1 男と女
全滅ではなかった。しかし小さな農村、マーズバイン村の大半の家屋が倒壊し、多くの住人が命を落とした。バットとリンガーの両親も例外ではなく、二人はもう二度と両親に成長した自分たちの姿を見せることができなくなってしまった。彼らは気丈に振る舞っていた。しかし不意に見た顔は目が真っ赤に腫れ上がり、彼らが単に泣き顔を見せたくないだけだということを物語っていた。
生き残った人々はおおむね家屋も無事だった人たち。しかし彼らはこの忌まわしい故郷から、傷が癒えるまでは離れると口をそろえた。幸い親しい間柄にある村が近隣にあり、彼らの身柄を引き受けてくれた。皆は戦いの傷の癒えぬまま、せめてバットとリンガーをこれ以上悲しませないために、近くの宿場までキュクィを走らせた。
「___」
宿に入ってからも沈滞したムードは変わらなかった。バットとリンガーを個室に残し、ベットのない大部屋に集まった皆だったが、沈黙が続く。とくに百鬼は微動だにせず、椅子に腰掛け、俯き加減でじっと虚空を見つめていた。
「落胆していても仕方ありません。」
ブレンが口走った言葉は、皆に重くのしかかっている。レミウィスはこの薄暗いムードへの嫌気を吐き出すように、小さなため息をついて言った。
「我々は竜神帝を復活させる。そのために前進しなければ。」
決して目的を失ったわけではない。
「ソアラさんを失ったことは確かに大きな___」
「ソアラは死んでいない。」
レミウィスの声にかぶせるように、百鬼が言った。
「あいつの言葉を鵜呑みにするつもりか?あれは俺たちを惑わすための嘘だ。」
レミウィスは険しい顔をしている百鬼をじっと見つめた。
「本当にそう思いますか?」
「ああ。ソアラは死んじゃいない。」
「なぜ?」
「理由なんてない。あいつは生きている。」
百鬼にも根拠はないのだ。だからそうとしか言えなかった。ただ現実としてソアラは生きている。そしてブレンの言葉も決して嘘ではない。
「ブレンの言葉、私は決して嘘だとは思えません。」
「ソアラは生きている!」
より現実的なのはブレンの言葉だということは百鬼だってわかっている。だが信じたくないのだ。その気持ちはレミウィスも分かっていた。
「おまえの直感と、ブレンの理屈。どっちが信じられると思う?」
「なんだと___?」
煙草に灯をつけたサザビーがあきれた顔で言った。
「ピーピーわめくなよ。ガキじゃねえんだ。」
その言葉は百鬼の神経を逆撫でした。彼は誰が止めに入る余裕もないうちにサザビーを拳で殴っていた。
サザビーは後ろにあった椅子をはじき飛ばして壁に激突する。
「ソアラは生きている!絶対に!」
百鬼は肩で息をしながらサザビーに怒鳴りつけた。そして思いもよらないことが起こった。
パンッ!
張りのある音がした。誰もが驚きを隠せない。
いつもなら、口の中を切ったらしいサザビーに駆け寄るであろうフローラが、百鬼の頬を張ったのだ。その瞬間、百鬼も呆気にとられていた。
「生きてる生きてるって___そんなこと言わないでもみんな分かってるのよ!」
フローラはわずかに目を潤ませながら、それでも厳しい顔で百鬼をまっすぐに見つめて言い放った。
「サザビーだってレミウィスさんだって、それを分かっていてこれからのことを考えようとしてるんじゃない!」
フローラの激昂は、百鬼の熱を奪い去った。しかし彼の思いがそれだけで消えるというものでもなかった。
「それは___俺だって分かってる。でも___だからといって、ソアラがいないものとしてこの先のことを考えるのは___それは許せなかっただけさ。」
百鬼は噛みしめるように呟き、背を向けた。
「悪かったなサザビー。」
「いいパンチだったぜ。」
サザビーは壁に凭れたまま煙草を吸っていた。
「少し頭を冷やしてくる。いいか?」
レミウィスは頷き、百鬼は疲れた顔で部屋を出ていった。
「もう少し冷静な方かと思っていましたが___」
大部屋に再び静けさが戻ると、レミウィスは少し失望した様子で言った。
「仕方ないよ。」
それに答えたのは、沈黙していたライだった。
「これが初めてじゃないんだもの。」
「え?」
そう、ソアラの死という命題に直面したのは初めてではない。嘘か誠かを通り越して、ライや百鬼にとってこれは考えたくもない事柄だった。
「僕も、フローラだってそうさ。たとえ冗談でも、ソアラが死んだなんてことは聞きたくないよ。」
今ソアラはここにはいない。ならば魔獣の口から発せられた言葉になんて目もくれてほしくなかった。
個室のベットの上。部屋の明かりは消している。しかし百鬼は眠ることができずにいた。 「ソアラ___」
ソアラも罪なことをする。こうしてここまで歩んできた仲間に不協和音を産み落としてしまうのだから。百鬼はとにかく彼女に少しでも早く舞い戻ってきて欲しいと考えていた。
コンコン。
