3 開戦
嵐の前の静けさとはよく言ったもの。戦場を目前にし、煉の一軍は驚くほどの静寂に包まれていた。これから巻き起こる戦いを前に、己の集中力を極限まで高める。ここに集った妖魔たちはそれができる手練ればかり。ただなかには、金城の変貌ぶりに息を飲み、言葉を失った者もいた。
榊もどちらかというならば、戦場の変化に驚いた一人である。
「動きがないかと思っておりましたが___」
「金城と銀城は水虎が作り上げた攻防の象徴。だが、それは形骸ではなく、要塞としても難攻不落の堅固さを誇る。だが、このような城塞が隠れていたとはな。」
榊の呟きに頷き、煉は金城を「見上げた」。そう、金城はせり上がっていた。無防備に思える広大な平原にあったその城は、そそり立つ石垣の上に。そして城の周囲にはまるで迷路のように白壁が入り組んだ城塞が広がっていた。
ソアラがいたならば気づいたかも知れないが、金城の地下にあった迷宮がこれの一端である。
「なにを臆することがあるか!?」
城塞に気圧されたように立ち止まっている煉の一軍。それに苛つき、前へと躍り出たのは嘴を生やした妖魔だった。鳥人間に変身する能力を持つ妖魔の一団。長である松蔭(しょういん)は同胞を従えて一足先に金城へと飛ぶ。
「うおおお!」
それを開戦の合図と考えた妖魔たちが動き出す。
「待て!まだじゃ!」
榊は両手を広げて必死に叫んだが、怒声に掻き消されてしまう。静寂がうって変わり、湿り気ある風が吹き始めた戦場。煉と榊の本隊だけが後れを取る形となってしまった。
「これも機というものだ。行くぞ、榊!」
「はっ!」
それでも煉に焦りはない。万もの妖魔を完璧に統率できることなどないのだ。こうなることははじめから分かっていた。
分からなかったのは、金城に仕組まれたからくりが城塞だけではなかったということだ。
「一気に本城の餓門を討つ!」
松蔭の一派は持ち前の飛行術で一気に金城の城塞上空へと入り込んだ。彼らの翼は僅かな風で大空を滑空できる力を秘めている。これだけの風が吹いていれば、さらに一層の加速が駆けられる。
「うぐっ!?」
にも関わらず、松蔭の一団はたちまち失速し、錐揉みのようにして落下を始めた。
「ば、馬鹿な、どういうことだ!?」
いつものように、当然そうしているように風を捕まえて飛べばいい。それだけのことが全くできない。体は自由を失い、真っ直ぐに眼下の城塞へと落ちていく。
「うおああっ!」
松蔭たちだけではない。空から金城に迫ろうとした者たち全員が城塞に向けて落下している。
「これは一体!?」
いよいよ城塞にさしかかろうかというところまでやってきていた榊は、空から降る妖魔の雨に悪寒を覚えた。人が降るだけではない、彼らのどうにもならない悲鳴が彼女を震えさせた。
「飛行封じの陣!空からの一切の侵入者を断つ!」
煉はこのからくりを知っていた。かつて水虎が得意としたものでもある。
「消えることのない強制力!永劫陣___水虎の能力だ!」
「!」
榊は息を飲み、走りながら目前に開いた城門を睨み付けた。水虎は陣使い。彼は三つ以上の点を結び、囲いを作ることでその中に制約を生むことができる。永劫陣とは、例え彼がその場から消えようとも効果が持続する陣のこと。この陣を解くには、囲みを作っている点を破壊しなければならない。そしてこの金城の城塞に張り巡らされた陣には、一切の飛行を禁止する制約がかけられている。
(我らが挑もうとしておるのは餓門だけではない、水虎様もじゃ!)
