3 非常識
ソアラはたった一人で石造りの部屋にいた。壁は天然の岩肌だが、明るいランプが掛けられ、四角い絨毯も敷かれていれば、テーブルに椅子、ベッドまである。部屋の奥に進めば直接岩壁を削って作られたらしい風呂があって、近くの金属栓を開けば天然のお湯が溢れ出す。中庸界でもこれほど優れた生活空間にはそうそうお目にかかれない。
驚くのはここが本来彼女のいるべき場所ではないこと。
そして部屋の扉には鍵の一つもかけられていないこと。
この山のどこかにアヌビスがいること。
ここがヘル・ジャッカルだという事実。
「___見透かされているな。」
こんな部屋を用意して、しかも全くの見張りもつけないアヌビスのやり方。それはソアラがここに来ることを受け入れた心情、真実を知るまでは帰れないという気持ちを読まれている証だ。
「来た。」
ソアラは扉がノックされるよりも早く立ち上がった。扉の向こうから浸みてくるこの独特の絡みつくような気配は、グルーに違いない。
「こんにちは___ご機嫌いかがですか?」
やはりグルーだ。理由は分からないがこの男と目が合うと、身体が恐怖を感じる。
「アヌビス様の元へご案内しますよ。」
いよいよか___ソアラは覚悟を決め、しっかりと頷いた。彼女の緊張を見知ったグルーは小さな笑みを浮かべていた。
ヘル・ジャッカルの内部は入り組んでいて、実に複雑だ。若干赤み帯びた輝きを放つ篝火に照らされながら、ソアラはただグルーの後について歩いた。いつもならば冷静に、少なくとも自らの部屋からアヌビスまでの道のりを記憶しようとする。だが今日はそれができなかった。ヘル・ジャッカルを上層に向かって進むたび、胸の切迫が強まり、息苦しさまで感じるようになる。上から浴びせられる黒い気配にソアラは既に飲まれていた。
「ここです。」
すれ違うモンスターや魔族の姿も見なくなって暫くしたころ、グルーは青い絨毯が敷かれた大階段の前で足を止めた。階段の向こうには黒いトンネルが口を開けている。
「あの向こう___?」
「そう。」
ソアラは息を飲み、階段上に口を開けた黒を見つめる。黒い気配が気流となって渦巻き、ソアラにはアヌビスの吐息が肌を撫でていく気がした。
「それでは、アヌビス様との一時をお楽しみ下さい。」
「えっ?」
振り向いたとき、もうそこにグルーはいなくなっていた。ソアラはしばし彼のいた場所を見つめ、小さく息を付いて改めて階段に向き直った。
(逃げるのは簡単___でもそれじゃあここに来た意味がない。)
一歩を踏み出すのに時間はかからなかった。
暗闇のトンネルはとても短い。一瞬の暗黒を抜けたと思うとすぐに景色が広がり、また階段。だがここの空気が他の場所と違うことはすぐに分かった。緊張で強ばっている頬に一度だけ手を当てて、ソアラはゆっくりと青い絨毯を踏みしめていく。視界の上昇と共に、正面から波動のようなプレッシャーを直に身に受けることになる。
「___」
口が渇いて声にはならない。だが確かに驚いた。いや、意外だったと言うべきか。その視線の先に玉座と、そこにゆったりと腰掛ける男の姿を捉えたとき、ソアラは気が付いたのだ。
あれがアヌビス。
だが同時に、今まで感じていた気配の主はアヌビスではなく、その斜め後ろに立つ長身の男のものだと知った。それがとても意外だった。人の肉体に犬の顔を持ったアヌビスは露骨な気配をこれっぽっちも発してはいなかったのだ。
(笑った___)
こちらの姿を眺め、アヌビスが白い歯を見せたのがソアラにも分かった。自分を硬くしていた張りつめたものも、波動の如き気配がアヌビスからでないと分かると徐々に失せていく。ソアラの足取りは少しだけ軽くなり、一気にアヌビスと対等の高さへと上り詰めた。
「よう。良く来た。」
軽々しい挨拶だ。この男の態度、口調はおよそソアラの想像していたそれとはほど遠かった。神と呼ぶにはあまりにもそこにいるのが自然すぎる。だがそう思うとなぜ瞬時にこの男がアヌビスだと直感できたのか、それが分からなかった。この男からは身震いのするような悪気は何一つ感じないと言うのに。
