3 髪
「帰れ。」
「え?」
薄暗い工房で、唐突に刀鍛冶の師が彼に帰宅を促した。百鬼は釜の熱で滴る汗もそのままに、あっけにとられて動きを止めた。
「邪魔だ帰れ。」
釜の熱に炙られて浅黒く焼けている刀鍛冶の老人。彼は重苦しい声で、後ろで師匠の手をじっと見つめていた大きな弟子に辛辣な言葉を投げかける。
「集中できないなら帰れと言うんだ。浮ついた奴は工房に入るな。」
「___」
百鬼は言葉を失った。凄腕の鍛冶屋の研ぎ澄まされた感性、集中力はもちろんのこと、それほど地に足のついていなかった己の心に。
原因ははっきりしている。
「___申し訳ありません。出直します。」
言い訳が無用なことは分かっている。偉大なる師匠はあまりにも厳格で、精錬された心なくしては工房にはいることさえ許されない。刀を打つことだけに身を尽くす「気迫」が無ければ___
「心ができるまでは来るな。」
「___はい。」
彼は百鬼を買っている。彼の優れた心に師も惚れた。だからこそ余計に、彼が浮ついていることが許し難かった。百鬼もそれが分かっていたから、ただ黙って草履を脱ぎ、工房を出た。
いまのソードルセイドは昼が少し短い。いつもよりだいぶ早い時間に帰路へとつくことになったが、もう日は落ちていた。今年は雪が多く、長屋町の大通りも白い絨毯が敷き詰められていた。
(___)
百鬼は深刻な面持ちで雪を踏みしめる。いつも以上に冷え込むせいか、大通りにも人はまばらだった。
(ソアラに乱されているのか___?)
心の乱れの源があるとしたら、いまの彼女との関係以外にない。だが、そんなことで脆くもかき乱されるほど自分とソアラの絆は弱いのか?百鬼は己の邪推が腹だたしくて仕方なかった。
「おいニック!」
遠くからの呼び声。この名で呼ばれると、古い友人であると分かる。通りの向こうからやってきたのは唐傘をさした草光晴だった。
「よう、文豪殿。」
「その呼び方はやめろ。」
元岡っ引きの草光晴は、鬼援隊の一件にけりが付いた後、十手を置いた。三吉を死なせてしまったことへのけじめ、そして珠洲丸を立ち直らせたいという思い、二つが相まって彼は教育者の道を歩むこととした。
「夜叉姫、しっかり読ませてもらったぜ。ソアラも夢中になって読んでたが、子供たちにはまだちょっと早かったらしい。」
だがひょんなことから執筆した物語が人の目にとまり、それからはまた新たな道へと進むことになる。そのころにはすでに珠洲丸も立ち直り、人々の心に安らぎをもたらす尼僧となった。そして彼女にからんでいつの間にか草と小夏は急接近。まだ婚姻は結んではいないが、草は美濃屋を書斎にしている。
「そうか?今度は子供たちにも分かるものを書かないといけないな。」
草はマント一つで傘も差していない百鬼に、唐傘の半分を差し伸べてやる。
「ところであの話は珠洲丸がモデルだな。」
「彼女には一番はじめに読んでもらったって、前も言ったろ。」
草は憮然として傘を百鬼の方へと傾ける。唐紙に積もっていた雪が百鬼の頭の上に落ちてきた。
「いまでも好きなんだね、ってソアラが言ったぞ。」
「己の人生で最も愛した人と結ばれることなんてそうあると思うか?生涯を共にする人は、結ばれてから愛の深さが身に染みいる方がいいのさ。」
すっかり詩人な草光晴。百鬼はたまらずに失笑し、草も照れくさそうに笑った。
「なんかにあわねえな。」
「俺だって分かってる!」
百鬼が草の胸を小突くと、草は鼻息を荒くして胸を張った。変わったようで何も変わっていない。昔の仲間たちは、昔のままだ。
