第19章 竜の子

 ヘル・ジャッカルの山頂は強い風が吹き交い、その冷たさが肌に浸みる。ガルジャの吐き出した吹雪のせいだろうか?外気はここへ突入したときよりも冷えている感があった。
 アヌビスはまだ静かなままだ。彼は未だに多少視線を強めた以外、表情も落ち着きそのものだった。ただ、先ほどレミウィスをいとも簡単に殺した瞬間、あの一瞬だけ全身が凍り付く寒気に襲われたのは確かだ。
 だが落ち着いているのは皆も同じ。時が止められなくなったならば思い切りやれる。今までになかった強気な姿勢が勇気の裏付けと共に彼らの胸に宿っていた。ライ、百鬼、サザビーはそれぞれ剣を身構えているが、その切っ先は微かに震えることすらない。スレイはいつでも弓か呪文を放てる準備をし、フローラも攻撃よりはむしろ回復のために魔力を充填していた。ソアラは___まだ紫色のままで、この戦いのために暖めておいた左手のクローを煌めかしていた。
 「戦いは互角でなければ面白くない___だが圧勝はときに爽快をもたらしてもくれる。」
 アヌビスの右手に黒い霧が集まると、それはみるみるうちに細長く伸びていき、一つの形を作りだしていく。重厚な金属音と共に、彼は右手でそれを握りしめた。
 「長刀___」
 「死に神の鎌ってところか___」
 アヌビスは長い柄の先端に、湾曲した黒い刃がある武器を手にしていた。
 「行くぞ___せめて一分は楽しませろよ。」
 ギャウン!!
 風を貫く音と共にアヌビスの姿が一気に大きくなる。あっという間に彼はソアラの前に立っていた。
 「くっ!」
 ソアラは長刀を横っ飛びで回避し、そのまま身を捻って大地を蹴るとアヌビスに飛びかかった。それが戦闘の合図だ。百鬼たちはソアラを威嚇したまま直立しているアヌビスに斬りかかり、スレイも矢を放った。
 聞き慣れない音がする。
 「なに___!」
 アヌビスはソアラのクローを左腕に、ライと百鬼の剣を右腕に、サザビーの剣を腹部に、スレイの矢は胸に食らっていた。しかし金属はアヌビスの皮膚に微かな傷を付けただけで止まっている。肉が金属を受け止める音などそうそう聞けるものではなかった。
 「ふぅん。」
 アヌビスは微かに口元を歪める。そしてソアラが感じ取るよりも遙かに早くその手を輝かせた。
 ドドドドドン!!!
 派手な音を伴ってアヌビスに斬りかかった四人が爆発に弾き飛ばされる。そして離れたところにいたスレイも、身じろぎ一つできずに光の砲弾を身に受けていた。
 生命力を具現化した波動を一瞬の蓄積もなく、それも多方向に放つ。そのどれもがすさまじい破壊力で、標的にならなかったフローラを除く全員の胸を焼き、抉り、血で染めていた。
 「お若いレディ、早く呪文をかけてやらなければ死人が出るかもしれないぜ。」
 「!」
 突然のことに唖然としていたフローラはキッとアヌビスを睨み付け、その手を高く掲げた。優しい魔力が山頂に広がる。
 「リヴェルサ!」
 フローラの両手が淡く輝き、灰色の空に光の球が放たれる。球は弾け、傷ついた皆へと降り注ぎ傷を癒していく。まずソアラが、続いて百鬼たちが立ち上がる。一瞬の壮絶な破壊力にゾッとしながらも、再び全員の視線がアヌビスに釘付けとなった。
 「これでだいたい一分か。俺はあまり時間を気にすると言うことがないから、もう一つぴんとこないな。」
 アヌビスは長刀を掲げて頭の上でくるくると回していた。時を止める能力を失おうと、彼の余裕は健在だった。だがこれだけ「差」があれば無理もない。
 「良かったな〜、今のを繰り返せば彼女の魔力がつきるまでは戦えるぜ。」
 「なにが言いたい!」
 百鬼が怒声を浴びせると、アヌビスはあからさまな嘲笑を見せた。
 「記録だよ。どれくらい長く戦えるか。俺はたっぷり協力してやるぜ。」
 「ふざけるな!!」
 百鬼が岩肌を蹴って駆け出す。アヌビスは長刀を掲げたまま、目つきの一つも変えない。
 「あのときのイメージだ___!」
 百鬼はブレンとの戦いを思い描いていた。肌の、筋肉の繊維に従って素早く斬れば、鋼鉄の体といえど切り裂けるのだ!
 「でやぁっ!!」
 鋭い太刀筋!しかしアヌビスがたった一歩後ずさるだけで刃は簡単に空を切った。
 「いい太刀筋だ。それなら俺の肌も切れるかもしれないが、当たらなくちゃ始まらないな。」
 「当てる!」
 続けざまに斬りつける百鬼、遅れてライとサザビーも加わってきた。だが三人の刃をアヌビスはことごとく紙一重で回避する。サザビーが意表を突いて彼の足や耳を狙ってみても、アヌビスは簡単にやり過ごしていった。
 「みんなどいて!」
 ソアラの声で三人は一気にアヌビスから飛び退いた。少し離れたところではソアラ、フローラ、スレイの三人が両手に魔力を満たしていた。
 「トルネードサイス!」
 フローラとスレイの声が重なる。
 「ドラギレア!」
 やや遅れてソアラも持てる魔力を全開にして叫んだ。
 最高級呪文のトライアングル。尋常でないスケールの真空渦はアヌビスを両側から挟みつけるように襲いかかり、その中央を灼熱の炎が突っ切っていく。
 「呪文か。そうか、そんな手も普通の相手にはありだな。」
 切れ味を持つ竜巻は、その内側に炎を織り交ぜた火炎流となってアヌビスを飲み込む。これほどの攻撃を受ければ、八柱神でもただではすまないはずだ。
 だが炎の向こうに漆黒の光が見えると、ソアラは早くも舌打ちしていた。
 「カァッ!!」
 燃えさかる竜巻の中で暗黒の輝きがうねりを上げる。決して大きな波動ではないのに、それが放たれた途端竜巻は異常な湾曲を示し、炎の鮮やかさはあっという間に掠れていく。そして竜巻が余韻だけを残して弾けるように消滅すると、そこには相変わらず出血すらないアヌビスが立っていた。
 「さしずめ暗黒波動ってとこか、おまえ、いやおまえらの竜波動に似てるだろう。」
 おまえらの「ら」がソアラの癇に障る。ライディアのことをいっているのだ。だが平静を保たなければならない。強敵を相手にしたときは常に冷静でいなければ自分を追い込むだけだというのは、ジャルコやグルーとの戦いで学んだ。
 「魔力は魔族であれば誰でも扱えるし、おまえらのように人間でも扱える神秘的だが安い力だ。精神力と集中力が強靱で、きっかけさえつかめれば誰にだってできるからな。だからより高尚な力、俺の持つ暗黒の力や、竜の力ならば易々と退けられる。竜波動がラングの炎を蹴散らしたように___」
 まるで己の能力を解説するようなアヌビスの態度に、ソアラは口惜しさを滲ませて奥歯を噛みしめた。暗黒波動が竜波動に似ているならば、その破壊力を想像するのは容易い。
 (こんなの___勝てるわけないじゃない!)
 ソアラのとっておきは竜波動。それ以上の破壊力を秘めた攻撃は彼女にはない。しかしアヌビスがあんなにも簡単に放てる力と同等のもので彼を倒すというのは、あまりにも虫が良すぎる話だ。

