3 リドンのやり方

 ザザァ___
 ドンヨリとした空とは裏腹に、海岸は思った以上に心地よい。陸に上がって体を休めていたミキャックは、魔力が少し回復するのを感じて腕の治療にかかっていた。
 「ソアラたちはもうアヌビスと戦っているのかな___」
 焦る気持ちはあるが、今の怪我では戦力にならない。こんなことしているうちにソアラたちが負けてしまわないかと少し不安になった。
 「ん?」
 黒い気配を感じてミキャックは空を見上げる。
 「?」
 するとヘル・ジャッカルの方向から空へと何者かが飛び出してきた。外貌も、気配も良い印象は受けない。とっさに警戒して直ぐ側の岩陰に身を潜める。
 「何者だ___あいつ。」
 しかしその男はあっという間に姿をくらまし、ミキャックの警戒は杞憂に終わった。

 「大丈夫かソアラ!」
 百鬼を先頭に、皆がソアラへと駆け寄ってくる。激しい力の放出で眩暈でも起こしたのか、不意によろめいた彼女を百鬼が支えた。
 「ありがとう、ちょっと疲れただけよ。」
 ソアラは直ぐに姿勢を戻して笑顔を見せた。
 「八柱神であれじゃ、正直アヌビスの強さなんて想像もつかねえな。」
 「そうね___竜波動ならそれなりに追いつめることはできるだろうけど、向こうは時を止められる。あ、サンキュ、フローラ。」
 フローラはソアラの体力を少しでも取り戻させようと回復呪文を施す。
 「大部消耗しているわね。私の呪文じゃあなたの体力を満たすには時間も魔力も足りないかもしれない___」
 「手伝いますよ。」
 スレイもソアラに近づいてその手を輝かせた。
 「ありがとうスレイ、それなりにやれるくらいの体力があれば十分よ。」
 「ねえ、アヌビスは時間を止めちゃうんだろ?僕らはどうすればいいんだろう?」
 「対策なんていくら考えたって思いつかねえよ。」
 ライの質問を百鬼が一蹴する。
 「あたしたちにできるのはささやかな抵抗でしょうね。ただ、付け入る隙がないわけじゃないわ。あいつは、人から奪ったの能力に自信を持ちすぎてるから。」
 ソアラは天井に開いた大穴を見上げた。
 「今更あたしだけで行くってのは___駄目よね。」
 そういって爽快な笑みを見せるソアラ。五人はそれに応えるように強く頷いた。
 「分かったわ___なら墓場まで一緒に行きましょう。」
 「おいおい、縁起でもないこと言うなよ。それに同じ墓にはいるのは俺だけだろ?」
 「あ、そうか、夫婦だったんだっけ。」
 ソアラと百鬼は笑いあい、皆にも明るい雰囲気が広がった。もちろん開き直りがなければここまで気楽ではいられないだろうが。
 「さあ!アヌビスまでもう少しよ!」
 ただ、これくらいリラックスして臨めるのは良いことだ。もしもたった一人でヘル・ジャッカルに乗り込んでいたら、こうはいかないだろう。

 「可能性としては___あるはずなんだ。」
 薄暗い中に赤い光が差し込む螺旋状の廊下。その一角に腰掛け、レミウィスは血の器を抱いて思いを巡らせていた。
 「器が力だけを吸い取るというのであれば___」
 一見自由になったようにも思えるレミウィスだが現実はそんなことはない。アヌビスはこの岩山の中での出来事をつぶさに感じ取るし、ダ・ギュールは闇の中から唐突に現れる。聖杯をソアラに差し出しでもすれば、その瞬間ダ・ギュールが現れてレミウィスの首が飛ぶであろうことは容易く想像できた。
 「問題は器が竜の使いを前にしてどういった反応を示すのかが分からないこと___何かきっかけが必要なのか。それとも___」
 破壊したり、器の性質を変えたりすることはレミウィスにはどう転んでもできない。あとは今のこの器が手元にある状況、ソアラと接触が取れる状況、監視がある状況でどうやって最良の結果に持っていくか。
 「サザビー、おまえならどうする?」
 レミウィスは眼鏡を外し、立ち上がった。
 「あたしは___賭けていいのか?」
 いや、考える必要はない___完璧をうち崩すために、やれることは全てやってみるべきだ。