「しかしまあ元気そうで何よりだ。ソアラの噂は聞いていたからな、少し心配してたんだ。」
「ああ、そんなのに耳を貸すなよ。」
百鬼は一笑に付す。しかし心の内は急に落ち着きを失っていた。頭のどこかで、その話は持ち出さないでくれと願っていたのだろう。
「彼女のことだ、こっそり芝居の稽古にでも出てるんじゃないのか?ずいぶん前、そう出産して暫くたってからやってただろ。」
「ああ、まあそんなとこだよ。」
そう言えばそんなこともあった。元々家にじっとしているのは嫌いなんだ、ソアラは。
「今日も家にいなかったってな。」
「え。」
真顔になってしまっただろうか?いや、そんなことはない。草の表情は一瞬として曇っていない。真顔になって彼を疑心暗鬼させるような真似はしていないはずだ。
「いや今日は米を届ける日だろ?久しぶりにソアラと話がしたいからって、小夏が米屋と一緒にお伺いを立ててさ、でも家には誰もいなくて仕方ないから戻ってきたんだ。米屋が怒ってたらしいから、今度謝っておいた方がいいぜ。」
それでも言葉を返すのに少しだけの間が必要だった。喉の辺りに唾が絡み、うまく言葉が出なかった。
「___そうだな、ああ、そうするよ。」
取り繕うような笑みを見せ、二人はそれから一言二言交わしてすれ違っていった。草は意気揚々と美濃屋へ、一方の百鬼は草が振り返ることを恐れるかのように素早く大通りからはずれた。
「___」
小さな路地に入り込み、彼はすぐに立ち止まった。決して裕福とはいえない人々の軒が並ぶ路地で、彼は拳を振るわせる。
(何やってんだ___ソアラ!)
貧しくても心の満ち足りた家庭が並ぶ路地。光の漏れる軒先から、童の元気な声も聞こえる。そんな場所ではやりきれない思いを言葉に変えることだってできない。
いままで感じたことのない妙な憤りを胸の奥底に押し込めて、百鬼は一度だけ自分の頬を叩き、再び己の帰るべき場所へ向かって歩き始めた。
「あ、おかえり〜。」
その日もソアラは何事もなかったように百鬼を出迎えた。彼女は夕食の準備中で、シンプルなエプロンをつけて微笑んでいた。キッチンの方ではリュカとルディーがなにやらはしゃぎながら食器を並べているようだ。
「今日は早かったのね。」
脳裏を渦巻くモヤモヤのせいか、百鬼は憂いの差した顔のままでいた。
「どうかした?」
それに気づいたソアラは、少し俯いている百鬼の顔をのぞき込もうとする。
「あーっ!零した!」
しかしリュカがいわくありげな悲鳴を発したせいで、彼女は気を取られて振り返る。
「ちょっとぉ!?」
「なんでもない!」
はっきりとしたルディーの声が聞こえる。嘘ばっかり___ソアラがキッチンに向かおうとしたその時___
グッ!
百鬼が突然彼女の腕を取った。
「ん!?」
力任せに引き寄せられたソアラ。バランスを失って百鬼の胸に飛び込んだ彼女の唇に、冷え切った唇がぶつかった。重なるというのは違う、彼女の身体は百鬼に向き直ることもない。背中から抱きしめられるような形で、流れのままに顎を持ち上げられ、上から被さるようにキスをされた。
「___」
雪を被って冷え切ったマントもそのままに、子供たちの騒ぎ声を聞きながら、全く考えもしなかった口づけの時。訳が分からなかったが、ソアラは目を閉じていた。彼が何を思ってこんな行動に出たのか考えるようなゆとりはなかったが、冷え切った体温にもの悲しささえ感じるキスだった。
ガシャン!!