飛べないことを悟った妖魔たちは、開いた城門から、あるいは城壁を乗り越えて、一気に城塞内に雪崩れ込んでいった。
城門を潜るとすぐに白壁が立ちはだかり、道は左右に延びる。統制のない戦隊はたちまち左右に分断され、身の軽いものや地走り衆は正面の壁を乗り越えて「本丸」の金城への最短距離を使った。
「うおおお!」
煉軍は勢いよく進む。迎撃がなければ勢いを殺すものはなにもない。
「よし、我らは左だ!」
それでも、戦力はどんどん細かくなっていった。一つの徒党となって動いていた赤辰と鉄騎も別れて動く。道が狭く、大軍で動くにはあまりに不自由がありすぎるのだ。結果として、全ての道を虱潰しに煉軍が突き進む形となった。
そして迎撃が始まる。
___
「ほほっ、このまま金城を陥れるぞ!」
しゃがれ声の獅堂ら地走り衆に壁は意味をなさない。彼らは四つ足で、まるでゴキブリのように天地関係なく平面を這いずり回る。足が多ければ速いというものでもないが、彼らの速さといったらおぞましくさえ思えるほどだ。
「ほいほい。」
いくつもの壁を垂直に乗り越え、目の前の道が少し広がると、その先には土埃に汚れた石垣が聳え、金城が見える。
地走り衆は二十名にも及ぶ。彼らはただ動き回るだけが能ではない。いざとなれば優れた暗殺者にもなる。なら狙いは一つだ。
「行くぞい!」
獅堂の一声で、地走り衆は石垣に向かって一気に駆けだした。そしてその十数人が道に降りた時___
「ぐっ!?」
地走りたちの四つ足が地面に張り付き、ピタリと動かなくなった。
「止まれ!」
後列を進んでいた三人の地走りたちが、獅堂の声に壁で足を止める。いったい何が!?三人の地走りがそう問いただそうとした時には___
グシュッ!
三人の背が真っ二つに裂けた。斧が三本、それを握っている手は四つだった。太い腕が一本ずつ、細い腕は両手で一本の斧を握っていた。
「一杯かかったなぁ。しかも本物の虫みたいな奴らばかりだ。」
藻掻こうとする地走り衆を見下ろして、白壁の瓦屋根に乗った四つ手の男が満足げに呟いた。頭知坊である。
(こやつは蜘蛛の巣か___!)
獅堂は己の動きを阻むものが何であるか知った。ほとんど透明に見えるが、凄まじい粘着力を帯びた糸が四つ足に絡みついていた。それは道中に張り巡らされている、まさに蜘蛛の巣だった。
「さあ、くたばれよぅ。」
頭知坊は屋根からジャンプすると、構わずに蜘蛛の巣に絡め取られた地走りの頭の上へと飛び降りた。鈍い音がして、首の骨をへし折られたその地走りは絶命した。
「お、おのれぇ!」
その惨劇を目の当たりにした他の地走りたちが、蜘蛛の巣から逃れようと力を込める。だが透き通るような蜘蛛の糸はびくともしなかった。それを後目に、小太りの頭知坊は、意気揚々と太い二つの腕で斧を振りかざしていた。蜘蛛の糸は彼の足には全く絡みつかない。それは、彼が「蜘蛛」の能力を持つ証だった。
「ぐはぁっ!」
身動きのとれない中、順々に命が絶たれる恐怖。用心深い性格なのか、頭知坊は決して地走りたちの顔の前に回ろうとはしない。二人ずつ、彼らの背中に斧を叩き込んでいった。順が迫ってくると、若い者などは哀願の叫びを発したほど。しかし頭知坊は容赦しなかった。
そして獅堂の背後に。
「おまえで最後だなぁ。」
「雇われ妖魔が、大したものじゃな。」
獅堂の冷めた物言いにも頭知坊は平静だった。無言で斧を振りかざす。
「ほぉぉっ!」
今振り下ろそうという瞬間、獅堂の首が伸び、背中まで反り返った。
「!」
獅堂の口から青黒い飛沫が舞った。だがそれさえも構わずに、頭知坊の斧が煌めく。
ザンッ!
