3 暴走する

 イェンとソアラの仕事はこれで終わりではなかった。自分たちが生活する上で必要なお金を手元に残し、大半の金貨をスラムに撒いて歩くのだ。人々の歓喜の声が聞こえる。これをカジノに費やしてしまう人も中にはいるのかもしれないが、それでも黒蝶仮面はスラムのアイドルだった。
 ひと眠りして___
 「いらっしゃいませ。」
 紫色の髪に戻ったソアラは、淑やかな白いドレスに身を包み、街の中で最も華やかな空間へ足を踏み入れていた。
 「お、お嬢さん、もしよろしければ私と楽しみませんか?」
 特に何をするでもなくカジノをうろついていたソアラに、腹の飛び出た中年男が寄ってきた。美しい紫色の髪、久しぶりに少しだけ化粧をした顔、ドレスは胸元にゆとりがあり、スリットからは最高級の脚線美が覗く。彼女が成金たちの注目を集めるのは極当然のことだった。
 もちろん、その際立った姿は下を見るファボットの目にも映っていた。
 「失礼いたします。」
 「な、何だ、私が先だぞっ!」
 ソアラと太った男の間に、カジノのボーイが割って入ってきた。
 「オーナーのファボット・ハートウィン様がお呼びでございます。リケロ様、お引き取りを願えますか?」
 「ぐ___うむむ___」
 太った男は肩を竦ませ、後ずさりして未練がましくその場を離れた。どうやらここでは客を立てるという常識はないらしい。
 「よろしいかしら?」
 「どうぞこちらへ。」
 従業員は一度だけソアラの手を取り、礼をした。
 ファボットのいるビップルームは煌びやかな場所だった。床には血のような真紅の絨毯、壁は黄金に彩られ、全ての家具が最高級品。白いスーツを身に纏ったファボット本人が最もシンプルに見えるのだから不思議だった。
 「ようこそレディ。」
 鼻につく台詞にも、ソアラは貞淑な微笑みのままファボットに近づいた。
 「あなたのような方にお出でいただけるだけで、全てはより一層華やぎ、艶を増す。オーナーとして礼を言わせていただきますよ。」
 「ありがとう。」
 ファボットはソアラの手を取って口づけする。ソアラは導かれるままにソファへと腰を下ろした。ファボットと向かい合うような形になる。
 「何か?」
 「アルコールでなければ___」
 「___レディが酒を嗜まない?」
 ソアラは何も答えず、ファボットから目を逸らした。
 「これは失礼。おい___」
 ファボットは従業員に手で合図を送り、彼は畏まってその場を離れた。
 「___」
 僅かな沈黙。ファボットは目を細めてソアラの髪を、顔を、肢体を眺めた。ソアラもそれを承知の上で、際どいスリットを見せつけるように、足を組んだ。
 「いや失礼___あまりの美しさに言葉を失ってしまった。」
 「___」
 ソアラは微笑んで髪を掻き上げた。
 彼女がファボット・ハートウィンに近づこうと考えたのは全くの独断である。この男に興味があったというのは勿論、彼が黒蝶仮面をどう思っているのか、イェン・スィニィを知っているのか問うてみたいという思惑があった。
 昨日の寝床はイェンに借りたが、彼女のアパートに居座るつもりはない。旅費が手に入ったのだから構わずに先に進めばいいという気持ちもある。しかし乗りかかった船。このままイェンを一人残して立ち去るのは収まりがつかないところだ。
 「美しい___」
 「ふふ___」
 ハートウィンばかりが金をかき集め、荒んでいく町を見ていられないという思いもあろう。しかし、イェンがハートウィンの金庫を暴こうとするのには、もっと別の理由があると感じた。例えばこのファボット___
 「私は金を求めて群がる愚民どもを、ここから眺め続けていた。しかしあなたのような美女は初めてだ___」
 「私もついさっきまではその愚民だったのよ?」
 ソアラは人差し指を立てて口元を這わせ、艶っぽく言った。
 「いや、私は愚民をここには招かない。あなたの神々しいまでの美しさは、愚民の海を脱してもなお際だっている。」
 「お上手ね___」
 「この程度の言葉で足りるものではない___」
 ソアラは王妃だった頃を思い出し、艶と気品が同居した笑みを浮かべる。だが腹の底では___
 (あ〜気障ったらしい。虫酸が走るわ。)
 もともと気障な男は好きではないのがソアラ。それも金に飽かして支配を楽しむとあってはますます気に入らない。
 「お名前___伺えますか?」
 「___ソアラ。」
 隠す必要はない。そのときボーイが飲み物をトレイに乗せてやってくる。ソアラがそれを受け取ったとき、ファボットは目元をきつくした。
 「このハートウィンにはいつお出でで?」
 「なぜそうお思い?」
 ファボットは口元を歪めた。
 「あなたほどの方がいれば___すぐに私の元にその旨が知らされる。」
 「へぇ___」
 好色家なのか___それとも他の理由があるのか___
 「なぜだろう、あなたは素晴らしい家柄の気品を感じさせるのに、この街の気高き家柄はもはやハートウィンただ一つ。ドレスを身に纏ってはいるが、従僕は連れていない。そのような艶やかな髪を持ちながら、爪は短く、どこか無骨だ___」
 鋭い観察力だが、保身に固執する男にはよくあること。グラスを取ったときに爪を見破られたようだ。
 「その答えは必要かしら___」
 ソアラは飲み物を口にするつもりはなかった。彼のような男はすべてを思い通りにするために労を惜しまない。
 「私には敵も多い___例えば旧き町より抹殺された家系の者___彼らは積年の思いを抱き続けている。復讐を狙う生き物の多くは女で、そして美しい。」
