゃ。」
 ソアラは思わず果実を強く噛みつぶし、果汁で口の周りを派手に濡らした。
 「ちょっと待ってよ、ここは空からも見えないし、陸路だって北斗かあなたに導かれなきゃ来られないんじゃなかったの?」
 ソアラは指で果汁を拭いながら、少し怒ったように問いただした。どうも白湯仙の言葉には矛盾が多い。
 「そのはずなんじゃがな、彼女はまるではじめから知っておったようにここへとやってきたのじゃ。そして___わしも彼女を拒む気にはならんだし、北斗も彼女が連れてきた男に牙を剥いていたが、彼女に見つめられると逆らうのをやめおった。」
 ソアラはもし自分が白湯仙の立場だとしてそんなことがあり得るだろうかと考えた。この泉に近づく者は殺すことも厭わないと言いながら、それでいて見ず知らずの女性を「どうぞ」と招き入れる。どう考えてもあり得ない。説明のつかない不条理だと感じた。
 なにが間違っているのだろう?
 白湯仙と北斗が白廟泉に近づく全てを拒むという、誰に命令されたわけでもない使命だろうか?たった一度だけ、何の懐疑も抱かずに白湯仙と北斗が女を招き入れたことだろうか?
 それとも、そうさせた女だろうか?
 「なぜこんな話をするかというとのう、お主がそう思わせた二人目だからじゃ。」
 「!?」
 ソアラは硬直した。
 「北斗はお主の血にあの女性を感じたのやもしれん。」
 なぜ?自分はなにもしていない。猿に追われてここに迷い込んだだけだというのに。
 「その人は寧々という名前じゃありません?」
 もし血統だというのなら___ソアラはここからそう遠い場所に住んでいたわけではない母の名を告げた。
 「いや、名前はしらなんだ。その方は黒髪か?」
 「いえ___」
 「ならば違わい。」
 キュルル___
 木の実一つでは満たされなかったのだろうか、不覚にもソアラのお腹は可愛らしい音を立てた。会話はピタリと止まり、お腹を押さえて頬を染めたソアラを見て白湯仙の髭がにやっと動いた。
 「若いのは元気じゃの。北斗、何か取ってきてやれ。」
 丸くなって目を閉じていた北斗は素早く立ち上がり、森の中へと姿を消していった。
 「しかしお主、闇食いなんぞにどこでやられた?」
 「実は___あれ、待てよ?」
 黒麒麟のことを思い出したとき、白湯仙の言った「黒髪の美女」という言葉が引っかかった。
 「もしかしてなんですけど___」
 ソアラは立ち上がって茂みから固そうな木の棒を持ってくると、しゃがみ込んで地面に絵を描き始めた。ずば抜けた存在感としてソアラの頭に焼き付いた黒麒麟の顔。もちろん右半分は長い前髪に隠されていたが、その雰囲気を描き出すのはそう難しいことではなかった。
 「この人___どこ見てるのよ!」
 絵に夢中になっていたソアラの隙を見逃さず、白湯仙はしゃがむ彼女の正面で這い蹲っていた。
 「ったく、油断も隙もありゃしない。誰かさんにそっくりだわ。」
 「誰じゃ?」
 「いいからこれ見て!」
 扱いまでアモンに似てきたか、ソアラは白湯仙の白髪をぐいっと引っ張って絵を見せつけた。
 「性格がでとるのお、男っぽい絵じゃ。」
 「そんなこと聞いてるんじゃないのよ〜。」
 「いたたた。」
 後ろから白湯仙の両の眉を掴み、左右へと引っ張るソアラ。確かに、どこか直線的で力強さを感じさせる絵はあまり女性的なタッチではない。
 「何となく特徴は分かるでしょ?長い黒髪で、右側の顔は隠してる___はっきりとした目と長い睫毛に厚みある唇、背丈は私と同じくらいよ。体型は___やっぱり私と同じような感じだと思う。」
 「はてぇ___」
 懐疑的な目に当てられ、ソアラは怯んだ。
 「体型は___あたしより色っぽいと思う___」
 それを聞いた白湯仙は目一杯髭を持ち上げ、頑丈そうな白い歯を覗かせて笑った。
 「うむ、確かにこの人じゃ。」
 (きーっ!)
