2 黒蝶仮面

 「だぁぁぁぁぁっ!」
 ソアラは情けない悲鳴を上げて、憎たらしい四角い箱を平手で叩いた。
 「お客様、機械が壊れますので。」
 整った身なりの男が慰めるような口調でソアラの暴挙を戒める。
 「三日分の稼ぎが___」
 ソアラは恨めしそうにスロットマシーンを睨み付けた。ドラムの最後の一列だけ、無関係なマークが並んでいた。
 温泉町ブルックウェルは小さな街だった。そして人情味のある街だった。ソアラは温泉で働かせてもらうことで、まずは新しい衣服、それから当面の食事と、旅費を手に入れることに成功した。今の自分がいる場所も把握することができたと同時に、地図上でのヘル・ジャッカルの漠然とした位置も知ることができた。
 今彼女がいるのはネルベンザックの東、ジネラの北東に位置する縦長の大陸、ボルフェルス大陸、その最北端だ。皆と別れたアーパスはジネラ大陸の西方だから、ほとんど正反対の位置にやってきたことになる。皆の足取りを掴むにはジネラ大陸でなくてはならない。必然的にソアラはボルフェルスを南下することになる。
 そして辿り着いたのが、ブルックウェルの南にある都市、ハートウィンだった。
 「きゃははは!」
 「見ろ!大当たりだ!」
 街のそこかしこに華やかな光が灯り、どこを歩いていても酒臭い。とても賑やかだが、どこか荒んでいるのがこのハートウィンだった。ソアラはごろつきが闊歩する街並みを沈んだ面持ちで歩いていた。
 ドンッ。
 脛に傷持つ男と肩がぶつかる。だがソアラは身じろぎ一つせずにいた。
 「おうおう姉ちゃんどこにめぇつけてぉぁああ〜!?」
 男がそのまま過ぎ去ろうとしたソアラの肩に手を掛けた。しかしソアラはその手を取ると簡単に腰で投げ飛ばした。
 「はあ。」
 裏返しになったごろつきに手下らしき男たちが駆け寄る。ソアラは構わずに溜息を付いて歩いた。
 繁華街を抜けると一転して薄暗いスラムが広がる。ソアラはその一角にある小さな空き地に足を向けると、そこにあった使われていない櫓に入っていった。
 「あ〜!やっぱり地道にためればよかったぁ!」
 ソアラが嘆いているのは旅費のことである。この破天荒な都市ハートウィンの象徴が『カジノ・マングネル』だ。ソアラはブルックウェルで稼いだ旅費の残りを、一攫千金目指してカジノにつぎ込んだ。しかし惨敗。
 そして今日、三日ほど作業場で働いて稼いだ金を、今度こそとカジノに賭けた。結果は見ての通りだ。
 「あ〜悔しい。」
 狭苦しい櫓の中には、皿の上に立てられた蝋燭が一本あるだけ。他は何もない。宿に掛けるお金もないソアラはここを寝床にしていた。
 (お腹減った___)
 腹が音を立てる。このところ食事は一日一食で、内容も貧しい。
 「カジノなんてない街で真面目に働くか___でも取り返せないのも悔しいし___」
 長旅にはそれなりの金がかかる。勿論節約の仕方は幾らでもあるが、光一つ取っても持続性に乏しいドラゴンブレスを始終手に灯しているわけにもいかない。
 「あ〜あ、昔から勝負事には自信あったんだけどなあ。」
 「へへっ、ハートウィンのカジノで儲けようなんて考えが甘いのよ。」
 「?」
 穴の開いた屋根から、とびきりの笑顔がソアラを覗き込んでいた。
 「あんた、さっき大男を軽く投げ飛ばしちゃった人だよね。」
 「あんたは?」
 ソアラが闇雲に突き放さないと見ると、笑顔の彼女は一人でも狭さを感じる櫓の中に飛び込んできた。
 「ちょっとごめんよ。」
 童顔で、男にも女にも取れる顔立ちだったが、可愛らしく編まれた髪と、幼いなりの体つきで女性であると見て取れた。
 「なによ〜、狭いんだけど。」