食器が割れた。それに反応するように体を震えさせたソアラ。二人の唇が離れ、彼女は一瞬だけ口元に手を添えて百鬼の腕からスルリと抜け出る。
「向こう行くから___」
「___」
ソアラはまだ少し混乱した顔で、乱れた髪を整えながらキッチンへと駆けていく。
「あっ!何やってんのあんたたち!」
「スープを注ごうと思ったの!」
「そしたらルディーが零した!」
「お皿落としたのはリュカでしょ!」
「はいはい、なすりつけあいはしないの。」
その日の食卓はいつもと雰囲気が違った。子供たちの賑やかな声でソアラも百鬼も笑顔になるが、二人は目を合わせなかった。結局子供たちが眠るまで、二人はろくな会話もないままでいた。
だが妙なことから緊張がほぐれる。
「ねえお風呂。」
近頃子供たちは「もう自分たちだけで入れる!」と言って二人で入浴し、風呂場を滅茶苦茶にして満足げに出てくる。食事を先に取った百鬼は、それから暖炉の前で刀の本を読むことに没頭し、入浴を後回しにしていた。
「まだ入らないならあたし先にはいるけど。」
ソアラは少し怒ったような顔をして、タオルを手にぶっきらぼうに尋ねた。百鬼はパタンとしおりも挟まずに本を閉じる。
「一緒に入ろうぜ。」
「へ?」
ソアラは唖然として、タオルを落としそうになる。
「な。」
百鬼は笑みを見せて立ち上がった。このまるで脇腹をくすぐられるような、恥ずかしいやらなにやら、こちょばゆい空気。
「あははははっ!」
「はっはっはっ!」
そうそう、確か二人が初めて抱き合った夜もこんな感じだった。恥ずかしさがおかしさに変わる、そんな二人だから好きになれたんだ。告白の後に二人で笑い転げたこと、決して忘れることはない。
「どうしちゃったの?今日あなたなんだかおかしい。」
ソアラは百鬼にタオルを放り投げ、柱に掴まって笑いを吸い込む。
「いいじゃねえか、とりあえず風呂!」
百鬼はタオルを肩にかけ、がっしりした腕でソアラの肩に手を回し風呂場へとエスコートしていった。
「ねぇ、本当にどうしちゃったの?今日かなりおかしいよ。」
湯煙の中、タオルで髪をまとめ上げたソアラは浴槽にもたれ掛かって問いかけた。家族で入ることを考えて広く作った陶器の浴槽。泡だらけのぬるま湯の中で、二人はゆとりを持って向かい合っていた。
「おかしいか?」
「おかしいよ。」
泡を指に絡め、ソアラは不思議な空気に微睡む。水音の中で声が響いた。
「でもさ、八年前だったらどうだ?」
「ん?」
八年前。二人が愛情を高ぶらせていった頃のこと。
「おかしかったか?」
「どうだろうね___」
浴槽の端に両腕を広げてどっしりと構え、彼は笑みを見せる。
「あのころの雰囲気をさ、久しぶりに感じてみたくなったんだ。」
「どうして急に?」
ほてった頬にシャボンをつけて、ソアラは首を傾げた。
「おまえが離れていく感じがした。」
その時も彼は笑顔。でも、憂いの差した笑みだった。ソアラはつくづく隠し事の下手な自分を感じる。一番距離の近い人はごまかせない。近いから余計に、少しでも遠ざかると敏感に感じ取ってしまう。
「実は今日なぁ、師匠に追い出されたんだ。」
「えっ___どうして?」
百鬼の鍛冶修行は厳格な師の元で、それでも順調だったはず。ソアラは少し身を乗り出して、百鬼に心配そうな眼差しを向ける。
「集中してないってさ。浮ついた奴は工房に入るなってよ。」
「___」
洗練された精神力を持つ百鬼の集中力はソアラも知るところ。その彼が浮ついていると言われるなんて___しかし今日の彼の行動を思うと、その原因が何であるのか彼女も薄々感づきはじめていた。
「あたしのせい?」
だから、弱々しい声で問いかけた。
「すまねえとは思うが___どうやらそうらしい。」
「噂は私も知ってる。旦那のいない間いつも外出しているなんて、格好のゴシップネタだものね。」