 アヌビスは___
 ブレンの防御力を持ち。
 メリウステスのスピードを持ち。
 グルーの知性を持ち。
 フォンの破壊力を持ち。
 ライディアの可能性を持ち。
 ガルジャの生命力を持ち。
 ジャルコの狡猾さを持ち。
 ラングの万能性を持っている。
 それどころか___それだけではまだ足りないくらいだ。
 ソアラは神の次元を感じる。
 たとえ神と呼ばれている一生命体にすぎないとしても、その存在の大きさに疑いの余地はない。だが___
 「それでも立ち向かわなければならない___!」
 ゆっくり息を吐き出し、軽く目を閉じるソアラ。きっかけを掴んでからは竜の使いの力を発揮するのも簡単になっていたはずが、今は少し手こずった。しかし心のどこかにあったネガティブな発送を切り捨てると、紫は輝かしい黄金色へと変わった。
 「きたか___」
 アヌビスはその姿を見てニヤリと笑った。
 「みんな、すぐにこの場を離れて。」
 ソアラはその言葉を発することに何の迷いもなかった。
 「ソアラ、今更そんなのって!」
 「離れて!」
 ライの反発もねじ伏せる迫力があった。
 「悪いとは思う、でも死んだら何にもならないじゃない!アヌビスはこれまでの八柱神なんかと違うのよ___」
 「確かに理解できる理屈だ。俺たちを守りながら戦うわけにもいかないし、俺たちではアヌビスに傷一つつけられない。」
 「私の回復呪文ではソアラを回復させるのには時間がかかってしまう___」
 サザビーとフローラはソアラの言葉に従うつもりでいる。
 「お願い___多くの犠牲を無駄にしないためにも___この戦いは私に任せて!」
 「おまえだけを残して行けっていうのか!?」
 百鬼の表情は複雑だった。確かにこの場に自分たちがいては確実にソアラの邪魔になる。しかしソアラ一人に戦わせて自分は安穏としているのは耐えられない。
 「あたしだけが残るんじゃない___みんなの気持ちをここに残してくれればいいのよ。あたしはいつだってみんなを感じている。」
 黄金に輝くソアラは顔つきも攻撃的に変わる。そのはずだが、この時のソアラの微笑みはあまりにも優しかった。
 「みんなだけじゃない、ここにはレミウィスやミキャック、バット、リンガー、たくさんの仲間たちの気持ちがあるんだ。ほら、フュミレイだってここにいる。」
 ソアラは胸の首飾りを皆に見せた。現実離れした口実といってしまえばそれまでだが、首飾りにの小さな宝石がソアラの光を受けて輝いているのを見ると、信じられる気がした。
 「ここまで苦楽を共にしてきた仲間だよ。祈るだけでお互いの気持ちは伝わるさ。」
 「おいソアラ。」
 ソアラの言葉にかぶせるようにアヌビスが言った。
 「説得はまだか?」
 アヌビスは長刀を杖代わりに立ち、いやらしい笑みを見せている。説得という言い方にソアラは不快を露わにした。
 「鬱陶しいからもう始めるぞ。」
 そしてアヌビスは黒い弾丸となってソアラに襲いかかる。
 「ごめん!」
 アヌビスが迫るよりもいち早く、ソアラは百鬼たちに向かって無色の魔力を放った。魔力は穏やかな輝きで各人の胸のあたりを的確に捉え、その体を包み込むとフワリと舞い上がらせた。
 「ソアラァァッ!!」
 百鬼の叫びもむなしく、皆の体は山頂を離れ、ヘル・ジャッカルの麓へと一直線に落ちていく。
 「くっ!」
 だがそのとき既にソアラは戦士の顔へと戻り、アヌビスの長刀をクローで受け止めていた。
 「素晴らしい反応の早さだ、そうじゃなければ面白くないよな。」
 「いつまでも余裕でいられると思うな!」
 「!」
 アヌビスの目の前からソアラが消える。深く身を屈めると、全身のバネで飛び跳ねるようにアヌビスの腹部に右肘をたたき込んだ。アヌビスが少しだけ目を大きくする。
 「竜波動!!」
 その状態でソアラの左腕が目映く輝く!
 ゴォウッ!!
 だが、竜波動は空へと抜けていった。放ち出すまでにできる僅かな「タメ」で、アヌビスはソアラの横に回り込んでいた。そればかりか___
 「うぐっ!!」
 ソアラの脇腹に長刀の柄が強く打ち付けられる。地味ながら痛烈な一撃にソアラは顔つきを歪めた。体勢を崩しながらも持ち前の瞬発力で飛び退き、アヌビスとの間合いを広く取る。
 「竜波動か。破壊力は認めるが、放つまでに時間がかかる。それどころか放った後は突然のエネルギー消費でおまえの運動能力が一時的に低下する。無駄撃ちすると自分を追い込むだけだぞ。」
 的確な洞察力___まったく憎たらしいったらありゃしない!
 「一瞬でそれだけ見抜けるくせに___あんたの役者ぶりには本当に腹がたつよ!」
 「短気なとこも可愛いな。」
 ソアラは地を蹴って俊敏な拳でアヌビスを襲う。だがアヌビスは明らかに見切って、ほんの体を半身に開いただけでやり過ごした。あのメリウステスをも凌駕したソアラのスピードさえ及ばない。
 「おろっ。」
 だが荒れた岩盤に踵を取られ、アヌビスはよろめいた。
 「ぐいっ!?」
 その隙を逃さなかったソアラは急激に体を回転させて飛び上がり、アヌビスの顎を強烈に蹴り上げた。そのまま逆立ちになって両手で着地すると体を捻り、厚い胸板を蹴りつける。アヌビスは体を大きく仰け反らせるが、ソアラがさらなる追撃を試みるよりも早く、腹筋で体を一気に前へと戻した。
 「うあっ!!」
 そして力強く目を見開くと、念の籠もった眼力でソアラの体を一直線に弾き飛ばす。黄金になってこんな尻餅の付き方をするとは思ってもみなかった。岩盤を滑ったソアラは土煙を巻き上げて体を岩肌にこすりつけながら踏みとどまり、山頂から放り出されることだけは免れた。
 「っ___」
 額に滲んだ汗を拭う。体が勝手に怖じ気づいているのか、脂汗だった。
 アヌビスはやはりとてつもなく強い___だがそれでもソアラは勝利を諦める気などさらさらなかった。レミウィスが万に一つの可能性をものにして彼の能力を消し去ったように___この世界に無敵など存在しないのだ!
 (とはいっても___どうする___?)
 ソアラの勝利への画策が始まる。僅かな駆け引きでも失敗や無駄は許されない。数多くの動作の中で、少しでも選択を間違えればそれは死につながるやもしれない、それほどシビアな戦いだ。勝つためにはたった一つあるかもしれない完璧な選択をする必要がある。もちろんそれが「ある」というのは希望的観測だが。

