2 日記

 「どうしたんだ急に。」
 アヌビスは真顔で驚いていた。
 「あれ以来ずっとGのことが気になって仕方ないんだ。だからあたしもその気になった。」
 彼の前にはレミウィスがいた。
 「分からないもんだな、女ってのは。」
 彼女はほんの数秒前、アヌビスに「心変わり」を告げていた。彼のために「G」の調査に協力すると口にしたのだ。
 「ただ条件がある。」
 「条件?」
 「ソアラの力を奪うのは構わない、でも命は奪わないで欲しいんだ。」
 大胆な要求だった。それと彼女がアヌビスに手を貸すことはそもそもは無関係だ。
 (はぁ、なるほどな。)
 アヌビスは以前彼女が語った言葉を思い出していた。
 ___私の命で彼女たちが蘇るなら自害する___
 なるほど、協力する代わりにソアラたちの生きる保証を求めるというのはその言葉に通じるものがある。
 「Gに近づくにはおまえが強くなれば十分なんだろう?だったらそれでいいじゃないか。」
 「おまえは、俺に協力すると言っておきながら逃げ口は作っておくつもりのようだな。」
 レミウィスは心からアヌビスに協力しようと考えているわけではない。あくまで付け焼き刃。いつの日かソアラが彼を倒すことを想定しての賭け。それは栄光の城で煙草好きなあの男に諭された言葉___「終わりよければ全て良し」の精神だった。
 「ソアラがいなくなったらおまえがつまらないんじゃないか?」
 「ハハハッ!」
 アヌビスは声を上げて笑った。
 「そうかもな。」
 いつの間にか、レミウィスの手にはナイフがあった。
 「おまえがソアラをここに連れてこい。そして血の器にあいつの力を食わせろ。それができたら少しは考えてやってもいい。」
 「血の器___あたしが持ってもいいか?」
 「いいよ持っていけ。」
 せっかく彼女が苦渋の選択で持ち出したきっかけだ。アヌビスは無碍に不意にしたりはしない。レミウィスの手にはいつの間にか血の器があった。
 「ありがとう。」
 レミウィスも彼の目の色に期待を感じ、嘲笑を浮かべたような顔をする。そして久方ぶりに闇の部屋から外に出ることを許された。
 「何か企んでますな。」
 レミウィスと入れ替わるようにして、アヌビスの背後に現れたダ・ギュールが低い声を響かせる。
 「分かってるよ。あいつだって俺が見抜いていることを分かっている。」
 アヌビスはテーブルに肘を立てて長い顎を支えると、牙を見せてニッと笑った。
 「何かやろうとしてるのさ、俺が驚くような何かをな。それも命がけで。」
 ダ・ギュールの体が足下から闇に溶けていく。
 「見届けてやりたいじゃねえの。俺だってそれくらいの器量はあるぜ。」
 アヌビスは彼の方を振り向いて笑った。ダ・ギュールはすでに肩上だけになっていた。
 「では後はお任せしますぞ___」
 「おう。」
 そしてダ・ギュールが消えた。一人闇に残ったアヌビスは、鼻歌も飛び出るほど上機嫌だった。

 ゆっくりと、最後の八柱神はコロシアムの天井に開いた大穴から、瓦礫の上へと降りてくる。
 「ありがとう、もう癒えたわ。」
 掌の傷が完全に癒えたことをフローラに示し、ソアラは勢いよく立ち上がると彼の前へと向き直った。
 「ラング!」
 そして強い口調で呼びかける。
 「ここまで来ようとは、さすがと言うしかないな。」
 だがラングは肩すかしでも喰らわすかのようにマイペースだった。
 「ラング!どうしてあなたは戦えるの!?ライディアはアヌビスの陰謀に振り回され、ジャルコに殺されたのよ!?」
 聞こえてはいる。聞こえてはいるのだろうが彼は指先一つにも反応を示さなかった。
 「あなたも彼女の純情を踏みにじるつもりでいたの!?」
 答えるどころか動作一つ取らないラングにソアラは怒りを高ぶらせる。
 「都合が悪くなるとすぐだんまり___あんたは卑怯者よ!」
 ソアラはいきなり黄金の輝きを身に纏い、一気にラングに襲いかかった。その拳を振りかざし、ラングの顔面を殴りにかかる。
 「!?」
 しかし彼女の拳は、ラングの頬に触れる寸前で止まっていた。いや、止められたと言った方が正しいか、彼の頬とソアラの拳の狭間には、目映いばかりの炎が揺らめいていた。
 「うあああっ!?」
 突如ソアラが悲鳴を上げる。炎は彼女の拳を包み、腕を走っていた。一瞬のうちに皮膚が焼け、肉が焦がされていく。呪文の炎でも、これほどの火力はあり得ない!
