1 あたしってば不幸!?
海岸に面した森の木々はいずれも強い湿り気を帯び、柔らかい。滑るわけではなかったが、まるで腐ったようにボロボロと崩れ、登るのは難しく枝も頑丈ではなかった。身体を休めるなら木の上が良いと思ってみても、結局下草にまみれてムカデに怯えながら休まらない時を過ごすだけだった。
「まずは人の住んでいる場所を探さなくちゃ。」
ロペ島から大陸へ。ソアラは再び大いなる大地を踏んでいた。海岸から少し入り込んだ森の中。辺りの様子もまったく分からない暗闇で、ソアラはしっとりした草のしとねに安座していた。
「う〜、やっぱりまだちょっと寒いな。」
海で冷え切った体を温めるためにソアラは砂を使った。砂にドラゴフレイムの熱を吸い込ませ、プラドの爆発で激しく巻き上げる。すると熱いシャワーを浴びるているようで心地良かった。
「さぁて、ロペ島からの船がたどり着く港町がこの辺りのどこかにあるはず。まずはそこを目指さなくちゃね。」
ソアラは先程食事を済ませた。薬草の類を炙っただけのディナー。だがこの食材選択は必然だった。闇の空が続くせいか木の実が見られない。暗闇の中で動物や魚を探すのは難しいし、虫だけはどうしても食べる気がしない。
「うい___?」
そろそろ港町探しをはじめようかと立ち上がったソアラは、丈が長くて歩きづらいワンピースの裾を、膝上まで引き破った。その時、首筋に何かが落ちてきたことに気が付く。
「___ぃ?」
サーッと身体から血の気が引いていく。首筋を這う何かのヒダが、規則正しくソアラの肌を嘗める。この感触。元はと言えば小さい頃に射されて酷い目にあったのが原因だ。しかしそうだと分かっていても、こいつだけはどうしても苦手だった。そもそもこいつの足は何なんだ!
「きゃぁぁぁぁぁっ!」
ソアラはヒステリーに叫ぶと、いてもたってもいられずに走った。彼女が走り出した瞬間にムカデは首筋から振り落とされていたのだが、そんなことに気付くわけがない。恐ろしいまでの本能で、視界のきかない森で躓きもせずにソアラは走った。
ドンッ!
ようやく首筋にムカデがいなくなったことに気付いたとき、何か柔らかくて肌触りの良いものにぶつかった。
「?」
ソアラは鼻面を抑えながら、目の前の何かに手を触れた。ふんわりと柔らかいそれは、察するに毛皮のようだ。しかし辺りがあまりにも真っ暗で何がいるのか分からない。
「___」
悪い予感を心に抱きながらも、ソアラはそっと指先にドラゴンブレスの炎を灯した。
「ブホ〜。」
鼻息が炎を揺らし、ソアラの前髪を吹き上げた。身体にぶつかってきたならず者の様子を伺うように振り返り、そいつは大きくてびしょ濡れの鼻でソアラを匂っていた。
(や___山羊!?)
ただの山羊ではない。鼻だけでソアラの顔くらいの大きさだ。大きな横三日月の瞳でソアラを睨んでいる。屈強な肉体に雄々しい角。確かこんなモンスターがいた。
「お、穏便にいきましょうよ___ね?」
頭を上下に動かし、前足で土を掻きはじめた大山羊を宥めるように、ソアラは引きつった笑みを浮かべた。ゆっくりと後ずさって離れようとするが、もはや目があった時点でむこうは臨戦態勢だ。
パキッ。
枝を踏みつけたソアラの足下で、軽やかな音が鳴る。
「ゥオァァォオオオゥッ!」
山羊が突然雄叫びを上げた。危機を感じたソアラは素早く走り出した。
「アアアアォォォオゥッ!」
酒に溺れた中年男のような声を張り上げ、大山羊はソアラを追いかけ出した。
「何でこうなるのよ〜!?」
ソアラは片手に炎を灯したまま、木々の迷路を駆けずり回る。横倒しになった木を飛び越え、枝葉を潜り抜け、俊敏に逃げる。一方の大山羊は憚るものを全てなぎ倒して、まっすぐにソアラを追いかけた。距離は縮まっても広がりはしない。
「卑怯だ!ちゃんと避けなさいよっ!」
「ウボォァァァオッ!」
ハードルを跳び越えるのと弾き飛ばすのと、どちらが早いか。そんな競争のようだった。
「追いつかれる!?」
巨体で迫る大山羊のスピード感は確かに凄まじいものがあったが、それ以上にあっという間に息切れしはじめた自分の身体に失望した。
「動いてないと___こんなものか!」