 「ソアラッ!」
 ソアラの魔力に運ばれ、麓の森にゆっくりと着地した百鬼。すぐさま黒ずんだ木の葉の隙間からヘル・ジャッカルの山頂を睨み付ける。
 「足掻いても仕方ないぜ百鬼。あいつの言うとおり、勝利を信じて祈りでも捧げるのが一番だろ。」
 こうなにもかも割り切れる男を見ると羨ましくなる反面、苛立ちもする。百鬼は手頃な岩を見つけてあぐらを掻いているサザビーに、そんな気持ちを抱いた。
 「みんな!」
 光が山頂から落ちてくるのを見つけたのだろう、皆のところへ未だに傷を癒し切れていないミキャックがやってきた。
 「良かった!無事だったんだ!」
 腕をダラリとして、よろめきながらやってくる彼女に慌ててフローラが駆け寄る。
 「俺たちは無事でもソアラはまだ上で戦っているんだ!」
 百鬼の力強い声色に、ミキャックは笑顔を消して真剣な目をする。
 「分かっているよ。」
 それは彼女も感じていた。だが少なくとも彼らが無事だったことは嬉しかった。
 「ねえ、やっぱりもう一度加勢しにいった方がいいよ!」
 共に苦楽をしてきた仲間だからこそ、放っておけないのだ。人一倍正義感の強いライは今にもヘル・ジャッカルの山頂に駆け出しそうだった。
 「やめましょう。」
 だがフローラは一際冷静に話す。
 「なんで!?」
 「私たちが生きているという事実そのものが、ソアラの活力になるからよ。」
 フローラはミキャックを手頃な木の根元に座らせ、治療を施しながら言った。
 「ソアラには生きる楽しみが必要なの。それは自分の真実を探すことであり、私たちとの触れ合いであり、血の使命感が引き起こす覇邪の意志なのよ。ソアラから生きる楽しみを、希望を奪ってはいけないわ___私たちにとってソアラが希望の星であると同時に、彼女にとっても私たちが生きる希望なのよ___」
 決して強い口調ではない。しかしはっきりとした、心にしみる言葉だった。
 「私だってソアラただ一人が戦う姿を見るのは辛いわ。でも私たちがソアラのために何かしなければいけないとしたら、それは生きることだと思う!」
 「そういうことだ。」
 サザビーはフローラの言葉に満足そうに頷いた。
 「俺たちは心の中でソアラを鼓舞し続けるとしよう。あいつは人の思いを誰よりも強く感じるみたいだからな。」
 「くそっ___」
 だが百鬼はまだ悔しそうに木の幹に拳を当てた。
 「俺は今ほど自分の非力を悔しく感じたことはない___!」
 「百鬼___」
 皆、彼の気持ちは痛いほど分かる。愛しい人を守りたい気持ちは、彼が他の誰よりも強いのだから。
 「あれ?スレイは?」
 ライが思いだしたように言ってあたりを見渡した。そういえば先ほどからスレイの姿が見えない。
 「!___あいつは魔力で空を飛べるはずだ!」
 サザビーの顔つきが変わった。つまりスレイはソアラの魔力を振り切って山頂へ戻った可能性が高いということ。皆は息を飲み、不安げに山頂を見上げた。

