第13章 生還

 暗い。
 目覚めているような気はするのに、何も見えない。
 体は酷く重い。動けない。
 だめだ。眠るか、もう一度。
 ___
 ___
 ___
 ザァァァ___
 その日は強い雨降りだった。いや、その日という言い方が正しいかどうかも分からない。時間の感覚には自信を持っているが、こちらに来てから故郷の時間でおそらく五日は過ぎた。多少は明るかった空が___いや、空はずっと暗いままか。多少は明るかった周囲が暗やみに包まれてから、ずっと雨が降り続いている。
 広い草原。暗くなってからはその中にぽつりとあった岩の影で、じっとしていた。明るくなるまではこうしているつもりだったが、故郷の時間で丸一日が過ぎるのに明るくならない。
 「せっかくの命だから___大事にしたくなってきた。」
 死ぬ覚悟が不意に終わると、何だが全てが吹っ切れる。あれほど死にたかった自分には、今とてつもない生への執着が満ちあふれていた。
 「___」
 それにしても暗い。故郷とは正反対の世界だ。
 ___
 ___
 「おい。」
 ___?
 「おい!」
 「っ___」
 いつの間にか眠っていたらしい。さすがに五日分も起き続けるのは無理だったようだ。気づいたとき、大きな手が少し痩せたかもしれない肩に乗っていた。
 「おい、生きてるな?」
 「___」
 返事をしたかったが思うように声が出なかった。暗いから、手の主は影形でしか分からない。ただ掌が暖かかったのはよく覚えている。
 「あ〜、おいこら!寝るなって!」
 そうは言われても落ちてくる瞼を止められない。
 「参ったな___まだ鋼までは___」
 そこで途切れた。
 ___
 「ん___」
 目の前で揺らぐ炎の輝きが刺激になって、目が覚めた。
 「___」
 体は鉛のように重たかったが、動かないことはなかった。 
 「これは___」
 厚手の装束が掛けられている。獣の皮だろうか?まだ体と自分の服は雨の湿り気を含んでいたが、この装束のおかげでかなり暖かかった。
 「洞窟___?」
 仰向けのまま今自分のいる場所を確かめる。どこかの横穴のようだ。首を捻れば炎に照らされて、出口と雨の滴が見えた。あの手の主が介抱してくれたようだ。
 「よいしょ___あらら。」
 まだボンヤリしていた感覚が戻ってきた。しかし上半身を普通に起こしてみると、鮮明になってきたはずの視界がグラグラと歪み、目が回りそうになる。血の巡りが良くなると、今更になって激しい頭痛が襲ってきた。
 「お、気が付いたな。」
 雨でずぶ濡れになりながら、横穴に男がやってきた。声を聞くとあの掌の主だとすぐに分かった。
 「何だよ、まだ顔が赤いな。やっぱり熱は簡単に治らないか。」
 「!」
 筋骨隆々の上半身をさらし、下は袴姿のその男は、大きな手で構わずに彼女の額に触れた。初対面の女性に接する態度として彼女の常識になかった行動だったので、思わず身じろぎして手から逃げる。
 「何するんですか___」
 「何って、熱だよ熱。」
 「助けていただいたことにはお礼を言いますけど、断りもなしに触れるなんて失礼だと思いませんか?私はあなたの妻でもないのに。」
 「___」
 男は彼女の利発な物言いに唖然としていたが、すぐに肩を揺らしはじめ___
 「はっはっはっ!」
 大笑いした。
 「何で笑うんですか。」
 「ははっ、いやすまん!しかし元気な女だ。」
 男は炎の隣に胡座をかいた。
 「俺は水虎っていうんだ。おまえ、名前は?」
 「おまえってやめていただけません?」
 「あ〜、う〜、あなた様のお名前はどのような感じでございますでございましょうか?」
 はっきりとした目鼻立ちの水虎は、男臭い笑顔でさもわざとらしく問いかけた。
 「___ネメシス・ヴァン・ラウティです。」
 不愉快ではあったが、女は淡々と答えた。
 「ネ___何だって?」
 「ネ、メ、シ、ス、ヴァ、ン、ラ、ウ、ティ。」
 ネメシスは一つ一つ言い聞かせるように、ゆっくりと話した。
 「もう一回。」
 「ネメシス。」
 「メネ?」
 「違います。」
 わざとやっているのか?と疑いたくなるやりとりだったが、どうやらそうでもない。水虎は苛立った様子で頭を掻いている。
 「あーっ、もうわからねえ!長すぎだよおまえの名前。寧々な、寧々。俺は寧々って呼ぶぞ。」
 「だからおまえってやめてもら___」
 突然目の前の水虎が三人に見え、意識が遠のいた。
 「あ、おいっ!寧々!」
 出会いはこんなものだった。水虎ははじめから寧々の気性を気に入っていたが、寧々は助けてもらった恩義は感じているものの、不躾な水虎を嫌悪していた。
 ___
 水虎は近くの木からもぎ取ってきた見た目に美味しそうではない山菜を囓っている。寧々はそれを受け取りはしたものの、手をつけず、声も出さず、炎だけを見ていた。
 「おい、疲れてるのは分かるが、少しは食べた方がいいぞ。」
 「え?あ、はい。」
 見かねた水虎がそう諭すと、寧々は我に返るようにハッとして、自分の手にあるグロテスクな造形の紺色の山菜を一瞥する。ただそれだけで口にはせず、また炎を見た。
 そうしているのが一番落ち着いた。
 「___」
 熱を帯びた揺らめきで、寧々も水虎も顔を橙に照らされる。そうすると、彼女の痩けた頬がはっきりと見て取れた。水虎は怪訝そうに、彼女を見つめた。
 「炎が好きなのか?」
 燃えさかる光を見つめる彼女が、とても穏やかな目をしていることに気づいた水虎は、好奇心に任せて問いかけた。
 「ううん、そうじゃないんです___ただ、光を見ているととても落ち着く。」
 「へぇ?変わってるな。そんなことを言う奴は初めてだ。」
 山菜を食べきった水虎は手に付いた滓を払い落として、その場でゴロリと横になった。声を出したことで寧々は咳をする。胸の奥から突き上げるような強い咳だった。体調はまだ底を脱しない。
 「光は危険だぞ。自分がここにいることを相手に教えるからな。光を使うなんてのは高位の動物がやることだ。だから獣たちは関わらないように光を避ける。でも人ってのは好戦的でな、暗い中で光を見ると気が高ぶるんだ。」
 「そうですか。でも私は落ち着きます。」
 気の強い奴___水虎は立て肘になって、炎をじっと見つめる寧々の横顔を眺めた。
 唇の色は悪いし、肌だって荒れてしまっているし、本当は美しかっただろう金髪はグチャグチャで、目には隈も浮かんでいる。それでも内面から醸し出す気品、憔悴しているようでも凛々しさを消さない眼差し、それだけで彼女は魅力的だった。
 「とりあえずそれ食べろよ。味はもう一つだが力は付く。栄養をとらないと風邪が治らないぞ。」
 「___」
 「食べろ。」
 何か遠慮がちだった。寧々は控えめに形の悪い山菜を口にする。雨で水をたっぷり含んでいたのか、中からはたくさんの苦みある水分が染み出してきた。
 「___」
 一はみ、二はみ___
 「?___おい。」
 水虎が疑うような目をして体を起こした。
 「悪い、嫌いだったのか?それ。」
 山菜を口に含んだまま、寧々が泣き出した。水虎は申し訳なさそうに彼女に近づいた。
 「何か別のものを取ってくる。」
 「違います___」
 出ていこうとした水虎の袴を寧々が引いた。
 「嬉しかっただけですから___」
 「あ?」
