2 縺れた糸

 森の一角。獣が蠢く。いや、失礼。二つの獣の「皮」が蠢く。黄泉の獣だろう、胴体から頭部までそっくり剥がされたそれの目から、遠めがねが飛び出していた。レンズの先に映るのは、黒麒麟の館である。
 「なんだか見づらいな___」
 「近づけばいい。」
 皮が喋った。その内側を注意深く覗き込めば、サザビーとバルバロッサ。鴉烙の指令に従い、黒麒麟の館へとたどり着いていた。この毛皮は途中で襲撃をかけてきた蛮族から奪ったもの。毛皮には獣の臭いと気配が込められており、纏うことで人の気配を消し去る効果がある。黄泉の森には獣が多い。これを纏い他の獣を遠ざけ、同時に獣と紛れることで注意深い妖魔の気を逸らすことができる。
 「近づくっていったって、慎重にやらねえとさ。」
 「いくぞ。」
 「おいっ。」
 森が切れるギリギリのところまで二人はゆっくりと進んだ。
 「窓がこれだけあって、あそこからあそこまでは同じ部屋みたいだな。小間使いが___一人、二人___今見えるのでそれだけか。」
 遠めがねで館の窓を探りながら、サザビーが呟いた。バルバロッサはいつもの無口でじっと観察している。
 「女だって言ったよな、どんな奴なんだよ黒麒麟って。」
 「黒い女だ。」
 「意味わかんね〜。」
 無駄口を叩かないだけでなく、必要なことまで話してくれないのだから困りものだ。サザビーは彼を理解しているし、慣れているから苦笑いするだけだが。
 「あそこ、あの部屋はいい部屋だな。」
 暫く観察を続け、サザビーは館の上階の一角を指さした。
 「なぜわかる。」
 「カーテンが豪華だ。他の部屋と違うものが掛かってる。厚みのありそうな生地だし___寝室ってところじゃないか?それから___」
 今度は一階の一角。
 「あそこは厨房だな。勝手口があるし、窓枠が燻されたように変色している。その隣、あの辺りは多分小間使いたちの部屋だろう。」
 「なるほど。」
 「んで、黒麒麟って女の何かを調べるのか?それともここでずっと監視してるだけなのか?」
 バルバロッサは沈黙のまま屋敷を見つめるだけで答えようとしない。サザビーは小さなため息をこぼして再び遠めがねで観察を始めた。
 暫くして___
 「最終的には契約を結ばせるつもりだろう。」
 「は?なにが?」
 「質問の答えだ。」
 「遅っ!」
 中腰でいたサザビーは思わず尻餅をついた。
 「鴉烙は黄泉中の有力者を縛りたいと考えている。」
 「俺たちはそのお手伝いってわけか?」
 「不愉快だがな。」
 バルバロッサの眉が動いた。館から目を逸らしていたサザビーが振り返ると、入り口のドアが開いていた。
 「誰か出てくる___」
 二人は息を潜める。だが次の瞬間、サザビーは驚きのあまり飛び出しそうになった。
 (ミキャック!?)
 声と身体を理性で押さえつけ、現れた長身の女性にサザビーは釘付けになった。
 「見たことのある顔だな。」
 「ああ、そっくりだ。」
 だが彼は冷静さを保てる男。これが百鬼だったら我を忘れて飛び出していただろうが、サザビーは身を潜めて様子を窺うことができる。
 「だが翼がない___」
 それに彼女に翼がないこともよりサザビーを慎重にさせていた。ミキャックは如雨露を手に館の前の小さな花壇の前へと歩み、花は咲いていないが綺麗に手入れされた草に水を与えていく。
 「いや、あいつは本当にミキャックなのか?何でこんな日常みたいな過ごし方をしてる___?」
 捕らえられているわけでもない。顔色に影が差しているわけでもない。彼女は普段着で、微笑みながら水を与えている。終わればそのまま屋敷に戻っていくのだろう。
 「噂だがな。」
 バルバロッサが自ずから低い声で呟きだした。
 「?」
 「黒麒麟は気に入った女を小間使いとするために人売りから買っている。」
 「ミキャックもその一人ってことか?」
 「しらん。」
 だが考えづらい話だ。ミキャックはソアラのように、自分をうまく切り売りして生きられるほど器用ではない。彼女が自らの考えでそのような立場に身を置くのはあり得ないといっても良いだろう。
 「どういうことだ?ミキャック___」
 飛び出して問いただしたい。だが今はその時ではないだろう。せめて黒麒麟について満足いく監視ができてからにすべきだ。
 「そうか、ミキャックというのが小鳥の本名か。」
 「!?」
 背後からの声。サザビーが驚いて振り返ったその時には、バルバロッサが背後の木々を一太刀に切り裂いていた。しかしそこには切り飛ばされた枝葉が舞うだけで、人の姿はない。温もりは、サザビーの首筋にあった。
 「ちっ___」
 バルバロッサが舌打ちして剣を降ろす。顎を突き上げるようにしたサザビーの首筋に、女の細指が押し当てられていた。その一つ一つが朧気に輝きながら。
