1 ドラゴンズバイブル

 「ふむ、よく似合っているな、ソアラ。」
 「ありがとう。それにしてもこの服___」
 ソアラは黒を基調とした服を身に纏っていた。材質は皮に近く丈夫で、形は軍服のようであって上は袖無し、下はショートパンツと行動的。ところにより金色のラインがあしらわれ、何よりベルトのバックルがアヌビスの横顔を象っているところがポイントだ。これはアヌビスがソアラのために用意させた一着だった。
 「褒美ってこれのこと?」
 悪くはない服だ。ソアラもこのバックル以外は気に入っている。これが褒美ならそれはそれで嬉しいが、少し期待はずれな気もした。
 「それも褒美の一つだ。やはり黒い服でないと統一感が出ないからな。」
 アヌビスは笑顔ではあるが、少しだけ今までとは違う雰囲気。ソアラをただおもしろおかしく見ているような素振りはなかった。
 「おまえを九番目の八柱神にする。」
 「九番目?」
 ソアラは問い返した。
 「つまりだ、誰か欠員が出た場合はおまえが八柱神になるんだ。」
 「ハハッ、どういうつもりか知らないけど、まあそうしたいならそうすれば?ただあたしはそこまであなたに入り浸る気はないよ。」
 「現金だからな、女というのは。」
 アヌビスが口元を歪め、ソアラはムッとして口を窄めた。
 「ただ俺も遊びでおまえを八柱神にしてやろうというんじゃない、おまえの実力なら申し分ないと判断したからだ。何しろおまえはベティスの腕を切り飛ばした。」
 「___」
 あいかわらず自分はアヌビスの手の上にいるようだ___彼はソアラが口ごもり、アヌビスに忠誠を誓ってでも知りたいであろう事柄を、躊躇いもせず持ち上げて天秤に掛けてくる。
 「あなたは私がどうしてあんなことができたのか___知っているんでしょ?私は知らないわ。」
 そしてソアラも、それを分かっていながらアヌビスとのかけひきに乗じる。彼はこれまで彼女に殺しをさせ、能力を引き出すために戦劇へと出場させた。今度はなにを突きつけてくるのか?言い得ぬ不安がソアラを襲う。
 「くくっ___」
 だが今日は少し違った。
 「それは___」
 それは不安を一蹴するほどの強い印象を、彼女の脳に焼き付ける一言だった。
 「___おまえが『竜の使い』だからさ。」
 その言葉を耳にした時、ソアラは硬直し、ダ・ギュールは怪訝な目でアヌビスを見た。
 「アヌビス様___」
 「少し喋りすぎたか?」
 アヌビスはダ・ギュールを振り返って自嘲気味に笑った、そのとき。
 「おっ!?」
 突然体に重みが掛かり、アヌビスは目を大きく開けた。ソアラが玉座の彼の胸にすがりつくようにして抱きついていた。突然のことにさしものアヌビスも面食らったようだ。
 「おいおいどうした?」
 アヌビスは髪の短くなった彼女の頭にその大きな手を乗せた。
 「ありがとう___」
 ソアラは顔を上げない。彼の胸に身を埋めたまま絞り出すように言った。
 「あたしのこと___あたしのことをたった一言で表現してくれたのはあなたが初めて___!」
 泣いているのだろうか?ソアラはアヌビスの胸で小さく震えていた。アヌビスは何も言わず、彼女の背を優しく抱き、頭に乗せた手で髪を撫でる。ソアラは邪神の胸で思う存分、嬉し泣きを続けた。

