4 双竜激突

 「こんなに後れを取るなんて!」
 漸く深い森から抜け出した竜樹は、金城だけを見据えてひた走っていた。強者たちが集う戦場こそ、自分が求める場だ。そう竜樹は思っていた。金城の城塞から激しい力のぶつかり合いを感じるからこそ、彼女は自分の間抜けな方向音痴を憎んだ。
 「!?」
 一目散に戦場へ飛び込みたい。だが不穏な空気を感じて彼女は唐突に足を止め、幾分腰を落とすと自慢の名刀、龍風(たつかぜ)の鍔に親指をあてがった。
 「構えを解け、竜樹。」
 そう口にしなければ現れた瞬間叩き切られていたに違いない。それほど竜樹は鋭敏に彼の接近を感じていた。
 「何者だ?」
 「夜行、と言えば分かるか?」
 見るからに怪しげな風体の夜行だが、竜樹はその名を聞くと構えを解いた。
 「あんたか。アヌビスが言ってたのは。」
 「?___今何と言った?」
 夜行は己の耳を疑った。だから問い返した。
 「アヌビスだろ?違ったっけ?」
 「いや。正しい。」
 こんなぶっきらぼうな小娘にアヌビスは本性を明かしたらしい。それだけでも邪神の入れ込みぶりが伺える。
 (___相変わらず。)
 まだ幼さを感じさせるが可愛らしくも凛々しい顔立ち。女でありながら男になろうとする意固地と気の強さ。ソアラにも通じるところがある彼女は、アヌビスが気に入るタイプだ。
 「俺のことを確認しに来ただけか?それだったら___」
 竜樹は夜行の脇をすり抜けていこうとするが、見えない何かに腕を引っ張られた。
 「待て、これはただの戦いではない。おまえはさらなる戦いのためにアヌビス様に選ばれた。」
 「?」
 竜樹は振り返る。戦場の叫びを間近に聞きながら、夜行は彼女に何かを伝えた。

 「つああっ!」
 戦いに慣れているかと言われれば、慣れていない。まして刀を手に闘うなど経験すらあやふやだ。それでも榊は懸命に迫り来る妖魔と刃を交えていた。
 ギンッ!
 金城へ向けて、城塞を半分くらいは進んだだろうか。煉は旗頭であり、大将である。それだけに襲撃は頻繁で、百名の大部隊でも休みはなかった。今もこうして、敵が振るってきた刀を榊は懸命に細腕の小太刀で受け止めていた。
 「!」
 ただの鍔迫り合いでは済まないのが妖魔同士の戦いだ。榊と対峙する老練な妖魔はニタリと笑って、その口を開いた。
 シュッ!
 舌がまるで槍のように鋭く尖り、榊の喉笛をめがけて勢いよく伸びた。彼の奥の手はいつだって百発百中。一度で相手を仕留めなければ二度目には通用しなくなるから。
 「げ!?」
 だが舌は榊に届かない。その先端は、彼女との間に開いた闇に入り込んでいた。
 「運が良ければ生き残れる。期待するのじゃな。」
 闇の向こうから悪魔のような囁き。そして老練な妖魔は大きく開いた闇の入り口に飲み込まれてしまった。
 「ふぅ___」
 さっきから、短い間に闇の開閉を繰り返している。これで五回目だ。
 周りではまだ同士たちが他の妖魔たちと激しい戦いを繰り広げている。息つく暇など無いのだが、榊は疲労性の頭痛を落ち着けるためにほんの一時緊張を解いていた。それをすぐ後ろの白壁の歪みから狙う目があるとも知らず。
 (大物だ___この小娘だけでも殺せばいい箔が付く。)
 その妖魔は自らの体を液化することができる。彼はとろけた体で、白壁の歪みに潜んでいた。
 「っ___なかなか治まらぬ___」
 軽い目眩まで伴う。休み無く飛び回り、加減無く力を使い続けた反動。妖魔たちの中にあっては脆弱な体は、彼女の強い意志に反して早くも悲鳴を上げていた。
 そして水の染みは着実に彼女の足下まで広がっていた。
 「榊!!」
 そのとき煉は対面していた妖魔を葬り去り、頑張り屋の娘を視界に入れようと振り返ったところだった。すると彼女がことのほか疲弊した様子で警戒を怠っていたため、たまらずに声を張り上げた。
 「!」
 彼女に忍び寄る不可解な染みに気が付いたのは煉が先だった。榊が気づいたときには___
 シュバッ!