 ソアラは彼女の強引さに圧倒されていた。しかしこのとびきりの笑顔を見せられると、どうもこの娘には敵意を抱けない。
 「あんたもハートウィンにやられた口だろ?あたしもそうなのさ、でもそれって最初から仕組まれたことだとしたらどう思う?」
 「え?どういうこと?」
 櫓があまりにも狭いから仕方がないのだが、相手が男だったらドキドキするほどに顔を近づけ会って話す二人。娘はソアラに半ば乗りかかっていた。
 「あたしの名前はイェン・スィニィ。ハートウィンをぎゃふんを言わせてやろうと企む女さ。」
 娘はソアラに手を差し伸べた。
 「あたしはソアラ___さっきからハートウィンって言ってるけど、それって街の名前じゃない。カジノはマングネルでしょ?」
 ソアラはまだイェンの手を取ろうとはしなかった。
 「カジノの創設者がマングネル・ハートウィン。ここは昔はリゴロスタっていう名前だったんだ。でもハートウィン一家がこの街の全権を握るようになって、名前までハートウィンに変わった。」
 若い割にやけに詳しいな___ソアラはちょっと疑問を抱きながらも、イェンの真っ当な眼差しまでは疑わなかった。
 「ハートウィンはここをカジノの街にしちまった。おかげで街には柄の悪い連中が集まって、犯罪だらけ。今までこの街で幸せに暮らしていた人たちはスラムに追いやられて、這いずるような暮らしをしている。あたしはハートウィンの奴等にぎゃふんと言わせたくってしょうがない、でも一人で戦う力もない。この街には素直に協力してくれる奴等もいないし、みんなどこかでハートウィンの息が掛かってる___そこであんたを見つけた!」
 イェンはソアラに右手を差し出したまま、左手で彼女の眉間の辺りを指さした。
 「あんたただ者じゃないだろ、その細腕で男を投げ飛ばして、最近この街に来たところを見ると旅人だ。今の世界で一人旅なんてまともな女にはできない。ねえ、力を貸しておくれよ。あたしは力はないけどお金はそれなりに持ってるんだ。」
 イェンの気持ちが嘘か真かはまだ定かではないが、当面の食事代もままならないソアラにとっても悪い話ではない。
 「あんたのやろうとしていることによっては協力できないけど___食事くらいは奢ってくれるかしら?」
 「そりゃ勿論。三食保証しようじゃない。」
 イェンは人の心を明るくさせるような笑顔で頷いた。
 「乗った!」
 ソアラもその笑顔に誘われるように、彼女と固い握手を交わした。

 「イェンはこの町の生まれなの?」
 「いや、ここで生まれたけど、育ったのはここじゃない。」
 スラムの一角にあるアパートにイェンの部屋がある。部屋は広々としているが暖炉もなく、テーブルと椅子とベットがあるだけ。小物の一つもなく、洋服棚もない。ランプの光も寂しくなるほどに薄暗かった。
 「ちょっとそこ座ってて。」
 イェンはソアラを椅子に座らせて、床にしゃがみ込んだ。床板の一角に指を引っかけて持ち上げると、そこに顔を突っ込んでなにやら取り出した。
 「はい、パン。」
 「ありがと〜!」
 ソアラはイェンが床下から引っ張り出してきたカチカチのパンにかじりついた。
 「今日もこれから出かけようかと思ってるんだけど。どうかな。」
 床板を外したままでベッドに腰を下ろしたイェンは、石のようなパンに歯を食い込ませているソアラに問いかけた。
 「出かける?」
 ソアラは頬を膨らませて聞き返す。
 「マングネルよ。早速あたしの仕事につきあってもらおうかと思って。」
 「なによ仕事って?カジノで大勝負でもするの?」
 イェンは失笑した。
 「違う違う。だいたいマングネルで儲けるなんて無理なんだって。小細工なんて簡単なのよ。まず、スロットの後ろには人がいる。」
