3 鋼城にて

 ソアラは黄泉の空を飛んでいた。そこは黄泉の中でも特別な雰囲気がある。
 「へぇ___」
 中庸界を思い出す。眼下に広がるのは精錬された街並みだった。敷き詰められた石畳に、石造りでガラス窓のついた家が並ぶ。
 それが水虎の趣味だ。そしてこういった様式を教えたのが、彼の「奥方」だという。
 「___」
 街並みは静まりかえり、人気は全く感じられない。降り立っていろいろ調べて回るのもおもしろいかも知れないが、今ははやる気持ちそのままに城を目指す。先に見える鋼城はスマートで曲線が多く、背の高い城だった。

 城の周りには城壁があり、その内側には緑溢れる庭が広がる。誰も住んでいない様子だったから、腰丈辺りまで煩雑に草の伸びた庭を想像していたが___
 「どういうこと___?」
 庭の草は丁寧に刈り揃えられていた。それこそ植木に至るまで。どうやら人が住んでいるらしい。ソアラは中庭に見えた噴水の側へと降りた。そこから正面に見える大きな城の扉まで、整理された庭を見ながら石畳を歩くことにした。
 「誰かが住んでるんだ___」
 水虎はすでに朽ち果てているし、その妻である寧々も水虎より先に他界しているという。それでも鋼城には誰かが住んでいるようだし、水虎が愛したであろう庭の情景を保とうとしている辺りに愛を感じる。
 庭の草木は美しい緑を保ち、驚いたのは花壇だった。空のように青い花が精一杯に咲き誇っている。これだけ鮮やかな景色は黄泉にやってきてから見たことがなかった。
 「ん?」
 花壇に鼻を近づけてみたが、甘い香りがしない。まさかと思って花びらに触れてみると、それはしっとりとした柔らかさではなく、ざらついた紙のようだった。
 「造花だ___でも凄いなぁ、とっても綺麗に作られてる。」
 今でこそ造花だが、きっとその昔は美しい花が咲き乱れていたに違いない。ソアラは顔を上げ、庭の景色を長めながら歩いていった。
 警戒?どうしてする必要がある?故郷を懐古させるこの景色は、ソアラにとってとても居心地の良いものなのに。

 庭と城の境には堀があった。石橋の欄干から身を乗り出してみると、僅かに波の立つ水に魚の影が映って見えた。
 ガコン___ゴト___ゴトン___
 後ろからスケールの大きな物音を聞いて、振り返ったソアラは反対側の欄干へと向かった。
 「うわ___」
 自然に零れた感嘆の声と笑顔。城の壁には溝があり、そこに水車がついていた。その溝の奥には高い位置に水路の出口があるのだろう、流れ出てきた水が飛沫を散らして水車を回し、風に清涼感を加えていた。
 「なんかいいねぇ。」
 ソアラはにこにこ顔で欄干に肘を立て、水気を纏った風を顔に受けていた。そして暫くとしないうちに、堀に小さな虹が架かった。
 「ふふっ。」
 なんて気持ちいいのだろう。夫と子供を捨てて、苛酷な戦乱の世に身を置いていたソアラの心に、無くしかけていたゆとりが生まれていた。体力はある、でも精神は弱っていた。今この爽快感にこれほど心が安らぐのだから。
 「元気にしてるかな___リュカとルディー。」
 黄泉に来てから子供たちや百鬼のことを考えたのは初めてかもしれない。
 「いや、そんな言い方無責任だな。あたしが元気をなくさせるようなことしたのに。」
 勢いよく回っていた水車の回転が緩やかになる。水路からの排水が終わったらしい。ソアラは立て肘をやめ、少し名残惜しそうに虹を見ながら先へと進んだ。
 キィッ。
 竜の力でも出さならなければ開けられなさそうだった城の大扉だが、よく見ると端に勝手口が付いていた。錠前はあるのだが鍵がかけられておらず、ソアラは少しだけ戸を開けてひょっこりと中を覗き見てみた。
 「誰かいますか〜?」
 大扉の幅のまま正面に道が続き、その先には五十段ほどの階段があった。階段の先にはランプだろう、ボンヤリと橙に光って見えた。階段までの道の両脇は屋内庭園で、庭園に掛かる部分の屋根は高くガラス張りになっており、光が差し込んでいる。
 「誰もいませんか〜?」
 ソアラの声だけがやけに響く。城は静まりかえっていて人気がない。ソアラはとりあえず正面の階段を目指すことにした。
 階段の石は大理石のように硬く均一で光沢がある。ソアラの靴音も良く響いた。
トン___トン___
 少しずつ、階段の上の景色が見えてくる。橙の光だけでなく、天井の奥から無数の光の帯が交差して降り注いでいた。
 「綺麗___」
 幻想的な空間だ。階段を上りきると、正面に交差した光の柱が立ち、両側の壁はランプの光が照らす。壁には獣たちの姿が掘られており、歩みを進めるごとにランプの光で陰影を変え、動いているように見えた。
 「ん___」
 光の柱の中に入ってみる。見上げると、天井は目を開けてられないほど強く輝いている。ようやく少し目が慣れるとここの天井だけが一際高いことが分かった。外から見て、城の中央付近に一際高い塔が見えたが、どうやらこれだったらしい。塔が浴びた光が鏡で集積され、無数の光の帯となってここに降り注ぐよう工夫されている。
 「ふぅ。」
 なんだか気持ちが落ち着く。黄泉でこれだけの強い光を感じられたのは幸せだった。
 「___」
 足下に目を移してみると、光の柱の真ん中にあたる床だけ少し高くなっていた。しかもその周りは煌びやかなタイルが色鮮やかなのに、中央だけは土色だった。オシャレに無頓着な女性がいるようで勿体ない。だがソアラはその中央に小さな緑色を見つけ、手を叩いた。
 「芽だ!花の芽!」
 少しだけ、土の中から顔を出している。それを見たソアラは思わず手を叩いていた。
 「そうか___花を育てるための光だったんだ。」
 黄泉ではあまり花を見ない。見たとしても暗がりで咲けるあまり愛らしさを感じさせない花ばかり。その中で、この小さな芽はまだまだ花までは遠いのに、とても期待させる力があった。
 棕櫚がいれば簡単に気が付いただろう。
 これは違う世界の花。それを咲かせるために、強い光が必要だったのだ。
 「うわ、見えないな。」
 光の柱を抜けて、ソアラは奥へと歩みを進める。強い光から薄暗い中に舞い戻ったため、少し目が眩んだ。
 しかし数歩も進むうちに、彼女は瞬きもやめて正面に見えたものに釘付けになった。
 「___」
 それは絵だった。玉座の背後に駆けられた、一枚の肖像画。そこに描かれていた男女の姿に目を奪われたソアラは立ち止まり、そして思い出したように駆け寄ると手に炎を灯して絵を照らしていた。