 「はああっ!」
 ソアラが怒濤の猛攻をかける。そのスピードと技術でアヌビスに攻撃を命中させてはいる。
 「竜波動!」
 「おっと。」
 「!!」
 アヌビスに隙を作らせてから接近状態での竜波動。しかしやはり放つまであまりにも時間がかかりすぎる。思えばこの竜波動、命中したのは攻撃に全く気づいていなかったライディアと、取り囲むようにして襲ってきたジャルコの骨、避けるつもりのなかったラングだけ。驚いたことに動いている相手を狙ったことがない。
 (また避けた!?)
 アヌビスはソアラの肩に手をついて飛び上がり、波動は空を切り裂く。脱力によって運動能力の落ちたソアラには、背中への攻撃など回避できない。勢い良くはじき飛ばされて、顔から岩盤に突っ込んだ。
 「く___」
 一瞬息が詰まったのだろう。ソアラは胸元を押さえながら四つん這いで少し呻いた。右の頬あたりに血が滲んでいる。
 「悪いな、せっかくの綺麗な顔を___」
 さすがにソアラも穏やかではない。額には今まで以上に汗が浮き上がり、吐息を荒らげ、その目はアヌビスに気圧されている雰囲気があった。
 「アヌビス___」
 ソアラは立ち上がる。彼女はアヌビスの戦法に恐怖を感じていた。アヌビスは自分から仕掛けることはほとんどない。ソアラの攻撃も回避するか身体に受けるだけで、防御の姿勢は見せない。
 「あんた測ってるね___」
 「測るだと?」
 彼は必勝の戦い方をしているとソアラは思った。今のうちに相手の動きのパターン、攻撃の癖を見抜こうとしているのだと。そして反撃はというと竜波動の後ばかり。これではソアラも竜波動を撃つことを躊躇ってしまう。
 「あたしの戦い方を見抜くことで、あたしに対する勝利の方程式を完成させようとしている。」
 「そんなものが必要か?」
 アヌビスは鼻で笑った。だがソアラは大まじめだ。
 「あたしがまだ本気じゃないことだって分かっているんでしょ。」
 「俺も本気じゃないぞ。」
 「あんたの本気が見たいわ。」
 大胆な要求だった。
 「いいのか?」
 ソアラは頑なにアヌビスと対峙したまま、一度だけ頷いた。
 「死んでから後悔するな。」
 「あたしも本気でやってみる。後悔なんかしないさ___」
 アヌビスはソアラの強気な言葉に感心したような素振りを見せ、急に真顔に戻った。
 「おまえの本気を見せて見ろ。俺が本気になるのに時間はいらないからな。おまえ次第で俺も全力を出してやるさ。」
 「言われなくても___」
 ソアラはこんな場面が前にもあったことを思い出した。メリウステスと戦ったときだ。竜の使いの力を発揮できると嘘を付いて、リュカとルディーが彼の牙にかかるのを止めさせようとした。あのときは___色々と雑念がありすぎて結局うまくいかなかったが。
 初めてのことに挑戦するとき、あまり深く考えるものではない。素直に、まっすぐ目指すものを見つめるべきだ。たぐいまれな弓矢の腕前で的を狙うフローラの、そのまっすぐな視線のように。
 「私の心を抑える歯止めをとればいい___」
 竜の使いでありながら理性を保つことを覚えたソアラ。しかし理性を保っていては発揮できる力の限度も狭まると常々思っていた。初めて竜の力を発揮したあのときのように、全く別人のソアラになればまだ自分は強くなれると知っていた。
 「ああああああっ!!!」
 「お?」
 心の、身体の高ぶりが理性を封じる状態まで竜の力を高めていく。荒ぶるドラゴンの心を身に宿すまで。ソアラの全身から沸き立つ力のオーラにアヌビスは目を丸くした。しかしその顔はとても楽しげだ。
 「かあっ!!」
 ソアラの身体が一際目映く輝く。黄金に輝く髪は半ば逆立ち、全身の肌が金色に光っているようだった。目つきは明らかに鋭く、獲物を狙う猛獣のようで、なによりその口元には決して目立つものではないが確かに「牙」が煌めいていた。
 「まだ変われるのか。大したもんだな。」
 アヌビスは浮かれていた。ソアラの全身から放たれる夥しい波動に耐えかねて左腕のクローは罅入り、弾け飛んでしまっている。それを見てアヌビスも軽く目を閉じて念を入れ、長刀を黒い霧に変え消滅させた。
 「決着をつけてやる。早く全力を見せろ。」
 「もう見せているさ。」
 がらりと変わったソアラの口調に、相変わらず真実みに乏しいアヌビスの答え。ソアラは牙を剥いてアヌビスを睨み付ける。
 「ならば行くぞ!」
 ソアラは岩盤を蹴ってアヌビスに襲いかかる。そのスピードはこれまでの比ではなく、瞬発力で彼女の蹴った岩盤は少し罅入っていた。一瞬で二人の距離が詰まる!
 「!」
 ソアラの拳がアヌビスの横顔を捉える。初めてアヌビスが飛ばされた。
 「はああっ!」
 身体が浮いているアヌビスにソアラは一気の攻めを見せる。勢いに任せてアヌビスの顔に振り下ろすようなキックを浴びせ、彼が岩盤に仰向けで叩きつけられたにところに逆の足で膝を落とす。
 アヌビスは仰向け、しかもソアラはその胸に膝を乗せている。
 なにより今の状態なら竜波動を放つ時間も一瞬に思えた。
 「竜波動!!」
 ゴッ!!渾身の一撃!アヌビスの目前で金色の輝きが放出される。それはラングに放った波動よりも遙かに大きな力で満たされていた。掌は彼の顔に届きそうな距離。回避されるはずなどない、だからこれだけの力をつぎ込んだ。
 しかし忘れてはいけない。相手はアヌビス。
 自分が楽しむために相手をもてあそぶ、「わざと」が好きな男。こんな千載一遇のチャンス、冷静に考えればあるわけがないのだ。
 「!!!?」
 竜波動の輝きは、アヌビスの身体に触れる直前で黒い息吹に食い止められていた。その息吹に秘められた破壊力を一瞬で見抜いたソアラは、敗北を覚悟せざるを得なかった。ソアラが確実に攻撃を当てられるということは、アヌビスにだって条件は同じ。ただ、互いの力と力を真っ向からぶつけあえば、勝利するのはアヌビス。
 ここまできて、攻撃の、駆け引きの、全ての選択を誤った。
 「本気だっていったろう。」
 アヌビスの瞳が黒い輝きを放つ。同時に莫大な力を秘めた黒い波動が彼の手から一挙に広がる。
 「邪輝(じゃき)。」
 黒い波動が天を突く。竜波動を飲み干し、ソアラを食らうのに一瞬とかからなかった。仰向けのアヌビスから空に巨大な黒い柱が立ち昇る。黒は炎のように激しく躍動し、周囲に夜をばらまく。ぶちまけられた黒い霧は確実に光を浸食していった。
 「おい、あれ!」
 麓からも天を劈く黒い柱ははっきりと見えた。その様はさながらヘル・ジャッカルが黒いマグマを吹き上げているかのようだ。
 「とんでもない邪悪な感触___」
 ミキャックはアヌビスの感触を肌で感じ、肩を抱いて震えた。それは皆も同じだ。これまで強い邪悪を感じさせなかったアヌビスだというのに、今空に伸びる黒い柱は見ているだけで震えが止まらない。あの柱の中にソアラがいるなど___考えただけでも恐ろしくて、絶望的で、そんな発想を自然に殺してしまった。
 ___だが純粋な命は、母の危機を敏感に感じていた。
 「おい、どうしたんだよ二人とも!?」
 栄光の城、バットとリンガーは切羽詰まった表情でリュカとルディーを追いかけていた。
 「待てってば!どこに行くんだって!」
 だがもっと切羽詰まった、子供に似つかわしくない鬼気迫る顔で城の廊下を走っているのはリュカとルディーの方だった。
 「お母さんが大変なんだよ!」
 「早く行かないと!」
 バットたちはリュカとルディーのすばしっこさに驚くばかり。そしてそれ以上に、幼い二人の目に妙な迫力を感じたのが不思議だった。
 そのころ柱の中で打ちのめされるソアラ___
 竜波動は一瞬で消滅し、彼女もまた、黒の中で何も分からなくなっていた。
 アヌビスの凄まじさ___己の非力___通じない現実___
 短い時間の中で彼女は様々な思いに駆られた。

 これが神の力___?
 竜の使いでかなう相手ではない。
 黒い波動が身体を蝕む。
 私の四肢を引きちぎる。
 血までどす黒く染まる。
 なにも分からなくなる。
 一切の暗黒と轟音。
 飲み込まれた瞬間希望まで食い尽くされた。
 勝てるはずなどない。
 私ももう死ぬ。