 ファボットはソアラから目を逸らさない。怪しげな目つきはそれなりの恐怖を抱かせる。
 「私から何を奪いたい___?」
 ソアラは嘲笑とともにグラスを逆さにした。赤い絨毯に、染みが広がっていく。
 「その問い、そのままお返しするわ。」
 「顔、体、君の持てるすべての美貌。そして君が生む金。」
 「そのためには薬も使うの?」
 確証はないが、女の用心で済むことだった。
 「そうだな、使うよ。」
 イェンの言ったことは本当だ。この男は容赦なく我欲を貫き通し、悪びれる様子一つ見せない。
 「世界中のすべての美女と寝たい。それは男の欲望だ。」
 ファボットはソファの肘掛けに象られた馬面の突起を掴むと、一気に引っ張り上げた。突起からは四段に伸縮する極細の剣が飛び出した。剣は丸い芯棒で、先端だけに切れ味を持つ。レイピアに似た先鋭な切っ先を、ファボットはごく自然の振る舞いのごとくソアラに向けた。だがソアラは動くどころか、鼻腔を広げることすらない。ファボットは彼女の度胸に目を輝かせた。
 「拒むのなら、君を傷つけるかもしれない。」
 「怖いのね。」
 ソアラの余裕は変わらない。ファボットはソファに浅く座ったまま、ソアラの首筋に剣の切っ先を軽く当てた。欲情の籠もった微かな痛みがあり、小さな血の玉となる。
 「君の正体が聞きたい。君が僕への復讐を考えている女なら、僕はより一層君を抱いてみたくなる。そういう性癖なんだよ___」
 ファボットはレイピアをソアラの胸の狭間まで滑らせた。
 「イェン・スィニィをご存じ?」
 不適な笑みのまま、ソアラは尋ねた。
 「私の友人よ。あなたを憎んでいる___彼女が何者か知りたいの。」
 逡巡だろうか?答えには時間が掛かったが、沈黙の間、ファボットは表情を変えなかった。レイピアの切っ先がソアラの胸に食い込むこともなかった。
 「聞かない名だな。」
 「そう。」
 ソアラはレイピアの芯棒を掴むと、ファボットの力などまるで意に介さないように軽く退け、立ち上がった。
 「ありがとう、なら用はないわ。」
 パンッ!
 ソアラが手にしていた空っぽのグラスが弾けるように砕け散った。彼女は背を向け、ファボットの眼差しを感じながらビップルームを後にした。
 「黒蝶仮面だったか___金庫をぶちこわした女は。」
 ソアラの残り香を嗜みながら、ファボットは呟いた。だが彼女の面影を思い浮かべているうちに、ある言葉に気を取られた。
 「スィニィだと?」
 ファボットは真顔で呟いていた。

 カジノ・マングネルを出たソアラから先程までの気品、艶っぽさが消えた。彼女は早足で街を闊歩し、煩わしそうにに首筋から胸までを何度も擦った。やがてカジノ近くの貸衣装屋に入ったソアラは、一般的な布装束になって出てきた。
 「それにしても不愉快な奴___!」
 ソアラはファボットの露骨な成金道楽に反吐が出る思いだった。
 「どしたの?カリカリして。」
 「え!?」
 背後から印象的な高音が投げかけられ、ソアラは振り返った。しかしそこにいたのは見慣れない眼鏡と帽子の少女だった。
 「___あっ。」
 だが彼女の体格、耳に残る声色でソアラはすぐにその正体が分かった。
 「イェン。」
 「探したのよ。繁華街に来てるのかと思ってさ。明日、ファボットは仕事で大屋敷に戻るらしいから、隙をついて金庫の中身を頂くよ。」
 姿を変えても仕草までは変わらない。とびきりの笑顔と同時に、三つ編みの一つが帽子から零れ出る。抱えた紙袋の中身は食料品で一杯だった。
 「ファボットの仕事って何___?」
 「ああ、まだ言ってなかったか。まあそれはここで話すのも___ね。」
 イェンは声を潜めながら、ソアラの腰を押す。ソアラもその場に居合わせた柄の悪い連中が、こちらを見ていることに気が付いていた。
 「ファボットが___というよりハートウィン家があれだけの財を手に入れた最大の要因は奴隷商売さ。」
 イェンのアパート。椅子に腰を下ろしたソアラにイェンは果物を放り投げた。
 「この世界には国がないから、一つ一つの街が一つ一つのルールを持っている。ハートウィンでも奴隷は合法じゃない。でもそれはファボットが最高の金蔓を独り占めにしたいからに過ぎないのさ。」
 「買い手がいるのね。」
 ソアラは瑞々しい林檎を囓った。
 「金でなんでも買えると思っている奴らは探せばどこにでもいるよ。空が真っ黒になってからは余計にね。お天道様がないと心なんて荒んでいくもんだろ?」
 イェンは食べかけの林檎を片手に天井を見上げた。
 「せめてこのハートウィンだけはお天道様を取り戻させたい。カジノの輝きは太陽じゃないって気付かせたい___」
 イェンの瞳には決意の滲む強さと、寂しさに駆られる弱さが同居している。
 「イェン___あなたもしかして___」
 話し出そうとしたソアラの口元に干しぶどうが飛んできた。
 「あたしのことはいいのよ。それでファボットの奴隷だけど___」
 イェンは自らのことを、過去を、正体を明かそうとはしない。だからこれは推測でしかないが、彼女の悲壮は仇討ちを思うもののそれとよく似ている。だが彼女の場合はもっと冷静で、ファボットの命ではなく、彼の地位と栄光を奪い去ることを目的としている。
 彼女は両親を失ったのだろう___
 ファボットの身辺にやけに詳しいこと___
 生き抜く術と精神を知っていること___
 (彼女はこの街の良家の娘___幼い時分にハートウィンの策略に落ちて両親を失い、奴隷として売られ、復讐を胸に戻ってきた___)
 のではないだろうか?
