1 内なる敵
バシャバシャ!
冷たい水を掬い上げ、ソアラは少し乱暴に顔にこすりつけた。隣ではキュクィが嘴を揺らして水を含んでいる。キュクィの背に乗せたランプの光に照らされ、沢が黒く輝く。鳥なのに夜も目が利くとは便利なもので、キュクィは光に寄ってきた水棲昆虫を素早く嘴で捕らえた。
「___」
ソアラは水面に橙に照らされた自分の姿を睨み付けた。変わらない。今までのソアラ・バイオレットだ。紫の髪はヘル・ジャッカルにいた頃よりも幾分伸びたが、角が生えているわけでも、牙が見えるわけでもない。
「っ___」
ソアラは忌々しげに水面を叩いた。自分の姿が揺れ動く。
「なに怖がってんのよ___」
ソアラはもう一度水を掻き上げ、顔を洗った。自分自身に怯えていることが情けなく、煩わしかった。
(ソアラ・バイオレットがドラゴン・ソアラを怖がってどうするんだ___)
深刻な面もちを崩すこともできず、ソアラは水面の自分を睨み付けていた。髪から滴り落ちた水が、ソアラの顔に幾重もの波紋を刻んでいく。自分自身に恐怖を抱くなんて間違っている。まるで二つの人格を持っているような、そんな妄想は捨てなければいけない。たとえ竜の使いの力を発揮しようとも、ソアラはソアラだ。
「でも___」
コントロールできない。それがハートウィンの一件でよく分かった。
過ぎた力は正しき道に向けなければ破壊しか生み出さない。そう___フュミレイは魔族に変わってより強大になった魔力にも、決して飲まれることはなく自在に操っていた。だから彼女は最後までフュミレイ・リドンのまま、フェイロウを道連れに死んでいった。
「あたしは___力に負けている。」
どうすればいい?
水面に自問する。ランプの光に集まってきた虫たちの影は、舞い散る雪のよう。ソードルセイドの白い風景が懐かしくなる。
あのころの自分に戻りたい?
まさか、だってあのころは自分の全てが明かされることを望んでいた。
「ああぁ___!」
ソアラは両の拳で水面を殴りつけた。集まっていた魚たちが散り散りになり、キュクィが不満げに顔を上げた。
「___ごめん。」
キュクィがソアラの頭を嘴の先で軽くつついた。ソアラは愛らしい働き者の頬を撫で、微笑んだ。しかし憂いを拭い去ることはできない。それでもキュクィの存在は荒みきっていた彼女の心を少しは癒してくれた。
(そうよ___あたしが竜の使いであることは動かしようのない事実。まだあたしには自分の力を発揮しきれるだけの実力、精神力が足りないってこと。)
ソアラはキュクィの頭絡を引いて、沢から離れた。木々の狭間に見える草原へと向かう。
(足りないものは補えばいい。あたしの力は誰のものでもない、あたしのもの。あたしはこの力を絶対に自分のものにできるんだ、そうじゃなかったらあたしは本当の竜の使いじゃない。)
この力は生まれながらにして持つもの。竜の使いとしての自覚を抱くときが来ているのかもしれない。今まではあまりにも実感がなくて___ベティスの腕を切り落としたのも、未だに自分の所行とは信じられずにいた。
しかしその気持ちは変えなければならない。
「竜の使いとして、自分が持つ力、アヌビスに抗う力を認めなくちゃいけない。これからのあたしはソアラ・バイオレットである以上に、ドラゴン・ソアラでなくてはならない。」
いや___ソアラは独り言の中に誤りを見つけ、自嘲気味に唇を噛んだ。
(ソアラ・バイオレットもドラゴン・ソアラもないか、あたしはあたしでしかないんだ。)
キュクィの背に跨り、ソアラは彼の首筋を労るように擦った。風が吹くと首筋で髪が騒ぐ。鬱陶しさを感じたソアラは、紐で小さく髪を結った。以前のポニーテールまではまだまだ時間がかかるだろうが、少しでも髪を縛ると気合いが注魂されたような引き締まった気持ちになった。
(少し遠回りでもいい。皆と会うまでには竜の使いでいられるようになりたい。)
ソアラはキュクィの横腹に合図を送り、キュクィは一つ嘶くと勢いよく走り出した。目標はない。とにかく自分を高めながらジネラ大陸を目指すこと。それだけだ。
「アヌビス様。」
呼びつけもしないのに、アヌビスの元へとライディアがやってきた。
「どうした?」
