2 無抵抗の意味

 乾いた空気がソアラの回りにはあった。彼女は突然の誘いに言葉を失っていた。
 「アヌビス様があなたとお会いしたいそうなのです。この誘い、受けていただけますね?」
 グルーはソアラに手を差し伸べるようにして、悪しき笑みを絶やさない。だがソアラは彼の不愉快さに疎くなりはじめていた。それは彼女の心に根付いた葛藤のためだ。
 「なぜ___なぜアヌビスがあたしを?」
 「皆まで言わせるつもりですか?分かっているくせに___」
 その言い回しは絶妙だった。ソアラの心に深くつけ込み、尚も彼女の興味を酷く惹きつける。含ませながらもこちらの心理を見抜いていることを隠さない言葉に、ソアラは胸の奥底を鷲掴みにされたような思いだった。
 「さあ、私の元へ。」
 グルーがマントを広げる。ソアラは戸惑い、視線には落ち着きがない。
 「さあ。」
 彼の深みある瞳に魅入られ、ソアラは引きずられるように一歩を踏み出す。グルーの口元が歪むが、その笑みは怒声に断ち切られた。
 「ソアラァァッ!!」
 ソアラの肩が引きつった。くすみかけていた紫の瞳に光が戻る。グルーの背後に見える厩舎から、鍬を手に猛然と駆けだしてきた百鬼。その勇姿はソアラを元の世界に呼び戻した。
 「___あたしの馬鹿!」
 ソアラは平手で自分の頬を叩き、元の強気を取り戻す。そして百鬼を振り返ったグルーにクローを振りかざし、キュクィ車の中から飛び出した。グルーがほくそ笑んだことも知らずに。
 「えっ!?」
 ソアラの身体が空中で強制的に食い止められた。幌の影から飛び出した丸太のような腕が、クローを突き出した彼女の細腕を乱雑に掴んだのだ。しかも剛腕はソアラの勢いを受けてもピクリともせず、彼女の跳躍が生み出した力は全てその肩から腕へと逆流する。
 「ぐぅぅっ!?」
 自分の体内で鈍い音が響いたのが分かった。ソアラの肘はねじ曲がり、顔をしかめる。耐え難い苦痛の中で、自分を強引に食い止めたのがグルーとは違う黒マントの男だと知った。
 「彼は鋼鉄のブレン。加減を知らない八柱神なんです。」
 グルーはソアラにそう囁き、彼女の喉元に爪を宛って振り返った。
 「!」
 グルーが片手を広げ、百鬼に向かって突き出す。それは止まれという合図だった。やむなく百鬼は急停止する。
 「ふむ、いい瞬発力。」
 グルーは不適に笑う。彼はブレンに吊されているソアラの身体に優しく腕を回し、百鬼に見せつけるようにして引き寄せた。腕を痛めたとはいえ、ソアラに一切の抵抗がない。
 「ソアラ!」
 百鬼は必死に彼女に呼びかけるが、ソアラは苦痛に顔を歪めるばかりだ。
 「おやおや、痛めてしまったのですね?」
 「っ!」
 グルーはブレンにへし折られたソアラの腕に手を触れる。ソアラの身体に痺れにも似た痛みが走り、彼女は反射的に震えた。
 「可哀想に___痛いのですね?」
 グルーの舌が細長く伸びる、彼は左腕でソアラの身体を抱きながら、逆の手でソアラの腕を持ち上げ、その歪んだ肘に顔を近づける。
 「ここですか?ここが痛いのですか___?」
 長い舌が這いずるようにソアラの腕を嘗め回していく。その姿は淫猥で、酷く奇異だ。だが百鬼に理解できなかったのはグルーの奇行もそうだが、ソアラがまったく抗う素振りを見せないこと。
 「なにやってんだソアラ!そいつは隙だらけだ!」
 逆の腕はほとんど自由だ。得意の呪文であの陰湿な八柱神に一撃喰らわせることだってできるというのに!