 レミウィスは決意を胸に歩き出した。

 ヘル・ジャッカルをさらに上り詰めていき、ソアラはアヌビスが近くなるのをひしと感じるようになった。しかしそれを感じているのはソアラだけ。アヌビスからは露骨な威圧感も、気配も、殺気も感じることはできない。ごく普通な存在感がアヌビスであるということなど、ソアラ以外に分かるはずもなかった。
 「薄気味悪いところだなぁ。」
 コロシアムの倉庫で山ほどの剣を見つけ、それを拝借したライが呟いた。
 傾斜のついた螺旋廊下は山頂へと延びている。壁にはモンスターが大口を開けた形の燭台が連なり、その口の中では炎にしてはいやに赤い光が灯っていた。
 「アヌビスが近いからそう感じるだけよ。」
 ソアラは前を向いたままそれだけ言って、なおも足早に進み続けた。気丈であると言うことはつまり、逆境や恐怖に屈しない心の持ち主ということである。だが逆境や恐怖を感じないということではない。ソアラはアヌビスに恐怖していたから、この廊下が終わらずにずっと続いてほしいと思っていた。そうすればアヌビスに会うこともないのにと___
 「ん?」
 こんなときだからこそ余計に余裕を覗かせるサザビーは、ちょくちょく廊下の向こう側を見ていたりした。螺旋状の廊下の中央は吹き抜けになっており、薄暗いとはいえ向こう側も見えた。
 「あれは___」
 なにやら白い影を見たサザビーは眉をひそめた。もう暫く行ったところに白い影が見える。どうやら人のようだった。
 「まさかな___」
 思い当たる人物は一人だけだったが、無理に皆を急がせないためにも見たことは黙っていた。とにかくソアラも百鬼もライもフローラもスレイも前、または足元をじっと見つめて歩いているので、影には気づかない。
 トットットットッ___
 足音が聞こえてきて漸くソアラたちも誰かが螺旋廊下を降りてくることを知る。アヌビスの気配ばかりに気持ちが行きすぎていたらしく、その人物が目前に迫るまで足音すら聞こえないでいた。
 「!」
 しかし足音の主が皆の目に見えた途端、全員がぴたりと止まった。
 「レミウィス!?」
 人気のない廊下で鉢合わせた人物もまた意外。だが当のレミウィスは___
 「ずいぶんと手傷を負っていますね。」
 「えっ?あっ、ああ、うん。」
 突然の再会に笑顔を見せる皆だったが、レミウィスの第一声は再会に相応しい言葉ではなかった。目つきは冷静、表情は沈着。感情などおくびも出さず、普段以上に普段らしすぎるレミウィスだった。
 「まあいいでしょう。」
 レミウィスはゆっくり皆に近づいてきた。彼女がレミウィスであることに疑いはなく、アヌビスに操られているとすれば異常をソアラが感じる。警戒の必要はないはずだった。
 「無事だったのね、心配したわ。」
 ようやくソアラが捕らわれていた人物との再会に相応しい台詞を述べる。レミウィスもその言葉に微笑みを見せ、場の妙な緊張が解けたかに思えた___が。
 ドス。
 一瞬のきらめき。
 「!」
 ソアラの瞳孔が広がる。皆も驚愕し、言葉を失った。というより一瞬ではなにが起こったのか分からなかった。
 「レ、レミウィス___何で___」
 ソアラは痛みのなかで絞り出した声と、哀願の瞳でレミウィスに問う。その無抵抗な腹部に突き刺さった銀色の小さなナイフ。致命傷になるような刃渡りではないが、その柄はレミウィスがしっかりと握っていた。
 「殺しはしません、ちょっと眠くなるだけ。」
 「な、なんだと!!?」
 百鬼が怒りに満ちた表情でレミウィスを睨み付けたのと、ソアラが気絶するのは同時だった。
 「ソアラ!」
 「動くな。」
 フローラがソアラを治療しようとするがレミウィスはソアラの頭部に手を押し当てて制止させる。その手は魔力の輝きが燻っていた。
 「心配はありません。ナイフに催眠の力が込められているだけです。」
 レミウィスは皆に対して凍てついた微笑みを送る。
 「どうしてだレミウィス!君は血の器もソアラのことも分かっていて何でアヌビスに!」