アヌビスはいつも楽しそうな顔をしているライディアが、今日に限って酷く悩んでいるような、不可解な表情でいることを気にかけた。玉座まで続く絨毯を見つめながら、彼女はアヌビスの側までやってきた。
「ソアラ___本当に死んだと思います?」
ライディアは玉座の肘掛けに両手を置き、アヌビスの顔を覗き見るようにして尋ねる。
「なぜだ?」
アヌビスは真顔で問い返した。
「瞑想をしていたんです。」
ライディアは姿勢を正し、天井の闇を見上げる。
「静かに___いろんな気配を感じていました。そうしたら遠方でとてつもない力がいきなり現れて、消えました。」
「それがソアラだというのか?」
アヌビスはライディアの澄んだ瞳を見つめた。
「似てました。それに___あんな凄まじい力、他に考えられない。」
ライディアの素晴らしさはこの感覚の鋭さにある。そうとも、彼女はいち早くソアラの資質を見抜いた。
「おまえが言うなら信用できるな。」
だからアヌビスも彼女の感を疑わなかった。
「ブレンだってソアラが倒したんじゃないんですか?ソアラの他に倒せる奴がいるなんて思えない。」
「おまえは最初、もう二人気になる奴がいるといったよな。」
それは棕櫚とバルバロッサ。
「そんな___」
ブレンが倒された事実は八柱神たちに小さな動揺を与えていた。もちろん、ジャルコやグルーのように全く気にもとめない連中もいるが。
「じつれいいたしまつ!」
突然、しまりのない声が響き渡った。アヌビスは思わず玉座からずり落ちそうになり、緊張感を粉砕されたライディアは顔をしかめて後ろを振り返った。
「マジャーノやってきちゃいました!」
現れたのは人型ではあるものの、顔はネズミのように鼻先が尖り、立派な前歯が覗いた男。魔族でないのは明らかだが、モンスターというほど化け物じみてもいない。
名前はマジャーノ。舌足らずの一応はモンスターである。
「おう、よく来た。」
アヌビスはライディアに目配せをし、彼女はアヌビスの横へと移動した。マジャーノは意気揚々と弾むような足取りで前へと進み出る。
「八柱神にしてくれてありがとごぜいまづ!」
「はぁっ!?」
マジャーノの爆弾発言にライディアが素っ頓狂な声を上げた。
「は、八柱神!?何であんたみたいのが!」
ライディアだってここまでの道のりが平坦だったわけではない。マジャーノのどこに八柱神の器があるというのだろう。彼女は驚きと僅かな怒りを以て問いただした。
「アヌビス様直々のご命令だじ!これがらよろじく!」
「おいマジャーノ、おまえは候補だ。八柱神候補。」
調子づいてカラカラ笑っているマジャーノを諫めるように、アヌビスが言った。
「あ、候補でずか?まあ似たようなもん。」
「違う違う。」
アヌビスとライディアはあきれ顔で手を横に振った。
「まあがっりするなよマジャーノ。」
「ノンノン、マジャーノは常にポジティブ。」
ポジティブというか、脳天気というか、些細なことなど気にもとめないのがこの男。実はこのマジャーノ、先達ての戦劇で五人勝ち抜けを達成したのだ。実力は間違いなくレストルップ以下だが、怪我も怪我と思わない前向き戦法で勝ちを重ねたのである。つまり彼は別段アヌビスが気まぐれで八柱神候補に仕立て上げたわけではないのだ。
「んで、なんなのよ、それだけなの?あたしはアヌビス様と話があるんだからさっさと済ませてよね。」
「いや、俺が呼んだんだ。」
ライディアは煙たそうな顔をする。
「マジャーノ、早速おまえに任務を与えたい。」
「ふぁい!」
威勢良く手を挙げるマジャーノ。
「西の冥海域を知ってるか?」
「しらねいでず。」
八柱神になるにはそれなりの見識だって必要だろうに。ライディアは苦笑いしているアヌビスの隣で頭を抱えていた。
「ここより遙か西方に海図に乗らない場所がある。そこに偵察に向かわせた奴らはことごとく帰ってこない。おまえはそこに何があるのか、その目で見て俺に伝えろ。」
「ぶぁい!」
「よーし行って来い!」
犬の顔をしているのはアヌビスの方だが、彼はマジャーノを手慣れた飼い犬のように送り出した。マジャーノは背中に黒い翼を広げると、低空を滑るようにしてアヌビスの前から去っていった。
「何でマジャーノなんです?冥海域を調べるならあたしがいっても___」
「ディック・ゼルセーナの死に場所におまえが行けるか?」
「!」
ライディアが硬直した。
