1 時は動き出す

 夜行ことダ・ギュールも実は金城に部屋を持っている。そこはとびきりの閉鎖空間で、扉も窓もない。ただ城の中にあった空間を彼が居場所としているだけだった。そこにあるものといえば、黒光りする大きな硝子玉が一つと、銀色の杯が一つ。
 「!」
 夜行のフードを引きはがし、色黒のダ・ギュールの顔が現れる。そして彼は、大きく目を見開いて、杯の前へと歩み寄った。杯には黒い水が漂い、青い炎が灯っていた。
 「用意が調ったか。さすがに手際がいい。」
 普段笑わない男が珍しく笑みを見せ、その手を硝子玉に置いて目を閉じた。
 『ご苦労、進展か?』
 水晶から、ノイズの掛かったような声が響く。それはアヌビスのものだった。
 「大きな進展がありました。まずは、ソアラと遭遇しました。」
 『ほぅ!いいね。』
 あからさまに浮かれた声が帰ってきたため、ダ・ギュールは顔をしかめた。
 「今は餓門の配下になっておりますが、あれのこと、おおよそ奴がここに現れてから間もないうちに、煉という妖魔を中心に抵抗勢力が決起いたしました。」
 『あっはっはっ!変わってねえな、そりゃソアラが一枚噛んでるに違いない。あいつは今どこにいる?』
 「餓門が奴を気に入りまして、耶雲探しに出してしまいました。潮をつけましたが、おそらく帰ってこないでしょうな。」
 『潮がか?』
 「ふっ。」
 『他は?おまえがそれだけで連絡してくるとは思えない。』
 短い間が空いた。
 「テイシャールより、報せがありました。」
 『準備ができたのか?』
 「はい。」
 今度はアヌビスからの返事に間が。しかも長い。
 「アヌビス様?」
 『そっちはおまえに任せよう。』
 「なんと?」
 『任せる。おまえだけ帰れ。』
 ダ・ギュールは耳を疑った。彼が伝えた言葉はアヌビスにとって非常に重みのあるもの。にもかかわらず、まるで興味がないような口振りだった。
 「しかし、これは雌雄を決める一手。アヌビス様抜きで事がうまくいくとは___」
 『ソアラが来たことが問題だ。』
 「まさか___奴のいない戦場に興味がないとでも?」
 『竜神帝がそこまでして俺を追いかけさせたことが問題なんだよ、ダ・ギュール。』
 「!」
 その言葉でようやくダ・ギュールは彼が何を言わんとしているかを知った。
 『Gは近いぞ。』
 「まことですか___」
 『確証はないが、竜神帝が最強の手駒をここに送り届けたというのは、俺がGの端くれに近づいたからだと思う。それなら、天界で奴を追いつめるのと同時に、俺はここに残ってGを探し続けた方がいい。』
 Gは遠い昔に世界を震撼させた究極の力。一人の男が作り上げた力の還元の仕組み。その男によって殺められた生命力は、男のものになる。男は強くなり、神を殺め、また強くなる。そしてその暴走を止めたのが若かりし竜神帝。打倒するのではなく、集合体であるGを分割し、封印することで世に平穏を取り戻した。
 Gはいまだにどこかへ眠っており、その場所を竜神帝は知っている。アヌビスは、帝がソアラを黄泉に送り込む思い切りを見せたことで、その力、あるいは手がかりとなるものが、この黄泉にあると考えたのだ。
 「しかし指揮は誰が執ります?テイシャールや私では些か役不足かと。」
 『いいのを見つけた。竜神帝に挑むにはもってこいの指揮官さ。交渉は順調に進んでいる。』
 「期待してよろしいのですな?」
 『もちろん。数日のうちに連絡を取って落ち合わせるようにしよう。彼女も___本当は天界に帰りたいはずだ。』
 「彼女___まさか!」
 思い描いた人物がアヌビスの見つけた逸材と合致するのであれば、それは凄まじい発見だ。そうダ・ギュールは考えた。
 「もしあの女であるというのなら、危険も孕んでおりますが___」
 『それはそれで面白いじゃないか。ああ、あとこっちで見つけた人材も連れていけ。特に竜樹、あいつはいい素質を持っている。』
 「竜樹?」
 『あれ?そっちに行ってないのか?』
 「そのような者は参っておりませんが。」
 『変だな、あそこからならもう付いている頃だと思ったが___』
 そう、アヌビスと流浪の侍「竜樹」が出会った場所から金城までは、彼女の健脚を思えば二夜もあれば辿り着ける距離である。何かあったのだろうか?それとも忘れっぽい性格だったのだろうか?彼女のことを買っていただけに、アヌビスの声には失望が滲んでいた。
 そのころ___
 「まずいなぁ。」
