3 負い目
「ん___」
頭がボンヤリとしている。分かったのは、天井にランプみたいなものがあって、柔らかい光を発していること。次に、木々の枝葉が幾つも折り重なったような、野性的な天井があることを知った。そして自分の身体にかけられた、薄手の布の重さを感じたところで、ことの成り行きを思い出した。
「!」
布をはね除け、ソアラは上半身を起こした。身体がそこかしこで悲鳴を上げたが、痛みに顔をしかめながら自分が蝿でないことを確かめるのに夢中になった。
「よかった〜!」
ソアラはホッとして上半身をパッタリと前に倒す。しかし腰に激痛が走ってまたピンと体を起こした。服は着ていなかったが、胸や腹、腕や足にまで新しい包帯が巻かれている。
「そういえば棕櫚に助けられて___」
落ち着いて周りを見てみると、天井だけではない、壁や床まで全て、あの柔軟な枝と、それに絡みつく草でできていた。そして天井でこちらを照らすのも蓮のような花だった。これはいかにも棕櫚を連想させる空間。丁寧に腕に巻かれた包帯を一つ解いてみると、薬草をたっぷり染みこませたであろうあて布がされていた。
「気が付きました?」
声の方を振り向くと、草を押し広げてこちらを見る懐かしい顔。
「棕櫚!」
「あ〜、無理に動かない方がいいですよ。傷に障ります。」
立ち上がろうとしたソアラを微笑みで制し、棕櫚は壁の向こう側から草を押し広げてソアラのいる部屋へと入って来た。なにも変わらない。容姿も、その優しげな言葉遣いと知的な眼差し、彼は共に旅をしていた頃の棕櫚のままだった。
「ありがとう棕櫚!あなたがいなかったら___!」
「わっ。」
棕櫚が側に跪くなり、ソアラは身体の痛みも顧みずに彼に抱きついた。再会の喜びもあるが、あの悪夢から救ってくれたことが何より嬉しかった。
「ちょ、ちょっとソアラさん___」
ソアラがほとんど裸であることが棕櫚を戸惑わせる。確かに一緒に旅をしてきた間柄だったが、彼女の素肌に触れる機会なんて無かった。
「いいじゃない___少しこうさせてよ。」
「ソアラ___さん?」
だがソアラが切なげに棕櫚の背をギュッと抱くと、紅潮しかけた棕櫚の頬にも平静が戻った。
「いろいろ大変だったみたいですね。」
そして棕櫚もまた、彼女の思いに応えるように、そっと素肌の背中を抱いてやる。
「まね___」
棕櫚はそれ以上問わなかった。快活なソアラらしからぬ感傷的な態度に、彼女が本来の世界に置いてきたものの大きさ、今この黄泉にいることの寂しさを感じ取ることができたから。
「___」
ソアラの鼓動は、はじめこそ少し高ぶったが、棕櫚が彼女を抱いてやるとみるみるうちに穏やかに変わっていった。彼の身体には瑞々しい、草の臭い、森の薫りがしみている。それもソアラの心を解していった。
「ありがとう、すごく楽になった。」
互いの体が程良く温められた頃、ソアラの声で棕櫚が背から手を離す。
「無理しすぎですよ、こんなことで泣いちゃうなんて。」
間近で見つめ合い、ソアラの瞳が潤んでいることを知った棕櫚は、悪戯っぽく微笑みながら言った。
「なんだか___寂しさで泣くことだけはしたくなかったのに、懐かしい顔を見たら我慢できなくなっちゃった。」
ソアラはすぐに涙を拭う。
「あ〜!相変わらずずるいなぁおまえ!人畜無害みたいな顔してそういうところだけちゃっかり持ってくんだからさぁ。」
二人だけの空気を、突風のような大声がかき回した。驚いて横を見てみると、髭面の若い男がふて腐れた顔で二人を見ていた。
「大切な友人との再会ですから、これくらいは当然。さ、ソアラさん。」
「ありがと。」
棕櫚は長袖の服の上に重ね着していた上着を脱ぎ、ソアラの肩にかけてやる。もともと異性だからといって態度の変わる男ではないが、それにしてもソアラと親しげにしている棕櫚を髭面は羨望の眼差しで見ていた。
「羨ましいねぇ〜おまえは。俺なんてもてたいと思っても全然駄目だってのに。」
