3 アヌビスの瞬間

 「アヌビス様の生い立ち?」
 「そう。」
 暫くして、ソアラは早速アヌビスの能力を解き明かそうと乗り出していた。嗅ぎ回っていることがばれようともお構いなし。だから平気でエスペランザにそんな質問をぶつけていた。
 「うーん、僕も詳しいことは知らないけど___有名な話ならあるよ。」
 「どんな?」
 広報の血が騒ぐのか、エスペランザは極密着しているソアラとの距離に照れながら、流暢に語り出した。
 「邪神っていうのは、生まれたときには身体を持っていないんだ。」
 「へ?」
 ソアラはあっけにとられてだらしなく口を開ける。
 「あ〜、ソアラは知らなくて当然だよ。でも邪神はね、父親と母親の邪気の融合から生まれ、それから自らの肉体を自らの手で決めるのさ。もちろん一度選んでしまった肉体から離れることはできない。それでね、アヌビス様の父親も当然邪神なんだけど、邪神っていうくらいだから普通はさ、大きくて力強くて、強烈な身体を選ぶわけよ。でもアヌビス様はあの肉体を選んだ。」
 「どうして___?」
 そのころから変わり者だったのか?いや___
 「僕には分からないよ。でもこうして今や世界を覆すほどの邪神になられたわけだし、選択は正解だったんじゃないの?これは想像だけどさ、きっと両親の失望を買ったり、別の邪神に罵られたり、大変だったと思うよ。」
 そんなに俗な世界かどうかはしらないが___ともかくアヌビスも異端だったのは確かなようだ。その点では自分に共通するものがあるとソアラは感じた。
 「ねえ、アヌビスの能力ってどんなこと?」
 「それはしらないよ。」
 エスペランザはきっと知っている。言わないだけだ。
 「おしえてよ___」
 ソアラはエスペランザのふかふかした頬に指を滑らせて、艶っぽく問いかける。だがエスペランザは彼女を振り払うように首を動かした。
 「だめだめ!僕はこれから仕事だから!じゃ〜ね〜!」
 エスペランザはソアラの腕をすり抜けるようして、走り去っていってしまった。
 「もう。」
 ソアラはブスッとして彼の後ろ姿を見送っていた。
 「おい女。」
 「?」
 不愉快な呼び方だ。声も口調も高圧的だった。ソアラはムスッとした顔で振り返る。
 「八柱神___」
 そこにいたのはソアラより、いやフローラよりも背の小さな男だった。ソアラと比べても頭一つぐらい背が低い。だが彼が黒いマントに身を包んでいるのを見れば、八柱神であることは一目瞭然だった。
 「女。」
 「ソアラよ。」
 身長に反比例し、小男の態度は尊大で、そのべたつくような笑みは攻撃的かつ自信に溢れていた。ソアラはこの手の男が好きではない。何より彼の邪悪は露骨で、ソアラの目つきも自然と鋭くなった。
 「女、アヌビス様の能力について知りたいらしいな。」
 「ソアラだって言ってるでしょ。」
 「俺についてくれば教えてやってもいい。」
 まったく聞く耳さえ持たない。それだけ言い残すと簡単に背を向けて歩き出す。ソアラは憤りを押さえながらも小男を追った。
 彼が八柱神一の暴虐者、ジャルコであるとも知らずに。
 「ちょっと〜、どこに連れて行くきよ。」
 ジャルコはソアラの言葉に耳も貸さず、マイペースに進む。小走りかと思うほど早足で、ソアラは彼を急いで追いかけなければならなかった。
 「もうっ!」
 先行く彼を追いかけて廊下の角を曲がったときには、もう彼が別の角を曲がる姿が見えた。ソアラは腹を立たせながらそれを追いかける。
 「部屋?」
 中は牢獄のように無味乾燥な部屋だ。ランプが灯っているがジャルコの姿はない。
 「ちょっと〜、どこに行ったのよ〜。」
 ソアラは怒った顔で、軽い気持ちで部屋に入り込んだ。そのとき!
