1 小鳥の巣立ち
「気を失ってから___どれくらいがたったんだ?」
芽だった花が咲いているのだから、知るのが怖い気もする。怯えがソアラに両親の肖像を見させた。
「!」
ソアラは愕然とした。二人の肖像画にまで黒が蔓延り、水虎の顔を塗りつぶしていた。
「なんてことを___!」
ソアラは満足に動かない脚で懸命に駆け寄った。このときばかりは闇を踏みつけようとも意に介さなかった。
「父さん___」
水虎の姿は見る影もない。だが彼の肖像はソアラの脳裏に夢と共にしっかりと焼き付いている。寧々の微笑みが無事なだけましだったと思うべきだった。
「うっ。」
足の裏に寒気を感じ、ソアラははじめて自分が染みの上に立っていることに気づくと慌てて逃れた。
「はぁ。」
壁際まで必死に走り、ソアラはそこにあった石の出っ張りに寄りかかった。走るだけで脚がズキズキと痛む。
「?」
石の出っ張りの上に手を触れて、ソアラは異変に気づいた。
「埃が溜まってる___」
出っ張りの上を指でなぞると、量は多くないが埃がこびり付いた。そういえばどうも妙だ、幾らあの庭師が目が悪いといっても数夜もここに立ち入らないなんて事があるのだろうか?
心配になったソアラは大階段の方へと歩みを進める。そして言い得ない怒りを覚えた。
「お爺さん!」
階段の側に老人が倒れていた。ソアラは脚を縺れさせて何度か転びながら老人に駆け寄る。しかし触れるでもなく、彼の死は明らかだった。
「酷い___」
あの黒麒麟が直接彼を死に追いやったとは考えづらいが、床に広がった闇に足を踏み入れ、囚われ、食い尽くされたのは明らかだった。彼の全身に黒が蔓延り、すでに所々腐っていた。
「ドラゴフレイム!」
老人の冥福を祈り、ソアラは炎を放った。脚は痛んだが、気にしなかった。老人の体は炎に包まれ、消えていくかに思えたが予想外のことが起こった。
ビシュゥゥッ!
「!?」
炎の中から黒い雫が弾け飛んだのだ。ソアラは咄嗟に手を盾にしてしまった。
「くっ!?」
両手に怪力で握手されたような圧迫感が走った。ソアラはすぐさま手を引くが、掌はすでに真っ黒に染まっていた。
(迂闊!)
なんとたちの悪いものか!ソアラには舌打ちするのが精一杯だった。
さて、時は少し遡る。ソアラが深い眠りに落ちている間、黄泉の一部が目まぐるしく動いていた。
一つは黒麒麟。一つはサザビーと小鳥。一つは榊である。
まずは___
「やっぱり凛様に断ってからじゃないと駄目だよ!」
「お、おいおい!」
気が変わればこんなものか、サザビー、バルバロッサに連れられて何処かへと向かっていた小鳥は、突然思い立ったように踵を返した。
「ちょっとぐらい大丈夫だって。」
サザビーは慌てて振り返って彼女に声を掛けた。無理に腕などを掴まなかったのは過敏になっている彼女を怒らせないため。
「駄目だよ。ちゃんと許してもらわないといけない。勝手に出歩くなって姉様にも言われてるし。」
「冬美か?」
「姉様のことも知ってるの?」
小鳥は驚いた様子で目を白黒させた。
「ああ、もちろん。」
傍観者を決め込んでいたバルバロッサが舌打ちした。サザビーはついこの前フュミレイと遭遇したときの短いやりとりを忘れることもなく、さも知ったように「冬美」の名を口にしてみせる。つくづく強かな奴だと感じていた。
「なら___えっと。サザ___?」
眉間に力を込めて記憶を絞り出そうとする小鳥。ミキャックであった頃よりも表情豊かで見ていて楽しい。
「サザビー。」
「そう、サザビーも一緒に来て凛様にご挨拶しなよ。」
「は!?」
楽しんでいたのもつかの間、サザビーは彼女の提案に身を凍り付かせた。
「姉様の事も知ってるなら大丈夫だよ。ほらほら早く。」
「あ、おいっ、ちょっとまて!」
