1 翼の歴史

 絹に肌を擦らせ、黒麒麟の放漫な胸に顔を埋めると、小鳥の心は宙を舞った。
 「___」
 なんと暖かく、優しいことか。男にはない仄かな甘い香りに包まれ、小鳥は言葉にできない安らぎを得る。恥ずかしさなんてどこにいったものか、彼女はそのまま目を閉じ、膝を折り曲げ、まるで胎児のような姿勢で黒麒麟の胸に抱かれていた。
 「あ?」
 安らぎが微睡みを誘う。意識が白くなりかけたその時、小鳥の脳裏に真っ青な空の景色が浮かび、彼女は思わず声を発した。
 「何か見えたのかしら?」
 小鳥の髪を撫で、黒麒麟が問いかける。小鳥は胸から顔を放し、長い瞬きをした。
 「空が___」
 ぽつりと呟く。
 「青い空が見えました。」
 「そう、それは良かった。私も、今青い空が見えたから。」
 「へぇ___」
 小鳥ははにかむようにして白い歯を見せる。黒麒麟と冬美の間に入った彼女の翼が、冬美の背を撫でていた。
 「___」 
 その感触といったら言葉にならないほどの心地よさで、冬美は柔らかな枕に横顔を埋めたまま少しだけ笑った。
 「あ、くすぐったいですか?」
 気が付いた小鳥が振り返る。何とか翼を折り畳もうとするがシーツが絡んでうまくいかない。
 「無理することはないよ。なかなか気持ちいい。」
 「でも邪魔になってしまいます。」
 「邪魔?そんなことを言うものではない。」
 黒麒麟は小鳥の横顔、その顎に指をかけて顔を向けさせる。
 「翼なき者が翼を求める理由は何か?一つは美への憧れ、一つは風を味方にする飛行、だが最も大きな理由は地位の獲得だった。翼ある者は優位であり、翼なき者を蔑むからだった。」
 水気帯び、独特の色香を臭わす黒麒麟の語りは唐突に始まった。
 「遠い昔、遙か空の世界。青き空に、豊かな陸地が漂うその世界には、翼のない人々も住んでいた。」
 黒麒麟は小鳥の首に指を這わせ、彼女の身体を引き寄せる。温もりを求め、黒麒麟の甘い乳房に身体を寄せた小鳥の背に、指はしなやかに触れた。
 「あ___」
 背中を微風が撫でるような感覚が走った。そして、瞬く間に小鳥の背からは黒い翼が消えていた。
 「嘘___そんな、どうして?」
 困惑のまま、小鳥は背に手を回し、翼に触れようとする。
 「邪魔なんて言うから、翼が消えてしまった。」
 「そんな___」
 困り果てた小鳥があっという間に泣き顔に変わる。しかし黒麒麟は構わず彼女をその胸に抱きしめた。
「大丈夫、ちょっと虐めただけ___翼は明日にでも元に戻してあげる。」
 「本当に?」
 「私が嘘を言ったことがあるかしら?」
 小鳥は首を横に振った。
 「なら、お話を続けましょう。」
 まるで幼い娘をあやすように、黒麒麟は小鳥の頭を撫でながら、再び語りはじめた。
 「翼なき人は美しい翼に憧れ、それが翼ある人に地位を生んだ。そして、翼なき人は苦しみの歴史を歩むことになった。」
 小鳥は肌の暖かさにうっとりとしながら、耳を傾ける。冬美は、枕に横顔を埋め、黒麒麟には銀髪の後頭部を見せるようにして微動だにしなかった。
 「なにも知らぬ人々は、地の底には悪魔が住み、空の上には聖者が住むと信じている。けれどそれは違う。全ては上から下に進むもの。あらゆる悪も、上で生まれ、下へと落ちていくだけ。その青空の世界は、全ての上に位置する世界。そこは全ての聖者だけでなく、全ての悪魔の源でもある。」
 (その世界は___おそらく天界。)
 冬美は動かない。それでも目は開け、耳は傾けていた。そして、以前自分も小鳥と同じように聞かされたこの話に、心中で解釈を語っていた。
 (あたしもこの目で見たことはないが___いま小鳥が見たのと同じように、凛様に抱かれ、青空の中の浮遊する陸地を見ることができた。)