 怒りを体の奥底に押さえつけ、ソアラは少し頬を引きつらせて拳を握り締めた。
 「彼女を知っておるようじゃな。」
 「私の体に蔓延っていた闇は、この女にやられたのよ。名前は黒麒麟、でも本当はレイノラって名前___あたしが知らないことを色々知っている女___」
 竜神帝と黒麒麟ではない、ジェイローグとレイノラの関係とはいったい何か?彼女は「裏切られた」と言っていた。闇を操る女は冷酷で、吐き出す言葉は卑屈だった。
 ソアラは絵を見つめる。
 彼女は、ソアラが知らない竜神帝の過去を知っている。夢の中の母は彼女を知っていたし、慕っているようだった。それも不思議だ。
 「?」
 饒舌だった白湯仙が急に静かになった。思い出したように顔を上げたソアラは座り込んだまま石のように動かない白湯仙に気が付く。
 「仙人?」
 手を伸ばしかけて一度引く。あの毛むくじゃらに手を差し込むのは、やはり少し躊躇う。ただその時は好奇心と非礼の境で揺れていたに過ぎなかった。
 ボト___
 白湯仙の頭から、白髪が筆ほどの太さで纏まって落ちたのを目の当たりにしては、さすがに声にならなかった。
 「仙人___」
 ようやく息の詰まるような硬直から解放され、声を絞り出したときには、いくつもの髪の束が地面に舞い落ちていた。
 「仙人!」
 ソアラは構わずに白湯仙に手を触れる。しかし触ったその場所の白髪が指に絡んでごっそりと抜け落ちた。手櫛を通すように流れた指の狭間には、大量の白髪が残り___
 「っ___!」
 毛髪の下から現れたのは老人の皺だらけな肌ではなく、白骨だった。戦いたソアラはたまらず手に絡む白髪を振るい落とし、後退った。
 先ほどまで元気に話していた老人が、あっという間に息絶えたとでも言うのか?
 ソアラは生唾を飲み込み、また恐る恐る白湯仙に近づくと払い取るように眉毛の辺りを撫でる。白髪は束になって落ち、空洞の眼窩が顔を出した。血はない、下に落ちた毛髪の束を拾い上げてみても、毛根には皮膚の痕跡さえない。
 はじめから皮膚など無かった。髑髏から毛が生えていたとしか思えなかった。
 「待てよ___なら手足は?」
 ソアラは石のように硬直して動かない白湯仙の手を覗き込んだ。するとそれは皮膚もあり、やせ衰えた老人の手そのものだ。しかし血色は無きに等しく、肌が異様に白い。その指先が不思議とふやけて見えたソアラは、まさかと思い彼の手を取る。するとまるで腐った桃の皮をそぐように、白湯仙の皮膚は崩れ、綻んだ。ソアラの指に押し広げられた皮膚は大量の白髪が編み込まれて作られたもの。ほころびと共に掌は毛羽立ち、ビロードのように光った。そして強く撫でればあっという間に抜け落ちて、また骸骨の手が現れる。
 「どういう事なの?白湯仙ははじめから死んでいたとしか思えない___」
 それともこれは彼の能力だろうか?彼も妖魔だ。もしや己の毛髪で骸骨を操る能力者やも知れない。ようやく黄泉の思考を抱けるようになったソアラは、総毛立つような怪奇にも取り乱さなくなった。妖魔は何でもありだ。自分が蝿になった時から、些細なことでは驚かなくなった。
 「目玉や___脳みそだってなさそうだし___」
 あらかたの毛が落ち、白湯仙の骸骨が背の曲がった老人であることははっきりとした。骨も細く、若々しさはない。
 「やっぱり誰かが操作していた___?」
 その推測は正解である。
 「そう。」
 重厚な声を聞き、ソアラはそちらを振り返った。そこにいたのはあの白い狼、北斗である。彼は口に小振りの猪のような獣をくわえていた。そして徐にそれを放すと、血糊の付いた口を動かした。
 「私が白廟泉の守護者。あなた様とは老人で会話するべきではないと感じた。」
 低く、重苦しい声は竜神帝を彷彿とさせる。狼とはいえ顔の周りの被毛は隈取りのような形を作り、白竜と見まがうばかりの気品を携えていた。
 「毛が___」
 白湯仙の毛が何かに引っ張られるように浮き上がると、一目散に北斗に向かって飛んでいった。そして純白の被毛に溶けるように消えていく。
 「あなたは何者なの___?」
 「この白廟泉に何人も近づけぬことを使命とし、レイノラ様とこの地に赴いた。」
 「!?___それじゃあ天界から!?」
 「あなた様は竜の使いのようだ。色が見慣れずに驚いた。」
 思いがけない出会いだった。そうか、北斗は血を嗅ぎ分ける。同郷の匂いを感じ、私を助けた___まてよ?なら白湯仙は何だ?なぜ黒麒麟の名前さえ知らなかったのか?
