2 覇王の面影

 「城までぶっこわれたじゃないか!」
 煤けた体でも自分が放った力で痛めつけられるほどヤワではない。あたりの要塞はもちろん、金城まで跡形なく吹っ飛ばした壮絶な破壊力。荒れ果てた大地の露出した戦場は、金城のあった場所から擂り鉢状にくぼみ、餓門はその最深部に立っていた。
 「あれ?もしかして夜行もぶっ飛ばしたのか?」
 いつもならすぐさま側に現れて、何らかの助言を与えてくれる影の男がいない。餓門は眉間に皺を寄せて腕組みした。心なしか全身の筋肉が痩せて見えるのは、彼が大量の力を放出したからである。
 「とりあえず銀城で寝てから考えるか。」
 暢気なものだ。彼は夜行の進言のままに事を進め、煉軍のみならず味方である戦士たちまで一掃したというのに。
 ___
 ギュン___
 餓門が銀城に向かってから間もなく、空間に闇が開いた。
 「う___」
 「榊!」
 そして榊がうつろな眼で倒れ込むように飛び出し、それを追い越して出てきたソアラが慌てて彼女を支えた。
 「大丈___」
 そこまで言いかけて榊は小さく呻き、ソアラの腕の中で血を吐き出した。
 「ちょっと___しっかりして!」
 酷く青ざめ、精気を感じさせない顔。血まで少し青みがかっているように見えた。ソアラはこんな顔を前にも見たことがある。肺病に冒され、死の予感を抱きながら戦い続けた自分。だから余計に榊のことが心配でどうしようもなかった。
 「もう副作用が始まっています。」
 「え?」
 続いて闇から現れた棕櫚と耶雲。闇の出口は歯切れ悪く消え去った。
 「失礼。」
 棕櫚はソアラに抱かれる榊の服の前紐を解き、至極冷静に彼女の服を脱がせていく。草の腕を生やした右半身が露出されるとソアラは絶句し、嗚咽するように口元に手を当てた。
 「だからその能力はえぐいっていうんだよ___」
 「そうですね。」
 耶雲が愚痴るように呟き、棕櫚も否定はしなかった。
 榊の肘から先には、幾重もの草が折り重なった腕と手が生えている。では肘より元はどうなのだろう?そこはすでに壊死にも似た惨たらしい様相を呈していた。肩口まで、青みがかった根だろうか?草が蔓延り、榊の肌は褐色にくすんでいる。まるで肉体を、草に食われているかのようだった。
 「もう胸元まで進んでいる___」
 晒しで閉められた乳房の上部、その辺りまで肩の方から青い筋が血管のようにして走っていた。
 「どういうことなの___」
 ソアラは一度だけ唾を飲み込み、気を落ち着かせるように胸元に手を添えて尋ねた。
 「これは寄生草といいます。つまり、他の生き物の体に寄生して生きる草ですが、普通でないのは人の身体の細胞や神経と連動し、肉体的に足りない部分を補うことなんです。」
 「それって___?」
 「体の一部を補ってくれるんです。切り傷があれば皮膚となって塞いでくれますし、筋肉が断裂してれば繋いでくれます。ただ、草の強烈な寄生の力を生物の生命力が克服しなければなりません。つまり、寄生の力より生命力の方が強ければ、やがて草は本当の肌と化します。でも___」
 「寄生の力が強かったら___体が草に取って代わられる?」
 「そうです。寄生草そのものは微細な繊維ですから、人の体に蔓延っても致命傷にはなりません。しかし寄生力が遙かに上回る場合、脳を冒され植物人間化したり、心臓が繊維に縛られて硬直し、死に至ることがあります。」
 ソアラはゾッとした。先ほど棕櫚が「胸元まで進んでいる」と言ったことが思い出された。
 「どうしたらいいの?この草を枯らせるとか___」
 「無理です。もう寄生草は榊の体と同化しています。草を切れば榊には強い痛みになりますし、枯らせれば体のここまでが腐ります。」
 棕櫚が指さしたのは青い筋の最先端、榊の胸元だった。体がそこまで失われて生きていられるとは思えない。
 「寄生草を走らせた時点で榊の生命力が弱まりすぎていたんです___だから一気にここまで進んでしまった___こうなっては俺にできるのは、進行を遅らせることくらいです。」
