2 躍動する邪悪

 冬美は約束の地を目指して飛んでいた。黒麒麟の寵愛を受けて身につけた黒く輝く魔力は、黄泉の空を飛ぶのに都合がいい。この闇の空を白く光りながら飛んでは格好の標的だから。
 「おーい!」
 密やかに飛んでいたはずの冬美の耳に届くほど大きく、下から呼ぶ声が聞こえた。
 「?」
 不意に襲われることはあっても、呼び止められたのは初めてだったので冬美は急ブレーキを掛けて眼下を見やった。下には街道が延び、そこで何者かがこちらに向かって手を振っていた。
 「ちょっと道を聞きたいんだけど!?」
 誘い文句だろうか?いざこざには関わり合いたくなかったが、無視するわけにもいかないので冬美はゆっくりと下降した。
 「ああ、助かったよ。道に迷うは、人に聞こうにも誰も通らないはで困ってたんだ。」
 下にいたのは見るからにズタボロなのに、元気だけは有り余っている女侍。そう、竜樹だった。
 「私もあまり詳しくはないから、力になれるかどうか___」
 どうやら敵意はなさそうだ。冬美は警戒しながらも彼女の言葉に応じた。
 (それにしても___)
 体中傷痕だらけだ。薄汚れて所々解れた晒しで胸だけはきつく締めているが、袴も穴だらけ。体だって腕は両方とも赤くミミズ腫れのようになっているし、まだ新しそうな擦り傷切り傷はそれこそ全身に及んでいた。
 ただそれにしては飄々としているし、元気だ。弱みを見せないように気勢を張っている風にも見えない。
 「次の夜までに至獄の谷へ行かなきゃいけないんだ。これ以上迷ってたらまた遅刻しちゃうよ。」
 「至獄の谷?」
 冬美が驚いた顔をしたので、竜樹もピンときたようだ。
 「あれ?もしかして。」
 「奇遇だな。行き先は同じだ。」
 冬美は社交的な笑みを見せたが、竜樹は懐疑的な目で彼女の上から下までを嘗めるように見てきた。
 「本当かよ〜?おまえみたいなヒョロヒョロ女も牙丸に誘われてんの?全然強そうに見えないんだけどさ。」
 まあずいぶんと失礼な態度である。竜樹は戦士としてアヌビスに魅入られて誘われたわけだから、目の前の華奢な女が自分と同じ扱いだということに腹立たしさを感じたのだろう。
 「細い腕だなぁ___」
 竜樹は構わずに冬美の体に触れ始めた。冬美は別段嫌がる素振りも見せず、初対面にしては度を超して馴れ馴れしい竜樹の態度にも冷静そのものだった。むしろソアラや百鬼と良い勝負だったというのもあって、少し懐かしく思ったくらいだ。
 「なんか嫌がったりしねえのな。」
 「同姓に触れられて取り乱してもな。」
 「むっ、俺を女扱いするな。俺は男だっ!」
 「ふっ。」
 眉間に力を込めて力説する竜樹の姿が滑稽で、冬美はつい笑ってしまった。ケルベロスの軍事参謀だった頃からの色が染みついているのか、彼女の些細な笑みは見ようによっては嘲笑に写る。
 「あっ!てめえいま馬鹿にしただろ!」
 「いや___そう言う訳じゃない。ただその格好で男だと言われても説得力がないと思っただけさ。」
 そして話口調が冷静すぎるから、聞き手が少し卑屈な面を持っていたりするとコケにされたように思われがちである。
 ちなみに、竜樹は性別の話題に関してかなり卑屈だ。
 「体どうこうじゃねえんだよ!確かに俺にはいちもつはねえけど、心は男なんだ!」
 大胆というかがさつというか、竜樹は大きく股を開いて見栄を切る。その姿はまた冬美の笑みを誘った。
 「あーっまた笑った!」
 「いや、すまない。しかし___」
 冬美がすんなり謝ったので、さすがの短気な竜樹も龍風に伸ばし掛けた手を諫めた。ただ、どうも冬美が観察するようにこちらを眺めているのは不愉快だった。
 「惜しいな。」
 「は?」
 「いや、女らしくしていれば誰も放っておかないだろうに。」
 竜樹の利発な顔立ち。表情の作り方が攻撃的だが、こと顔の造形に関しては男を自負するだけにどこか中性的な魅力がある。ただ、睫毛だって長いし、すすけた頬だって顔を洗えば瑞々しい白肌に違いない。何より顔も体もまだ若干のあどけなさが残る、少女と女の境を感じさせる容姿。
 珠をヤスリで擦るような真似をしていてこれなのだ、磨けば男が一目で惚れ込むような女になれるかもしれない。そこが、素直に惜しい。