 「なかなか上手な隠れ方だ。これなら凛様も気づかない。」
 後ろからの声はそれほど緊迫していなかった。サザビーの首を強く押していた指から力が失せ、離れていく。
 「お?」
 半信半疑のままで背中をトンと押されたサザビーは、軽く前のめりになりながら振り返った。
 「こんなところで見ていい顔じゃない。おまえは場違いだよ、デュレン・ブロンズ。」
 そこにいた銀髪を見てサザビーは言葉を失った。まさか会えるとは考えもしなかった人物。まして中庸界にいた時だってほとんど顔を合わせる機会の無かった彼女だ。
 「フュミレイ___か?」
 銀髪は少し微笑み、前髪を上げて閉ざされた右目を見せた。
 「間違いないらしいな___俺を見てデュレンなんて名前を吐けるくらいなら。」
 「おまえの顔も忘れていないぞ。リュキアにはいろいろと世話になった。」
 バルバロッサにも変わらず微笑を送り、足下に落ちていた獣の皮を彼に放り投げた。
 「おまえも同じことを聞きたいんだろうが、何でこんなところにいるんだ?みんなおまえは死んだものだと思っていた。」
 「私も死んだつもりだ。今のあたしは妖魔の冬美。この館の主に仕えている。」
 「黒麒麟に。」
 フュミレイは笑顔を消し、サザビーを指さした。
 「おまえたちがあの方を調べているのは分かっているが、あたしの口から彼女について語ることはあり得ない。」
 「___わかった。」
 無理な詮索で彼女の機嫌を損ねたくはない。
 「俺たちはアヌビスを追ってここに来た。ソアラとははぐれたが、こっちにいる。」
 些細なことではあったが、ソアラの名を聞くとフュミレイの咽頭が一つだけ動いた。落ち着いた素振りは見せているが、ソアラと会いたい思いは顔から滲み出ていた。
 「アヌビスは生きているのか。」
 「確かじゃないが、黄泉にいるらしい。こっちにやってきたのは俺と、ソアラと、それからあいつだ。」
 サザビーは草の様子を観察しているミキャックを指さして言った。
 「ちなみにこいつは元々妖魔。」
 バルバロッサはすでに剣を収め、獣の皮を被って座り込んでいる。
 「黒麒麟のことについては聞かない。おまえにも事情があるだろうからな。ただ、あいつのことは聞かせて欲しい。あいつがはぐれたのは俺の責任でもあるんだ。」
 彼の生真面目な顔というのはあまり見たきがしない。これが初めてと言ってもいいかも知れなかった。
 「彼女は小鳥。凛様が涼妃という記憶を消す妖魔から買ったんだ。」
 「記憶を消すだと___!?」
 ガサッ!驚いたサザビーの腕が茂みを打ち、大きな音がした。
 「!?」
 突然の物音に、小鳥は如雨露を落として振り返った。
 「なに?誰かいるの!?」
 怯えた声がサザビーの耳にも届いた。声もミキャックだが、口調はにつかない。歯がゆい思いがした。
 「情報のやりとりは商売だと思いたい。おまえたちがなぜ凛様を探っているのかを話せば、今回のことは目をつぶってやろう。」
 サザビーはバルバロッサを一瞥する。彼はなにも言わなかった。それはつまりサザビーに任せると言うこと。所詮二人は忠義心など持っていない。
 「俺たちのボスは鴉烙だ。」
 それを聞き、フュミレイはサザビーがたくし上げていた獣の皮を引っ張って、彼の顔を隠させた。
 「しっかりそれを被ってろ。今はともかく、凛様がいたら気づかれる。」
 フュミレイはあっさりと二人に背を向けた。
 「あたしだって懐かしい話がしたいがそうもいかない。こうして会えるのはこれが最初で最後だと思う。ソアラにあたしのことを話すかどうかはおまえが決めてくれ。ただ、いま来られるのはとても迷惑だ。」
 「勝手な奴だな、相変わらず。」
 「そうだな。自分でもそう思うよ。」
 それだけ言い残し、フュミレイは森から屋敷の方へと出ていった。
 「小鳥!」
 「あ、姉様〜!びっくりしました〜。」
 フュミレイを見つけてにこやかになるミキャック、いや小鳥。
 「暫くここに留まっていいんだよな。」
 サザビーはバルバロッサを振り返り問いかけた。
 「ああ。」
 返事を確認した後、彼は館の前で何か語らっている二人の姿を凝視しはじめた。ただその目は少しだけ泳ぐ。ささやかな任務のつもりが、さしものサザビーも少し動揺していたのだ。そして、解れていたはずの糸が縺れていくのをひしと感じていた。

 「ない!ないないないないないなぁぁいっ!!」
 一方そのころ、だいぶ傷の癒えたソアラは悲鳴を上げていた。 
 「どこかで落としたんじゃないですか?」
 「置き忘れたとかさ。」
 棕櫚と耶雲は彼女の滑稽な錯乱ぶりを見て笑いを堪えていた。
 「あたしはそんなに間抜けじゃないわよぉ〜___」
 だがソアラは本当に半べそをかきながら必死になって植物の家を探し回っていた。
 なにを?