髭面は表情豊かで、感情に正直な性格に見えた。清潔感はないがはっきりとした目鼻立ちで、男臭い。
「彼は?」
「ああ、耶雲といいます。腐れ縁でしてね。」
「へぇ、彼が耶雲。」
「?知ってるんですか?」
棕櫚は目を丸くした。ソアラは掛け布を腰に巻いて立ち上がり、ふて腐れている彼に近寄った。
「ん?」
気が付いた耶雲が振り向くと、ソアラはニッコリと微笑み返した。
「おっ___!」
ソアラが手を差し出すと、耶雲はポッと頬を染めて目を輝かせた。
「ありがとう、耶雲さん。」
壁の草を押し破り、耶雲はソアラの手を強く握った。そして___
「おまえに乾杯!」
白い歯を見せながら、意味不明な一言。逆の手でソアラを指さし、ウインクまでしていた。ソアラが笑顔のまま固まる。
「___」
外したことに気づいたのか、耶雲の顔が真っ赤になった。
「耶雲、食事の支度をしてください。」
「お!?お〜!やってやろうじゃねえの!」
耶雲はもう一度ニッカリと笑い、逃げるように草壁の向こうへと引っ込んでしまった。
「お、おまえに乾杯??」
ソアラはまだ手に彼の強い温もりを感じながら、引きつった笑みで棕櫚を振り返る。
「変な奴でしょう。だからもてないんですよ。照れると意味不明なことばっかり言うんですから。」
棕櫚の相棒というから、彼に負けず劣らず知的で落ち着いているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
「変わってるわねぇ。」
「お互い様だと思いますよ。」
「なにぃ〜?」
「いえ別に。」
「ちょっと棕櫚!」
クスクスと含み笑いしながら、棕櫚は壁を押し開けて向こう側へ。ソアラは頬を膨らませたが、すぐにこみ上げる楽しさで笑顔に変わる。痛みなんかすっかり忘れて、壁の向こうへと草を押し広げた。
「これですよ、これが首のところに埋まってたんです。」
改めて見せられるとなんと気色の悪いことか。ソアラは身じろぎして、鼻っ面に掲げられた瓶を拒んだ。
「み、見せないでいいんだけど___」
水で満たされた瓶の中には、ソアラの中指よりも長いウジ虫が漂っていた。ソアラは引きつった笑みで棕櫚に呟く。
「耶雲の能力であなたを人の姿に戻して、身体のどこかに異常がないか調べたんです。それで見つけたんですよ。」
話を聞くだけで虫酸が走る。ソアラは今にも震え上がりそうだった。
「凄いですね、こんな大きくてしかも細長い、これがウジ虫なんでしょう?いったい育てたらどんな蝿になるんでしょう。」
素直な好奇心で言ったつもりの棕櫚だったが___
ボンッ!
「わっ!!」
突然彼の手の中で瓶が爆発した。もちろん中のウジ虫ごと。
「想像しちゃったじゃないのっ!」
目を血走らせたソアラの右手で、魔力がスパークしていた。ウジ虫の出汁がしみた水を顔に浴びた棕櫚は、何とも言えない複雑な顔。自業自得とはいえとんだ災難である。
「ほ〜れ、メシができたぞ〜。」
この草木の館には部屋がいくつも作られていて、台所まである凝りよう。腕によりをかけてソアラのために料理を拵えていた耶雲が、意気揚々とやってきた。
「俺の得意の鍋料理〜。」
「煮るだけじゃないですか。」
「うるせえな、ってなんでびしょ濡れ?」
「まあまあ。」
小言もそこそこに、棕櫚は布で顔を拭いていた。耶雲は一つ首を傾げ、すぐに気を取り直してソアラの前に年季の入った土鍋を置く。
「俺の料理は___!」
ソアラと向かい合い、何かを言おうとした耶雲だが、真っ直ぐ見つめ合って話そうとするとあっという間に頬が紅潮してしまった。
「料理は愛情!」
そしてまた支離滅裂。ただ今度はソアラもあっけにとられはしなかった。
「ありがとう、何となく伝わったわ。」
そしてニッコリと微笑みかける。それが耶雲のハートを熱くした!
「ソアラさんあんた素敵!さあ召し上がれっ!」
いざ!耶雲は土鍋の蓋を取った!彼の得意料理とは___!