 竜樹は彷徨っていた。いったい何があったのか?彼女の刀術の腕前は凄まじく、小さく細身であってもその戦闘能力に疑いの余地はない。ささいなトラブルなど苦ともしないはずだが___
 「そんなに遠くないって聞いたのに、こっちじゃないのか?」
 生憎、彼女はとびきりの方向音痴だった。それでも飛ぶことはできるので、空に舞い上がって目を凝らし、金城らしいものがないかを探してみる。
 「あそこか?」
 兎の方角に荒野が広がり、その奥に建造物が見えた。
 「よしっ。」
 ただ長い距離を飛ぶのは得意ではない。だから移動はなるだけ歩くように心がけている。そしてここに方向音痴の落とし穴があった。
 「うわっ___」
 大地に降り立ったときにはどちらに向かえばいいのか分からなくなってしまう。いや、何となくは分かるのだが、ちょっとしたきっかけで向かうべき方角を見失っていた。でも意地っ張りなので、一度決めた方角には暫く進み続ける。おかげで堂々巡りだった。
 『まあいい、竜樹以外にも粒ぞろいだからな。向こうに連れて行く人選は後で伝える。』
 アヌビスもまさかそんなくだらない理由で彼女の到着が遅れているとは、想像もしなかっただろう。

 時が経つのは早いもの。時は常に流れるものであり、歪めることのできないもの。過ぎ去った事実に偽りはなく、日々積み重ねられていく。あの邪神は時を止めることができるが、それはほんの些細な瞬間でしかなく、彼であっても過去を覆すことはできない。
 新たな歴史を作る時、人は時を選ぶ。それは過去の栄光に倣った時であったり、自分にとって幸運と呼べる時であったり、行動するに相応しい環境が訪れる時であったりする。なかでも戦いにおいて、時は大きな意味を持つ。煉が守宮ヶ原に定めた時もそうだ。
 「懐かしいではないか、また貴殿とこうして座を共にすることがあろうとは思わなかったぞ。」
 いつになく機嫌のいい顔でそう話したのは赤辰だった。彼の前には飾り鎧を身につけた煉がいた。そこは四方に旗を立てた幕で囲まれた空間。松明を立て、煉は三夜前からずっとここに居続けた。
 「妖魔とは悲しいものよ。貴殿はなぜそのように笑むことができる?これから我らの前に待ち受けるのは血で血を洗う殺し合い。」
 「黄泉の歴史は戦いの歴史だ。例えここから妖魔が消えようと、妖人たちは戦いを始める。」
 煉の物言いを平和主義の戯れ言と感じながら、赤辰は言った。
 「一つ、我々は水虎様に頂点を求めた。我々は啀み合い、戦いを繰り返しながら、真実は平穏をもたらす絶対的な存在を求めていたのかもしれんな。」
 幕を割って、別な声の主がやってきた。
 「おお、来たか。」
 やってきたのは鉄騎だ。赤辰が喜びの顔になる。
 「よくぞ参られた。」
 「遅くなって申し訳ない。実は城を空にしてきたのです。」
 「集落の妖人どもまで連れてきたのか?」
 赤辰が訝しげに問いかけると、鉄騎はゆっくりと首を横に振った。
 「餓門に知恵を付けている者がいるのなら、我らが居ぬ間の城を狙う手もある。諸ども壕に入れただけだ。」
 「賢明だ。」
 「多くの同志が集まっているようですな。」
 鉄騎はこの幕陣に辿り着くまで、それぞれに小軍を作る同志を見ることができた。同志と言ってもやはり派閥の違う者たち、一つに纏まる様子ではなかった。ただ広大な守宮ヶ原に点在する篝火は、遠目に見れば大きな炎のようでもある。
 「この戦いの後はまたばらばらになるぞ。」
 赤辰は横目で煉を見やった。彼は煉のことをあまり好いてはいない。いや、彼に限らず好戦的な連中はそうだ。中には天破が崩れた今、餓門が消えれば群雄割拠の時代になると野心を秘めた妖魔もいるだろう。赤辰もそうかも知れない。
 「心配無用。この戦いで私は若き英雄が生まれると信じている。」
 煉の視線の先には、空の座があった。そこは背丈の小さな黒髪の彼女の席である。
 「榊が?あの小娘が?はっはっはっ!」
 赤辰は笑ったが、鉄騎はまんざらでもない様子。
 「おもしろいかもしれない。今我らがこうしてここにいるのは彼女の働きだ。あの娘は黄泉を変える素質がある。」
 「本気か?鉄騎。」
 まだ笑いの余韻を残しながら、赤辰が馬鹿にしたように問いかける。鉄騎はまじめに頷いていた。
 「侮るばかりでは駄目じゃな。なにせ、あの娘は闇の番人。おまえなんぞ簡単に闇の果てに消し飛ばせる。」
 しゃがれ声と共に幕が少しだけ盛り上がり、老人の顔が入り込んできた。這いずるようにして、それでも驚くほど素早く老人は本陣へと入り込んできた。
 「お主は地走りの獅堂(しどう)。」