小鳥はサザビーの腕を掴むと、容赦なく引っ張って歩き始めた。
(ったく、記憶をなくしても腕っ節はかわらねえんだから___)
女性とはいえ天族屈指の戦士であり、あの八柱神のガルジャを倒した逸材だ。サザビーを強引に引っ張る力も大した物だった。
「おーい。」
小鳥に引っ張られてよろめきながら歩くサザビーは、苦笑いで後ろのバルバロッサを振り返る。
「しらん。」
しかし冷たくあしらわれた。
(やれやれ___)
どうやらいつものなるようになれ主義で行くしかないようだ。サザビーは好ましい成り行きを期待しながら、元気良く歩く小鳥に引きずられていった。
「ただいま戻りました〜。」
黒麒麟の館へと戻ってきた小鳥は、静かに扉を開けて澄んだ声を響かせた。サザビーはまだ扉の陰に隠れ、バルバロッサは扉の外で辺りに目を向けていた。
「あれ?」
声に対して反応がない。不思議に思った小鳥は首を傾げた。
「どうした?」
「ただいま戻りました!」
小鳥は先ほどよりも声を強くして言った。しかし館には自分の声が響くだけだった。
「誰もいないみたいだな。」
「おかしい___」
小鳥の顔がみるみるうちに不安に変わっていく。
「いつも誰かいるのか?」
サザビーの問いに、慌ただしく二度三度と頷く小鳥。
「みんな出ていってもらったよ。」
そのとき、左手奥の廊下から彼女が現れた。
「姉様!」
小鳥がパァッと明るい笑顔になり、サザビーから手を離して彼女に駆け寄っていった。
「留守番をサボって何をやっていたんだ?」
「ごめんなさい。」
笑顔で飛びつかんばかりだった小鳥に冬美が戒めの言葉を掛けると、彼女ははっとして深く頭を下げた。
「あいつに何かされたのか?」
ポンと背中に手を触れられると、小鳥は頭を上げて堰を切ったように話し出した。
「あの人サザビーっていうの。小鳥の昔を知っていて、姉様のことも知ってるのよ。だから___」
「なるほど___」
「サザビーは私の旦那様なんだって。」
「へぇ。それはそれは。」
冬美の冷笑にサザビーも引きつった笑みを返した。
「で、ご両人は連れだってわざわざ何をしに来たんだ?」
「そいつが無くしたものを見つける手助けをしたくてな。」
「凛様に出かける許可をもらいに来たの。」
サザビーのばつの悪そうな顔が全てを物語っている。だいたいの筋書きを読みとった冬美は、背高な小鳥の背中に触れた。
「凛様はしばらく出かけて戻ってこない。」
「え?」
「私も凛様のお供をすることになって、それでしばらくここを明けることになるから小間使いたちを信用できる妖魔の所へ奉公に行かせたんだ。」
幸運は味方するものだ。サザビーは心の中で「しめしめ」と呟いていた。良かれ悪かれフュミレイは話の分かる女であり、こちらの事情も知っている。相談しやすい相手だ。
「凛様は小鳥も連れて行くつもりだったが、どうする?おまえは旦那様と自分探しの旅をするのも良いかも知れない。」
サザビーを一瞥すると彼がウインクを返してきたので、冬美は虫酸が走るのを感じた。
「どうしよう___どうしたらいいと思います?」
「さあ、それはおまえが考えるんだ。」
「凛様は許してくれますか___?」
そう、それが心配なのだろう。小鳥は黒麒麟が持つ攻撃的な力を肌身で感じたことはないが、彼女が逆らってはいけない存在だと本能で感じている。選択に悩む小鳥は、ソワソワとして落ち着かなかった。
「凛様には私が言っておくよ。」
「本当ですか?なら、あの人と一緒にいてみたいです。」
その答えは冬美には少し意外だった。元々は違った目的を持って黄泉に来た彼女が、いつか黒麒麟から自立する日が来るだろうというのは冬美も感じていたことだ。しかし、きっかけがあったとはいえこうも早いタイミングとは___サザビーは彼女によほどのことをしたのだろうか?