 冬美はその当時を思い出した。黒麒麟は今よりも寡黙で、おそらくは彼女自身にかかわるであろう秘密を明かしてくれることなど到底無かった。それがある時を境に変わったのだ。そして、冬美は黒麒麟に抱かれた。
 (きっかけは___ソアラの姿を遠巻きに見るようになってからだ。)
 それが原因かどうかは分からない。しかしタイミングはそうだった。
 「多くの悪魔が生まれ、多くの脅威がこの晴れやかな空の下にいた。この世界の歴史は戦いの歴史でもあった。」
 「残念です___こんなに綺麗なのに。」
 「そう、残念ね。」
 目を閉じると美しい青空が広がるのだろう。理想を砕き、現実を教え込まれるような言葉に、小鳥は寂しげな顔をした。
 「でもそれが人だから。悪の多くは一人一人が持ち合わせているものであり、人それぞれの都合に合わせて顔を出してくるもの。それは思惑の異なりや、競争の中で膨らんでいく。人に自我がある限り、全ての人々が歩みをそろえ、肩を組むことはできない。神の手で全てが管理されでもしなければ、人の胸中の悪は淘汰できないわ。でも神の支配を誰が平和と呼ぶかしら。」
 小鳥が難しい顔をしていることに気づき、黒麒麟は微笑んで彼女の額を人差し指でツンと突いた。
 「ちょっと難しかったかな?」
 「い、いえ、そんな、えっと___その___」
 小鳥は額を抑え、慌てて取り繕うように何かを喋ろうとするがうまくいかない。
 「今のは少し余計な話。昔話をしなければね。さ、私の心を覗きながら聞いてごらん。」
 黒麒麟は小鳥の頬に己の頬を重ねる。二人の長髪が絡み合い、黒麒麟は小鳥の耳元で囁くように語り始めた。

 ___その昔、青空の世界は、二つの神の元に平穏と秩序を保っていた。二つの神は、多くの神を滅ぼした強大なる悪から、青空の世界を守った若き英雄だった。
 二つの神の下には二つの人がいた。それが、翼を持つ人々と、翼を持たない人々。かつては共存していた両者の間に溝ができたのは、遠い昔のこと。それこそ、神が二つだけになる前からそうだった。翼のない人々は低い地位に追いやられ、長い苦しみを強いられ続けていた。
 二つの人が慕う神も異なっていた。
 一つは光。雄々しき黄金と、白く美しい翼を持つ、輝かしき神。
 一つは闇。漆黒に息を潜め、その背に翼のない、密やかなる神。
 神が二つだけになってからというもの、翼ある人々は光の神を崇拝し、翼なき人々は闇の神に心の拠り所を求めた。だがこの信仰の違いもまた、両者の溝を根深いものとしてしまう。
 闇の神が翼を持たなかったこと。そして、神の使いである戦士たちもまた翼を持たなかったこと。それが翼を持たない人々に大きな勇気を与えた。そして戦いに至る。翼を持たない人々は、虐げられてきた暗黒の歴史を覆すために立ち上がった。彼らが己の象徴に掲げたのは闇の神だった。
 それまで二つの神の間に歪みはなかった。これが初めての歪みだった。
 戦いは血で血を洗う闘争となった。なぜこうなってしまったのか、それは長い歴史の上に積み上げられてきたことであり、誰も答えの出せないことだった。美しいのは翼を持つ人々。しかし、戦いの才能は違った。翼なき人々の方が強かったこと、それもまた戦いを激化させた原因だった。
 神は嘆いた。二つの神の間には諍いなど無かったから余計に悲しんだ。
 そして長い苦悩の末、闇の神は光の神に平穏を託し、世界から去った。しかし、そこに待っていたのは最低の裏切りだった。
 光の神は翼なき者を滅ぼす道を選んだ。彼らの集う大地を消したのだ。
 翼がなければ風をつかまえることはできない。彼らは怒りと、恨みと、憎しみの思いを秘め、闇に閉ざされた死地へと落ちた。