 「えぇっ!?」
 機械が相手ならいかさまもないだろうと考え、ソアラはスロットに勝負を賭けていた。それだけに衝撃的だ。
 「ポーカーテーブルの客の一人はディーラーの仲間。ディーラーのいかさまを疑う人はいるけど、客がいかさまするなんて思わないだろ?」
 「へぇ〜___」
 「ルーレットもそう。あれにもディーラーの仲間がいる。もちろんディーラーも相当の確率で狙ったところに玉を入れられるし、ルーレット板にも仕掛けがある。」
 「はぁ〜。」
 ソアラは嘆息を漏らすばかり。
 「でもさ、そんなにふんだくったらお客さんがいなくなるんじゃない?」
 「だからたまにはいい思いをさせるのさ。いい思いをした客は必ずもう一度来る。ちなみにあんたみたいな典型的一見さんからは取れるだけ取るみたいだね。」
 「詳しいのね___」
 「まね。」
 イェンは瓶からコップに注いだ水をソアラに差し出す。少し息苦しそうにしていたソアラはすぐにそれを飲み込んだ。
 「それにしても変わった髪だねぇあんた。それ染めてんの?」
 「違うわ。はじめっからこうなの。」
 ソアラは首が隠れる程度の髪に手を通した。イェンは彼女の返答にしかめっ面をする。
 「つまんないジョークだなぁ。」
 「___」
 まだ出会ったばかりの彼女にすべてを明かすこともないだろう。ソアラはイェンがそれで納得するなら、ジョークにしておこうと考えた。
 「ごちそうさま、おいしかったよ。」
 「こんな食事でよければいつでも言いな。」
 「それで、仕事って?」
 礼は尽くす。イェンはソアラの誠意を感じ取って白い歯を覗かせる。
 「盗みさ。」
 ソアラは顔色を変えない。想像に違わない内容だったから。
 「お金があるって言ってたものね、そうだろうと思ったわ。」
 「カジノ・マングネルの売上金を盗むんだ。」
 イェンは開けっ放しの床下に、足から入り込んでいく。
 「ちょっと___」
 「そこで待ってな。」
 立ち上がろうとしたソアラを諫め、イェンは床下にすっぽりと姿を隠してしまった。
 待つこと五分___
 「とうっ!」
 掛け声と共にイェンが床下から飛び出した。ソアラは彼女の変貌ぶりに開いた口が塞がらないと同時に、すぐにこみ上げてきたおかしさを堪えるので必死だった。
 「じゃーん!黒蝶仮面!」
 イェンは目の回りを覆い隠す蝶々のような黒仮面を付け、首には真っ赤なマフラーを巻き、紫色のピッタリとしたレザースーツ姿だった。本人は決まっていると思っているようだが、仮面とマフラーのコントラストがあまりにも間抜けである。
 「ふっぷふっ、あっはっはっ!」
 イェンがポーズまで決めてみせるとたまりかねてソアラは笑い出した。
 「あーっ、ひっでー!初対面のくせに笑った!」
 イェンは口を尖らせて地団駄を踏んだ。
 「だってぇ、黒蝶っていうよりも蟻みたいなんだもの〜。」
 「蟻とはなによ蟻とは!」
 おんぼろアパートに女の賑やかな声が響き渡る。それはソアラとイェンが出会ったばかりとは思えないほどのお互いの快諾を素直に喜び、歓声を上げているかのようだった。

 明けない夜の闇。アパートの屋上に立つ二つの影。そのシルエットは___
 筆舌にしがたい。
 「何であたしまでこれなのよ___」
 「あんたは二号だからに決まってるでしょ。」
 ソアラは大きな仮面の下で沈んだ顔をしていた。頬の辺りに黒い染みが付いている。それはイェンが乱暴に黒い染料で彼女の髪を染めた痕跡だった。
 「黒蝶仮面を侮ってるわね、あんた。」
 「そりゃ侮るって___」