 「あれがないと帰れないんだから!」
 竜の瞳で作られた帰巣の指輪。竜神帝から帰りの手段として託された大事な品物である。それがいつの間にか指から無くなっていた。
 「どんな指輪なんです?」
 「青い宝石が付いてて、そんなに趣味は良くないんだけど___」
 余計な一言を吐いたところで、ソアラが硬直した。
 「あぁぁぁっ!」
 そして絶叫。耶雲が思わず耳を塞いだ。
 「あたしここに運ばれたとき裸だったの?」
 「ええ。」
 「眼福眼福。」
 ソアラに向かって両手をあわせる耶雲。頭を叩いてやりたかったがまだそれほどの仲でもないか。
 「それじゃ___あれだ___潮に蝿にされた時に___」
 引きつった笑みを浮かべながら、ソアラは遠い目をして呟いた。
 「あ〜なるほど、ひゅー、ポチャンという奴ですね。」
 「ははは、そりゃきっと魚が餌と間違えて食べちまったな。」
 「あ〜もうっ!笑い事じゃないっ!」
 ソアラは枝葉の床を力任せに叩いた。すると彼女の周りだけ底が抜けた。
 ドボンッ。
 「大丈夫ですか?」
 穴から棕櫚が顔を出しソアラに問いかけた。ソアラは頭まで池に沈みながら、水面から手だけを出し「大丈夫」と答えていた。
 
「やっぱりありませんよ。水草まで伝達させて調べてみましたけど、海中の植物に引っかかっているということはなさそうです。」
 ソアラが蝿にされた辺りの現場へと出て、棕櫚と耶雲も手伝いながら彼女の指輪を探す。
 「だから魚の腹の中なんだって。」
 といっても、食用の蛙を捕まえたりしている耶雲は真剣に見えないが。
 「あれがなかったら帰れないのよ〜。どうしても見つけないと___」
 ソアラは心底落胆した様子で頭を垂れていた。
 「いや、さっちゃんがいれば帰れるだろ。」
 「ん?」
 耶雲の発言に、ソアラが反応して頭を上げる。
 「ああ、榊なら異世界へ導くこともできますね。」
 「本当?」
 ソアラの目に輝きが戻ってきた。
 「ええ。ただ彼女にはかなりの負担になりますけど。俺も結局迎えに来てもらったわけですし。」
 「良かった〜。」
 心からホッとした様子で、長い息をつくソアラ。だがそんな彼女に耶雲が釘を差す一言。
 「でもよ、さっちゃんにもしものことがあったら駄目だぜ。」
 「う___」
 ソアラの顔から血の気が引く。そういえば瑚陸の遺言を託したその後、彼女がどんな行動を取っているのかさっぱり分からない。動機は少々はずれているがソアラは榊のことが気になり、いてもたってもいられなくなった。
 「朱幻城に帰るわ。傷も随分癒えたし。」
 「そうですね。榊もあなたのことを心配しているかも知れません。」
 榊が新しい動きを見せないうちに合流したい。黄泉では一夜のうちに誰かの命が奪われることもざらだ。
 「___」
 ただ棕櫚と耶雲。この二人とここで別れてしまうのも勿体ない気がした。自分にとっても榊にとっても、二人は数少ない信頼の置ける仲間である。
 「二人とも一緒にどう?」
 ソアラの問いかけに、二人は顔を見合わせた。
 「あなたたちも榊のことが気にならない?っていうのもあるし、正直あたし一人ってのも少し不安なのよ。」
 ソアラの苦笑に共感するように、棕櫚も微笑んだ。
 「俺が向こうに行ったときと今のソアラさんは同じ立場ですし、気持ちは分かりますよ。ただついてはいきますけど、もし榊の周りが平穏だったらそこで別れましょう。あなたは今は俺たちより榊と一緒にいた方がいい。」
 「わかった。」
 ソアラはしっかりと頷く。
 「いいですか?」
 「おう。」
 棕櫚の問いかけに、耶雲は簡単に応じた。
 「よろしく。」
 「哀愁。」
