4 アヌビスに招かれた女
「どうして___」
ベッドに腰掛け、ソアラは俯き加減になって髪をかきむしった。
「___あたしは、確かにアヌビスに向かってナイフを投げた___」
頼りになるのは自分の感覚だけだが、それさえ信じられなくなったら終わりだろう。
「絶対トリックだとは思うけど___」
ソアラ自身の手で、一人の男性の命を絶った事実に何ら変わりはない。彼女は悲しみの顔で何度も首を振った。
「駄目だ、このままじゃアヌビスのペース。私はいまここでできることをやらないといけない。」
このヘル・ジャッカルの中で行動の自由を許されている、まさに異常とも思える特権。これを活かさないわけにはいかない。ソアラは迷いと自戒を断ち切り、強い意欲を糧に立ち上がる。部屋の洋服箱の中に入っていたのは、ヘル・ジャッカル内で多くの女性魔族が身に纏っていたもの、それと同じであろう紺のワンピースだった。ソアラはここでは必要以上に目立つ青い士官服から、そちらへと着替えた。サイズも丁度良く、彼女は少しだけ元気を取り戻して廊下へと飛び出していった。
(きっと魔族やモンスターが集まる大衆酒場みたいのがあると思うんだけど___)
そう考えるのはグルーに連れられてアヌビスの元に向かう際、へべれけに酔っぱらったモンスターが廊下で居眠りをしていたからである。もっとも、酒類の苦手な彼女にとって、酒場に向かうのはとても勇気の必要なことだ。しかしヘル・ジャッカルの、アヌビスの情報を得るには最適の場所だろう。
「さて、どこにあるんだろう。」
むしろいま心配すべきはこのヘル・ジャッカルがかなり広いことと、酒場の場所がまったく分からないことである。
「ねえねえ、君。」
「え?」
突然声を掛けられて振り返ると、そこには白くて長い被毛に覆われた、顔は猫のような違うような、しかし身体はどうやら人間型らしいモンスターがいた。彼は少し間の抜けた顔でソアラに笑顔を振りまき、ソアラは突然のことで少しだけ戸惑った。
「あ、いや、困っているようだから、助けになれるかなぁと思って。」
ソアラの困惑が分かったのだろう、毛むくじゃらのモンスターは頭に手を当て、自嘲気味に話した。そんな彼の態度に好感を得たソアラは、すぐに微笑む。
「ありがとう、本当に困ってたんだ。」
「そう!」
ソアラの笑顔を見て、モンスターは目をキラキラと輝かせる。その表情にはこれっぽっちの陰湿さも、血の気も感じさせない。
「あのさぁ、ここには酒場ってあるかしら?」
「あるよあるよ、大きいのが!そこに行きたいの?」
「ええ。」
「よぅし、僕が案内するよ!」
毛むくじゃらは胸を突き出してドンと拳で叩く。腕がかなり毛の中に埋もれていた。どうやらふっくらしているのは見た目だけのようだ。
「僕はホワイトレオンのエスペランザ。君はあれでしょ、アヌビス様に呼ばれてきたっていう___」
「ソアラよ。」
「そうソアラ!」
エスペランザは嬉しそうに手を叩いていた。
「あたしの事ってあなたたちにも知らされているの?」
「あ〜、僕はかなり情報が早いんだ。仕事でさ。伝言板の管理とかもやってるから。」
「???」
なんだかモンスターらしくない仕事だなぁ、とソアラは思った。しかしこれだけ拾い生活の場だ、生活があればそれに伴う作業は必ず出てくる。例えば今から向かう酒場でも、そこを切り盛りしているモンスターか魔族がいるはずだ。
「戦うだけがモンスターじゃないって事ね。」
「そういうこと。」
「ってことは、あなたははじめから私を狙って近づいてきたんでしょ。」
ソアラは不適な笑みを見せてエスペランザの額を指でつついた。
「あははっ、ばれました?お近づきになりたいなぁと思って。いやぁ、噂通りお綺麗ですねぇソアラさん。」
「煽てんじゃないの。」
ソアラとエスペランザは互いに笑い合った。敵陣の中にあって、これだけ友好的に話ができる者と出会えるとは___ソアラ自身想像もしていなかった。
「ここだよ。」
エスペランザに連れられてやってきた酒場には、壮観な景色が広がっていた。広いヘル・ジャッカルの中とはいえ、これだけの空間にモンスターやら魔族やらがごった返し、どんちゃん騒ぎをやっている。そう、百鬼を待ち侘びていたカルラーンでのパーティー、あの演舞場くらいの広さは雄にある。この空間でモンスターたちは丸いテーブルを囲んで賑やかに酒を酌み交わし、魔族たちは隅の方で落ち着いて時を楽しんでいる。
「凄い所ね___」
圧倒されたというのも勿論だが、ソアラはこんな雰囲気が嫌いではなかった。
「何か持ってくるよ、あ〜、あそこ!あそこ空いてるから先に座ってて。」
「お酒は勘弁ね、苦手だから。」
「おっけ〜。」
酒場に足を踏み入れてモンスターたちの側を通り過ぎていくと、知ってか知らぬか彼らは揃って彼女に目をやり、だらしない顔でその端麗な容姿を眺めていた。
「ようねえちゃん!俺と一緒に飲も〜ぜ〜。」
顔はトカゲと竜のあいのこ、身体は鱗に覆われているが人間、いわゆる竜戦士だとかリザードナイトだとか呼ばれるモンスターが、椅子に座ったまま腕を伸ばしてソアラの手を握った。
「遠慮しておくわ、先約がいるのよ。」
ソアラは落ち着いた微笑で軽くあしらう。しかし彼はなかなか手を離してくれなかった。
「そんなの無視してさぁ、俺たちと飲もうぜぇ。」
彼の媚びの売り方が面白かったようで、テーブルを囲んでいる他のモンスターたちが笑い出す。リザードナイトは強引にソアラを引っ張ろうとするが___
シュッ!