 古い、遠い昔の出来事だった。
 青空の世界には平穏が戻った。光の神と、翼ある人々だけの平穏。
 輝かしい世界に隠された汚点。光は闇を塗りつぶす。彼らの輝きは、汚れをうち消す力があった。その光で、内面の悪魔まで隠してしまうほどに___

 黒麒麟に抱かれ、小鳥は言葉を失っていた。残酷な仕打ちが自分と同じ、翼を持つ人々の手によって行われたことに、嗚咽が走った。
 「怖がらせてしまったわね。」
 話だけだったなら眠りに落ちていたかも知れない。しかし黒麒麟から情景までもが伝わってくるため、小鳥は怯えたのだ。翼を、その煌めきを誇りに思っていた小鳥は、酷く打ちのめされた気分になり、いま自分の背にそれがないことにホッとしてしまった。
 「私___翼なんて___」
 「そう。」
 残酷な歴史、血の染みこんだ翼なんていらない。声に出せなかった言葉が、小鳥の心の叫びとなって黒麒麟に伝わった。二人の意識は見事なまでに通じ合っていた。
 「でも怖がることはない。少なくとも今おまえは青い空の下にいないし、光の神のことも知らない。おまえは何一つ汚れていないよ、小鳥。」
 黒麒麟は小鳥の身体を優しく抱擁し、柔らかな唇を彼女の唇に重ねた。
 「あ___」
 不意を付かれ、しかも感じたことのない優しい心地に小鳥から声が漏れる。
 「小鳥、おまえはずっと私の側にいればいいのよ。」
 「はい___」
 黒麒麟の指が、小鳥の張りのある肌を伝った。
 ボロン___
 その時、冬美はすでにベッドにいなかった。レースの向こう、薄明かりの寝室のソファにゆったりと腰を降ろしていた。裸のまま、ギターに似た黄泉の弦楽器を手にとって、静かな音色を奏でた。
 (凛様は空想を見せているわけではない。あの昔話は、彼女が目の当たりにしてきた現実。そして彼女はきっと___)
 憶測の域を脱しないが、冬美は黒麒麟がどこからやってきた何者なのか、多少の想像が付いていた。しかし、恩人である彼女の過去にまで踏み込む気にはなれないのが今の冬美だ。考えるだけで、口に出すことまではしない。
 (やめよう。救ってくれた人を裏切るような真似はもってのほかだ___)
思い出される、出会いの時___
 あの瞬間、私を破滅させた魔性フェイロウを道連れに自爆したあの瞬間、私の指に命のリングがあった。それが私を救ってくれた。しかし爆発の衝撃で開いた魔導口の歪みに飲み込まれ、命こそ保ったが見たこともない景色に落ちていた。
 体は意外にも精気に満たされており、私は指に残る命のリングの残骸を見つめ、先人の遺物に深い感慨を覚えたものだった。そして、生きる事への執着に目覚めたんだ。
 そこがどういう場所なのか、私には想像も付かなかった。だが見たこともない空を目の当たりにして、異世界だと察することができた。魔の巣窟を思わせる淀んだ空は、希望を感じさせるものではなかったが、救われた命を無駄にしないために私は生命を捜した。
 妖魔の襲撃にあったのはそれからすぐのことだった。
 打たれ強い魔族の体を得ていなければ、私の命はとうに潰えていただろう。それほどに妖魔は強靱だった。かろうじて勝利を手にすることはできたが、幾重の傷を刻みつけられた。降りしきる豪雨で疲弊しきった体はやがて限界に達し、死は目前だった。
 そこに現れたのが凛様だった。
 「死地へと迷い込み、辛苦に打ちひしがれた女。それでも生きようと藁にも縋るのはなぜかしら___?」
 彼女は私に手を差し伸べ、そう語りかけた。私は絞り出す声もないほどに弱り切っていたが、彼女の救いの手を渾身の力で握り返した。そして、青空を見た。
 「気に入った。私の元に仕えなさい、あなたは最高の素養を持っている。」