 「奴隷たちは全員、東の大屋敷に詰め込まれている。そこで月に一度『セリ』が行われるのさ。今日はその日ってわけ。」
 「なるほど___」
 もちろんそれはソアラの憶測に過ぎない。ただ___もしイェンとファボットが対峙したら___彼女はきっと感情を抑えることができないはず。そしてファボットも顔を見れば気が付くはずだ___彼女が誰であるのか。
 イェン・スィニィなんて名前はきっと偽名だろう。そして彼女は決してファボットに遠い人物ではない。
 だから仮面を付けている。
 仮面はイェンの顔を隠すためにあり、過去を隠すためにあり、彼女の荒ぶる感情を抑えるためにある。

 ファボットに接触した影響がどう出るのか?仮面を付け、髪を黒く染めたソアラは、五色に輝くカジノ・マングネルを見下ろしていた。
 「さあ、行くよ二号!」
 イェンはソアラの腕にしがみつき、声高に言った。
 「ええ。」
 ファボットは三度も見逃すような男ではない。ソアラは真顔で魔力を解き放つと、その身体が宙に浮かび上がった。
 すべてはこれまでと変わらない。ソアラが破壊した壁も、俄作りとはいえ煉瓦と木板でしっかりと塞がれていた。見張りもおらず、無警戒のままだった。入り口の鍵を解き、罠を避けながら金庫内を進む。今日の目標はすでに決まっていた。最奥の部屋、もっとも金が蓄えられているであろう場所だ。
 「ここは扉が五重になっているのよ。」
 部屋の入り口の扉は五枚重ねになっていて、明けても明けてもまた扉という不思議な光景。すべての扉が開かれると、他の部屋とは少し違う、土色の壁がむき出しの殺風景な景色が現れた。
 「これは嘘っこなのさ。」
 正面には金庫を装った巨大な金属の扉がある。だがイェンは扉を足蹴にしてナイフを取り出すと、そのまま四つん這いになって床の土色に突き立てた。ナイフを引けば、土のように見えた床が大きく避けていく。
 「絨毯___」
 「そう、土の床を装った絨毯さ。そして金庫はこの下にある!」
 イェンは切り裂いた絨毯を引っぺがした。現れた鉄の蓋。彼女はすぐさま扉に付随したダイヤルに近づき、ソアラもしゃがみ込んでその様子を見守る。
 「さて。」
 イェンは躊躇わずにダイヤルに触れる。だがそこにファボットの工作があった。
 「!?」
 天井に顔を覗かせていた筒から凄まじい勢いで白い煙が吹き出した。驚きのままに顔を上げたイェンとソアラはまともに煙を吸い込んでしまう。その瞬間から意識が朦朧とし、足下から感覚が消えていく。催眠性のガスだ。
 「そんな___こんな罠___なかった___」
 「く___」
 必死に気を保とうとするがままならない。二人はそのまま膝から崩れ落ちた。

 「___」
 気がついたときには、体を包むような柔らかいソファの上にいた。絢爛なシャンデリアと、ワインレッドの天井は目に毒だ。そう___昔から好きな趣味じゃなかった。
 「!」
 ここは!?
 自分の居場所を感覚が悟ったとき、イェンは飛び起きた。内股がやけに涼しい。それもそのはず、普段はあまりはかないスカート、それもワンピースのドレス姿だった。
 (もしかして___)
 広々とした部屋には黄色の絨毯が敷かれ、壁には趣味ではないが高級そうな絵画が掛けられている。イェンはその中で壁掛けの大鏡を見つけると、首を伸ばして自分の姿を確認した。手は髪に置かれていた。
 「やはり髪が気になるか?」
 「!?」
 鏡に映った扉が開く。その男の像を目の当たりにしたとき、イェンは言葉を失った。だがそれは絶句とは違う。怒りであり、憎しみであり___この男に踏みにじられたことに対する復讐の思い。言葉にできない思いが重なり合ったからだ。
 「その三つ編み、解かせてもらおうか___」
 鏡越しに見えるイェンの顔つきを嘲笑うように、ファボットは言った。イェンは振り向かない。近づいてくるファボットを鏡で睨み付けていた。
 「触るな!」
 ファボットがイェンの髪に手を触れようとしたそのとき、彼女は叫んだ。
 「薄汚れた手で触るな___自分でやる。」
 イェンは鏡のファボットを睨み付けたまま、一つ一つ三つ編みを解き始めた。強く波打つ髪が広がっていく。
 「掻き上げろ。」
 イェンは小さく唇を噛みしめ、首筋に手を回すと、まだ纏まっている黒髪を掻き上げた。はらはらとほぐされた髪。黒の中に隠された色合いはファボットを喜ばせた。
 「お帰りアデリン。」
 べたつくような、なんて嫌な声だ___こいつは___こいつは前も同じ声色で言った。
 さよならアデリン___と!