 コツ、コツ___
 ソアラは階段のところまで戻ってきた。その顔は何か一仕事やり終えたような晴れやかさがあった。
 「お客さんかい?」
 階段の下で、坊主頭の老人がこちらを見上げていた。
 「すみません、勝手に入ってしまって。」
 「いや、いいんじゃよ。」
 老人はソアラを見上げているが、顔の向きは少しずれていた。
 「今そこまで降りていきます。」
 (おや?)
 老人の耳が器用にピクリと動いた。
 「素敵な声色をしとるの、お嬢さん。」
 「そうですか?」
 ソアラが声を出すと、老人がゆっくりとそちらを向く。階段を駆け足で下りていたソアラは老人の動作を気にし手足を止めた。
 「目がお悪いの?」
 「この年になれば仕方のないことじゃよ。なぁに、代わりに耳はよく利く。」
 「すぐに行きますね。」
 ソアラは少し舞い上がって滑るように階段を下りた。下で待っていた老人の元に舞い降りるまで、一息と掛からなかった。
 「儂はこの城の庭師じゃ。」
 ソアラが近くに降り立つと、老人は自ずから身分を明かした。
 「それじゃあ、この綺麗な庭はおじいさんが整えてるの?」
 中庭もとても丁寧に整えられている。花の類は造りものだが、草木は本物である。
 「そうじゃ、外もな。」
 「凄い___こんなに広いのをたった一人で?」
 老人は皺だらけの顔をさらに変形させて笑った。
 「ほほっそうじゃ、昔は儂にも弟子がおったが今は一人じゃな。じゃがこの庭があるから儂は生き甲斐を捨てずにいられる。まあ昔のようにはいかんがのう。今は毎日の経験と手触りだけが頼りなんじゃ。」
 そう語る彼の顔はとても満足そうだった。 
 「お嬢ちゃんは旅の人かなにかかの?」
 「ええ。あたし、由羅っていいます。この城を見たくて来たんです。水虎という人を見たことはないけど、彼のことはとても尊敬しているから。」 
 「ほぉほぉ。」
 ソアラの言葉に老人は満足そうに何度も頷いた。少しだけ開いた瞼の隙間に覗く眼球は白みがかっていた。失明こそしていないが、あれではほとんど見えていないだろう。
 「おじいさんは水虎さんのことをいろいろ知ってるんでしょ?」
 「ああ、しっとるよ。上であれは見たかい?」
 「肖像画ですか?見ました。」
 ソアラは老人に微笑みかけた。あの美しい肖像をはっきりと思いだして。
 「あれが水虎様、それに寧々様じゃ。」
 「とっても幸せそうでした___」
 肖像の二人___椅子に腰掛けた寧々と、そこに寄り添う水虎。凛々しさの中に優しさを携えた水虎は寧々の手を取り、彼女を不幸にさせないという強い使命感が滲み出ていた。
 「あれは儂の家内が書いたものじゃ。もう死んだが絵の巧いやつでのぉ。ほほっ、なんじゃか昔が懐かしくなってきたわい。お嬢ちゃんの声も寧々様に似ておるし。」
 「そうですか。」
 ソアラは驚きも動揺もしなかった。至極穏和にニコリと笑っただけ。あの肖像を見てから、まるで何かを悟ったように落ち着いていた。
 肖像画を見たことがすべてだった。繊細に描かれた写実的な絵は、ソアラに気づかせるのに十分だった。
 寧々は金色の頭髪と、空色の瞳を持っていた。彼女は柔らかな笑顔で微笑み、水虎に寄り添う。水虎はやや紫がかった黒髪に、前髪の真ん中だけが薄紫色を呈していた。それはソアラの髪色にそっくりだった。自分の顔に似ているかどうかと言うのは己ではわかりにくい。ただ寧々の声に似ているというのは骨格が近いということ。それは顔立ちの近似に通ずるものがある。
 確かなことはなに一つもない。しかし、疑うこともない。