「今日はどこに行ってた?」
「いえない___」
パシャッ!百鬼がお湯を蹴り上げて、ソアラの顔を濡らす。
「なんで。」
「言えないのよ、本当に___あと、そう明後日になればきっと言えるようになるから。だからそれまでは我慢して___」
百鬼は不思議で仕方なかった。彼女は目元についたシャボンを拭っただけで、反撃一つしない。外出を認め、秘密があることまでうち明け、寂しそうに呟く。まるで思い詰めているのは自分ではなくソアラのようだった。
「ごめん。」
「理由が言えないってのがよくわからねえし、なんで明後日になったら言えるんだ?誰かの誕生日って訳でもねえだろ。」
ただそれでも百鬼は納得がいかない様子。寄りかかるのをやめて、ソアラの真正面に湯中であぐらをかいた。
「私はあなたのことが好き。」
「?」
ソアラも百鬼に向き直り、彼の目をじっと見つめていった。
「私はあなたが誰よりも好き。私にとって愛情を抱けるのはあなただけ。でもあなたはどう?」
訴えかけるような眼差しに、百鬼は少しどぎまぎしたが身じろぎ一つしない。
「答えがいるか?」
「フュミレイよりも好き?」
百鬼が顔をしかめる。
「何でいまあいつの名前が出てくるんだよ。」
「___ごめん、そうだね。」
今度はソアラだった。汗が滲むほどに温まった体を百鬼に寄せ、彼の首に腕を回して唇を重ねる。百鬼はすぐ目を閉じて彼女の裸を抱きしめる。タオルがほどけ、紫の髪がシャボンの海へと広がった。
互いの愛を確かめるように、二人は肌を感じ、口づけを続けた。ただソアラの目尻からは涙が伝っていた。湯の滴に紛れて消えてしまった一筋の涙は、彼女の決意を現している。しかし百鬼にはそれを知るよしもなかった。
翌日、百鬼が鍛冶に出向かなかったため、家族四人でそろってピクニックに出かけることにした。季節柄あまり気分爽快な陽気ではなかったが、子供たちはそんなこと気にもとめず、雪原でのソリ遊びに奇声を上げる。
「雪合戦しようか!」
「やる!」
「よし、なら父さんとリュカチーム、母さんとルディーチームで勝負だ!」
「勝負だ!」
昨夜の蟠りが消えたといえば嘘になるが、家族そろっての雪のぶつけ合いが心を解してくれたのは確かだ。ただひとしきり笑いあった後、帰路でのソアラの切なさはひとしおだった。
「___」
雪山羊車に揺られ、すっかり遊び疲れたリュカとルディーはソアラに両側から寄りかかって眠っていた。ソアラは地界のころより背の伸びた二人を代わる代わる見つめ、愛しさを募らせながら髪を撫でる。そして彼女もゆっくりと目を閉じた。
「___」
静かに手綱を取っていた百鬼は肩越しに後ろを振り返り、子供たちを抱く聖母のようにして眠るソアラの目尻が、西日を浴びてキラリと光っているのを見た。
(ソアラ___)
きっと、雪の結晶が残っていたのだろう。百鬼は自分にそう言い聞かせ、手綱を打った。
「お母さんお風呂一緒に入ろう!」
「一緒に入ろう!」
「えぇ?どうしちゃったの今日は。」
「入ってきたらどうだ?俺は後でいいよ。」
湯船に水を張るとドラゴンブレスをたたき込んで適温にするのがソアラのやり方。まだ手足がかじかんでいるうちに、暖かいお風呂ができあがる。このところ二人だけで入ると言って聞かなかったリュカとルディーが、なぜだか今日はソアラを誘った。
「く〜っ!」
雪遊びの後のお風呂は手足にジンジンと染みいって、ついつい声が漏れるほど大人の刺激がある。リュカとルディーは中年を思わせるような渋い声を出し、ソアラをあきれさせた。
「いつもはこんなに大人しくしてないんじゃない?」
ソアラを真ん中に、右にルディー、左にリュカ。いつも風呂場から戦争のような音が聞こえるのに、今日の二人はただソアラの両脇でじっとしていた。
「いつもこうだよ。」
