2 薄紅の黒マント 

 「なんだよ、そんなことがあったんなら起こしに来てくれても良かったじゃねえか。」
 「憎たらしさをあたし自身の手で晴らしてやりたかったの。」
 ソアラはあの二人のことを思いだして拳を握る。どうやら一眠りしてもまだ怒りがおさまらないようだ。
 「まったく、未知の世界なんだから危なっかしいことすんなよな。」
 「わかりました。」
 百鬼は彼女の無鉄砲ぶりに呆れている様子だ。出発を前にして、皆がソアラとフローラの部屋に集まってきていた。勿論バルバロッサは部屋の外で待っているが。
 「しっかし、随分と街が静かだな。」
 壊れた窓から外を見ていたサザビーが、煙草片手に言った。
 「まだみんな寝てるんじゃないの?朝じゃないし。」
 ライがニコニコしながらそんなことを言っているのを聞いて、ソアラが思い出したように手を叩く。
 「ああそれなんだけど、どうやら朝は待ってもこなそうよ。」
 「なんだって?」
 百鬼が眉をひそめる。皆もソアラの方を振り向いた。
 「昨日の泥棒がさ、『アヌビスのせいで朝が来なくなったらしい』って言ってたのよ。」
 さすがに皆も驚きを隠せなかった。
 「どういうことなんですか?」
 棕櫚の問い掛けにソアラは首を傾げる。
 「素直に教えてくれなさそうだったから別に聞いてないわ。あんなガキンチョが知っているくらいなら、この世界では有名なことなんだろうしさ。」
 「アヌビスって有名なんだね。」
 ライの言うとおり、中庸界での超龍神を思うと少し意外だ。
 「それを誰かに聞いてみなけりゃいけねえわけだ。」
 サザビーは窓枠に残ったガラスの破片に煙草を擦り付けた。
 「おまたせ。」
 髪の手入れに時間が掛かっていたフローラがようやく支度を整え、出発の準備が完了した。しかし___
 「主人の奴どこいったんだ?」
 カウンターの前で百鬼が辺りを見渡す。いつもならここに陣取っているだろう宿屋の主人の姿がなかった。
 「お金は払ったんだから行っちゃっていいんじゃないの?」
 「そういうわけにいかないわよ。ガラスのこと説明しなくちゃ。」
 ライの言葉に応えながら、ソアラはカウンターから身を乗り出して奥に見える部屋を覗き込む。ランプの光が漏れるあの部屋は、主人のものに間違いないのだろうが___
 「おーい、もしもーし。」
 カウンターの上にあった呼び鈴を振ってみるが応答がない。
 「もー、なにやってんのかしら。」
 痺れを切らしたソアラは軽やかにカウンターを飛び越えてしまった。
 「おいおい。」
 皆の渋い顔を後目に、ソアラは主人の部屋に入っていってしまう。皆は呆れて互いに顔を見合わせていたが___
 「きゃあああっ!」
 「!?」
 ソアラらしくない悲鳴が轟いた。すぐさま百鬼がカウンターを乗り越え、主人の部屋へと駆け込む。
 「どうした!?」
 部屋の中には、ベッドの前で額に汗を浮き上がらせ、蒼白になっているソアラがいた。
 「ご、ごめん___でもこんな酷い死体を見たの___はじめてで!」
 「死体だって!?」
 百鬼は慌ててソアラに近寄り、彼女が怯えた目で見下ろすベッドに目を向けた。
 「うっ___!」
 確かにそれは凄惨な有様だった。百鬼でさえ顔をしかめ、身をすくめてしまったほど。
 ベッドの上には宿屋の主人が仰向けになって眠っている。彼の身体はそのままだ。少し乱れた毛布が生々しく、彼の胴体はそのままに残っていた。ただ、首から上だけは弾けていた。強烈な圧力で瞬時に押しつぶされたような、それでいて完全に消し飛ばすのではなく、ベッドを壊すこともない。ベッドの上の主人の頭の回りには、砕けた顔がいくつかに別れて散らばり、脳髄が剥き出しになっていた。
 「こいつはひでえな___」
 遅れてやってきたサザビーとフローラも目を丸くした。
 「人間業じゃない___」
 フローラが息を飲んで呟いた一言に、ソアラがハッとした。
 「ここだけ___だと思う!?街が静かだったのは___!?」
 「まさか!」
 まさかだ___しかしこのやり口は捨て置けない!