「こんにちは、アヌビス。いえ、こっちじゃ一日中今晩はかしら。」
口も滑らかに動いた。アヌビスと目を合わせれば合わせるほど、緊張が彼に吸い込まれるように消えていく。不思議な対峙だった。
「フフフ、そりゃあいい。」
長細い顎の裏、喉元辺りに手を当てて笑うアヌビス。ただそれでもソアラは彼が邪神であることに疑いを持たなかった。なぜかは分からないが。
「もっと近くまで来てくれ。顔をしっかり見たい。」
アヌビスの手招きにソアラは躊躇い無く応じた。アヌビスは興味津々に彼女の接近を喜び、ダ・ギュールはその足取りを観察するような目で見ていた。
「あたしを誘ってくれたのはなぜかしら?」
「おまえがなぜ俺の誘いに乗ったのか、それが答えだ。」
「___」
アヌビスとの距離はおよそ一メートル。手を伸ばせば届く距離に彼はいる。近づいてみるとその黒い身体は思ったよりも大きく、力強いと気付いた。座っているので定かではないが、百鬼よりも頭一つは背が高そうだ。
「知っているの?あたしのこと。」
思い切った問い掛けだった。しかしアヌビスは別段顔色を変えない。
「おまえのことは知らない。だが俺はおまえにまつわることを知っているかもしれない。それを確かめるためにここに呼ぼうと思ったんだ。」
アヌビスが立ち上がった。ソアラが見上げるほどの身の丈。彼は大きな掌でソアラの頬に触れてみせた。不思議と震えることはなかった。そっと顎を持ち上げられ、アヌビスと真正面から見つめ合う。
「ライディアの言ったとおり、美人だ。それにこの色もいい。」
アヌビスはソアラの髪を撫でるようにして手を離した。
「ありがとう。」
ソアラは素直にそう答えた。アヌビスはまた玉座に深々と腰を下ろした。
「自己紹介が遅れたな、俺はアヌビス。おまえがわざわざ中庸界から俺のためにやってきたことは知っている。そしていま俺は、おまえが美人で、可愛い女であることを知った。」
「あたしはソアラ。あなたを倒すためにこっちへやってきた。でもあたしはあなたのことはほとんど知らない。」
ソアラはアヌビスの言い回しに合わせるようにして答えた。彼女の余裕にアヌビスがニヤリと笑う。
「俺が邪神だなんて、嘘みたいか?」
「意外だったけど、信じられるわ。」
「ほう。」
アヌビスはちょっとだけ目を見開いた。彼の黄金の眼は時折キラキラと輝き、漆黒の瞳をより一層引き立たせる。実に神秘的だった。
「こいつはダ・ギュールだ。俺の補佐役だな。」
「こんにちは。」
ソアラの言葉にダ・ギュールは唇さえ動かさない。
「すまんな、こいつは口べたなんだ。」
そういう問題でもないだろうに___この黒犬が饒舌すぎるのだ。
「さて、本題に入るか。俺がおまえをここに呼んだ理由と、おまえが俺の誘いを受け入れた理由についてだ。」
ソアラの視線が急に厳しいものに変わる。その些細な表情の変化に気付いたアヌビスは、こみ上げる笑みを殺せなかった。
「よほど大事なんだな、自分の正体が。」
「仲間を裏切るくらいにね___」
ソアラも見抜かれたと知っていたからあっけらかんとしたものだった。
「いいね、その潔さ。おまえはその気になれば邪悪にも染まれる。」
「有り得ないわ。」
「どうかな?」
!___
初めてだった。アヌビスの瞳に何か射すものを感じた。極短い時間だったが、彼の邪悪の片鱗を見た気がした。ただそれだけで、背骨を握られたような逃れられない危機感があった。ダ・ギュールから感じた悪気とは「もの」が違っていた。
「___」
アヌビスが小さく笑った。
(試された___)
ソアラは気付いた。アヌビスは彼女の感受性の鋭さを試していたのだ。彼はいま意図的にその邪悪を開放し、ソアラがどんな反応を示すか探っていた。彼の笑みは恐らく、ソアラが想像以上に鋭い反応を示したことを面白がっているのだろう。
「おまえの感の良さに敬意を表して、俺も誠意をもって答えよう。わざわざ誘ったんだからな。」
「なら教えてくれるのね?」
ソアラは色めきだつ心をできるだけ隠しながら問いかけた。
「すぐには無理だ。俺もおまえの正体に精通しているわけではないからな。いま言えるのはおまえが凡人ではないということ、それだけだ。」