 「ストームブリザード!」
 瓦礫の山からもんどり打って転げ落ちてきたソアラを百鬼が受け止め、駆け寄ったスレイがすぐさま彼女の腕に氷結呪文を施す。
 「な、なんて火力!」
 しかしなかなか消えない。彼が渾身の両手で魔力を注ぎ込むと、ようやく鎮火することができた。しかしソアラの右腕は黒ずみ、肉が焼け落ちて骨が露出しているところさえあった。もちろん彼女が黄金でいられるはずもなく、蒼白な面持ちで荒い息を付いていた。
 「ソアラ!」
 慌てて治療を施しはじめるフローラ。
 「くっ___!」
 ラングを睨み付けていたライとサザビーが思わず呻いた。百鬼もラングの姿を見上げて絶句する。
 「私が戦う理由は簡単だ。」
 彼は全身を燃えさかる炎で包み込んでいた。その火炎は、ジャルコを滅し、武器を溶かし、ソアラの腕を一瞬で破壊した地獄の炎。
 「どうやって攻撃すりゃいいんだ___!?」
 炎の中で平然としているラングのどこに隙があるのか?百鬼は愕然とし、ようやく痛みの失せてきたソアラもラングの「最強」たる所以を理解した。
 「アヌビス様の僕であるから、こうして戦う。」
 ラングは魔獣サラマンドラの姿を持つ。だが彼は変身を必要としない。むしろこの姿でいる方が、彼は強いから。
 攻撃を喰らうことがない。これがラングの強さの源だ。
 「___」
 戦いはこれから始まる。しかし、彼の心は別の場所にあった。
 それは彼がただ立っているだけでも戦いに勝てる男だから。
 そして、数日前に眺めた彼女の日記___
 その文面が、烙印のように彼の心に焼き付いて離れなかったから。
 ___
 『今日、私は一つの決心をした。アヌビス様直属の人の下で戦いの訓練を受ける。パパとママが死んじゃって、やっとこの世界の厳しさが分かったから、生きていくために、二人の名誉を汚さないためにも、私は一人前にならないといけない。そう思った。だからこれからは少しくらい厳しく辛いことがあっても泣いたりはしない。私が「あのドラクロワの娘か」って言われるんじゃなくて、パパが「あのライディアの親か」と言われるように___そこまでは望んでないけど、それくらいの魔族に、パパみたいに強くて、ママみたいに知的な戦士になってみせる。誓うよ、パパとママの名誉にかけて、誓う。私は一人前になるんだ。
 ___
 彼女の淡い決意。漠然としていて、きっとそのころは力ある親の元に生まれたことを妬まれ、その逆境を抜け出したくて立てた、その程度の誓いだったのだろう。なにを以て一人前とするか、それすら考えてはいないのだから。
 ___
 ラングは日記のことを考えているからか、動かない。ただ時に炎を走らせて皆を怖がらせるだけ。百鬼、ライ、サザビー、武器を失った三人は機転を利かせて瓦礫を彼に投げつけるが、石は炎の中で簡単に砕け散った。
 ___
 さて彼女の日記___それからは訓練を受けるための準備やらなにやらに数日を要し、その間のことが書かれていた。ライディアに大した心境の変化はなかったが、日記の内容はほとんど先行きへの不安ばかりだった。
 厳しい訓練への危惧。激しい戦闘への恐怖。これからの生活への不安。とにかく、それを見ただけで彼女がいかに弱虫で、臆病なお嬢様だったかが良く分かるものだった。
 印象的で情熱的な文章は、ラングと初めて会った日、訓練初日の日付に記されていた。
 ___
 『今日からいよいよ訓練が始まった。不安はいっぱいあったけど(前のページを見ると情けなくなるよ___)、今日の訓練でそれは消し飛んでくれた。だって、教官はとっても優しい人で、それも真剣に指導してくれる、とっても素敵な人だったのよ。良かった!でも少しだけ残念なこともあった。自己紹介の時にとちっちゃった___教官は「それくらいの緊張が必要だ」だって!そういえば私がパパの子だってことを確認してたなぁ。私はパパは大好きだし、パパの子供であることを誇りに思うけど、それが原因で彼の態度が変わったりしたら残念。
 ___
 彼女の気持ちが浮かれているのが文面に良くでている。しかもやや中途半端な形で終わっていた。何か思いだして途中で切り上げたのだろうか?