「あのディック・ゼルセーナが___ということは冥海域には竜神帝の___」
一言で事態が飲み込める。この反応の鋭さがライディアとの会話を楽しくする。
「忌々しい城を沈めたディック・ゼルセーナは偉大な男だ。だが奴は生来の一匹狼、俺に媚びることもなく、秘密を絶海の地に持ち逃げし、そして死んだ。」
「それが冥海域___!?」
ライディアは息を飲む。アヌビスの笑みが邪悪に彩られると、それはライディアでさえゾッとするような出来事の前触れになる。
「ソアラが生きているというならもう少し遊んでみるが___竜神帝につながる何かがあの土地にあることは間違いない。ソアラがあの土地に辿り着くことがもしもあったなら、そのときはおまえが行け。」
竜神帝の神髄に関わる事柄にはライディア。それがアヌビスの約束事であった。
「無論です。」
そしてライディアも常にその覚悟を抱き続けている。
「マジャーノが帰ってくることはないだろうが、あいつは律儀だ。成果は出す。」
「なるほど___相変わらず、優しいのは顔だけですね。」
ライディアはアヌビスの頬に口づけをし、踵を返した。
「瞑想か?」
しなやかな背中に問いかけるが、ライディアは振り向きも、立ち止まることさえしない。
「ソアラを感じてみます。」
澄んだ声色の余韻だけが謁見の間に残る。アヌビスは耳に絡みついていた薄紅の髪の毛を摘み、それを眺めて笑みを浮かべた。
「さすがによく働くよ。」
髪の毛は闇の炎にまみれて消えた。
「______」
丈の短い草原に静かなオアシスがあった。ソアラは股のあたりまで浸るほどのオアシスに直立し、目を閉じていた。草をはむことに飽きたキュクィは、畔の枯れ木の下で小さな翼に嘴を押し込んで眠っている。
「______」
オアシスには風とともに細波が立つ。しかしソアラの周囲だけは波とは無縁だった。彼女の体を包む静寂なる気配が、泉の動きさえもかき消していた。そして___
キッ!
ソアラは目を見開いた。暗闇のオアシスに閃光が走る。彼女の体から走った圧力が水面を一律にし、その身が白い輝きに包まれると今度は湾曲するような波が全周囲に迸った。
「___」
体を包む白い輝き。ソアラは締まった目つきで手を見る。己の輝きで水面にはくっきりと彼女の姿が映っている。
「駄目だ。」
ソアラはため息をつき、体を覆う波動を霧散させた。
(見た目は竜の力に似ているけど___これは魔力だ___)
ノウハウがあるわけではない。もしあったとしても、それは竜の使いであるソアラの潜在の奥底に眠っているはずだ。だが、彼女は己の意志だけで竜の使いの力を発揮することができずにいた。
「意識を集中して、静寂を作り出し、そこから一気に自分の中の何かを爆発させる___そんな感じだと思うけど___」
ベティスの時も、ファボットの時も、全く無力の状態からの覚醒だった。方法は前例からの推測。オアシスの中を選んだのは己の心の静寂を計るためだった。
爆発力はあった。解き放たれた「無色の魔力」は自分でも驚くほどに力を滾らせ、何より安定していた。しかし求めていたのは魔力ではない。
「クェッ!」
畔にいたキュクィが体を揺すって水を弾き飛ばし、怒ったように嘶いた。
「あ、ごめん、水かぶっちゃったのね。」
ソアラは笑顔でキュクィの元へと水を掻き分けた。
(誰かが死ななきゃ発揮できない力なんてなんの意味もない。)
陸に上がったソアラは濡れた足を布で拭く。キュクィの側に置いてあった靴が水浸しになっていて、重いため息が出た。
それから彼女はキュクィの柔らかな羽毛に身を委ね、眠ることにした。夢の中で誰かが道標を諭してくれないかと、淡い期待を抱きながら。
「はぁぁぁぁっ!」
力の解放とともにソアラの周囲で草が大きくなびいた。キュクィもいきなり吹き付けてきた突風に顔をしかめている。
「ああああ!」
ソアラは両の足で大地をしっかりと踏みしめ、とにかく全身の筋肉を緊張させて力を込める。背中から何かが噴き出しそうな高揚感。
「ああぁぁっ!」
しかしそこまで。高ぶった気迫は彼女に秘められた力を風に変えた。魔力とは違う、生命力の波動を表に現すことはできたが、竜の力とは別物だ。
「はぁっはぁっ___」
