3 白き泉の仙人
ソアラは鋼城を発ち、朱幻城を目指していた。しかし、まだ鋼城の遠景が見える。その程度の距離しか進んでいなかった。
本来ならヘヴンズドアで朱幻城にまっしぐら___なのだが。黒麒麟の闇に犯された体は魔力を放とうとすると体の中に押し返されて、呪文にならなかった。庭師の老翁を火葬するために放った炎を遡り、指と手に深く食い込んだ闇はそのままソアラの体の魔力の源まで闇で染めた___そう言うのが正しかろう。
「いったぁ〜。」
今のソアラは前あわせの黄泉らしい服装になっている。それは靴にしても同じこと。履き慣れていないうえに、新しいので柔軟性を欠いている。まして足を闇に食われているせいで歩きのバランスが悪く、あっという間に豆を作ってしまっていた。
「そう言えば___最近飛ぶばっかりで足で旅してなかったなぁ。」
しかしそんな状況でも彼女には悲壮感がなかった。森を通り抜ける道の脇に転がった岩に腰を下ろし、包帯で足をグルグルと固めていく。
ズキッ___!
突然右手に痛みが走り、痺れたようにして包帯を落としてしまう。
「ぐぅぅっ___」
ソアラは逆の手で右の手首を押さえつけ、背を丸めて唇を噛む。ミシミシと、材木をねじ曲げていくような軋む音が確かにした。苦しみながらも薄目を開けて己の右手を睨み付ける。すると掌でペンキのようにこびり付いた黒が、ジワリとその染みを広げていた。
「___はぁっ。」
一種の発作である。掌で黒の進行が止まるとソアラの体から辛苦が消えた。鋼城を出てからすでに三回、場所は違うがこの手の痺れと圧搾機でつぶされるような痛みに苛まれた。しかし発作が収まると本当に、それはすっきりと急激に無くなるから、むしろ一汗かいた後のような開放感で少し気持ちよかったりもした。
ただそれではいけないのだと思う。この闇があるから竜の使いとして光り輝くことも出来ない。自分が持つ光の力は、あの黒麒麟の闇に負けているのだ。それを納得して良いわけがない。
「よしっ。」
額に浮かんだ脂汗を拭い捨て、包帯を巻き終えたソアラは靴を履き直して立ち上がった。
闇は克服できる。そう考えていたから、悲壮感はない。しかし朱幻城に早く戻りたいという焦りはあった。何しろ気になるのは榊の状態である。そして不安もある。
(好戦的な妖魔に出会いませんように___)
下半身が闇から解放されていないせいで、ソアラの動きにはいつものような機敏さが無い。素早い動作と巧みな足技は彼女の戦いの生命線でもあり、これが封じられたことは大きな不安だった。
ただ、それでも歩くしかない。朱幻城まで何夜かかるかも分からないが。
一方そのころ___朱幻城。
榊はここしばらく寝ずに彼女の看病を続けていた耶雲を懇願して休ませ、今は一人で床に伏していた。草の進行は耶雲と棕櫚、とりわけ耶雲の頑張りで幾らか食い止められていた。ただそれは榊が植物と化すまでの日を長くするだけの話で、根本の解決にはならない。水で体を拭こうと服をはだければ、もはや左の乳房は根が蔓延ったように青い筋で埋め尽くされている。
寄生草は表面を食らってから内面を食らう。しかし心臓はもはや目と鼻の先。
「動くこともできぬか___」
榊自身の生命力の消耗は草を勢いづかせる。だから榊は一夜の大半を床に伏して過ごし、体調を整えるために棕櫚に見守られながらの簡単な運動だけが許されていた。ただ、左胸を筋が埋め尽くしてからは、自分でも何かの拍子に根が心臓を食うのではないかと不安で動けなかった。
「何と___情けのうことか___」
一人の時、彼女は何度そう呟いたか分からない。草にも勝てない脆弱な己を呪いもした。
「姫。」
庭の篝火に照らされて、障子に背高な人影が映る。
「仙山か。」
情けない声を聞かせたくない男がやってた。榊はいつものように、強く問うた。
「お加減を伺いに参りました。」
「うむ、何も変わらぬ。」
障子越しで言葉を交わす。そうしたのは榊が拒んでいるのではなく、仙山が中に入れなかっただけだが。