 「やっと見えた!」
 幌から首を出して外を見ていたバットが威勢良く叫んだ。キュクィが高台の森を抜けたそのとき、ついにジネラ大陸最大の都市ハーラクーナの全貌を目の当たりにすることになる。遠目からも空に差す光でこの都市の大きさは伝わっていたが、実際に目で見ると改めて大きい。都市に城塞がないことがこの町の規模拡大を助長しているのかもしれない。
 「あの山が気になるな。」
 手綱を取っていた百鬼は町の中央に飛び出した小さな山と、その頂点に立つ神殿らしき建物に気を引かれた。あれこそがまさに、光の神にまつわる神殿なのだろう。
 「うわ〜、相変わらずでけぇなぁハーラクーナは。」
 リンガーも他を威圧するように広がるハーラクーナの町並みを眺めて言った。
 「おまえらは初めてじゃないのか?」
 「何度か来たことがあるよ、ハーラクーナは。」
 久しぶりなのだろう、バットは大都市の目映さに目を輝かせていた。
 「おまえら家出してるんだよな、もしかして故郷ってこの辺なのか?」
 「いやいや!まあ俺たちの古巣のことはいいじゃねえっすか!」
 リンガーは苦笑いをしてはぐらかす。この二人は故郷を飛び出してきた家出少年だということまでは分かったのだが、なぜか故郷のことを語ろうとしない。言えない理由でもあるのか、故郷に追い返されるとでも思っているのか。何はともあれ、目的のハーラクーナはもう目と鼻の先だ。

 ハーラクーナは独特の活気にあふれていた。壁を作らない町の形が表すように、開放的で心の強さを持った人々。商人はこちらを旅人と見るや話しかけてくるし、どの建物も看板が派手で大きい。これまでのどこの町にも見なかった大道芸人までいる。とにかく賑やかで、明けることのない夜が続いているとはとても思えないほど光を感じさせるところだ。
 「うわー、なんだかこれだけ派手な町だとちょっと嬉しくなるね。」
 ライは浮かれた様子で肩を弾ませていた。商店の建ち並ぶ通りを進むと、方々からおいしそうな臭いも漂ってきた。この町はうろうろしているだけでなんだか楽しくなってくる。当然こんな空気が苦手であろうバルバロッサはいつも通りの別行動だが。
 「ハーラクーナが沈んだら終わりだってみんながそう思ってるからね、無理してでも明るくしてんのさ。」
 バットは知ったようなことを言って、露店の主人の目がない隙に果物を一つその手に収めていた。相変わらずの手癖の悪さだ。
 「ただ気勢を張っているだけには思えないわ。みんな何か頼れるものがあって、前向きでいる気がするもの。」
 フローラはヒョイとバットの果物を取り上げ、先ほど通り過ぎた店へと戻っていく。
 「おまえらソアラに痛い目に遭わされてまだ懲りてねえのか?」
 「へへへ、これが取り柄だから。」
 「そうそう、それしか能がないんだ、勘弁してやってよ。」
 「おいっ!」
 リンガーはバットの頭に手を乗っけて笑っていた。
 「しかし元気がいいのは良いことなんですが、もう一つ気なになりますね。」
 棕櫚は町並みを見渡して首を傾げた。
 「見たところこの町にはエキゾチックな娘が多そうだな。」
 「そうじゃねえだろ。」
 煙草片手にサザビーの目は早くも浮気相手探しか?