 とにかく、まだこのころのライディアはラングのことを違った目で見てはいない。ラングについては「感じの良い教官」というそれだけのことだった。
 ___
 『今日はとっても素晴らしい日だった。私は友達作るのがとっても苦手だけど、今日はとても素敵な人と二人も友達になれた。カレンさんとクレーヌさん。二人とも私と同じでこの前からラング先生に戦いを教えてもらってる、いわば同級生。二人ともとっても可愛くって、それにとってもはっきりしていて、やる気満々で、私なんかちょっと気後れしちゃうくらい活気ある人。でも先生も闘争心を身につけるために誰かと競うことは大事だっていっていたし、三人で頑張りあえたらいいと思う。
 ___
 『教官のラングさんはとっても優しい人。冷たいってカレンは言っていたけど私はそうは思わない。あの人は多分誰にでも平等であろうとするから、変に相手を気遣ったり、気にした態度をとらないだけだと思う。とても真面目なんだと。私は彼のような誠実な魔族の男性と話しをしたことはなかったから、とても新鮮だった。それになんだか先生の話を聞いているときが自分が一番いきいきしてる気がする。誰も私を変な目で見たりはしない、カレンやクレーヌも優しいし、今の関係が私はとっても好き。
 ___
 短い人生で、ライディアが感じていた数少ない幸せな時間。でも彼女はまだ自分の抱く想いには気づいていない。その言葉一つ一つが前向きで、当時の彼女の前向きな姿勢を表していた。
 ___
 渾身のストームブリザードもラングの炎に触れるとあっという間に蒸気にかわる。
 (アヌビスなら時を止められるからラングの炎も効果をなさない___か。)
 ようやく傷の癒えたソアラが打開策を見いだそうと思考を巡らしている間も、ラングは日記のことを思い出していた。少しずつ、ライディアの気持ちも考えて。
 さて、前向きな彼女の日記。だがやがて、彼女の心の変化が言葉に現れる。それは好転か暗転か、ものをどう見るかで答えも変わる。
 ___
 『今日はクレーヌにおかしなことを言われた。彼女が言うには私が先生と話すときは気持ちが浮ついているって。本当かな?私にはそんなつもりはないんだけど、よく考えてみると練習ではうまくいっていることも、先生の前でやるとめちゃくちゃになってしまうような気はする。それってただ緊張しているだけだと思うのに、クレーヌは私が先生のことを好きなんじゃないかって言うのよ!どうなのかな、私はそんなことこれっぽっちも考えたことがないからまるで分からないんだけど、そんなこと言われると先生のことを意識してますます堅くなってしまいそうな気がする。う〜ん、やっぱり駄目駄目。ラング先生は私なんか届かない人よ。先生はアヌビス様直属の戦士なんだもの。明日から十分リラックスして訓練がんばるぞ。
 ___
 彼女の恋心の芽生えだった。人には言えない気持ちを日記に書きつづるのは人でも魔族でも、思春期の人物なら同じこと。一日ずつ、恋の芽は花の蕾へと変わっていく。
 ___
 『私はラングさんが好き。良く分かった。彼に指導されるときに手を握られて、胸が高鳴ってしまった。目を見つめられると瞳が潤んでしまった。彼の声を聞くのが嬉しい。これが恋なんだ。パパやママのことを愛しく思う気持ちとは違う、とても切ない気持ち。あ、同じ恋でも片思いだから切ないのかも。あたしでもこんな気持ちになれるんだな。
 ___
 『カレンとクレーヌに私のことを気づかれた。でも彼女たちは私を冷やかしたりしない。二人して「手伝う!」だって。やっぱり持つべきものは友だなぁ。でも私はまだとても告白なんてする気になれない___振られたときにどうなっちゃうのか怖くてしょうがないもの。私、思い詰めるとなにするか分からないところがあると思うし、先生にも熱くなりすぎるって言われたこともある。なんでも思い通りにうまくいくなんてあり得ないけど、先生にも私のことを好きになってもらいたい。