 面と向かって握手をするなど、耶雲がまともでいられるはずがない。彼の言葉の意味が分からずソアラは首を傾げていた。

 「煉の軍勢は一万にも達するらしい!」
 金城の玉座で餓門が吠える。彼の前には九十九人の妖魔が、そして後ろには夜行がいた。
 「だがここに集ったおまえら百の精鋭は、万の妖魔を凌駕する!」
 彼らはこの戦力で闘う。餓門は百と言ったが、一人だけ集合に遅れているためここにいるのは九十九人。遅れているのは方向音痴の彼女だ。
 「え〜___」
 餓門が言葉に詰まり、ちらりと後ろの夜行を一瞥した。
 「とにかく勝て!」
 彼が不動だったため、半ばやけくそに餓門は演説を締めくくった。
 「今から夜行が作戦を話す。良く聞けよ!」
 餓門の陰に隠れるようにしていた不気味な男が前へと躍り出た。彼の姿を見てざわめく者もいれば、薄ら笑いを見せる者まで様々。この百人のうち、牙丸が発掘してきた妖魔は潮や朱雀も含めて十数人。ただその中でも、夜行が特別に牙丸から名を聞いた人材は数人でしかなかった。
 つまり、その数人が新しいアヌビス八柱神候補の有力株である。
 「我々はこの城のからくりを利して闘う。白兵戦に優れた者たち、本当に強者と呼べる者たちが勝つ戦場を作るためだ。そして、そのからくりを良く理解すれば、百の力は一万になる。」
 二重三重に聞こえる夜行の声は腹に響く。だがそれは戦意と緊張感をかき立てる音でもあった。
(ふむ___)
 夜行は集まった妖魔の中から、牙丸より伝えられた顔を確認していた。妖魔夜行の目ではなく、邪神の参謀たるダ・ギュールの目で。
 「性骨(しょうこつ)」はくの字に背骨の曲がった奇妙な男。膝も常に曲がっていて伸びることがない。要所が曲がっているため背丈が低く見えるが、立っている状態で床に擦ってしまう手の長さを思うと、もとは長身なのだろう。顔は皺が深く畳まれ、坊主頭で片目が潰れた老人である。
 「幻夢(げんむ)」は青い長髪が目を引く若い男。前髪が両目を隠すほどに長く、素顔がはっきりとしない。細身で、服装も行動的とは言えず、あまり戦いを感じさせる男ではない。いや実際のところ、彼が表立って戦場に立つことはないらしいが、それでも彼を知る妖魔は皆恐れをなしているという。
 「多々羅(たたら)」は透き通るような白い肌に鮮やかな緑の髪が生える美女。こちらも細身で、少なくとも肉弾戦を得意としているようには見えない。清楚な、落ち着いた空気を携えている彼女の背には一つの楽器が。
 「頭知坊(とうちぼう)」という名のやや太り気味のこの男。何よりの特徴は、腕が四本あることだ。そのうち二本は太く、力を秘めていそうだが、残りの二本は骨と皮だけに見えるほど細い。非常に希有な肉体を持った男である。丸顔には髭を生やし、頭は七分方はげ上がっており、側頭部と後頭部に頭髪を残す。
 「迅(じん)」は長身で、しなやかな筋骨を有した戦士の風体。天を突く髪は朱色で、顎の辺りに少し無精髭を生やし、簡素な服装も相まってかなり豪快に見える。それほど柄の悪い妖魔ではないが、彼を知る者は口々に関わることを拒むという。
 この五人に竜樹。これがアヌビスが特に気に入っている妖魔たち。潮や朱雀ではもう一つパンチに欠けるというのが本音のようだ。
 「さあ戦いの用意だ!馬鹿どもをまとめて叩きつぶしてやれ!」
 事態は慌ただしく動き始める。餓門と煉の激突の時は目前まで迫っていた。そしてそれに備え、この金城に秘められた防壁のからくりを建造以来はじめて作動させる。虚々実々の戦場を作るために。




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