 「お年寄りが多い気がするんですよ。」
 「言われてみれば___」
 通りを眺めるだけでも老人の姿がいやに目に付く。しかもその多くがとても元気そうで、力を感じさせるところが不思議だ。
 「腕のいい医者がいるんじゃないかしら?」
 結局さっきの果物を買ってきたらしいフローラが、戻ってくるなり言った。バットは果物を受け取って申し訳なさそうに照れ笑いした。
 「医者か、あり得るな。」
 ハーラクーナの町並みをどんどん中心部に向かって進んでいく。目指すは中央に飛び出しているあの小山だ。あの神殿が光の神にまつわるものであるならば、この世界の過去について知ることができるかもしれない。自然と足取りは軽くなる。しかし___
 「うわっ、なんだこりゃ!?」
 一目見た瞬間、バットが顔をしかめた。
 「すごいな___」
 山の大通りに面した部分には大きな階段が設けられていて、神殿へと続く道になっている。しかし皆が驚いたのは、その階段を埋め尽くす老人の列だ。
 「どうやらハーラクーナのお年寄りが元気な秘訣はここにあるようですね。」
 階段を下りてくる老人は皆、気力に満ちている様子だ。
 「どうする?僕たちも並ぶ?」
 「えー、面倒くさいっす。」
 「また後で来たほうがいいかもな、それでいいか?」
 サザビーは百鬼に問いかけた。おそらくすぐにでも山頂の神殿に向かいたいであろう彼に問うのは真っ当なことだ。
 「ああ、焦っても仕方ないからな。」
 百鬼の顔色は穏やかで、答えは落ち着いたものだった。だが彼をよく知る仲間たちは、素早く踵を返した彼の態度に強がりを感ぜずにはいられなかった。

 ハーラクーナの輝きを遠くの空に見るその場所にソアラはいた。彼女は風の中に立ち、大地をとうと忘れていた。それは驚くべき進化であったが、決してできないことではないと思っていた。しかしそれにしても、たった数時間の学習でこうも簡単にできる自分のセンスには驚いた。
 足は地にない。空にある。それは大地を捕らえるためでなく、体のバランス取りの一部となる。翼はいらない。魔力で彼女は大地を下に見ていた。
 (こんなに早く空が飛べるようになるとは思わなかったな___)
 まだ不安定ではある。気を抜くと魔力がバランスを失ってしまいそうだった。しかし鍛錬をすれば、空中での俊敏な動作もできるようになる自信はあった。
 「ソアラ様。」
 ソアラの側には二匹のモンスターが翼で気流を捉えて漂っていた。体は人間だが顔は鳥型。ただ鳥人間と言うよりは、ある種の悪魔に近い、ゴイルナイトと呼ばれるモンスターである。
 「お心持ちはいかがでございますか?」
 「心中お察しいたします。お心を決められましたなら我々にお申し付けください。」
 だが彼らはモンスターと呼ぶには惜しいほど、礼節と忠義を心得たナイトである。若干顔つきが違うだけでよく似ている二人のゴイルナイト、名はフェルナンドとアイルツといった。今回の任務にあたり、ソアラのサポート役としてアヌビスが与えてくれた「ソアラの部下」だ。
 「ありがとう、あたしは大丈夫よ、すぐにでも行けるわ。」
 「左様でございますか。」
 「では参りましょう、ソアラ様。」
 フェルナンドとアイルツは彼女に敬礼を送る。しかしソアラは困り顔になっていた。
 「そのさぁ、ソアラ様ってやめてもらえない?なんだか調子狂うわ。」
 二人のゴイルナイトはキョトンとして互いに顔を見合わせた。
 「しかしソアラ様は我々の主であります。騎士は主人に対して最大限の礼節を誓うものです。」
 「だったらあたしが困ってるのも聞いて欲しいなぁ。」
 「う〜む。」
 二人はソアラに背を向け、なにやらこそこそと話し始めた。ソアラは彼らの後ろ姿をおもしろそうに見ている。やがて二人が振り返った。
 「ソアラさん___でよろしいですか?」
 「ふふっ、いいんじゃない?さぁっ、フェルナンド、アイルツ!行きましょう、ハーラクーナに!」
 「はっ!」
