3 八柱神

 絶海の孤島に聳える黒岩の山。夜の闇が続く地界にあって、ここはより漆黒に近く、闇とは別の黒さを湛えている。山の麓に広がる森は、青と緑と紫の葉で埋め尽くされ、木の幹は灰色を呈し、光ではなく闇を吸って生きている。島を包む海は常に荒く波立ち、岸壁に激しくその飛沫をうちつける。
 黒岩の山。所々に穴の開いた山からは、赤い篝火が漏れる。巨大なこの山を魔族は、モンスターはこう呼ぶ。
 ヘル・ジャッカル___
 ここは魔族たちの首都であり、モンスターたちの居城である。
 そして主はアヌビス。彼は自分の容姿はジャッカルというよりは「犬」だと言うが、ヘル・ドッグではあまりにもしまりがない。アヌビスがこの黒岩の山をヘル・ジャッカルと呼ぶかどうかは別にしても、魔族やモンスターたちにとって、ここは地界における最良の土地である。
 「ん〜。」
 主たる黒犬の邪神は、このヘル・ジャッカル唯一の玉座にゆったりと腰を下ろし、グラスの酒を嗜んでいた。その細長い口に芳醇な香りを含み、彼は満足げに唸る。謁見の間は青い絨毯の他は殺風景で、呼べばすぐにダ・ギュールが現れる以外に人影もない。アヌビスは一日の多くをここで過ごし、酒を窘めたり、読書をしたり、誰かと話をしたりする。彼はこれといって地界にその手を伸ばそうともせず、日々を謳歌していた。いや、もはや手を伸ばすまでもないということなのかも知れないが。
 「ライディアが戻りました。」
 謁見の間の入り口から、篝火に顔の凹凸を際立たせたダ・ギュールがやってくる。彼の後ろに続いて薄紅の髪を靡かせたライディアが現れ、ダ・ギュールを追い抜いてアヌビスの前へと歩み出た。
 「戻りました。」
 「ご苦労。まあとりあえず酌を頼む。」
 アヌビスはニッカリと笑ってライディアにグラスを突き出し、ライディアはムッとしながらも、いきなり手元に現れた酒の瓶を手にアヌビスに近づいた。
 「なんであたしがアヌビス様にお酌しなきゃならないんです?」
 「いつも手酌酒ってのは寂しいんだぞ、おまえ。」
 ライディアは渋々ながらアヌビスのグラスを酒で満たした。その口答えにはあまりにも平伏の色が感じられない、不思議な関係だった。
 「おまえも飲む?」
 「結構です。」
 ライディアはつんとして誘いを断り、アヌビスを苦笑いさせる。アヌビスは玉座に頬杖を突き、グラスの酒を簡単にクイッと飲み干してみせた。
 「で、どうだった?人間は。」
 酌を続けようとしたライディアを制し、アヌビスが問いかけた。
 「全部で九人でした。」
 「七人って話だったよな。まあ予想だが___」
 アヌビスはダ・ギュールに視線を送る。彼は小さく頷いた。
 「現地の者でしょう、急に二人増えたようです。やっぱりあたしも飲みます。」
 「ああ、遠慮するな。」
 アヌビスが指をスナップすると、ライディアの手元にグラスが現れた。逆にボトルがアヌビスの手に。ライディアが手にしていたのはたった今までアヌビスが使っていたグラスだった。
 「ありがとうございます。」
 グラスに満たされた酒をライディアは少しだけ口に含んだ。
 「どんな感じだ?面白そうな奴はいたか。」
 「三人、興味を引かれました。」
 「ほう。」
 アヌビスはそのはっきりした黄金の眼をさらに見開いた。
 「女は?」
 「二人です。」
 「美人?」
 ライディアは呆れた様子で肩をすくめる。そしてグラスを傾けた。
 「___まあ、あたしの目ですけど、美人だったとは思います。」
 「そりゃ良かった。」
 「邪神っぽくないなぁ。」
 ライディアは苦笑する。
 「これが俺の取り柄だからな。」
 アヌビスは口を結んで少しだけ鼻を高くしてみせた。ライディアの反応は淡泊だったが、彼女は決してアヌビスを馬鹿にしているわけではない。彼女をはじめ、このヘル・ジャッカルに住む全ての魔族が、モンスターが、アヌビスを最高の存在と認めている。より彼を近くに感じる者ほどその意識は強い。ダ・ギュールの彼に対する忠義は突出しているし、ライディアたち八柱神も彼に牙を剥くことは絶対にない。
 アヌビスはまさに絶対的な存在である。だが同時に、彼は柔軟である。それが取り柄であり、強みでもあるのだ。
 「で、興味を持った三人のことを教えてくれるか?」
 「はい、まずは棕櫚とバルバロッサという二人の男ですが___妙な奴等でした。魔族でないことは直感で分かりますが、ただの人間とも思えない。あの気配___感覚的なことばかりですけど、あれは妙でした。」
 ライディアは二人の姿を思い出し、煮え切らない顔をする。二人の雰囲気、風格のようなもの、こちらの気配を喰らっても動じないある種の「慣れ」。ライディアにとってはそれが不可思議でたまらなかった。