 ソアラはイェンと同じ格好をさせられていた。首には赤いマフラー、身体も生地やデザインは違うが濃い紫色で敏捷性に富んだスーツだ。イェンはソアラよりもずっと小柄で、胸の大きさにも差がある。おそろいにできなかったのは幸いだった。
 「言っておくけどね、この街で黒蝶仮面を知らない奴なんていないんだからね!」
 あまり大きな声を出すものではない。向かいのアパートの前で泥酔していた男が、空を見上げた。
 「今まで何回盗んだの?」
 ソアラに言い聞かせるように語気を強くしていたイェンが怯んだ。
 「何回?」
 ソアラはイェンの仮面の奥を覗き込む。
 「___二回。」
 「今日入れて?」
 顔を背けながら答えたイェンに尚も迫ってみた。
 「______そ。」
 ソアラは姿勢を戻して頭を掻いた。指先が黒く染まる。
 「あのねえ!確かにマングネルに盗みに入ったのは一回だけ___うももっ!」
 「声が大きいのよっ。」
 そこら中にハートウィンの息の掛かった連中がいると言っていたのはイェンだ。それをソアラに口を塞がれているようでは先が思いやられる。
 色々と不安はあったが、イェンの身のこなしは称賛に値するものだった。「二号」ことソアラはイェンの後ろを進む。道は建ち並ぶアパートの屋上を渡っていくという荒っぽさだったが、イェンはこれっぽっちももたつくことがなく、ソアラにストレスを感じさせない。
 空から見ていて思うのがくっきりと別れたこの街の景色。カジノ・マングネルを中心に、光に満ちた繁華街が広がり、それを包むように黒ずんだスラムが立ち並ぶ。そして繁華街の至る所に掲げられた旗。そこに刺繍された獅子面の紋章が、カジノ・マングネルの壁という壁に彫り込まれている。
 「あれがハートウィン一家の紋章さ___」
 五色の光で照らされ、見たこともないほど色鮮やかなカジノ・マングネル。それを見下ろす四階建てアパートの屋上に立ち、イェンは渋い声を出した。
 「カジノの裏に屋敷があるわね。ハートウィン一家はあそこに住んでいるの?」
 カジノの裏手に二階建ての館が見える。決して大きくはないが、遠目にも作りに高級感が漂う。
 「あれがマングネルの金庫よ。」
 「金庫!?」
 あんな館が必要なほどの金を貯め込んでいるというのか___それとも___
 「ハートウィンは用心深い。金をまとめて置くことはしないんだよ。あの家の中の部屋という部屋に、巧妙に隠された金庫があるんだ。」
 イェンは腰にぶら下げていたボウガンを構え、照準を確かめる。
 「ハートウィン一家はどこに住んでいるの?」
 「左を見てご覧。」
 ソアラは言われた通りに左、方角で言えば東方を振り向いた。するとスラムの一角、いやに景色の開けた場所が目に付いた。それは察するに、庭だ。開けた景色の奥に構える巨大な屋敷の影が見えた。
 「あれがハートウィンの屋敷さ。」
 「主人はマングネル・ハートウィン___」
 「いや違う。」
 イェンはボウガンに銛かと思わせるほどにしっかりとした矢を装填した。短い間合いで照準を整えて、すぐさま放つ。矢には頑丈なロープが括り付けられており、その一端はアパートの手すりに固く結ばれていた。
 「ヒュ〜、お見事。」
 矢はカジノ・マングネル中庭の木に突き刺さり、アパートとの架け橋が生まれる。ソアラはイェンの見事な腕前に拍手を送った。
 「マングネルはもう五年も前に死んだよ。いま仕切ってるのは息子のファボット・ハートウィン。こいつがたちが悪いのさ___」
 イェンは鈎型のフックをロープにしっかりと引っかけた。
 「なるほど、蝶々の登場は空からってわけね。」
 ソアラが軽い口調で言うと、イェンは伏し目がちにその顔を見やった。
 「あんたまだ馬鹿にしてるな___」
 「そんなこと無いわよ、さあさあ、行きましょ!リーダー!」