「!!!」
カエル鍋。
「___っっっっ!」
その瞬間、ソアラの全身から血の気が引いた。最高に着飾ってお出かけした途端、肥だめに填った、って、それくらいに衝撃的だった。鍋の中には形の分かる蛙が三匹。賑やかな野菜に囲まれて茹で上がっていた。
「きゃあああああああ!!!」
ソアラの悲鳴と共に、草木の館から光が漏れる。土鍋が爆発し、耶雲のハートは煮汁まみれで火傷するほど熱かった。
「なるほど、アヌビスとダギュールがこちらに来ているわけですか。」
棕櫚は懐かしむように呟いたが、顔つきには嫌悪が滲み出ていた。
「二人は餓門をいいように利用してるのよ。ダギュールが夜行として餓門に知恵を付け、アヌビスは牙丸として自分の私兵になる妖魔たちを探して歩いてる。」
「俺もその一人ってわけだ。」
耶雲はキセルをくわえながら、ソアラの言葉に耳を傾ける。彼は棕櫚から向こうのことを多少なりとも聞いているらしく、簡単に話が通じた。
「あいつらの目的は竜神帝を倒すことだからいつまでもここにいるとは思わないけど、それでも黄泉になにも見いださない奴でもない、それはあなたも分かるでしょ?」
棕櫚から貰った髪の結い紐は、水草を原料に作られている。ソアラは定番のポニーテールに髪をまとめ上げ、慣れた手つきで縛り上げた。
「アヌビスは新しい発見を期待しているのでしょう。人材探しもその一つです。」
「そう。それが不気味だから、帝もあたしを黄泉に行かせる気になったんだと思うし。」
胡座の膝に頬杖を突き、ソアラは木の実を囓った。
「サザビーさんとミキャックさんはどうしたんです?一緒に来たんでしょう?」
口に木の実を残したまま、ソアラは辛辣な面持ちになって目を閉じ、首を横に振った。
「分からない。本当はすぐにでも二人を捜さなきゃいけないのに、なんだか榊が放っておけなくって___」
「そうさせる子さ、さっちゃんは。」
随分と気安い呼び方だ。ソアラは驚き半分に耶雲を見た。
「榊のことは後にしましょう。ソアラさん、二人の手がかりもないんですか?」
「手がかりどころか___」
まだこの世界に戸惑いがある。自主的に動き回れるほど自由もないし、黄泉の印象やアヌビスが居るという事実はソアラから大胆さを奪っていた。
今だって、この自由を生かして二人を捜しに東奔西走するよりも、瑚陸の遺言がしかと榊に届いているのか、そしてそれを受けて彼女が何か動こうとしているのか、その方が気にかかってしまう。
「正直あなたを頼りたいくらいよ。あたしだって二人を探しに行きたいけど、闇雲に動いてたって駄目でしょ?迷子が迷子を捜して歩くようなもんだわ。」
「それはそうですね。」
理屈は合っているが少し彼女らしくない発言だと棕櫚は感じた。
「でも二人にもしものことがあったら、後悔しませんか?」
「するでしょうね。いや、もっと前から後悔してる。あたしが寂しかったから、サザビーが天界についてきてくれるのを歓迎したんだ。何か良くないことがあるんだって分かっていたのに、あたしは一人じゃ駄目だった___」
「弱くなりましたね、暫くあわないうちに。平和ボケですか?」
「そういう言い方はしないでよ。」
ソアラは小さなため息をついた。
「幸せだったのよ実際。」
「あなたは強がりのできる人でした。でも、本当は寂しがり屋です。今のあなたは強がれなくなってるから、寂しがり屋な顔ばかり見せる。」
棕櫚の言葉にソアラは黙り込んだ。的はずれとは思わなかったから。
「前向きに考えましょう。二人は無事だと考えて、暫く忘れてみたらどうです?」
「そんなことできると思う?」
「でも二人のことが気になるから、今のソアラさんにはどこか影を感じるんです。」
それは持ち前の元気や明るさに差し込む影。その影の先端にあるのはサザビーやミキャックのことかも知れない。でも根底にあるのは中庸界で決別してきた家族のことだとソアラは分かっていた。
そして何より、再びアヌビスに挑むであろう状況に、仲間たちがいないこと。それが彼女を大いに萎縮させていた。振り返ったその時に、蝿に化ける薄気味悪い男ではなく、ライやフローラがいてくれたらどんなに良かっただろう。
「___」
ソアラは胡座を掻いて俯いた。目を閉じ、暫く黙り込む。耶雲が何かを話しかけようとしても、棕櫚が彼の口を塞いだ。
「あたしはどうしたらいい?」
目を閉じたまま、ソアラが問いかける。
「そんなことを聞くためにこの森にやってきた訳ではないでしょう。」
「自分じゃ分からないのよ。ただ、あたしのルーツを探すのが一番後回しだってこと以外は。」
「ルーツ?」
「ということはあなたの血統はやはり黄泉にありですか。」
「そうみたい。でもそれは今必要なことじゃないわ。」