「ねー。」
二人は互いに顔を見合わせて、陽気な声で言う。
「お母さん髪見せて!」
「え?」
突然ルディーがそんなことを言うので、ソアラは驚いて目を丸くした。
「さっき雪合戦してるとき、お母さんの髪がキラキラしててとっても綺麗だったの!」
「そう?でも変な色でしょ?」
ルディーは骨が曲がってしまうのではないかと思うほど、ぶんぶんと首を横に振る。
「あたしこの色大好き!」
「僕も!お母さんの色だもの!」
「あっ!」
リュカは飛び上がるようにして手を伸ばし、ソアラが頭に巻いていたタオルを引っぺがす。淡い紫が水しぶきを浴びてキラキラと光る。
「いーなー、あたしもお母さんみたいな色だったら良かったのに。」
ルディーはシャボンのない透き通った水面に、絹糸のように揺らぐソアラの髪を眺めて言う。
「僕も!」
「リュカは駄目!これはお母さんの色だもの!男の子は駄目!」
「え〜。」
「そう?けっこう似合うかもしれないよ。」
ソアラは長髪を束ね上げてリュカの頭に乗っけてみせる。
「あははっ!」
「あ〜いいなぁ。」
「ほら、ルディーもね。」
まるでソアラの心を和ませるように、二人はそれからも彼女の背中を流したりと一生懸命になって愛しき母を喜ばせようとしていた。子供たちは彼女の笑顔を見ると弾けるようにはしゃぐ。まるでソアラが最近元気がないことを悟っていたかのように。
そして運命の日は訪れた。
その日、決断を迫られていたソアラの心は決まっていた。
まだ夜明け前。百鬼もリュカもルディーもぐっすり眠っているが、念のため催眠呪文エルクローゼを上掛けしておいた。
「覚悟決めていかないと___」
旅装束。アヌビスとの戦いで纏っていたものは所々破れているがまだ使い物になる。しかし邪輝に蝕まれた跡が、そこかしこに変色して残っていた。
アヌビスに関わる話がある___と言われて戦いを覚悟しないわけにはいかない。
だからソアラはもう一度これに袖を通した。
「___」
腰にはナイフを結わえ付け、その煌めく刃を手に取ると、ソアラはおもむろに髪を束ねた。腰丈までに伸びた髪に刃を宛い、肩に掛かる程度の長さに切り落とす。手に残った紫色を紐で束ね、テーブルに置く。側には愛しき家族へ宛てた手紙があった。
「よし。」
やはり気合いが入るのはこれだ。短くなった髪をまとめ上げ、後頭部で束ねる。そうするだけで身の引き締まる思いだった。
用意が整う。
もう行かなくてはならない。
でも___もう一度だけ。
薄い紫色のルージュを塗って___寝室へ。
「ごめん百鬼、黙って消える愚かな私を許して___」
懺悔の言葉しか思い浮かばなかった。しかし愛の証を彼の頬へ。
「リュカ、いつかあなたの手で私を罰して___そして、強い男になって___」
愛息の頬に唇を乗せる。
「ふふっ___」
その時リュカが笑った。夢でも見ているのだろうか?ソアラは体を固くしたが、譫言と知って安堵の息を漏らす。
「ルディー、素敵なレディになって___そしてお父さんを喜ばせてあげて___」
ルディーの頬にも、紫のルージュが残る。
別れの接吻も終わった。名残はあるが、それを振り切っていかなければならない。
「さよなら。また会えることがあっても___あたしは逃げるかも知れない。」
目覚めてくれなくて良かった___もしかしたら誰かに引き留めて貰うことを望んでいたのかも知れないが、いまの決心が揺らいでしまうことのほうが嫌だった。
外へ出ると、東の空が少しだけ明るくなっていた。
「久しぶりに飛ぼう___勘を取り戻しておいた方がいい!」
まるで自らを鼓舞するように、ソアラは己の頬を叩く。そして___
「はっ!」
黄金に輝いた。
「なれるもんだ___二年ぶりだけどね!」
弾けるように空へと舞い上がり、夜明けの流星となって彼女は南へ飛んだ。
バンッ!