 「もう一人は?」
 「女です、名前はソアラ。」
 女と聞いてアヌビスの目の色が少しだけ変わった。だがライディアは真顔のままだ。
 「ソアラか___どういう女だ?」
 「お耳を。」
 「ん。」
 アヌビスは細くて長い耳を器用に寝かせ、ライディアに近づける。その姿はどこか愛嬌があって、ライディアをほくそ笑ませた。
 「なんか可愛いなぁ___」
 「黙れ。」
 「きゃっ。」
 顔を近づけたライディアの頬をアヌビスがぺろりと嘗めた。
 「やらしい〜。」
 顔を遠ざけて伏し目がちになったライディアだったが、いつの間にかアヌビスの膝の上に座らされていた。
 「ほれ、はやくしろ。」
 「はいはい。」
 ライディアはそのままアヌビスの首に掴まって、耳打ちをする。彼女がソアラのことを語るに連れて、半ばふざけていたアヌビスの顔つきが変わってくる。
 「それは本当か?」
 ライディアが耳打ちを終えると、アヌビスは急に真剣になって彼女に問いただした。
 「私が言うんですよ、確実です。」
 ライディアは自信を持って頷く。
 「そうだな、おまえが言うなら確かか。」
 アヌビスはライディアを抱っこしたまま虚空を見つめ、しばし考えを巡らせた。
 「よし、ご苦労だったライディア。」
 そして彼女の腰を抱え上げて床に立たせてやる。
 「俺はこれからソアラのことを調べてみる。」
 「何か分かったらあたしにも教えて下さい。」
 「ああ。任務ご苦労、ラングとのんびりしてろ。」
 それからライディアは一礼して、颯爽と謁見の間から立ち去っていった。
 「アヌビス様、いくらライディアが感じたと言っても紫色の髪をしたものなど前例がございません。」
 彼女が消えるなりダ・ギュールが言った。
 「だからいいんじゃないか、それくらいの方が面白い。俺はライディアの直感を信じるぜ。」
 アヌビスは再び手酌酒でグラスを満たしていく。だがその顔つきは、まるで何かに疼いているかのように上機嫌だった。

 八柱神。
 アヌビスに直属する戦士。全ての魔族やモンスターの上に立つことを許され、個々の能力は際立って高度。また同時に優れた魅力を持ち合わせ、人の目を引く存在である。彼らはいずれも濃紺に近い黒いマントを身に纏い、その胸元にはアヌビスの横顔をモチーフにした紋章を欠かさない。
 八柱神こそが、アヌビスの主力軍であり、彼らを越えない限りアヌビスに辿り着くことなどできない。だがこの地位とて常に安泰なのではなく、アヌビス自らの裁量で選考した八人の後ろには、実力ある予備軍たちが虎視眈々とその座を狙っているのだ。
 欠員が出ればすぐに埋め合わせられる。
 だから彼らに油断はなく、常に最高のパフォーマンスを見せつける。隙のない八人の戦士にアヌビスがあえて神の敬称を使ったのは、彼らの意識を高めるためでもあった。
 八人は、今アヌビスの前に一堂に会していた。八人の名はガルジャ、ブレン、ジャルコ、グルー、ラング、フォン、ライディア、メリウステス。
 「___というわけだ、おまえたちに与える任務は以上。」
 アヌビスは淡々と語り、玉座に浅く腰を下ろした。
 「というわけって、俺は任務無しか?」
 口元に皺を刻みながら、背の小さな男が不平を口にする。男の名はジャルコ。その身長はライディアよりも明らかに低いが、彼の態度は尊大。刺々しく整えられた髪はその性格を物語り、八柱神一の問題児として魔族たちにさえ煙たがられている。そして彼は、自他共に認めるサディスト。特に異性をいたぶることをこの上なく楽しむ鬼畜だ。
 「いいじゃないか、それだけ自由にやれるって事だろう?」
 腰を椅子の手前に残したまま、背もたれに身を任せるアヌビス。かなりたるんで見える彼は、舌を伸ばして自分の鼻先を嘗めてみせる。
 「いけませんなアヌビス様。そのような姿勢で部下との対話に臨むものではありませぬ。」
 「へいへい。」
 アヌビスの姿勢をも正させてしまう生真面目が顔つきに滲み出ているのは、ガルジャだ。頭髪に白いものが混ざっている彼は、王のためには自壊も辞さない騎士のような精悍な顔をし、大柄で屈強。八柱神の中でも最年長の彼は、その真っ当な精神で若者たちから羨望の眼差しを受け、見本となる存在だ。
 「いいじゃないですか、アヌビス様があなたのようにお堅くてはたまりませんよ。」
 色白の肌に長い前髪。切れ長な瞳に整った鼻筋。口は大きく、唇には妖艶な煌めきを宿す。細身で、まるで女のようであるが、声は男のそれ。彼の名はグルー。時に自己陶酔に走ることもあるが、美しき存在全般に寛容な男。彼は自身なにをするでもなく、ただ闇の中にいるだけで女性の気を惹きつける、独特のアロマを持った男である。