 「幾ら言っても無駄ですよ。」
 グルーは長い舌を口内に納め、ソアラの肘に宛った掌を輝かせる。するとみるみるうちに彼女の顔つきから苦痛が消えていく。回復呪文だ。
 「彼女は我々の要求を受け入れることにしたんです。自分のために。」
 グルーはソアラの耳元に顔を近づけ、紫の髪を鼻で擽った。ソアラは怯えた顔でいるが、身を捩ることはしなかった。
 「何を言ってやがる___ソアラ!何で呪文を使わない!?」
 だが彼女は百鬼の怒声から逃れるように深く俯き、彼の意識を遮ろうとする。それが百鬼には信じられなかった。
 「彼女の真実を知るアヌビス様が、彼女に会いたいと望んでいる。そして彼女は、自分の真実を知ることをなによりも望んでいる。これは千載一遇のチャンスじゃないですか。彼女はこのチャンスをものにするために、裏切りも辞さないのです。」
 「おまえの言葉なんて誰が信じられるものか!」
 百鬼は怒りをぶちまけるようにグルーに怒鳴りつけ、たまらずに鍬を振りかざして大地を蹴った。
 「うっ!?」
 しかしグルーの背後から飛び出したブレンの掌から白い輝きが放たれ、すぐさま弾丸となって百鬼の胸に打ち付ける。彼はその身体を大きく弾き飛ばされて背後の厩舎に突っ込んだ。
 「百鬼___!」
 ソアラが顔を上げて彼の名を呼ぶ。
 「およしなさい、ソアラ。連れていってあげませんよ。」
 「う___」
 耳を甘噛みしながら囁くグルーの声で、ソアラはまた困惑の中に引き戻される。
 「___ソアラ___ソアラァッ!」
 苦痛に顔を歪めながらも、百鬼は何度も彼女の名を呼んだ。もう一度鍬をその手に握りしめ、立ち上がった。
 「うるさいですねえ。」
 グルーの胸に抱かれたままソアラは顔を伏せ、両手をその耳に押しつける。そして何か言葉を呟き続けていた。
 「ふふ、謝ってますよ、ソアラが。」
 それを聞き取ったグルーが百鬼に冷笑を浴びせた。
 「ふざけんな!」
 百鬼は再び鍬を振りかざしてグルーに突進を駆ける。
 「ブレン、やっちゃって___」
 ブレンを振り返ったグルーは、髭面の同志の背後にもう一人の黒服を見た。その男はキュクィ車の幌の上から、漆黒の長剣を振りかざし、今まさに飛び降りようとしていた。
 「バルバロッサ!」
 その男バルバロッサはまったく隙だらけのブレンの背中を完全に捉えていた。
 ガキンッ!!
 「!?」
 彼も驚いたに違いない。驚異的破壊力を誇る彼の一太刀は、まるで鋼鉄の盾に阻まれたように跳ね返った。目の前には、僅かにマントを切り裂かれたブレンの背中があった。その肉体には傷一つ付いていない。
 「フフ。」
 呆気にとられているバルバロッサに向け、ブレンの脇から手を伸ばしたグルーが、黒い魔力の砲弾を放つ。だがバルバロッサは素早く剣を振るい、その砲弾を真っ二つに切り裂いてみせた。黒い魔力はキュクィ車を掠めて爆発する。
 「ほう。」
 グルーは感心した様子で目を見開いていた。
 「彼はなかなかできそうですね。ブレン、それでは私は先に帰りますから。よいですね?ソアラ。」
 グルーの確認にソアラは言葉を返さない。沈黙が了解の証だった。
 「やめろ!ソアラを放せ!」
 「彼女が私を放さないんです。それをお忘れなく。」
 それだけ言い残し、グルーの身体が黒い光に包まれる。すると一瞬にして彼の身体はソアラもろとも暗闇の空へと消え失せてしまった。
 「畜生___!」
 百鬼はやりきれない思いをぶつけるように、鍬を大地に向かって投げつける。貧弱な鍬は簡単に折れてしまった。
 「いきり立つのもいいが___」
 ようやくだ、髭面の男が口を開いた。彼は百鬼とバルバロッサを交互に一瞥した。
 「俺はグルーとは違う目的でやってきた。」
 ブレンはマントを翻し、筋骨隆々とした腕を見せつける。
 「おまえたちの実力を計りたい。その気があれば、挑みにこい。俺は街の外で待っている。もちろん逃げてもかまわん。」
 ブレンは言いたいことだけを言ってゆっくりと歩き出した。
 「仲間を集めて、武装を整えて来るがいい。そんな鍬じゃあ俺の髭を剃り落とすことだってできんぞ。」