窶れた顔で気丈に振る舞われては、こみ上げる感情を押しとどめられそうにない。ただ彼女の前で噎び泣くことなどできようものか。だから仙山は障子越しに話した。
「棕櫚は頼りになる男です。必ずや解決の術を見つけだしてくれましょう。」
「そうじゃな___」
棕櫚は寝る間も惜しんで、寄生草のみを榊から取り除く術を探している。仙山も彼を手伝うことに日々を費やしていた。
「茶をお持ち致しましょうか?」
「いや、いらぬ。」
仙山は何か言いたげに少し体を揺り動かした。
「では___またお加減を伺いに参ります。」
「苦労をかける。」
「いえ___」
障子に映った仙山は、深く礼をして立ち去っていった。
「まこと___お主には苦労をかける___」
一人に戻った榊は寂しげに呟いていた。
「仙山。」
思いめぐらせながら俯いて廊下を歩いていた仙山は、呼び止める声を聞いてそちらを振り返った。そこにいたのは、複雑な心を隠せないでいる棕櫚だった。目はここ最近では見ないほどに力強く野心的であるのに対し、眉間は少し歪み、口は不安げに半ば開いていた。
「相談があるんです。」
「姫のことか?」
仙山が視線を厳しくして問い正すと、彼はコクリと頷く。額をらしくない冷や汗が伝ったのが見えた。
二人は近くの部屋へと入り込んだ。そこはここしばらくは使われることの無かった道場だった。中庭に面したここはずっと雨戸を閉じたままで、板の間は冷え切っていた。
「ここで姫の稽古をつけられたこともあったのでしょう?」
「___」
仙山は答えない。彼は声に出して棕櫚を非難することこそしないが、榊の人生を狂わせるこの男が言うまでもなく憎かった。仙山は雑談に応じるつもりはないとでも言うように、冷たい板の間にどっかりと胡座をかいた。
「分かりました。では手っ取り早く要件を語りましょう。」
棕櫚は一つ頷き、仙山の真向かいに正座した。
「榊の命はあと二夜もすれば尽きます。」
「!」
衝撃的な言葉だった。仰け反りはしなかったが、そうなってもおかしくないほど仙山が息を飲んだ。
「耶雲が寝ずの番を続けて、五夜です。」
棕櫚は落ち着いて見える。しかし額の冷や汗は嘘をつかない。
「まことか。」
「嘘など付くはずがないでしょう。」
二人は眼差しを交わしあい、いや、睨み合いと言うべきかもしれない。それほど強く互いの目を見た。
「して___万策尽きたなどとは申すまい?」
仙山は威圧するように言った。その言葉には殺気が籠もっていた。棕櫚がもし「尽きた」などと言おうものなら、壁に掛けられた刀を取り斬りかかると思わせるほどに。
「無論です___しかし、これが最初で最後の策となります。」
棕櫚の言葉には重みがある。怖じ気づく姿が想像できないほど人を食ったような男が、いま微かに唇を震わせてそう言った。闇の番人は彼にとって姉を連想させる人であり、榊は彼の命の恩人であり、榊にとっての彼は罪深き男である。
仙山は棕櫚の覚悟を肌に感じた。
「申せ。」
「白廟泉(はくびょうせん)です。」
棕櫚は懐から一つの古びた巻物を取り出した。それを広げると、やや滲んだ字で何かが記され、もう一つ滲んだ地図が描かれていた。
「聞かぬ名だな___」
「俺も初めて聞きました。しかし、その存在は実際にこれに記されています。そしてこの白き御霊の泉の水は、万病、万障、万難、あらゆる枷を滅する___とあります。」
棕櫚は生真面目に蕩々と話した。
「眉唾ものではないのか?」
「だから俺もこうして冷や汗を抑えられないんですよ。こんなものを頼るしか、策がない。」
仙山の反応は予想していたのだろう。棕櫚は反発するように語気を強めた。
「この巻物の名に見覚えは?」
棕櫚は巻物を最後まで広げ、末尾の署名を指さす。
「白童子(しらどうじ)___知らぬな。」
「白廟泉に白童子なんて、白が重なっているあたりがますます眉唾くさいですね。しかもこの地図___滲んでしまって肝心の場所が良く分かりません。」