 「おまえの黒髪の中に隠れた黄金の頭髪、それだけは覆しようがないな。」
 ファボットの指がイェンの髪の狭間に入り込んできた。黒髪を掻き分け、指はイェンの隠された金髪に触れた。今でこそ、三つ編みの内側に隠せるほどに黒く変わった。でも昔はファボットと同じ。すべて金髪だった。
 「しかしスィニィとは笑わせる。」
 含み笑いで吐き捨てたファボットの言葉。イェンはせめて冷静でいるために鏡を睨み付けていた。だがその言葉は彼女の感情を逆撫でする。
 「ああああっ___!」
 イェンは突如として振り返り、ソファを蹴った。牙を剥く野獣のような形相でファボットに飛びかかった。だが彼の前には素早く屈強な男が立ちはだかり、イェンの体を宙で抱き留めた。
 「放せ!こいつを!あたしはこいつを殺すんだ!」
 イェンは必死に逃れようと男に爪を食い込ませるが、男は彼女の腕を掴むと無理矢理ねじ曲げ、力が弱まった隙に体を入れ替えると背後から羽交い締めにした。
 「ファボット!ぶっ殺してやるんだ!絶対!絶対に!」
 イェンは足をばたつかせ、顔を真っ赤して怒鳴り散らした。
 「親父は悪人だけど感情のある奴だった!母さんは優しくってあたしの憧れだった!おまえは二人を葬り去った!あたしは絶対に___!」
 パンッ!
 乾いた音。ファボットが彼女の頬を張った音。
 「口が過ぎるぞ___実の兄にむかって。」
 イェンにとってそれ以上の屈辱的な言葉はなかった。

 「う___」
 冷水がソアラを目覚めさせる。うっすらと目を開けたところにもう一度、頭から水をかぶせられ、ソアラは冷たさに震え上がった。そこで体が鎖で雁字搦めにされていることに気づく。足は床に届くか届かないかのところで、宙吊りの状態になっていた。周りは石の色がむき出しの壁。見るからに牢獄か拷問部屋だ。
 「お目覚めか?ソアラ。」
 「ファボット___」
 頬を黒ずんだ水が滴っていく。染料は洗い流され、露出した紫色の髪が肌にまとわりついた。
 「!?」
 ソアラはファボットの隣に立つドレスの娘に目を奪われた。格好も、髪型も、化粧までしているが、あの野性味ある眼差しは___
 「イェン!?」
 「ごめん___こんなことになって___」
 イェンは口惜しさに歯を食いしばった。頬が少しだけ腫れている。
 「彼女はイェンではない。アデリンだ、アデリン・ハートウィン。」
 ファボットはイェンの肩に手を回し、抱き寄せる。
 「ハートウィンって___」
 「僕の妹だよ。」
 どおりでハートウィン一家に詳しいわけだ___ソアラは驚きを隠せなかった。
 「健気な子さ。たちの悪い輩に引き取られたはずが、兄を愛おしく思うあまり戻ってきた___」 
 ファボットはイェンの髪を掻き上げ、彼女の黒髪の内に隠された金髪を、ソアラに見せつける。そればかりか露わになった首筋に舌を這わせ、唇を吸い付かせた。イェンは今にも泣き出しそうな顔をして必死に耐えている。
 「イェン___!」
 ソアラは鎖を断ち切ろうと力を込めるがどうもおかしい。どんなに力もうと鎖はびくともせず、身じろぎするのも一苦労だ。そういえば呂律もうまく回らない。
 「予備工作は打ってあるよソアラ___君の馬鹿力は重々承知の上だ。だから僕は科学的な対処をした。」
 ソアラはファボットを睨み付ける。
 「筋肉の一切を弛緩させる薬さ。それを大量に打ち込んだ。緩みすぎて汚いものを漏らすなよ。」
 「いやっ!」
 イェンの顎に手をかけ、強引な接吻をかわそうとしたファボットだが、溜まりかねたイェンはファボットの胸を強く突いた。
 「ぎっ!?」
 二人の距離が離れた途端、傍観していた大男がイェンの頭を鷲づかみにした。
 「うっかぁぁぁっ!」
 頭を酷く締め付けられながら、イェンは軽々と引き上げられる。地に着かない足がバタバタと悶えた。ファボットは苦しみ喘ぐイェンを見て笑っていた。そのとき!
 ボッ!
 一瞬の轟きとともにソアラの体が爆発した。無色の魔力の爆発力は彼女を包む鎖を砕き、ほころばせた。
 「___」
 それでもファボットは余裕ある冷徹な視線を彼女に送るだけ。
 「く___」
 鎖からは逃れられたソアラだったが、足腰が立たずにその場にへたり込んでしまう。両腕さえ上がってくれない。上半身が前のめりになるのを防ぐこともできなかった。
 「そうなってはどうにもならないな。」
 「ソアラァ!うぐっ!?いぁぁっ!」
 イェンの頭がまた強く締め付けられる。
 「ククク、愉快なものだ。」
 ファボットは余裕の表情。しかし___!