 水から飛び出した刀が彼女の左腕を肘から切り飛ばしていた。
 「___!」
 その痛みと衝撃は頭痛などかき消すほどに強烈。瞬間に断面からは血が噴き出していた。
 「仕留める!」
 水の妖魔がとろけた体を浮かび上がらせ、榊の首を切り飛ばそうと狙う。しかし___
 「うげぁっ!?」
 彼の体は一瞬にして昇華し、刀だけが地面に転げ落ちた。彼のいた大地は既に渇きを取り戻し、むしろ黒い焼け跡を残していた。焼け跡から伸びた黒い筋は、先ほど煉がいた場所に達していた。彼が地獄の業火を大地に走らせたのである。
 「榊!気を確かに持て!」
 「うう___」
 酷く青ざめ、それでいて脂汗でびっしょりと濡れた榊の顔。それでも彼女は勇ましい表情を崩そうとはせず、痛みに悲鳴を上げることさえなかった。戦場で泣き叫ぶこと、それは醜態だから。
 「荒療治だが、堪えろ。」
 煉は出血夥しい榊の傷口に掌をかぶせた。一瞬だけシュッという音が聞こえ、榊の傷口から湯気が立つ。煉が手を離すと出血はなくなり、彼女の傷口は封印されていた。煉は紅蓮の炎の使い手。一瞬の超高熱で榊の傷口を塞いだのだ。
 「ありがとうござい___」
 ます___まで言いたかった。だが体にのし掛かるダメージが、重荷となって彼女を地に伏せさせた。
 「しっかりしろ、榊!」
 煉はすぐに彼女を抱き起こす。
 「これしきのことで何とする!?貴様はそれほどに脆弱な妖魔か!?」
 弱音を吐きたくはなかった。この場の戦いを制した同士たちも彼女のもとに集まってくる。
 秘密を明かす怖さはある。だがこのまま黙っていては今以上に迷惑が掛かると感じた。
 「私の体は妖人なのです___」
 「!?」
 「我が父母は妖人___なぜ私が闇の番人の能力を持つようになったのか、それは私にも分かりませぬ。」
 煉は言葉を失った。弱々しい声で、それでも気だけは強く持とうと必死に歯を食いしばりながら、榊は話してくれた。彼女はまだ闘うことを望んでいる。妖魔榊の誇りは、妖人の肉体に朽ち果てるまで鞭をうち続けるのだ。
 「死なせぬ。私は妖人たちに尊厳を与えるために務めてきた。おまえのような、私の願いを体現している娘を、絶対に死なせたくはない。」
 煉は榊を抱いて、立ち上がった。
 「___勿体ないお言葉___」
 「この戦いを生き抜いたなら、おまえを心身共に妖魔になるはずだ。」
 煉は榊をおぶるようにして背に乗せた。
 「辛いかもしれぬが、我らの勝利を見届けてくれ。そして我々の心に勇気を与えてくれ。」
 同士たちが小さな娘を賞賛し、拍手を送っている。これ以上ない激励に、榊は煉の背で小さく震えていた。
 「どうした?苦しいか?」
 「苦しゅうございます___これほどの暖かな___」
 胸がいっぱいで苦しい。そう言わなければいけなかったのに、涙声になってうまく喋れなかった。しかし彼女の涙が苦痛によるものではないこと、それは言葉にせずとも煉たちに伝わる。
「大将殿、榊は朱幻城では姫と慕われていると聞きます。」
 百人も寄れば、やに物知りでお調子者な奴もいるものだ。どこからかそんな声がすると、煉は「おお」と笑顔になった。
 「それは良い!我らが姫をお守りするとあらば、皆の志気も高まろう!」