 庭師の老人によると、鋼城には定期的に訪れる女性がいるという。彼女の支援もあって、この城は誰に犯されることもなく原形をとどめていた。
 老人に水虎や寧々の思い出話を根ほり葉ほり聞くこともできたが、彼はとても仕事熱心で、もう今は外庭の手入れに出てしまった。でもそれはそれで良いのかもしれない。あまりにもありのままの現実を知るよりも、二人が誰にも邪魔されない幸せな日々を送っていたと想像する方が楽しいじゃないか。

 榊のこともあるから、あまり長居はできない。この様子ならあの庭師と定期的に訪れる女性がいる限り、鋼城は今の姿を保ち続ける。知りたい気持ちが今より強くなったらまたくればいい。今は___
 二人の絵を見ただけで胸が詰まる。
 「また来ます。」
 もう一度肖像画の前に立ち、ソアラはキャンバスの中の二人に微笑みかけた。それから踵を返し、歩き出そうとしてからまた振り返る。絵の前で少し俯いてから、顔を上げた。
 「___お父さん、お母さん。」
 いつになく唇が震えて、声がか弱くなった。でも言葉に出して言ってみると、途端にソアラの双眼から涙があふれ出してきた。
 「___」
 止まらないが、別に止める気もない。はじめて絵を見た瞬間にも一滴が零れたが、今になってようやく心に波が押し寄せてきた。あまりのことに知らず知らず戸惑っていたのだろう。やはり声に出すことは良い。自分に知らしめ、認めさせるためにも。
 「ごめんなさい___泣いてる場合じゃないね。」
 水虎の肖像が滲む涙で歪み、叱咤するように見えたからソアラは謝った。
 「また来ます。」
 もう一度、さよならとは言わずにソアラは肖像に背を向けた。
 コツ___
 天井から局部的に差す光で大階段の様子ははっきりとわからない。ただ見えなくても静まりかえった鋼城には音がよく響いた。硬い踵、でも軽い、女の足音が階段を上りきって止まった。
 花を育む光のシャワーに、黒い影が映って見えた。
 「その昔、一人の女が竜の園から身を投げた。」
 深みある、しっとりとした艶気ある声。大人の女の声だ。
 「翼無き者の虐殺を悲しみ、主たる竜に死の悲しみを知らしめるべく身を投げた。」
 ゆっくりと、彼女は近づいてくる。
 「その穴に落ちた者は青空の世界から消え失せる。だがそれは死を意味するのではなく、異世界への移行を意味していた。そこは針刺すような風の吹く、無限の闇に蓋された世界だった。」
 その足取りは滑らか。なぜ恐怖を感じるのか?芽吹きの花壇に差す光を塗りつぶすように女の影が色濃くなるにつれて、ソアラは唇に乾きを感じた。 
 「そこは地獄と呼ぶにふさわしい地だった。だが女は絶望せず、この地で新たな道を見つけようと考えた。そして女は紫紺のもののふと運命の出会いをする。」
 黒い影は光の向こうで足を止めた。そしてその手を光の中へと差し伸べる。するとどうだろう、天井の鏡細工で集められた強い光がまるで嘘のように消え失せてしまった。驚いたソアラは天井を見上げる。そこには黒い霧がうごめいていた。
 「女は名をネメシス・ヴァン・ラウティといった。」
 「!」
 ソアラは勢いよく振り向く。
 「男の名は水虎。」
 紺地のドレスと腰まで隠すたわわな黒髪で、彼女の白肌と銀孔雀の刺繍はいっそう映える。潤った唇で嘲笑を浮かべながら、彼女は語る。
 「男は女の長い名前を嫌って、寧々と名付けた。二人はすぐに意気投合し、いや寧々にしてみればこの何もわからぬ世界を生き抜くには誰かのそばにいる必要があると考えていたし、水虎は異世界から来たという寧々に大層興味を持っていた。はじめのうちは単なる利害一致だった。」
 ソアラは呆然と立ちつくし、花壇を回り込んでゆっくりと歩いてくる彼女を観察するでもなく見つめながら、耳だけは敏感に峙てていた。