 百鬼の声にもレミウィスは顔色一つ変えなかった。そしてナイフを握っていた手で、血の器を皆に見せつけた。
 「!」
 「アヌビスが魅力的な役目をくれたから___それに乗っかってみることにしました。」
 レミウィスの足下から黒い炎が吹き出した。それはソアラごとレミウィスを飲み込んでいく。
 「私はアヌビス様と最上階で待っています。」
 「レミウィス!」
 百鬼は叫んで炎の中のレミウィスを捕まえようと駆け出す。しかしあっというまにその姿は消えてしまった。
 「どうなってんだ!」
 彼は怒りを露わにして床を拳で叩いた。
 「操られているのかしら___」
 「きっとそうだよ、レミウィスさんなら僕らが油断すると思ったんだ。」
 フローラとライは口々に安直な答えを出すがスレイは違った。
 「それは違うと思います。彼女からはアヌビスの魔力を感じませんでしたし、なにより瞳がしっかりとした輝きを持っていました。」
 「ならレミウィスは自分の意志でアヌビスに荷担してるって言うのか!?」
 「いい加減にしろ!」
 カッとなった百鬼を一喝したのは、いつも皆の口論の場面では静観していることが多いサザビーだった。動揺していたライとフローラも多少の落ち着きを取り戻す。
 「忘れたのか百鬼、リドン家の奴等のやりかたを。敵を欺くにはまず味方から、あいつはくしくも妹と同じことをやっているように俺には思えるぜ。」
 その言葉に百鬼、そしてフローラもハッとする。彼女の妹フュミレイは、魔の者フェイロウの手に落ち、やむを得ず皆に近づき、そして欺いた。フローラに銃を押し当て、ソアラたちからリングを奪い取った。だがそれさえもフェイロウを欺くための布石であり、結局彼女はフェイロウを道連れに逝った。
 状況は今と酷似している。
 「レミウィスさんに何か秘策があるというの___?」
 フローラの問いにサザビーは首を傾げる。
 「さあ、それはわからねえが、彼女はアヌビスがまともに戦って勝てる相手でないことを肌で感じて、とんでもない大博打を打とうとしてるって気はするな。」
 「大博打?」
 「勘だよ、勘。とにかく俺たちは一刻も早くアヌビスのいるところまで行くべきだと思うぜ。仲間を信頼する気持ちがあるならな。」
 そういってサザビーはさっさと螺旋廊下を上へ向かって歩き始めた。それにスレイがついていく。
 「ソアラ!」
 百鬼は突然もうダッシュで螺旋廊下を上りはじめた。ライとフローラも慌ててそれを追い、あっさり追い抜かれたサザビーも一度舌打ちしてからそれを追った。
 「そんなに走るとアヌビスんとこにつく前に疲れるぞ!」
 「レミウィスなら俺がムキになって走るのだって計算してるはずさ!彼女のシナリオを少しでも崩したくはないだろ!」
 それを聞いてサザビーは口笛を吹いた。
 そして___
 もう慣れたはずのこの闇の部屋、ここに気を失っているソアラと血の器、そしてアヌビスがそろっただけでこうも息詰まる空間になるものか。ソアラの体は宙に吊され、器は彼女の足下にあった。アヌビスは悠然と少し離れたところで木製の椅子に腰掛けている。レミウィスはソアラの側に立ち、彼女の腹の傷を癒していた。
 「レミウィスよ、おまえはこの時を見たかったか?」
 「かつては見たくなかった。だが今は研究者として興味をそそられる。」
 ポタ___血の器にソアラの血が一滴落ちた。すると___ヴォォォンという不気味な共鳴音を発して血の器が一瞬だけ輝いた。血は器に吸い込まれるように消え、器の縁が少しだけ蠢いたように見えた。
 「あまり焦らすと悪いよな。」
 アヌビスは微笑を浮かべ、今にも動き出しそうな器に目をやった。そして時にレミウィスに視線を送る。彼女はただ黙ってソアラと血の器を見ていたが、その面立ちはいつもと変わりない。特段思い詰めた様子でもなかった。
 (何をしてくれるんだ?俺の期待通りだと嬉しいが___)
 手元のワインを飲み干し、アヌビスはこれからやってくるであろう一時に胸を躍らせていた。そして___
 バンッ!!