 「___黙れ!」
 百鬼の罵声を背に受けながら、ブレンは笑い声をあげて去っていく。百鬼はとにかくこのやりきれない憤りをどうにかしたくて、いてもたってもいられなかった。

 「やめておけ、戦う必要のない相手だ。」
 キュクイ車に寄りかかってサザビーは煙草に火をつけた。
 「ソアラが浚われたんだぞ!?その仲間がこの街の外にいる!」
 百鬼丸を手に、百鬼は声を荒らげて彼に訴えかける。だがサザビーはまったく意に介していなかった。
 「得策ではありません。」
 そして棕櫚もまた、百鬼の気勢をそぐような冷静さだった。
 「バルバロッサの剣を背に受けてもビクともしなかった男なのでしょう?身のない戦いをするよりはいち早くハーラクーナを目指すべきだと思います。」
 棕櫚の言うハーラクーナとはジネラ大陸最大の都市。そこには光の神にまつわる巨大神殿がある。アヌビスに神が殺されたという噂について知るにはもってこいの場所だろう。
 「剣が通じなかったのは何かの仕掛けかもしれないじゃないか。それに僕たちにはフローラの呪文もある。今までだってゴルガンティみたいなのを相手にしてきたんだ。」
 この街で仕入れた肩当てを装備したライが、剣を片手にキュクイ車の中から出てきた。
 「ならおまえらだけで行って来いよ。例えその八柱神に善戦できたとしても、見返りはないぜ。」
 「そんな事じゃねえ!」
 やりきれない思いを振り切るように、百鬼は街の外へ向かって駆けだしていく。ライもすぐさまそれを追った。
 「俺たちは行っても足手まといだよなぁ___」
 「う〜ん。」
 バットとリンガーは取り繕うような苦笑いを浮かべ、バルバロッサもまた寸分として動かない。
 「みんな___少しは彼の気持ちを考えてあげたらどうなの?一番大事な人を浚われて___落ち着いていられると思う?」
 遅れてキュクィ車から出てきたフローラ。彼女もまた万全の武装を整えていた。
 「感情に走って無駄な傷を負うくらいなら、いち早くハーラクーナを目指すべきです。奴等もわざわざ浚いに来たのですから、ソアラさんを殺したりはしません。」
 「そこまで冷静でいられないわ!」
 フローラは憤りをぶつけるように吐き捨て、百鬼の影を追った。
 「ま、気持ちはわからんでもないがな。」
 サザビーは足下に灰を落とし、暗黒の空を見上げる。
 「だからこそ余計に先を急ぎたいんですよ。」
 そして棕櫚は小さな溜息を付いた。

 アーパスの西方。アーパスから漏れる光で比較的視界の鮮明な草原に、大柄な黒マントの男が立っている。その姿を目の当たりにした百鬼は、少し隆起している草原を一気に駆け上がっていった。
 「やはりおまえか。」
 「何故ソアラを浚った!」
 百鬼は息を弾ませながらも、髭面のブレンを睨み付けた。遅れてライとフローラが彼の両脇を固める。ブレンは彼らの勇気と無謀に嘲笑を隠せなかった。
 「正義感はときに人を奮い立たせるが、その多くは人を危機に陥らせる。」
 「質問に答えろ!」
 ブレンは百鬼の熱い眼差しに答えるように、髭面を引き締めて彼を睨み返した。
 「答えてやろう。私の体に傷を付けることができたなら。」
 ブレンがグッと胸を突き出すと、その筋肉の躍動はマントの上からでもはっきりと分かる。胸板の厚みが急激に増したように見えるほどだった。
 「俺は___ソアラを取り返す!」
 百鬼がここまで我を忘れ、強引に、闇雲になっているのには訳がある。それは彼女が反撃のチャンスをことごとく棒に振り、彼の必死の呼びかけから耳を背けようとしたこと___その理由をソアラに問いただしたかった。
 「うおおお!」
 百鬼丸を抜き、疾風の如く草原を駆け、百鬼はブレンに猛進した。ブレンは彼の一直線に対しても微動だにせず、ただ真っ直ぐにその胸を突き出していた。
 「うりゃああ!」
 百鬼は本気だった。だからブレンの挑発には乗らない。ブレンは自らの能力を誇示するためにその胸を百鬼に突き出してきたが、百鬼はブレンの肉体全てが剣を弾き返す力があるとは考えなかった。
 ガギッ!