 「おお!」
 同士たちが意気上がる。腕はまだ痛い。それでも榊は自然と笑顔になっていた。

 結束を強め、煉を中心とした一団は見事なまでの強さを発揮した。それは本丸となった金城から様相を見る餓門の血を滾らせる快進撃だった。
 「さすがに水虎の同胞!煉はあれでまだ半分の力しか出してない!」
 餓門は妖人なんぞの為に持ち前の力強さを隠している煉を嫌っていた。だが、その黄泉きっての実力者がいよいよ戦いの場に現れ、辣腕を振るっているのだ。こんな機会はまたとない。力強さを武器にここまで辿り着いた餓門が疼かないはずがなかった。
 「動いてはならん。」
 「むぅう。」
 餓門の全身に、血管が浮き上がっていた。その筋骨隆々な肉体はいつも以上に力強さに溢れ、周囲の大気は熱を帯び、揺らめいて見える。全身に血の気を滾らせているこの状態で、煉という食べ応えのありそうな獲物をお預けされている。今すぐに飛び出したい!そんな衝動に駆られる彼を戒めるのは夜行だった。
 「一撃で吹き飛ばせるか、それを試すためにここにいるのだ。おまえの奥義の力を見せつけるために。」
 夜行の言葉は餓門がこの戦いの目的を忘れぬよう、時折投げかけられていた。
 「な、なるほどな___確かにその通りだ!」
 そしてその都度、餓門は別のうきうきに胸を躍らせるのだ。
 「後どれほど掛かる?」
 「まだだ、もう少し!」
 餓門は一層歯を食いしばり、力を蓄えていく。彼の肌は既にかなり赤み帯びていた。
 「私も外に出る。時が来たら奴に伝えよ。」
 「おお!」
 餓門の後ろには、青年がいた。彼はそこでただじっと、何かの指示を待っているようだった。
 (やれやれ全く面倒なことだ。アヌビス様が残られるならばわざわざ消える必要もなかったというのに。)
 夜行のダ・ギュールは偉大なる目的のために黄泉から出ていかなければならない。本来優秀な戦士を引き連れてアヌビスが帰るはずだった。ダ・ギュールはこちらに残り、行き来の連絡口となり、同時にこの世界に眠ると思われる神々の遺産を探し当てるはずだった。
 (まさか、何らかの手がかりを見つけられたのだろうか?)
 ___いや、ただ新しい刺激が面白くてたまらないだけだろう。
 我が主の変わった嗜好を思いながら、金城のはずれでダ・ギュールは夜行の衣服を捨てた。

 煉の本隊の志気が知らず知らずと他にも乗り移ったか、煉軍の快進撃に拍車が掛かり始めた。その勢いはとどまるところを知らない。立ちはだかる者、あるいは罠を張る者、ことごとく蹴散らして金城へ本丸へと邁進していた。あいつが現れるまでは___
 「また敵か!」
 その一団は、統率者こそいないものの数で敵を圧倒していた。もちろん個々の実力が高いから突破できたのだが、五百人はくだらない大部隊だった。いまその前に、新たな妖魔が立ちはだかったようだ。
 「俺たちが蹴散らす!」
 一団の先頭を進んでいたのは俊足を能力に持つ妖魔たち。風の力を身に受けて、人並みならない加速を生む。両手でただ一本の刀を握る小柄な侍に、妖魔たちは猛然と突っ込んでいった。
 目にもとまらぬ速さとはこのことか。