本当かな?棕櫚はソアラの冷めた言葉を疑ったが、なりを潜めていた彼女の強がりだと理解する。
「なら答えは簡単じゃないか。」
すっきりしないソアラの言葉に痺れを切らしたように、耶雲が立ち上がって彼女の後ろに回り、両肩に手を乗せた。
「今のあんたはさっちゃんの配下で、彼女のために動いてる。それでどこに迷うことがあるんだ?こっちに来て助けてもらったんなら、それはしっかり返すのが礼儀ってもんだろ。」
「お、珍しい。照れずに言えましたね。」
「う、うるせえな。」
目を合わせて正面から話した方が説得力があろうに。それをしないのは照れ癖が出るからだ。
「ソアラさん、いま榊はどうしようとしていると思います?想像してみてください。」
棕櫚がこういう問いかけをする時は、彼の中で一つの計算に答えが出た時だ。それを上手に伝えるために、彼はこういう手法を取る。今までも良くあったことだ。
「もし、私が託した水虎殺害の真相を彼女が手にしていれば、打倒餓門のために動くと思う。」
「本当かよ!?」
ソアラの肩にかかる重みが強まった。耶雲が吃驚しているのが伝わる。
「変わるものですね。」
「どういうこと?」
耶雲の重たさに少し煙たそうな顔をして、ソアラは棕櫚に問いかけた。
「榊は自分が問題に巻き込まれないように生きなければなりません。それは彼女の能力が極めて特殊なことももちろんですが、彼女自身の生い立ち、そして俺たちとの関係にも問題があります。」
「それは___なに?」
どうやら自分が黄泉に来て、短い間に知った榊のイメージと、彼女を良く知る二人のイメージは異なるらしい。
「一つは自信です。彼女は今の黄泉で生きるには致命的な負い目を持っています。負い目ですからほとんどの人間はそれを知りません。それこそ目付役の仙山、信頼を得た俺と耶雲、この三人だけだと榊本人が言っていました。」
「話すのか!?」
耶雲はソアラの肩から手を離し、いきり立って怒鳴った。棕櫚が秘密をあっさり口外しようとしていることが気に入らないようだ。
「分かりませんか?榊はソアラさんのことを信用していますよ。」
信用し、そして羨ましく感じている。だから変わったんだ。棕櫚は心の中でそう付け加えた。
「榊は妖人だったんですよ。」
「!?」
ソアラは息を飲み、肩を竦めた。
「彼女の両親は妖人です。ただ彼女は能力を持っています。なぜか?」
考えて分かるものではない。ソアラは驚きの余韻を身体に残したまま、棕櫚の言葉に耳を傾ける。
「彼女の一族は妖人でも、薬の知識に長けていました。薬草を見分ける力は後天的な努力で身につけたもの。おかげで一族は妖魔からも一目置かれていました。」
榊が他の妖魔たちの前で弱い立場に映るのは、彼女の負い目にある。それは間違いないだろう。だがその負い目の源がこんな根底にあったとは。
「榊が幼い頃、どんな少女だったのかは俺にも分かりません。ただ純真無垢の可憐な少女だったと思います。彼女の一族はある有力な妖魔に気に入られ、守られていましたから、榊も平穏な幼少期を過ごしていました。そんなある日のことです___」
話を棕櫚に任せるつもりか、耶雲はキセルを味わいながら部屋の隅で胡座を掻いた。ただ手をついたり、足を組み直したり、あまり落ち着いてはいない。
「その時、榊はただ森を散歩していただけでした。そして彼女は一人の女と出会ったのです。それは本当に、偶然が重なってのことでした。前夜、榊が友人と遊んでいなければ、悪戯をしていなければ、それを彼女の両親が叱りつけなければ、自分だけが叱られたことを彼女が悔しく思わなければ、気を静めるために森に出かけなければ___ちょっとしつこいですか?」
「ちょっとね。」
「とにかく、様々な偶然の果てに榊は森で女と出会いました。彼女が、榊の前の闇の番人です。名を梓(あずさ)といいます。そのとき彼女は傷ついてはいませんでしたが、酷く焦っていた、それこそ獣に追われているような怯えた顔をしていたそうです。そして彼女は、榊の前で息絶えることになります。」
「敵が側にいた___?」
棕櫚は首を横に振った。
「いません。榊と出会った梓は肩で息をしながら、幼い彼女の前で突然力を失うように跪きました。榊は彼女の身を案じ、声をかけます。大丈夫ですか?梓の顔は酷く青ざめ、汗に濡れていました。梓が榊の手を強い力でグッと掴むと、彼女は少し怖さを感じました。しかし逃げません。なぜなら、顔を上げた梓と真っ直ぐ目を合わせたことで、彼女の心に秘められた強い正義感が子供心に分かったからです。」
正義を秘めたものが、全身に危機感を匂い立たせ、たまたま出会った少女の手を取り彼女を見つめる理由とは何なのか?