 涙顔で口元をほころばせた寧々の切ない笑顔。水虎はまだ彼女に特別な思いを抱くほどではなかったが、その芽生えはあったかも知れない。柄にもなくこのとき、頬が赤くなった。
 ___
 夜明けと共に雨もあがった。水虎は寧々に行き先はどこか問いかけると、彼女は詳しくは語らなかったが異世界から落ちてきたことを吐露し、彼を驚かせた。そしてもっと水虎が驚いたのが、これまで遠慮がちに見えた彼女の豹変だった。
 「私に生きる環境を与えてください。」
 「たいした根性だな。まともに歩けないくらい弱ってるくせに。俺におまえを鋼城まで運んで行けってのか?」
 「私の命をあなたに預けるということです___捨てたければ捨ててください。」
 「この黄泉には俺なんか目じゃないくらい怖い奴らがうろうろしてる。おまえみたいな奴がボンヤリ寝てれば、そりゃもう大変なことになるぞ。」
 「それならそれで運がなかったとあきらめます___クシュンッ!」
 救いを求めている___はずだ。その割に何をそんなに冷めているのか。寧々は命に対してやけに達観していて、本気で死の覚悟も持ち合わせているし、全てを水虎に委ねていた。表裏一つで自分の生き死にが決まることも厭わないような、命への淡泊さを感じた。
 「おまえ、それ本気で言ってるのか?」
 水虎は寧々の青い瞳をまっすぐに見た。威圧するように、眉間に力を込めて。
 綺麗な目だった。そのとき水虎は彼女の一番の魅力は目だと感じたものだ。目は口ほどにものを言う。寧々の瞳には彼女の生き様、人格、強さと弱さが滲み出ているように思えた。
 「悪いが置いていく。黄泉の旅は自分を守るのだけで精一杯だ。足手まといは俺の命も縮める。」
 この言葉を聞いて態度が豹変したら幻滅だ。だが彼女は違った。
 「わかりました。いろいろとありがとうございます。」
 水虎は正直感心していた。熱で火照った頬をしながら、寧々は毅然としている。情に訴えるようなこともせず、この妙なまでに吹っ切れた言動。水虎は本気で彼女を役者かと疑ったほどだった。
 ___それから。
 「試したんですか?」
 「馬鹿いえ。」
 寧々は水虎の背中にいた。彼に背負われて、黄泉路を進んでいた。
 「ありがとう___」
 「やめろよ、照れる。」
 鋼城はまだまだ遠い。

 「ハァックション!」
 鋼城に向けての二人旅を初めて三夜目のこと。
 「ズルズルッ。」
 「鼻水出てますよ。」
 「分かってる。っておまえも出てるよ。」
 「そうですか?あ、本当。」
 二人して、近くの葉っぱをむしり取って鼻をかむ。短い間でもずっと二人きりだと打ち解けるのも速いもので、寧々は「おまえ」と呼ばれることに何の癇癪も見せなくなっていた。
 「明日からは歩きます。だいぶ回復しましたから。」
 「よく言うよ、顔真っ赤だぞ。」
 よほどたちの悪い風邪なのか、寧々はクシャミや咳こそ出なくなったものの、発熱は未だに続いていた。あげく水虎にまで染ったようだが、彼は鼻水が酷い意外に目だった症状はなかった。
 「おぶるからな。俺の言うことは聞いておけ。」
 「ふふ、ありがとう。」
 「___」
 それでも多少風邪から回復して肌つやを取り戻し、一夜も前に清流で髪を洗い梳かした寧々は見違えるほど美しくなっていた。そんな顔で微笑まれたら度胸には自信のある水虎でもドギマギしてしまう。
 「おまえ綺麗な。」
 「え?」
 「ぐぎゃっ!」
 隠し立てしない水虎の言葉に寧々が耳を疑う間もなく、彼の背の方向から蛙を潰したような悲鳴が聞こえた。
 「また何か引っかかったらしいな。」
 「今夜は二人目ですね。」
 「もう慣れたのか?最初はビクビクしていたのに。」
 水虎が火のついた枝を松明代わりに背後を振り返って照らしてみる。すると黒い忍装束に身を包んだ男が、大地に体半分をめり込ませて痙攣していた。
 「水虎さんが殺さないと約束してくれたので慣れることにしました。」
 「くくっ、相変わらず口が達者だなぁ寧々は。あ〜、褒め言葉だからな。」
 「嘘ばっかり。あ、また鼻が出てますよ。」
 「お?悪いな。」
 寧々は葉っぱで水虎の鼻水を拭ってやる。
 「うがっ!くせぇ!」
 「え!?」
 「おまえそいつは熊葛(くまかずら)だ!臭いんだよ、その葉っぱ!」
 「ご、ごめんなさい!」
 和気藹々としたものだ。体重が十倍に増えたようになってピクリとも動けない忍装束の男は、命を狙う相手の暢気な姿を見て何を思っただろうか?水虎は寧々のために休みを取りながら旅を進めていた。休む間は辺りの木を使って「陣」を張る。今張り巡らされている陣への侵入者は体重が二十倍になる。到底身動きなどできるはずがなかった。
 今、黄泉は混迷の中にあった。その中心にいたのが善行(ぜんぎょう)という男である。この男は数ある妖魔たちの頂点に立とうと目論んでいた。それに対抗する妖魔の代表格が杠(ゆずりは)という名の妖魔であり、彼は若いながらも知略に長け、人心の掌握が巧みだった。杠が黄泉全体とは言えないまでも、それなりの勢力を囲っていた時代に、善行は唐突と現れ、殺戮で力を示し始めたのである。今となっては誰もそんなことが囁かれたのを覚えてないが「善行はかつて鴉烙の部下だった」というのはもっぱらの噂だった。
 この中にあって、水虎はどこにも属さない男を決め込んでいた。彼の居城である鋼城が陣の効果で鉄壁を誇っており、水虎が誰かを脅かすわけでもないため、それもまかり通っていた。だが杠にしろ善行にしろ、鉄壁の水虎を自軍に引き込みたいのは確かだ。まして善行に至っては、杠に取られるくらいなら水虎を殺してしまいたいとの思いさえ抱いていた。
 道のりが長くなったが、それがこの忍装束の刺客である。
 ___
 陣が無くても水虎は強い。だから旅の間は水虎が寧々をおぶりながら刺客を蹴散らし、休みの間は陣で守る。
 と、順調に見えた旅だったが、この後思わぬ足踏みをすることになる。

 「う〜ん、俺が熱を出すなんてもう何年ぶりか分からないぞ。」
 真っ赤な顔をした水虎の目は心なしか虚ろだ。
 「ごめんなさい、すっかり染してしまって。」
 「気にするな。ブァックション!」
 クシャミと共に飛び出した鼻水を水虎が腕で拭おうとしたので、慌てて寧々が葉っぱで拭ってやる。彼女もまだ多少体に火照りを残しているが、大部回復した。と思ったら今度は水虎だ。どうやら風邪の元は寧々が「上」から持ち込んだようである。
 「良し、行くか。」
 「駄目です、ゆっくり休んでからじゃないと。」
 立ち上がろうとした水虎を寧々が止める。しかし彼はぼんやりしている体を引き締めるように自分で自分の頬を一叩きし、強引に立ち上がった。
 「そうも言ってられなそうだ。」
 「え?___!」
 草を踏みしめる音が聞こえ、寧々は息をのんだ。水虎は火を消してしっかりと片手で寧々の肩を抱くと、暗闇でも利く目で闇を睨んだ。
 ザザッ___!
 「陣はどうしたんです___?」
 「ここまで襲ってきた奴らを始末してこなかったからな、陣の「頂点」を見破られたんだろう。」
 水虎の能力である陣は、三つ以上の頂点で囲まれた空間に制約を生む。その頂点を破壊してしまえば能力はかき消されるのだ。この旅の間、樹木に頂点を張っていたパターンがいい加減読まれ始めたらしい。
 「うおおっ!」
 突然奇声を発し、闇の中から男の影が飛び出してきた。寧々は見えない恐怖を感じながらも、水虎を信じていた。
 バララララッ!