 ただこの手の助言を竜樹は一番嫌う。彼女は反射的に左手で冬美の襟首を掴んでいた。
 「冗談で言ってるならそれくらいにしとけよ___俺は簡単に殺すぞ。」
 右手は龍風の柄を握っている。冬美もそれに気づいていた。
 「あまり冗談は言わないたちなんだ。」
 至極冷静な冬美の言葉。言葉尻に被せるようにして、竜樹は左手をグンと突きだして冬美と自分の狭間に距離を作ると、右手の龍風で抜きしなに彼女の腹を切り裂いた___
 「これしきで刀を抜くか___よほど込み入った事情がありそうだな。」
 はずだったが、刃は空を切っただけ。冬美の体は襟首を掴まれたまま地面と水平になって、空中でとどまっていた。
 「悪いかよ。」
 「悪いな。非常識な私情で人を殺そうとしているんだから。」
 竜樹がぱっと左手を放すと、冬美の体は再び大地と垂直に変わり、彼女は地に降り立った。
 「っち___食えねえ女だな、てめえは。」
 竜樹は呆れたように吐き捨てて、龍風を鞘へと戻す。
 「やめるのかい?」
 「あ〜、やめてやるさ。だから至極の谷まで案内しろよ。」
 「ふふ。分かったよ、旦那さん。」
 さっきから無茶苦茶なことをさも平然と言ってのけ、旦那さんといわれただけで表情から少し毒気が抜ける喜怒哀楽の激しさ。冬美は竜樹にガキ大将を見るような可愛らしさを感じた。
 「ただ出発する前にその格好を何とかしてもらいたいな。おまえは構わなくても、あたしが恥ずかしい。」
 「ん?そうか?」
 刀を振るっただけで、ずたぼろの晒しが解れていた。胸をさらけ出しても隠す素振りさえ見せない竜樹の姿に、冬美は苦笑した。

 バシャバシャ!
 豪快に水を弾かせて、竜樹は膝まで浸かるほどの小川に入り込み顔を洗っていた。相変わらず灰色の空で、中庸界で同じことをするほど爽快感はないだろうが、流れが緩くても川遊びは気持ちのいいものである。
 (元気だこと。)
 冬美は竜樹の様子を河原で見ていた。竜樹の水浴びは、せっかく着替えるんだから体についた血を洗い落とせという冬美の「命令」だった。竜樹は至極の谷に急ぎたいからと渋っていたが、冬美にそっぽを向かれて谷に辿り着けないのは困る。で、言うことを聞いたわけだ。
 「くっはぁ〜!気持ちいいなぁ!」
 体についた血を洗い落とすと言うよりも、ただただ水と戯れてはしゃぎ回っている風に見える。まあ無邪気な彼女らしくてよろしいのだが、せめて腰回りくらいは隠してほしいものだ。
 (ここまで出来ればたいしたものだ。)
 自然児のように裸で飛び回る竜樹の姿に、冬美は呆れ半分、感心半分。クールが売りの冬美だが、実は人をからかうのが嫌いじゃない。今も、男と自負する彼女が女の色香に対してどんな反応を示すか試してみたくなった。
 「楽しそうだな。あたしも入ろうか?」
 「ば、馬鹿言え!一人じゃねえんだから、女が軽々しくそんなこと言うんじゃねえの!」
 柄にもなく赤くなっている。自分だってそれなりに胸のふくらみを揺らしているくせに。本当は自分が女だと分かっているから女扱いされると怒るわけだが、瞬間的な反応が男の態度になるのはつくづく大したものだ。それだけに、いったい何が彼女をそうまでさせるのかは気になる。男だと気勢を張ってはいても、どこか悲壮を感じさせるのは気のせいではないはずだ。
 (彼女の能力に関わる何かか?元来は男だったが、あるきっかけで体だけが女に成り代わってしまったとか___妖魔は何でもありだからな。)
 冬美は竜樹の、豹のように研ぎ澄まされた体線を眺めていた。どれほどの戦いを積み重ねてきたのか、彼女の体には全身に細かい傷跡が幾重にも刻みつけられていた。
 (自分の体が女であることは怒りながらも認めている。だが、心が女であることは頑なに否定している。大事なのは彼女の体の作りではなく、気持ち___なのかもな。)
 竜樹について考えを巡らせていた冬美だが、そこで川の異変に気が付いた。
 「竜樹、川がおかしいぞ___」
 「あ?」
 まるで風呂にでも浸かるように、川の中で仰向けになっていた竜樹は冬美の声を聞いて上半身を持ち上げた。
 「げっ!?」
 すると彼女の身体に残った水が赤み帯びている。