「あなたに出会ったことを運命と思いたい。そう梓は言いました。あなたのような少女に苛酷な運命を背負わせることは気が咎める。私を拒否するなら首を横に振ってほしい___と。」
「首を振らなかった。」
「そう。しかし、少女の戸惑いに過ぎなかったかも知れない。榊には彼女の言葉の意味が分からなかった。でも追いつめられた梓を見捨てることはできなかったのです。そして梓は、榊の手を握ったまま、唐突に息絶えました。全身の血液が沸騰し、目玉が逆転しました。皮膚が崩れ、髪が抜け落ち、彼女の身体はみるみるうちに灰へと変わっていきます。最後まで残った温もりは、榊と結ばれた手でした。」
そんな死に方をさせる毒が黄泉にはあるのだろうか。それとも何かの能力か。側に敵のいない状況で、なぜ彼女はそんな死に方をしたのだろう?ソアラには想像もつかなかった。何しろ彼女はまだ、契約一つで死に至らしめる妖魔を知らない。
「妖人でありながら、榊は優れた資質を秘めていました。でなければ、梓の能力を継ぐことなどできるはずがない。彼女は認めようとしませんが、鴉烙に命を握られた梓の前に現れたのが彼女だったことは、運命と呼んでもいいと思います。」
「ややこしくなってきたわね。その鴉烙が梓を殺したの?」
「そうです。鴉烙は紙の上に結ばれた契約を現実にする能力を持っています。梓は鴉烙に契約書で命を握られ、そして彼に逆らい、死を迎えることになったのです。」
「へぇ〜!」
なんと無敵めいているのだろう。それならば、時を止める能力だって無視できる気がする。間違っても敵にしたくない相手だ。たった一枚の紙に人生を消し去られるなんて、たとえ他人に起こった出来事だとしても耐えられない。
「しかし梓は特殊な能力者。闇の番人の能力は、黄泉にはなくてはならないものであり、数少ない継承型の能力です。」
「血縁とか関係なく引き継がれるの?」
「そう。死の瞬間、最も側にいた者に。番人が殺められた場合、通常であれば殺害者に能力が委譲されます。しかし榊の場合は特殊でした。」
ソアラは難しい顔をしたと思うと、ハッとして手を叩いた。
「それって榊を殺した妖魔にあの能力が渡るってことよね?ということは彼女ってすっごく危険な立場にいるわけ!?」
「そうです。でも、あの闇の番人の能力は簡単に扱えるものではないんですよ。俺は___俺の能力は知ってますよね。」
「泥棒でしょ?」
「う〜ん___」
棕櫚は苦笑いし、耶雲は密やかに拍手していた。
「能力の交換なんですけど、俺は怖いので榊の能力はいりません。素質なんですよ、あの能力を使いこなせるかどうかは。出入り口を開くのは難しくないといいます。でも闇の中で自由に動けるかどうか___下手をすれば闇に身体を引き裂かれるでしょう。」
それは実感がある。榊なしであの闇の中に行くのは恐怖だ。
「だから榊の能力を欲しがる人はいません。ただここで注目してもらいたいのが、榊が妖人であるにもかかわらず、この能力を存分に使いこなしていることです。だから彼女と梓が出会ったことが偶然に思えない。」
できすぎた偶然が衝撃的であると人はそれを運命と思う。どんな行動を取ったとしても、いずれその偶然は起こるものなのだと。ただソアラはそれを否定する一人だ。
「でも仕組まれていたとも思えないわ。」
「そうですね。まあその辺の解釈はお任せします。とにかく、榊は梓から能力を受け継ぎましたが、それすらも気づくことなく暫く時を過ごします。しかし先ほどの鴉烙が梓の足取りを追っていました。どうやら彼は、自分の信頼の置ける手下にあの能力を持たせたかったようです。便利ですし、鴉烙にとっては嫌な能力ですからね。」
契約の能力は強力だが絶対ではない。鴉烙自身が殺められれば能力は解ける。その点で闇の番人は音も気配もなく、しかも建物の奥まで易々と忍び込める、鴉烙にとってはこれ以上ない嫌な存在だ。だから自分の手元に置くことで、能力を飼い殺しにしたいと考えていた。それが梓を追ったきっかけである。
彼女に命の契約を結ばせたまでは良かったが、始末の手はずを誤った。
