2 蝿地獄

 眼下に広がる広大な湖。常に中庸界でいう曇り空程度の光量しかない黄泉では、水は黒っぽく映り、爽快感は乏しく冷たさばかりが際立って感じられた。心なしか大気も冷えているように思える。
 「あそこね?」
 「そうだ。」
 潮は蝿の姿でソアラの耳元に止まっていた。共に行動し始めて一夜が過ぎると、諦めなのか何なのか、彼が蝿の姿で顔の周りを這いずってもソアラはふて腐れるだけで拒みはしなかった。
 「森っていうか島じゃない。」
 ソアラが眺めるその先には、島があった。湖の真ん中に陣取り、島全体が深く、やけに青々とした木々で覆われている。海洋の島ほどではないが、それでも湖の中島としてはそれなりの大きさで、外周をぐるりと回るには十五分くらいはかかりそうだった。
 「無知な奴め。」
 「なにがよ。」
 潮が耳もとで馬鹿にしたようにつぶやくと、ソアラは喧嘩腰で口を尖らせた。
 「あれは森だ。行けば分かる。」
 「?」
 首を傾げると、放り出されまいと潮が耳を伝って髪の中へと入り込んでいく。ソアラはゾクッと肩をすくめてから、霊元の森へと急いだ。

 霊元の森。そこが島ではなく森と呼ばれるのには当然ながら理由がある。ソアラも上空から森の中へ降下していくうちに、その理由を知ることができた。
 「なるほど、こりゃ森だわ。」
 素直に驚くしかない。そこには大地がなかったのだ。いや、大地がないといえば語弊があるか、確かにこの森の木々は大地に根を下ろしている。しかしその大地は遙か湖の底。
 「ここにある木が全部、湖の底から生えてきてるってことか___」
 湖面のあたりには幾重にも枝葉が入り乱れ、足場を見つけるのはそれほど苦労しない。ソアラはしっとりとした大木の横枝に足をおろした。木の皮にも乾いた感じはなく、強く踏み込むと足跡が残るのではと思える感触だった。しかし幹に触れた手に力を込めても皮には跡一つ残らない。どうやらかなりの弾力性を秘めた木のようである。
 「ここに耶雲がいるって訳ね。」
 ソアラは巧みに飛び跳ねながら、森を奥へと進んでいく。
 「耶雲さ〜ん!」
 大量の水を蓄えているからなのだろうか、木々の葉の緑はかなり淡く、空からの光を受けるとキラキラと光った。とはいえ枝葉が複雑に入り乱れたこの森で、妖魔独特の警戒心を持つであろう男を捜すのは至難の業。棕櫚の名を持ち出せば話ができると考えていたソアラは、思い切って呼びかけた。
 「___」
 しかし反応がない。
 「耶雲さ〜ん、いませんか〜?」
 森を奥へと進みながら、ソアラは声を大にする。
 「潮、あんたも出てきて探しなさいよ。」
 しかし潮も出てこない。
 「ちょっと___潮?」
 ソアラは手を上げ、彼を追い出そうと手櫛で髪をかき回す。すると___
 ブチュッ。
 「へ?」
 指に何かが触れ、奇怪な音と共に頭皮に湿り気が広がった。恐る恐る手を引いたソアラの指に、青みある液体と黒い汚れが付いていた。鳥の糞のようにも見えるが___
 ボロ___
 「!」
 前髪の生え際から、何か白い物がこぼれ落ちていった。片手で髪を掻き上げると、一つ二つとそれは彼女の目の前を通り過ぎていく。そのうちの一つを受け止めてみた。
 「う___」
 米粒より少し大きく、麦ほど太くもない、それは彼女の手の上で蠢いていた。
 「ウジ虫ぃっ___!」
 ゾッとして掌のウジ虫をふるい落とし、ソアラは髪の結い紐を解く。束ねられて癖の付いた髪を広げるとバラバラと白い粒が落ちていった。
 「うわああっ!」
 黄泉に来てからというものどうにも気持ちの悪いことばかり起こる。
 「気色悪かったら洗い落とせよ。」
 「!?」