仙山は地図を睨み付ける。この巻物は一度水にでも落ちたのだろうか?地図も文字も、半分近くが滲んではっきりとしなかった。
「ただ、ここに打点していたように見えます。」
「いや、こちらもそう読みとれる。」
「そうなんです。」
そこで、仙山にも棕櫚の意図が分かった。
「なるほど、手分けをしようと言うことか。」
棕櫚が頷く。
「こんなものを信じるしか手がないなんて絶望的です。そして残された時も少ない。あるかないかも分からない白廟泉、なにより榊の命を繋ぐ力を持つのか、全てがはっきりとしないんです。ただ、少ないなりにも賭けてみようと思わせるのはこれだけでした。」
そう、確かに他の文献を見ても、あるいは豊な知恵を持つ者の助言を仰いだとしても、それは寄生草を熟知する棕櫚に「無駄」だと思わせるものばかりだった。突拍子はないが、嘘だとも言い切れない。確かに打点のように見える二箇所は、どちらも近隣に集落がない土地である。
可能性は捨てきれない。なにより___
「地図そのものは馬鹿にしたものでもなさそうです。その土地の特徴的な川とか、山とか、それなりに正確な位置に書かれています。」
棕櫚はすでにこの巻物に賭ける気でいる。仙山の答えが何であれ、彼はこれを信じて疑わないだろう。
「よし、良いだろう。寄生草の恐ろしさはおまえから充分に教わったつもりだ。私もその巻物に賭ける。」
「ありがとうございます。」
「新しい巻物を取ってきてくれるか?」
棕櫚はこうなることを予想していたのだろう、徐に懐から新しい巻物を取り出した。仙山は煙たそうに舌打ちし、棕櫚は白い歯を見せた。
仙山は新しい巻物を広げ、白廟泉の巻物と並べる。それをじっくりと眺めると、新しい巻物にその手をかざした。複写はすぐに終わった。そればかりか、仙山の巻物には、一つはっきりとした打点がされた。
「私はこちらに向かう。もう一つはおまえが行け。」
「心得ました。どちらの点も地図を見た上ではここから一夜半ほどの距離です。榊に残された時間を考えると、二夜のうちに見つけなければ白廟泉が実在したとしても意味を失いかねません。」
「分かっている。それまでになんとしても見つけるのだ。」
「ええ。」
目指すものは同じでも握手などしない。それが二人の関係だった。
ジリ___
僅かに後ずさったソアラの靴が砂を擦った。
「ホーッホホーッホホーッ!」
奇声と共に、ソアラの周囲で木々が激しく揺れる。闇の中には無数の目が光っていた。ただそれはどれも一つ目で、大きい。
(ったく、ついてない___!)
生理的な事情で街道から夜の森へと入り込んだのだが、どうやらそこは獣たちの住処だったらしい。彼らに敵と見なされたソアラは、用足しを終えたときにはすっかり囲まれていた。
ビュン!
木々のざわめきと奇声のコーラスが最高潮に達したそのとき、四方八方の枝葉の影から何かが高速で吹っ飛んできた。
「やばっ!」
ソアラは慌てて横っ飛びし、投げつけられた石や枝から逃れた。前のめりになりながら目の輝きが少なかった方向へ、ソアラは痛む足に鞭打って全力で走った。その後ろから弾丸のようにして木々や小石が降り注いだ。
ザザザ!ザザザ!
ソアラが突貫してくると、そちらにいた目の輝きは素早く身を隠した。どうやら単独で襲いかかるほどの勇気はないらしい。群れで動き、道具を使い、木々を飛び回る俊敏性___
「やっぱり猿か!」
素早い動きで空中ブランコのように枝を渡り、あっという間にソアラを追い越していく毛むくじゃらの獣は、紛れもなく猿だった。大きさはソアラの腰丈ほどでしかなく、違いといえば一つ目で耳が尖っていることくらい。
「ギャギャギャ!」
「うわっ!」
真正面の木の上から三匹の猿がソアラに向かって飛びかかってきた。ソアラは足の軋みを感じながら横っ飛びし、目の前に現れた木の幹を駆け上るようにして体を伸ばしたまま後ろに宙返りする。彼女の動きに付いてきた猿の飛びつき攻撃は空を切り、宙を舞う間にその動作を捉えたソアラの体は反射的に攻撃に転じていた。
ドガッ!