 妙な物音がしたのと同時に寧々は力任せに後ろに突き飛ばされた。
 ゴッ!
 「ぎぃぃっ___!」
 鈍い音と共に、水虎のものではない呻き声が聞こえた。
 ドサ。
 そして肉体が力無く倒れる音も。音の軽さからいって、大柄の水虎ではないが___
 「水虎さん!?」
 状況がつかめないことに焦った寧々は久方ぶりにその手を揺り動かした。
 「イゼライル!」
 石を拾い上げると、寧々はまだ少し掠れた声で言った。その途端、彼女の手の中で石が白い光を発する。すぐ側に水虎の背が見え、彼の前には小柄な男が頭をかち割られて転がっていた。
 「水虎さん!」
 寧々はすぐに彼に歩み寄り、異変に気づいた。彼の顔が酷く青みがかり、毛皮の装束で隠されていない胸元や、肩、腕には青痣が付いていた。その中央には白い石のようなものがめり込んでいる。
 「すまないな、殺しちまった___」
 「そんなこと___これは___」
 寧々が彼の体にいくつもめり込んだ白いものを取り出そうと手を伸ばすと、水虎はその腕を掴んで止めた。彼は酷く辛辣な表情で、少し息も荒かった。
 「これはあいつの歯だ___飛ばしてきやがって___しかも毒がある___」
 倒れている男の大きな口には歯が一本もなかった。
 「いつもだったらこれくらいはどうってこと無いんだが___」
 そこまで口にして、水虎の瞼が落ちる。
 「水虎さん!きゃっ!」
 寧々の呼びかけに気を取り戻すこともなく、水虎は彼女もろとも前に倒れた。
 「大変___」
 風邪で抵抗力の落ちた体だから、毒に魘されてしまっている。責任を感じた寧々は、すぐに水虎の体の下から抜け出して、彼を仰向けにした。その指先に氷の手袋を作り出し、すぐさま体に刺さった歯を取り除いていく。そして___
 「リヒナ!」
 皮膚の青く変色した部分に手を当てて解毒の呪文を唱えた。普通ならこれで毒が浄化されていくものだが___
 「駄目か___」
 妖魔の毒は並大抵ではないようだ。青痣は徐々に腫れに変わっていっている。
 そればかりか___
 ヒタヒタヒタ___
 「!」
 どうやら刺客は歯の男一人ではないらしい。二人との距離を測るように動く足音が___二つ、まだこの林にいる。
 グッ___
 寧々は水虎の側に跪きながら、周囲を伺う。その目には穏やかだった彼女とは比べものにならないほど、尖鋭な輝きが宿っていた。
 (私が___守らなくてはいけない!)
 僅かだがその髪をざわめかせ、寧々は戦士の緊張感を表に出した。
 ピタリと足音がやむ。風が吹き抜けるとザワザワと木々が音を立てた。
 風は強く、寧々の横顔を撫でる!
 ギンッ!
 左を振り向いた寧々は強く目を見開いた。そこには、宙を滑るようにして、小太刀を手にした男が迫っていた。
 「ぐっ!?」
 男の能力は風を導き、その流れに乗ること。しかし突如その風が乱れ、男の体は中を泳いだ。
 「おのれ!」
 身を翻して大地に降り立ち、寧々を仕留めようと飛び出す。だが小太刀が寧々に届くことはなかった。
 「!?」
 突きだした刃に奇妙な力がかかり、手から発射されるようにあさっての方向へ飛ばされた。風を導く能力を持っているだけに、男は風を感じる力に長けている。だから目前で風が奇妙な曲線を描いていることに恐怖した。
 「ぐあああっ!」
 見た目には、男がただ手を伸ばして寧々に向かっていっているだけだ。なのに、男の手がいきなり中指と薬指の間から裂け始めた。親指から中指までは右に、薬指と小指は左に捻れ、引き裂かれるように腕が割れていく。
 「おのれ!」
 今度は後ろだ。寧々はこれっぽっちも慌てることなく振り返り、ただほんの一度だけ大きく目を見開いた。
 ギュンッ!!
 「おおぉぉぉ___!」
 背後から迫っていた男の体は下から吹き上げた強烈な突風で、一瞬のうちに闇に届かんばかりの高さまで弾きあげられた。
 「___ぉぉぉおおおっ!!」
 グゴギッ!
 男は成す術なく落下し、森の枝葉を突き破って首から大地に激突した。
 「___」
 ネメシス・ヴァン・ラウティは故郷では戦士、竜の使いである。そして竜の使いのなかでも肉弾戦を得意としないものは、何らかの風変わりな能力を持っている。彼女の力は目に込められ、無の中に自在な風を作る。
 「ごめんなさい___」
 腕から割れていった男も、肩まで裂けて悶死していた。持ち前の能力を駆使して、人を殺す。なんと胸くそ悪いことか。でも今は己を叱責するより、水虎を治療するのが先決だった。
 「ここじゃ駄目だ___」
 ___
 寧々は汗だくになりながら水虎を運んで歩き、ようやく見つけた岩陰の横穴に入り込んだ。正直それほど得意とは言えない呪文で岩盤を熱して乾燥させ、そこに水虎を横たえる。とりあえず石を拾ってイゼライルで穴の中を明るくした。
 「しっかり___」
 発熱で火照っていた水虎の顔色が青く変わっていることに危機を感じ、寧々は願いを込めて彼の手を握る。
 「リヴリア!」
 リヴリアは体力の回復を促す呪文。しかし水虎の体に無数に染みついた青痣は消えず、彼の血色も変わりはしなかった。
 「どうしたらいいの___?」
 これでは自分が彼を死の淵に追いやってしまったようなものだ。絶対に助けなければならない。だが解毒呪文のリヒナが通じなくてはどうしたらいいのか分からない。
 「せめて薬草を見つけられれば___」
 ここは芳醇な森の中だ。あれは別の森だったが、水虎はササッと栄養満点の山菜を採ってきてくれた。ここにだって薬になるような草があるかもしれないが、それがどれかを見分けることはできない。見知らぬ世界で、寧々はあまりにも無策だった。
 「ヂュギーッギーッギーッ!」
 突然甲高い悲鳴のような音が聞こえ、水虎の傍らで俯いていた寧々は頭を上げた。急いで横穴から顔を覗かせると、すぐ側で兎くらいの大きさの生き物がのたうっているのがみえた。どうやら蛇に噛みつかれている___鼠だ。特大の鼠。
 「いけない!」
 そのときは気が動転していたのだろう。鼠であれ何であれ、食い殺される様を見たくなかった寧々は駆け出し、食らいつくことに夢中になっている蛇の後ろ頭を掴んで鼠から引きはがした。そのまま投げ捨てると蛇は恐れを成して逃げていってしまった。
 「鼠は?」
 蛇にしてみればとんだ災難で、こうすることが正しかったかどうかは分からない。鼠も寧々を恐れてさっと逃げ出したが、すこし離れたところで足取りを鈍くしていた。
 「どうしたのかしら?」
 傷はそれほど深くないようだった。だから鼠も逃げる意志は持っているのだが、体が思うように動かないらしい。噛みついていたのが蛇なのだから、考えられるのは___
 「毒蛇だったのか___」
 鼠が痙攣して動かなくなっていく様が水虎を見ているようで、寧々は居ても立ってもいられなくなり急いで横穴へと戻っていった。
 ___
 「水虎さん___」
 手を握るくらいのことしかできない。彼の意識は戻らないまま。呼吸と鼓動が消えていないのがせめてもの救いだった。
 ガサッガサガサッ!