 後ろからの声に振り返ったソアラ。その頬を強烈な拳が殴りつけた。吹っ飛んだソアラは倒れ込むように丈夫な枝の網に叩きつけられた。
 「く___」
 口の中を少し切った。髪も半分ほど水に浸った。頭からはどんどんウジ虫がこぼれ落ちていく。正面には人の姿の潮がソアラを見下ろしていた。
 「このゆとりは、おまえの実力を見くびっているからあるんじゃない。確実に殺すために、ここへ引きずり込んだんだ。」
 「はじめからそういうつもりだったってわけ?ここが霊元の森かどうかも怪しくなってきたわね。」
 ソアラは口元を拭い、足場を確認するようにしてゆっくりと立ち上がった。
 (気を許しすぎたか___)
 潮が夜行ことダ・ギュールの指令で同行していたことを忘れかけていたのは失敗だ。アヌビスはソアラを気に入っており、彼女との争いを楽しんでいる。だがダ・ギュールは、敬愛する邪神がより崇高な存在になるために、ソアラを邪魔者と考えている。
 アヌビスの目がないうちに彼女を始末しようと考えるのは、複雑なことでも何でもない。ここまでの自分は潮に対してあまりにも無警戒すぎた。
 「蝿に化けたときが最後よ。叩きつぶしてやるから!」
 「なに言ってるのか、良く聞こえなくなってきたぞ。」
 潮は余裕の笑みで、顎を上げてソアラを下目に見ていた。
 あの鼻っ面をへし折ってやる!ソアラはそのつもりで飛び出したが___
 「あれ?」
 いつもと感覚が違う。凄い勢いで飛び出したつもりが身体はあまり前へと進んでいない。それどころか潮が後方へと森を進んでいく動きに付いていくのも大変だ。
 (おかしいぞ?うわっ!?)
 風が吹くと体が紙のように軽く吹っ飛ばされた。決して強風でも何でもないのに、この体の不安定さは何だ?
 「!」
 自分の姿が水面に映っていない。不安になったソアラはまじまじと自分の身体を確かめてみるが___
 「嘘___」
 手に指がない。その代わり、黒光りした細い腕には毛のような棘がいくつも生えていた。
 「どうだい?蝿になった気分は。」
 潮は離れたところで笑っている。
 「蝿って___嘘でしょ!?」
 だが蝿に変わり果てたソアラの声が潮まで届くはずもない。
 「さっきのウジがおまえに寄生したってことだ。あれが首の後ろに根付くまで一夜はかかるが、おまえが無警戒だったおかげで助かったよ。」
 「そんな___」
 「この森で人間らしくない死に方をしろ。んじゃな。」
 潮はソアラに構うことなく、人型のままでどんどん遠ざかっていく。追いかけようとして飛び立つが届かない。ソアラは人型の自分でいるつもりだが、それは森を飛ぶ一匹の汚らしい銀蝿にすぎなかった。
 (呪文は___)
 いつものように魔力を発揮してみようとしてもうまくいかない。それどころかあっという間に飛び疲れて木に止まらざるをえなかった。
 (どうしたらいいのよ!?こんな___一生このまま!?)
 木に止まり、心の中で嘆き、絶叫するソアラ。だが知らず知らず、足は見繕いするように動き回っていた。
 「グログロ___」
 だが混乱している余裕などない。潮がソアラをこの森で蝿にしたのには訳がある。
 「グログロ___」
 蝿でも冷や汗はかけるのだろうか。とにかく酷くゾッとしたのは間違いない。普段なら何ともないのに、こんなに恐ろしいのはやはり自分が蝿になってしまったからなのだろう。
 「うわああ!」
 蝿のソアラは飛び立ち、今まで彼女がいた木の枝を「蛙(かえる)」の舌が打った。
 「ゲェ〜ゴ。」
 取り逃したのが悔しかったのか、水面近くの枝の上でソアラを狙っていた中型の蛙は喉を鳴らした。
 (金城に来てからおかしいわ!ヤスデの次は蛙!?)