 ソアラは二人の背を叩き、おもむろに魔力を解放する。体が白い気流に包まれ、風となって滑空を始める。二人のゴイルナイトも遅れまいとそれに続いた。
 アヌビスは八柱神候補となったソアラに早速一つの任務を与えた。
 「ハーラクーナの神殿に、ドラゴンズバイブルと呼ばれる本がある。それは人の手によって書き連ねられたものだというが、竜の使いにまつわる伝承の数々が記されている。それは俺がおまえに真実を伝えるために必要なものだ。」
 「それを奪ってこい___と?」
 任務は強盗だが、ソアラは消極的ではなかった。アヌビス云々ではなく、その本は読まなければならない気がした。それが急に気づかされた竜の使いとしての自覚かどうかは分からないが。

 「ソアラ___」
 百鬼は宿の窓から往来の人々を見下ろす。アーパスからの長旅で、このところ一人になる時間がなかった。久しぶりに一人になれば、自然と思い描くのはソアラのことばかり。だが彼女を責めるようなことは考えもしなかった。最初のうちはあっさりと敵の誘いに乗ったソアラにやりきれないものを感じもしたが、時間がたつにつれてあまりにも彼女が生来から抱えていた悩み、目的を忘れすぎていたことに気が付いた。
 「___」
 通りでいちゃつくカップルの姿に目がいく。子供が生まれてからか、あまりべったりとする時間もなかった。肌を合わせることとはまた別に、初々しいカップルのようにくっつきあっていれば、もう少しは分かったかもしれない。
 どことなく距離が開いていたのかもしれない。
 「おい百鬼、飯食いに行くぜ。」
 部屋の入り口から顔をのぞかせ、サザビーが彼を呼んだ。
 「ああ、行こう行こう。」
 百鬼は部屋の片隅に立てかけておいた百鬼丸を手に取った。
 「剣を持っていくのか?」
 「何があるかもわからないだろ?」
 サザビーは笑みを見せる。
 「昔のおまえからは考えられない用心深さだな。」
 「変わらなきゃいけねえってことさ。」
 「そうかもな。」
 宿の外でフローラたちと合流する。夜を迎えたハーラクーナはまた違った活気を持っていた。なぜ夜かというのは、この町には大きな鐘があり、時報を刻んでいるからだ。時報は克明に今の時刻を知らしめ、この暗黒の世界にあっても住民たちに昼夜の感覚を忘れさせなかった。
 さて食事どころを探して彷徨う皆だったが、思わぬものを目にして足を止める。
 「あれ?」
 「空いてますね。」
 町の中央にある神殿に続く階段から、老人の姿がなくなっていた。
 「今ならお得って感じじゃないっすか?」
 リンガーの言うとおり、これはチャンスだ。全員一致で食事の前に神殿を訪れることにした。
 神殿へと続く階段の前には長身痩躯の男が立ち、掃除をしていた。身に纏っている白いローブを見れば、どうやらここの神官らしい。
 「あ、すみません、今日はもうお時間なんです。」
 階段を上ろうとした皆の前に立つと、男は穏やかな口調で申し訳なさそうに頭を垂れた。皆は意味が分からずに顔を見合わせる。
 「急病人や大きな負傷ということでしたら受け付けますが、皆様どうやらそういうわけでもないようですし。」
 どうもお互い何かを勘違いしているらしい。
 「ここって治療院だったのか?光の神にまつわる神殿かと思ったんだが___」
 百鬼の問いかけに、神官の男は少し驚いたような顔をして目を見開いた。
 「そうですそうです。ここは竜神教の神殿ですよ。いやぁ、久しぶりだなぁ、神官長が老人の負傷を呪文で癒して以来すっかり噂が広がってしまって、今では終日治療院状態だったんですよ。」
 男は掃除道具を放らんばかりに大きな手振りを加え、皆に笑顔を見せた。優しそうな男だが、近くで見るとなんだか顔色が悪い。
 「皆様は旅のお方のようで、この空の下さぞご苦労なさったことでしょう。皆様には竜のご加護がおありだ。」
 信教者だと思われているようだが、この世界の話を聞くにはそれも都合がいい。まずはこの細身でどこか頼りなさそうな神官の先導で、神殿へと向かうことにした。
 そのとき___!
 ゴゴッ!