 出会いこそ偶然に過ぎない。私が倒れていたのが、彼女の屋敷の近くだった。しかし今となってみれば、私は惹かれるべくして彼女の元に辿り着いたように思える。小鳥を見ていると余計に。
 異界から迷い込んだ者だからということもある。ただそれだけではなく、私たちが女であり、そして心に何らかの翳りを背負った者だということ。類は友を呼ぶ。凛様は似た境遇にあり、しかも故郷を感じさせる人間を好んだ。
 彼女は故郷を懐かしんでいる。と同時に、何か怨恨を抱いてもいる。ただ異界の様子が気になって仕方がないのは確かだ。その証拠に、彼女は異界の動向を感じ取る術を作り上げていた。
 「精錬された宝石には、強い魔力を感受する力がある。」
 魔力という言葉も、黄泉では凛様からしか聞けない言葉だった。
 「おまえが故郷にそういった物を残していれば、見ることができるかも知れない。」
 そういって凛様は水晶を取り出し、私はソアラの元に宝石の付いた首飾りを残してきたことを思い出した。
 見えたのが、アヌビス打倒の旅をしている彼女の姿。私は懐かしさから衝動に駆られることを恐れ、それ以上彼女たちの姿を見たいとは思わなかった。しかし凛様は彼女たちの動向を見続けることを望んだ。
 あのときは不思議だった。水晶に映りだしたソアラの姿をまじまじと見つめ、酷く憎らしそうな顔をしたかと思えば、彼女が傷つくといつも歯を食いしばっていた。まるで一人旅に出した我が子を草葉の陰から見守る母のような顔だった。助けたい、でもそれをしてはいけない、というような。
 「あ___」
 ニックに首飾りが渡ったとき、私が彼を見て声を出してしまったのは失敗だった。凛様に彼との関係を勘ぐられ、過去を話す羽目になった。すると彼女はこういう。
 「裏切りは女がするものだと男は言う。でも男の無神経さこそ、本当の裏切りだ。」
 小鳥との昔話にもあったが、凛様が憎しみを吐露するとき口にするのが「裏切り」という言葉。しかもその対象は必ずと言っていいほど男に向けられる。私は彼女を崇高な存在だと信じて疑わないが、「愛」と「裏切り」は神話にさえ顔を出す。
 ニックたちが超龍神を相手に危機に陥り、私が悲痛な顔でいたのを見ると、凛様はこう言いだした。
 「宝石が強健なものなら、思いや力を伝えることができるかも知れない。」
 そして私は彼に力を与えた。
 「愛しているのね。」
 彼らの勝利を見届けると、凛様が私にそう言ったものだった。
 「昔のことです。彼には私よりもソアラの方が相応しい。私と一緒にいては彼が不幸になりますから。」
 「強い。」
 強い___その一言を呟いたときの顔が妙に印象的だった。まるで自分は弱いとでも言うような、彼女らしくない苦笑だった。
 ソアラの観察も、アヌビスとの戦いで首飾りが砕かれたところで終わった。凛様は最後までソアラのことを嫌いながら気にかけてはいたし、彼女が追いつめられると態度には出さないがやきもきしているように見えた。そしてそれ以上に興味を抱いていたのがアヌビスだったように思える。

 「冬美。」
 「はい。」
 黒麒麟の呼び声を聞き、冬美は弦を爪弾く指を止めた。
 「何かを考えている?」
 レースの向こう、彼女が半身を起こしている影が見えた。
 「凛様と出会った頃のことを思い出していました。」
 「そう。」
 手も触れず、レースが開いた。
 「おいで。」
 黒麒麟に導かれるまま冬美は立ち上がり、彼女の元へ。
 今はこの微睡んだ空間が好きだ。だが、小鳥との出会いは何らかの前触れになる、そんな気がしていた。
 この生活は、もうそれほど長くは続かないという予感が。




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