 棕櫚は落ち着いている。だが彼が胸の奥底に押し止めるもどかしさはソアラにも痛いほど分かっていた。彼の能力が榊に苦しみを与えてしまっているのだから。
 「気にすることはない。」
 榊が呟き、ソアラの腕に手を宛って、自らの力で立った。声は思いのほか明瞭だった。
 「大部落ち着いた___心配いらぬ、私の生きる力が上回ればよいのじゃろう?」
 「そんなに簡単ではありませんよ。今あなたが少し元気になったのは、草の生命力が肉体に分け与えられたからです。あなた自身の生命力は草に負けています。」
 残酷な言葉だが、現実を教えることが今は重要。
 「もともと死の覚悟を以て臨んだ戦いじゃ___だのに私は生き残り、この荒れようは何じゃ?」
 榊に促され、三人はようやく不毛の大地と化した周囲に目を向けた。
 「何が起こったのかはよくわからねえが、こいつは敵も味方も一網打尽だな___」
 「あっ!」
 ソアラが何かを見つけて、駆けだした。そこには地面から手が飛び出していた。
 ピクッ___
 動いた。ソアラは急いでその手の元へと跪き、握った。すると手の方もグッと握り返してきた。
 「生きてる!」
 ソアラの声を聞き、棕櫚たちも榊を気遣いながらそちらへと向かった。ソアラは急いで手で土を掘り進めていく。腕の周りから、顔があるであろう位置を推測し、ひたすらに掘った。
 現れたのは髭面であった。
 「煉様___!」
 榊の声に、煉はゆっくりと目を開けた。
 「おまえたちも私に構うな、急ぎ掘り出せい!」
 「いや、その必要はない。」
 煉は長い瞬きをして言った。
 「両の足は砕け散っている。このままの方がいい。」
 榊は言葉を失った。煉はすでに死を感じている。
 「おお___お主が由羅か___」
 煉は側にいたソアラを見やり、笑顔を覗かせる。
 「もっと良く顔を見せてくれ。」
 ソアラはただ黙って、煉の手を握りながら彼の目にしっかりと届くように、顔を近づけた。辛辣な顔色にはできるだけならないよう、気丈に。
 「お主は___奥方様によく似ている___」
 「奥方様___?」
 「水虎様のご婦人、寧々(ねね)様じゃ。」
 ソアラは身の毛がよだつのを感じた。
 「その色合いもまたよい___水虎を思わせる___」
 「えっ___」
 手が震えてやいないだろうか、ソアラは心配だった。何しろ、煉の言葉を聞くごとに胸が激しく高鳴る。
 「榊。」
 「はっ、ここにおります。」
 ソアラは少し放心した顔で煉から離れ、変わって榊が跪いた。健常な左手で煉の手に触れる。
 「良く生きた___やはりおまえには天運がある。」
 「勿体ないお言葉___」
 グッ___煉の手が一際強く榊の左手を握った。
 「全ては計略だった___我らは滅び、迎え撃った餓門の同志たちも滅んだ。」
 「___」
 「この戦いは敗北だ。だが我らの遺志はおまえの中に生き続けると信じている___」
 「はい___」
 榊も煉の手をグッと握り返した。なぜだか、涙が滲んできた。
 「強く生きよ___」
 唐突だった。それまでしっかりと話していた煉の糸が不意に切れた。目が閉じられ、榊の左手を握る力が消えた。
 「煉様___!」
 榊は唇を噛みしめ、目尻からは涙が伝った。

 餓門の一撃は金城に張り巡らされた陣をも吹っ飛ばしていた。ソアラのヘヴンズドアで四人は朱幻城への帰還を果たす。朱幻城はまたも傷ついていたが、今度は手追いながら仙山が踏ん張り、襲撃を仕掛けてきた妖魔を退けていた。
 「___いいですよ、効果がある。」
 榊の治療にまずまず効果を発揮しているのが耶雲の能力だった。彼の抑圧の能力は、棕櫚の能力から生み出された寄生草の勢いを食い止める効果があった。
 「由羅。」
 「ん?」
 榊の治療が行われている部屋の外で、向かいの壁により掛かり、ソアラは神妙な顔をしていた。そこに仙山がやってくる。
 「あえて礼を言わせて貰う。おまえがいなければ姫はあの程度の負傷ではすまなかったと、そう思うようにしている。」
 含みのある言い回しだが、仙山はソアラを責めようとはしない。棕櫚と耶雲のことも責めるつもりはない。一番責めたいのは、側近として不甲斐ない自分である。