 「?」
 外でなにやら草を掻きむしるような音が聞こえた。寧々が立ち上がって様子を見に行くと___
 「あっ!」
 彼女の声に驚いて、その影は森の奥へと消えていってしまった。
 「いまのは___」
 そう、明らかにさっきの鼠だ。毒で弱っていたはずの鼠は、元気を取り戻して木々の向こうへと走り去っていった。
 「!」
 動物は知恵者で、人よりも遙かに自分が生きる術を知っている。直感で、誰に教えられるでもなく。
 急に覇気を取り戻した寧々は鼠が動かなくなった場所を思い出して駆け寄った。
 「___」
 土は軟らかく草葉は湿り気を帯びていた。服や体が汚れることなど気にもとめず、寧々はその場に這い蹲って何かを調べ始めた。
 「解毒の草があるのかも知れない___鼠はそれを食べて、回復したのかもしれない!」
 その思惑は正解だった。
 「これだ!」
 特定の草にだけ、齧歯類の囓った歯跡が付いていた。断面はまだ新しく、瑞々しい。間違いなかった。
 ___
 草は大きさこそ小さいが細い茎にまん丸の葉っぱが付いた不格好で、かなり目立つ。寧々はそこら中に生えているだけかき集めて、横穴へと戻ってきた。
 「んっ。」
 とりあえず囓ってみる。青臭さと同時に汁気が広がり、強い酸味で口の中が一杯になる。顔の筋肉が勝手に中央へと収縮するのが分かった。しかもこの草はとても硬く、口の中に残る。
 (茹でれば柔らかくなるだろうけど___)
 解毒の成分が死にかねない。寧々は水虎の手を一握りしてから思い立ったように立ち上がり、横穴から出ていった。
 しばらくして戻ってきた彼女は、重たそうに人の頭ほどもある石を持ってきた。服のポケットには赤色をした果実も詰め込んで。
 「ふぅ。」
 石を下ろして一汗拭うと、すぐに寧々は服の飾りボタンを一つもぎ取った。金属製で硬いものがあったのは幸運だった。
 「さぁ___」
 寧々は立て膝を付き、石を真上から睨み付けた。すると、石と寧々の顔の狭間に、白いうねりが立ち上る。大気に色はないが、埃を吸い込んだ風が高速回転してそう見えた。
 寧々は白い渦の中に、おもむろに金属ボタンを放りこんだ。
 ギュガガガガガガガ!
 小さな竜巻に飲まれたボタンは目下の石に激しくぶつかり、火花と小石を散らしていく。壮絶な掘削音を奏で、寧々が押さえつけていられないほどに石が熱くなってくると、彼女は眼力の竜巻を止めた。
 「よし。」
 そこには見事なまでのすり鉢が出来上がっていた。底に転がっていたボタンを拾い上げ、寧々は解毒の草を少しだけ中へ。服の袖を破ると手頃なサイズの石に巻き付けて、すり棒を作る。こうして解毒の草を少しずつ、すり潰し始めた。
 どれくらいの時間が経っただろう。何度か右手と左手を変えながら、どちらの握力も感じられなくなるほどにすり潰し続けた。すり鉢には解毒の草がペーストのようになって溜まっている。
 (まずは___)
 何も体内から取るだけの薬効成分では無いかも知れない。寧々はペーストを指で掬い上げ、丁寧に、水虎の青痣へ塗っていった。
 (よし、次。)
 今度は先ほど拾ってきた果実を手に取る。それはこれまでの旅で水虎に取ってもらった中でも、一番甘みの強い果実だった。これを直接手ですり鉢に擦りつけ、ジュースを作っていく。
 そして、薬が出来上がった。
 (___)
 水虎は生きている。だが相変わらず顔色は真っ青だし、意識が戻る気配もない。寧々は躊躇いなく、まず自らの口に解毒のジュースを含んだ。
 そして口移しにしていく。少しずつ、何度も、何度も___
 ___
 それからひたすらに祈り続けているうちに、寧々は眠ってしまっていた。
 コツン。
 「あう?」
 額に何かがぶつかって、寧々は目を覚ます。
 「おい、もう夜が明けてから随分たつぞ。」
 朗らかな男の声が聞こえ、寧々は飛び起きるように体を起こした。今更だが、体にはあの毛皮の装束が掛かっていた。
 「それ食べろよ、急に起きるとまたクラッと来るぜ。」
 横穴の出入り口。大男は後ろから光を受け、丈夫そうな白い歯を見せて笑っていた。
 「水虎さん!」
 彼を自分のせいで死なせてはいけないという思い、寧々を突き動かしていたのはその責任感だった。ただそれにしては、目覚めた彼に顔を綻ばせて抱きつきたくなったのはなぜだろう。
 「ありがとう、寧々。おかげで助かったよ。」
 そして水虎もまたこれまでとは少し違った感情を胸に、寧々の華奢な体を抱きしめた。
 ___
 「何で私も一緒に入るんですか?」
 鋼城を目指していた二人旅だったが、それなりに毒が消えたとはいえまだ違和感の残る水虎の為に、寄り道が増えた。
 岩場の影に湯気が立ち、白く濁った湯が蓄えられたそこは温泉である。
 「気にするなよ。」
 「それはあなたが言う事じゃないでしょ?」
 どっぷりと湯に浸かった水虎がにこやかに言うと、寧々は岩場の影から顔を覗かせて怒ったように口を尖らせた。
 「なら後ろを向いてる。それならいいだろ?」
 「___もう。」
 衣擦れの音の後、ヒタヒタと淑やかな歩みの音。湯に浸かる音とささやかな波が水虎の背を打ち、小さなため息が聞こえた。
 「いいですよ。」
 「ん?おお。」
 髪を結わえ上げ、ほんのりと上気した寧々のなんと艶っぽいことか。水虎は思わず、肩上の美に見とれてしまった。
 「?なんですか?」
 彼がじっとこちらを見ているものだから、寧々は少し伏し目になって問いただした。
 「あ?いやいや、おかげで目の毒も抜けてきた。」
 「いやらしい。」
 寧々は水虎の顔にお湯をかけ、プイッと顔を背けた。
 ___
 「なあ。」
 水虎は寧々に背を向けて湯に浸かっていた。
 「ん?」
 後ろでは、少しだけ上せてきた寧々が岩の縁に座って脚だけを湯につけ、涼んでいた。
 「おまえが何で黄泉に来たのか___聞かせてもらえないか?」
 「___」
 「嫌ならいいよ。」
 「自殺したかったの。」
 「!?」
 水虎は驚いて振り返りそうになったが、何とか踏みとどまった。
 「信じていた人に裏切られて、自殺しようとしたんです。そうしたら、なぜかこの世界にいました。」
 「おまえが自殺?信じられねえな___」
 「私は___特殊な戦士なんです。」
 「戦士?おまえが?」
 寧々が湯に沈む。
 「どうぞ。」
 寧々に背をつつかれ、かなり汗をかいていた水虎は振り返って半身を湯から抜けた。
 「私の故郷はこことは正反対の世界です。空は常に明るく、青さに満ちあふれ、色鮮やかな緑と、爽やかな風に包まれています。」
 「なるほど、正反対だ。」
 「世界を治めるのは竜の神で、私はその神の系譜を持つ戦士なんです。」
 水虎は素直に驚嘆していた。しかしすぐに彼女の奥底から滲む品格を顧みて、納得した。
 「私は腕力は弱いけれど、水虎さんたち妖魔のような能力を持っています。」
 寧々が湯気立つ空を一睨みすると、すぐに湯気は奇妙な八の字を描いてポッカリと二つだけ靄のない空間ができた。
 「風か?」
 水虎の問いかけに寧々は頷く。
 「竜の神は光の象徴として崇められ、私の故郷は時々それを良しとしない邪悪に狙われます。私や、私と同じ系譜を持つ血族は、世界の危機を打開するために闘うことを使命としているんです。」
 「で、何に裏切られたんだ?」
 水虎は再び湯に沈み込み、今度は少し寧々の近くに寄った。
 「今、私の故郷に住む人々は皆、翼を持っています。でも昔は私のような翼を持たない人々もいました。それが___今から遙か昔に、神の意志で全て滅ぼされたんです。」