 ブォン!
 「!?」
 彼の鼻先を白熱の球体が掠め、壁に炸裂してはじけ飛んだ。
 「くっ!?」
 飛ばされた壁の欠片に顔を歪めたファボットは、すぐに別の輝きを感じてソアラを振り返った。
 「気配があれば___仕留められる___」
 ソアラは床に顔を伏したまま、だらしなく投げ出された手に白い輝きを灯していた。彼女の体から染み出す殺気は恐怖に値するだけのものだった。
 「イェンを放せ___」
 一言で十分。ファボットは大男を一瞥し、解き放たれたイェンは崩れるように跪いた。残存する頭痛に顔をしかめながら、彼女はすぐにソアラに駆け寄った。
 「ソアラしっかり___」
 イェンはソアラを抱き起こし、肩に凭れさせて立ち上がった。機を見て捕らえようと大男が動くが、ソアラの鋭敏な感覚は逃さない。白い輝きは大男の胸にぶち当たり、その体を背後の壁に激突させる。ファボットはソアラの破壊力に気圧され、硬直した。
 「絶対___思い知らせてやるから___!」
 イェンはファボットの横を通り過ぎるときにそう吐き捨て、ソアラを引きずりながら部屋を出た。その間、ソアラは感覚だけを鋭敏に研ぎ澄まし、いつでも呪文を放てる用意を調えていた。

 「あたしの親父はマングネル・ハートウィン。母親はフラン・ハートウィン。母は昔はフラン・スィニィだった。」
 ハートウィンの屋敷を抜け出すべく、小柄なイェンは必死に歩いた。そのさなか、彼女は問われるまでもなく語り出した。
 「親父は悪人だったけど自分にも他人にも厳しい男だった。人を騙して恨まれることもあったけど、認める人も多かった。だからハートウィンはこれだけの財を手に入れた。母さんも親父が一生懸命な男だって知っていたから結婚した。」
 ソアラの足は床に引きずられている。そして追撃の気配があるたびに、前へ後ろへと呪文を放っている。それでもイェンの話には耳を傾けていた。
 「あたしも分かっていた。親父が築いた財は、自分が一生懸命になりすぎた結果だって。でもファボットは、それを息子の幸福のための土台と考えた。そして少しでも早くすべてを手にしたい衝動に駆られて、旅行中の事故に装って二人を殺した。」
 ソアラの腕を掴むイェンの手に力がこもった。
 「家族での旅行はあいつが勧めた。家のことは僕に任せて___そういってあいつはあたしたちを送り出した。御者を雇ったのもあいつ___唐突だった。谷沿いの道を進んでいるとき、カーブの前で御者がスピードを上げた。大きく振られたキュクィ車は簡単に谷底へと放り出された。キュクィと車を結ぶものはすべて御者の手で外されていたんだ。」
 事故であることが必要だった。公正にハートウィンを次ぐ者として。
 「親父はあたしを抱いて守ってくれていた。親父は根っからの悪じゃない。母さんが死んでしまったらあたしは泣くだろうと思っていた。でも、親父の死であんなに泣くなんて思ってもみなかった。」
 「こっちだ!うっ!?おぁぁ!」
 だらりとしたソアラの両手から拡散する炎が吹き出し、前へ後ろへと追っ手を妨げる。だが完全に包囲をされているようだ。
 「___」
 イェンはふと立ち止まり、思い立ったように何の変哲もない壁に体ごとぶつかった。すると壁がくるりと回転し、二人はその向こうに消えた。
 「これって___」
 壁の内側には細い通路が延びていた。ソアラはイェンの肩に凭れながら呟いた。
 「いろいろ思い出してきたのさ。この屋敷の構造。」
 イェンは強気の笑みを見せる。
 「逃げる前にやりたいことがあるんだ。大変かもしれないけど、一緒に来てくれる?」
 「ええ、でも___」
 ソアラは後方に向かってフリーズブリザードを放つと、回転する扉の隙間を凍り付かせた。
 「これでしばらくは時間が稼げるから、少し休んで。」
 イェンは指を一度だけスナップし、腰砕けるようにその場にへたり込んだ。足腰がもはや限界だったのだ。

 「事故を生き延びて、馬鹿だったあたしはハートウィンに戻ったんだ。死が確認されるまで時間が掛かったら面倒だからね、ファボットは街のすぐ近くで事故を起こさせた。だからあたしは歩いて帰った。」
 「無謀だね___」
 二人はまるで恋人同士のように肩を寄せ合って話した。といってもソアラの体に力が入らないだけだが。
 「案の定ファボットの手下にあっさりと掴まって、この屋敷の牢獄にぶち込まれた。本当、今日みたいな感じでさ、すぐに奴隷のセリがあったから、あたしはそこで売られたんだ。それで顔も知らない男の持ち物になった。」
 「辛かったでしょ?」
 「そんなことないよ。男のところに運ばれてすぐに、あたしは師匠と出会った。それがイェン・クルーニーよ。」
 「イェン___ということは。」
 「そう。」
 イェンは懐かしい表情を見せる。
 「イェン老師はいわば解放の獅子で、権力に明かして人を隷属させるような輩を決して許さない人。彼はあたしを助けてくれて、あたしは彼に思いの丈をぶつけた。ファボットを打倒する力が欲しい___年齢から来る限界を感じていた老師は、あたしにその優れた技術を伝承してくれた。そして老師は亡くなり、あたしは時機を感じてハートウィンに向かった。名前をイェン・スィニィにして。」
