1 地獄の伝道師

 ソアラは息を潜める間もなく走り続けた。大きな一つの岩山であるヘル・ジャッカル、抜け出す穴はいくつかあるが、空を飛ぶことを本職とするモンスターもたくさんいる。まだ飛行にあまり慣れていないソアラが逃げ切るのは難しいだろう。
 目指す場所はエスペランザから教わった。一番下だ。ヘル・ジャッカルが小さな島にあるのは知っているが、その周囲をソアラは見たことがない。先達てハーラクーナに向かったときだって、ダ・ギュールに都市の側まで送ってもらったのだ。エスペランザの話では岩山の周りには海岸まで灰色の森が続いている。この森に潜みながら進むべき、その考えにソアラも賛成した。
 情報の提供はありがたい。だが何よりも嬉しかったのは___
 「僕は確かにアヌビス様の命令で君を見張っている。でも、僕だって命令より大事なものを知っているつもりさ。」
 エスペランザのこの言葉だった。
 「ソアラが脱走を始めたようです。」
 アヌビスの横に現れたダ・ギュールは唐突に告げた。
 「ははっ、突然だな。閃いたってわけか。」
 ソアラはアヌビスの能力を見破るまでここを離れないと公言していた。何がきっかけで見破ったというのか、それを想像するだけで愉快なものだ。
 「いま多くのモンスターたちが追跡をしています___が、このままでは逃げ切るでしょう。」
 「当然だろうな。相手は竜の使いだ、八柱神でもなければ捕まえられない。」
 アヌビスは今の状況が愉快でたまらないのだろう、薄笑いを隠せないでいる。
 「捕らえますか?」
 「馬鹿を言うな___」
 薄笑いの目つきが幾分だけ鋭さを増した。
 「逃がすに決まってる___」
 それは決定事項のようだ。

 「しつこいっ!」
 モンスターたちは我こそはとソアラを追いかけ回した。アヌビスは彼女を逃がすつもりでいるが、個人的に彼女を追いかけることに躍起になっているモンスターたちを止めるつもりもないようだ。
 「あれは___!」
 先の角で女が手招きしている。ソアラは彼女の顔に見覚えがあった。
 「ネスカ!」
 ソアラは手を差し伸べた気弱な魔族に引かれるようにして、角に滑り込んだ。彼女はベティスに絡んでいろいろ世話になってきた小柄でかわいらしい魔族の娘だ。
 「おいおまえ!紫の女はどごに行っだ!?」
 押し掛けてきたモンスターが、廊下掃除の「ふり」をしているネスカに詰め寄った。
 「あっちです。急がないと追いつけませんよ。」
 「うおおおっ!」
 モンスターは一目散にネスカの示した方向へと駆けだしていった。
 「もう大丈夫ですよ。」
 もたもたしていたモンスターの後ろ姿を見送り、ネスカは自分の背後に続く廊下を振り返った。壁のくぼみに身を隠していたソアラは複雑な表情だった。
 「ネスカ___どうしてあなたまで?」
 「エスペランザから話は聞いています。まだソアラさんに助けていただいた恩を返していませんでしたから。」
 ネスカは牙を覗かせて微笑む。
 「そんなこと___」
 「私ってこう見えて義理堅いんですよ。さあ、急いでください。」
 ネスカはソアラに背を向かせ、ポンと押した。
 「ごめん___」
 「本当に嬉しかったんですよ。助けて貰ったことなんて今までなかったから。」
 ソアラは優しい笑みを浮かべ、ネスカの頬にキスをした。
 「ありがとうネスカ、あなたも気をつけて。」
 そしてソアラは素早く走り去っていく。ネスカは彼女の姿が見えなくなるまで見送っていた。それから改めて、今度はふりではなく廊下掃除を始めた。
 「おい。」
 「?」
 不意な声でネスカは振り返った。

 「ソアラ!こっちこっち!」