 「そういう言葉は姫の無事が保証されてからにしましょう。」
 「___そうだな。」
 仙山は頷き、ソアラの隣に寄りかかる。
 「そうだ、おまえに伝えなければならないことがあった。」
 「なに?」
 「探している二人に遭遇した。」
 「___あぁ!そう、良かった。」
 忘れてた!とでも言いそうな間があった。それに少し笑みを見せただけで、どうも彼女らしい豊かな感情に欠ける。
 「でも二人が無事なだけじゃ喜べないわ。とにかく、今は榊に回復してもらいたい。」
 「___そうだな。」
 やがて、部屋から棕櫚が出てきた。
 「どうだ?」
 出てくるなり、仙山が問いかける。
 「耶雲のおかげで寄生の進行は止まっています。ただ彼だってずっと力を使い続けられるわけではありませんから、俺は何らかの回復の手だてを探ります。妖人である榊の生命力では、あそこまで食い進んだ寄生草を克服できないと思いますから___」
 仙山は自分を納得させるように何度も頷いた。
 「姫は?」
 「今は疲れ切って眠っています。」
 「入ってもいいか?」
 「ええ。」
 平静を装っている仙山だが、棕櫚の返事を待たないうちに足を進めたあたりに落ち着きのなさが窺えた。
 「ああ、あたしはいいわ。」
 棕櫚の目配せに、ソアラは手を振って答えた。
 「___」
 どうもソアラの表情が冴えない。何か思い詰めた様子で、棕櫚がいるのも気にせずにうつきながら虚空を見ていた。
 「鋼城の場所、教えましょうか?」
 その言葉に、ソアラは驚いたように顔を上げた。
 「気になってるんでしょう?」
 「さすがに___長いつきあいだね。」
 ソアラは棕櫚に苦笑いを見せ、ふっと顔から緊張が消えた。
 「煉さんの言葉、どう思う?」
 「信じていいと思いますよ。彼は水虎と最も距離の近かった妖魔ですから。」
 「___」
 迷いがあるのだろう、ソアラは複雑な目をしていた。
 「榊のことが気になるなら心配しないでください。必ず俺が何とかします。」
 気になるのはそれだけではない。金城での戦いではダ・ギュールもアヌビスも現れなかったようだし、彼らが糸を引く餓門の動向も気がかりだ。
 しかし___それさえも煉の言葉が飲み込んでいった。
 「教えて、鋼城の場所を。」
 己の由来を知るために、ソアラは決断した。

 「小鳥、しっかりと留守を頼むぞ。」
 紺地に銀色の孔雀が描かれたドレスを纏い、フワリとした白いマフラーを首にかけ、黒麒麟は出かけようとしていた。お供には、細帯締めの臙脂の衣服に身を包んだ冬美がつく。二人ともいつもより着飾っているように見えるのは誰かに会いに行くからか。
 「いってらっしゃい。」
 記憶を無くしているだけでもとはミキャック・レネ・ウィスターナス、成熟した女性である。近頃の小鳥は精神的にかなり安定している。一人でいることに著しい不安を抱いていた彼女も、この黒麒麟の館に自分の巣としての安心を見いだし、留守番くらいなら難なくこなせるようになっていた。まあ普段あまり触れ合う機会はないが、小間使いが数人いるという心強さもあった。
 「それほど遅くはならずに戻ると思う。」
 館のドアを開けて黒麒麟を先に歩ませ、冬美は小鳥に囁くように告げた。
 「お気を付けて!」
 笑顔で見送れる余裕がある。冬美は安心した様子で、先に歩き出した黒麒麟を追った。館の門前には冥馬と呼ばれる八脚の馬と馬車が用意されていた。颯爽と黒麒麟が馬車に乗り込み、冬美は御者席で冥馬の手綱を取った。
 「これから会いに行く男は、おまえならむしろ胸を高鳴らせるかも知れないけど、小鳥では錯乱する。」
 男の手紙を烏が運んできたのは半夜も前のこと。しかし黒麒麟は会いに行く相手のことを冬美にこれっぽっちも話していない。まるで驚かそうかと企んでいるような勿体ぶりだった。
 「___期待しています。」
 とはいえ黒麒麟がそこまで焦らす相手だ。冬美は多少の緊張を感じながら、男から送られてきた地図の場所を目指し、手綱を打った。

 「るんるん。」
 その日、小鳥はいつものように如雨露を手にして館の前の花壇へと出てきた。