「毒液かい、こいつぁ。」
獅堂のいまわの一撃は、触れただけでも肌を腐らせる強烈な毒液。だがそれは、頭知坊の細腕から広がった蜘蛛糸の束にことごとく受け止められていた。液を吸ってボロボロと朽ち果てていく糸を切り離し、頭知坊は地走りの長を真っ二つにした斧を引き抜いた。
「次の獲物が来るのを待つべぇ。」
僅かな時間で二十もの妖魔を殺めたというのに、頭知坊は全くけろっとしていた。彼もまた、殺しを本職とした妖魔であり、その所業に罪の意識など感じなくなった男であった。
___
「へへっ、ちょろいもんだ。」
両手首に鋼鉄の枷をした男が笑う。彼の枷からは鎖が伸び、二人の妖魔を絞め殺していた。その足下には、他にも切り捨てられた妖魔が数人倒れていた。そして鎖の彼を横に見る白壁に寄りかかり、蛮刀を肩に立てかける男がいた。切り捨てられた妖魔は彼にやられたのである。
「ほれ、交代だ、次の奴はおまえがやれよ。」
鎖の男は胡座した友人に近寄る。
「ん?」
だが彼は深くうつむいて動かない。
「おい?」
不可思議に思った鎖の男は彼の肩に手を乗せた。そのときである。
グンッ!
「!?」
突如白壁から手が伸び、鎖の男の首をがっしりと掴んだ。男はそのまま壁に向かって引っ張られる。
「ぐっかっ___!」
絶命までは一瞬だった。男の身体は壁につっかえてそれ以上進めないのに、手は力任せに彼の首を壁に向かって引っ張り続ける。窒息が先か首の骨が折れるのが先か、それだけだった。
「ふむ、お主の能力とは馬が合いそうだ。」
その反対側で、赤辰が満足げに壁から腕を引き抜いた。物を透過する腕は、障害物の多い戦場で真価を発揮する。だが彼には壁の向こうが分かるわけではない。それでも胡座をかいた男の心臓を握りつぶすのは簡単だった。
「私の目があれば、あなたは多大な戦果を上げることができますわ。」
やや病的に痩せた女が彼の隣で微笑む。彼女、白百合(しらゆり)は透視の能力を持っていた。まず彼女が壁の向こうを見て、赤辰が仕留める。無駄のない動きだった。
「よし、諸ども!この壁の向こうは制した!行くぞ!」
餓門の元に集った百人、その個々の能力は高い。ただそれでも、反乱軍にはそれを上回るだけの実力派が揃っている。一騎当千の力を持つと言われる煉を筆頭に、この赤辰、それに___
ガギッ!
変身型能力で、虎に似た獣に化けた妖魔。自慢の爪で目前の敵に襲いかかる。
「ぎぃぃっ!」
しかし悲鳴を上げたのは虎の妖魔の方だった。
「無駄な足掻きだ。打撃は私には通用しない。」
爪は鉄騎の胸に打ち付け、へし折れていた。彼の肌は人の温もりこそ残しているが、色合い、光沢などは生物に似つかない。
「鉄の拳を受けよ。」
鉄騎の能力は全身を鋼鉄化すること。それこそ髪の一本から、爪先まで。それでいて彼の体はしなやかに動く。赤辰や、酸を操る朱雀であればこの能力はうち破ることができるだろう。だが、肉弾戦を信条とする者にとってはどんな足掻きも通用しない難敵となる。
「ぐはぇっ!」
虎男の頬に鋼鉄の拳がめり込み、虎は自慢の牙までへし折られてしまった。
この鉄騎も含め、反乱軍には無双の強さを誇る者がいる。時を待つまでもなく、戦局は反乱軍に優勢に動いていった。
ただちょっとした破綻さえあれば戦局はがらりと変わる。そして変えられるのが、牙丸ことアヌビスお墨付きの妖魔たちだ。
「止まれっ!」
順調に進軍していた赤辰の一団が、長の一声で足を止めた。
「静まれ。」
赤辰が静寂を促し、耳を峙てる。遠くでは武器のぶつかり合う音や声が響いていたが、もっと近い距離感から、この戦場には似つかわしくない「音色」が聞こえてきた。
「これは___」
音色だけでない、歌声も混ざっている。女の澄みきった声と、弦楽器の緩やかな音。明らかに異常だ。
「この通りの向こうが広場になっております。その中央に石灯籠があり、その上で女が鳴酌(なきじゃく)を奏でております。」
白百合の言う鳴酌とは、黒麒麟の寝室で冬美が手にした楽器と同じもの。弦を押さえて音を取り、撥で爪弾くごく普通の楽器だが、共鳴部が酒の酌に似ていることからその名が付いた。