 螺旋廊下の果てにあったのは、荘重な飾りこそ施されているが小さなドアだった。勢い良く開けることも容易く、ここがアヌビスのプライベートルームであるということが良く分かる作りだった。
 「ソアラ!!」
 扉を開けると部屋かどうかも疑うほど黒い空間が現れる。冷静でいれば床も壁も分からない闇の部屋に踏み込むことを躊躇したのだろうが、百鬼は闇の中に吊されているソアラに引き寄せられるように駆け込んだ。
 「ソアラ!?」
 百鬼はソアラに駆け寄ってその体を自分のいる高さへ降ろそうとする。
 「少し落ち着きなさい。」
 直ぐ側にいたレミウィスの言葉に冷やされ、百鬼は漸くこの部屋にアヌビスがいることを知った。ライたちはソアラとアヌビスを交互に見やりながら、百鬼のいるところまで闇の中を進んだ。
 バタン。
 ドアが閉まるとそこは真に黒の世界となった。はっきり見えるのは人物の姿と、彼らの持ち物、アヌビスの腰掛ける椅子、血の器。あとは上下左右が分からなくなるくらい底のない黒。
 「ようこそヘル・ジャッカルへ、待ってたぜ。」
 アヌビスは皆の姿をそれぞれ見やって笑顔を見せた。肌をなめるような殺気も、押し潰されるようなプレッシャーもない。栄光の城で彼と向かい合ったときよりも、皆は遙かに落ち着いていた。だがそれも逆に怖い。
 「役者は揃った。はじめようか。」
 アヌビスは玉座に腰掛けたまま語りはじめた。それはまるで、名探偵が推理を語るときのようでもあった。
 「まず、良くここまでこれたな。大半がソアラの力によるものとはいえ、おまえたちは俺の八柱神をことごとくうち負かし、ここまで来た。まさに選ばれし者だ。」
 アヌビスは各々に視線を送る。
 「ライ。」
 突然名を呼ばれ、目を合わされ、ライは軽く震えた。しかし直ぐに持ち前の強心臓が彼の怯えを消す。
 「おまえの剣の腕は素晴らしい。ブレンを一刀両断したあの一太刀は見事だった。そしておまえは独特のリズムで彼らに明るいムードを運んでもくれる。」
 アヌビスの視線が移る。
 「サザビー。」
 サザビーは震えはしなかった。アヌビスの臭い演出に怪訝な顔でいる。しかし緊張感で鼓動は高ぶっていた。
 「おまえの機転、協調性、そして道化ぶりには感服する。表舞台に立たなくとも、随所でおまえの渋い働きがなければ苦難の打開はあり得なかった。」
 アヌビスの視線が移る。
 「フローラ。」
 フローラはできるだけ気を強く保とうとアヌビスにきつい視線を送る。彼女を奮い立たせるのは母性の強さか、震えもなかった。
 「傷の治癒は忙しかろう。思い起こしてみるがいい、いったいおまえの献身的な努力がどれだけの者を救ったのか。おまえの優しさがどれだけの者を笑顔にしてきたか。」
 アヌビスの視線が移る。
 「スレイ。」
 スレイも震えてはいない。それどころか冷や汗すら滲ませていない。父の威厳と母の度胸、魔族の邪に対する適性で彼はアヌビスに向かい合っていた。
 「まだ若いおまえがここまでこれたのは血筋か執念か、ともかく、おまえは力強き竜と、希代の魔女の血を持っている。その可能性は計り知れないだろうな。」
 アヌビスの視線が移る。
 「百鬼。いや、ニック。」
 「おまえみたいな奴にその名前で呼んでもらいたくはねえ___」
 アヌビスはそれを聞いて口元を歪める。
 「良かろう___百鬼。」
 百鬼を凛とさせるのはソアラを守ろうという意志か、平和を勝ち取ろうという正義感か、気っ風のいい国民性ゆえの開き直りか。彼は断固アヌビスを睨み付けていた。
 「おまえがいてこそ今のソアラがある。おまえがいてこそおまえたちはここにいる。おまえの力強い闘志と、その先導力には目を見張る。おまえのような男は魔族にはいない。」