朝焼けと共に小鳥たちが活発に動き始めたころ、ミロルグの小屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「トーザス!来たわよ!」
全てに吹っ切れた活き活きとした顔で、ソアラは小屋に飛び込む。
「相変わらず威勢がいいな。」
「やっぱり来たか。」
ミロルグとサザビーは入り口から見えるテーブルでソアラを出迎えた。中身の少ないコーヒーカップが二つ並んでおり、どうやら二人は寝ずの語らいでもしていたようだ。で、問題のトーザスは___
「トーザスはどこ!」
「ベッド。」
ポニーテールを振り乱して寝室に駆け込んだソアラ。トーザスはだらしなく口の周りをよだれまみれにし、毛布をベッドから蹴落として眠っている。さらに寝返りをうちながら、片手で股間を掻き、心地の良い夢でも見てるのかデレデレと笑いはじめた。
「___」
その様を見て、ソアラは固まる。そして___
「こらおまえ!人が悩んでるときに何ダラダラしてんだぁっ!」
絶叫と共にトーザスがたたき起こされたのは言うまでもなかった。
「さ、それじゃ早速行きましょう、天界へ。」
まだ眠そうな目をしているトーザスを着替えさせ、無理矢理外へ引っ張り出したソアラ。一方のトーザスは亜麻色の髪にも、白い翼にも寝癖をつけている。ミロルグは朝日の清々しさを吸い込みながら、二人の好対照を眺めていた。
「ちょっと朝食を取ってからに___」
「朝食なんて向こうで取ればいいでしょ!あたしの気が変わらないうちに早くして!」
冗談とも本気とも取れないトーザスの言葉を一蹴し、ソアラは少しむきになって訴えかけた。トーザスの顔からもようやく眠気が失せてくる。
「ソアラ、その様子だと百鬼に黙って出てきたな。」
サザビーが小屋から出てきて、ソアラに話しかける。彼はロングブーツの紐を結ぶためにしゃがみ込んだ。
「言えるわけないでしょ___」
「まあそれもそうか。」
怪訝そうな彼女に笑顔を見せ、サザビーは靴の感触を確かめながら立ち上がる。
「女一人は寂しいぜ。俺も行くことにした。」
「えっ!?」
ミロルグにでも整えてもらったのだろうか、綺麗に散髪された彼の身なりは旅立ちに相応しいものだった。
「俺を除いてギリギリあと二人くらいは運べそうだったんです。」
と、トーザス。
「俺は話の分かる男だと思うがね。いないよりはましだろ?」
「ましだなんて___でももう帰って来れないかも知れないのよ?」
「俺はその場その場を生きる主義だ。」
サザビーはソアラに近寄ると、彼女に手を差し伸べる。
「___ありがとう、頼りにしてる!」
「改めてよろしくな。」
二人は固く握手を交わした。共に異世界への旅路を歩むべく。
そして___
「光の導き___天の導き___龍の導き___」
トーザスは爽やかな木漏れ日に導きの石を掲げ、なにやら呪文のような言葉を詠唱する。鮮やかな緑色の石は彼の手の中でキラキラと光っていた。
「力になれなくてすまないな。あたしには光の溢れる世界は向かない。」
ミロルグと別れの抱擁をするソアラ。
「ううん、色々ありがとうミロルグ。それに___これからも迷惑をかけるかも知れないし___」
「分かってるよ。気にすることはない。おまえは向こうで頑張ってくればいいんだ。」
「うん。」
ミロルグのエールを胸に刻み込み、ソアラは彼女から離れた。
「ソアラ、そろそろだ!」
「うん!」
トーザスを中心に、大地が丸く輝きはじめた。その光の中に立つサザビーに呼びつけられ、ソアラも円へと飛び込む。そして___
「天の高見へ我らを導け!」
トーザスが叫んだ次の瞬間、三人の姿はまるで幻だったかのように消え失せていた。残っているのは朝日の煌めきだけ。
「___」
ミロルグはその手に闇を灯すと、一陣の風が小屋の周りを吹き抜けた。そうすることで、余韻も、残り香さえも消し去る。
「幸運を。」
ただ一言だけ呟き、彼女は静かになった小屋へと戻っていった。
そのころ___
「嘘だろ___」
百鬼は愕然としていた。
「なんで___」
不意に目覚め、ソアラがいないことに気づき、リビングに紫色の髪と手紙を見つける。
おそるおそる封を開き、そこに記された言葉を目の当たりにすると、彼は身体の震えを止められなくなった。
ソアラは思いの丈を隠さずに記していた。
___天族が私を迎えに来ました。竜神帝が私にアヌビスについて告げたいことがあると言っているそうです。これは想像だけど、アヌビスが生きていたのではないかと思います。多分、もう会うことはできないでしょう。ごめんなさい、勝手ですけど夫婦の関係を断ち切りましょう。そして、私があなたの留守中に探し続けていたフュミレイを見つけ、彼女と幸せを築いてください。私はホープの名をあなたへ返し、竜の使いのソアラ・バイオレットに戻ります。リュカ、ルディー、駄目な母親でごめんなさい。もしまた出会うことがあったなら、そのときはどんな罰でも受けます。さようなら百鬼、リュカ、ルディー。
___
百鬼は混乱した。
冗談かとも思った。
しかし、手紙と共に残された紫色の髪の束を見ては、現実と思うしかなかった。
「うわあああああ!」
でも、膝から崩れ落ちる身体を止めることはできなかった。
現実だと認めることはできなかった。
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