 「うわっ!」
 川がうっすらと赤色に染まっている。竜樹は驚いて片足を川から上げた。
 「血の匂いだ___なんなんだ急に?」
 身体を洗ったのが台無しになってしまう。身体にまとわりつく匂いはもちろん、上流から風に乗って血なまぐささが漂ってきた。竜樹は慌てて川から上がる。川は上流で急に曲がっており、血の色合いが濃いのだからすぐそこで何かが起こっているようだ。
 「様子見に行こうぜ。」
 「関わるのか?物好きだな。」
 竜樹は冬美の足下に置いていた龍風を取った。黄泉で血のあるところに関わるとろくなことがないものだが、竜樹はむしろワクワクした顔をしていた。
 「服を着ろよ___」
 「いいよ、後で。」
 「せめてこれを腰に巻け。」
 冬美は絹の肩掛けを竜樹に渡し、彼女は仕方なしにそれを腰に巻いた。竜樹はみるからに無鉄砲で、様子見が得意でなさそうに思える。だから冬美は彼女が腰巻きをしている間に一歩先に出て川を上流へと進んだ。
 「っ___」
 川が曲がっている先、すぐさま奇異な景色を目の当たりにして彼女はたまらず足を止めた。慄然とする彼女の顔つきに身の引き締まった竜樹は、冬美のすぐ横に立ち河原にしゃがみ込む鬼畜の背中を見た。
 「落ち着け。」
 「___」
 河原には裸の女がざっと十人は転がっていた。生きてはいるようだが___人形のように折り重なって倒れていた。女たちはみな若い。結われた髪がほどけて身体にまとわりつき、あまりにも艶めかしい。死人にはない血色が肌をほんのりと桃に染め、血の匂いと相まって、筆舌にし難い淫猥さだった。
 その女の山を背に従え、背中を揺する男。彼もまた裸だった。ただその背中は肋骨の陰影まで浮き上がるほど痩せ、なによりも老いている。坊主頭にはいくらかのシミも見て取れた。
 彼はなぜ背を揺すっているのか。人の徳を逸した行為に、冬美の氷のような心でさえ憤りが煮えたぎっている。竜樹が冷静でいられるのか不安だった冬美は、彼女の腕を掴んでいた。
 「げふっ、うひぃぃ。」
 ゲップと共に息を吐き出し、男はその骨と皮だけの手を振り返りもせずに後ろに伸ばし、近くに転がっていた女の髪を掴んだ。見た目とは裏腹の怪力で、女は彼の前へと引きずられる。その間も目を覚ましはしない。そして水気あるものを捻り潰すような音が聞こえ、男の背中越しに血の花火が見えた。
 そしてまた背中を揺する。その老人は、生きた女を食べていた。
 「おい冬美。放せ。」
 竜樹の声色は落ち着いていた。座っていたと言った方がいいかも知れない。ただ、我慢は腕を取る手から冬美にもひしと感じられた。だから余計に放せない。こんな所業を日常のようにやってのけているであろうあの老人には、安易に近づいてはならない。
 「放さねえとてめえの腕をへし折るぞ。」
 老人の背中が止まった。竜樹の声が聞こえたのだろう。ゆっくりと、こちらを振り返る。らしくないが、どんな悪魔かと冬美は身震いをした。
 ギロリ。
 老いぼれである。顔は皺だらけで、目は窪んでいて、ほとんど髑髏だ。髭はないが白い眉毛だけが妙に長い。それこそ、腕力に乏しい冬美でも簡単に張り倒せそうな、貧相な老人だ。ただ、その眼差しは彼女を尻込みさせるだけの何かを秘めている。それは間違いない。
 口は血にまみれ、老人は何かをくわえていた。細長く、ミミズのように見えなくもない。
 「___腹が___」
 老人がしゃがれ声で言った。
 「腹がうまいんじゃ___子を宿す腹がな___」
 ゾッとした。人間の体のつくりについてはそれなりに理解している。男は女性器を貪っている。ミミズを吸い込むとその先には石ころくらいの肉の塊が付いていた。凹凸の多い楕円形のそれは卵巣だ。老人は卵管を吸い上げ、口に入り込んだ人の源を噛み潰した。
 冬美は寒気を抱き、己の下腹部が酷く痛むような気がした。この老人に力強さは感じない。でも、久方ぶりに「関わりたくない」と思うほどの恐怖を抱いた。老人が身体を横に向けると、彼の身体越しに下腹部をほじくり返された女の骸が見えた。
 夢中になりすぎて、竜樹の右腕を掴む冬美の左手に、竜樹が逆の手を宛ったことに気づくのが遅れた。
 ベギベギッ!