 さほど大きな音ではないが、山に微弱な振動が走り神殿内で反響したであろう爆音が轟いた。
 「なんだ?」
 神殿を見上げると、すぐさま神官らしき男が飛び出してくるのが目にとまった。
 「ナババ!黒服の女とモンスターが神殿に!」
 「なんだって!?」
 ナババと呼ばれた頼りなさそうな神官の顔つきが変わった。どちらが彼の本当の顔かはともかく、それはまるで戦士のように凛々しく厳しい面もちだった。
 「みなさん、どうやら非常事態のようです!来訪はまた明日にしてください!」
 それだけ言い残して、ナババは颯爽と階段を駆け上っていく。皆は言葉をかけるまでもなく、短い視線の交錯でそれを追った。戸惑っていたバットとリンガーも、サザビーに背を押されて半ばやけくそに走った。

 白い石材で築かれた神殿は美しく、光を広げ、膨張させる特殊な仕掛けが施されている。神殿の中央上部に掲げられた炎一つだけで、神殿全体が明るさを保っていた。その明かりをすぐ背にする位置に、白い法衣を纏った神官長がいた。
 「ひぃぃ___」
 数人残っていた老人が腰を抜かして震え上がっている。彼らに剣を向ける二人のゴイルナイト、フェルナンドとアイルツ。
 「ドラゴンズバイブルを渡してもらえる?」
 そして神官長に向き直るソアラ。できすぎた偶然ではあるが、これが巡り合わせというものなのだ。
 「レミウィス!」
 怒声とともにナババが神殿へと飛び込んできた。彼の掌はぼんやりと輝く。それは今まさに呪文を放とうとしている証だった。
 「ドラゴンブレス!」
 火球が唸りをあげてソアラを襲う。しかしソアラは詠唱もなしにフリーズブリザードを放ち、相殺してみせた。
 「それ以上動くな!」
 アイルツがナババを一喝する。ようやく老人たちが人質に取られていることを知った彼は、息を飲んで動きを止めた。遅れて皆が神殿に駆け込んでくる。その姿を見て先にハッとしたのはソアラの方だった。そして最初に視線が交錯したのはやはり百鬼だ。
 「ソアラ___!」
 百鬼は驚いて声を上げる。いや、唖然というか愕然というか、とにかくそのときの彼の顔をソアラは忘れられそうにない。
 「ソアラ?」
 「あっ!」
 「姐さん!?」
 皆の目は最初老人たちとゴイルナイトに向いていた。しかし百鬼の声で、正面にいた黒服の女がソアラだということに気がついた。何しろ活動的なショートカットに、真っ黒な服では印象が違いすぎる。いや、むしろまだ疑っているくらいだ。第一になぜ彼女がモンスターを従えて現れる?
 「久しぶりね、みんな。」
 だがその一言で疑念は吹っ飛んだ。彼女は小さな笑みを浮かべ、まるで懐かしむような言葉を口にした。
 「なんだ___どういうことだソアラ!?」
 百鬼は自分の前にいたライとナババを押しのけ、歩み出ていく。
 「動くな!」
 アイルツの警告も耳に入らない。ソアラは視線を厳しくして彼を見つめると、ゆらりとその手を前へとつきだした。
 「止まって。それ以上近づけば、あなたを殺すかもしれない。」
 躊躇いはしなかった。気配を鋭敏にし、汗の一つもなく彼に対して殺意を見せる。だが百鬼は聞かずにソアラを捕まえようと走った。
 「馬鹿___」
 ソアラの掌が輝いた。弾けるようにして放たれた白い球体は百鬼の胸に真正面から食い込むと、勢いよく爆発する。プラドだ。百鬼の体は大きく後方に弾かれ、それをライが受け止めた。
 「ソアラ!どうして!?」
 泣き出しそうな顔で訴えながら、フローラが百鬼に近寄って治療に掛かろうとする。だが百鬼はそれを制してすぐに立ち上がると、ソアラを見つめた。
 「あまりあたしを苦しめないで。用さえ済めばいいのよ。」