 一人目の妖魔の小太刀を剣先でそらし、その余勢を駆って撫で切りに捨てる。重ならないようやや左にずれて襲いかかってきた二人目は生身の拳だった。ならばと縦真一文字に切り落とす。ほぼ同時に襲いかかってきた三人目四人目。侍は自ら一歩踏み出してまず三人目に己の間合いを生み、袈裟切りで仕留め、そのまま翻って四人目を切り捨てる。その二人を乗り越えるようにして高い跳躍で襲う五人目。侍は素早い身のこなしでその足の下をくぐり抜ける。着地と同時に振り返って斬りつけようとした五人目に対し、侍は後ろを見もせずに喉笛を切り裂いた。
 これが一瞬。疾風のごときスピードで一連の動きが巻き起こり、五人が死んだ。
 「弱い。」
 刀には血が付いていない。しかし彼女の周りには血の海が広がる。刀身の振りがあまりにも速く、鮮やかすぎて刃に血を残さない。それが竜樹の強さの証だった。
 「うおおお!」
 一瞬で五人が殺められた。その事実は妖魔たちの戦意をかき立て、五百人の怒濤が竜樹へと襲いかかっていった。
 そして、龍風が煌めく。
 「大将殿!」
 驚愕の報せを煉の元に運んだのは、虫使いの妖魔だった。彼は虫を城塞の奥へと飛ばし、様子を伺っていた。
 「なんだと___」
 同士五百人が討ち死に。その報せは煉の頬を強ばらせた。
 「どうされました?」
 煉の背で少し休んだことで、榊はいつも通りの声を発せられるところまで回復した。
 「かなりの手練れがいるらしい。海猿(かいえん)!」
 煉の呼び声で、鎧で武装した大柄な妖魔が側へと寄ってきた。
 「榊、すまぬな。」
 榊の身体を海猿に抱かせた時だった。
 「うがっ___」
 「おのれ!」
 煉の一団に動きがあった。
 シュバ!
 一団の中から血飛沫が上がる。はじめ煉の遠くで上がった飛沫は、次の瞬間には一団の中程で、そして目の届くところにいた妖魔の首が飛ぶと、竜樹は煉の前へと躍り出ていた。
 「女侍___!?」
 「むっ。」
 女という言葉が耳に入り、竜樹は煉を睨み付けた。そして疾風の如きスピードで煉に斬りかかった。
 ギンッ!
 やや感情的な太刀筋だったろうか。無駄なく、的確に隙をついて敵を仕留めてきた竜樹だったが、煉には真っ向の上段斬りで食ってかかった。その結果、彼女の一太刀は煉の刀に受け止められていた。
 (細腕に見えるが、力もある!)
 鍔迫り合いの中、煉の瞳が赤く光った。
 「!」
 刀を伝って炎が走る。それはまるで蛇のように、龍風の刀身に絡みついていった。
 「くっ!」
 竜樹はすぐに身を引き、大きく後方へ飛んだ。そこへ一団の妖魔たちが一挙に襲いかかる。
 「海猿、行け!」
 「はっ!」
 「煉殿!」
 榊の声に、煉は彼女の力ある瞳を見つめ返した。私も戦える。彼女の瞳に込められた思いはただそれだけだった。
 「後陣より我らの勝利を見届けよ。」
 「___っ。」
 大将の命である。榊は海猿に抱かれたままじっと煉を見つめ、噛みしめるように頷いた。
そして___

 「ぐ___はっ___」
 肩口から胸にかけて、抉れた肉を真っ赤に染め、妖魔の男が倒れた。その男の指先から伸びていた糸が切れる
 「ぷっ。」
 竜樹の首に巻き付いていた糸が緩み、風に流されていく。首には赤い筋がつき、頬や腕には小さな傷がいくつかついている。そして竜樹は血の混ざった唾を吐き捨てた。
 ゴオッ!