 辛辣な寧々の顔を見つめ、水虎は黙って彼女の話を聞いていた。
 「翼のない人々は竜の神よりももう一人の神、闇を司る神を愛していました。長い時が信仰の違いを歪みに変え、翼ある人々との間に軋轢を生みました。やがて、乱れた世界に平静を取り戻させるため、竜の神は闇の神を異界へと落としました。ただそれがきっかけとなって、翼ある者たちは翼なき者たちを滅しはじめ、竜の神はそれを咎めませんでした。翼なき者は必死に抵抗しました。そしてその心の支えになっていたのが、私の血族でした。」
 少し熱くなってきたのだろう、寧々は温泉の縁にうつぶせになるようにしてもたれかかり、腕を湯の外へと出した。
 「でも、神の子が神にかなうわけないですよね。結局翼なき人々は故郷から消えました。」
 「何となくは分かったが、ならおまえは何なんだ?そんなに大昔から生きているようには見えない。」
 「私もいつ生まれたのか分かりません。」
 「なんだって?」
 「両親が誰かも知らないんです。」
 その言葉は水虎の頭に蔓延り始めていたまどろみを吹っ飛ばすような刺激があった。
 「翼なき者の存在が人々の記憶から完全に消え去るまで、神の戦士は現れないことになりました。ただし貴重な戦士の血を絶やしたくなかった竜の神は、母となった戦士の子供たちを手中に収め、永き眠りに就かせたんです。その間に時間を掛けて事実は脚色され、幾度と邪悪から故郷を守ってきた「竜の使い」の英雄伝説が生まれました。新たな脅威が現れれば誰かが目覚めさせられ、戦います。もちろん眠っていたことなんて知りませんよ。自分には親がいないんだと思うだけです。」
 「おまえは___忘れられたはずの昔話を知ってしまったわけだ。」
 「竜の神を父であり、誇りだと感じていましたから___自分の存在に絶望したこと、翼の人たちをまっすぐ見られないと感じてしまったこと、それが自害を決めた理由の一つ。でも本当は、私が最後に目覚めた竜の使いであり、先人が全て戦死していたから、血筋を絶つことで竜の神にささやかな復讐をしたかったんです。」
 バシャン___水虎は特に意味もなく水面を叩いた。
 「なるほどな。」
 それなりに納得はしたが、あまりすっきりとした表情ではない。だがそれは話し終えた寧々も同じだった。
 「おまえはそれをどうやって知ったんだ?」
 「夢です。」
 「あん?」
 水虎の眉が歪む。
 「夢だと?」
 「ええ。」
 「馬鹿かおまえは!?」
 水しぶきを巻き上げて水虎が立ち上がる。
 「いっ!いやぁっ!」
 縁にもたれながら振り返って話していた寧々は、突然視界に飛び込んできたものに硬直し、すぐにクルッと顔を背けた。
 「夢で言われたことをいちいち信じて、しかも自殺するってのか!?」
 「普通の夢じゃなかったんです!もう、早く座ってください!」
 水虎は少し冷静さを取り戻し、もう一度湯の中に座り込む。寧々も肩まで沈み込んで、向かい合うように座んだ。
 「黒髪の、どこか危険なくらい綺麗な女性が今の話をしてくれたんです。見たことのない人だったのに、今でもはっきり覚えてるんですよ?」
 「竜の神様ってのに、その話はしたのか?」
 「しました。でも、答えてくれなかった。否定してくれればここまで思い詰めなかったと思います。」
 水虎はため息をついた。
 「意外に弱いんだな。」
 「蔑んでもらっても構いません。でも___あの夢は普通じゃなかったんです。」
 「竜の神様はきっと悲しんでるぜ?おまえが最後なんだろう?その___竜の使いか?」
 「___ごめんなさい、もうやめましょう。ネメシス・ヴァン・ラウティは死んで、寧々が生まれたんです。それでいいじゃないですか。」
 自殺するほどの覚悟があったのは理解できるが、その元となったのが夢というのはどうも解せない。しかし彼女の言うとおり、水虎がそこまで立ち入るのは無理な話だった。
 「それもそうだ。悪かったな、いろいろと聞いて。」
 「いえ。お気遣い、ありがとうございます。」
 寧々の顔が鬱から微笑みに変わると水虎の心も自然に和んだ。
 「ただな、一言だけ言っておく。俺の側では自分だけで思い詰めたりするなよ。俺を頼って一言相談してからにしろ。」
 ブクブク。
 「わかった___ん?あっ!」
 笑顔のまま湯に沈んでいく寧々を見て、水虎は慌てて立ち上がった。どうやら長い間湯につかりすぎて、すっかり上せきってしまったらしい。
 ___
 日々を重ねるに従って、お互いの理解を深めていく二人。水虎の視線の先にはいつも寧々がいるし、寧々は水虎と共有する今に幸せを感じていた。
 「着いたぞ。」
 黄泉の中でも起伏が激しい山々を踏み進み、眼前に古びたお堂が現れると水虎はニッコリと笑ってそういった。
 「これが鋼城ですか?」
 城と言うにはあまりにもお粗末で、寧々は首を傾げた。
 「違う違う。ここは弁天堂っていってな、誓いの儀式の場所なんだ。」
 「誓いの儀式?」
 「永劫添い遂げるって誓いさ。互いの腕に印を刻む。」
 「へぇ___」
 寧々は素直に感心して苔むした堂の様子を眺めている。彼女の故郷にはない建築様式だから、余計に興味深く目を輝かせていた。
 「___」
 一方水虎は、彼女の横で口を窄めた。
 「おまえ鈍いだろ。」
 「何ですか急に?」
 寧々はむっとして水虎を見る。水虎は少しだけ薄ら笑いを見せると、それをかき消すように鼻の下をこすった。
 「しゃあねえな。」
 そして突然彼女の両肩をつかむと、自分の真正面に立たせた。
 「寧々!」
 「は、はいっ。」
 いつもと少し様子が違う。水虎は妙な緊張感と迫力を漂わせて間近で寧々をじっと見つめ、寧々もつかまれた肩をすくめて目を合わせた。
 「俺の伴侶になれ!」
 「はい。」
 寧々は朗らかに微笑み、落ち着いた声で答えた。水虎の声が裏返っていたのとは正反対である。
 「それ、聞き返した訳じゃないよな?」
 水虎は彼女があまりにあっけらかんとしていたので、疑うように問い返した。
 「添い遂げる誓いを立てるお堂なんでしょ?」
 「うっ___」
 「こういう言葉は面と向かっていってもらった方が気持ちいいじゃないですか。」
 変に意気込んでいた自分が馬鹿みたいだ。水虎はつくづく男の阿呆を思い知り、自然と気の抜けた笑顔になった。
 「これからもよろしくお願いします。」
 「もちろんだ!任せておけ!」
 「わっ!」
 水虎はいきなり寧々を担ぎ上げ、高笑いしながらお堂へと向かっていった。
 ___
 シンとした堂の中にはお香の心地よい匂いが漂っていた。水虎に運ばれてきた寧々は冷たく湿った板の間に座り、水虎は堂の奥でなにかをしている。香の煙は彼の向こうでまっすぐに立ち上っていた。
 「ここにはこの契りの香が炊かれているだけで、誰も住んでいないんだ。」
 水虎は二本の古びた短い木筒を手にしていた。その先端には白い煙が線となって揺らいでいた。
 「左腕出しな。」
 「袖は破いちゃいました。」
 「あ、そうか。んじゃ、こっち向いて正座しな。」
 「せいざ?」
 「あ〜、こう。」
 水虎は寧々と至近距離で向かい合う位置に、膝を畳んで座った。
 「こう?うわ、少し辛いですね。」
 寧々もそれを真似てみた。
 「足の親指も重ねてな。」
 「難しいですね___はいっ。」
 少しモゾモゾと足を動かし、寧々はニッコリと笑った。
 「これを右手に持つんだ。先は熱いから気をつけろ。」