 ソアラは百鬼に一瞥をくれると、再び神官長に向き直った。
 「ドラゴンズバイブルを渡して。それをいただければすぐにでも立ち去るわ。」
 「渡すわけには参りません。」
 うつむきがちだった神官長の顔は、司祭帽に隠れてよく分からなかった。しかし今、透き通った女性の声色とともに、顔を上げる。
 「!?」
 なぜだか分からないがソアラは彼女と目があったそのとき、身の毛がよだつのを感じた。感触の善し悪しとは別に、妙な凄みを感じたのだ。若々しく美しい神官長の瞳は、色に乏しく、瞳も灰色をしていた。それでもその力強さは別格だった。
 「ドラゴンズバイブルは、我ら正しき神『竜神帝』の伝承を記した聖書。邪神アヌビスの手の者に渡すことなどどうしてできましょうか?」
 神官長の答えは頑なだった。
 「ソアラ!おまえはアヌビスの犬に成り下がったのか!?」
 百鬼が声を張り上げる。ソアラは振り向きはしなかった。
 「渡さなければそこにいる老人たちの寿命が縮まるわ。それでもいいの?」
 そのための人質だ。しかし神官長は慌てる素振りすら見せなかった。
 「あなたには殺せません。」
 そしてたった一言。まるですべてを悟っているかのように言った。ソアラは閉口し、しばし彼女の目をまっすぐに見つめると、まるで「負けた」とでも言うように小さなため息をついた。
 「アイルツ、フェルナンド、解放して。」
 「しかし___」
 「いいのよ。通用しないわ、彼女には。」
 ソアラの指示に従い、アイルツとフェルナンドは剣を鞘に収めた。二人が背を向けると同時に老人たちは神官たちの手を借りて神殿の外へと逃げ出していく。二人はソアラの横に立ち、前後に警戒を強めた。
 「ドラゴンズバイブルはアヌビスのために必要なんじゃない、あたしは今確かにアヌビスの部下ではあるけど、その本はあたしが見たいのよ。それでも駄目?」
 ソアラは無理を承知で神官長に頼んでみる。
 「世界に二つとない過去の記憶がドラゴンズバイブルには刻まれています。そして竜神帝とアヌビスはまさに相対する存在。」
 神官長は首を横に振る。彼女には張りつめた気配はあっても、顔や体を支配する緊張がない。むしろ気圧されているのはソアラであり、彼女にはその理由が分からなかった。
 「人質を解放したくらいで、簡単に渡していただけるものでもないでしょう?ソアラさん。」
 棕櫚が冷静な指摘をする。しかしソアラは後ろに横顔を見せるだけで、神官長の前に立ちつくした。
 「ソアラ、そんなにその本が見たけりゃここで俺たちの元に戻ればいい。そのお二人に退散願ってな。」
 「そうだ、そうしろソアラ!」
 サザビーの案に皆一様に賛成した。しかしソアラは失笑する。
 「駄目、まだ帰れないわ。アヌビスから教えてもらうこと、調べておきたいことがたくさんあるもの。今みんなのところに戻っても、それはちょっとアヌビスの顔を見てきただけに過ぎないわ。それじゃあ意味がないのよ。」
 ソアラは何故か完全に振り返ろうとはしない。それは仲間意識を断ち切ろうという意思の表れか、それとも神官長を視界の外に置きたくはないのか___
 「あたしが『竜の使い』という存在であることはどうやら確からしいけど___」
 「竜の使い!?」
 神官長が驚いたような口調で言い。ナババも息を飲んだ。それは知っている者の反応である。
 「知ってるの!?」
 二人の異変に気付いたソアラは改めて神官長に問いかけた。その表情に必死を滲ませて。そしてこの思いは神官長の決断を早める。
 「ナババ、ドラゴンズバイブルをこの人にお渡しします。」
 神官長は思いもよらない行動に出たのだ。しかも僅かな迷いさえ見せない即断だった。