 「えっ!?」
 真横から伸びた手がソアラの右手首を掴む。振り向いた彼女は身の毛のよだつような、ジャルコの邪悪な笑みを目の当たりにする。危険だ!そう思ったときは遅かった。
 ボキッ!
 ジャルコはソアラの右肘に手を宛うと、そのまま彼女の手首を無理にねじ曲げた。肘で鈍い音が響き、ソアラの顔から一瞬にして血の気が引いた。
 「うあああっ!」
 ソアラが顎を上げて叫ぶ。しかしジャルコはソアラの腕を放すと構わずにその腹に拳をたたき込んだ。
 「!」
 嗚咽がこみ上げ、ソアラは身を縮めて片膝をつく。ジャルコは彼女の前髪を掴んで顔を上げさせると、平手でその頬を四発張った。全身に響く痛みでソアラは冷たい石の床に崩れ落ちた。あまりに突然でいったい何が起こっているのかさえ分からない。
 状況が理解できたのは、ジャルコがぐったりとして虚ろな目でいる彼女を蹴飛ばして、仰向けにしてからだった。
 「う___えっ!」
 マントを脱ぎ捨てたジャルコの、小さいながら筋骨隆々な肉体を目の当たりにして、ソアラは我に返った。
 「!」
 ジャルコはソアラの両足の間に跪くと、何の躊躇いもなく彼女のショートパンツを引きちぎった。
 「やっ!なにすんのよ!」
 ソアラは必死に健常な左腕で彼の肩に爪を食い込ませる。しかしジャルコは冷静にソアラの右手を掴むと、ゆっくりとひねった。
 「うあああああっ!」
 染みいるような痛みが仰向けの彼女をさらに仰け反らせる。頭の中で痛みが轟音となって響き渡った。
 「ひっ!」
 臀部に床の冷たさが伝わり、ソアラは震えた。ソアラの膝を取ったジャルコはじっくりと物見をするようにして、ニヤリと笑った。
 「やっぱり下も紫だったな。」
 「!」
 屈辱的な台詞。ソアラは憎しみの籠もった目で彼を睨み付ける。
 「だから___だからっなんだっていうのよ!そんなことのために___!」
 「いや、竜の使いとやってみたかったんだ。しっかり楽しませろよ。」
 「いやっ!くっ!?あああっ!」
 ソアラの抵抗を嘲笑うように、ジャルコは彼女の右腕を絞る。激痛が全身を支配して、彼女の身体は飛び跳ねんばかりに震えた。
 「じゃ、早速。」
 虚ろな双眼から涙を溢れさせるソアラ。意識朦朧の内に、彼女は地獄を覚悟した。しかし___
 「それ以上前に出て見ろ、あたしがおまえのをぶった切ってやる。」
 ジャルコの首筋に、朧気に輝いた掌が宛われていた。輝きには異常なまでの圧力が迸っており、ジャルコの額に脂汗を浮かび上がらせた。
 「ラ___イディア___?」
 涙で視界が歪んでいたが、背格好と髪の色でジャルコの背後に立つのがライディアだということがソアラにも分かった。
 「ライディアよぉ、俺は別にちょっとした好奇心でこいつの___を借りたかっただけさ。しこたま痛めつけてやればベティスの時みたいに、光り輝いてくれるんじゃねえかと思ってよお。ま、どうせだったら竜の使いを味わってみたいじゃねえの。」
 ジャルコは横顔でライディアに毒気のある笑みを見せ、卑猥な言葉を吐いた。
 「減らず口を___!」
 ライディアの掌で、光がうねりを上げる。薄紅色の髪がそれに呼応して揺らめいていた。
 「分かった分かった___」
 ジャルコはソアラから手を離し、ゆっくりと立ち上がり、腰を隠しもせずにライディアの方へ振り返った。ライディアは露骨な嫌がらせに顔をしかめる。この小男はまったく反省すらしていない。
 「このつけはいずれおまえに払ってもらう。そのつもりでいろよ。」
 「あたしに指一本でも触れて見ろ___おまえは炭と消える。」
 「ラングの炎でか?ククッ、怖い怖い。」
 ジャルコはマントを拾い上げ、まったく無警戒な背中で部屋を出ていった。彼の姿が見えなくなってからも暫くの間、ライディアは掌の輝きを維持したまま直立していた。