 「!?」
 冬美は目を疑った。手が、竜樹の驚異的な握力で砕かれていた。掌は拉げ、指があさっての方を向く。冬美はたまらず己の左手を抱き、苦悶した。そして竜樹は___
 「俺も人殺しってことじゃ同類だ___だがこのやり方は許せねえ!」
 龍風を抜き、老人に向かって歩き出す。鋭い殺気を隠すこともせず、竜樹は倒れる女たちを踏みつけないように、進んだ。しかし___
 ガッ。
 「なっ!」
 その足首を何者かが強引に掴んだ。足首だけじゃない。いつの間にか体を起こした女たちが、歩みの止まった竜樹に群がるようにして彼女の身体を立った状態で押さえつけはじめた。
 「やめろ!くっ!」
 腕力では竜樹に分がある。しかし女たちはこともあろうか竜樹の腕や腹に噛みついたのだ。しかも肉を食いちぎらんばかりの勢いで。
 「ぐうう!」
 特に龍風を握る右腕には四人の女がかじりつき、痛みで解れた指から龍風がこぼれ落ちた。刀は刃を下にして、かじりついていた女の一人、そのふくらはぎに刺さったが彼女は意に介する素振りもなかった。
 「美しいおなごじゃ___」
 老人はいつの間にか立ち上がっていた。すると彼の異様さは際だった。片目は潰れ、極端な横脚で常に膝が曲がっている。横脚で腰も曲がっているからそう見えるだけなのか、立った状態で地面に付いてしまう腕の長さも目だった。
 そのいずれもが老いぼれているが、露出した下半身だけは若き血が滾っている。
 「___!」
 老人はその長い腕を伸ばし、竜樹の肌に触れた。指を這わせ、親指と人差し指で丸みある膨らみを弾ませる。さらに五本の指でそれを挟み付けると、強い力を込めて抓るようにした。
 「お主くらいの齢が美味の最たるもの___その腹の中に男を塗して食うたなら、さぞうまかろうて。」
 それは、彼女を覚醒させるのに十分すぎる侮蔑だった。
 バリバリッ!
 肉と皮が引き裂かれる音がした。迸ったのは竜樹の血だった。彼女は身体を多少食いちぎられることも意に介さず、女たちを振り切り、龍風を手に取っていた。
 そして一振りで、辺りに血の雨を降らせるだけの女の首が飛んだ。ようやく手の治療を終えた冬美は、竜樹の顔を見て言葉を失っていた。彼女の額には小さな角が生え、口からは二本の鋭い牙が覗き、顔から首、肩にかけてまで真っ赤な紋様が浮かび上がっていた。
 (変身型の能力か___!?)
 冬美が突然の変化に唖然としている間にも、また三人の女が斬り殺され___
 ズドン!
 老人の心臓もまた、一突きにされた。
 「___我が名は性骨(しょうこつ)___覚えておくが良い___」
 それでもまだ呟く。竜樹は性骨と名乗った老人の胸に突き刺さった龍風を、そのまま下に向かって引き下ろし、性骨は胸から尻まで亀裂を走らせて、バッタリと仰向けに倒れた。
 それで竜樹は止まるかと思われた。しかし止まらない。猫のように縦に長い瞳に変わった彼女は、残りの女の首を切り飛ばし___
 「来るか___!」
 冬美にも襲いかかった。そして彼女の首もまた、一太刀に切り飛ばされた!