 ヘルジャッカルの最下層。エスペランザは薄汚い布をかぶって現れたソアラを呼んだ。周りにモンスターの姿はない。他でもない、彼が巧みな話術で追い払ったのだ。
 「エスペランザ___!」
 彼の背後には、ヘル・ジャッカルの内部よりも遙かに暗い景色が広がっている。それが山の出口。その先には黒の中に浮かび上がるような灰色の森が広がっていた。
 「さあ別れを惜しんでいる暇はないよ。外でアイルツとフェルナンドが待っている。急いで!」
 「ありがとうエスペランザ、必ず戻ってくるよ!」
 ソアラはエスペランザを抱きしめ、彼の毛むくじゃらの頬と頬をつけあって再会を誓う。そしてソアラは邪神の住処から外へと飛び出した。瞬間遅れてモンスターたちが大挙してやってきた。
 「おい!エスペランザ!紫色の女はどこに行った!?」
 「いま向こうで掴まって剥かれてるらしいよ。早く行かないと損するぜ。」
 この一言でモンスターたちは我先にと駆けだしていく。楽なものだ。
 「?」
 モンスターが立ち去った後、彼は小さな人影を見た。

 「お待ちしておりました!」
 「フェルナンド!アイルツも!」
 森に入ってすぐのところで蝋燭を手に待ちかまえていたのは二人のゴイルナイト、アイルツとフェルナンドだった。
 「我々が大陸へとご案内いたします。」
 アイルツは敬礼をしてソアラに忠誠を誓う。
 「ご案内って___」
 「我々はあなたの部下です。地の果てまでご一緒いたしますよ。」
 フェルナンドは鳥のくちばしで笑みを作った。
 「ありがとう___あなたたちの思いは決して無駄にしない。」
 「さあ、参りましょう!」
 蝋燭の火を消し去り、三人は森を進んだ。森の中は闇以上の暗さで、この景色に慣れている二人が手を取ってくれなければ、海岸までたどり着くのも簡単ではないのだろう。
 この環境下では俊敏な動作さえままならない。この夜が作られたものであるのなら、まずはこれを何とかしなければ、アヌビスとの戦いなんてできはしないだろう。
 「海が見えてきました___!」
 少しだけ明るい。森の向こうの夜は鮮やかで、黒の中にも違った色が感ぜられた。
 「飛べますか?低空で海上すれすれを進みます。」
 「任せて。」
 森の切れ目が近づく。ソアラはゆっくりと両手から全身へと魔力をたぎらせる。飛行の方法は大気と魔力との反発力。魔力で体全体を覆い、大気とぶつけ合うことで摩擦の上昇力を生み出す。大気と魔力のバランスを掴むことができれば、この魔力を別物として呪文を使うこともできるだろう。しかしソアラにはまだまっすぐ飛ぶだけで精一杯だ。
 「飛びます!」
 「はいっ!」
 ソアラの体が一瞬だけ白い霧のようなものに包まれ、すぐに消えた。地を蹴った彼女の体は勢いのままに急上昇し、手が放れてしまったアイルツとフェルナンドがあわてて追いついてくる。
 「飛び上がりすぎです!見つかります!」
 「ごめん!まだうまくできなくて___!」
 二人のゴイルナイトはソアラの体を引っ張るようにして低空へ運ぼうとする。だがその瞬間ソアラの顔つきが変わった。ヘル・ジャッカルの方向から思わしくない気配が急接近してきたからだった。
 「っ!?」
 ソアラが突然力任せに二人の体を引き上げ、魔力を解放してさらに上昇した。アイルツとフェルナンドが驚いたのもつかの間、彼らのすぐ下を暗黒の息吹が駆け抜けていった。息吹が放つ波動は刃物のように鋭く攻撃的。三人の前で大きく拡散し、中から現れたのはあの小柄な男___
 「逃げられると思ったか?おい。」
 ジャルコだ。
 「よりによって___」