 そして二匹の蝶は闇の空に紛れて華麗に舞った。アパートの屋上からマングネルの中庭までロープを一気に滑り降りる。決して楽ではない。ただそれでもイェンは軽やかにマングネルの中庭に降り立ち、素早く茂みに身を隠した。
 (この子___鍛えてるな___)
 ソアラは彼女の背中を眺めながら思った。小柄なイェンの両手両足には無駄な肉がない。今日が二回目の泥棒稼業だと言うが、動ける体を作っているあたり___ただの思いつきでハートウィンに挑もうとしているのではないのかもしれない。

 中庭にはソアラの予想に反してこれっぽっちの警戒もない。巡回する警備員さえなく、莫大な金が動くカジノとは思えないほどの無警戒だ。
 「無防備ね___」
 「金庫まで一気に突っ走るよ。」
 「ええ。」
 イェンとソアラは中庭の茂みから飛び出し、身を低くしてカジノの背後の館まで突っ走った。
 「窓がない___」
 走りながら見た金庫の館には一つの窓もない。
 「入り口はあそこだけ。」
 「真正面にも警備員がいないの?」
 「自信があるのよ。」
 館とカジノの間には屋根付きの廊下が延びている。が、館の入り口は二階だ。つまり二つの建物を結ぶのはこの渡り廊下だけで、金庫の中は徹底した袋小路なのである。イェンはフック付きのロープを投げ、簡単に渡り廊下の手すりに絡みつかせた。
 「館の中にも警備員は一人もいないよ。その代わり至る所に罠がある。」
 二人はロープをよじ登って空中を結ぶ廊下へと降り立った。
 「マングネルは人で金庫を守っていた。でもファボットは屋敷中に罠を張り巡らせ、盗みに入った奴が掛かって死ぬのを楽しみにしてる。だから警備兵は置かないんだ。」
 本当に驚くほど無警戒だ。恐らくこの渡り廊下も、従業員が金を納めに来るとき以外は使われていないのだろう。
 「その自信をイェンは打ち砕いたってこと?」
 「そうよ。たかが一回、されど一回。マングネルの金庫から無事に帰ってきたのはあたしが初めてなんだから。」
 イェンは自慢げに、巧みに編まれた髪を掻き上げる。黒髪が弾むように揺れた。
 そのころ___
 カジノ・マングネルの中は華やいだ空気で満たされていた。鮮やかなドレスを身に纏って優雅に娯楽を満喫する者、薄汚れた身なりで一攫千金に目を輝かせる者。賑わいの中には様々な人間模様が渦巻き、それを見下ろす人は神のような心地を得る。
 「___」
 だがこのカジノの中にあって、全てを見下ろせる場所は一つしかない。オーナーのハートウィン一家だけが入れる部屋だ。
 「もう少し上物の酒を取り寄せよう。これはまだ若い。」
 金髪の美男子は赤黒い果実酒を飲み込み、ソムリエに告げた。
 「この酒は、そうだな、あの腹ぼてリケロにでも飲ませてやれ。」
 金持ちだけが持つ独特の自信を全面に漂わせ、男は下を指さした。そこにはあからさまな成金趣味の肥満体が、ルーレットではしゃいでいた。
 「最高級の酒だといって倍値で飲ませるがいい。彼なら飲むよ。」
 この男こそがファボット・ハートウィン。年はまだ二十四。しかしこの若さであっても彼はハートウィンに君臨していた。
 「ファボットは容赦のない男さ。彼のことをちょっとでも侮蔑した人物には、構わずに制裁を食らわせた。耳の一つや二つで済めばいいほうだね。」
 イェンは金庫の入り口の大扉の前に立ち、二つ並んだ獅子の紋章のうち、右の紋章をひねった。
 「触んない!」
 左側の紋章に触れようとしたソアラの手をイェンが叩いた。
 「あたしの指示がないときは何も触らないように。それは毒矢が出るわよ。」
 「りょ、了解。」
 ソアラは冷や汗を浮かべ、引きつった笑みでイェンに敬礼を送る。