 先ほど黒麒麟と冬美が出かける姿はしかと見届けた。こんなチャンスは滅多にない、そう考えた彼は勝負に出た。
 「ミキャック!」
 「!?」
 突然投げかけられた男の声に、小鳥が肩を竦ませた。見ればこちらへと笑顔で歩いてくる男がいる。見覚えはない。
 「だ、だれだおまえ!」
 異様な警戒心である。小鳥は明らかに敵意を持って少し後ずさった。
 「俺だよサザビー。忘れたのか?やっと再会できたっていうのに!」
 これは賭だ。バルバロッサには無理矢理許しを得た。彼女が記憶を失って今ここにいるというのなら、それを呼び覚ましてやればいい。ただ失敗したならここに潜んではいられなくなるだろう。
 「何だよ、おまえなんか知らないぞ!男は嫌いなんだ!こっち来るな!」
 小鳥は近づいてこようとしたサザビーに如雨露の水で応戦した。可愛いものである。
 「あ〜わかったわかった。近づかないから、ちょっとだけ話くらいさせてくれよ。小鳥ちゃん。」
 「!?___なんであたしの名前を知ってるのさ?」
 警戒心を驚きが上回った。彼女は子供のように素直だ。
 「色々知ってるよ、俺は君の旦那様になるはずの男だったんだから。」
 「旦那様?えぇ、嘘!」
 不意を付かれたか、すぐには意味が分からなかった小鳥は飛び上がらんばかりに驚くと同時に、少しだけ頬を赤くしていた。
 「翼はどうしたんだ?綺麗な白い翼があっただろ?」
 「___凛様が消してくれた。それに白じゃなくて黒だもん。」
 色々知っているんだ___小鳥からサザビーへの嫌疑の目が薄らいでいく。
 「なあ、俺のこと本当に覚えてないのか?」
 「うん___」
 「青空は?覚えてない?金色の竜とか。」
 「___」
 小鳥は首を横に振った。いつの間にかサザビーは小鳥へ近づいていた。
 「青空も金色の竜も君が大好きだったものだぜ?」
 「分からない、何も分からない。あたしは凛様と一緒にいるときのことしか覚えてない。その前は___」
 小鳥が自らの肩を抱く。急に顔が青ざめたように見えた。
 「嫌だ___思い出したくない。」
 過去に蓋を閉ざさせる何かがあったか、サザビーは一瞬眉をひそめ、また優しい笑顔に変わる。
 「君の本当の名前はミキャック・レネ・ウィスターナス。青空の下に住んでいて、竜の神様に仕えていたんだ。」
 「___」
 突飛な話だというのにそう思えないのはなぜだろう。小鳥は困惑し、さっきまでは真っ向から視線を交わしていたサザビーの目を見られなくなっていた。
 「何もかも忘れちまったんだな。」
 「何で?何で忘れちゃったの?あたし___自分がどこで生まれたとか、小さいころどんなことをしていたとか___何も覚えてない___」
 泣き出しそうな声だった___感情的にも脆さがある。
 「俺と一緒に来ないか?忘れたものを取り戻す手伝いをしたい。」
 その言葉に対する拒絶は早かった。小鳥は首を激しく横に振る。
 「いや!凛様に嫌われる!」
 「そうか?君が自分を取り戻したらまたここに帰ればいいんだ。」
 「でも凛様に嫌われたらあたしはどこに行ったらいいのか分からない___」
 「俺と一緒にいればいい。俺は君を愛している男だから君と一緒にいたいし、君が忘れてしまった俺との思い出を呼び覚ましてやりたいんだ___」
 「愛する___?」
 小鳥の白い頬が桃色に染まった。
 ポン___
 いつもだったらキスだったかもしれない。でも今日は彼女の頭に手を乗せて、優しく撫でた。背丈の変わらない彼女の頭から、髪へと優しく手を通す。触れられた瞬間だけビクンと震えた小鳥だったが、彼の優しい掌に強張が解れていった。
 「ごめんな。俺がずっと君のそばにいればこんな事にはならなかったんだ___君の手をずっと握っていれば___」
 それまでのやりとりには芝居もあった。だがこの言葉は紛れもない本心。
 黄泉へと移る瞬間、離れてしまった手をどんなに悔やんだことか___
 「う___」
 なぜだろう?小鳥は目が潤むのを感じていた。悲しくなんてないのに、彼に何も思う所なんてないのに、なぜか涙が出そうになった。