 寧々は水虎の言葉に従い、彼から木筒を受け取る。筒の先には香が張り付いていて、熱を放っていた。
 「これを一緒に互いの左腕に押しつける、それが儀式だ。跡が残るが、構わないか?」
 「ええ。」
 躊躇いなど一つもなかった。
 「ずいぶんあっさりとしてるよな。」
 「あなたを頼りたいと思っていますから。」
 「嬉しいことを言ってくれる。」
 それから水虎の指示に倣って、形を整えていく。二人は互いの左手で相手の左の二の腕を内側から持ち、右手の木筒を構えてじっと見つめ合った。
 「俺の後に続けて喋れ。」
 「はい。」
 ___
 『我ら今ここに契りを交わす。水虎は寧々を生涯の伴侶に。寧々は水虎を生涯の伴侶に。互いの過去を尊び、今を喜び、未来を育む。永劫尽きることのない絆の元に添い遂げよう。我らは今ここに契りを交わす。』
 そして、二人は木筒を互いの左腕、肩の下あたりに押し当てた。
 ___
 「へぇ。」
 寧々は自分の左腕に刻まれた紋様をまじまじと見ていた。木筒は香の熱がたっぷりこもっていたはずなのに不思議と痛みはなかった。あったものと言えば、筒を離した後に残った黒い紋様だけ。それは寧々の腕にも水虎の腕にも、全く同じ形で刻まれていた。
 「これが俺たちの夫婦の証明さ。この香は、契りを結んだ夫婦の心一つで模様を変える。」
 円の中に縦線が二本と横線が一本。抽象的でシンプルな形だった。
 「これはどんな模様なんですか?」
 「閂だ。俺たち夫婦の固い絆を表している。」
 「そうなんですか。」
 寧々は模様を見て嬉しそうに微笑み、すぐに水虎を振り返って正座したまま頭を下げた。
 「改めまして、これからよろしくお願いします。」
 「こちらこそ。」
 水虎も寧々とぶつからないように少し下がってから頭を垂れた。互いの初々しさがおかしくて、おなかを擽られたようだった二人は、顔を上げてすぐに笑い出していた。

 鋼城に戻ってから二人の周囲が慌ただしかったのは言うまでもない。予定よりも遙かに遅れて帰ってきたことはもちろん、いきなり見ず知らずの女を連れてきて「妻だ」というのだから家臣はたまったものではないだろう。ただ彼女が妖魔と言っても遜色ない能力を持っていたこと、信頼できる家臣に素性を開かすことで黄泉の常識を知れたこと、何より認められようと努力したことで時間と共に水虎の妻ととしての違和感を消していった。
 それからしばらくは平和な時が続いた。鋼城には水虎が招き入れた者を除き、外からの侵入者の体を致命的に重くする陣が張り巡らされている。まさに鉄壁だった。
 しかし善行も手をこまねいているわけではない。
 ドゴゴゴ!
 「これは!?」
 天界には地鳴りがない。寧々は初めて大地が軋む音を聞いた。
 「地震か!?」
 鋼城を強烈な地震が襲う。
 「お、大きいですぞ!」
 「馬鹿な、このあたりで地震など今までにない___!」
 水虎の家臣には彼の父の代から仕えている老翁が多い。その彼らが今までに地震の経験がないというのだから___
 「気をつけろ!これは何者かの能力だ!」
 激しい地震は老翁たちから足下の自由を奪い、あまりにも鉄壁過ぎて建て替えの必要がなかった水虎の居城は大きく傾いだ。
 「きゃっ!」
 「寧々!」
 寧々がバランスを崩して倒れそうになり、水虎は慌てて彼女を支えた。
 「俺から離れるな。」
 「はいっ!」
 寧々の片手は自然とおなかに宛われる。このとき、彼女はすでに水虎の子を身籠もっていた。集落全体が明るい話題に包まれていた最中でのこの地震だった。
 「立っていられぬ___!」
 床で四つんばいになる家臣たち。その上で屋根が軋んだ。
 「ひええ!」
 「危ない!」
 梁が崩れ、家臣たちを襲う。しかし寧々が目を大きく見開くと、梁は突風に弾き飛ばされて壁につき刺さった。
 「助かった___」
 「寧々様ありがとうございます!」
 命拾いした家臣たちはこんな時でも礼を忘れない。だが彼らも、もちろん水虎も寧々も、今のは急場を凌いだだけに過ぎないと分かっていた。
 グギギギギギ!
 「城が___」
 さしもの水虎もゾッとした。自分は飛べる。だが家臣たちは___
 「倒れるぞ!」
 床が傾いたと思うと、あっという間に急斜面に変わる。水虎は寧々を抱いて中に浮遊するが、這い蹲っていた家臣たちは次々と崖下へ落ちるように、悲鳴を上げて床を滑り落ちていく。木造の壁を簡単に突き破り、老翁たちは五階層の城の頂点から投げ出された。
 「くっ___」
 寧々は口惜しさに歯を食いしばる。そして水虎が肩を抱く手に強い力がこもったのを感じた。
 「しっかり掴まってろ!」
 水虎は城の壁が倒れかかってこようと構わずにいた。ただ寧々を守るように抱き、水虎の体は壁を突き破る。
 「おおおお!」
 外では血気盛んな男たちの怒声が轟いていた。奮迅が巻き起こり、城は集落を下敷きにして倒れた。集落の建物の半数以上が崩落しており、そこかしこで火の手が上がっている。
 「善行の軍勢か!」
 怒声の正体だ。空から見ると善行の旗印を背負った男たちの殺戮絵巻を見ることができた。
 「なぜこんなことをする!?俺が目障りなら、俺だけを狙えばいい!」
 「酷い___」
 敵も必死だから容赦しない。眼下で展開される殺戮の中、寧々は幼い子供の首が切り落とされる様を目の当たりにし、目を背けた。
 「許せん!」
 彼女が何を見たのかすぐに気づいた水虎。その怒りが沸点に辿り着くまでは一瞬だった。

 陣を使わなくとも強い水虎と、壮絶な寧々の風。二人の活躍で善行軍は退けられた。しかし鋼城の崩壊は致命的だった。
 ここで待ってましたとばかりに声を掛けてきたのが善行に対抗する妖魔、杠だった。生存者の救出と鋼城の復興に力を貸す代わりに、水虎は杠の一軍となる。水虎が今思うことは、善行への怒りと集落の民の安寧。冷静といえなかったとしても彼が結託を即決するのは当然だった。
 そしてこの決断が破局への序曲になろうとは、考えもしなかった。

 「ほう、しばらく見ない間に立派な城が出来上がったもんだな。」
 時を経て、水虎は髭を蓄えて鋼城へと戻ってきた。そのとき城は今までに見たことないような、少なくとも黄泉では他にないであろう優美な建物に変わっていた。石造りで、曲線が多く、天に向く剣のような美しい城。これは寧々の故郷の建築様式である。
 「みなさんが頑張ってくれたからです。」
 大きなお腹を重そうにして歩く寧々が、ニッコリとほほえんだ。二人は綺麗に手入れされた城の中庭をゆっくりと歩いていた。寧々の空色の浴衣は清潔感ある景色によくマッチしている。一方で水虎は体中に生傷を作り、伸ばしっぱなしの無精髭もあってどこかすすけて見えた。
「帰ったらまずそのお髭を剃りましょうね。」
 「言われると思ったよ。」
 二人は暫くぶりの再会だった。なぜか?水虎が杠の指示に従って前線に立っているからだ。彼はいま杠の目の届く場所に小さな社を構えて住んでいる。鋼城から五夜はかかる遠い場所。城に戻ってこれる機会は限られていた。そう、今回だって寧々の出産が間近だから帰ることを許された。
 「良いもんだな、おまえの故郷にはこんな建物がいっぱいあるのか。」
 「ええ。」
 水虎は寧々と手をつないで新しい鋼城の大階段を上っていく。寧々が転びでもしたら大変だからと気を遣うが、自分が転びそうになって彼女に笑われた。
「おお。」
 大階段を上りきると、水虎は感嘆の声を上げた。正面に光の柱が伸びている。それは黄泉では見たことのない強い光だった。