 「しかし___!」
 「あなたも聞いたでしょう。彼女は竜の使いだというのに、それがなんたるかを知らない。こんなことがあっていいわけはないでしょう?」
 ナババは閉口し、すぐさま神殿の奥へと駆けていく。彼を見送った神官長はすぐにソアラに振り返り、祭壇より降りて近づいてきた。アイルツとフェルナンドは敏感だったが、ソアラは二人を両手で制し、自らも一歩前に出た。
 「___」
 近づいてみるとやはり悪魔的な魅力を持った美女である。瞳の色は特に興味深い淡色で、桜色の唇は淑やかに潤っている。目線の作りはそこまで柔らかではないが、理知的な、気高い何かを感じさせる。そしてソアラはこの手の顔に会うのが初めてではなかった。今になって漸くそれに気付く。
 「似てる___フュミレイに___」
 その小さな呟きは神官長の耳にも届いたようだ。そして何故か彼女はちょっとだけ、顔つきから高尚な仮面を消した。
 「フュミレイ___?」
 神官長はその名を呟くと、再び落ち着いた目でソアラを見つめた。二人は互いの瞳の奥になにやら神秘的なものを感じ、具体的に言葉にすることは簡単ではないが、何かを共有した。
 「レミウィス様。」
 ナババがレミウィスと呼ばれた神官長の元に、一冊の古びた本を手にしてやってきた。それを受け取ったレミウィスは、少しの逡巡もなくソアラに差し出した。
 「これをお持ちなさい。」
 「___いいの?」
 先程まであれだけ頑なだった彼女の一変に、ソアラは戸惑いを感ぜずにはいられない。しかしレミウィスの言葉は彼女の戸惑いを払拭させるだけの確信に溢れ、それはむしろソアラを勇気づけるものだった。
 「これはあなたが持ってこそ価値があるのです。あなたが正しき竜の使いとして、光に導かれるために、これは渡さなければならないのです。」
 「___」
 ソアラはドラゴンズバイブルを手に取る。多少の怖さがあり、しっとりとした皮の表紙をすぐに開くことはできなかった。
 「竜の使いって___何なの?」
 レミウィスはその問い掛けには答えない。
 「ドラゴンズバイブルを手にしたあなたはいずれ真実を知ります。慌てることはありません。心身の成長を伴わなければ、あなたはその誇りに押しつぶされてしまうでしょう。」
 「誇り___」
 ソアラはそっとドラゴンズバイブルを胸に抱く。いつの間にか、皆はソアラへの不審も消え去り、彼女とレミウィスのやり取りを黙って見守っていた。
 「ありがとう。あなたの痛みは絶対に無駄にはしない。」
 「痛みなんてありません。私は___今、確かな歩みを感じているんです。」
 ソアラはレミウィスに手を差し伸べ、彼女もまたそれに答えた。
 「お名前を___」
 「ソアラ・ホープ。」
 「あなたが新たなる伝説を築くことを期待します。」
 ソアラはレミウィスから離れ、フェルナンドとアイルツの元へ。
 「帰るよ。」
 「はっ___!」
 二人は素早くソアラの肩に手を乗せ、アイルツが懐から黒い水晶を取りだした。
 「ソアラ!」
 かつての仲間に背を向けたまま立ち去ろうとしていたソアラの姿に、耐えきれなくなった百鬼が叫んだ。
 「___」
 ソアラは顔だけで振り返る。無言で、笑顔もなかった。
 「土産は忘れるな。」
 思いがけない言葉だった。ソアラは百鬼の笑顔に導かれるように微笑んだ。
 「もちろん。」
 確かな頷きを残し、闇を身に纏ったソアラは二人の部下と共にその姿を消した。神殿は今までアヌビスの僕がそこにいたことが嘘のように、穏やかだった。



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