 「なに___?」
 ファボットは眉をひそめた。ハートウィンの忠実なる僕でもある従業員が彼に耳打ちする。
 「またあいつか___」
 それは金庫への侵入者の報告だった。だがファボットは慌てる素振りすらない。やってきたのが先日してやられた珍奇な仮面の女と聞いて、むしろ笑みさえ見せていた。
 「右が終わったら、左を回して、また右を上にずらす。」
 イェンが紋章の操作を終えると金庫の扉はゆっくりと両側にスライドして開いた。
 「五秒で締まるよ。速く。」
 ソアラはイェンに付いて、素早く金庫の中へと入り込んだ。すぐに背後で扉が閉じる。金庫の中は昼間のように明るく、目の前に広がる光景は屋敷そのもの。赤絨毯が敷かれた廊下の先には下層へ続く階段。廊下の両側には対称に計六つの部屋が並び、所々にはオーナーの趣味か、それとも担保に上納させた品か、いかにも高級そうな美術品が並んでいた。
 「慌てる必要はないけど、この前まんまと盗めた分だけ、今回は外に出てからが怖いんだ。あんたはその時にしっかりと頼むよ。」
 「あたしは用心棒ってわけか。」
 「はい、そこ右側歩かない。」
 ソアラはイェンの指示通り、廊下の左側を壁際に進んだ。
 「右を歩いていたらどうなっていたの?」
 「からくりが働いて下から剣が飛び出るわ。」
 「あ、そう。」
 イェンは淡々としているが、ソアラはすっかり目が点に。本当に容赦のない罠である。
 「はいストップ。ここはこの石像の向きを変えないとシャンデリアが落ちてくるから。」
 今日の狙いは一階層の部屋。
 「右側の手すりは熱湯が通ってるから。」
 一階の方が金の保管額が大きい。一人ではあまり大金は持ち出せないが、イェンはソアラがいればと考えていた。
 「あ、そこは踏まない。抜けて足先から剣山行きよ。」
 これだけ多種多様に仕掛けられた罠を完璧に把握しているイェンに、ソアラは驚かされるばかりだった。そして同時にちょっとした疑問もわいてくる。
 (___下調べができるような場所でもない。一回目の侵入でも罠を全て見抜いていたというのなら___彼女はいったい___)
 ここまでこの金庫の仕組みに詳しくなれるのは___そう、金を運ぶ従業員くらいか。
 「ねえ一号、あなた昔ここで働いたりしてた?」
 「はぁ?冗談言わないで___危ない!」
 「!」
 ソアラは知らず知らずのうちに壁に手を触れていた。しかし頭上から振ってきた槍が彼女の脳天に突き刺さるよりも速く、ソアラは両手で刃を挟みつけていた。
 「ま、これくらいならね。」
 「お見事___」
 イェンはソアラの敏捷性に思わず拍手をしていた。ソアラは槍を突き当たりの扉に向かって勢いよく投げつけた。扉に突き刺さった槍は落ちてきた分厚い天井に押しつぶされた。鎖が軋みながら天井を引っ張り上げていく。まったくこの屋敷にいると寿命が縮まりそうだ。
 「あんま余計なことしないでもらえる?」
 「ごめんね。」
 イェンのじっとりとした視線に、ソアラは取り繕うように頭を掻いた。いや、本当に痒いだけだとの話しもあるが。
 「一階のからくりが作動しているだと?」
 ファボットは従業員の経過報告を聞き、眉間に皺を寄せた。
 「以前まんまと盗み去った泥棒です___やはり構造を知っているとしがぁぁっ!」
 従業員の頬に火の付いた葉巻がめり込んだ。従業員は目を剥いて仰け反り、喘いだ。
 「余計なことを言うな。」
 ファボットは立ち上がり、同胞のあえぎにも顔色一つ変えずにいる従業員を指さす。
 「罠を止める。生きていれば私の前に引き連れてこい。」
 指示は明確だった。