 そして___
 「どうだった?」
 サザビーに問われたソアラは辛辣な顔で首を横に振った。
 「駄目___こっちは全部やられている。」
 二人一組で方々に散らばっていた皆がマキシムの宿の前に戻ってくる。近場の民家を調べてみたところ、宿屋の主人と同じように殺められていた。一人として例外はなく、寝ている人々の頭を砕いている。老人も子供も、裸で朽ち果てるカップルもいた。明かりのついていた家では、机に死体が突っ伏していたりもした。
 「全滅ですね、おそらく街中の人が一人残らず殺されている。」
 棕櫚の言葉に反論を呈する者はいない。まだこの街のほんの一部を見ただけだが、それだけでも充分だった。
 「誰がこんな事を___」
 フローラが口惜しさをかみ殺すように呟いた。
 「誰?あたしたちだけが生き残っているのよ___言わなくたって分かるでしょ。」
 ソアラは暗闇の空を睨み付けて言った。
 「アヌビスがらみか。」
 「ということは向こうも俺たちが来たことは分かっているのか?」
 「そのようですね。こうして俺たちだけを生かしたのですからいずれ向こうから接触を取ってくるでしょう。」
 棕櫚は落ち着いて語るが、相手は人の頭を一瞬で砕く。充分な危機感を抱かなければならない。
 「それにしてもあんなやり方って___モンスターの仕業かしら。」
 フローラの問い掛けにソアラは首を振った。
 「モンスターはあんな繊細な方法はとらないわ。あたしたちを驚かせて、楽しむようなこともね。」
 「とにかく街の外に向かおう。いつまでもここにいることはない。」
 それから、皆は一団となって街の外を目指した。慎重に、細心の警戒を周囲に払いながら。些細な物音にさえ気をつけなければならない。
 「わあああっ!」
 「!?」
 突然の豪快な悲鳴に、ライと百鬼が瞬間的に刃を抜く。雪崩れ込むようにして路地から飛び出してきたのは二人の少年だった。
 「あんたたち!」
 ソアラが二人を見て目を丸くする。他でもない、あの黒髪と金髪だ。彼らは血の気の引いた怯えきった顔で、あからさまに動揺していた。
 「あねさん!」
 金髪が地獄に仏でも見つけたような顔をして、ソアラに飛びついた。
 「これってどうなっちまったんだよ!」
 黒髪は取り乱して頭をかきむしった。
 「あたしにも分からないわ、でもこの街にとんでもない化け物がいるのは間違いない。って図々しいのよあんたは!」
 ここぞとばかりに胸に顔を埋めている金髪に、ソアラは加減無くひじ鉄を食らわせた。
 「いっつ〜。」
 金髪は頭を抱えて蹲る。
 「こいつらが例の泥棒二人組か?」
 「そうなのよ。エロがき二人組。それにしても良く無事だったわね、これでも少しは心配してたんだから。」
 「俺たちはこの街の生まれじゃないし、決まった家も持ってない。だからかえって良かったのかもしれない___」
 黒髪は死体を見たのだろう、あの惨劇を思い浮かべてしまったようで何度も頭を振った。
 「しっかし、なんで化け物がこの街に?」
 「それは___」
 金髪に何かを言いかけて、ソアラは不意な悪寒に襲われた。
 「どうした?」
 不思議に思った百鬼が問いかける。
 「来た。」
 それに答えたのはバルバロッサだった。
 「うん。」
 バルバロッサが見ていた路地、ソアラもそちらを睨み付けた。静寂の街の中に、軽い靴音が聞こえはじめる。
 「さっきから化け物化け物ってさ、失礼ったらありゃしない。」
 街灯の差し込む広い通りへ、路地からその人物が現れたとき、皆は彼女の顔と髪に釘付けになる。それほど彼女の黒いマントは闇に溶け込み、色白の肌と薄紅色のカールした髪を際だたせていた。
 「あたしのどこが化け物なのさ。」
 美麗な面立ちと薄紅の髪が強気な印象を与え、彼女はその柔らかそうな唇で小さな笑みを浮かべる。背丈や体格はソアラによく似ていて、その異質な髪色が醸す空気もソアラのそれに似たものがある。全身を包む黒マントの胸元には、小さな紋章がアップリケされていた。
 それは、黒い犬の横顔を描いた紋章である。
 「何者だ___おまえ___」
 百鬼は女に刀の切っ先を向け、真っ直ぐに睨み付ける。彼女の醸す気配はやや特殊だ。ミロルグやリュキア、或いは今ともに旅をしているバルバロッサにしても、ジュライナギアや超龍神に至るまで、彼らの暗黒の気配は肌に分かるほど表立っている。だがこの女にはそれがない。それでいて彼女が醸すこの緊迫感。薄紅の黒マントは徐に髪を掻き上げ、そして名乗った。
 「アヌビス八柱神の一人、紅蓮のライディア。」