 黒い柱の中、ソアラの身体が黒に染められていく。黒がソアラを飲み込んで、突き抜けて空へと消えて行くまで、短いが重い時間だった。そして紫に戻り、完全に意識を絶ったソアラが空の高見から山頂へ落ちてくるまでの時間も、短いものだった。
 ドサ。
 ソアラは力無く岩肌にぶつかって、少し弾んだ。アヌビスはその様を静観している。彼女の身体が微動だにせず横たわっているのを眺めてから、その場で耳をそばだてた。
 「死んだか。」
 そして呼吸も拍動もないことを知った。ソアラの側にはレミウィスの骸が転がっている。
どことなくつまらなさを感じてアヌビスは軽く息を付いた。邪輝を受け、薄曇りだったが陽光の差していた山頂が一変した。そこら中に、空間をインクで塗ったような黒い霧が点在する。白い光の余韻を持つ風が抜けていくと、山頂は黒の中に銀色が煌めく幻想的な景色となった。

 黒に銀。それはあいつのシンボルでもあった。

 『もう負けてしまうのか?』
 ___誰かの声が聞こえる。
 『___本当に虫の息らしいな。』
 ___懐かしい。
 『本当に全力を尽くしたのか?ソアラ。』
 ___竜の使いの全力がどれほどかなんて___あなたにだって分からないでしょ。
 『限界は分かるはずだ。』
 ___あなたみたいに自分を理解してないのよ私は。
 『理解せずともいい。要はおまえがこのまま朽ち果てることで納得がいくのかだ。』
 ___負けて納得できると思う?フュミレイ。
 『思わないな。私もおまえも負けず嫌いだから。』
 ___だよね。
 『立てるか?肩を貸すぞ。』
 ___大丈夫。側にいてくれればそれでいい___

 トクン___
 その時ソアラの胸でネックレスがきらりと光った。
 いち早く変化を感じ取ったのはアヌビス。

 「蘇った。」
 簡単な言葉だが、アヌビスは今までで一番の驚きの顔をしていた。彼の類い希な聴覚がソアラの心臓の音を聞きつけ、その吐息を感じた。
 「驚いたな___」
 アヌビスはソアラに近づいていく。生き返りはしたが意識は戻っていないようだ。彼は仰向けに倒れるソアラを真下に見るほど近づき、彼女の身体を眺めた。彼女の肌の見える部分、そのほとんどが漆黒になっていた。これは邪輝に喰われた跡である。
 邪輝はその絶対的な「邪」で命あるものの力を浸食し、黒に染めてしまうアヌビスの最高の奥義である。あらゆる力を邪に食いつぶされた人物は、全身を黒く染めた骸となる。僅かでも触れてしまえば邪輝は全身に手を伸ばし、光を食らおうとする。それはこの広大な空でさえ、黒く染めてしまうほどの凄まじさだ。
 ソアラのように飲み込まれては生き延びる術などない。
 「邪輝は光に生きる相手には絶対的な攻撃だ___なぜ生き返る?」
 アヌビスは深刻な顔をしていた。邪輝は彼の攻撃でも最高級のもの。それをまともに受けていながら復活したのが竜の使いのポテンシャルによるものだとすれば___さすがに捨て置くことはできない。
 「なるほど、それか。」
 ソアラの胸のあたりから黒が元の肌色に戻っていく。竜の力にも耐えられる特殊な生地で作られた装束の奥で、それは淡い光を放ち続けていた。
 アヌビスは躊躇なくソアラの服の胸元を開いた。ふくよかな胸の狭間で、小さな首飾りの宝石は懸命に光っていた。
 「妙なものを持っているな___浄化の力を感じる。」
 アヌビスは首飾りに触れた。持ち上げて引きちぎろうと思っていた。しかしその強靱な手を、まだ黒色が抜けきっていない華奢な手が止めた。
 「やめろ___」
 ソアラはまだ目もしっかり開けていない。それでもアヌビスを睨み付け、その手には強い力がこもっていた。
 「彼女の命を奪うな___」
 「彼女?ああ、誰かの形見か?」
 「放せ___!」
 ソアラも言葉は出るが身体が動かない。アヌビスはニコリと笑ってゆっくりと首飾りを引っ張っていく。
 「やめろ___!」
 体を起こそうと必死に力を込めるソアラ。しかし首飾りの鎖は徐々に首に食い込んでくる。アヌビスに強く握られる小さな宝石、そこに苦しむフュミレイの姿を見た。
 「!?」
 突然アヌビスが宝石を放した。珍しく牙など剥いて素早く身体を捻る。その肩口をすさまじい勢いで何かが掠めていった。
 「ちっ___」
 油断があったのだろう、アヌビスの肩口には小さな傷が付き、赤黒い血が浸みだしてきた。彼の肩を掠めて岩盤に深々と突き刺さったのは青白く、力に満ち足りた矢だった。
 「___邪魔しやがって。」
 アヌビスは空を睨み付ける。ソアラも何とか体を起こして空に目をやった。そこには青白い矢を引き絞ったスレイがいた。
 「アヌビス!我が母ミロルグは私にこう言った!」
 彼の戦場への帰還をソアラが悔やむよりも早く、スレイはあらん限りの声で叫んだ。それはまるで宣誓のようでもある。
 「超龍神はかつて竜神帝の使いとして中庸界に目を向けていた存在であった。それを黒に蝕んだ邪悪がいるのだ。それは恐らく、おまえがこれから挑もうとしている存在であろう___この意味が分かるか!?」
 ソアラはスレイの瞳に滾る炎を見た。普段控えめで、献身的な働きはしても目立つことのなかったスレイだが、内に秘めた決意は並々ならぬものがある。
 「分かるとも。無能なおまえの祖父は邪輝に喰わせた。生命体として殺しはしなかったが、あいつの全てを邪輝で支配したのだからな。まあそこそこに役に立ったよ。」
 スレイの怒りをソアラの感覚は察知していた。人間と魔族のハーフである彼、その魔族の父は超龍神。彼の持つ本来の力は聖なるものでありながら、邪輝も同居する。青白い光の中に黒い炎を揺らめかせ、スレイの両腕が朧気に光る。
 「全ての運命を狂わせたのは貴様だ!アヌビス!」
 「俺がいなければおまえは生まれなかったんだ。感謝してもらいたいな。」
 アヌビスが宙に浮く。彼の照準はソアラでなくスレイに向いていた。
 「やめろアヌビス!おまえの相手あたしだ!」
 まだ喉の感覚が自分のものではないようなのだろう、掠れた声色とたどたどしい口調でソアラは精一杯訴えた。
 「ソアラさん!僕にも誇りがあるんです___!」
 だがスレイの決意はこのヘル・ジャッカルよりも高い。彼は決して揺らぐことのない視線でアヌビスを凝視し続けていた。その眼差しには常に照準が刻み込まれているのだろう。
 「誇りで俺が倒せるか?」
 アヌビスはスレイと同じ高さまで上昇した。二人の距離はおよそ十メートル。
 「スレイ!血の誇りというなら、あなたはその血を残さなければならないはずよ!」
 ソアラは浮遊を試みるが、魔力が邪輝に吸い尽くされてこれっぽっちも浮き上がれない。
 「撃ってみろ。おまえのちんけな誇りで俺が倒せるか、やってみるがいい。」
 アヌビスはスレイの正面で胸を張り、トンッと左胸を叩いた。スレイはきつく歯を食いしばってアヌビスを睨み付け、直ぐに落ち着いた表情を取り戻す。
 「嘘で塗り固められた貴様の言葉など信じられるものか!」
 「そうか?」
 アヌビスは少しスレイに近づく。距離は五メートルほどに縮まった。
 「これでどうだ?これなら俺もよけるのが難しい。おまえの矢が俺に傷を負わせられるのはさっき証明済みだろ?」
 「___」
 スレイのこめかみを汗が伝った。緊張が走る。この状況にソアラは危機感を募らせる。
 「乗っちゃ駄目よスレイ!アヌビスがそういう芝居がかったことをする時は決まって罠があるんだから___!」
 「これではまだ不安か?」
 アヌビスがさらに距離を詰める。今度は鏃から一メートル。
 「まだ撃てないのか?」
 「___撃てる!」
 「なら撃ってみろ。」
 スレイは引き絞った矢から右手を放そうとする。しかし指が開かない。
 「どうした?怖いのか?」
 アヌビスはゆっくりと、さらにスレイに近づく。
 「撃ったら俺が何かするかもしれないと思っているな?」
 「違う!」
 「ならなぜ撃たない!」
 ついに彼の胸が鏃に触れた。時を止められなければ避けようのない位置、だがスレイの顔色は怯えで染まっていた。
 「スレイ!スレイどうしたの!?」
 異常を知ったソアラが必死で呼びかける。
 「手が___手が動かない___!」
 スレイの手は己の意志と反して全く矢を放そうとしない。
 「馬鹿だなお前は。」
 アヌビスはスレイを見下ろし、嘲笑った。
 「邪輝に犯された者の血を引いている貴様、青白いオーラが超龍神のものとすれば、その中で燃えさかる黒は邪輝。貴様は邪輝に犯されている時点で、俺の前では死人と同じだ。分かるか?」
 スレイは震えた。張りつめていた弦が緩む。スレイの意志に反して手は弓を持ち直していた。ただ普通ではない持ち方だ。身体に近い方の手に弓の柄を持ち、もう片方の手で弦を持つ。全く逆だった。
 「やめてアヌビス!やめてよ!あんたは私さえ殺すなり奪うなりすればいいんでしょ!?」
 スレイの手は弦を引く。いや押すというべきか?
 その鏃は彼の眉間に向いている。
 「あ___ああ___!」
 あまりの恐怖にスレイの声は言葉にならない。ついには涙がこぼれ落ちる。
 「誇りはどうした?若造。」
 ソアラはスレイを助けようと必死に魔力を絞り出そうとする。竜の力を呼び起こそうとする。だが自分の手がまだ黒いままであることを見て思うのだ。
 私もあの忌まわしき邪輝に犯されてしまっているのだと。
 「お願い!やめてアヌビス!」
 「ソアラ、俺が邪神と呼ばれていることを忘れるな。」
 彼は___邪神なのだから、殺戮は好む。
 「やめろぉぉぉっ!!」
 ソアラには叫ぶことしかできなかった。
 「死ね。」
 スレイの指が開いた。
 「!!!」
 ギリギリまで張りつめられた弓。矢は持ち主を貫いて空へと飛んだ。その軌跡を赤く彩って。
 「スレイィィィッ!!!」
 幼い命の消滅にソアラが嘆いた。
 「!?」
 血縁とは恐ろしい。サザビーはその瞬間にあり得ない身震いをしていた。
 「どうかした?」
 「いや___なんでもねえ。」
 ミキャックの問い掛けにも彼はいつもと変わらない返事をする。だがその手は落ち着かない様子でポケットから煙草を取っていた。