 「やがて二人に愛が芽生え、寧々は水虎の妻となった。水虎は寧々にとってこの陰湿な世界の太陽だった。やがて太陽は世を照らし始め、彼の力は世界の統一へと向けられた。きっかけは彼が暮らしていた都への侵入者が、多くの幼子を死に至らしめられたからだった。そのとき、寧々は水虎の子を身籠もっており、これから父となる水虎は子が死の恐怖に怯えることのない世を求めた。」
 ピタリ。花を背にして、女はソアラの正面に立ち左手で耳元の髪をかき上げた。
 「聞いているかな?シェリル・ヴァン・ラウティ。」
 「!」
 その一言が、ソアラに我を取り戻させた。
 「な、何であたしの名前まで!何者なの!?」
 この城に定期的に出入りしている女なら、寧々の本名を知っていてもおかしくはない。だが初対面のソアラの、しかも彼女本人と竜神帝しか知らない名前をスラスラと言ってのけた。
 「こちらでは黒麒麟と名乗っている。」
 黒麒麟は驚きを隠せずにいるソアラが次の言葉を探しているのも構わずに、続けた。
 「竜神帝すなわちジェイローグはその昔、翼無き天族を絶滅に追いやり、魔族を繁栄させた悪だ。」
 「どういうこと___意味がわからないわ!」
 「彼らには天界で死を待つか、異界に身を委ねるしかなかった。中には中庸界に落ちて人となり、地界や暗黒の世界に落ちて魔族となった者もいた。おまえのような若者は何も知らないだろう?だが私もおまえの母も奴に裏切られた女よ。」
 なんだか腹が立ってきた。黒麒麟なんてさもらしい偽名を吐くこの女は、名乗りもせずに何を知ったような口で語っているのか?竜神帝をジェイローグと呼ぶことへの違和感。高圧的な仕草。有無言わさず呪文のように語られる耳打つ言葉。いずれもソアラにとってストレスになった。
 「選択の機会をあげる。ここで出会えたのは縁以外の何ものでもない。だからジェイローグをとるか、あたしをとるか。決めてごらん。」
 「訳のわからないことばかり言って、その前に名乗りなさいよ!」
 ソアラは苛立ちに任せて言い放った。それが黒麒麟から嘲りの笑みを消す。
 「わかった。それが答えね。」
 天井に蔓延っていた黒い霧が広がった。
 「!」
 ソアラが感づいたときはすでに遅かった。黒い稲妻が彼女の脳天に打ち付け、電撃が全身に走った。
 「___っっ!!」
 引き裂かれるような痛み。体中を剣で切り刻まれ、しかも開いた切り口に針を差し込まれていくかのような激しい痛み。声にもならない。
 思い出したのはヘル・ジャッカルでその身に受けたアヌビスの邪輝。あのときも闇の中で続く激しい痛みに気絶した。この攻撃、外傷はないが耐えられない。
 バシッ___バシッ___
 絵画の前に倒れたソアラの周りで、黒い火花が散った。ソアラの皮膚には斑のように黒い染みが広がっている。それは邪輝を食らったときと同じだった。
 「闇と光が共存することなどできない。私の闇はおまえの光を食いつぶす。」
 頬の黒い染みはゆっくりとソアラの口元へと浸食していく。ソアラの顔から血の気が失せていき、彼女の額には汗の玉が浮かび上がってきた。熱に魘されているような彼女を見下ろし、黒麒麟は冷徹に呟く。
 「食い尽くされれば死ぬ。悔しかったらおまえが持つジェイローグの光で私の闇を退けてみろ___この、闇の女神レイノラのな___」
 耳に届いていたのかどうなのか、だがソアラの指先はその瞬間確かにぴくりと動いた。
 「さらばだネメシス。もう私はここには来ない。」
去り際に肖像画の寧々を一瞥し、闇の女神は歩き出した。




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