 彼女がたった今切り捨てた妖魔の骸が燃え上がり、竜樹は素早く後方へ駆けだした。噴き上がった炎は鳳凰を象り、そのまま竜樹を追いかける。前方が袋小路になったことに気づくと竜樹はすぐさま踏みとどまって鳳凰に向き直り、龍風を握り直した。
 「はあああっ!」
 周囲の大気を沸騰させながら、鳳凰が竜樹に迫る。口の渇きを感じながら竜樹は気合いを込めて龍風を振りかぶった。
 「斬る!」
 高速で振り下ろされた刀が鳳凰の鼻面を切り裂き、一塊りだった炎は真っ二つに裂け、竜樹の体側を撫でながら彼女の後方の壁にぶつかる。その途端、壁が轟音を上げて燃えさかった。
 「く___」
 竜樹は少しだけ目を細めたが、痛がる素振りは見せない。彼女の着物の両袖は炎に消し飛ばされ、腕の外側の肌は赤く爛れていた。
 それほど、煉の炎は強烈だった。
 「!」
 だがこれしきの傷で竜樹は休まない。不意な気配を感じ、右側の壁に龍風を突き立てる。
 「がは___」
 白い壁から男の影が浮き上がった。その左胸に龍風が深々と突き刺さっている。壁に溶け込む能力。だが竜樹は接近の気配を鋭敏に感じ取り、感覚だけで討ち取った。
 「追いかけてこないってことは、俺は放っておいて金城を目指すのか?」
 竜樹は煉の一団のうち、半分の妖魔を仕留めた。いや、半分仕留めたところで苦戦を強いられ、追い払われてしまった。
 煉の力は彼女が「手応え」を感じるだけのもの。刀術の巧みさはもちろん、自在に形を変えて動き回る炎は鉄壁であり破壊的である。飲み込まれれば身体が蒸発してしまうだろう鳳凰に行く手を阻まれ、ついには攻め込まれて後進し、煉を見失っていた。
 「気に入らない!」
 壁に隠れていたのは煉の一団の妖魔ではない。誠実な面をした煉は、無駄な犠牲を出さずに本丸を目指している。竜樹がすでに千人近い妖魔を殺めているのを蔑むように。
 「俺は一番強い奴と戦うんだ!」
 気が高ぶる。すると彼女のつぶらな瞳は、猫の目のような半月型に変形しかけた。
 「っ!」
 自分の頬を平手で一撃し、竜樹の瞳が元に戻る。ほんの短い深呼吸をし、竜樹は側面の白壁に颯爽と飛び乗った。
 ちょうどその壁の向こうにいたのが、大男と小柄な娘。
 「うおおお!」
 誤解するのも無理はない。竜樹の腕には煉との戦いの跡があり、彼女はいまだ健常でありながら全身に返り血を染み付けている。
 その姿を目の当たりにした海猿は、「この最強の刺客は煉を退け、榊を追ってきた」と思いこんだ。
 「!」
 煉を探すことに気が向いていた竜樹は完全に不意を付かれた。そして彼女は黒い霞に包まれる。それは海猿の口から帯状に吐き出されていたものだった。
 「ぐっ!?うぅっ!」
 竜樹の全身にくまなく刺激が走る。慣れない痛みに身体が痙攣した。黒い霞はまやかしの煙ではない。海猿の肩に担がれていた榊には正体よく見えていた。
 (羽蟻とは___おぞましい___)
 寒気のする能力だ。海猿の口内から大量の羽蟻が飛び出し、竜樹の全身に食らいついている。彼女の身体全体が黒い霞に飲み込まれると、海猿は口を閉じる。
 「蟻酸一つ一つの刺激は小さい!だがそれが集まれば巨獣さえ倒す!」
 蟻は強い顎で相手を噛むと同時に、蟻酸という弱酸を吹き掛ける。一度包み込んでしまえば、竜樹を食い散らかされた骨付き肉のようにするのは簡単なはずだ。
 しかし。
 「なに___!」
 蟻たちはひと噛みできたのだろうか?竜樹の全身を包んでいた黒い霞が消えていく。蟻はなにをされたわけでもないのに、駆虫剤でも嗅がされたようにボタボタと転げ落ちていった。
 「なぜだ!?」
 「殺気じゃ!」
 取り乱す海猿に答えを聞かせたのは榊だった。
 「奴の強烈な殺しの気配が___虫たちを昏倒させた!」
 「ば、馬鹿な!」
 戸惑いは、殺気を放つ侍の前では命取りになる。瓦を蹴った竜樹は刀を手に飛びかかってくる。
 「くっ___闇を!」
 榊は闇を開こうとするが片腕ではうまくいかない。
 ザン!
 一撃で、海猿の巨体が縦に切り裂かれた。
 「!」
 素早く切り返し、肩にいる榊を狙った横凪の刃が飛んでくる。だが榊はとっさに海猿の肩から転げ落ち、刃は海猿の首を切り飛ばした。だが竜樹の攻撃はそれで終わりではない。
 バギッ!