 ___
 『今日思わずラング先生に言ってしまった。あなたを見てると気持ちが高ぶる___なんて、恥ずかしくてもう二度と誰にも言えない台詞よ。先生も私が堅くなっているのは分かっていたみたい、でもそういったあともいつもと変わらずクールな先生だった。カレンが言ってたみたいに真面目と言うよりクールなのかなぁ。でももしかしたらシャイなのかも。クレーヌは「なによあの無反応!」って自分のことみたいに怒っていたけど、私はそれでも構わないし、ラングさんのそういうところが好きなんだもの。
 ___
 それからの文面は全くもって恋する乙女のときめき一色で、彼女もそういうことを書くのを楽しんでいる風がある。後に重要な転機となる部分はある日の日記の終わりにほんの少し登場しただけだった。
 『___そうそう、アヌビス様が八柱神っていうのを考えたそうで、ラングさんはその候補に選ばれるかもしれない。彼は私にもチャンスはあるって言っていたけど、それはないよね。だいたい八柱神ってどんなのだろう?
 この程度だった。
 彼女は後にこの文章を読み返してどう思っただろう。鬼気迫るほど力を求めたとき、この文章を読んで冷静になることはできなかったのだろうか。いやおそらく、ここまでの文章を読み返すことなどほとんどなかったのだろう。意図してか、それともたまたまか、これまで帳面の一ページに一日分としっかり決めて書かれていた彼女の日記の歩調が乱れる。空白の一ページが生まれていた。
 『ラングさんが正式に八柱神候補に選ばれた。そして彼は私の前から消えることになった。彼は雲の上の、手の届かないところへといってしまった。私が彼と再び出会うためには私も八柱神にならなければならない。候補では駄目だ。ラングさんなら確実に八柱神になる。私もならなければ駄目なんだ。彼がそういった。これからあたしは変わらなければいけない。八柱神になるために、あらゆる甘えを捨てる。もうそれほどに私はラングさんを好きになってしまったのだから。
 決意の文面。ライディア本人も彼女自身の性質が変わるのをわかっていた。可愛げある少女の日記は、その言葉遣いさえも徐々に戦士の日記へと変わっていく。
 『自分でも驚く。がむしゃらがここまで自分の力を引き出してくれるとは思わなかった。
 才能に目覚めを感じていた一言。
 『アヌビス様が八柱神に女性を一人は入れると明言された。正直胸が弾む知らせだ。ただ、困ったことにカレンとクレーヌが私のライバルになってしまった___
 吉報と困惑。だがこのとき、ライディアは友情の重みを忘れかけていた。
 『カレンが負傷した___右腕を失うという致命的な大怪我。クレーヌはカレンの負傷に意気消沈して八柱神候補争いから身を引いた。私は___私は自分の信じた道を進みたい。クレーヌは蔑んだ目で私を見るかもしれない。だって私は、友人の負傷を心のどこかで喜んでしまっているんだもの___
 それ以来カレンとクレーヌ、特にクレーヌはライディアを避けるようになった。
 ___
 (あの炎のバリアさえも一瞬で消し去れる攻撃___それがあれば打開できる___)
 こちらが攻撃をやめるとラングは全身の炎をロープのように細長く走らせ、皆を脅かす。スレイ、フローラと協力して呪文で攻め立てても見たが、大きな効果は上がらない。ディオプラドをぶつけて輝きと爆発を巻き起こしても見たが、炎のバリアは完璧だった。
 (竜波動しかないか___)
 結局、ラングの牙城を崩せる可能性のある攻撃法を見いだしたのはソアラだけ。それも彼女の技ではない、ライディアの技だ。
 ___
 『八柱神候補!ついにラングさん、ううん、ラングとまた会うことができた!私はもう彼のことをラングと呼んでいいのよ!だって彼がそれを許してくれたんだもの!でも彼の手を握るのはまだ無理。私はまだ候補だもの。アヌビス様だって女性を入れると言ったからって、一人だけ力の劣る人物を八柱神に選んだりはしないはず。それにまだ私とラングじゃ全然肩を並べるところまでいっていない。彼だって私につきあってくれているだけみたいなところがあるし___やっぱりまだまだ強くならないと!