 こいつに対しては妙な恐怖感がある。だがそれ以上の怒りもある。しかしとにかく現れて欲しくはない男だった。何しろこいつは容赦ない。
 「ソアラさん、ここは我々が___」
 ソアラの盾になるように、アイルツとフェルナンドが剣を抜いてジャルコに向き直る。
 「無茶よ___」
 「早く行ってください、我々が稼げる時間は僅かです。」
 「おい。」
 彼らの情けの掛け合いを無視するように、ジャルコが声を上げる。
 「手土産があるんだ、受け取ってくれるか?」
 ジャルコは薄笑いを浮かべ、今まで背に隠していた両手を露わにした。その悪魔の手が握っていたものを目の当たりに瞬間、ソアラは髪が逆立つのを感じた。
 ジャルコの両手は真っ赤だった。肌の色も分からないほど、生々しく新しい血で染まっていた。
 右手は女の髪を乱雑に掴んでいた。左手は獣の顔を鷲づかみにしていた。
 両者とも、首だけしかない。あとは血が滴り落ちるばかりで、ネスカとエスペランザの首だけが彼の手の中にあった。
 「な、なんてことを!」
 「おのれ!」
 フェルナンドとアイルツが怒りを露わにして動いた。
 「駄目!」
 悪寒に全身を支配されたソアラは叫んだ。しかし二人はジャルコに斬りかかることをやめなかった。そしてさらなる悲劇が起こる。
 「くくく___」
 ジャルコは二人の首を投げ捨て、右手をゆらりと前へと向けた。そしてその掌が突如として激しく輝く!
 ギュン!
 それは魔力とも違う、だが壮絶な力が込められた輝きであることは間違いがなかった。光の筋は夜の闇を切り裂き、迫り来るフェルナンドを飲み込んだ。一瞬の出来事。あっという間に光が過ぎ去っていくと、残されたフェルナンドの剣、腕、膝から先、翼の一部が抵抗なく眼下の海へと落ちていった。
 「うおおおっ!」
 アイルツの渾身の一太刀をジャルコは俊敏な動作でやり過ごし、引き抜いたサーベルの柄で彼の頭を殴りつけた。何かが砕ける音とともに、明らかに頭部の陥没したアイルツは一切の力を失って海に落ちた。
 「___」
 ソアラは言葉を失っていた。ついさっき礼を言ったばかりの四つの命が、一瞬にしてこの小男に消されてしまった。
 「どうした?竜の使いが怖がるのか?」
 正直恐ろしい。今の自らの危機は勿論だが、あの四人が殺されたのだという事実がソアラを混乱のどん底に陥らせていた。指先は勝手に震え、ジャルコを強気な目で睨み付けることもできない。
 「残念だったなぁ、うまくモンスターどもを利用して逃げられるはずだったのになぁ。」
 「___!」
 その侮蔑の言葉はソアラに気概を取り戻させる。
 「なんですって___?」
 「狡猾なやり方だっていうのさ。あいつらのおかげでおまえは体よく逃げ出せるはずだったんだぜ。」
 ジャルコは両手についた血を舌で削ぎ取り、ソアラをせせら笑った。ソアラは憎しみを込めてジャルコを睨み付けたが、反論はできなかった。
 彼らは好意で手を貸してくれた。結果としてソアラに関わったがために殺されたのは事実。だがジャルコのやり方はあまりにも短絡的だ。
 「おまえはそうやって私を嘲笑うために___同族を殺したのか!?」
 彼らの死を無駄にしないためには、この小男の強引なペースに飲まれてはいけない。ソアラは気を強く持ち、言い放った。逃亡のチャンスを常に伺うことは忘れずに。
 「不愉快だな、あんな雑魚を同族扱いするなよ。」
 「クズ野郎___」
 怒りが冷静さを奪っていく。飛ぶことだけで精一杯の空中でジャルコに挑んだとしても、微々たる勝ち目もない。だが一発殴らなければ気が済まないほど、怒りがソアラの心を掻き乱していた。しかし___
 「もっと怒れ。」
 「!」