控えめなノック。一人になりたかった百鬼は開けるかどうか悩んだ。
「百鬼___もう寝てる?」
フローラだ。少し前のことだから気まずいかもしれないが___百鬼は立ち上がって部屋の掛け金をはずした。
「どうしたんだ?」
「ちょっと___いい?」
扉を開けるとフローラは少し上目遣いで、周りを気にしながら言った。百鬼はなんだか不思議に思ったが、彼女を部屋へと招き入れた。ランプに火を入れると部屋は仄かに明るくなった。
「さっきはごめんなさい___痛かったでしょ?」
「ブレンのに比べたら軽い軽い。」
百鬼は心配そうな顔をしているフローラに、いつも通りの笑顔を見せた。
「なんだかあたしもカッとなっちゃって___あなたのこと言えないよね。」
「俺も驚いた。でもおかげで目が覚めたんだから、感謝してるよ。」
百鬼はベッドに腰を下ろした。
「それだけ?」
黙ってしまったフローラに百鬼が尋ねる。
「___隣、座っていい?」
「え?ああ。」
百鬼が頷くのを確認してから、フローラはベッドに腰を下ろした。不思議だった。フローラはどこか初々しく、少し照れているようにも見えた。
「どうしたんだ?ちょっとおかしいぞ、おまえ。」
「うん、あたしもそれは分かっているのよ。でもこんなこと話せるのはあなたくらいしかいないと思って___」
「ソアラのこと?」
フローラは控えめに頷いた。
「半分はソアラのこと、半分はライのこと___全部あたしのこと。」
「?」
「ちょっと恋の話をね___誰かに話した方が楽になる気がして。」
フローラは微笑むが、作り笑いのようなぎこちなさだった。
「恋か___そういえばおまえこっちに来る前、ライと一緒に住んでたんだって?」
「___住んでた。うん、そう。でもずっとじゃなかったわ。」
フローラは自然と百鬼の手に自分の掌を重ねていた。
「一度は実家に帰っていたの___そこで五年間を過ごすつもりだった。でもそこで悲しい出来事があって___あたしはライのいるカルラーンに向かった。」
百鬼は悲しい出来事が何であるか知っている。ハイラルド家は元々北方に強い商人だ。その大商人一家が悲劇的な死を迎えたこと、そしてその名がハイラルドであることは耳にしていた。だが、ライから彼女がそのことで酷く傷ついているとも聞いていたので、誰も話題にはしなかった。
「ライは暖かかった。彼は悲しむあたしを慰めることに一生懸命で___私は彼と日々を送ることになったの。」
「おまえらって昔からじゃないの。それがちょっと進展しただけだろ?」
ライとフローラの仲は二人が出会ったときにはもう始まっていた。ライがまっすぐに彼女のことを好きになっていたのは周知のことだった。だが___
「ううん、止まってしまったのよ、そこで。」
フローラは首を横に振った。
「一緒に住み始めて一年が過ぎた頃、彼は私にプロポーズしてくれた。」
「!?___あのライが!」
百鬼は驚きと同時に、笑っていた。その気持ちは良く分かる。恋の話は時に笑い話だ。
「そりゃあ___驚いただろ〜。」
「嬉しかったよ。驚いたというより、彼にあんなに異性を感じたのは初めてだったから、彼があたしに恋していることを認めて、それをあたしに伝えてくれた勇気はとっても嬉しかった。」
フローラは懐かしむように、しかし寂しげな笑顔でいる。まるで終わった恋を語るかのように。
「へえ___」
百鬼は真剣に彼女に向かい合い、告白するライの姿を思い浮かべ、なんだか腹を擽られるような違和感を得た。何しろ、それは百鬼が抱くライのイメージからは最も遠い姿だ。
「なんて言ったんだ?あいつ。」
「___言いたくない。恥ずかしいじゃない。」
フローラははにかみ、百鬼は茶化すように彼女の腕を肘で小突いた。
「とっても感動したわ___あなたが思い浮かべてるようにぎこちなかったけど、精一杯の愛の言葉だったと思う。でもね___」
フローラの手に力が込められる。
「断っちゃったの。」
「___え?」
呆気にとられた。断る理由なんて何もないように思えたから、百鬼はぽかんと口を開けていた。
「彼の気持ちは本当に嬉しかった___涙も出てきた___でも___」
憂い気な笑みは複雑で、それが当時の彼女の心境を写し出している。
「あたしは頷けなかった。」
「何で?何の邪魔もないんじゃないのか?」
百鬼はフローラの心情が理解できない。二人の愛を冷ます事件があったわけでもないだろうに。むしろ自分とソアラの関係よりもよほど夫婦らしかったはずだ。
「あたしもライが好き。でも___頷けなかった。」
「怖いのか?」
その問い掛けをフローラはすぐに否定した。
「怖くなんてない。だってライだもの___」
「ならどうして?」
「ソアラ。」
フローラは百鬼の目を見つめ、一言だけきっぱりと言った。
「私の中でソアラが大きすぎるの。」
「おいおい___」