「なにも知らないまま、榊は狙われます。しかし彼女はその素質を遺憾なく発揮し、闇を開いて遠い地への逃亡に成功しました。大切な家族や仲間は鴉烙の手に落ちましたが、彼女は必死に生き延びました。やがて己の能力がなんたるかを理解すると、世を接見していた水虎の一派に入ることで鴉烙を避けようと考えるようになりました。」
「それで避けられるの?むしろ目立つ気がするけど。」
「闇の番人は特殊な能力であり、唯一黄泉と異世界を行き来できる存在。黄泉にとって重要かつ、横暴を許してはいけない人物です。つまり真っ当な組織に入れば、彼女は自由を失いますが、守られます。水虎は真っ当であり、彼女の深い事情をより理解できる天破の下に属することになりました。黄泉の辺境、朱幻城を任され、目付役には手練れの仙山がつきました。彼のことは知ってますよね?」
「こっちに来て最初に出会った妖魔よ。」
「彼は優れた殺し屋であると同時に思慮深い。いい人と出会いましたね。」
そう、仙山でなければ、榊に出会うこともなかっただろう。激しい戦いに巻き込まれ、未だに路頭に迷っていたかも知れない。
「仙山は榊の信頼を得ると、彼女から自分が妖人であると聞かされ、耳を疑ったといいます。なぜなら榊は精神的に成熟し、能力を操るばかりでなく、自身の力量もめざましく高めていったからです。空を飛ぶことだってできるようになりました。」
そう言えば榊は集落の妖人たちに寛大だった。仙山は妖魔と妖人の格差を事細かに話してくれたが、棕櫚の話を聞くと、あれは妖人に寛大であることから榊の真実が明るみに出ることを恐れた一種のカムフラージュに思える。
「仙山は榊に一生尽くし、彼女を守り続けようと考えました。だから、私や耶雲が彼女の前に現れた時、それはそれは刺すような目線で睨まれたものです。」
「は〜い質問っす。」
ソアラは唇を窄め、おもむろに手を挙げた。
「何で榊の前に現れたの?なにが狙いで?」
「たまたまですよ。」
「嘘ばっかり、あなたそんな人じゃないわ。グレルカイムの時だってあたしの前にだって狙って現れたくせに。」
ソアラは首を傾げながら、棕櫚の顔を探るように眺めた。
「親しくなりすぎましたね。あなたに嘘はつけない。」
棕櫚はニッコリと微笑み、ソアラも頬を緩めた。
「鴉烙の能力が欲しかったんです。その当時の俺はかなり天狗になっていましたからね。榊の能力が役に立ちそうだったので、親しくなって手伝ってもらうことにしました。」
目的が少し下衆に思えたが、それくらいが生々しい。しかし___
「汚いぞ。」
今まで蚊帳の外にいた耶雲が、突然話に割り込んできた。ソアラがそちらを振り返っても、まるで眼中にない様子。ただ棕櫚を怒った顔で睨んでいた。
「人の秘密はばらして、自分は逃げようってのか?」
「秘密?」
「梓は棕櫚の姉貴さ。」
「!」
ソアラは驚いて棕櫚を見やる。しかし彼の顔色は一つも変わっていなかった。ただ次の言葉を口にする際、ほんの一瞬だけ噛みしめるような顔をした。
「そうです。梓は私の姉でした。」
「仇討ち___ってこと?」
「復讐といったほうがいいかも知れません。俺は誰よりも姉を愛していました。彼女は強く、美しく、気高い。素晴らしい人でした。正義感から鴉烙の横暴を止めようとし、逆に破滅に追いやられました。唐突に、奴の意志一つで死を迎える。悲劇としかいいようがありません。」
姉思い___というよりは、まるで恋人を思い出すように遠い目をして語る棕櫚。ソアラは彼に一つのコンプレックスを見た。
「鴉烙の能力を奪い、姉が味わったのと同じ恐怖の中で殺してやろうと考えていました。しかし能力の交換は、相手に触れなければできない。奴の根城である皇蚕は、一切の侵入者を許さない。そう、姉のように、全てを無視して移動できない限りは鴉烙への接近は難しかったのです。」
「それで榊を引き込もうとしたわけね。」
ようやく接点が見えてきた。棕櫚は鴉烙に恨みを抱き、榊は彼の姉である梓の能力を引き継いだ。そして耶雲は___なんだっけ?