 「顔を見られると気づかれる___だから仮面を付けたのね。」
 ソアラは掌を壁に付け、必死に突っ張るようにして立ち上がろうとする。
 「ああ、無理しちゃ駄目だ。」
 「情けないな、少しは力が入るようになったかと思ったのに。」
 足を曲げることはできたが、立ち上がるところまではいかない。イェンはソアラに肩を貸した。
 「そう簡単に戻るもんか。猛獣だって三日は動けなくなるような薬だよ。」
 「あたしは猛獣並かもよ___」
 ある意味では猛獣以上だ。
 「やりたいことがあるって言ってたね?」
 ソアラは問いかけた。
 「イェンを名乗る以上、奴隷は解放しなくちゃ。」
 イェンは再びソアラを背負って歩き出した。ソアラはなんとか手を後ろに向けると、隠し扉を改めて凍り付かせた。
 「この通路は奴隷の収容所につながっている。手枷はされているけど、足までは拘束されてないから、自慢の呪文で壁に大穴を開けてくれれば逃げられるはずなんだ。」
 「了解、任せておいて。」
 暗く狭い通路を進むこと数分、行き止まりに達した。しかしイェンは迷うこともなく慎重に壁の一点に手をかけた。強く押すと壁は簡単に開き、回転に押し出されるようにイェンとソアラは通路から脱した。
 「ここ___?」
 ソアラはイェンの耳元で囁いた。そこには明かりがなく、光が差し込むところといえば遠くの壁の高い位置にある小さな格子窓だけ。その微かな光に浮かぶように、巨大な鉄格子の扉、そしてその向こうに大量に横たわりうごめく何か___
 奴隷たちか。
 「ソアラ、光を。」
 「あたしの手を壁にくっつけて。」
 二人の声が聞こえ、格子の奥の黒が動いた。
 「イゼライル!」
 一喝とともに、石の壁がソアラの掌が触れた場所から光を放ち始める。暗闇に覆われた牢獄は一気に明るさを手に入れ、イェンも眩しさに顔をしかめた。
 「これが___ファボットの資金源___」
 広い牢獄の中に、足の踏み場もないほどに女たちが折り重なっている。いや、女だけではないか。壁を挟んだ隣の牢獄には紅顔の青年たちもいる。いずれもが同じ薄布一枚に、鉄製の枷をして、突然明るくなった壁に怯えていた。しかし言葉は出ない。
 「光は怖いものなんだ。光が来るときはファボットが来るときだからね。声を上げると叩かれるから、声は出せない。弁がたつ奴は喉を焼かれてまともにしゃべれない。信じられる?みんな___同じ人間。みんな自分の人生を歩んでいたのに、ファボットの金にすべてを買い取られたのよ___こんなこと___」
 イェンは怒りを込めて鉄格子を握り、その冷え切った金属に爪を立てた。ソアラは宥めるように、うまく力の入らない手を彼女の腹に宛った。
 「許されないわね___」
 不思議な心地だった。ソアラがただ者でないことは感じていたが、体重を預けられているはずなのに、抱かれると驚くほど心が軽くなる。ソアラの体は聖なる息吹に満ちあふれていて、イェンの中にある荒んだ心を溶かしてくれた。
 「ありがとう。さあみんな起きて!あたしたちはあなたを逃がしに来た!あたしは解放の獅子イェン・クルーニーの娘、イェン・スィニィよ!」
 イェンは大きな手振りで奴隷たちの発起を促す。ソアラの手に鉄格子を掴ませてやると、ソアラは強靱な念を格子に込めた。
 「これだけ分厚い格子を切るのは骨が折れるかも___」
 「頑張って___これだけ明るいとあまり時間は期待できない。」
 イェンは廊下の向こうを睨み付け、警戒心を強める。
 「よし___」
 ソアラは格子から手を放すと指先に力を集中し、格子に人差し指を当てる。そして目を閉じると、人差し指の先端にだけドラゴンブレスのエネルギーを結集させた。指先はゆっくりと格子の中にめり込んでいき、たちまち格子を切断した。同じようにもう一カ所、イェンの手を借りてソアラは格子の上の方に、閃熱のこもった指先を当てる。格子の切断は時間の問題___しかし。
 パァンッ!!
 「く___!」
 ソアラがイェンの肩で顔を歪めた。
 「ソアラ!?___ファボット!」
 発砲音の主は後方に五人もの護衛を従えて、相変わらずの嘲笑を浮かべていた。そして全く冷淡に、再び引き金を引いた。
 「っ!」
 イェンはとっさに身を屈め、弾丸は彼女の頭上を抜けていく。傷を負ったソアラをその場に残し、イェンは切り取られた格子を握って一気に駆けだした。
 「うあああああ!」
 戦いに積極的ではなかったイェン。しかし解放の獅子の勇気が彼女に宿ったのか、それとも傷ついたソアラを守らなければならないという意識か、切り飛ばされた格子を手にファボットに向かって突貫した。
 「アデリン___!」
 ファボットはイェンに向かって銃を放つ。だが人の気迫は弾丸をも退けるのだろう、鉛の塊はイェンの頬を掠めていくだけだった。
 「な、何をしている!守れ!」
 「はああああっ!」
 イェンは立ちはだかった護衛に向かって思い切り鉄棒を振るう。小気味よく振り抜かれた一撃は、護衛の顎を歪ませていた。
 (この___しっかりしろ!あたしの体!)