 本当はこの森から吹っ飛んで逃げ出したいが、蝿が延々と湖を飛んで渡れるのか?今も少し飛ぶごとにどこかへ止まらなくてはならないというのに。水に落ちたらそれこそ魚の餌だ!
 「ひっ!」
 少し上の枝に蛙がへばり付き、こちらを見てギラギラと目を輝かせていた。溜まらずソアラは別の枝へと飛ぶ。
 (蝿ってこんなにちょびっとずつしか飛べないんだ___って感心してる場合かっ!)
 行く先々で待ちかまえるのは蛙、蛙、蛙!蝿のソアラは休む間もなく枝へ枝へと飛び移っていかなければならなかった。
 「!」
 蝿になっても反応の早さは大したもの。鞭のように撓って襲いかかった蛙の舌から逃れ、ソアラは枝から飛び立つ。その時!
 ビシュッ!
 突然ソアラの目の前が真っ白になった。水しぶきのようなものが見えた後、全身に強い衝撃を受けて意識が吹っ飛んでいた。
 「はっ!」
 自由落下しながら気を取り直したソアラは、目前に水面が迫っていることを知る。すぐさま全身に力を込めてもう一度浮上した。水面ではタイミングを計っていた魚が飛び上がり、空気を噛んだ。
 「て、鉄砲魚___?」
 まだ頭がボンヤリとしているが、水面をよく見れば魚がこちらを狙っている姿が見えた。すぐに水の弾丸が恰好の獲物めがけて乱射される。それをやり過ごそうとなるだけ高いところの枝に取り付く。すると今度は蛙だ。全く休む暇がない。
 (あんな水鉄砲一つで意識が飛んじゃうなんて、蛙に掴まったら本当に殺されるわ!)
 だが身体が濡れたせいで飛行のバランスが悪くなっている。ソアラはさらに休み休み逃げなければならなくなっていた。
 「はあっはあっ___」
 やっと周りに蛙のいない枝を見つけ、そこに止まることができた。しばらくはここで休みたい。何しろ身体は、人なら汗だくになって肩で激しく息を付かなければならないような状態だった。
 「ゲェゴ、ゲェゴ。」
 「グェグェ___」
 蛙たちの鳴き声が聞こえて落ち着かない。この森そのものはとっても美しくて、神秘的なのに、自分の恰好だけが最低だ。
 「これからどうするか、どうやってこの忌々しい姿から元に戻るのか、落ち着いて考えないと___」
 自分が蝿であることは認めなければならない。問題はその先なのだ。この能力の変わっているところは潮が側にいなくても効果が続くということ。「ウジ虫を寄生させる」と言ったことからも、彼の能力を虫に込めてソアラの体内に潜り込ませたのは間違いない。そしてその場所は「首」だと潮が言っていた。奴が頭の辺りをうろうろしていたのは、ウジ虫が首に寄生するのを気づかれないように誤魔化していたのだろう。
 (この状態ではどうにもならないけど、もし少しでも元に戻れたら___)
 考えながらも周りに気を配るのだけは忘れない。近くに蛙はいないはずだったが___
 「ぎゃっ!」
 いきなり身体に丸太で叩かれたような激しい痛みが走り、景色がクルクルと激しく回転する。そして一気にあたりが真っ暗になった。
 「ううっ!」
 なま暖かい暗黒に押し込められた瞬間、上下から激しい圧力が襲いかかる。これは明らかに___
 (食べられた!)
 租借が始まる。ソアラを食った蛙が口を開けるたびに口内に光が差し込むが、唇がしっかりとソアラの身体を捕らえて離さない。しかも口の圧力は金属棒で叩きのめされるほど痛い。
 (このままじゃ___食い殺される___!)
 竜の使いがただの蛙に?光り輝けば何でもできる、そんな奢りが自分にあったのかも知れない。だから潮にしてやられた。
 (助けて___)
 そしてこの新しい冒険に出てからというもの、何でも自分の力で解決しようとしていた。そんなこと、今までだってできていなかったのに。
 (誰か助けて!)