 振りかざされた百鬼丸は寸前に太刀筋を変え、ブレンの胸への袈裟切りではなく、脇腹への胴切りを放つ。しかし裏をかいたはずの彼の刃をブレンの肉体は簡単に食い止めていた。
 「くっ___」
 両手に逆流した衝撃波が痺れとなって全身を駆けめぐる。目の前に迫っていたブレンの鉄拳を交わす俊敏性は、完全にうち消されてしまっていた。
 「!」
 ブレンの拳が百鬼の胸に打ち付ける。まるで鋼鉄の柱を叩きつけられたような衝撃に一瞬にして呼吸が詰まり、その身体はまっすぐに吹っ飛ばされて草の上を滑走した。
 「やあああ!」
 剛力の余韻に浸るブレンに向かって、ライが剣を寝かせて突きにかかる。だがブレンはその筋力を腹部に結集し、刃の切っ先を丹田で受け止めた。剣は真っ向から食い止められ、これっぽっちの食い込む感触さえない。あるとすれば切っ先の刃こぼれによる僅かな前進くらい。衝撃はそのままライの両手を刺激する。
 「うっ!」
 ライはブレンの振り下ろす拳にいち早く気付き、飛び退いた。そしてまたブレンに向かって斬りつける。
 「!」
 甲高い音。ライの剣とブレンの拳が交錯し、この旅のために入念に手入れをしてきた自慢の剣だけが砕けた。
 「そんな___!」
 「ライ、伏せて!」
 フローラの声に反応し、ライが咄嗟に身を伏せる。すぐさま彼の頭上をシザースボールが突き抜けていった。
 「散れ!」
 フローラが一念を込めるとシザースボールは拡散し、無数のかまいたちとなってブレンを襲う。だがブレンはその場から動かない。それこそ片手で自慢の髭を隠したことぐらいだった。
 「う___!」
 風の刃は彼の黒いマントだけをボロボロに切り裂いていった。そして脅威をより一層際立たせることになる。ブレンの筋骨隆々とした肉体には傷一つない。百鬼が斬りつけた脇腹、ライが突いた臍の下、これっぽっちの跡さえも付いていなかった。
 「もう一度!」
 百鬼が再びブレンに斬りかかろうとする。しかし___
 「無駄だ!」
 ブレンの怒声が草原を蹂躙する。雷の轟きにも似た一声に、百鬼の足が止まった。
 「俺に傷は付けられぬ___もはやはっきりした!」
 ブレンはずたぼろになったマントを投げ捨てた。
 「貴様らが恐るるに足らぬ相手であるということが!」
 ブレンは三人に背を向けた。その背中の壁は三人が思っていた以上に、高く、分厚い。
 「待ってくれ、ソアラを浚ったわけを___!」
 百鬼はブレンに手を伸ばし、必死に問いかける。だがブレンは彼の懇願に目もくれず、沈黙のまま闇に紛れて消え去った。残された百鬼は大地に百鬼丸を突き立て、その場に膝から崩れ落ちた。
 「様子を見に来るまでもなかったようだな。」
 そんな彼の姿をサザビーと棕櫚は街の城壁に寄りかかって見ていた。
 「ちくしょおおお!」
 草原に百鬼の遠吠えだけが響いた。




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