 そのころ___
 暗闇の朝を迎えた百鬼は、まだ眠い眼を擦りながら、顔を洗おうと神殿の水場までやってきた。
 「おーす、フュミレイ。」
 水場には先客が居た。白髪の美しき横顔を見た百鬼は、寝ぼけていたせいか思わずそう呼んだ。
 「おはようございます、百鬼さん。」
 「え?あっ!」
 百鬼もようやく自分のミスに気が付いたようだ。彼女はフュミレイではなくレミウィスである。
 「いま俺フュミレイって言いました!?」
 「はい。いいんですよ、お気になさらずに。」
 レミウィスは慌てふためいている百鬼の姿を見て微笑む。神官服も司祭帽もなく、昨日は黒かった髪が全て白髪になっている。そしてなにより、レミウィスにはあまりにも妹の面影がありすぎて、百鬼が間違えるのも仕方のないことだった。
 昨日は長い時間、レミウィスとお互いのことを語り合っていた。竜神帝や竜の使いのことはもちろん、皆のこれまでの冒険やフュミレイのこと。
 「妹とはどのようなご関係でしたか?」
 「い?」
 顔を洗っていた百鬼は突然の直球質問に思わず動きを止めた。
 「フフフ、サザビーさんから伺いました。あなたが妹とソアラさんの間で揺れていたと。」
 レミウィスは悪戯っぽく笑い、百鬼もびしょ濡れの顔で苦笑いした。レミウィスは彼に布を差し出す。
 「俺がフュミレイを選んでいれば、あんなことにはならなかったかもしれない。」
 百鬼は顔の水気をふき取りながら何気なく言った。
 「___それは失言です。」
 「レミウィスさん?」
 だがその言葉はレミウィスに戒めの顔をさせる。
 「私はあなたやソアラさんのことはまだ良くは知りません。しかし妹のことは___共に過ごしたのは短い間でしたが、分かっているつもりです。あなたを必要としているのは妹ではなくソアラさんなのです。それが分からなければソアラさんを不幸にしてしまいます。」
 「どういうことだい___?」
 レミウィスは続けた。
 「ソアラさんの孤独を癒せるのはあなたただ一人なのです。仲間、友情の域を超え、ソアラさんと心を溶け合わせることのできる人物、それは夫であるあなたをおいて他にありません。あなたが常に思ってあげなければならないのは、妹ではなく、ソアラさんです。」
 レミウィスは窓の向こうに覗く暗闇の空を見つめた。
 「百鬼さん、あなたには使命があります。」
 そして思い立ったように彼に諭した。
 「あなたの家族であるソアラさんのため、できることを全てやるのです。そして、やがて彼女が自らの真実と、立ち向かうべき敵を見つけて我々の元に舞い戻ってきたその時、彼女が力を発揮できる環境を作るのです。」
 百鬼はレミウィスをまっすぐに見つめ、しっかりと頷いた。
 「わかった。今はソアラのことだけ考える。」
 「ええ。」
 「そのためにも、まずは竜神帝の復活だ。」
 百鬼はグッと拳を握り、レミウィスに笑顔を見せて立ち去っていった。
 「フュミレイ___あなたも見守ってあげてね___」
 レミウィスは彼の後ろ姿を少し寂しげな目で見つめ、ポツリと呟いた。

 朝食を終えた皆は神殿の外へと集まっていた。次の目的地へ出発するためである。その中には、遺跡探索の時の装束であろう、行動的なスタイルに変身したレミウィスとナババもいた。
 「今後どんな強敵が待っているかも分からない。おまえさんの彼は大丈夫なのか?」
 煙草を吸いながら、サザビーがレミウィスに問い掛けた。
 「ご心配なく。私は命尽き果てるまで闘いますよ!」
 「暗いなぁ。」
 ライが苦笑い。陰術に蝕まれたナババの身体は、もはや人の手ではどうにもできないほど崩壊が進んでいる。だが彼はこの旅に加わると言って聞かなかった。それは愛しきレミウィスを守るために他ならない。
 「マーズバインってよぉ___どーする?やばいぜ。」