「奇怪な。」
赤辰の一団は、慎重に音の方向へと歩みを進める。先の角を曲がると視界が広がった。土気だった広場には似つかわしくない、流麗な女が一人。石灯籠の上で足を組み、脚線美を晒しながら楽器を奏でて美声を鳴らす。
「囲め!」
だがここは戦場。戦場に身を置く以上この女も戦士であり、知った顔でもない。赤辰の指示で、三十を数える妖魔の一団が女から距離を置いてぐるりと取り囲んだ。
「女、歌をやめろ!」
彼女が抜群なのは歌唱力だけでなく、容姿も。化粧っ気はないが、長い睫毛と、歌い手らしいはっきりとした大きめの口が魅惑的だった。
「うおおおっ!」
「!?」
突然、彼女を取り囲んでいた妖魔の一人が剣を振りかざし、すぐ隣にいた妖魔に斬りつけた。
「これは!?」
面食らっているそのときにも、赤辰の頬に血飛沫がはじけ飛ぶ。振り向けばそこでは、白百合が同士にその華奢な体を切り裂かれていた。
「き、貴様!」
赤辰は翻って灯籠の女を振り返る。着物の裾をまくって太股まで晒した彼女は、石灯籠の上に立ち、にっこりと笑んだ。
「あたしは多々羅。戦いの歌を歌いましょう。」
先ほどまでの淑やかな、緩やかな音色とはうってかわり、多々羅は激しく撥をうち鳴らした。情熱的な音色が響き、多々羅は頭から抜けるような声で歌い始めた。
「ぐうっ!?」
その途端、赤辰に目眩が走った。そして耳の奥底で血なまぐさい言葉が連呼される。
(何のこれしき___!)
強い精神力で赤辰は多々羅の催眠術から我を保とうとする。しかし彼の周囲ではまさしく「同士討ち」が始まっていた。同士たちの叫び、剣劇の音、それさえも多々羅の音楽を彩る伴奏に聞こえてくる。
「おおお!」
横から、一人の妖魔が赤辰に突進してきた。苦悶する赤辰は彼を踏みとどめようとする。しかし___
「ぐはっ!」
突進してきた妖魔の胸に赤辰の手が入り込み、彼の心臓を一握りにしていた。
「くっ___」
だがこれは赤辰の本意ではない。彼は突っ込んできた妖魔を食い止めたいと思っていたのに、殺めてしまった。もはや自分が多々羅の術中に填っていることを痛感した赤辰だが、その脳に敗北の文字はない。
「儘よ!」
多々羅の能力の根元は、彼女の楽器と声にある。そう考えた赤辰は躊躇いなく透過する手を自らの耳へと伸ばした。指は身体の内側へと入り込み、少し動いた。
ニッ。赤辰が笑む。そして一気に多々羅に突進した。
「っ!」
驚きで多々羅の声が上擦る。術中に填っていたはずの赤辰が真っ直ぐにその拳を彼女に振るってきたのだ。
「馬鹿な!」
彼女は歌うだけが芸ではない。軽やかな身のこなしで後方に飛び、赤辰の拳は石灯籠を粉砕していた。
「耳を潰しでもしなければあたしの能力は防げない!」
赤辰がなおも拳を振りかざし、多々羅に襲いかかる。たまらず多々羅はすぐ側で放心していた赤辰の同士を引き寄せ、盾にした。しかし、赤辰に盾は無意味である。
「!」
構わず振るわれた赤辰の拳は盾となった妖魔の頭を通り抜け、多々羅を襲った。
ゴガッ!
拳は強烈なパワーで多々羅の顎を打つ。強烈な一撃に、彼女の首はねじ曲がり、頭が反転した。そればかりか、そのまま首に亀裂が走ると、まるで木の実をもぎ取るようにして首が千切れ飛んでしまった。
(人形!?)
ちらりと見えた首の断面。そこに年輪と木目らしきものが見え、赤辰は絶句した。そのとき___
ガクンッ!
突然足から力が抜け、自分の意志とは関係なく膝が曲がり、赤辰は仰向けに倒れた。いったい何があったのか?見れば膝の関節が変形し、足が少し長くなっている。両膝が「外れて」いた。
「腕が危ないらしいな。」
腕を張って身を起こそうとしている赤辰の背後から、一人の男がそう語りかけていた。筋骨溢れる肉体、無精髭、優雅さからは遠い風体の男だったが、彼は舞踊のようなしなやかさでその手を動かす。そして身を屈めると、接近を気づかずにいる赤辰の背後から彼の肘を指先でトンと突いた。
ガクッ!