「あなたはどういう関係?」
ソアラに問われると耶雲はプイッと顔を背けた。照れているのか?
「俺と耶雲は昔からの知り合いで、姉にも世話になってるんですよ。」
「なんか普通ね。」
「悪かったな!」
妙なところでがっかりしているソアラに、耶雲が罵声を飛ばす。
「榊が私に好意を抱いているのを知った時は、正直しめたものだと思いましたよ。ただ彼女の生い立ちを知り、己の身分を気にかけながらも純真に信頼と愛を語ってくれた姿に、胸が痛くなりました。」
「さっちゃんはいい娘さ。それに助けたいと思わせる。」
「そうね、それには同感。でも自分が妖人であることの負い目を拭えない弱さも感じる。能力を持っている妖人が妖魔なんでしょ?」
ソアラの言葉に二人が揃って頷いていた。
「でも、妖魔の親は片方が必ず妖魔なんです。榊の血統は変えようがありません。もし妖人であることが発覚すれば、たちまち彼女の名はよからぬ噂に乗って世に知れ渡るでしょう。鴉烙は簡単に彼女のことを嗅ぎつけ、予防線を張ろうとする。」
「利用するなんてとんでもないと思った。だがな、梓さんが棕櫚の姉貴だってさっちゃんに知られたんだ。」
「そして、鴉烙の能力を葬り去ることにしたんです。能力の交換で鴉烙から力を奪い、それを死亡した妖魔を探して宿らせるんです。そうすれば、能力は宿主と共に朽ち果てます。死ぬのは鴉烙の能力だけ。榊を罪の意識で苦しめない、いい方法だと思いました。」
棕櫚の能力もかなり特殊であり、他の妖魔から嫌がられるもの。彼の名がそれなりに知られているのに、あまり良い噂を聞かないのも頷ける。
「彼女は俺たちを皇蚕に送るだけ。一緒に行くと言って聞かなかったが、無理矢理そうさせた。」
と、耶雲。
「鴉烙の背後に現れ、まず耶雲が奴の能力を押さえ込み、その隙に俺が能力の交換にかかる。ただ、その時ちょうど彼が鴉烙の娘を誘拐していたんです。」
「彼?」
首を傾げたソアラに棕櫚は人差し指を立ててニコリと笑った。
「風間___バルバロッサですよ。」
「もう一つ誤算があった。鴉烙の能力を押さえ込むために、俺は自分の能力を最大限に発揮した。俺の能力は他の能力を抑圧すること。人に的を絞ってかけることもできるが、最大限に発揮すると俺の周辺みんなの能力を押さえ込むんだよこれが。」
「うわ〜。」
ソアラは引きつった、どこか蔑むような笑みを浮かべ、横目で耶雲を見ていた。
「つまり俺の能力も押さえ込んでしまったわけです。」
「がっはっはっ。」
照れ隠しなのか何なのか、耶雲は心のない笑い声を上げる。
「そのとき榊は闇の中で俺たちの様子を見てました。俺は捕らえられましたが、かろうじて耶雲だけは彼女の助けで逃げることができたんです。」
「さっちゃんは棕櫚のことを好きだったから本当に取り乱していた。こいつを助けるって言って聞かなかったのには苛ついたね。」
二人の男と一人の女、その間では良くあることだ。当時を知らないソアラにだって、耶雲が榊を好いていたのだろうと想像するのは簡単だった。
「鴉烙は派閥を度外視した権限を持つ妖魔です。そして幅広い情報網を持ちます。榊のことを嗅ぎつけ、彼女に出頭を命令しました。」
「ああ、話が読めたわ。それで彼女にあなたの処刑を命じた訳ね。」
「そうです。やはり同じように拘束されたバルバロッサと共に、俺は闇の奥底へ、榊の手で放たれました。普通なら死んでますよ。生き延びることができたのは、彼女が何らかの助けをしてくれたからです。」
「そしてさっちゃんは鴉烙の契約に血判を押すことになった。彼女は今、梓さんと同じ状況にある。鴉烙の意志一つでいつ死ぬか分からない状況さ。」
「控えめに、目立たないように、鴉烙の怒りを買わないように、彼女は密やかに生きることを強いられました。妖人であるという秘密が守られたことだけが救いでした。」