 「だからってさぁ、一緒に行かないと俺たちだって狙われてる身だし___」
 談笑している皆から少し離れたところでバットとリンガーがなにやらひそひそと話し合っていた。
 「どうしたの二人とも?」
 そんな二人を不思議に思ったフローラがにこやかに問い掛けた。
 「いえ!なんでもないっす!」
 「うわーバット見ろよー!蟻さんの行列だぜー!」
 「うおーっ!すげーっ!」
 取り繕うように盛り上がっている二人を見てフローラは小首を傾げた。
 「ウ〜ン、神の復活を目指す旅。中庸界では復活を阻止するための旅でしたが、やっぱり目的が前向きだと意気込みが変わりますね。」
 「___」
 やる気満々の棕櫚の隣でバルバロッサは相変わらず沈黙している。
 新メンバーを加えて心機一転!っといった雰囲気だが、事の経緯は昨夜の晩餐に遡る。
 ___
 「もし皆さんが本気でアヌビスを倒そうと考えているのであれば、まずはこの闇に塗りつぶされた空に光を戻さなければなりません。」
 「それはそうだろうな、正直暗闇の中で旅をするのは楽じゃない。」
 既に食事は済んでいたが、紅茶を片手に皆とレミウィスの間で話は弾んでいた。
 「でもどうすればいいんですか?」
 「竜神帝の復活。それしかないでしょう。」
 フローラの問い掛けに、レミウィスは力強く答えた。
 「復活って事は、やっぱり光の神様は死んじゃったんすね。」
 リンガーは自分たちの耳にした噂が嘘ではないと分かってどこか誇らしげだ。
 「いえ、竜神帝は朽ち果ててはいません。そもそも竜神帝は天の世界にいるのです。ここは帝の目から最も遠い世界。故にアヌビスのような邪悪の暗躍を許しやすい。」
 「確か三元世界ですね。」
 棕櫚の言葉にレミウィスは頷いた。
 「そうです。帝はこの世界に邪に抗う光を宿らせたといいます。それは天から竜神帝の力を伝えるために欠くことのできない神具。」
 「そうなんだ〜、あちちちちっ!」
 いつもの如く入れたての紅茶をすぐさま口に含んで舌を火傷しているライ。
 「しまった!先をこされたぁ!」
 「おそいよ〜!」
 勝手に悔しがっているリンガーとバット。「無視して」と百鬼に囁かれ、レミウィスは少し戸惑いがちに話を続けた。
 「えーっとですね、ああ、その神具が一体どこにあるのかはまだ分かっていませんが、竜神帝がこの地界に築いた城があります。」
 「城___それはどこに?」
 「ネルベンザック大陸です。」
 「ネェルベンザックゥゥゥッ!?」
 「うっるっさいんだよおまえはっ!」
 激しいリアクションで仰け反って見せたリンガーに、バットが突っ込みを入れる。しかし一同の視線は冷ややかだった。
 「ほら、うけてないし。」
 「やっぱりテーブルの上に滑り込むくらいした方が良かったんじゃねえのか?」
 「いや、むしろ突っ込みをもっと軽くした方が___」
 ポイッ。
 「うわぁちちち!」
 サザビーの放り投げた煙草が二人の顔に炸裂。
 「さ、続けて。」
 「はぁ___」
 どうにも話が進まない。
 「ネルベンザック大陸は危険な土地です。大陸を統べていたネルベンザック城はモンスターの手に落ち、地界の中枢ともいえるこの大陸にはもはや人は住んでいないとまで言われています。竜神帝の城もこの大陸、ゾヴィスという湖の側にあることが私たちの調べで分かっています。」
 「調べで___?」
 「決して古いものではありません。百年ほど前に築かれた遺跡から、それについての文献を見つけました。竜神帝の加護を受けゾヴィスを見る城が、世界の安寧を約束する___しかしこれは不確かな情報ですが、城は数十年前に忽然と姿を消したと聞きます。」
 「どういうことだ?」
 レミウィスにも分からない。彼女は目を閉じて首を横に振った。