 だが、血が出ない。表情も変わらない。それは魔力が作り出した幻影だった。
 「自分の意志では___」
 「ぐあああ!」
 背後からの声に、竜樹は奇声を発して振り返りざまに刀を振るった。
 「どうにもできないらしいな。」
 龍風の研ぎ澄まされた刃は冬美の右手首を半分まで切り進んだところで止まっていた。彼女の腕は白い輝きで覆われ、時に黒が火花のように散っていた。その波動が女の首を易々と切り落とした破壊的な刃をくい止めたのだ。
 ダラダラと、刃を血が伝う。
 「目を覚ませ、竜樹。このままあたしの腕を切り落とし、首に刃を進めればおまえは至極の谷に行けなくなるぞ。」
 「うぅぅ___がぁぁ___!」
 苦悩しているようだ。化け物の縦に伸びた瞳が丸に近づいてくると、その色合いはより強くなる。竜樹がこの化け物を押さえつけたがっているのは明白だった。
 「あああ!」
 そして困惑を断ち切るように、龍風を握る右腕、先ほど女に皮膚を食い破られた傷に左手の爪を食い込ませた。悶絶しながら竜樹の手は龍風から放れた。
 刀は冬美の腕から抜け落ち、彼女は右腕を包む魔力でそのまま傷口をふさいでいく。そして竜樹は___
 「はぁっはぁっ___」
 血まみれの河原に四つんばいになって、背中を血と汗でぬらしたまま荒い息を付いていた。角も牙も紋様も消え、瞳も疲れ切ってはいたが元の円らなそれに戻っていた。
 「大丈夫か?」
 「っ、はぁっはぁっ___」
 なにか答えようとしたが言葉にならない。少しだけ顔を上げるとまたすぐに深く俯いてしまう。とんでもない消耗の仕方だ。竜樹は息も絶え絶えで、初めて出会った頃の元気は消え失せていた。体中に傷を作っても飄々としていられる彼女はそこにいなかった。
 「ぅ___」
 フッと彼女は意識を失ってしまった。河原に顔から突っ伏し、冬美は慌てて彼女に回復呪文を施した。

 「悪かったな、迷惑かけちまって。」
 獣が血の臭いを嗅ぎつけてきそうだったので、冬美は意識の戻らない竜樹を抱えて川をより上流へと進んだ。そうしている間に意識の戻った竜樹を清流の前へと座らせ、冬美は治療を再開していた。
 「いや、おかげであの不気味な老人を仕留められたんだ。良しとしよう。」
 冬美の呪文は生命力に満ちあふれ、竜樹は自分の体が満たされていく心地がたまらない快感だった。まるで薬効の強い温泉に浸かっているようだ。だが心はすっきりとしなかった。
 「でもあのじじい___俺に胸を貫かれててめえの名前を覚えておけなんて言いやがった___」
 「そうだったのか?」
 「性骨というらしいぜ。」
 致命傷を負った者が、再会を臭わすような言葉を言う。それは確かに不気味だ。竜樹の背に手を触れていた冬美は、彼女が少しだけ強ばったのを感じた。彼女も___怖いと思うらしい。
 「だがあれは確実に死んでいた。」
 「そりゃそうだ、手応えもあった。」
 「ならそれでいいじゃないか。」
 「そうだな。」
 竜樹は自分の乳房に付いた忌々しい血の指跡に気づき、舌打ちした。
 「あえて込み入ったことを聞かせてもらっていいか?」
 あらかたの傷の治療を終えると、冬美は川の水で濡らした布を手に、彼女の体に大量にこびりついた血を拭い落としていく。そしてその最中、そう問いかけた。岩の上に胡座をかく竜樹は目を閉じて、しばし逡巡してから答えた。
 「なんだ?」
 「覚えているんだな。我を忘れているように見えて。」
 「やっぱりあれのことか。」
 体の前まで拭こうとした冬美を制し、竜樹は自ら布を手に取ると真っ先に胸についた血染めの指紋を拭い落とした。
 「変身型の能力と言うには度が過ぎるように見えた。」
 「そうとも、度が過ぎる。あいつは俺にも抑えられない。だから俺は、あいつが出てこないように必死なんだ。」
 竜樹はまるで人ごとのように言う。それは冬美に二重人格者を思わせた。
 「冬美、おまえには色々助けてもらっているから___」
 今度は乾いた布で、冬美が背中を拭いてくれる。
 「どうしても聞きたければ俺のことを話すのも仕方ないと思う。ただ、これを教えたら俺にとっておまえは他人じゃない。もしおまえが俺を裏切るようなことをすれば、俺はおまえを殺す。」
 冬美は彼女の背を見つめて微笑した。竜樹なりの礼なのだろうが、痛々しさだけが際だっていた。少なくとも冬美は、自分のしたことと彼女の秘密では天秤に掛けてもあまりに釣り合わないと思っていた。知りたい思いはあったが、必要かと言われれば否だ。
 「やめておこう。君に恨まれるのはいやだ。」
 竜樹は冬美の暖かさに触れ、彼女に聞こえないほど小さな声で「ありがとう」と呟いた。ただ穏やかなのは一時だけ。自分では制御しきれないほど「裏」の竜樹が表に顔を出し、危うく冬美を殺めかねなかった事実は、彼女の心に影を落とす。
 (俺の___羅刹の地獄___断ち切るにはもっと強くなるしかない!)