「おっ!!」
彼の眼前でソアラの拳がピタリと止まった。
「フフフ。」
ソアラは軽くその拳でリザードナイトの眉間を突き、微笑んだ。
「放してくれる?」
「ハハハッ、分かった分かった、あんたの勝ちだ。」
「また今度ね。」
リザードナイトに手を振って、ソアラは悠々と空いている席へ向かった。
「___」
テーブルに頬杖を突き、賑やかな酒場を眺めるソアラ。笑い声、騒ぎ声、豪快で、男臭くて___嫌いな空気ではない。由緒あるホープ家に嫁いだこともあって、暫く忘れていたこの野性的な匂い。むしろ心地よかった。
「やっぱり___」
酒場の一角。エスペランザが別のモンスターに何かを話している。その表情は先程までの屈託のない笑顔とは違う、「仕事中」の顔だった。たがソアラは驚きもしないし、これといって彼を問いただすつもりもない。この環境で、監視役の一人もいないほうが不自然だ。
一方___
「ソアラが俺の部下になることはないだろう。」
玉座の前にテーブルを置き、アヌビスはダ・ギュールを相手にチェスを楽しんでいた。
「与えたショックは小さくないと思いますが。」
「すぐに立ち直るさ。あいつは別に人殺しが初めてじゃない。」
アヌビスは盤上を一瞥して素早く手を打つ。
「何故そう思います?」
ダ・ギュールはその一手を読んでいたようで、アヌビスが駒を置いた瞬間にはもう手を伸ばしていた。
「俺にナイフを投げつけようとしたから。」
次はアヌビス。また軽々しく駒を動かしていく。
「アヌビス様、ビショップは縦には動けませぬ。」
「あれ?そうだっけ。んじゃここな。」
アヌビスはまったく手を触れていない。しかし盤上の駒の位置が変わった。
「あいつならこのトリックもすぐに見破るだろ。」
「よろしいのですか?」
ダ・ギュールの問い掛けにアヌビスは余裕の笑みを見せた。
「知ったがために絶望するか___いや、あいつは覆そうとするはずだ。俺をうち負かすためにな。」
「そのためにここまで来たとお思いで?」
アヌビスは大きく頷いた。
「そう、あいつは俺を倒すためにここに来たんだ。それなら信じてみたくもなるじゃねえか。」
「それで無理にでも血を調べたかったわけですな。」
「紫なんてのは前例がないからな。いいじゃないの、そういうところ俺と似てて。」
アヌビスはソアラの色合いを思い出し、小さく舌なめずりした。
「ま、確かにアヌビス様も前例のない邪神でらっしゃるから。」
「言うね、このじじい。」
「チェック・メイトですな。」
「なぬ?」
盤上、アヌビスのキングはすっかり包囲されていた。
「何言ってんだ、俺のチェックメイトさ。」
「む。」
いつの間にやら、アヌビスとダギュールの駒がすっかり入れ替わっていた。まるで盤が回転してしまったように___
「卑怯な。」
「なんとでもいえ。」
ダギュールはチェス盤を睨み付け、腕組みをして次の一手を考えはじめる。
「さっきソアラは俺の部下にならないって言ったろ、ありゃ半分嘘だ。」
「それはなぜです?」
ダギュールが駒を動かす。
「あいつはわざとなら俺の部下になる。色々聞き出したり、俺の弱点を探し出そうとしてな。」
「ありえますな。ところで、私の勝ちです。」
「なに?」
アヌビスはチェス盤を見下ろす。間隙を突いて、実は大手だったダ・ギュールのビショップが、アヌビスのキングを浚っていた。つまり、ダギュールはアヌビスが駒の総取り替えをすると読んで、あらかじめ自陣に大きな隙を作っていたのである。
「はめやがったな。」
「自業自得です。私が幾星霜あなたにお仕えしているか、お忘れですか?」
勝っても冷静なダ・ギュールと、頭を抱えて悔しがるアヌビス。いやしかしこれが本当に邪神なのだろうか。いささか疑問ではある。