 「ですが場所は分かっています。そのゾヴィス湖に行くことが、光の復活への足がかりになることは間違いない、そう私は考えています。」
 「死の大陸と噂されるネルベンザックですか___しかしまあそこで息絶えているようでは、アヌビスには勝てませんね。」
 「そうそう、いいこと言うね。」
 棕櫚の言葉をサザビーが拍手で賞賛する。
 「そうだな、確かに俺たちはアヌビスを倒すことを大目標に闘っている。モンスターの巣窟と呼ばれる大陸に踏み込むくらいで、びびってらんねえな。」
 「目標が決まったって事だね。」
 百鬼とライも次々に納得の表情を見せる___一方。
 「本気かよ___」
 「まじっすか___本気でネルベンザックに?」
 バットとリンガーはすっかり怖じ気づいている。いや、地界の人々にとってはやはりネルベンザックは踏み込んではならない大陸。それくらい恐怖の意識が定着した存在なのだろう。
 「いえ、まずゾヴィス湖を目指すというのはいけません。ゾヴィス湖は一つの到達点。竜神帝にまつわる手がかりを手に入れた上で、目指すべきではないでしょうか?」
 「手がかりとは?」
 「聖杯です。」
 聖杯。新たなる鍵となる言葉だ。
 「なんなんですか、聖杯って?」
 「詳しいことは分かりません。しかし竜神帝に大きく関わる品です。ドラゴンズバイブルにも記されています。でも分かっているのは、この世界のどこかにある神殿に納められているということだけです。」
 「分からないことだらけだね。」
 「地界はモンスターの多い世界です。遺跡の探索にはモンスターとの戦闘が付き物です。私たちも必ずしも満足な調査をできるわけではないのです。」
 もっともだ、いつ化け物と遭遇するかも分からない場所で数日も寝泊まりするのは、実に神経をすり減らす作業である。
 「実は聖杯に関しては、ここより北部にある『竜清の遺跡』に何らかの手がかりがあることが分かっています。ですがそこには強力なモンスターが住み着いていて、一介の探検家では手に負えないのですよ。」
 ナババは両手を上に向け、お手上げといった仕草を取る。
 「いかがですか?あなた方は竜の使いに魅入られた人々___竜神帝の復活に力を貸しては下さいませんか?」
 「それはもちろん。さっきまでの竜の使いの話を聞いてると、ソアラのためにも竜神帝の力は蘇らさなくちゃならない。」
 百鬼の決意は固い。フローラも力強く頷いた。
 「良かった___では早速、善は急げということで明日出発。」
 「え?一緒に行くの?」
 百鬼はあっけにとられて思わずレミウィスを指さした。
 「ええ。いけませんか?正直申し上げて、我々の知識無しに竜神帝の復活はかなわないと自負しているのですが。」
 レミウィスは笑みを浮かべた口元に自信を覗かせる。
 強引で唐突な決定___思えば妹も良くやってくれたものだった。
 「え〜、遺跡の場所ですが、ここから北東のマーズバイン村のすぐ近くです。」
 「マーズバイン!?」
 バットとリンガーが揃って声を上げた。椅子を弾き倒さんばかりの勢いで立ち上がっている。
 「なんだ?どした?」
 突っ込みのバットまでが一緒になって驚いているのが妙だ。百鬼はキョトンとして二人に問いかけた。
 「い、いやなんでもないよ。なぁリンガー。」
 「お騒がせしました。」
 二人は明らかな作り笑いでお互いを見やりながら再び腰を___
 「おがっ!?」
 下ろしたが、椅子が倒れていた。二人はあえなく転倒。
 「何なんだ、あいつらは。」
 とにもかくにもこうして次の目的地が決まった。そしてレミウィスとナババという新しい仲間も加え、心機一転の出発となったわけである。ただどういう訳か、バットとリンガーは妙にそわそわして落ち着きがなかったらしい。

 チャプン___