 アヌビスが立ち上がる。
 「おまえたちに俺は心から感謝する。良くここまで俺に刃向かってくれた。おまえたちの存在と、絆と、勇気と、希望を持つ心がなければ、おまえたちがここにこれなかったのは勿論、ソアラも竜の使いに覚醒できなかっただろう。」
 淡々と、しかし各人にしっかり伝わるようにアヌビスは語る。そして次に彼の口にした言葉は、あまりにも心がこもっていた。

 「ありがとう。」

 不気味だった。恐ろしかった。
 深々と会釈する彼の姿。あまりにも強大な力を持つ者にありがちな付け入る隙を、アヌビスはまるで感じさせない。
 一ひねりできる相手のことを事細かに知る、精密なまでの周到さ。彼らを賞賛してみせる謙虚さ。彼らの発言を許し、意見を聞き入れる柔軟性。それでいて、高い理想。
 超龍神にはどれも欠けていた。彼は小さき者には無知で、傲慢で、頑固で、保守的だった。それが隙を生み、綻びを育む。
 「じゃ、今からソアラの力を奪わせてもらう。」
 「やらせるか!」
 百鬼はいきり立つが、次の瞬間には皆の周りを漆黒の格子が取り囲んでいた。
 「黙って見ていろ。」
 檻の中では声までが遮断される。百鬼が酷く何か怒鳴っているのは彼の口を見れば分かるが、言葉はアヌビスやレミウィスには届かなかった。
 「レミウィス、きっかけはおまえが与えてみろ。」
 アヌビスは再び椅子に腰を下ろした。
 「え?」
 「なんか企んでるんだろ?やってみろよ、つきあってやる。」
 これが余裕というものか。計らずともソアラが口にしていたこと、「人から奪った能力に自信を持ちすぎている」というアヌビスらしい態度だった。
 「全て見抜いていたか___だが、今の状況でも効果的な策はない。」
 レミウィスは吐き捨てるように語り、焦燥の滲んだ笑みを浮かべる。
 「あまり効果的じゃない策ならあるってことか。まあいいさ、俺を楽しませてくれるならな。」
 「やり方は?」
 レミウィスは血の器を指さしてアヌビスに問いかけた。
 「器の中に手を伸ばして見ろ。」
 少し躊躇う気持ちはあったが、レミウィスは意を決して器の中に手を伸ばす。
 「ゆっくりと、魔力でいいから手に灯せ。」
 アヌビスの言葉通り、微弱な魔力を手に広げていく。朧気な光を浴びると血の器が少し動いたように見えた。
 「いま器の中のケツァールは眠っている。それを強い衝撃を急激に与えることで目覚めさせるんだ。そのまま器に手を触れて、魔力を流し込むような感じで一気に解放しろ。」
 レミウィスは一つ息を飲んで器に手を触れた。アヌビスに分からないように、ソアラを一瞥してから。
 「器は目覚めれば勝手にソアラに食らいつく。竜の使いの力を求めてな。」
 それを聞いてレミウィスの目つきが変わった。それは勝者の眼差し___!
 (なるほど、全て推測通りか___なら!)
 彼女は一気に持てる魔力の全てを解放した。血の器に輝きが巡り、灰色にくすんでいた器に真っ赤な色合いが走った。驚きと共に手を引いたレミウィス。ランプの精が飛び出すように、器の口から見るもおぞましいモンスターの腰から上が飛び出した!牛の頭に鳥のクチバシ、胸と背中は青み帯びた鱗で覆われ、肩は黒い羽で包まれているものの腕がない。何よりその牛頭の額に開いた人の口が不気味だった。
 久方ぶりに見るケツァールの姿をアヌビスは立て肘で眺めていた。余裕で。
 「ソアラ!!」
 だがレミウィスにとって、彼が静観を決めてくれることは何よりありがたかった。
 もしアヌビスがきっかけを与えるためにこちらに近づいてきたら、「ばれていた」かも知れない。