 アヌビスがゆっくりと山頂に降りてくる。ソアラとさして離れていない位置へ。
 「アヌビス___あんたは!レミウィスに、今度はスレイまで!」
 ソアラはすぐそこに転がるレミウィスの骸に一瞥をくれて、口惜しそうに目を閉じる。二人とも生き延びることだってできたというのに___
 「そう悲しむなソアラ。あの世でまた会えばいいだろう。」
 「ふざけんじゃないわよ!」
 ソアラはその身を投げ出してでもアヌビスに食ってかかるつもりだった。だが立ち上がるための一歩を踏み出すことさえできない。
 「勘のいいおまえは分かっているだろう。自分が邪輝に犯されていることを。おまえのその古びた首飾りは邪輝を浄化しようと努力してはいるが、如何せん力の偉大さが違う。」
 ソアラの手が己の胸元にある首飾りに触れる。それも自分の意志ではない。
 「いや!」
 どんなに拒んでみても、彼女の身体はそれに反した行動をとる。アヌビスの意志を受けて力を込めた腕により、首飾りの細い鎖は簡単にちぎれ飛んだ。そして小さな宝石は彼の手に渡る。
 「面白いものだな。誰かがこいつに魔力を送っているらしい。それも強烈な___」
 アヌビスは宝石を眺めてそう呟いた。
 「え___?」
 その言葉に呆気にとられたのが束の間だった。アヌビスが宝石を指に挟んで力を入れる。小さな宝石はいとも簡単に粉々に砕け散った。
 「あっ!」
 ソアラが本当に悲しそうな顔をする。
 「こんなものは不要だ。」
 「フュミレイ___」
 ソアラはそう呟いてその場で崩れ落ちた。岩盤に突っ伏し、顔を覆った。
 宝石の砕け散る様に、フュミレイの散り逝く感触を思い出したのだろう。離れた土地で彼女の死を感じたあの悲しみを。
 「うう___うわぁぁぁ___!」
 ついにソアラはその場で泣き崩れてしまった。彼女の繊細な感情に、仲間の死という命題は重すぎる。闘争心など完全に消し飛んでいた。
 「軟弱と繊細は似ていて否なりか。おまえは軟弱ではないが繊細すぎるらしい。」
 アヌビスはソアラの頭を優しくなで、紫色に黒の斑が入り込んだ髪を指に絡めた。もはや彼女から反発や抵抗はない。いや、たとえその気があったとしても体は動いてはくれない。
 「過去は忘れろ。これからもおまえの友は次々とこの世から消える。いちいちその悲しみにのたうち回っていたら生きることはできないぞ。」
 「うう___」
 それはアヌビスの暗示であった。ソアラを自らに従わせるための暗示。彼女の耳元に口を寄せ、囁くように語る。
 「さあソアラ、強い心を手に入れろ。」
 飛び跳ねるように上半身を上げたソアラ。その目は涙で真っ赤だったが、体はお構いなし。振り向いたソアラの目の前には静かに眠るレミウィスが。ソアラは恐怖に引きつった顔で彼女を見ていた。
 「さあ、その手を伸ばせ。その口で腑を貪れ。」
 ソアラの手が冷たいレミウィスに触れる。もう硬直しはじめたレミウィスの骸に___
 「いや、いやぁ!お願い、お願いアヌビス!やめて!こんな、こんなの___!」
 涙も虚しいだけだった___