 「鏡を使って光を集めたんです。」
 「おもしろいことを考えるなぁ。」
 闇が主体の世界で生きてきた水虎には少し眩しすぎるが、彼は光の柱に近づいて目を細めながら眺めていた。
 「ん?なんだよこの土。」
 柱が差すところの床だけ土になっていることに気づき、水虎が足を踏み出そうとする。
 「ああ!駄目です!」
 「なぬっ!?」
 彼は慌てて足を前に伸ばし、股を目一杯開いて土の部分を跨いだ。
 「ふぅ。」
 「寧々!手を貸せ!股が裂ける!」
 ほっとしたのも束の間、寧々はハッとして水虎に手を差し伸べた。
 それから___
 「この土の中に種を植えたんです。」
 「種?何の?」
 光の花壇の縁でしゃがみ込み、水虎は土がきらきらと光る様を見ていた。寧々は半歩下がった位置に立っている。
 「初めて会ったときに私が来ていた服があったでしょう?前の城の瓦礫の中からたまたま見つけて、前は気づかなかったんですけど服の裏地の中に小さな種が挟まっていたんです。たぶん、お花の種だと思います。」
 「それを植えたのか?」
 水虎はにやついて振り返った。
 「ええ。その種が生きているかも分からないし、私の故郷のものだから強い光がないと咲かないんです。だからここに植えることにしました。」
 「いつか芽が出るかも知れないって訳だ。いいな、おまえらしいよ。」
 戦場から戻ってきた水虎にとって、寧々の純朴さはこれ以上ない安らぎに思えた。光の柱は側にいるだけで暖かい。いつまでもこうしていたいと思える気持ちよさだった。
 「どんな花の種なんだ?」
 水虎は土の煌めきを眺めながら尋ねる。
 「?」
 しかし寧々の返事がない。水虎が振り返ると___
 「寧々!」
 彼女は腹を押さえて体を折り曲げていた。
 「おいどうした!?生まれそうなのか!?」
 水虎は立ち上がり、寧々の体を支えながら必死に呼びかける。すると彼女は奥歯を噛みしめるようにして何度も頷いた。
 「___」
 初めての経験だ。緊急事態なのに唖然としてしまった。
 「大変だ!!」
 水虎は慌てて助けを呼びに駆け出し、勢い余って大階段を転げ落ちた。結果としてその音を聞きつけた庭師夫婦がやってきたのだが、このときの彼の取り乱しようと言ったらなかった。
 ___
 かくして、水虎夫婦に女の子が生まれた。
 名前は男の子でも女の子でも「紫龍(しりゅう)」と決めていた。
 髪の一部が紫色を呈するのは水虎の血族の特徴であり、寧々は竜の神の末裔である。二つが一緒になったのだからこれほどわかりやすい名前もなかった。
___
 「予定より二夜早いが、紫龍のために式守の社に参拝してこようと思う。」
 水虎は杠の軍勢に戻る前に、かつて三千年生きた妖魔が住んでいたといわれる無病の神社に寄るため、予定を繰り上げて旅立っていった。寧々は残念がったが、彼はできるだけ城に戻ってくることを約束してくれた。
 二人はとても幸せそうに、微笑みあって別れた。
 ___これが今生の別れとなるとは、夢にも思っていなかった。

 「奇妙な形をした城だな。」
 鋼城を見る丘に、色白の男がいた。細身で、なぜか軽く化粧をしていて、こだわりを感じさせるしなやかな前髪が印象的。見るからに自己陶酔型である。
 「陣は便利な能力だな、水虎。おまえの能力は私と抜群に相性がいい。」
 この男こそ杠。やせ形の彼は見ての通り、肉体的にはそれほど強くない。しかしその能力は驚異的なものがある。あの鴉烙でさえ警戒させるその能力とは___
 「私の能力は他人の能力をねじ曲げること!」
 ナルシストの杠は、己の能力で大きな出来事を起こす前、観衆がいようといまいとこうして誇らしげに話す。今、彼は高速移動の能力を持つ妖魔を一人連れ立っているに過ぎないが、こうして鋼城の外壁に触れて声高に語っていた。その都度前髪を揺らすのを忘れずに。
 「水虎よ、君の陣のように動きのない能力は、私と実に相性がいい!」
 いつものことなのだろう、付き添いの妖魔はやれやれといった顔でそっぽを向いている。他人がどんな目をしてようと、自分に酔えれば気にならないのだからナルシストとは便利な人種だ。
 「君の陣は私の前では無力であり、私にとって素晴らしい武器になる。何しろ私は、陣の条件をねじ曲げて、変えることができるのだから。」
 能力をねじ曲げる。たとえば炎を放つ能力なら、その軌跡を変えることはできても炎を氷に変えることはできない。たとえば仙山の能力なら、彩りを塗り替えることはできても新たな彩りを施すことはできない。たとえば鴉烙の能力に対するなら、新たな契約書を作ることはできないが、すでにある契約書の内容を変えることはできる。
 彼の能力は一言で言うなら返し技。敵が能力を発揮して初めて効果があり、その能力が驚異的であればあるほど返し技も威力を発揮する。だから鴉烙は彼を嫌がっているのだ。
 彼の前では全ての契約が無効になってしまうのだから。
 「ああ分かっているとも、君の陣は優れた能力だが、身動きがきかなくなったりするだけで直接敵の命を奪える能力じゃないんだ。」
 一方で杠は、敵が能力を駆使せず生身で襲いかかってきたら手に負えないという弱点も持つ。そのために彼は自分の敵になりうる妖魔の能力を徹底的に調査し、把握する。
 「君の陣は体の動きを支配し、制限することはできても、直接心臓を停止させたりすることはできない。陣はあくまで「戦場」の条件を変える能力だ。陣で敵を仕留めるには全て間接的な死でなくてはならない。」
 髪を気にするのをやめ、杠は外壁に両手を触れた。鋼城は真上の空から見ると、六角形の外壁で覆われている。六角の頂点はそのまま陣の頂点を意味していた。
 「そして陣には___中にいるもの全員に効果があるか、外から踏み込んできたものだけに効果があるか、この二つの種類がある。」
 杠の目がギラリと光った。
 「水虎よ、君はどうも反抗的で、私に心からは従っていない。そういうの___」
 グンッ!
 杠の手がおぼろげに光った。
 「嫌いなんだよね。」
 そして、異変が起こった。
 「!?う、うわ!?なんだこれは!?」
 「きゃっ!か、からだが!」
 「体が浮き上がる!?」
 鋼城の住人たちの足が彼らの意志に反して地から離れ、宙を泳いでいた。まるで空に舞うシャボン玉のように。
「いやいや恐ろしい陣を張っていたものだ。君の陣の素晴らしいところは地中から空の闇にまで効果があることだ。それにしても『許可しない外部侵入者は闇の奥底に吸い込まれる』だなんてずいぶんおぞましい陣だな。せっかくだから___私が『陣の中にいる奴ら全員』に種類を変えておいたよ。」
 ナルシストは愉悦に浸りながら高笑いする。空では闇がいつになく蠢いていた。
 「くっ___これはいったい!?」
 そのとき、寧々は不運にも紫龍を連れて外庭に出ていた。彼女の体もまた空へと持ち上げられていた。
 「!」
 そして目に止まったのは、鋼城の空に漂う大勢の人々。悲鳴は集落中に木霊し、人々の混乱に乗じるように上昇の速度が上がっていく。緩やかな浮遊から始まった異変は、一分としないうちに体全体が強い力で引っ張り上げられるほどになっていた。
 「ひいいいっ!」
 必死に木にしがみついていた男が耐えきれずに手を離す。
 「うああっ!」
 出来たての家の天窓を突き破り、若い男の体が弾けるように空へと舞い上がる。
 「くうううっ!」
 そして寧々は紫龍を胸に抱き、迫り来る空の闇に向かってきつく目を見開いていた。
 ゴオオオッ!