 ことは全て彼女に味方した。
 血の器はスイッチをオンにしないと竜の使いの力を求めないこと。これはソアラにナイフを突き立てたあのとき、彼女の側に器を寄せることで推察を確信にかえた。
 血の器が「竜の使いの力」を求めて「勝手に動く」こと。これは重要な要素であり、こうでなければ彼女の賭に成功はあり得なかった。
 何より難しかったのは、ソアラに催眠のナイフを突き刺しながらも、彼女に眠ってもらっては困ることだった。ナイフをすり替えては怪しまれるし、かといって刃そのものに念力の籠もったナイフから催眠効果を取り除くことも難しい。ソアラの腹に傷がなくては不自然だし、ナイフを後でアヌビスに返す必要もあった。
 氷結呪文で薄く施した氷のコーティング。ソアラの体温で解けてしまう時間だけが心配だったが、成功して良かった。
 「はぁぁっ!」
 突然ソアラが目覚め、闇を振りほどくと紫のままその掌から小さな波動を放つ。最初は一心同体の器ごとソアラに向かってその体を伸ばしたケツァールが、急激に方角をかえて波動を目指した。
 「!?」
 波動はアヌビスに向かって飛んだ。そしてケツァールもそれを追って飛んだ。次の瞬間、アヌビスは椅子ごと波動の軌道から逸れ、血の器は彼のすぐ横で捕まえたソアラの波動を人型の口に捕らえていた。
 「ちっ!」
 どうしてもこの時を止める能力に邪魔される。ソアラは舌打ちして闇の床に降り立った。
 「どういうことだ___?」
 アヌビスは真顔になって、レミウィスを見つめた。彼は血の器に対してとびきりに無警戒。それはレミウィスとソアラ、二人の思惑通りだった。一度時を止めて危険を回避したなら、アヌビスはその後は無警戒になる。
 「なに!?」
 突然だった。ケツァールがその人型の口でアヌビスの細長い口に食らいついたのだ。
 「ぐぅぅおおっ!?」
 アヌビスの体が赤い輝きに包まれると、それはすぐにケツァールの体へと広がる。まるで流れ込むように___ケツァールに吸われるように!
 「やった!」
 ソアラは力強く拳を握り、逆の手でレミウィスの背中を強く叩いた。
 「いいえ、まだうまくいったとは限りません!」
 だがレミウィスは笑顔の彼女を戒めるような厳しい表情で、ケツァールとアヌビスを睨み付けていた。
 「ソアラ!無事か!」
 突然の事態で動揺したのだろうか、闇の檻が弾けて消え、百鬼たちが二人の元へ駆け寄ってきた。
 「どういうことだこいつは?」
 サザビーも首を捻って二人に問いかけた。
 「賭よ。レミウィスにナイフを刺されたあのとき、彼女が耳打ちしてくれた。」
 「聖杯が竜の使いの力だけを求めるというのなら、アヌビスだってその力を奪われる可能性がある___そういうことです。」
 つまり時を止める能力をケツァールに奪わせる、それが彼女の策略だった。全て推論の中で動かなければならない、あまりにも危険な賭だったがそうでもしなければアヌビスに勝ち目さえ見いだすことができなかったろう。そして___
 「ギュギュギュ!?」
 突然ケツァールの体が真っ黒に膨れあがり、アヌビスの体から赤い光が消える。
 ドボバァッ!!
 そしてケツァールは一気に爆発し、あわせて罅入った血の器が金属らしからぬ音を上げて砕け散った。
 「器が!」
 フローラが歓喜の声を上げる。
 「これでソアラの力を吸うことはできない!」
 流れは確実にこちらに傾いている。後は厄介なあの能力がどうなったか___
 「うまくいったか___?」
 「試してみればいいわ!」
 ソアラは紫のままで波動を放った。まだ少しうつろな顔をしていたアヌビスは波動の接近を感じて___
 ボンッ!!