鼻息が背中に吹きつけたところで、ソアラは全身のバネで真上に飛び上がった。木の枝にぶら下がった彼女の下を、大山羊は怒濤の勢いで駆け抜けていく。もうすっかり我を忘れていたのだろう。立ち止まることも、方向を変えることもなく、地響きの余韻だけを残して走り去っていってしまった。
「フゥ___いつっ、腕上げると背中が痛いや。」
ミシッ___
「え!」
嫌な音の出所を振り向いたソアラが、青ざめたときは既に遅し。
「もしかして太った!?」
そういうわけではないのだろうが、ソアラがぶら下がっていた枝は幹の部分から脆くもへし折れてしまった。辛うじて身体を前へと振ったソアラは、太さのある枝の下敷きになることもなく軽やかに下草の上へと降り立つ。しかし___
グシャッ。
沸々と悪い予感を漂わせる音がソアラの背後で鳴った。ソアラは片手にドラゴンブレスを灯し、恐る恐る後ろを振り返った。
「ん___?」
後ろには野太い枝が転げ落ちている。大きな枝の先には黒く見える葉が茂っていて、そこには大量の小枝が散らばっていた。そして小枝の側には、何かの破片、そして黄色く液状に近い塊。
「___あ、割れてる。」
それは黄身。そして散らばっていた破片は卵の殻。よからぬ気配を感じて顔を上げたソアラは、別の止まり木から恨めしそうにこちらを睨む鋭い眼光に気が付いた。
「___やっぱり___あたしを___」
木の上からこちらを睨み付けているのは、黄金の羽毛で身体を覆った巨鳥。確かガルーダとか呼ばれるモンスターだ。ソアラは慎重にその場から逃げようとするが、ガルーダは首を沈めて黄色い眼で彼女の動きを追っていた。
「睨んでるのよねぇ___」
冷や汗が沸いてくる。きっと今度も___
「クァァァッ!」
「ひえええっ!」
逃がしてはくれなかった。
(相手は鳥目、光がなければ___)
ソアラは茂みの中に身を投じて掌に灯していた炎を消す。別の止まり木に移って首を傾げているガルーダを撒くように、なるだけ音を殺し、身を屈めて茂みを進む。十歩二十歩とガルーダの居場所から離れていくが、飛び立つ羽音もなく、ソアラは少し安心した。
(作戦成功!)
鳥目はズバリだ。暗闇ではガルーダはこちらを見つけることができないと知り、ソアラは余裕を取り戻す。開けた視界の中からなるだけ木々の入り組んでいない方へと足を移した。
「あれ?」
そう、なぜだか急に回りがよく見える。木々は明るい彩りに照らされていて、何となく後ろが熱い。なぜだろう___?
「!?」
背後を振り返ったソアラは驚きのあまり硬直した。
「も、燃えてるっ!?」
なんと彼女の背後で森の木々が炎を上げて燃えていた。燃えさかる炎の向こうから、ガルーダはしっかりとソアラを見据えていた。半開きになったその嘴の間から、小さな炎が溢れ出していた。
「まじ___?」
嘴が歪んだように見えた。怒りと憎しみを込め、ガルーダは大きく翼を広げた。
「逃げるっきゃない!」
ソアラは身を翻して躊躇いなく駆けだした。風に乗らせては向こうの方が速い。少しでも速く、遠くへ逃げなければ!
「!」
ソアラが一歩を踏み出したのと同時に、木の葉を焼き払って空から炎が降りかかってきた。背後からの輝きで道はよく見える。炎の熱を背に感じながらソアラは走った。
ゴオッ!
炎はソアラの進む道を的確に追いかけて上空より降り注ぐ。
「速い!もう追いつかれてる!」
ソアラは走りながら右手を輝かせた。
「プラド!」
白熱球を三つほど右側に弾き出し、ソアラは左に急旋回した。後方で連続した爆発が起こり、それを追いかけてガルーダの炎が降りかかった。
「引っかかった!」
遙か後方で燃えさかる炎を振り返り、ソアラは思わず笑顔になった。
ドンッ!
やっと逃げ切ったと思ったその時、また柔らかい壁に激突した。その感触の良い毛皮にぶつかるのは本日二度目だ。
「ブホオオッ!」
「あーっ!もうっ!」
あまりのツキのなさに涙が出そうだ。見事に再会を果たした大山羊、しかも今度は彼の胸に激突してしまった。彼は燃えさかる炎にすっかり興奮状態だ。
「オァオンッ!」
「うわっ!?」
大山羊はソアラの服の襟に噛み付くと、勢いよく頭を振り上げた。ソアラの身体は軽々と枝葉を突き抜け、空へと飛び出した。
「!?」
ソアラの目前にガルーダが大口を開けて迫っていた。なんと見事なコンビネーション!嘴の奥で炎の揺らめきが迸る!
ゴオオオッ!