「アヌビスって男のこと、あたしはそんなに嫌いじゃあないんだとは思う。」
果汁のジュースを口にして、ソアラはエスペランザと語らっていた。話題のほとんどはヘル・ジャッカルのことであり、アヌビスのことである。
「へぇ、ちゃんと男って呼んでくれるんだ。魔族なんて俺らモンスターのことオスメスって呼んだりするんだぜ。」
「それは酷いなぁ。」
和やかに話も弾むその時、酒場に嗄れた笑い声が響いた。
「グワハハハハ!」
「いやぁぁっ!」
もう一種、女の叫び声。そして酒場の一角にはモンスターたちの人だかりができ、そこから男臭い歓声が沸き上がっていた。
「あれは?」
ソアラは眉をひそめ、人だかりを睨み付けてエスペランザに問うた。
「ベティスって輩さ。ちょっと力があるもんだから幅を利かせててさ、ここの小間使いを手込めにしてるんだ。」
「ショータイムってわけ?」
「___うん。」
ばつが悪そうに頷くエスペランザをよそに、ソアラはスクッと立ち上がった。
「や、やめなよソアラ。関わっちゃ駄目だ。」
エスペランザも慌てて立ち上がって言葉をかけるが、ソアラは聞く耳持たなかった。
「やめられないね。絶対に許せない。」
ソアラはエスペランザが止めるのも聞かず、真っ直ぐに人だかりへと進んでいった。
「どきな。」
最後列で必死に伸び上がっているモンスターの背を蹴飛ばすと、そのモンスターが倒れたのを引き金に小さな将棋倒しが起こった。ソアラは構わずにモンスターたちの背中を踏みつけて前進し、人だかりの中心を見つけると高々と飛び上がった。
「むっ?」
テーブルの上に小間使いを押さえつけ、今まさに服を引き破ろうとしていたのは屈強な大男。顔中が髭で覆われ、その頭部からはウシのような大きな角が二本。上半身は人型だが、下半身は茶色い毛で覆われ、足の形も人のそれとは若干違っている。ベティスは半獣半人だった。
「何だおまえは!?」
ベティスはべたついた笑みでソアラの身体を眺め、鼻息を荒くした。突然輪の中に女性が飛び込んできたとあって、取り囲んでいたモンスターたちも騒ぎはじめる。
「やめな、嫌がってるだろ?」
ソアラはベティスを睨み付けて言い放った。しかし不意に髪や背中に痛みが走る。
「ちっ___」
すぐ後ろにいたモンスターたちがたまらずに彼女に手を伸ばしてきたのだ。ソアラは不愉快を顔に滲ませ、目を閉じて一念を込めた。そして誰かが彼女のリボンを引っ張った瞬 間___
ゴオオッ!
「うげげっ!」
解けたリボンがいきなり巨大な炎を吹き出し、モンスターたちは慌てて手を引っ込める。紫色の髪が流れ、ベティスはその姿に舌鼓を打った。見ればゆとりの少ないワンピースに浮かび上がる曲線は、小間使いのそれよりも遙かに芳醇で、顔つきだって比べものにならない。
「おい、髭のオッサン。はやく彼女を放しなさい。」
「おまえが代わりをつとめてくれるならな。」
ベティスは欲望剥き出しの笑みで言った。正面を向いた彼の股ぐらには、欲望の塊がまったく動物のそれと同じようにして、包み隠されずにいた。回りを取り囲むモンスターたちは一気に盛り上がったが、ソアラはそんなものを見せつけられても顔色一つ変えなかった。
「すぐに泣かせてやるぜ、お嬢ちゃん。」
「あんたみたいな短小で泣く女がいると思う?」
ソアラは自分よりも二回り、いやそれ以上に大きいベティスの身体を見てもまったく恐怖一つ感じていなかった。こいつの迫力は見かけ倒しで、アヌビスのプレッシャーに比べれば箸にも棒にも掛からない。
「なら試してやるぜ!」
ベティスがソアラに掴みかかってくる。狭い輪の中、後ろに下がれば手が伸びてくる。ソアラが得意とする広い空間を使った戦いはできない。だが剛健さと同時に弱点を剥き出しにした男を蹴散らすのは、極めて簡単なことだった。
バンッ!