 動かなかった。いや、動けなかった。彼の顔に白い輝きは勢いよくぶつかり、弾けた。
 「___」
 アヌビスは煤けた顔のままで己の体を一通り見渡す。そしてたった一言。
 「時が止まらない。」
 それを聞いたソアラはこみ上げる笑みを隠すことなどできなかった。
 「レミウィス!」
 彼女は後ろからレミウィスに抱きついて、白髪の才媛に頬ずりした。
 「___」
 闇がアヌビスの顔を包むと、たちまち彼の煤けは消えてなくなる。そしていつになく生真面目な顔でレミウィスを睨み付けた。
 「説明しろ。」
 低く重い声色で問うた。
 「___血の器は___」
 レミウィスは抱きついているソアラを離れさせ、ゆっくりと口を開いた。
 「血の器は竜の使いの力を求める、それはつまり、おまえが奪い取って体に宿した古き竜の使いの能力、それを奪い取る効果だってある___そう考えたのがこの賭の始まりだった。」
 レミウィスはいつもと変わらない平静さで語る。
 「だが、それならばなぜソアラを狙わない?ケツァールはソアラの放った力に___」
 そこまで口にして、アヌビスも気が付いたようだ。
 「あたしがさっき放ったのは、威力の乏しい竜波動。破壊力はなくても、竜の使いの純然たるエネルギーであることには変わりない。大事なのはどれだけの力を持っているかじゃなく、その力がどれだけ純粋かということよ___」
 ソアラは己の髪を掻き上げ、そしてキッとアヌビスを睨み付けた。
 「血の器は紫色のあたしよりも、あたしが放った竜の力を選んだ!この賭は___」
 そして誇りを込めて叫ぶ。
 「あたしが紫だからできたんだ!」
 短い沈黙が訪れた。百鬼たちでさえ、息を飲んで彼女を見ていたほどだった。
 「あたしはソアラ・ドラゴンである前にソアラ・バイオレットだった___今まであたしを苦しめてきたこの色___あたしはそれを味方にした!」
 ソアラの良く通る声が黒の部屋に響き渡る。まるで黒を紫に変えていくように。
 「妖魔の血か。」
 「!?」
 「純粋でないが故に___一時の希望を掴んだというわけだな。」
 グッ___
 アヌビスが一歩前へと歩む。
 それだけで体中に冷や汗が浮き出た。
 グッ___
 二歩目には吐息が乱れる。
 ソアラでさえも。
 そして___
 「不愉快だな。」
 時を止めずともアヌビスは速い。皆が身構えるよりも速く、レミウィスの前へと立ったアヌビス。
 ザンッ!!!
 勢い良く、黒の部屋に舞ったのは白。ソアラの直ぐ側に落ちたそれはレミウィスの右腕だった。
 「レミ___!」
 彼女を助けようと皆が一斉に動いたが、闇の床から飛び出した黒い塊が六人の体を大きく弾き飛ばした。
 闇の部屋の中央に、黒犬と、白髪の美女が向かい合う。白い女は、その右腕から体を赤く染めながら。
 「見事な裏切りだ。」
 「ありがとう。」
 「約束は覚えているな?俺を手伝うか、死ぬかだ。それにおまえは自分で己の役目は終わったと言った。」
 レミウィスはただ沈黙した。
 「殺すぞ。」
 「やめろアヌビス!」
 一挙に増幅したアヌビスの殺気にソアラは床を蹴る。だが黒犬の残虐な拳が、か細い聖女の腑を食らうのを止めることはできなかった。
 「レミウィスッ!!!」
 悲痛の叫びだった。
 やはり姉は妹と同じことをして見せた。
 自分の命を犠牲にして希望の扉を開いたのだ。
 「アヌビス___私は死など怖くない___だが貴様は___ソアラに敗れるのがよほど怖いらしい___」
 残された最後の力を彼女は侮蔑に用いた。信頼なる仲間たちには言葉などいらないのだろう。彼女はいまわの際、ソアラに、皆に、希望に満ち足りた視線を送る。瞳は皆の勝利を嘆願し、皆を鼓舞する力を秘めていた。
 「血は争えねえか___」
 サザビーの呟きのあと、アヌビスは骸と化したレミウィスを部屋の隅へ投げ捨てた。
 「アヌビス___!」
 憎悪を表しはじめたアヌビスが皆の方を向く。部屋と同じく黒い肌は幾重の血が浸みようとも変わらない。彼はこれからその全身を、愚かしき者の血で染めるつもりだ。
 「互いに策略を巡らせるのは終わりだ___」
 一気に黒い部屋の景色が変わる。
 現れたのは灰紫色の雲と、広がったヘル・ジャッカルの山頂風景。黒の部屋はヘル・ジャッカルの山頂に、アヌビスが闇を敷き詰めて作りだした空間だった。
 「力が全てを決めるときが来た。」
 アヌビスの威圧感がヘル・ジャッカル全体を、地界全体を覆い尽くしていく。だが彼の前に対峙している六人は、その威圧感に負けないだけの強さを持つものばかり。
 策略の果てに、生命は力を誇示する。
 もはや考えることはない。
 これからはバイオレットの自分ではない、ドラゴンの出番___
 竜の使いは宿敵を仕留めるために、その仲間たちは竜の使いを勝利に導くために___
 戦う!



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