 転げ落ちた榊の鼻面を竜樹のつま先が痛烈に蹴り上げた。榊の軽い身体は錐揉みに舞い上がって肩から地に叩きつけられた。
 「く___」
 骨をやられたのだろう、鼻から止めどなく血が流れ出る。右肩にも痛みが酷く、指が自分の意志に反して痙攣していた。これでは体を起こすこともできない。
 「身動きのできない相手を殺す。その非情さも俺には必要なものなんだ。」
 俯せに倒れた榊は背中に竜樹の声を聞くしかなかった。なにも呪う必要はない。黄泉の行く末をこれ以上見られないのは悔しいが、はじめから覚悟はできている。
 「待ったぁぁぁっ!」
 死の鉄槌を妨げる声。榊の前で刀を構えていた竜樹は空を見上げた。その時には、黄金に輝く女が目前まで迫っていた。
 ドガッ!
 突如空から現れたソアラの拳は竜樹の頬に痛烈に打ち付けた。顎を歪ませ、竜樹の身体は一直線に側方の白壁まで吹っ飛んだ。
 「榊!」
 陣の効果で飛行はできない。しかしソアラの身体は地面に激突せず、大地に開いた巨大な蓮花に受け止められた。続けて落っこちてきた棕櫚と耶雲も蓮花に身を委ねる。
 「間に合ったか!」
 榊の首が切り飛ばされてないと知り、耶雲が高らかに言った。
 少し長くなるが、榊の危機を救ったからくりの要はこの耶雲にあった。三人はあれから移動呪文ヘヴンズドアで朱幻城に辿り着き、仙山からことの経緯を聞いた。そしてすぐに金城を目指したのだが当の城の様子が変わりすぎていて、ヘヴンズドアでは移動することができなかった。なんとか城塞まで一気に飛行してきた三人だったが、陣に掛かって落下。さて、そこで力を発揮したのが耶雲だ。彼は相手の能力を抑え、弱めることができる。自分たちの周囲だけ陣の効果を弱めることで、三人は城塞の空をゆっくりだが飛行できた。そして破竹の勢いで敵をなぎ倒していく竜樹の姿が空から目に止まったわけだ。
 「二人とも榊を!」
 竜樹は崩れた白壁の下敷きになっている。だがソアラは彼女の力の漲りを感じ取り、素早く蓮花から飛び降りて身構えた。
 「大丈夫ですか?」
 そして榊に駆け寄った棕櫚と耶雲。懐かしく、愛しい人の声は榊を勇気づけた。
 「こんなに無理をして___」
 「黙れ___」
 棕櫚は榊を優しく抱き上げる。榊は言葉にならないほど小さな声で、強がった。棕櫚はそんな彼女に優しい顔を見せ、その身体に心地よい薫りの花を絡ませてやった。
 「遅くなったけど、全部仙山から聞きました。それに、二人も手伝ってくれます。」
 ソアラの元気な声は、榊にとってとても心強く聞こえた。
 「まったく___遅かったではないか___由羅!」
 「ごめんなさい、姫。」
 ソアラは棕櫚に抱かれた榊に笑顔を見せ、すぐに動き始めた瓦礫を睨み付けた。
 「あいつはあたしが引き受けるわ!二人は姫をどこか安全なところへ!」
 「わかりました。」
 「気を付けろ、並の相手じゃない。」
 耶雲の忠告にソアラはしっかりと頷いた。
 やがて瓦礫が持ち上がり、中からゆっくりと小柄な女侍が現れる。彼女は着物も袴も蟻に食われたためか穴だらけで、身体だって生傷ばかりだった。
 「きいたなぁ。おまえ強いね!」
 ズタボロに見える。それなのにこのケロッとした様子は何だろう?竜樹はソアラに殴られた頬に手を当てて、ニッコリと笑っている。
 (あたしが弱くなった?そんなこと無いよね?)
 竜の使いの力を発揮して、渾身の拳をまともにたたき込んだ。それでいてあの様子だ。ソアラは思わず自分の拳を一瞥していた。
 これが二人の初めての対峙だった。




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