 そして、決意を新たにしていた。

 至極の谷。そこは黄泉の断裂と呼ばれている。
 乾燥した大気と、岩肌を剥き出しにした大地。そこに大きなヒビのようにして、谷が走っている。それは深いが短い。どうしてこんな地形ができたかは全く分からないが、この辺りには集落もなく、谷の奥底には恐ろしい魔獣が住んでいるという言い伝えもあり、誰も近づかない不毛の地となっている。
 牙丸が強者と出会えることを期待してこの場所を見に行ったとき、魔獣など見る影もなく、単なる噂であるとはっきりした。しかし今は、魔獣以上の恐怖と旋律を呼ぶ者たちがここに集まっていた。
 そして出迎えた男もまた、牙丸という仮の姿を捨て、アヌビスとして待っていた。
 やってきた妖魔たちは彼の姿に驚きながらも敬意を表していた。いずれも時を止めるという能力を見せつけられ、そして彼の野望を聞き、共感を抱いてこの場にやってきたものたちばかり___違うといえば銀髪の彼女くらいだった。
 (凛様___)
 冬美はアヌビスの近くに立つ仮面の女を不自然でない程度に気に掛けていた。鼻の頭から、額の当たりまで大きく隠した仮面は闇に咲く青い花。黒麒麟は仮面の奥の瞳で冬美を一瞥しただけで、何か合図を送ることはしなかった。
 (ふぅん、強そうな奴もいればそんな感じに見えない奴もいるな。)
 冬美の隣に立つ竜樹は装束を新調して精悍さを増している。絣から藍染めの胴着と袴に替わったので余計にそう見えた。そんな彼女はここに集まった牙丸と冬美を除く六人の戦士を伺っていた。
 「おい牙丸じゃねえや、アヌビスの旦那よ、確かおまえさんは新しい戦士が八人欲しいって言ってたな。七人しかいねえじゃねえか。」
 筋骨隆々で、竜樹が「強そうだ」と思っていた男、迅が口を尖らせていった。彼の側には妻の多々羅が苦笑して旦那を見ていた。
 「そうだな。もう予定の時間は過ぎているんだが。」
 「誰が来ていないんですか?」
 竜樹がこの勇士の中でも一際「弱そう」だと感じていたのが、この青い長髪で細みな若い男、幻夢。彼は他の六人を見渡しながら言った。
 「えっと___性骨だな。」
 「!」
 その名前にあからさまに反応したのが竜樹と冬美だった。竜樹は露骨に肩をすくめ、冬美は左目を見開いた。
 「どうした?」
 冬美が驚く様を見慣れていなかった黒麒麟が二人の態度に気づき、問い正す。
 「実はここに来る途中、性骨に遭遇いたしました。そしてその鬼畜ぶりを目の当たりにし、また我々も奴の毒牙に狙われまして___」
 「俺が殺しました。でもあんな奴と同士になるなんて真っ平だったからちょうど良かった。」
 丁寧な冬美の説明を飲み込むように、竜樹が声を大にして言い放った。嫌悪感が露骨な口振りで、他の者たちは呆気にとられたり、無関心だったり、にやついていたり。
 「そうか、それなら仕方ない。」
 アヌビスもまたあっけらかんとしたものだった。
 「一人欠けようと元々おまえたちの個人能力を買って誘ったんだ、問題はない。さて、それならそろそろ動き出すか。」
 アヌビスはスッと手を挙げる。岩に寄りかかって眠そうにしていた頭知坊も背を伸ばした。
 「おまえたちにこれから向かってもらうのは俺の故郷、『冥府』だ。そしてそこから光を司る竜の神が治める世界、天界への襲撃を行ってもらう。陣頭指揮は___」