上空に目映い輝きが散らばった。しかし一瞬だけそれ以上の輝きに身を包んだソアラは、魔力の爆発力で一気に空の高見へと急上昇した。
「さすがにしつこい!」
母の執念とは恐ろしいものだ。ガルーダはソアラを追いかけて同じ高さにまで一気に上昇してきた。この怪鳥を倒すことはできるだろう。しかし卵を割ってしまった非は自分にある。産みの苦しみが分かるだけに、ガルーダを傷つけたくはなかった。
「掴んでくるのか!」
ガルーダは強靱な爪を光らせ、ソアラに襲い掛かってきた。ソアラは飛行の魔力を開放し、下降気味に滑空した。虚々実々の逃走劇。飛行を本職とするガルーダに負けないほど、ソアラは滑らかに、そして素早く空を舞っていた。
「えっ!?」
しかし真正面の森の中から別のガルーダが勢いよく飛び出したことで状況が変わる。親父の登場だ。
「まずいっ!」
ソアラを追いかけていたガルーダよりも一回り大きい怪鳥は、ソアラの真正面で嘴を開けていた。上昇をかければ母親に追いつかれる。かといってこのスピードで森の中に突撃するのもダメージが大きい。右でも左でも、魔力を調整して方向を変えなければならない。
「うまくいかない!」
ソアラの飛行はまだ発動と停止の選択でしかない。微妙に速度を落としたり、急な旋回をやれといわれても無理な話だった。
ゴオオオオオッ!
ガルーダの吹き出した炎はドラギレアに匹敵するほどの火力でソアラを襲う。
「___!」
飲み込まれるわけにはいかない!一時だけ考えるのをやめた。変に悩まず、魔力を操作しようという気持ちを捨てた。すると彼女の身体はは、自然と肩が捻れ、左右のバランスを崩した。
ギュルルッ!
風の抵抗がソアラの身体を回転させる。炎を撫でるように、大きな螺旋を描いたソアラは、雄ガルーダの横をすり抜けていった。
意識したわけではない。何故かソアラの身体は風の操り方を知っていた。まるで昔から空を飛ぶことが当然のように、彼女は巧みに宙を舞うことができた。
「気流___そうか!」
魔力の飛行にこだわっていたからか、鳥が気流で飛ぶことを忘れていた。追いかけられたくなければ彼らが追いかけられない環境を作ればいいのだ。
「ディオプラド!」
上空にいながら、ソアラは掌を上に向けて白熱球を放った。がむしゃらだったからか、飛びながらの呪文も自然とこなしていた。
ゴッ!
ソアラが強く手を握ると同時に、上空で巨大な爆発が起こる。ソアラに、そしてガルーダにも、強烈な風が吹きつけた。上昇の気流を殺されたガルーダは、上から吹きつける風で森の中へと押し戻されてしまう。
(いまだ!)
ソアラは魔力を糧に飛ぶだけでなく、後方からの爆風をさらなる加速力として、無我夢中に飛んだ。
___
一分は飛んだだろうか。全速力で飛びすぎて、途中からすっかり目をつぶってしまっていた。漸く速度を緩め、後方を振り返ったときにはガルーダはおろか、あの森さえ遙か彼方にあった。小さな炎が遠目にも見える。
「やった___!」
ホッとしたことで魔力の集中が解けてしまう。あっという間に自由落下がはじまった。
「えっ!ちょっ___うそっ!?」
慌てて魔力を集中しようとするがうまくいかない。冷静になろうと落下しながらも目を閉じ、両手を体側に構えて気を落ち着かせる。するとソアラの両手から全身に行き渡った魔力が一瞬だけぼんやりと白い輝きを発し、落下の速度が徐々に緩やかになっていった。
「フフフ___あたしも成長してるみたい___あら___?」
突然、貧血に似た意識の遠のきが訪れる。なんとか気は保ったものの、どうやら魔力の根本に問題があったようだ___
「限界___って奴?」
慣れれば慣れるほど飛行に労する魔力は少なくできる。しかしソアラの場合はまだまだ不慣れだ。コック全開で放出し続けたにも等しい彼女の魔力は、もはや底を突いていた。
「あああああ〜!」
まるで今まさに空へと放り出されたように、ソアラの落下速度が元に戻った。情けない声を上げ、下から吹き上げてくる蒸気の中へと突っ込んでいった。
派手な音を立て、ソアラは水中に没した。ただ今回はジャルコにやられたときとは違う。水は海水ではなく温水で、回りには裸の女たちがたくさん居た。
「プハッ!」
ソアラはすぐに「温泉」から顔を上げる。息を落ち着かせる間もなく、回りから向けられる殺気に血の気が引いた。
「キャーッ!」
「痴漢ーっ!」
本当についていない___今度は手桶や石鹸の洗礼。しかし、どさくさとはいえ大陸の街へとたどり着くことができたのだから、その点では幸運だったようだ。
なにはともあれ、まずは温泉街ブレックウェルの婦女子たちに、自分が女であることを証明しなければ___
(元はといえばあのムカデが___!)
そうそう、今回の一件でソアラはますますムカデが嫌いになったという。
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