まるでボレーシュートを打つように、宙返りした彼女の下を通りすぎた猿の後頭部に、ソアラの蹴りが炸裂する。猿は奇声さえ上げられずに顔面から木にぶつかり、崩れ落ちた。
「ギャーギャーギャーッ!」
猿の奇声がまるで悲鳴のように、今までになくヒステリックになった。
「な、なによ!?」
ソアラが動揺するのも束の間、枝葉を突き破り、十数匹の猿が牙をむいて一斉に彼女に襲いかかってきた。
「うわぁぁっ!」
たまらず逃げ出したソアラの前に、またも猿が飛び降りてくる。ソアラは湿った枯れ葉の滑りやすさを利用したスライディングで、顔を狙ってきた猿の下をくぐり抜けた。
「怒らせた!?」
しかし立ち上がったところに一斉に石が投げつけられる。ソアラは軽やかな側転でこれから逃れたが、猿の追走は終わらない。
「ギギィッ!」
「わぷっ!」
柔軟性ある枝の先端に数匹の猿が押し寄せ、一気に撓らせた。側転からそのまま走り出したソアラは、体ごと枝に突っ込んで行く手を阻まれてしまう。何とか素早く身を翻したものの、そのときにはすでに数十匹の猿に睨まれていた。
「ご、ごめんって___仲間を傷つけたのも謝るからさ___」
言って通じるわけがない。ソアラは引きつった笑みを浮かべながら、ジリジリと後ずさる。猿たちは一つ目を光らせ、彼女を威圧するようにジリジリと距離を詰めてきた。ソアラは冷や汗をしたたらせながら後ずさり___
ズルッ!
「うぇっ!?」
突然右足が後ろに滑り、何も踏みつけられなかった。すっかり暗がりと化した森の中では背後の地形がつかめなかった。ソアラの後ろは急斜面になっていたのだ。
「うわあああっ!」
バランスを失ったソアラに石の集中砲火が浴びせられ、彼女は斜面を転がり落ちた。
「キャキャッ!」
猿たちは歓声を上げ、なおも彼女を追った。殺すまで気が済まない。殺気だった獣の集団は血に飢えて見えた。
そして、すべての獣は血の香りに敏感である。
「ぐっ!?」
もんどり打って転げ落ちた斜面の下には大きな岩があり、不覚にもソアラはそこに側頭部を打ち付けてしまった。落下の最中にまるでピンボールのように体を木で跳ねられて、石に突っ込むときには身を守ることも出来なくなっていた。
「___っ___」
意識は保たれた。しかしソアラの視界は七転八倒して、到底立ち上がることなど出来そうもなかった。腕も足も傷だらけ、途中で踏み止まろうと伸ばした右手の指が二本折れた。服も無茶苦茶で、頭の鳴動と併せて胃袋にも不快感が蔓延った。
「ギャーギャー!」
猿の奇声が共鳴してより一層頭に響く。ソアラは岩の上に横たわったまま、目は開いていても体が言うことを聞かない。
「こんなところで___」
こんな恥ずかしい朽ち果て方があるものか?アヌビスに挑まなければならない自分が、たかだか猿の群に殺されるのか?
ソアラは強い意志だけで正気を保ち、必死に肘を張って体を起こそうとした。しかし再び後頭部に強い衝撃を浴びて、岩に顔からぶつかるように突っ伏した。猿が木の上から跳び蹴りを見舞ったのである。
「くそ___」
ソアラは鼻血を垂らしながら顔を上げた。立て続けの頭への衝撃で意識が朦朧としていた。だから、木の下で縦に揺れる二つの光も、地面に降りた猿が飛び跳ねているようにしか見えなかった。
「___!」
縦に揺れる光はどんどん大きくなり、そして___
グシャッ!!