ソアラはすぐ側に転がっていた椅子を真上に蹴り上げ、しなやかに身を翻すとその座席部分を的確に足の裏で捉え、強烈な前蹴りを放った。
「___!!」
その瞬間、沸き上がっていた酒場がしんと静まり返る。ベティスの股間とソアラの足の間には、木製の椅子がこれでもかと陣取っていた。座席部分にソアラの足、椅子の脚はベティスの股間に深々と食い込んでいた。
「じかには触りたくないでしょ?」
「あが___」
二人の間で罅入った椅子が砕け散った。ソアラはニッコリと微笑み、ベティスは股間を押さえてその場で蹲ってしまう。
「すげぇ!」
モンスターの一人がそう叫んだとき、張りつめていた空気が弾けた。口笛、歓声、拍手。ソアラが引き剥かれることを期待していたはずの輪も、彼女の美技に賞賛を送っていた。
「___う___ぬれ___!」
ベティスは苦しみながらも指をスナップする。すると___
「!?」
突然足首を捕らえられ、ソアラは驚いて足下を見やった。するとそこにはあるはずのない黒い影があって、飛び出した手が彼女の足首をしっかりと握っていた。
「仲間か___!」
ソアラは舌打ちした。影の手の力は凄まじく、脚がピクリとも動かない。
「へへへ___!」
ベティスが若干青ざめた顔で身を起こす。群衆は再び沸き上がり、ソアラはその中で冷静に魔力を充填していた。そしてベティスが再び手を伸ばそうとしたその時。
「いい加減にしろ!貴様ら!」
酒場の喧噪を怒声が引き裂いた。
「!」
その声が生み出す存在感にソアラは振り返る。この迫力は恐らく___
「何だ!?邪魔する気か!?___ぅっ___」
ベティスの威勢が一気に萎えてしまう。あっという間に散り散りになった輪の向こうに見たのは、黒いマントの男だった。
「八柱神___」
ソアラは呟く。足下の影もいつの間にかいなくなっていた。
「ベティス!この女性はアヌビス様の大切な客人だ!慎め!」
「はっ、ははぁ___!」
ベティスはたまらずにひれ伏し、許しを請う。彼を睨み付ける男は長身で、顔つきは決して若くない厳格な男。
「あまり勝手気ままな振る舞いが続くようであれば、私が制裁を下す!」
「それだけは!ガルジャ様___!」
ソアラはガルジャの後ろにエスペランザがいることに気が付いた。彼はソアラと目が合うと親指を立ててウインクした。どうやらガルジャを呼んできたのは彼のようだ。
「他の者も良く聞け!このソアラ嬢はアヌビス様が直々に迎え入れた客人である!彼女への無礼はアヌビス様への無礼であることを心得よ!」
ガルジャの説教ですっかり酔いが醒めたのか、モンスターたちはさっきの喧噪にさえ無関心だった魔族たちのように、静かに酒を飲み始めた。
「ありがとう、ガルジャ。」
ソアラはガルジャに近づき、小さくお辞儀をした。しかし彼は厳めしい顔つきでソアラを見下ろした。
「ヘル・ジャッカルで名を売るつもりか?軽率な行動は慎め。」
「短い間にやれるだけのことはやるつもりよ。」
呆れた女だ。ガルジャはあまりにも包み隠さず、あまりにも強気なソアラの視線に笑止と感じた。
「呆れた女傑だ。」
「いでっ。」
ガルジャはソアラの脳天に軽く拳骨を落とし、きびきびとした足取りで酒場から去っていく。彼が居なくなると酒場はまた賑やかさを取り戻し、ベティスはいつの間にかソアラの側から消えていた。
「ソアラ!」
「エスペランザ。」
「怪我はない!?もう、冷や冷やしちゃったよ!」
ソアラとエスペランザはにこやかに笑いあい、元のテーブルに向かった。しかしそれからは二人っきりではない。モンスターたちが酒を片手に代わる代わる彼女の回りに寄ってきたのだ。彼らは口々にソアラを褒め称え、友好的に接してくる。それはとても楽しい一時だった。
この事件は彼女の存在をヘル・ジャッカル中に轟かせた。
あのベティスに一杯食わせた女。
強気で風変わりな紫色の美女。
アヌビス様が連れてきた女。
その名はソアラ___
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