「分かった、ならそうするといい。」
「凛様や姉様ともまた一緒にいられますよね?」
短い逡巡の後、冬美は自分より背丈の高い妹分ににっこりと微笑んだ。
「ああ、もちろんだ。」
事実は異なるかも知れない。でもこうでも言っておかなければ、彼女の決心が変わるだろう。
「旅にはそれなりの支度が必要だ。そんなサンダル履きで出かけるのか?」
「あっ!すぐに準備してきます!」
小鳥は自分の脚を見てハッとすると、にこやかに駆けていった。
「悪いな。気遣ってもらって。」
彼女がいなくなる也、サザビーが言った。
「こうした方が彼女のためになると思っただけさ。元々はおまえたちと一緒に来たわけだし、これから凛様と共に動くのは彼女には辛すぎる。」
「黒麒麟はどこに行くんだ?館を空にしたってことは当分帰ってこないんだろ?」
「___」
もし小鳥にかつての記憶があれば、黒麒麟の目的に賛同するとは考えられない。そして万が一にも記憶が戻ったとき、黒麒麟の側にいては彼女は限りない苦しみを味わうことになる。
竜神帝に仕える者が竜神帝を脅かす手助けをするのだから。
「分かった、聞かねえよ。ミキャックを託してくれた礼もあるしな。」
口を噤んだ冬美に、サザビーはそれ以上の追求をやめた。
「すまないな。」
しかし冬美が詫びの言葉を口にしたのは意外だったようだ。
「多分もう会うことはない。この前はおまえに任せると言ったが、やはりソアラに会っても私が存命だったことは伏せておいてくれ。」
「いいのか?」
「探されては困る。」
サザビーは思わず口笛を吹いた。
「なにか?」
「いや、通じ合ってるなぁと思ってさ。」
「___」
おそらく冬美___いやここだけはフュミレイと呼ぶか。フュミレイもソアラと会いたいのは同じで、彼女が黄泉に来ていると知って余計にその感情が強くなったのだろう。でも彼女はソアラよりも遙かに抑えの効く人物だし、ソアラの気性も良く分かっている。だから「探されても困る」と言ったのだ。抑えの効かなかったソアラは中庸界で彼女を捜して歩き、あげく百鬼との関係を破綻させた。
「なあ冬美、ミキャックを小鳥にしちまった涼妃って奴のことを教えてくれるか?」
冬美は腕組みをして少しだけ考えてから、口を開いた。
「そうだな、小鳥の身をおまえたちに預けるのだから、教えなければなるまい。扉の向こうの無愛想、涼妃の事を知っているか?」
サザビーは扉の外に顔を覗かせる。バルバロッサは静かに首を縦に振った。
「知ってるそうだ。あ?ああ、名前だけだって。」
面倒くさい奴。サザビーはバルバロッサを不機嫌な目で見てから冬美にそう伝えた。
「こいつからはなかなか全部聞き出せないからさ、教えてくれよ。」
「面倒な相棒だな。」
「だろ?」
サザビーはバルバロッサをそのままに、館に入り込んで少し冬美に近づいた。
「涼妃は人身売買の商人だ。得意の能力で記憶を吹っ飛ばし、抜け殻にして売りつける。定期的とは言わないがセリを開いていて、私も凛様に連れられて出向いた。そこで小鳥を見つけるや否や、凛様が買い付けを命ぜられたのだ。」
「なんでだ?」
「さあ。」
思い当たる節というか、冬美は一つの答えを知っているのだが体よくはぐらかし、サザビーもそれが分かったから鼻で笑った。実のところ答えの一つは、黒麒麟も異界からやってきた人物だからである。
「おまえたちは鴉烙の配下なんだろう?無法な警察の頭なら私よりも詳しく知っているんじゃないか?」
「あ〜、あんまり関わりたくないんで。」
サザビーは苦笑いして手を振り、拒否した。その仕草を見てフュミレイも失笑する。
「色々事情がありそうだな。まあいい、以前涼妃のセリが行われた場所を教えよう。ただ簡単に参加できるのかどうかは分からない。できれば彼女のセリに参加したことのある妖魔と近づいた方がいいな。」