 老人は四つん這いで、しかも関節が奇妙に曲がっている。まるで潰された蛙のような姿だった。四つ足で、虫のように素早く地面を這いずり回るのが彼ら地走りの能力である。
 「地走り衆も味方となれば心強いな。」
 獅堂は餓門派の妖魔であり、地走り衆の長。彼らは同族の妖魔だけで集落を作っており、バルバロッサの赤甲鬼と同様、血の純粋度が高い。
 「儂からも方々に声をかけておいた。時間までには大勢が集まるぞい。」
 「有難い。」
 夜が明けるまであと僅か。煉の一軍は夜明けと共にここを発つ。

 「仙山、朱幻城を頼む。」
 全ての用意を調えた榊は今まさに発とうとしていた。黒い装束でもいつもの丹前は捨て、鼈甲の艶を持つ緑の胸当てと、赤みがかった籠手を身につけていた。戦いで邪魔になる長髪は後頭部にまとめ上げ、簪を挿す。いつもは武器を持たない彼女だが、今日は小太刀を腰に差した。
 もうどれくらい前になるだろう、水虎への謁見で飾った姿に似ていたが、今日はより実戦的かつ、緊張感が違う。仙山は心中の危惧を押し殺し、強い気持ちで彼女を見送ろうと考えていた。
 「ご武運をお祈りいたします。」
 だから引き留めもしないし、負傷の身を引きずってまで無理に同行しようともしなかった。
 「ありがとう。」
 朱幻城から戦いに出るのは榊一人。それがより一層彼女の覚悟を浮き彫りにする。そして、その面影を残し、榊は闇に消えた。
 (体力との戦いか___)
 闇の中、榊は一度だけ額に手を当てて目を閉じた。一瞬だが強い頭痛があったからだった。妖人であった彼女の能力の成長は目覚ましいが、肉体的な強さには欠ける。妖魔同志の激しい戦いで生き残ることができるか、自分でも疑問だった。
 だが、やれるだけやるしかない。
 「ゆくぞぉぉぉっ!!!」
 己を鼓舞するべく闇の中で絶叫し、榊は外へと飛び出した。
 「!」
 一気に開けた景色、そこは広大な守宮ヶ原の空。下には無数の炎が広がっていた。清流の蛍を見るような感動と、集ってくれた仲間たちに対する興奮で、榊の胸はいっぱいになった。
 「なんと___我らが水虎様はやはり偉大じゃ!」
 自分の力だなんて考えもしない。ここに集った者たちは敵味方様々。それぞれをつなぎ止めるのは、覇王水虎の仇討ちというただ一本の綱に過ぎない。しかしその綱の太さは並々ならぬものがあった。
 榊は真っ直ぐに、一番大きな篝火に映える旗印のもとへ舞い降りていった。
 「ほ、来おったわい。」
 獅堂が首を上にねじ曲げて、空から飛来する榊を見つけた。すぐに榊は颯爽と降り立ち、煉の前へと跪いた。
 「遅ればせながらこの榊、馳せ参じました。」
 凛然とした身のこなしと物言い、それはほんの少し前に羅生之宮で会った彼女と見違えるようだったため、さしもの赤辰も言葉を失った。
 「よくぞ参った。そなたの尽力は、今これだけの妖魔を突き動かした。この守宮ヶ原という黄泉の一所に、およそ一万の妖魔が集ったのだ。そなただからできた。」
 煉の口から発せられた賛辞があまりにも予想外だったため、榊は跪いたまま顔を上げて目を白黒とさせていた。
 「いえ、滅相もないこと。彼らを集わせたのは水虎様の偉大さと、煉様の人望でございます。」
 「私にこの話を持ちかけたのはお主だ。お主が一万の兵を集めた。それは誇りを持って良いことであるし、私の知る限り、水虎様であっても一万の軍勢を集わせたことはない。」
 「おやめ下され。それを言うのであれば、私めを変えた由羅の仕業。」
 謙遜とは違う。謙遜であれば、あんな達観したような微笑は見せられない。煉は彼女に影響を与えた由羅という名に興味を抱いた。
 「由羅とは?聞かぬ名だが。」
 「私めに瑚陸殿の遺言をもたらしたおなごであります。なに、紫の髪をしております故、戦場で出会うことがあればすぐおわかりになりましょう。」
 「ほう。」
 由羅に関する会話はそこで終わった。いや、別の話題でも会話はそこで終わっただろう。
 「来たな。」
 うっすらと、空の黒が薄らぎはじめた。黄泉の夜明けである。
 煉はこの夜明けを出陣の時と考えていた。不意打ちではない、真っ向から己の意志を餓門にぶつけるには、夜では駄目だった。
 真実は光と共にあるべき。光の中で全てが明るみにされるべき。
 「出陣だ!」
 だから煉は夜明けと共に高らかに叫んだ。新たな歴史を刻むべく、時は動き出したのである。




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