 その言葉が一気に熱を奪い取った。
 「どうした?怒ってみろ。」
 極限の感情の高ぶりが、ある種の引き金となることはソアラも分かっていた。怒りに我を忘れることは、竜の使いの力を呼び覚ますきっかけである。だがソアラは___
 まだ自分の力が怖かった。
 ベティスの腕を切り飛ばしたというあのとき、自分に一切の記憶がなかったことがとてつもなく恐ろしかった。自分がソアラでなくなってしまう、そんな気がしていた。だから彼女は、自分が竜の使いであることは認めても、その力を呼び覚ます努力はしなかった。
 「できないのか?つまらねえ奴だな。」
 「!」
 突然ジャルコが動いた。風よりも早く一気にソアラとの距離を詰めると、鋭利な拳を柔な彼女の腹へとめり込ませる。体の内側で何かが炸裂するような感覚とともに、ソアラは目を剥いて舌を突き出す。口元から血が溢れ出た。
 「かはっ___」
 一撃。ソアラは息も絶え絶えに、宙に身を留めておくことができずに彼の腕に凭れた。
 「どうした?加減してやったんだぞ?」
 「うっ___くふっ___」
 なんとか呼吸は取り戻し、ジャルコの肩に手を突っ張って体を持ち上げようとする。だが残存するダメージで力が持続せず、すぐに肘が折れた。
 「しょうがねえなぁ___こんなに弱い竜の使いじゃ話にならねえ、戦うしか能のねえ奴らだっていうのによぉ。」
 ソアラにはジャルコの罵声を受け止めることしかできない。ジャルコは力無き彼女の胸ぐらを掴むと、力任せに自らの真上へと放り投げる。そして腰にぶら下げていたサーベルを抜いた。
 「___」
 銀色の輝きがソアラにも見えていた。だが体が言うことを聞かない。身を捻ることだってできない。サーベルの一太刀をやり過ごすことは不可能だった。
 「やめろジャルコ!」
 空にジャルコを制する声が響き渡る。しかしジャルコは止まる男ではない。これっぽっちの迷いもなく、ソアラの落下にあわせてサーベルを振るった。鋭い一太刀とともに、ソアラの背から血飛沫が上がる。そのまま彼女の体は血の帯を伴って水中へと没した。
 「遅かったか___」
 惨劇の空に現れたもう一人の黒服。クールな八柱神、ラングだ。
 「なんだってんだ?」
 ジャルコは僅かに血の付いたサーベルを一振りし、鞘に収めた。
 「アヌビス様はソアラを逃がすつもりでいた。竜の使いにはまだやって貰わなければならないことがあったのだ。」
 「何だよ、それならそうと言ってもらわなけりゃ。俺はただ逃亡者をそのままにしておけねえから仕留めただけだぜ。」
 ジャルコは殺しの好きな男だ。たとえ彼が承知の上であろうと、止められなかったのだからこうなってしまったことはもう仕方がない。
 「やむを得んな。とにかくアヌビス様に報告に戻ろう。」
 「おう。」
 二人の八柱神はそのまま宙を滑空してヘル・ジャッカルへと戻っていった。ヘルジャッカルの海岸沿いに、再び静寂が訪れる。
 「プハッ!ハァッハァッ!」
 静寂を突き破り、海面に顔を出した一人のゴイルナイトは激しく息をついた。頭の形がゆがみ、左目は眼球が出血して真っ赤に染まっていた。それでも彼は精悍な顔をしていた。それは彼ら独特の忠義心、守るべき者のためには命をも捧ぐ騎士道精神の現れ。
 「我々の___ソアラさんの思いを無駄にしてはいけない___!」
 意識を失い、大きな傷口から血を流出させるソアラ。だがそれでもアイルツは僅かな希望に賭けた。ソアラをその肩に乗せ、一人のゴイルナイトは必死に水を掻いた。大陸を目指して。




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