百鬼は苦笑いを浮かべたが、フローラの真剣な眼差しに笑みを消した。
「本気よ___私はソアラを愛してしまっていた。おかしいとは思うけど、ソアラが男性だったらどんなにって___思っていた。」
「本当だな、おかしいよ。」
百鬼はフローラから目を逸らし、吐き捨てるように言った。
「あたしね___昔からソアラの側にいて、いつの間にかソアラ無しではいられなくなっていた。戦闘を学んだのも、医学を志したのも、きっかけはソアラだった___そして___ソアラが死んだとき、自分の中の大きな思いに気が付いた。」
それは百鬼も同じだった。彼女を失ってはじめて、自分の中でソアラがどれほど大きな存在だったのか、思い知らされた。
「ライから愛を語られたとき___ソアラの姿が頭をよぎってしまったの___あたしはライの言葉に答えを返せないで、それからはぎこちない同棲が続いた。」
フローラは膝小僧を見つめ、悲しげに微笑んでいる。
「ライが可哀想だ。」
「___うん___」
百鬼の言葉はフローラの胸を強く締め付けた。
「あいつがどれだけの勇気を振り絞ったか___それをさ、確かにおまえはソアラに憧れているのかも知れないけど___ライのことだって好きなんだろ?」
「___うん___」
双眼に涙がたまっていた。百鬼はそんなフローラを慰めるように、大きな掌で彼女の頭を撫でた。
「なあフローラ、俺もそうだったんだけどさ___恋をして、好きな奴ができて、そいつに愛を伝えた時って___その時はどんなに女々しい男だって、男勝りな女だって、本当の男と女になれるんだよ。友達とか仲間とかじゃない、それを越えた男と女って奴。」
百鬼は彼女の滑らかな黒髪に、純粋さを感じる。
「好きなだけじゃ駄目なんだ。それを伝えて、二人だけの愛の心が芽生えないとさ。それまでは性別なんて関係がない、ただの友人だろ?俺だってソアラを男みたいな奴だって思ってた。でも、俺はあいつを女にしたくなったし、俺が男になったとき、あいつも女になってくれた。」
頬を伝ったフローラの涙を指で拭ってやる。
「世の中には男と女しかいない。そして男を男にできるのは女であり、女を女にできるのは男なんだ。あ〜、なんだかよくわからなくなってきたな。」
百鬼は照れくさそうに頭を掻いた。
「とにかく、ソアラじゃおまえを女にすることはできない。でもライはできる。あとはおまえ次第だな。」
「ならさ___」
フローラは涙を拭い、百鬼に身体を寄せた。百鬼は思わず身じろぐ。
「あたしからソアラの匂いを消して。」
「消すって___お、おい___」
フローラは百鬼の胸に身を埋めた。どうして良いか分からなくなった百鬼は、絶対にこのままベッドに倒れることなどないように心懸けながら、彼女をそっと抱きしめてみた。
百鬼の___男の屈強な腕、大きな体に包まれたその時___フローラは自分が女であるのだという事を感じた。男の抱擁は女を守る。女の抱擁は男を慰める。その差を感じた。ソアラに抱かれたとしても、安らぎは得ても守られているのだという気持ちにはならないと感じた。
「___」
百鬼の身体にはソアラの温もりが染み付いているのだろう。彼に抱かれていると、ソアラの女を深く感じ取ることができた___
「ありがとう。」
フローラの呟きを聞き取った百鬼は、腕を放した。
「ライを男にできるか___?」
「___きっと。」
離れ際の問い掛けに、フローラは頷いた。
「いま抱かれていて___ライの姿がよぎったから。」
「よし。」
百鬼は大きく頷いた。
「しっかし、たまにどきどきさせるよなぁおまえって。」
百鬼はフローラの肩を叩いて本音を口にする。
「覚えてる?あたしたちがキスしたとき。」
フローラは悪戯っぽく微笑んだ。
「えぇ?あ〜、覚えてる覚えてる。ソードルセイドの偽装結婚式だろ?」
「そう!」
「あれは参ったよ、元はと言えば棕櫚の作戦だったんだよなあ。おまえのウェディングドレスが最高に綺麗だったんだ。」
「ドレスが?」
「ドレス姿が。」
もう五年以上前のこと、今思えば懐かしい思い出だ。
「あたしね、あのときが本当の、ちゃんと構えたキスって初めてだったの。」
「いっ!?」
百鬼は驚いて頬を引きつらせた。
「そ、その割に潔かったよなあ___」
「ちょっとね、思うところはあったのよ___だからあなたも特別といえば特別。」
フローラは百鬼の鼻を指でつついて笑った。それからも二人は和気藹々と昔話を楽しんでいた。ソアラがいない寂しさを忘れ去るかのように、いつまでも笑いあっていた。
翌日、再び旅が始まった。
ソアラは無事、ヘル・ジャッカルより脱走した。彼女と再会するときのため、皆は聖杯を手に入れ、竜神帝ゆかりの土地へと向かう。
必ず再会できる。そう信じて___
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