「___」
凡人ではないという言葉がソアラの心境を新たにさせる。自分が特殊であることを証明できるかも知れない存在が目の前にいるのだ。それは大きな前進である。
「血を調べればもっと確実な答えを出せる。分けてくれるか?」
「いいわ。」
即答。アヌビスは長い顎で満足げに頷いた。
「ならそれに自分の身体が許す範囲でくれ。」
「え?」
突然のことで訳が分からなかったが、いつの間にかソアラの足下には古びた壺があり、彼女は片手に白銀のナイフを握っていた。
「何で___?」
壺の方は気付かなかったですむが___ナイフは握っている。握らされた覚えは全くなかったのに。
「危なくなったら言えよ、すぐに治療してやる。」
ソアラの戸惑いをよそに、アヌビスは淡々と話した。ソアラもやむなく納得し、壺の上に左の手首を翳す。
「っ___」
自らの手首にナイフを入れるというのは嫌なものだ。さすがにその瞬間は目を閉じてしまった。血はすぐに溢れ出し、壺へと流れ落ちていった。
「無理___」
ソアラは強い眩暈を感じたところで呟き、次の瞬間には腕の傷が綺麗さっぱり塞がっていた。そして血のたまった壺はダギュールの手に。
「___?」
不思議だ。呪文を受けた感触もないし、まだ意識は少しぼんやりしている。だが、自然治癒とはほど遠い覚醒がすぐに押し寄せてきた。これは明らかに回復呪文の効果だ。
「結果が出るまではおよそ一月だ。」
「時間が掛かるのね___」
ソアラは訝しげな顔をする。アヌビスを疑うわけではないが、この土地で、彼の視線の内で長い時間を過ごすのは怖い。
「おまえは自分の正体を早いところ見つけだして、ささっとここを立ち去るつもりのようだがそうそううまくはいかないぞ。」
「どうかしら?あたしは包囲網を突破するのって得意なのよ。」
「ほほっ___」
アヌビスはまったく臆することのない彼女の強気に感服する。
「それならそれもいいだろう。だが、ここにいる一ヶ月、おまえはヘル・ジャッカルの一員、すなわち俺の部下だ。それなりの働きをしてもらう。それができなければ今すぐにここから追放する。」
ここへ来たのはリスクを覚悟の上でのもの。頷きはしなかったが、ソアラは彼の要求を拒むつもりもない。
「配慮はないぞ___当然。」
アヌビスが指をスナップすると、いつの間にかいずこかの闇へと消えていたダ・ギュールが、ソアラの背後から現れる。彼は黒い鎖で両手足を拘束された中年の男を連れていた。男はすっかり憔悴しきっていて、酷くくすんだ顔色をしている。
「___」
彼が魔族でないことはその服装からも分かった。ごく普通の人民だ。そんな男をここに連れてこさせたアヌビスの思惑に、ソアラは悪い予感を募らせた。何しろ壺は回収されたのに、ナイフはまだ彼女の手元に残っている。
「その男を殺せ。」
来たか。予感というまでもない、簡単な想像だった。
「嫌よ。」
そして返す刀も決めていた。
「俺はおまえが人殺しをするところを見たい。その男はモンスターの食糧の一つだ。どうせ死ぬ。」
「関係ないわ。あたしは人殺しはしない。」
アヌビスが微弱な邪気を放出している。それだけでソアラの背筋に鉄の棒が食い込まされ、額には汗が滲む。緊張は彼女の瞳に敵意を宿らせ、アヌビスはその如実な変化を楽しんでいた。
「殺さなければ追放だ。」
「勘違いするな、あたしはそこまで墜ちちゃいない。」
ソアラは頑なだった。アヌビスはそんな彼女に改めて喜びを感じていた。
「ヘル・ジャッカルには居座る。あたしの正体も知る。でもあたしはあんたには従わない。」
「都合が良すぎるな。」
ソアラはアヌビスを無視するように背を向けて、階段に向かって歩き始めた。
「そのナイフで男の頸動脈を切ればすむことだ。」
アヌビスの声が背中に張り付く。
「おまえだって、人の一人や二人殺したことがあるだろう?」
それはソアラの癇に障る言葉だった。確かにそれは拭い去れない事実。しかし何も知らないはずのこの黒犬は、ソアラの姿や態度を見て当然のようにそう語った。彼女はそれに腹が立ってしょうがなかった。
シュッ!