 「あったこれだ!」
 一方栄光の城では、走り回ったせいで汗だくになったリュカとルディーが書庫の本を引っかき回していた。そしてついに目的の一冊を見つけたらしく、山積みの本の上で満面の笑みになる。
 「おいおまえら!いい加減にしろよ!」
 バットとリンガーはリュカたちの暴挙によって倒れそうになった本棚を必死に押し戻していた。
 「ルディー早く早く!」
 リュカがルディーを急かして地団駄を踏む。一方のルディーは子供らしくない落ち着きで本のとあるページを開き、ブツブツと何かを呟いていた。
 「よし!」
 そして突然確信の表情である方向を見つめる。
 「おい、おまえらこれ以上なにする気だ!」
 「お母さんを助けに行くんだ!」
 リュカの言葉は実に明確だった。そして二人の見る遙か遠くには、あのヘル・ジャッカルが聳える。
 「あたしたちがお母さんを守る!」
 リュカとルディーは互いの手をつないだ。普段変なところだけませていて姉弟で手を繋ぐなんてほとんどなかった二人が。
 「お、おいおまえら!」
 バットとリンガーの声などもう耳には届いていない。

 「ヘヴンズドア!!」

 その叫びは高らかだった。そして二人の姿がそこから消えた。
 「___」
 バットとリンガーは開いた口が塞がらず、散乱した数限りない本の山を前に呆然としていた。さっきまであんなに騒々しかったのが嘘のように、書庫は一気に静かになった。
 二人が探していた本は他でもない___
 かつてソアラが失踪し、その時にどうやって彼女を捜すか試行錯誤したときのこと。
 本来は場所を目標とするヘヴンズドアを、人を目標として使う。そんな案が飛び出したことを、ルディーは忘れていなかった。
 そしてこの高度な呪文の応用を、彼女はセンスと気迫で成し遂げた。しかも簡単に。

 「さてソアラ___」
 アヌビスの足下でソアラは放心していた。その手と口に多少の血が染みついている。生きた人間に傷を負わせればこの程度の血痕ではすまない、彼女の肌にある血の量が死体を貪ったことの証といえた。
 「そろそろ麓にいる奴等も始末してこよう。もちろんおまえの手で。」
 「___」
 ソアラからは言葉もない。ただ、ぼーっと一点を見つめていた。
 「行くぞ。」
 しかしソアラは時折指先を動かすだけ。まるで精神が崩壊したかのように無味だった。アヌビスはそれを見て舌打ちする。
 (少し刺激が強すぎたか___)
 アヌビスがソアラを抱き起こそうとしたその時だ。邪輝によって黒い霧のはびこる戦場に、鋭い光が舞い込んできた。
 「なっ!!?」
 その光に秘められた強靱な力にアヌビスは面食らったか、反応が遅れた。
 「うぐっ___!!!」
 光が真正面からアヌビスにぶつかった。その圧力はアヌビスがこの戦いで身に受けたどんな攻撃よりも大きい。仰け反ったアヌビスが見たのは、光の中の大きな剣。しかしそれを握っているのは小さな男子!
 ズバァッ!!!
 「あがっ!!」
 アヌビスが喘いだ。よろめいた。後退した。その胸に深々と大きな傷が付いた。百鬼やライの剣でも切れなかったアヌビスの身体を、小さな存在はその肉が捲れあがるほど大きく切り裂いていた。赤黒い血が噴き出して彼の足下に瞬く間に広がっていく。
 「___!」
 光が弾けて消えるとその場には二人の子供が現れた。

 ソアラに似ている___

 それだけでアヌビスは彼らが何者であるかを感じ取った。
 幼い少年はアヌビスを睨み付け、剣を構えている。
 幼い少女は愛しき母の元に駆け寄っている。
 共に黄金の頭髪に空のように青い瞳。
 本来、鳶色の髪に碧色の瞳の二人。
 だが今、彼らの色は違っていた。