 背中の傷は弾丸が掠めただけ。まだ治りきっていない古傷を刺激されて激痛が走ったが、深くはない。ソアラは力の入らない体を必死に奮い立たせ、格子に掴まりながらゆっくりと身を起こす。奴隷たちは戸惑いの目で彼女見ていた。
 「伏せなさい!」
 ソアラはようやく戻ってきた滑舌で一喝した。奴隷たちは震えて、困惑している。
 「助かりたかったら伏せなさい!あたしは味方よ!」
 味方という言葉が奴隷たちを色めきだたせる。一人が身を伏せると、他の奴隷たちも一斉に、他の奴隷に覆い被さるように伏せた。
 「隣も!」
 格子の側まで来て様子をうかがっていた青年奴隷たちも、ソアラの叫びに反応して身を伏せた。
 「ディオプラド!」
 格子に掴まって体を支えながら、ソアラは白熱の爆弾を放つ。ディオプラドは壁にぶつかるや否や轟音とともに粉塵をまき散らし、ものの見事に壁を砕け散らせた。
 「はあっ!」
 さらなる一撃が牢獄側面の壁を砕き、二つの牢獄がつながった。
 「さあ!今のうちに早く逃げて!」
 突然生まれた出口にすべての奴隷たちが自我を取り戻した。ある者は我先に、ある者は恋仲だったのか青年奴隷との再会を喜び合ってから駆けだしていく。
 「イェンやったよ!」
 ソアラが振り向いたのと、乾いた音が鳴ったのはほぼ同時。護衛をことごとくうち倒していたイェンの腕を弾丸が打ち抜いていた。
 「くぅぅっ!」
 「イェン!」
 ソアラは両手を魔力の輝きで満たす。しかし___
 「やるのか?ソアラ___」
 尻餅をついて腕の痛みに肩を竦めているイェンに、ファボットが銃口を向けた。
 「___」
 ソアラは舌打ちとともに輝きを消失させる。
 「おまえは僕の大切な金蔓たちをずいぶんと逃がしてくれた___それに見合うだけの金で売らなければな___まあ逃がした奴らも捕まえるのは難しくないがね。」
 ファボットは金髪を掻き上げ、薄笑いを浮かべている。なんて下衆な男___カジノで見たときから露骨な男ではあったが、これほど愚劣だったか___
 「何が足りなかったんだ___」
 左腕に負った傷口を押さえるイェンの手は、真っ赤に染まっている。だが彼女は汗の滲んだ顔でファボットを凝視し、呟いた。
 「何が足りなかったんだ兄貴___!」
 イェンの声はソアラには嘆きのように聞こえた。イェンはファボットを憎んではいる。だが肉親であることまで否定していない。ファボットは憮然として彼女を見下ろしていた。
 「親父も母さんも___おまえのことをあんなに愛してくれたじゃないか!おまえだって昔は普通の子供だったじゃないか___!」
 イェンは諦めてはいないのだ。ファボットが正気に戻ってくれることを___だが彼女の思いは金髪の優男には届かない。
 「金があれば何でもできる。そう教えてくれたのは父だ。違うか?」
 「親父は自分のために金を集めていた訳じゃない___母さんや、あたしたちの幸せのためだ!」
 イェンは傷口から手を放した。
 「おまえはうるさい女だ___そして僕の邪魔ばかりする___今度は口を焼き、両足を切り飛ばして売ってやろうか!?」
 「馬鹿兄貴!」
 イェンは血に塗れた右手で鉄棒を掴むとファボットに向かって投げつけた。
 「くっ!?」
 回転して飛んできた棒に驚いたファボットが怯む。イェンは思い切って立ち上がると、彼の腕を掴んだ。
 「アデリン___貴様!」
 「目を覚ませ___!」
 危険だ!引き金に力が込められれば弾丸が出る。ソアラは氷の呪文を壁づたいに走らせて拳銃を凍り付かせようとした。
 しかし一歩及ばなかった。
 パァン!