 「はっちゅうしん___?」
 ライが訝しげな顔をする。
 「あんたたちは私の後ろに隠れてなさい。」
 ソアラは黒髪と金髪の腕を掴んで無理矢理自分の後ろに回らせ、ライディアから決して視線を逸らさない。
 「早い話、アヌビス様が認めた最高級の八人よ。」
 それを聞いて、ライと百鬼の表情はますます険しくなり、腰を落としてジリリと間合いを計りはじめる。だがそんな様子を見たライディアは両手を横に振って続けた。
 「あ〜、違うの違うの。今日は戦いに来たんじゃないから、物騒なものはちらつかせない。もっとリラックスしてちょうだいな。」
 素っ頓狂なことを口走る薄紅の黒マントに、百鬼は眉を歪めた。
 「これだけ街の住人を滅茶苦茶にしておいてなにいってやがる!?」
 「あ、別に一般人に興味ないの。邪魔なのはいないほうがすっきりするでしょ。あたしが用があるのは、アヌビス様のターゲットであるあなたたちだけなんだから。」
 ライディアは一人一人と目を合わせながら皆を一望した。
 「あら?」
 だがその視線がソアラでピタリと止まる。おかしなものでも見つけたような好奇心旺盛の顔をして、ライディアはソアラの全身を眺めた。そして軽い足取りで近寄ってくる。
 「ソアラ___!」
 間に割って入ろうとした百鬼をソアラが制した。
 「平気よ、敵意はないわ。」
 ソアラの顔つきがあまりにも確信に溢れていたため、百鬼も渋々引き下がる。ライディアはソアラとまるで友達同士が語らうほどの距離まで近づいて、じっと奥深き紫の瞳に見入っていた。
 「あんた___変わってるね。」
 ライディアが嘲笑にも似た笑みを浮かべた。
 「この色が?」
 皮肉を言われていると感じたソアラは、あっけらかんと応えた。
 「違うわ。」
 だがライディアは意外な返答をする。そして、ソアラにとってことのほか重大な言葉を発したのだ。
 「あんたそのものがよ。きっとアヌビス様もそう言うと思う。」
 ライディアはウンウンと何度も頷いて、ソアラの肩を叩いた。呆気にとられたソアラは、ライディアの発した言葉の真意を気に掛けていた。
 「ちょっとまって___それってどういう意味?」
 ソアラに背を向けて、また皆と少し距離を取ろうとしたライディア。しかしソアラは彼女の華奢な手を取った。命を削り合うことになるであろう敵に対して、信じられない行為だ。しかし、自分の真実を追い求める思いは彼女に平気でこれくらいのことをさせてしまう。
 「そっか〜、あんたは自分の本当の魅力を分かってないんだ〜。」
 ライディアは振り返り、ソアラを馬鹿にするような口調で言った。そして___
 ボッ!
 「!?」
 ライディアとの掌の間で、ソアラの手が燃え上がった。慌てて手を離したソアラは、逆の手で自らの掌に氷結呪文を浴びせた。
 「気安く触らない事ね。」
 はじめて邪な気配を露骨にしたライディアは、改めて皆に向き直った。ソアラにはすぐさまフローラが近寄って回復呪文を施していた。
 「さて一人ずつ、あたしに名前を教えて頂戴。」
 ライディアが唐突にそんなことを言いだした。
 「名前?アヌビスってのは随分まめまめしいんだな。」
 サザビーは煙草に火を灯し、空に向かって煙を吐きあげた。
 「あなたたちを一般人にしたくないのよ。役名があるとないとでは大違いでしょ?あなたたちだけがアヌビス様の名前を知っていて、アヌビス様があなた達の名前を知らないのって不公平じゃない。」
 「俺たちはアヌビスの玩具じゃない!」
 「百鬼___」
 今にも食ってかからんばかりの百鬼をフローラが宥め、ライディアはそんな彼を一笑に付した。
 「玩具、確かに玩具ね。アヌビス様はあなたたちで遊ぼうと思っているみたいだし。まあそう思われるのが嫌だったら、せいぜい頑張りなさいな。」
 遊び。その言葉は百鬼に歯を食いしばらせた。これまで散ってきた命を、フュミレイをも冒涜する言葉が口惜しくてたまらなかった。
 「さあ、名前を教えて。まず素敵なあなたから。」
 ライディアはソアラを見つめ、ソアラはすぐに答えた。
 「ソアラ・ホープ。」
 「そっちの彼とは___フィアンセかしら?」
 ライディアは百鬼を指さして小首を傾げた。
 「亭主よ。」
 「名前。」
 「ニック・ホープだ。」
 ライディアの要求に百鬼は素直に応じた。
 「百鬼っていうのは?」
 目ざとい。ソアラはライディアの注意力に感心した。そのニックネームは、先程フローラがほんの小さく囁いただけに過ぎない。
 「相性だ。みんなこの名前で呼ぶ。」
 「ふーんなるほど、ならあたしもそう呼びましょ。ソアラ、旧姓は?」