 純然たる竜の使いの色だった。

 「ソアラの___竜の子か___」
 アヌビスはソアラ以上に鋭い目つきで自分を睨み付けるリュカに対し、視線を強めた。その瞳には真剣さが滲む。余裕を感じさせない、深刻な面立ちだった。
 「生かすのは危険だな___」
 黒犬の牙が煌めく。アヌビスが様子を見ることもなく自ら仕掛けた!
 「お母さん!お母さんってば!」
 ルディーはソアラに回復呪文を施しながら必死に呼びかけた。ソアラがルディーの呼びかけに僅かな反応を示してからの回復は著しかった。
 「!!?」
 突如として我に返り、目に光の戻ったソアラ。
 「お母さん!」
 聞けるはずのない愛娘の声にソアラは目を丸くした。
 「ル、ルディー!?」
 「良かったお母さん!」
 「どうしてここに!あ、あなたそれにその目は!」
 「目?なに?」
 ソアラはルディーの瞳の色に驚いているものの、ルディーには実感がないらしい。
 「うわっ!!」
 リュカの声が聞こえてソアラは初めて彼がアヌビスと戦っていることを知った。
 「リュカ!」
 リュカがここにいることは驚きだ。しかしそのリュカが押されながらもアヌビスと戦えていることにはもっと驚く。
 「あたしたちヘヴンズドアできたの!お母さんを守りに来たんだ!」
 ソアラは言葉を失った。
 幼い我が子は___ただがむしゃらのうちに己が秘めていた竜の使いの力を引き出し、私にもできない人を目標としたヘヴンズドアでここまで飛んだ___そしてあのアヌビスに挑み、互角に戦っている!
 何より___二人は私を守りに来たと言っている!
 複雑だった。二人には戦いを知らず、平穏な人生を歩んで欲しかったから。
 彼らが母を守る一心でその潜在能力を開花させたことは、嬉しくもあり辛くもあった。
 「見ててお母さん!あんな奴すぐにやっつけてやるんだから!」
 ルディーまでもがアヌビスに向かって飛び出す。勢いに任せて怒濤のように攻め立てる二人に、さしものアヌビスもたじろいでいる。その二人の奮闘を見て、母がただ寝ていられるはずもない。
 「子供たちが___リュカとルディーがあんなにも戦っている___」
 ソアラは邪輝に犯された身体で必死に力を振り絞る。アヌビスの意識が自分に向いていない今ならば、邪輝の支配も弱いと強く思いこんで一気に立ち上がる。
 「あたしが戦わないわけにはいかない!!」
 紫のままソアラは重い足を一歩進めた。
 「はああっ!」
 ルディーが剥き出しの魔力をアヌビスに放つ。
 「ぬっ!」
 邪輝で対応するのもままならないのか、アヌビスはその直撃に顔をしかめた。今のアヌビスは明らかに二人の力に面食らっている。
 「やあああっ!」
 「ぐあ!」
 リュカの剣が怯んだアヌビスの背中を捕らえる。再び大量の血飛沫が舞った。
 だが優勢はそう長くは続かない。
 二人の勢いに乗った攻撃はアヌビスの目の色を変えさせた。
 彼の怒りを買った。
 「貴様ら___図に乗るのも大概にしろ!!」
 アヌビスは俊敏な動作で斬りかかってきたリュカの剣を避け、その腕を掴む。そして近距離で呪文の詠唱をしていたルディーに向けて投げつけた。
 「きゃぁっ!」
 小さな身体が互いに激突する。二人は確かに強い。だが戦術が未熟ではアヌビスの逆転は簡単だった。
 「リュカ!ルディー!」
 ソアラの悲鳴が山頂に響いた。だがアヌビスは尚も攻撃をやめない。もつれあってなかなか起きあがれない二人にあっという間に接近すると、それぞれの足を捕まえて軽々と持ち上げた。
 「貴様らは邪魔だ。純粋すぎて___おもしろみの一つもない!」
 「やめろ___」
 「うわあああっ!!」
 アヌビスは腕を思い切り振りかぶって、そして勢い良く振り下ろした。小さな身体が岩肌に叩きつけられる。竜の使いの素質は十二分でも、覚醒しているのかもしれなくても、戦いを知らない二人にこの激痛はあまりにも厳しい。
 「あああっ!!」
 二人は苦しみで岩盤をのたうち回った。幼い身体の所々で血が滲み、肌の内側で青紫の染みが広がる。
 「やめろ___!」
 「わあああっ!!」
 ソアラの叫びもむなしく、アヌビスがのたうち回るリュカの足を踏みつけた。骨の砕けた音がする。あまりの痛みに耐えかねて、彼は気絶してしまった。
 「はなせこの!いっ!いたぁぁぁいっ!!」
 そしてルディーを持ち上げるとその柔らかそうな横腹に噛み付いた。
 「いあっ!あああっ!!かはっ___!」
 そして食らいついたまま激しく揺さぶる。ルディーの顔はたちまち蒼白になり、その小さな口から血が弾き出る。あまりにも残酷な光景だった。
 そしてそんな光景を母が許すはずもなかった。

 ドボォッ!!

 それはアヌビスの腹に拳がめり込んだ音だった。
 「あ___が___」
 腹を押し上げられる感触で、アヌビスの口が緩む。ルディーの身体は黒犬の口から抜け落ちて、母の手に収まった。反対の手にはリュカの身体。
 「ソ___アラ___?」
 アヌビスはソアラの姿に興奮を覚えた。いったいこの女の限界はどこにあるのだと。
 邪輝きをふりほどき、彼女は目の前で金色に輝いている。
 しかもその華奢な身体から滲む力強さはこれまでとは全く違う。
 二人の子供はすぐに淡い光に包まれて彼女の背後へ優しく運ばれていく。
 その傷を癒されながら。
 またも一人と一人の対峙へ___そして。
 「アヌビス、アヌビス、アヌビィスッ!!」
 ソアラの怒声。その身体から沸き立つ光のオーラはアヌビスをも圧倒する力を持っていた。その証拠にアヌビスは怯んで一歩後ずさったのだから。
 「うああああああ!!」
 その右手が竜の力を帯びて光り輝いている。全ての竜の力が右手に凝縮されていた。
 「クッ!邪輝___!」
 アヌビスの放った黒い波動は一秒の抵抗も見せずにソアラの拳に蹴散らされる。純粋な闇は純粋な光に蹴散らされた。となれば、剥き出しのアヌビスに拳が命中するのは確実だった。
 「はああああっ!!神竜掌ぉぉぉぉぉっ!!!!!」
 ソアラの鋭い拳はアヌビスに回避の猶予を与えない。光り輝いたままその黒々とした鳩尾に深くめり込む。しかもそれだけではない。ミキャックの呪拳の技術である。
 「うっ!!うが、ああああああっ!!!?」
 アヌビスの全身を竜波動のエネルギーが駆けめぐる。目映い光が彼の肌を突き破り、溢れ、広がっていく。黒い霧たちは光の前に為す術もなく消し飛び、山頂に陽光の明るささえ呼び込んでいった。
 「終わりだぁぁぁぁぁっ!!!!」
 ソアラの叫びが天を劈く。麓の皆は食い入るように輝く山頂を見上げていた。
 そして___
 「なんと___あの娘がこれほどに___」
 栄光の城の幻影もまた、感嘆の声を漏らしていた。

 (こいつは___)
 アヌビスはその時のソアラの背後に浮かび上がる人影を見た。

 その人物。
 黄金のソアラをより凛々しく、厳しくした印象___
 髪は背中を覆うほどに長く、鬣(たてがみ)のように雄々しい___
 その身体は服とは違う、甲殻のようなもので覆われている___
 そして___
 腰には優美な緑竜の尾___
 二の腕や膝には剣竜の刃___
 頭部には天を突く雷龍の角___
 背には風を育む翼竜の翼___
 足には陸竜の力強さ___
 拳には火龍の猛き血潮___
 流麗な脚線には宙を泳ぐ水龍の紋様が浮かぶ___

 強くも美しい___
 この姿こそ竜の使いの真の姿なのだろう___

 光の中でアヌビスはそう思っていた。

 爆音が轟く。
 光が空を一瞬で青に変えていく。
 紫色の雲は消し飛び、木々の葉が緑色に見える。
 その燦然とした景色こそが___

 勝利の証だった!!



前へ / 次へ