ソアラは身を屈めて両膝に手をつき、荒い息をついた。風は止み、額からは汗が滴る。強くはなっている。中庸界にいた頃とは別人のように、ヘル・ジャッカルという厳しい環境の中で、アヌビスの手の中で特訓を積んで、人の領域は凌駕した。ただ、まだ竜の領域には届いていないのだろう。
「怒りで力を呼び起こせるのは分かっていること。でもあたしの理性が許す範囲ではできない___それじゃあ意味がない。」
前屈みになったソアラの胸元から、首飾りが零れ出た。ソアラは一つ目を閉じて、形見の品を握る。
「フュミレイ___あたしにはもうどうすればいいのか分からない___」
嘆きにも似た呟きだった。
「あなたはいつだって冷静だったね___そう、氷の籠手と鉄の意志だっけ?」
独り言のつもりだった。だがそれがソアラをハッとさせる。
「氷の籠手と鉄の意志___」
リドン家に生まれたフュミレイが、父より言いつけられた教え。冷酷な判断を、裁きを、厳格なる姿勢を以て下すことを諭した言葉。だが見方を変えれば___
「強い精神力で、自らを常に冷静に保つこと___」
冷静でありながら力を高めること。至難の業かも知れないが、それが活路のように思える。オアシスの水を鏡に変える明鏡止水の静けさと、草木を奮い立たせ天を突くほどの力強さの同居。
「静かな精神の中で、あたしの中に眠る竜を見つける必要がある。そうしたらその竜を、渾身の力であたしの外へ引きずり出すんだ!」
理屈は分かってきた。あとは___実践あるのみ。
「はぁ___くっ、はぁ___」
まだ荒ぶる息を沈めるため、ソアラは直立した。
「っあ___っ___」
鼓動の脈打ちが体に響き渡る。
「だ___め___っだめ___」
呼吸が調わない。ソアラは吐き捨てるように呟いて、何度も大きく深呼吸する。それでもまだ息が元に戻らない。そればかりか苦しさを感じて少しだけ咳き込んだ。
「ふ___」
ソアラは引きつった薄笑いを浮かべ、胸元に手を宛った。考えもしなかったが___自分の体のことはある程度分かっている。
違う、考えたくなかっただけか___だがあれから五年、いやもう六年がたっている。いつか限界が来ることはフローラにも言われていた。
「もう、やめないと駄目だ___」
体が強大すぎる力を拒否している。現実味のある話だった。壊れてしまうことを感じ取った本能は、自然とソアラの力に蓋をしている。竜の使いになることが命を縮めることになるのなら、それを妨げるのも生命力の成せる業だった。
「今更___」
まだ激しい痛みはない。だがこうも息が上がるのはどうやらしばらく動けなかったからではないようだ。現に呼吸は調わず、胸には断続的な刺激が走っていた。
「キュクィ!行くよ!」
ソアラは足早にキュクィに駆け寄った。
次に発病しても三度目の手術はない___
重くのしかかるフローラの言葉。しかしショックを感じるというよりは、むしろさばさばした、吹っ切れた顔で、ソアラはキュクィに跨った。
(元々あたしは竜の使いの器じゃないのよ。体に欠陥があるから、力を発揮すれば命を失う___)
何もこんなところで命を燃やすことはないんだ。命を賭けて戦わなければならないときまで、竜の力は隠せばいい。それよりも___
みんなにアヌビスのことを伝えなければならない。
「南へ!」
手綱が鳴る。いつもよりも派手に、力を込めて。
草原を駆けるキュクィは時折首を傾げていた。それはたまにソアラが手綱を引いたような気にさせるからだった。彼女は手元に手綱を巻き付け、口惜しさをかみ殺すように強く握っていた。うっすらと双眼には涙をため、何度も唇を噛んだ。
多くの犠牲でここまで生きてきたというのに、肺病に犯され、長くない自らの命。
胸の痛みと抑えられない咳は彼女にとっての「死の宣告」。いずれ鮮やかな血が口から飛び出るようになり、少しでも激しく動くと眩暈がするようになるだろう。
「ただで死ぬもんか___そんな情けない終わり方だけはしない!」
決死の思いだった。頑なに、ソアラは自らができることをしようと心に決めた。
(あいつも___こんな気持ちだったのかな。)
己に突きつけた氷の籠手と鉄の意志。今ならあのころのフュミレイの気持ちが分かる気がした。
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