 身体がへし折られるかと思ったその時、ソアラの身体が蛙の口から転げ出た。
 「え___?」
 急に体が自由になったため、ソアラは自分が死んだかと勘違いした。しかし少し頭を上げれば、口を半開きにして悶絶している蛙の顔が目に飛び込んできた。
 「___!」
 そしてその蛙を長細い身体の中に引きずり込んでいく蛇の顔も。
 「あ、ありがとう!」
 蛇は別に彼女を助けたわけでも何でもない。枝の色に保護色で隠れていた蛙をたまたま彼が狙っていた、それだけに過ぎなかった。でもソアラは伝わらないだろうお礼の言葉を叫ばずにいられなかった。
 いまのうちに!渾身の力を込めて飛び上がったソアラだが、蛙の唾液がまとわりついてほんの少ししか進めなかった。
 「くっ___」
 身体の痛みも激しい。蝿の自分の身体がどんな状態かなんて確かめる気はないが、このとき足一本と羽が一枚もげていた。
 「ここなら休める___」
 這いずるように枝を昇っていくと、青い筒状の草を見つけた。筒は入り口が狭く奥が袋小路になっていて、蛙から隠れるにはもってこいだ。 
 「よかった___」
 ソアラは筒草の中に転がり込む。そこはしっとりと濡れていて、ひんやりとしていたが居心地の良い薫りがあった。
 が!
 バタン!
 蓋が閉まった。草場の内壁が微かに蠢きはじめ、粘り気のある液体が染み出してきた。
 「な、なに?今度はなに!?」
 醜い足が液体に触れる。ソアラは激痛に震えた。蝿とはいっても自分の身体、液体に触れた足先が溶けていることにソアラは絶句した。
 「珍しい、ここには蝿はいないんですよね?いいところで餌を見つけました。」
 人の声だ!絶望の淵でソアラは希望の声を聞いた。この草の向こうには人がいる!
 「おまえ、なんだよそれ?変な草だな。」
 しかも一人じゃない!
 「蠅取草ですよ。いま可愛がって育ててるんです。」
 そしてこの声色___
 「相変わらず変な趣味だな〜、そっか、それでおまえ別の能力に変えないんだな?」
 「それは言わないように。泥棒ではなく、植物愛好家の棕櫚で名を馳せたいんですから。」
 そう、ここが霊元の森であることは間違いなく、しかも耶雲の側にはやっぱり彼がいた!男なのに女の子みたいな綺麗な顔をしていて、植物を好む彼が!
 「棕櫚ーっ!!棕櫚棕櫚棕櫚棕櫚ぉっ!!」
 ソアラは必死に叫び、蠅取草の内側を叩きまくった。
 「ははっ見ろよ、もがいてるぜ。」
 この陽気な声が耶雲だろうか?しかしその勘違いはソアラを奈落に突き落とさんばかりだ。
 「違うぅぅっ!気づいてよぉっ!」
 といっても知らせる手段がない。ソアラが暴れれば暴れるほど、耶雲がおもしろそうに笑うだけ___
 「元気いいなぁ、死にかけみたいに見えたけど。」
 「いや___これは!」
 棕櫚は言葉を失った。蠅取草の蓋に、何かが浮かび上がっている。
 「何だ?蝿の足がくっついてんのか?」
 「___文字、文字ですよ、これは!」
 「この変なのが?」
 そうとも、耶雲に読めるはずがない。自ら蝿の足をへし折って、蓋に押し当てた形は、中庸界の文字でソアラと記されていた。
 「耶雲、この蝿の能力を押さえ込んでください!」
 「え〜?」
 「早く!」
 耶雲が目を閉じ、一念を込める。空中に黒い糸が現れ、何らかの紋様を描いて消えた。すると___
 メキメキ___
 蠅取草が内側から押し広げられ、破裂した。耶雲は驚嘆して、大口を開けながら彼女の変化を見ていた。
 「うあ___」
 蠅取草を破って現れたのは裸のソアラ。その全身に渡って、生々しい傷が刻みつけられていた。
 「ソアラさん!どうして!?」
 思いがけない再会に、さすがの棕櫚も驚きが隠せない。だがソアラは小さく微笑んだだけで、力無く彼に倒れかかってしまった。安堵と疲労が彼女から意識を奪っていた。




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