 ジャルコの魔の手からライディアに救われたソアラは、下半身にまとわりつく嫌悪感を洗い流すため、風呂に浸かっていた。
 「興味本位で___ああ腹が立つ!」
 ソアラは水面を掌で叩き、水飛沫が大量に弾けた。傷はライディアにすっかりと癒してもらった。
 「紫色だから何だっていうのよっ!竜の使いとやってみたかった?___ふざけんじゃないわよ!」
 今のソアラなら石風呂をかみ砕けそうな、それくらいの迫力があった。しかし一人になってから苛々していても始まらない。長風呂なのはいつものことだが、ソアラはジャルコに辱められた事への怒りよりも、アヌビスの能力の解明に思考を切り替えた。
 「アヌビス___そうだ、もしあたしがアヌビスと同じ能力を身につけていたとして、ジャルコから自力で逃れることができたかしら?」
 アヌビスは己の能力に絶対の自信を持っている。投げつけられたナイフの方向を変えたり、人が持っている本をまったく気付かれずに取り換えたり___
 「きっとジャルコから逃れることもできるはず。そんなの、アヌビスの能力なら簡単なはずだわ。」
 ソアラは揺れる水面をじっと眺め、充分に潤滑油の染み込んだ脳を駆使して思考を巡らせる。
 「ジャルコが動けなければあたしはすぐにでも逃げ出せた。でもそれはナイフの方角を変えることには繋がらない___一瞬で___」
 その時、ソアラはあることに気が付いた。自分の口にした言葉が妙に引っかかったのだ。
 「一瞬?一瞬か___瞬間___そうだ、アヌビスはいつも瞬間の変化であたしを驚かせてきた。いや、変化が瞬間だから驚くんだ。あたしの目に見えるスピードでナイフの方向を変えたり、本を取り換えたとしてもそれは驚く事じゃない。あたしには分からないような瞬間の速度で変化が起こるから驚き___能力と言えるんだ。」
 瞬間。その着眼点は悪くないとソアラは確信した。しかし長風呂がたたってか、少し頭がぼんやりしてきた。
 「駄目だ___上がろう___」
 布で身を包み、木の扉を開くといつもの部屋。
 「あちゃー、またやっちゃったよ。バカだね〜、いつもいつも。」
 部屋に風呂があったのは最高に有り難かったのだが、どうにも空気の抜け道が乏しい。長風呂癖を発揮すると、いつも部屋中が湿気で満たされてしまう。
 「あ〜あ、鏡が真っ白。」
 部屋にたった一つだけの鏡が曇りきってしまっている。手で拭うと掌がびっしょりに濡れた。
 「あーっ!」
 ソアラはテーブルの上に置かれた砂時計に駆け寄った。
 「しまった〜、罅が入ってたんだ!砂が固まっちゃってるよ___」
 この砂時計はソアラが日常的に持っているもの。ちょうどあのアモンの元で修行を積んだとき、制限時間内にメニューをこなすという訓練を知ってから、日頃の鍛錬に欠かせない存在となっていた。
 よく見てみると、ガラスに小さな罅が入っている。時計の内側には水滴もできており、逆さにしても砂が下に落ちることはなかった。
 「駄目だこりゃ___この砂時計はもう使えな___」
 ソアラの顔色が変わった。目を大きく開き、唖然としたような顔だった。砂時計は彼女の手から滑り落ち、床で砕けてガラスの破片を飛び散らせた。
 「___そうか___そうだったんだ___」
 長い沈黙の後、ソアラは小さな声で呟きはじめた。
 「砂時計で計れる時間も___砂が固まってしまえば一瞬。」
 ソアラの瞳に力が沸き上がる。それは興奮を伴い、彼女に拳を握らせた。
 「アヌビスの能力は砂を固めること___自分だけの瞬間を作り出すこと___つまり!」
 ソアラは確信した。だから声を大にして言ったのだ。
 「アヌビスは『時を止める』ことができる!」
 思いがけない発見だった。




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