その瞬間、赤辰の肘から力が抜け、彼の背は再び地に着いた。そして己を見下ろす男の姿を目の当たりにする。今更だが、両膝に激しい痛みが蔓延り始めた。
「どれどれ。」
両手足が動かない赤辰を嘲笑うように、男は彼の頭の後ろにしゃがみ込み、そのもみ上げの辺りに指を当て始めた。
この悠長さは何だ?同士たちはまだ我に返っていないのか?赤辰は音を欲した。
「ははん、また治せる程度に耳管を潰したのか。ものを通り抜ける手ってのは便利な能力だな。でも、俺は通り抜けないでもこれくらいのことはできる。」
髭の男が赤辰の耳の周りに指を三本立て、指圧するように押し動かした。
「俺の名は迅。」
いきなり聴力が戻った。赤辰は目を丸くする。
「俺の場合能力って言えるかどうか微妙なんだがな、筋骨の事には詳しい。自分の間接は自在に変えられるし、今おまえにして見せたように、肝心要の筋肉を外傷なしにぶった切ることも得意だ。」
陣は赤辰の目の前で、手の甲に向かって指を曲げて見せた。その柔らかさ。関節を変えられると言うより、無いと言った方がいいような動きだった。
「というわけで、おまえの膝と肘の腱を切った。んで、おまえの耳はちょっと周りの筋肉を躍動させてもう一度広げたわけだ。」
迅の言葉で立ち上がれない理由は分かった。だがそれ以上に赤辰を驚かせたのは未だに多々羅の歌が聞こえることだ。
「まだあの女の歌が!?」
「ああ、おまえがぶっ壊したのはどこにでもある木だ。」
迅は赤辰の頭を持ち上げてやる。そこにはへし折れた丸木が転がり、その後ろでは同士たちが血みどろになって殺し合っていた。
「多々羅はまだそこで歌ってるぜ。知らないだろうが、木にも耳があってな、あいつらも音楽を聴くわけさ。多々羅が一生懸命聞かせてやると、木もその気になっちまう。あいつのとっておきのまやかしだぜ。」
「余計なこと喋らないでくれる!?」
赤辰には見ることができない。だが歌の合間に入った文句は、近くから聞こえた。間違いなく、多々羅の声で。
「ま、そういうことさ。」
「貴様はなぜこの女の歌に犯されぬ___?」
「慣れてるから。夫婦なんでね。」
「少しは黙りなさいって!」
お喋りな迅を戒めるように、多々羅の声がする。彼女はそのまま鳴酌の弦を一撫でし、歌うのをやめた。
「全部片づいたわ。」
赤辰にとっては余りにも口惜しい一言だった。恨みをぶつけてやりたいが、多々羅は彼の視界に入ってこない。
「全部じゃないぜ、後はこいつだ。」
迅は嘲笑を携えて赤辰を見下ろす。
「果たしてそうかな?喋りすぎな旦那よ。」
赤辰の不適な笑みを負け惜しみと受け取った迅は余裕を崩さずに、ゆっくりと手を振り上げた。
「まあ死んどけ___っ!?」
迅の後頭部に激しい痛みが走り、彼は勢いよく前のめりに倒れた。しかしすぐに一回転して身を翻す。近くに見たことのある妖魔の頭が転がっていた。どうやら後頭部にぶつかってきたのはこれらしい。
「な、なんだてめえ!?」
その先、こちらを睨み付ける男は見たこともない体をしていた。
「ここまで十人始末してきた。おまえたちで十二人という事になるな。」
全身が金属光沢を帯びた彼、鉄騎の体には文字通り傷一つ無い。
「多々羅!」
鳴酌の音色が戦場に響き渡る。それが開戦の合図となり、鉄騎が金属とは思えないしなやかさで一気に突進してきた。
ガギンッ!