 威力を集中させた竜巻を空から自分に向かって浴びせ、寧々は抵抗する。だが浮上をくい止めることなど出来なかった。
 「うあ!いやだ!いやだああああ!」
 「助けてくれぇぇ!」
 悲鳴を残し、人々が闇に飲み込まれていく。彼らは闇の奥底まで運ばれ、やがて四方八方から「吐き出そうとする力」を受けて体を引き裂かれるのだろう。
 「くっ!」
 竜巻に混じっていた石のかけらが寧々の目にぶつかった。その瞬間彼女は目を閉じてしまい、些細な抵抗も終わりを告げた。
 グンッ!
 まるで下から誰かに突き飛ばされたように、寧々の体は勢いよく闇に突き進む。
 「ンアァ!ンアァ!」
 胸の中では紫龍が苦しそうに泣いていた。
 (水虎___助けて水虎!)
 寧々は愛しい男に救いを求めた。しかし次の瞬間、自分の周囲が暗闇に変わると、もはや彼女には絶望しか残されていなかった。
 最初は静かだった。
 そこは真の黒でなく、所々紺が走る。さっきまで眼下には鋼城が広がっていたはずなのに、手を伸ばして掴むものはおろか目標に出来るものもさえない。天地も、前も後ろさえもよく分からなかった。
 そして___地獄はすぐに始まった。
 「う___うかああああっ!」
 全身が焼け付くように痛い。体が一斉に外側に向かって何かの力に引っ張られる。
 「___!!」
 腕を広げるわけにはいけない!紫龍をこの地獄の闇に放り出すことだけは!
 体が軋み、筋肉は今にも引き千切られそうだった。それでも紫龍を守りたい一心で寧々は体を丸めようと力を込める。
 (助けて___私はどうなっても良いから___この子だけは!)
 もう願うしかなかった。必死に、必死に祈るしかなかった。この闇の中に、救いの「光」が差すことを。
 (___)
 光を求めていたが故か、寧々は黄金に輝いていた。竜の使いとして全力を発揮したのは天界以来だった。ただそれでも大いなる闇の前では何の意味もなさない。
 闇はなんと恐ろしいものか___
 これも穏やかな光の世界を捨てた罰なのか___
 「!」
 寧々は我が目を疑った。これが死かと思ったほどだった。
「あぁ___」
 彼女が見つめるその先には、光が差していた。
 「帝様___」
 救いだ。その光を見た瞬間、寧々の心に一時の平穏が舞い込む。酷く現実的な夢に惑わされ、裏切ってしまった竜神帝が差し出してくれた救いの手に見えた。
 グンッ!
 しかし全身に掛かる引き裂きの力が寧々を現実に呼び戻す。体の軋みはより一層強くなり、限界は近かった。
 「せめて___せめて紫龍だけでも!いえ___光の世界に帰るのであれば___そう、シェリル!」
 絶望を力強き母の愛がかき消した。黄金の寧々は強い決意に突き動かされるように、その瞳を輝かせる。
 「我が全身全霊を賭して!シェリル・ヴァン・ラウティを光の世界へ!!」
 寧々の眼前から一直線に、風の渦が四つ並んで生まれた。一つは左に、一つは右に、一つは上に、一つは下に。左右の風は互い違いの回転をし、上下の風はまっすぐに光に向かって強く吹いていた。
 「風と風が全く対等にぶつかり合うと、そこには風のない道が出来る。風が強ければ、真空が生じ、かまいたちとなって人を切り裂く。緩やかに回せば___それは風が他の威力をも相殺する穏やかな道となる!」
 そう!後は自分の体がバラバラになる前に___!
 (水虎さん___力を貸してください!)
 左腕に刻まれた契りの刻印に思いを馳せる。四つの風で道を造る発想は、水虎の陣から思いついたものだった。
 そして!
 「行けええええぇぇぇぇぇっっっ!!」
 紫龍は強い子だ。寧々が我が娘を風の道に解き放ったときも泣いていなかった。
 水虎を彷彿とさせるその紫色の瞳で、母の顔を見ていた。
 そのとき寧々は思った。
 あの子なら大丈夫だ___と。
 「帝様___我が娘シェリルを頼みます___」
 寧々の涙の滴はあっという間に闇に吸い込まれて消えた。
___
 「くはははは!どんどん舞い上がれ!」
 大量殺戮を成し遂げ、杠の哄笑には狂気が差していた。
 「くははははごぉあっ!?」
 突然背後から背中を蹴飛ばされ、杠はそのまま目の前の外壁にぶつかった。
 「こんな幸運___俺は一つも求めちゃいない。」
 「!」
 誰の仕業か!?激痛に顔を歪めながら振り返ろうとした杠は、聞き覚えのある声に蒼白となった。
 「俺たちは添い遂げると誓ったんだ___それなのに___」
 血の臭いが漂っている。それは杠が連れてきた付き添いの血の臭いだ。
 「こっちを向けぇ!杠ぁぁっ!」
 「は、はいっ!」
 一喝で飛び上がり、杠は振り返って壁を背にした。仁王立ちする水虎の形相は、怒りと、後悔と、悲しみとが入り乱れ、言葉にしがたい苦悶に満ちあふれていた。
 「俺の左腕から誓いの刻印が消えた!貴様にはこの意味が分かるか!?」
 分かるはずがない。だが寧々の死の痛みと己の口惜しさをこの男の骨の髄にまで叩き込まなければ、到底気の収まりようがなかった。
 ___
 杠は躯の形さえ定かでないほどに叩きつぶされた。それこそ、水虎の拳が裂けて血が噴き出すほどに。ただそうすることで彼の心に開いた穴はより大きくなり、去来した寂しさに水虎は号泣した。
 ひとしきり泣き終えると、彼は鋼城を歩いた。数人だが、地下などにいて地獄を免れた人たちがいた。庭師の男もその一人だった。
 愛しき寧々と紫龍を失った悲しみは水虎を変えた。
 「俺が黄泉を統一する!殺戮なき黄泉を作るために!」
 やがて覇王水虎が誕生した。
 しかし彼もまた、覇王になるまでの道程で多くの殺戮があったことを思い知り、ただひたすらの憔悴の中で牙丸の手に落ちるのであった。
 ___
 ___
 ___
 「___はっ___」
 顔に降りかかる暖かな光がソアラの目覚めを促した。
 「うっ___」
 意識は目覚めの中に。だが体は酷く痛んだ。無理もない、闇に体を食われていたのだから。
 「___」
 ソアラは鋼城の、光の花壇に肩まで乗りかかっていた。そしてその手で一輪の花を掴んでいた。花壇の真ん中で咲き誇る、黄色い花を。
 「う___」
 花を見ている、それだけなのにソアラの胸が詰まる。天界のものであろう鮮やかな黄色い花に、母の姿を思い浮かべずにはいられなかったから___こみ上げる涙を抑えきれず、彼女は啜り泣いた。 
 「ひっく___うぁぁ___」
 長い夢を見ていた___
 黒麒麟の闇に蝕まれた体は、死の淵を彷徨っていた___
 夢見の中で、両親の愛の輝きに誘われ___
 ソアラは無意識のまま光差す花壇を目指していた___
 長いまどろみの情景一つ一つが彼女を勇気づけた___
 そして___
 ソアラは闇からの生還を果たした。




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