 「バイオレット。」
 ライディアは短い口笛を吹いた。
 「ソアラ・バイオレットか、あんた昔の名前の方が似合うわ。」
 彼女はマイペースにものを語り、与えられた情報を取り入れていく。主導権は完全に彼女の手にあった。
 「そうだなあ、次はそこの髭煙草。」
 ライディアはサザビーを指さした。
 「その名前で呼んでくれてもいいぞ。」
 「嘘よ、教えて。好みだからからかってみただけよ。」
 ライディアは媚びを売るような仕草してみせる。
 「サザビー・シルバ。おまえ男つきだろ、あまりはしゃぐなよ。」
 「えっ!?凄い、良く分かるね。」
 ライディアがここにやってきて初めて驚いた顔をした。
 「秘訣は教えねえぞ。」
 サザビーは煙で輪を作って吐き出した。それにしてもこのライディアの問い掛けには緊張感がない。邪神の刺客であることを疑うほど軽い。皆も最初の切迫が嘘に思えるほど、警戒心が消えかけていた。ただ___それが逆に怖い。
 「あんたたち恋人同士じゃないの?さっきからくっつきすぎ。」
 「僕はライ。本名はライデルアベリア・フレイザー。」
 「フローラ・ハイラルド___」
 ライはフローラを庇うように立ってこそいるが、とうのフローラは怯えた目をしてをいない。ライディアはフローラの精神の逞しさに感心した。
 「それと___うーん、あんたも面白いね。ソアラの次にいいわ。」
 ライディアがそう言って見つめたのは棕櫚だった。棕櫚は冷静な顔をしていたが、内心は決して平静ではなかった。それは彼が隠し事をしているからであり、ライディアがその片鱗を見抜いたからである。
 「棕櫚といいます。」
 「ふ〜ん。不思議な男だね___そっちは?」
 「彼はバルバロッサです。」
 バルバロッサに問いかけたライディアだったが、すぐさま棕櫚が返答した。
 「無駄口は聞かないタイプか___なるほど。さて、そこの二人は?」
 ライディアはソアラの後ろからこっそりと様子を伺っていた黒髪と金髪に目を向けた。
 「お、俺たちこの人とは別に関係ないっす!」
 「そうそう、なんのことないあかの他人でして!」
 二人は引きつった苦笑いを浮かべながら、早口になって声を張り上げた。
 「あ〜らそう。」
 ライディアはがっかりした様子で呟く。
 「なら街の人たちと一緒のほうがいいか〜。」
 そして掌を揺れ動かしてニヤリと笑った。
 「お、俺はリンゲルダーレ・ネルリンガー!通称リンガー!」
 と、金髪。
 「俺はグレイバット・バッティ!通称バット!」
 と、黒髪。息が詰まるほど全霊を込め、二人は捲し立てた。
 「ハハハッ、面白いねえあんたたち。」
 「ありがとうございます!」
 ライディアに深々と礼をしたリンガーをソアラが小突いた。
 「よし、以上九名がアヌビス様のターゲットと___それじゃあ、今日はこれくらいで失礼するわ。まあ、これからは色々あるでしょうけど、できるだけ殺されずにアヌビス様を楽しませてあげて頂戴ね。」
 ライディアの身体がぼんやりとした光に包まれはじめた。
 「じゃ、また。」
 そしてあっという間にヘヴンズドアで消えてしまった。まるでつむじ風のように彼女は突然と現れ、突然と去っていく。バットやリンガーはプレッシャーから開放されて思わずその場にへたり込んでしまった。
 「八柱神か___手強い相手になりそうだな。」
 サザビーは煙草を落として足で踏みつけた。
 「ソアラ、俺たちもアヌビスのことについて勉強した方が良さそうだ。」
 百鬼は刀を鞘に収め、隣のワイフに語りかけた。
 「___」
 しかしその声はまるでソアラの耳に届いていない。彼女は一人難しい顔で虚空を見つめていた。
 「おいどうした?」
 「え!?」
 ポンッと背中を叩かれ、ソアラは我に返ったように百鬼を振り返った。
 「ああ、なんでもないよ。」
 そしていつも通りに笑ってみせる。だがそれは心からの笑みではなかった。なぜなら彼女の心は、ライディアの言葉に釘付けになっていたから。
 ___あんたは自分の本当の魅力を分かっていない。
 ならライディアは、アヌビスは知っているというのか___?
 「あたしの正体を___」
 いくら渇望しても足りないほど、ソアラはそれを求め続けていた。紫である意味を知るためならば彼女は賭けを躊躇わない。
 ライディアにもう一度会いたい。その思いが芽生えたとき、彼女の心はすでに一人歩きを始めていたのかもしれない。



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