 「白湯仙はあなたが操っていたと言ったわね?」
 「ここに迷い込んだ老人を殺め、その骨を操ったもの。この泉を守るには私一人の目では足りない。泉を見られてからではなく、見られる前に始末する。しかし私の目をかいくぐられることがあるならば、ここで待つ毛髪の傀儡が始末する。」
 淡泊な受け答えは獣のそれらしい。しかしソアラを「あなた様」と呼ぶ辺り、強者へ服従する犬らしさもあった。
 「毛髪の傀儡に言葉を与える。術を解かなければ私は言葉を失う。しかし傀儡は古き記憶を持たず、人格は生前のそれとなる。あなた様との対話には私自身でなければならないと感じた。」
 なるほど、どおりでこの謹厳実直な北斗の操り人形にしては白湯仙が助平なはずだ。
 「北斗。」
 言いたいことを言ったということか、北斗はもう一度猪をくわえて、ソアラの近くまでやってきた。しかし彼女が声を掛けるとすぐに立ち止まって猪を放す。
 「彼女は何者なの?」
 ソアラは地に描かれた黒麒麟を指さし、問いかけた。
 「闇の女神。光の竜神ジェイローグとともに、世界に平穏をもたらすお方。」
 あれが!?アヌビスの邪輝と同じような力を持つあの女が?
 「ジェイローグっていうのは竜神帝のことよね?彼女は帝と双璧を成す人物だっていうの?」
 北斗は長い顎でコクリと頷いた。
 「その昔、天界には数多くの神々がいた。しかし巨大な破壊の力によりその多くが滅ぼされた。しかし残された若き竜神と女神は手を取り合い、破壊の力に打ち勝ったという。」
 「でもそんな女神様が何で黄泉に?」
 「白廟泉を守るため。」
 本当にそれだけか?レイノラという名の女神様は、本当はジェイローグというらしい竜の神様への恨み節を口にしていた。それにもし本当にそれだけの理由だとしたなら、この白廟泉とは何なのだろうか?
 「これは確かに、使いようによっては悪魔を増長させる力のある泉よ。でもそんなの黄泉の出来事じゃない。何でわざわざ天界の女神が直々にこれを守りに来るの?」
 「そこまでは私の知るところではない。私は使命を忠実に全うするだけだから。しかし、白廟泉には神のみぞ知る何かがあるのかも知れない。しかしそれに立ち入ることは許されないし、もうレイノラ様はここには来られないだろう。」
 「どうして?」
 「白湯仙が言ったように、私に守護を任されてからレイノラ様は一度ここに来たことがある。この黄泉で、図らずとも親しき間柄となった男の治癒のために。」
 確かに白湯仙はそう言っていた。しかし異界の果てで女神の恋とはロマンティックな話である。まああの色香なら自ずと男の気は惹くだろうが。
 「それは断じて許されぬ事。全く無知なる黄泉の男をここに招くなど許されぬ事。しかし私はレイノラ様に牙を剥くことはできない。しかも男は、レイノラ様の闇に体を蝕まれていた。闇を取り除くのは光でなくてはならない。白廟泉しか治療の術がなかった。」
 「治療したのね?私のように。」
 「そうだ。そして男はレイノラ様を裏切った。断じて口外してはならぬとしたこの地の在所を易々と口にし、白童子などと名乗って巻物にしたためた。レイノラ様は僅かに男の体に残された闇で奴の体を食いつぶし、奴が知らしめた可能性のある人々を全滅に追いやり、私はここで幾人もの妖魔を討ち滅ぼした。」
 そこまでするとは___裏切られた怒りがそうさせたのだろうか?しかし平穏を呼ぶ女神の所業とは思えない。それとも、この白廟泉はそれほどまでに触れてはならぬ秘密を持っているのか?
 「あなた様には竜の血統を感じたからここへと導いた。しかしこれを口外しようものなら、例えあなた様といえども容赦はしない。私はあなた様には敬意を持って接するが、あなた様が主人だとは思わない。そして私に与えられた命令はまだ生きている。」
 北斗の重苦しい声がより力強さを増した。彼の眼光は鋭く、ソアラの胸の奥底に秘密の錠前を掛けるような威力があった。
 「___分かったわ。」
 だからソアラもしっかりと頷き、答えた。このときはまさか棕櫚と仙山が白廟泉を探しているなんて、思いもよらなかった。




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