「それもそうだな。教えてくれるか?」
「生憎私は凛様の執事なだけで、あまり妖魔のことには詳しくない。ただ名前を聞いた妖魔なら何人か教えられる。」
冬美は何人かの名前を呼び上げていき、サザビーはそれを扉の外のバルバロッサに問いかけた。
「児玉は知っている。鴉烙に契約書を握られているからな。」
「お、そりゃいいや。」
バルバロッサへの確認を終え、サザビーは館の中に戻って冬美に親指を立てて見せた。
「そうか、良かったな。」
冬美も微笑んだ。それにしても、相変わらず憂いを含んだ笑顔である。角度によって閉じられた右目が覗くとますます際だつ。
「私もそろそろ行かなければならない。」
「そうか、色々ありがとうな。」
サザビーが手を差し出すと、冬美もそれを握り返した。互いの温もりを共有すると、冬美に差す憂いの影が少し和らいだようだった。
「今度ゆっくり酒でも飲もうぜ。」
「楽しみにしてるよ。」
「また。」
「ああ。」
二人は短い抱擁を交わした。冬美にとって、こんな近くで男の優しい匂いを感じたのは遙か昔に思えた。遠く___フィツマナックの頃まで遡らなければいけないのではないだろうか。
「なあこの屋敷の中、見て回ってもいいか?」
去り際の冬美の背中にサザビーが問いかける。
「構わないだろう。どうせ蛻の空だ。」
冬美は振り返って答え、そのまま館の外へと出ていった。
「小鳥とサザビーを頼むぞ、用心棒。」
外___冬美は扉に凭れるバルバロッサの横顔を見て、声を掛けた。バルバロッサは沈黙を守っていたが、彼と短い時間でも目が合えばそれで充分だった。
そして、冬美は黒い光に包まれて空へと飛び立っていった。
___
「なんでぇ、家具や美術品まで置き捨てか。勿体ねえなぁ。」
館の中を見て回っていたサザビーは、客間にやってきた。立派なソファやテーブル、花瓶などがそのまま残されている。
「?」
その中で目を引いたのは、シックな色調が目立つ部屋で異彩を放つ、壁に掛けられた「青空の絵」だった。
「なんだこりゃ?」
頭の柔軟さには人並み以上のものがあると自負するサザビーは、この絵にすぐさま違和感を覚えた。
(何でずっと黄泉にいる奴がこんな絵を持ってるんだ?小鳥やフュミレイが描いたわけでもないだろうに。)
「サザビー!」
元気の良い声が部屋の入り口から聞こえてきた。そこには妙に着飾った小鳥の姿があった。何を勘違いしたのか、長くて裾の広いスカートに、踵の高い靴まで履いている。
「なにしてるの?」
「なあ、この絵は誰が描いたんだ?」
小鳥は小走りで、つんのめりながらサザビーの隣へとやってきた。
「ああ!凛様だよ。あたしも好きなんだ、この絵!」
「ふぅん。」
黒麒麟と小鳥の接点は青空を知っているということ。いや小鳥だけじゃなく、フュミレイや、サザビーとの接点でもある。青空を知っていると言うことはつまり、黄泉以外の世界を知っているということだ___
「サザビーも好き?」
「う〜ん、俺は絵よりもおまえの方が好き。」
「___」
ムッとしているのかと思いきや、小鳥は彼の隣で照れていた。そんな彼女を見てサザビーは___
(記憶無くしてる方が可愛いかも。)
と思ったとか思ってないとか。
「ところでおまえその格好はちょっと旅っていう感じじゃないぜ。」
「え〜?そうかな?」
旅装束と言うよりはほとんど舞踏会である。無駄なアクセサリーも目立った。
「着替えろ着替えろ。」
「手伝ってよ。良く分からないから。」
「喜んで〜。」
無邪気な可愛らしさはあるものの、何となく張り合いもない。やっぱりミキャックはミキャックでいて欲しいと思うサザビーであった。
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