 「ここにいたら忘れたものは取り戻せない。君が帰りたくなるまででいいから、俺と一緒に行かないか?」
 「___」
 こくん___短い逡巡の後、小鳥は頷いた。

 冥馬の手綱が張る。馬は八つ脚を止め、御者席から降りた冬美は馬車のドアを開けた
 「ここか。」
 そこには廃屋があった。小振りな石造りの建造物で、窓はないが所々石が崩れて光が差し込むようになっている。
 「墓堂ですか。」
 「そうらしいね。」
 そこは死者たちの骨が納められる石堂。もう誰にも使われていないようだが、納められた骨は残り続ける。
 「___」
 黒麒麟は歩みを進め、冬美も続く。墓堂の中には石の地蔵がいくつも並び、暗がりに差し込む光を受けて、陰影を浮かび上がらせていた。誰かと会うにしては不気味で、狭く、腰掛けの一つもない。
 「ようこそ。」
 堂の奥、割れた大がめから溢れ出た骨山の上に、そいつはいた。
 「___!」
 牙丸と出会っていれば冬美にも心の準備ができたであろう。しかしこの程度の心構えで黒犬と出会うのはさしもの彼女でも気が動転した。
 「本性で会いに来たよ、黒麒麟。」
 骨山から立ち上がると顔に光が当たり、アヌビスの輪郭がはっきりと見えた。黒犬は今までにも増して狡猾な横顔をしていた。
 「気障だな。」
 黒麒麟は落ち着いたものである。むしろこの出会いを楽しんで、らしくない薄笑いまで浮かべていた。
 「そちらは?」
 「冬美、私の最も有能な僕だ。」
 「お会いできて光栄です___」
 心にもないことだが、冷静を装っているうちは仕方がない。まずはしばらくアヌビスを観察して、彼の醸す存在感に慣れる必要がある。
 「___」
 「う___」
 そのつもりだったのだが、アヌビスがじっと彼女の目を見てきたためなかなか落ち着けない。それでも見つめ返していられる度胸の持ち主が冬美だ。アヌビスがニッコリ笑うとさすがに身じろぎしたが、久方ぶりに良い危機感を背負うことができた。
 「ソアラの知り合いか?」
 「!___はい。」
 一瞬戸惑ったが、知っていてもおかしくはない。
 「やっぱりなぁ、どうもおまえの気配は初めてじゃない気がした。俺の邪輝を消そうとした魔力の奴だろ?」
 首飾りを通じてアヌビスとソアラの決戦に介入したのが彼女であると簡単に見抜かれた。どうやら緊張しすぎて、自分の魔力なりなんなりが露見していたらしい。
 「ということは、こっちの人間じゃない。」
 「フュミレイ・リドン___そういえば納得できましょうか?」
 アヌビスは満足げにコクリと頷く。野心溢れる黒犬を前に、弱者であろうとしないその態度は彼の好むものだった。そして___
 (なるほど___リドンか。どおりで似てるわけだ。)
 アヌビスは、その昔一時の楽しみを味合わせてくれたレミウィス・リドンを思い浮かべた。あの顔と気性は忘れもしない。彼女のおかげでソアラとの戦いが一段と愉快になったのだから。
 「黒麒麟よ、あなたが俺の先輩であることは承知しているつもりだが、我が野望にご協力いただけるかな?今の軍勢が竜を討つには指導者が足りない。」
 「おまえが指導者ではないの?」
 「俺は黄泉に残るつもりだ。それに、竜を討つには俺よりもあなたの方が要領を得ているだろう?」
 冬美は二人の会話に違和感を覚えた。まるで古くから知り合っていたように、二人の中だけで理解し合える何かがある。その秘密が黒麒麟の過去に起因すると想像するのは安直だが間違いではないだろう。
 「肝心なところを人に任せるのね?」
 「どうしてもというなら俺が指揮を執る。だが、そうすればあなたには俺のやり方に従ってもらうことになる。それで納得できるか?積年の恨みを果たす舞台だというのに。」
 グン___
 「ん。」
 アヌビスの細長い口に、黒い輪っかが巻き付いた。黒麒麟の指先がほんの小さな闇を放ったことに、冬美は気が付いていた。
 「大胆なのは好きだけど、余り口が過ぎるのは気に入らない。」
 普段は人をおちょくるアヌビスも、今日ばかりは少し大人しく見えた。なぜか、対話は対等と言うより黒麒麟が上のよう。そもそも「先輩」とはどういうことか?