 そして彼女はついに運命を決定づける決意をすることになる。
 『アヌビス様は私の努力は認めてくれても実力は認めてはくださらなかった。でも八柱神になれるチャンスがなくなったわけじゃない。もしここで八柱神になれずに終わってしまったら、もう私にはなにも残らなくなってしまう。アヌビス様が私に勧めた実験は命に関わる大仕事だとか。でもこれを受けずに八柱神になれないのは、私にとって死と何ら変わらないんだ。私は竜の使いを受け入れることにした。
 ___
 実験前日の日記から次まで、二十日間もの空白があった。この間彼女は自分の体に宿った強烈すぎる力に苦しみ、叫び、のたうち回り、衰弱し、気が狂いそうになり、常に死と隣り合わせだったに違いない。
 そしてラングは、ライディアのことなど大して気にもとめずに自分の仕事をこなしていたのだろう。
 『私は強くなったようだ。アヌビス様が八柱神を確約してくださった。ラングとも漸く臆面なく話ができる気がする。ここまで長かったけど、漸く彼が私の言葉に笑顔を見せてくれるようになった。それがとても嬉しい。
 その日の日記はとても短かった。この後ろにまだ文を続けていたらしいが、途中まで書いて塗りつぶされていた。うっすらと残った文字の跡はこうだ。
 『でも私はどれだけのものを失ったのだろう___
 しかし彼女はそれを掻き消すように、新たな文字を、少し荒っぽく、大きく、続けていた。
 『私は後悔はしないと決めたんだ!
 決めたんだ___
 その一言にラングはライディアの一途を思い知らされた気がした。彼女は、自分の変化を、自分の失ったものの大きさを、自分の得たものを、自分を愛してくれる存在の有無を、全て理解していた。
 彼女の生活は幸せと呼べるものではなかっただろう。だが彼女は幸せでないことを分かっていてそれを後悔することはしなかった。理由はただ一つ。
 ラングが側にいるからだ。
 日記にはライディアの気持ちが凝縮されていた。忙しくなってくると毎日続けていた日記にも途切れが生じ、最後には嬉しいことばかり記されていくようになる。ラングとの遊戯、口づけ、情事___幸せな内容ばかりだが、結局アプローチを駆けていたのは彼女ばかり。しかもその数は多くなかった。
 そして、もう日記の続きを記すことはできない。
 本当の幸せを綴る瞬間すら得ず、ライディアは逝ったのだ___!