 「やれやれ、俺は任務を貰ったからな、先に失礼するぜ。」
 身長こそガルジャに及ばないが、その体格は黒いマントでは隠すことができない。胸板の厚さ、肩幅の広さ、それでいて引き締まった腰。最高の破壊力と俊敏性のバランスを誇り、熱血と冷静の気性も併せ持つこの男の名前はフォン。太い眉毛とオールバックの長髪がトレードマークだ。
 「僕もそうさせていただきます。お先に失礼します。」
 一際礼儀良くお辞儀をし、フォンの後に続いてその場を離れたのは八柱神で最年少の男。まだ幾分のあどけなさの残る面立ちの彼はメリウステス。八柱神の最後の一人としてアヌビスの眼鏡にかなった彼は、アヌビスをして「あいつを外すなんて考えられない」と言わしめた才能の持ち主。その誠実な姿勢は、自分に厳しい努力家を象徴する。
 「あたしたちもいこっか、ラング。」
 八柱神の紅一点ライディアは、隣にいた男の手をなんの躊躇いもなく握った。
 「アヌビス様、ライディアから聞いたのですがソアラという女は___」
 「ああ、そのことか。」
 彼はライディアが手を取ったことにさほどの関心を抱いていない。彼は常に落ち着いていて、一切の動揺と無縁である。それは時にクールと呼ばれ、時に無味と呼ばれ、時に冷酷と呼ばれる。彼の気性は、頬に刻まれた炎の刺青とはまったく対照的。ライディアはこの少し垂れ目の男にべったりで、いつもアヌビスにからかわれている。もちろんそんなときでも彼女の恋人、ラングは苦笑い一つしない。
 「そうそう、調べてくれていますよね。」
 ライディアも身を乗り出すようにしてアヌビスに尋ねた。ソアラのことがかなり気になるようだ。
 「ダ・ギュール。」
 「はっ、現在アーパスの街へ移動しているものと推察しています。」
 その答えを聞いてアヌビスは椅子からずり落ちそうになる。
 「そうじゃねーよ、居場所じゃなくてあれだ。」
 「それについては大きな事は言えません。何しろ紫というのが珍奇でして、やはり血でも調べません事には。」
 ダ・ギュールは自分の勘違いもお構いなしで、決してペースを崩さない。
 「血ねぇ___」
 アヌビスは頬杖を付いて呟いた。
 「アヌビス様がそのような娘一人に執着する意図が分かりかねますな。」
 頬から顎まで大量の髭を蓄えた男が、重厚な声で言った。男は戦士の血潮を抱き、弱き者にも一切の加減を許さず、その強さを、権威を誇示する。その厳格な気性は時に弱者を戒め、奮い立たせ、立ち向かう美学に目覚めさせる。しかし彼は這い上がってきた弱者をまた谷底へ叩き落とすだろう。彼の名はブレン。名誉を重んじる男。
 「紫色の女か、面白そうだな。」
 「あなたは興味を持たなくていいんです。その面白そうだなあでいったい何人の女性が再起不能になっていると思ってるんです?」
 舌なめずりをしているジャルコにグルーが一言。
 「いや、下の色が気になるってわけよ。」
 ジャルコは卑猥な言葉を吐いてケラケラと笑った。ライディアはそんな彼を見て煙たい顔をしている。
 「よし。」
 唐突にアヌビスが手を叩いた。
 「連れてこい。」
 一瞬の空白。すぐにジャルコが口笛を吹いた。
 「ここにですか?」
 ライディアが浮かれた顔で問いただすと、アヌビスはしっかりと頷いた。
 「血を調べるという意図もあるが___なによりこの目で見てみたい。なにしろ美人なんだろ?」
 この発想に八柱神たちはあからさまな驚きは見せなかった。それは彼らがアヌビスを理解している証拠。アヌビスはこういう発想ができる男なのだ。今この場に呼ばれもしない超龍神とは決定的に違う。
 「よし、なら俺が___」
 「却下。」
 やる気満々のジャルコをアヌビスはあっさりと退けた。
 「グルー、おまえが行け。」
 「了解しました。」
 アヌビスの指令にグルーは一礼で答えた。
 「丁重にな、客人として迎えるんだ。」
 「私もいってもよろしいか?」
 髭面のブレンがいきなり名乗りを上げた。
 「アヌビス様が執着する敵の力を見てみたい。」
 「フフ、まあいいだろう、行って来い。」
 かくしてアヌビスの思惑を実現するために、二人の八柱神が動き出す。アヌビスの気性を象徴するように個性派揃いの八柱神。そのやり取りはまるで友人関係のように平素で、黒犬の邪神の俗ぶりを見せつける。
 柔軟なる主君に選ばれた最強の八人___
 脅威はすぐそこにある。
 


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