 「あ、夜行だ。」
 アヌビスの後ろに茶色いフードの中に赤く輝く瞳を持つ奇怪な男、夜行が現れる。竜樹が彼の名を呼んだ次の瞬間には、夜行のフードが弾け飛び、黒い霧が広がると褐色の肌をした大柄な老人が現れた。
 「このダ・ギュールが行う。これが本当の姿なだけで、中身は夜行とかわらねえ。だからあまり口うるさくないのはおまえらも知ってるだろうが、何か指示されたら言うことは聞けよ。」
 「よろしくな〜、爺さん。」
 迅が軽い返事をして、アヌビスは笑った。ダ・ギュールはいつも通りの無愛想である。
 「それからこの姫凛、彼女は妖魔でありながら異世界の神を知っている。」
 アヌビスは己の隣に立つ仮面の彼女を指さしながら言った。黒麒麟ではなく姫凛と呼ぶ辺りが、アヌビスの彼女に対する尊敬の意を表している。
 「彼女の指示に従えばまず間違いない。いや、逆らわない方がいいと言った方がいいかな?分かったか、迅?」
 「了解。よろしくな、仮面の下はきっと別嬪さんだな?なにせ唇が色っぽい。」
 「あんたっ。」
 黒麒麟に愛嬌を振りまいた迅は、多々羅に足を踏まれて呻いた。
 「姫凛、迅、多々羅、幻夢、頭知坊、竜樹、冬美___しっかり頼むぞ。」
 名前を呼びながらそれぞれと目を合わせ、アヌビスはニッと犬の口で笑った。
 「あ、そうだ、これをやらないと。」
 いつの間にやらアヌビスの手に皮の袋が握られていた。そして彼はその中から小石ほどの大きさの何かを取り出した。
 「なんだそりゃあ。食いものかぁ?」
 頭知坊が暢気なことを言うと幻夢がクスクスと笑った。到底食べられるように見えないそれは、アヌビスの横顔を象ったバッチだった。
 「これを服に付けておけ。八柱神の証だから冥府でもでかい顔ができる。」
 アヌビスはそれぞれにバッチを放り投げた。貴重なバッチにしては荒っぽい扱い方である。ただどこか漫画調でコミカルに見えるバッチの柄に顔をしかめたのは、黒麒麟だけではなかった。
 「あまりパッとしねえな。」
 「アヌビス趣味悪いぞ。」
 「うるせい。」
 口憚らない迅と竜樹の言葉にアヌビスもタジタジである。

 黄泉の闇の空。その中に、少し他とは違う闇があった。黄泉の闇は外から見ると黒と灰色が織り交ぜられたようになり、中から見ると黒と紺が織り交ぜられたように見える。しかしその穴だけは真っ黒だった。
 「誰にも邪魔させない空間を作れば、闇の番人で無かろうと黄泉の闇の中を進むことが出来る。」
 アヌビスは鼻を高くして暗黒の穴を指さした。そこはアヌビスの「邪輝」に犯された空間である。黒の中の黒は黄泉の闇の摂理さえ遮るのだ。
 「あの穴の奥底に、俺の故郷へと続く口を見つけた。多少体に衝撃はあるだろうが、おまえらが耐えられないはずはないだろ?」
___
 そして、ダ・ギュールが放った魔力で空へと舞い上がり、七人の戦士たちは異界へと旅立つ。
 アヌビスはそれをにこやかに見送っていた。人影が漆黒に消えるのを見届けたとき、背後に気配を感じて彼は振り返った。
 「?誰だおまえ。」
 そこにいたのは若い男だった。浅黒い肌をした彼は、大きな口に綺麗に並んだ白い歯を見せて微笑んだ。




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