また猿の奇声が聞こえたから、キックが飛んでくるものと思っていた。しかしソアラの背に降りかかったのは生暖かい液体だった。赤いそれは、血液。
「ウギャーッギャーッ!」
猿たちの奇声の調子が変わった。威嚇とは違う、それこそ先ほどソアラが彼らの仲間を傷つけたときに近いヒステリックな声。だがそれ以上に気になったのは、木に何かがぶつかる音や、何かがはじけ飛ぶ音、そして獣の重低音な唸り声。
薄らぐ意識の中、ソアラの視界に猿の悶絶した首が転がってきた。何が起こっているのか分からないまま辺りが静かになる。
ザッザッ___
爪が土を掻く音が近づいてくる。意識は近づいたり遠ざかったりしているが、まだはっきりとしない。立ち上がろうと力を込めてみるが、今更ながら左の肩が外れているのに気が付いた。
グッ___
ささやかな痛みと共に、腹部が暖かくなる。腹をさらに暖かい空気がなで回し、少しくすぐったかった。服が濡れていくのも分かった。俯せのまま体を持ち上げられた彼女が見たのは、鋭い爪を血まみれにした獣の足だった。
(大きな犬___狼___?)
足は犬のそれと同じ形だったが、太くて大きい。腹に時々歯が当たっていたのだから、この犬はまるで自分の子供でも運ぶようにソアラを甘噛みし、どうやらどこかに連れて行ってくれるらしい。そう思うとソアラの意識は不意に途絶えた。
「う___」
気が付いたとき、ソアラは全身にポカポカとした心地よさを味わっていた。
「ん?」
顎先が水面に浸る。湯気で辺りは曇っており、ソアラの額には汗の珠が浮かんでいた。服は浮ついていて、体にも浮遊感がある。しかし首には引っ張られる感覚があった。
パッ。
その引っ張られる感覚が消えると、ソアラの体はズルッと湯の中に沈み込んだ。
「ぷはっ!」
目覚めには適度な刺激だ。少し焦ったが底が浅いと知って、ソアラは手を付いて湯面から顔を上げた。辺りを見回してみるとどうやらここは温泉だ。少し熱いと思うくらいの湯は奥に見える滝から蕩々と流れ落ちていて、何より真っ白と言えるほど白い湯なのがおもしろかった。
「あれ?」
今更になって気づいたことだが、外れていた左肩が治っている。右手を湯から出し、指を動かしてみると___
「治ってる。」
指の骨折が全く完治していた。さらに驚いたのは___
「嘘___」
手に蔓延っていた黒が驚くほど小さくなっている。ソアラは慌ただしく水を弾かせながら立ち上がり、湯を吸って重くなった服の裾をたくし上げ、まじまじと自分の脚を眺めた。
「消えてる___」
全てではないが、黒麒麟に犯された黒が消えている。脚に蔓延っていた圧迫感や痛みもほとんど無くなっていた。それどころか、体中につけた生傷も跡形無くと言っていいほど完治している。
(まさかこのお湯に治癒効果が?)
「目が覚めたようじゃな。」
湯気で煙って影形ははっきりとしない。しかし年季の入った声が聞こえ、ソアラはそちらを振り返った。
「ここに誰一人立ち入らせぬのが我が勤め。じゃが北斗が許したのじゃからやむを得ぬ。」
ゆっくりと、現れたのは真っ白な狼。巨大で、力強く、美しい獣。北斗と呼ばれた彼がここまでソアラを運んだのだろう。そしてその狼の背には___
「おぬしは清き泉に入る資格のある女ということじゃろうて。」
白髪が乗っていた。いや、そう言いたくなるほど不思議な風体をした老人である。腰が曲がっているせいなのか背丈は子供ほどでしかなく、片手には杖を握っている。北斗の背に跨るのではなく、両の足で立ってやってきた老翁は、髪も眉毛も髭も真っ白。毛はその長さと量が並はずれていて、彼の顔から体からほとんど全てが白髪に隠れていた。飛び出しているのは鼻と、両腕と、足先くらい。ほとんど毛玉だった。
「我が名は白湯仙(さゆぜん)。この白廟泉の主じゃ。」
毛玉爺は北斗の背からぴょこんと降り立った。そして湯の中に立ち唖然としているソアラに向かって「白廟泉の主」と言ったのだ。
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