「だから、俺もさっちゃんと会おうとは思わなかった。そっとして置いてあげるのがいいと思ったんだ。」
本当は会いたいに違いない。榊への思いになると耶雲の口数が増える。
「俺もあっちに彼女が迎えに来てくれましたから、最初は一緒にいました。でも俺が、榊の手でこちらに帰還したなんて鴉烙に知れたら、奴が放って置くはずもない。だから朱幻城を出ていったんです。」
耶雲だけではない、棕櫚だって彼女の側にいてやりたいだろうに。
「もどかしいわね。」
「そうですね。」
「だが不思議なことがある。そのさっちゃんが何で今になって急に、積極的に動き出したんだ?水虎だの餓門だののことは鴉烙と関係がないからか?」
耶雲は腑に落ちない様子だったが、棕櫚には思い当たる節があった。
「ソアラさんと会ったからじゃないですか?」
「え、あたし?」
キョトンとして自分を指さすソアラ。耶雲と目が合うと、彼は首が折れるかと思うほどに首を傾げた。
「生き様って奴ですよ。自分が特殊であることに負い目を感じさせず、しかもなにがあるか分からないこの世界にまでやってきて、己の道を追求する。その姿に憧れたんだと思います。」
ソアラは榊のことを思い浮かべた。羨望の眼差しを感じたことはなかったが、最初に出会った頃の彼女と今の彼女は少し違う。その一つが、ソアラを信頼し、行動の選択を任せ始めたことだ。
「これくらいにしましょう。まだソアラさんがここにやってきた本当の理由を聞いてません。」
手を叩いて話を切り替えた棕櫚の視線は、彼女に明確な答えを求めていた。ソアラもそれを感じ取り、自分がここにやってきた当初の目的に、今の話を踏まえて考えた答えを示す。
「榊に力を貸して。アヌビスやダギュールがどうというより、彼女の覚悟を無駄にしたくないって___今の話を聞いて余計にそう思ったわ。」
棕櫚も耶雲も、答えない。
「榊は戦場に立とうとしているかも知れない。それを黙って見過ごせる?」
「俺は見過ごせないな。」
「お、さすが男前。」
「うっ___」
下手に褒められると照れてしまう耶雲は言葉に詰まった。ソアラはそんな彼に微笑みかける。
「再び俺たちと接点を持つことで、彼女は鴉烙に狙われるかも知れません。」
「守ればいいじゃない。」
あっけらかんと言ってのけ、ソアラは棕櫚の肩を叩いた。棕櫚はまだ迷いの残る様子だったが、やがて顔を覗き込むようしているソアラと目を合わせた。
「あなたがやってこなければ、もう一度榊に会おうなんて考えもしなかったでしょう。」
棕櫚はソアラの顔の前に、片手を差しだす。
「まだあなたに向こうでの恩返しもしてませんからね。」
そして棕櫚もまた、彼女の手をがっしりと握り返した。
「決まりね、それじゃあ早速朱幻城へ___いててて___」
意気揚々と立ち上がったソアラだが、全身に引き裂かれるような痛みが走り、蹲ってしまった。
「無理したら駄目ですよ。大丈夫、二夜も安静にしてれば傷はしっかりと塞がりますから。」
「でも早く榊のところに戻らないと___」
棕櫚はソアラの身を案じ、彼女を横にしようとする。だがソアラは構わずに体を起こそうとした。特に傷の深かった腕、太股の付け根当たりの包帯に僅かだが血が滲んでいた。聞き分けのないソアラを押さえつける術は何か?棕櫚と耶雲は顔を見合わせてニッと笑った。
「蝿になったほうが直りが早そうな感じしないか?何となくだけど。」
まず耶雲。
「あと蛙って滋養強壮にいいみたいですよ。早く良くなりたいなら調理しましょうか?」
そして棕櫚も。
「そ、それだけはやめて___!」
ソアラは溜まらず横になり、薄布を被った。そんな彼女を見て耶雲が声を上げて笑い出す。棕櫚とソアラもいつの間にか笑っていた。
そうしている間にも、守宮ヶ原集結の報が黄泉に駆けめぐっているとも知らず。
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