迅は本来武器など使わずに闘い、敵を殺める。しかし生身で鉄騎に立ち向かうのはあまりに危険に思えた。多分、あの手刀は肉を切り裂く。今もこうして、刀とぶつかって鍔迫り合いを演じているのだから。
「おらぁっ!」
金属だろうと、あれだけしなやかに動くのだ。中身は肉でしかない。僅かな隙をついて、迅は鉄騎の首筋に突きを見舞った。
「へ、へへ___」
本来ならば、気管を収縮させ一気に呼吸困難に陥れる一撃だ。だが鉄騎は全くの無表情で、迅はたまらず薄ら笑いを浮かべた。
「ふっ。」
鉄騎は鍔迫り合いをしていた手刀を外す。迅が押す力のままに、刀は鉄騎の側頭部にぶつかってポッキリと折れた。驚くのもつかの間、自由になった鉄騎の拳は迅の両脇腹を挟みつけるようにめり込んだ。
「うげへっ___!」
痛烈な一撃だ。破壊力に迅の体は舞い上がり、数歩下がって歌っていた多々羅の側まで吹っ飛んだ。
「ぐおぉぉ___」
迅が腹を抱えて呻く。だが多々羅は毅然として歌い続けていた。
「やめておけ、女。感覚に訴えた攻撃は私には通用しない。」
温情ではなく、より絶望を与えるために鉄騎は冷たく言い放った。
「その男の内臓は破壊された。血反吐にまみれ、のたうち回って息絶えるのみ。おまえもすぐに側へと導いて___」
鉄騎の言葉が尻切れになった。あれだけ深く鋼鉄の拳をめり込ませて立ち上がれた者は今までいなかったから、言葉を失うほど驚いたのだ。
「いててて___あ〜気持ち悪ぃ。」
立ち上がった迅の体は胸の周りが異常に膨らみ、腹は丸木のように細くなっていた。上半身は裸だからよく分かるが、彼の腹には二つの拳の跡がクッキリと刻みつけられている。
「馬鹿な___なぜ立てる?」
「こういう事さ。」
グンッ!迅の胸囲が減り、腹周りが広がった。
「これで内臓が元の位置に戻った。」
「奇怪な___」
迅の能力は変化型だ。だがここまで自分の体の構造を変えられると、変身型にさえ思えてくる。ただ憶することはない。迅と多々羅の攻撃は鉄騎には通じないのだから、彼らは急場を凌いだに過ぎない。
「次は仕留める!」
「ああ、そうだろうな。俺たちの能力はおまえには相性が悪い。」
「!?」
突然、多々羅が撥を地面にたたきつけた。砕けた撥から白い煙が吹き出し、二人の体を包み込む。鉄騎は煙に駆け寄って手で振り払うが、二人の姿はすでになかった。
「賢明だ。敵わぬと見れば逃げるのも速い。」
戦場に静けさが戻った。鉄騎は横たわったままの赤辰に歩み寄る。
「不覚を取ったな。」
彼のもとに跪く。両手足の利かない朋友を介抱するために。
___
「万全か?」
「あなたは?」
迅と多々羅は互いに顔を見合わせ、ニッコリと笑い合った。
「あたしはあいつのために歌い続け___」
「俺はこっそりあいつの手足を治した。」
それは悪魔の笑みである。
___
「___」
鉄騎は言葉を失っていた。
発することができなかった。
その鋼鉄の体には、赤辰の手が入り込んでいた。
心臓をひねり潰された鉄騎は、金属のままで絶命していた。
光沢ある彼の体がくすみ、錆び付くように赤み帯びてくる。そして赤辰の体の上へとバラバラと崩れ落ちていった。生身の心臓の名残だけ、赤辰の手に残して。
「ご苦労さん。」
壁を乗り越えて、迅と多々羅がひょっこりと姿を現した。
多々羅の歌は赤辰に向けて歌われていた。そして彼は操り人形と化した。動かない手足は鉄騎に気づかれないように、迅が治した。関節を工夫すれば、一時的にでも彼の腕は倍以上まで伸びる。鍔迫り合いの間に触れるのは簡単だった。
「うまくいったわね。」
「いやまだまだ。こいつにはもっと働いてもらわねえと。」
赤辰にもはや自分の意志はない。それでも鉄騎の残骸を被った彼の眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。
前へ / 次へ