 その瞬間、イェンは何を思っただろうか。上を向いた銃口から飛び出した弾丸は、彼女の目の前で、兄の下顎から入り込み頭頂部へと抜けていった。その瞬間兄の眼球が回転し、血の涙が溢れ出た。
 「___あ___」
 ファボットの全身から急激に力が失われ、彼は倒れた。
 「兄貴___!」
 イェンは跪き、叫んだ。彼女が握るファボットの両腕。その情景はまるで愛おしい兄を悼む妹が、哀願の思いを込めて手を取っているよう。
 皮肉だった。
 「兄貴ぃぃぃ___」
 イェンはファボットの腕を放し、彼の胸に突っ伏して泣き崩れた。彼の人格は否定していても、その手で肉親の血縁を絶ってしまったことは、悲しみ以外の何者でもなかった。
 「イェン___」
 ソアラは格子にもたれ掛かりながら、イェンに近づいていく。
 「あたし___あたし___」
 イェンは泣き顔を振り上げ、ソアラを見た。
 「うん___分かってる。イェンが本当はファボットを憎んでいなかったってことは___」
 ソアラは優しい顔で頷いた。
 「ソアラぁ___!」
 イェンは子供のようにソアラの胸に飛び込んだ。体を支えられずに尻餅をついたソアラの胸で、イェンは声を上げて泣いた。ソアラは___彼女のファボットと同じ金髪を撫でてやった。

 「ごめんね___迷惑かけっぱなしで___」
 まだ一人では歩けないソアラに右肩を貸し、イェンは牢獄に開いた大穴から外に出た。
 「なに言ってんの___ソアラがいなかったら奴隷を逃がすことだってできなかった。」
 大穴の外は屋敷の庭になっている。屋敷の男たちは中の騒ぎに翻弄されているのだろう、そこにはまるで人の気配がなく、外壁の向こうから街の明かりが差し込んでいた。
 「もうひと踏んばり。アパートに戻ったら何かおいしいものでも食べよ。」
 イェンはようやく笑顔を取り戻す。目元にはまだ光るものが残っていたが、この出来事を経て彼女はまた大人になった。
 「賛成〜。」
 ソアラも微笑み返す。後はここから出るだけ。まだ警備の男たちをあしらうくらいの魔力は残っている。何も心配はないはず___ないはず___
 なのに。

 ドシュッ___!!

 「!?」
 時が止まったような一瞬だった。
 ソアラでさえ何が起こったのか分からない、一瞬にして取り乱した、最悪の瞬間!
 「___」
 イェンの胸から鮮血がはじけ飛び、血の軌跡は大地を抉る。彼女は口から大量の血を吐き出し、そのまま前のめりに倒れた。
 「___!」
 巻き込まれるように倒れたソアラはひじを張って顔を上げ、イェンに縋り付いた。
 「イェン!イェンしっかりして!」
 だが彼女からは何の反応もない。目を見開き、体からはもう血が噴き出していない。一撃がイェンの心臓を砕き、彼女を瞬時にして絶命させていた。ソアラは言葉を失い、ただ震えるように首を横に振った。周囲から、身を隠していたらしい警備の男たちが出てくる。すべてはこの瞬間のための策謀だった。
 「ふふ___」
 金髪の優男の嘲笑。彼はその手に狩猟用のライフルを握り、ソアラが開けた大穴の上、二階の部屋の窓からこちらを見下ろしていた。全く汚れ一つない純白のシャツに身を包んだファボット。それはソアラがさっきまで見ていた男、イェンが討ち取って涙した男とは、全く別の___真の悪だけが持つオーラを醸し出していた。
 悪のカリスマ___カジノで会ったファボットはこいつだ。
 「権力者には常に影武者がいるものだ。」
 ファボットは再びライフルを構えた。
 「さよならアデリン。二度と僕の前にその醜い黒髪を見せないでくれ。」
 ファボットはソアラが見ている目の前で、ライフルの引き金を引く。鋭い弾丸は的確にイェンの頭部を射抜いた。
 震えながらイェンの骸を見ていたソアラ。
 だがライフル弾が見せしめとばかりに、すでに息絶えていたイェンの頭をも打ち砕いたとき、彼女の中で何かが切れた___!
 「うあああああああああああああ!!」
 大いなる咆吼。その瞬間、彼女の紫色の髪に金色の彩りが走り、一気に黄金の輝きへと変わる。輝きはソアラの全身へと広がっていった!
 「なに___?」
 ファボットは訝しげに、金色の光に包まれたソアラを見下ろした。
 「___」
 薬は切れていないはず。だがソアラはゆっくりと立ち上がった。
 「貴様___」
 顔を上げ、ソアラがファボットを睨み付ける。その瞳は人のそれとは少し違う、黄金の中に黒い瞳孔。髪は燃え上がるように震え、口元には小さな牙が覗いていた。
 「ドラゴン___?」
 ファボットはソアラの背後に幻影を見た。偉大なる竜の姿を___
 「な、何をしている!そいつを捕らえろ!」
 呆然としていた男たちにファボットが声を荒らげた。男たちは我に返り、金色のソアラに駆け寄っていく。しかし___
 ボボボボッ!
 「なっ___!?」
 ファボットは夢かと疑った。ソアラはその場に制止したまま、おもむろに腕を振るった。すると男たちの首から上が一斉に弾け飛んだのだ。ソアラは波動だけで男たちを葬り去った___
 「馬鹿な___こんなことがあるわけが___!」
 ファボットは恐れおののいた。ソアラに恐怖し、生まれて初めて体の震えが止まらなかった。
 圧倒的な破壊力___
 壮絶な殺気___
 竜の使いの力___
 邪悪を滅する力___
 だが___
 「うがああ!」
 ソアラの体から醸す気配はあまりにも邪悪だった。

 ハートウィンの街に光の柱が立ち上る。ファボットの屋敷は強大なエネルギーに押しつぶされるように崩落し、光の中で屋敷にいたすべての生命が昇天する。
 竜の咆吼が轟く。ソアラは自らの意志の中で、初めて竜の使いの力を覚醒させた。
 だが___この破壊、この殺戮。
 それは怒りに自我を失い、暴走した竜の姿だった。




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