 ファボットだけがその鍵を知るカジノ・マングネルの地下室に、罠を統括するからくりがある。これの動作を停止すれば全ての罠が止まる。そして普段は静かな金庫に、十数人の武装した従業員が入り込んでいった。
 「___」
 金庫の一室で、イェンは壁に掛けられた三つの絵を、何ら迷うことなく上下左右にずらしていく。すぐに鋼鉄の扉が現れ、今度はそこについたダイヤルを躊躇い無く回しはじめた。
 (やっぱりあの子は初めからこの金庫のすべてを知っている___)
 ソアラはもう、イェンがいとも簡単にからくりを解いても驚くことはなかった。むしろ仮面に隠した紫色の瞳で彼女の正体を伺ってさえいた。
 「?」
 ソアラは天井を見上げた。上が騒がしい気がする、罠が勝手に動いているのだろうか。
 「開いた!」
 イェンが歓声を上げた。鋼鉄の扉の奥には黄金の輝きが零れ出す布袋が詰まっていた。
 「ほら二号!」
 「はぁい。」
 ソアラはイェンに駆け寄り、彼女から金貨の大量に詰まった布袋を受け取った。
 「ねえ、ちょっと二階が騒がしかったんだけど。」
 「はぁ?気のせいよ気のせい。さぁ戻るよ。」
 バンッ!
 しかしイェンが手を掛けるまでもなく、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
 「こ、こいつ、またからくりをかいくぐったのか!?」
 先頭で部屋に飛び込んだ従業員が驚きの声を上げる。
 「な、何で人が来るのよ!」
 イェンは慌てふためいて声を上げた。続々と部屋に入り込んできた従業員たちは、剣やら槍やら、思い思いの武器を二人に向けた。
 「何者だ貴様ら!」
 まったく予定外の出来事だったのだろう、イェンはすっかり混乱し、従業員の怒鳴り声に震え上がった。
 「あたしたちは黒蝶仮面!あたしは二号そしてこっちが___!」
 ソアラはイェンの混乱を察して軽やかに躍り出ると、間抜けを承知でポーズを決める。その最中、こっそりとイェンの脛を爪先でつついた。
 「い、一号よっ!」
 イェンもソアラの前に躍り出て、もうやけくそとばかりにポーズを決めた。十数人の男たちは唖然としてその様子を見ている。
 「どうでもいい!つかまえるぞ!」
 「ソアラ!」
 「ちっちっ、二号って呼びな。」
 縋るように振り返ったイェンに、ソアラは口元で指を振った。一瞬鋭くなったソアラの目つき。仮面の奥に垣間見せる竜の眼光は、自然と男たちを怯ませる何かを秘めていた。
 「イェン、華麗に逃げる方が蝶っぽいよね。」
 「そ、そりゃ___」
 ソアラの後ろに隠れているイェンはたどたどしい口調で答えた。
 「なら決まりよ。」
 イェンの心配をよそに、ソアラは一瞬だけその右手に輝きを灯す。
 「ディオプラド!」
 部屋が目映い光に包まれる。
 「!?」
 震動はカジノ・マングネルにまで響き、ファボットを驚かせた。
 「うそ___」
 金庫の壁に開いた大穴。たちこめた煙の中でイェンは明いた口が塞がらなかった。
 「ほら、行くよ。」
 ソアラは呆然としているイェンを無理矢理金庫の外へと引っ張り出した。
 「ま、待て!」
 煙を突き破って従業員が追ってきた。しかし開いていたはずの大穴には冷たい壁が立ちはだかっていた。氷結呪文ストームブリザードだ。
 「そ、ソアラあんたって___」
 ソアラの呪文にイェンはすっかり驚愕の面持ち。爆風でずれた仮面もそのままだ。
 「飛ぶよ!」
 「えぇぇ!?」
 ソアラはイェンの手を取ると魔力を開放して宙に舞う。闇の空に舞った二匹の蝶は街の人々を驚かせた。ただ一番驚いていたのはイェンに違いないだろう。




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