 ___
 「ソアラ!」
 突然ラングが口走った。ソアラをはじめ、皆は思わず動作を止める。戦場に一瞬静寂が走った。
 「竜波動を撃て!」
 ラングの言葉はソアラを驚かせた。彼は相変わらず瓦礫の上で不動を保ちながらも、先ほどまでとはうって変わって力のこもった顔つきをしていた。
 「ライディアの技を___?」
 ラングはソアラ以外には視線すら送らなかった。ソアラも応えるようにラングをじっと見据える。
 「我が炎を破れる可能性のある攻撃。それだけだろう?」
 突然の提案に皆は戸惑っている。だがソアラは冷静だった。
 「そうね、それしかないわ。」
 ソアラには分かっていた。ラングの目に映る自分の姿はライディアなのだと。
 「賭けようではないか、おまえの全力の竜波動、私に通じるか否か。」
 ラングにとっては本来なら必要のない賭けだ。だが彼がいま対峙しているのはソアラではない。竜波動はライディアの技であり、ライディアの強さだ。この賭は、彼女への詫びでもあり、唯一残された彼女の純情を己に刻みつける機会でもある。
 「いいわ。」
 だからソアラも賭に応じた。ライディアが乗り移ったつもりで。
 「よし、狙う位置はここだ。」
 ラングは自分の左胸をトントンと叩く。そこにはポケットに納められたライディアとの写真があった。ソアラは特に返事をせず一つ頷いた。
 「ラング、一つだけ聞かせてほしいことがあるの。」
 「なんだ?」
 ソアラは今のラングに殺気を感じなかった。炎の中で揺らめく彼の瞳はとても情熱的にさえ見えた。
 「ライディアのこと好き?」
 ラングの表情は変わらない。だが彼は生真面目だから、質問にはしっかりと答えた。
 「ああ。」
 ソアラは微かに笑った。
 「そう、ありがとう。」
 コロシアムの客席に移動し、状況を見守ることになった百鬼たちに一陣の風が吹き付けた。ソアラが黄金に変化したのだ。しかも力を抑える様子すらなく、その輝きと、沸き立つエネルギーはこれまででも最高といえた。続いて熱風が皆に吹き付ける。ラングもまたその体をこれまでとは比べものにならない強烈な炎で包み込んでいた。五十メートルは離れた位置にいるというのに恐ろしい熱さだった。
 これが二人の全力なのだ。
 「行くよ!」
 ソアラの力が満たされるのに時間はかからなかった。竜の使いとしての生命力が彼女の掌に凝縮される。
 「こい!ライデ___!」
 轟音にかき消されて最後までは聞こえなかった。しかしラングは恐らく「ライディア」と言ったのだろう。
 ゴウウッ!
 あのとき、竜の社でライディアが竜波動を放ったときと同じく、そのエネルギーを具現化しただけでラングには前方からの強い圧力がかかる。炎が急に湾曲したのがその現れだった。
 「竜波動!!!」
 ソアラの手から真っ白い光がラングに向かって放たれた。それは大木のように太い帯を残し、波打つ輝きとなってラングに向かう。光の突端はまるでドラゴンの頭部のように見えた。
 竜はすぐに炎を飲み込んでいく。炎は竜波動のエネルギーに触れるとたやすく霧散していった。
 「なるほど、魔力を拡散させるほどの力か。アヌビスの___に匹敵する___」
 ラングがボソッと呟く。その時にはもう自分を覆う炎のほとんどが消し去られていた。ライディアの力がラングの力を蹴散らしたのだ。
 一際強まった輝きがラングの左胸を打ち抜いたのはその直後だった。そしてラングを貫いた竜は終息していく。目映い輝きも、熱風もコロシアムからは消えてなくなる。残っていたのは息を切らしてラングを凝視する紫のソアラと、胸を打ち抜かれていながらまだじっと直立しているラングだけだった。
 「ライディアの力はあなたに勝ったわ___」
 ソアラは息を落ち着かせて力強く言い放った。そしてラングは___
 「ああ。誉めてやらねば___」
 最期の一瞬に彼は笑顔を見せる。体中を血に染めた体でも、その笑顔は穏やかだった。
 「___」
 ラングがゆっくりと倒れる。ソアラは複雑な気持ちでその姿を見ていた。ライディアもラングも生きて幸せになることができたはずなのに___
 ただもし彼らが死者の世界で出会ったならば、その時はきっと幸せな関係を築くであろう。
 もちろんそんな楽観的な考えができるのは人だから。しかし、愛すべき誰かのために命を捧げるのも、また人であるからできることだ。ただそれには、その人がよほど感情豊かで、愛情深くなければならないだろう。
 ソアラに撃ち抜かれた左胸。そこにはライディアの部屋で見つけた二人の写真があった。
 死出の世界を共にするため、クールで無味なラングは、ライディアに命を捧げた___のかもしれない。



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