風の速さで振り向き、ソアラは腕をスナップさせた。背後で悠然と腰掛けるアヌビスの顔目がけ、ナイフを投げつけたのだ。
いや、そのはずだったが___
「え___!?」
そこには喉笛に白銀のナイフを突き立て、声を上げることもできずに天を仰いでいる男の姿があった。
「お見事。」
「!?」
アヌビスの声は背後からあった。ソアラはすっかり混乱した顔で振り向き、アヌビスと男を交互に何度も振り返った。
「嘘___嘘!?」
ソアラはアヌビスに向かってナイフを投げつけた。その「はず」だった。しかしナイフは中年の男の喉を喰らっていた。
「ちょっと___そんな!」
ソアラが慌てて男に近づこうとしたその時には、彼は既に地に伏し、僅かに痙攣するだけだった。
「もう死ぬな。まあ当然か。しかし素晴らしい腕前。」
アヌビスの悠長な言葉が脳裏で渦を巻く。ソアラは今の状況がまったく飲み込めずにいた。意識と現実があまりにも食い違い、彼女の視線はすっかり宙を泳いでいた。
「それだけやれれば充分俺の下で働ける。」
その時彼女が気が付いたのは、アヌビスが邪神であると言うこと。この男の恐ろしさを忘れていたこと。ソアラが己の意識を信じようと決めたとき、彼女の浮ついた瞳は元の鞘へと戻っていた。
「あたしはおまえに向かってナイフを投げた!」
「だがおまえのナイフはその男を殺した。」
ソアラの怒声を窘めるように、アヌビスは淡々としていた。
「違う___あたしじゃない!」
「俺に責任転嫁か?おまえはまだ自分の潜在意識に気付いてないらしい。おまえは自分の真実を掴み取るためならなんだってできる女さ。現に仲間だって裏切ってきたじゃないか。」
「違う違う!」
だがソアラにできることは闇雲に否定するだけ。あのときアヌビスに投げようと思った、その意識を証明する術は何もなく、現実の結果は重すぎる。
「潜在意識がおまえに殺しをさせた。まあいずれ分かるさ。欲に身を任せずにはいられない自分の姿が。」
ソアラは指先が震えていることを知った。さっきまでの落ち着きが嘘のように、彼女はアヌビスに恐怖を感じ始めていた。そしてなぜ彼が邪神アヌビスであると出会った瞬間に感じ取ることができたのか、何となくだが分かった気がした。
(この男には常識がない___)
それだ。常識で通用する相手ではない、それが特別な存在であることの証だった。非常識に対抗するには非常識でなければならない。せめて心だけは強く。
「あんたが細工をしたんだ!」
ソアラはアヌビスに食って掛かった。
「ほう___」
「でも証拠はない___方法だって見当もつかない!でも___あたしはあんたが思っているほど簡単に手の内には入らない!」
アヌビスは彼女の豪傑ぶりに声を上げて笑い出す。ソアラは怒りを込めて彼を睨み付けながらも、たまらずに背を向けけてその場から立ち去っていく。それは敗走にも等しかった。
「ごめんなさい___」
去り際に男の元へと跪き、祈りを捧げ、ソアラはアヌビスの前から姿を消した。
「いいなぁ、あの強気。途中で言葉遣いまで変わってやがった。」
ソアラがいなくなると、アヌビスは満足げに言った。
「しかしやはりあの色が気に掛かります。」
「だから血を貰ったんだ。すぐに調べな、あいつはひょっとすると相当の逸材かも知れない。あの荒削りであそこまでの感覚の鋭さってのはそうはいない。」
アヌビスはまるで子供のように浮かれた目つきで、一つ舌なめずりをした。
「惚れましたな、アヌビス様。」
「かもしれんな。いろんな意味で。」
そしてまた笑い出した。
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