 「まあ良い___で、私を見せ物にしてどんな手法で竜を討つのかな?」
 黒い輪っかが弾けて消え、アヌビスは一度舌なめずりしてから話し出した。
 「冥府を動かす。」
 「!」
 黒麒麟が息をのんだ。冬美はアヌビスの言葉の意味が分からなかったから、冷静に黒麒麟の驚嘆を感じ取れた。彼女の目を見開いた顔なんて、そうそう見られるものではなかった。 
 「___本気のようだね。」
 黒麒麟に疼きが走る。作り笑いとは違う、胸の奥底からこみ上げた笑みは少し引きつっていた。
 「手を貸してくれるか?」
 「竜を討った後はどうする?」
 「さあ、考えていない。」
 「ならおまえはなぜ黄泉に残る?」
 「楽しいからさ。いずれはここも俺のものにしたいんだ。」
 嘘か誠か、黒麒麟は疑うような伏し目でアヌビスを見ていた。
 「疑うなって。俺の誘いに乗ってくれるのか?」
 「良いだろう。またとない機会だから___乗ってみたくなった。」
 「ありがたい。」
 アヌビスは黒麒麟に握手を求め、手を挿しだした。しかし黒麒麟は軽くその手を払いのける。
 「そこまでされると虚仮にされたように思う。おまえがあたしのことを十分に知っているから、余計にな。」
 「___これは失礼。」
 アヌビスがニヤリと笑った。黒麒麟は小さく舌打ちし、横に連れ添う冬美を見た。無表情を装いながらもアヌビスと黒麒麟に詮索の思いを向けていた冬美は、少しだけ口元を突っ張らせた。
 「場所は?どうやって向こうに帰る?」
 再びアヌビスに目を移し、黒麒麟は問いかけた。
 「二夜後にここまで来てくれ。おまえの部下となる妖魔と、迎えがいる。」
 「分かった。冬美、おまえは小鳥を連れてここに迎いなさい。」
 黒麒麟はアヌビスから受け取った紙切れを冬美に渡した。
 「凛様は?」
 「黄泉を離れる前に行っておきたい場所がある。直接向こうで落ち合おう。」
 「はい。」
 「さあ行きなさい。」
 急かしている?冬美は不可解に思いながらも、一足先に墓堂を出た。
 「何で隠すんだ?自分の過去を。」
 アヌビスは黒麒麟に問いかけた。薄笑いでは彼女もまともに受け取ってくれないと思ったのだろうか、彼らしくない真摯な表情で。
 「すぐにばれる。竜神帝打倒に姫凛のままで行けると思ってる___」
 アヌビスが思わず口をつぐんだ。
 ___彼女の右側の顔を隠す長い前髪が少し揺らめき、僅かだがその右目が覗いたからだった。
 「口が過ぎるのは気に入らないと言ったはずだ___」
 「あまり怒るとあの娘が戻ってくるぞ。あいつはソアラと同じくらい感覚が鋭い。」
 「わかっているさ。」
 髪は再び深く黒麒麟の右目を隠した。
 「本当にその時が来るまで、私は妖魔の黒麒麟だ。部下となる者たちにも、その方が理解がいい。」
 それだけ告げると、黒麒麟は踵を返した。アヌビスは後ろから声をかけることもせず、彼女が立ち去るのを見送った。
 「恨みは愛情の裏返し___心から愛していたから、今は心から打ちのめしてやりたいと思っている。乙女だねぇ___闇の女神よ。」
 一人残ったアヌビスは、ポツリと呟いていた。




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