3 闇影の歪み
そのころ、棕櫚とバルバロッサの二人はフォンとの死闘を繰り広げていた。いや、死闘というのは少し違うか。妖魔棕櫚、風間の本性すら現すことなく、ただフォンの雑な攻撃をやり過ごしているだけの二人では、死闘とは呼べない。
だがそうなってしまった原因はフォンにある。
フォンの妖魔としての真姿は以前から獰猛な獣のようであったが、それでもまだ妖魔らしく理知的で、精悍な顔立ちだった。それが今はどうであろうか、顔には血の気と憎悪が溢れ返り、ただただ殺戮を求む悪鬼のように歪み、目は狂った野獣のように血走っている。そして筋肉はバランスを遙かに無視した肥大を見せ、実に不格好。
その容姿に知性を感じることはどんなに想像力豊かな詩人でも不可能だろう。
確かにその実力は飛躍的にアップしていた。だが、それだけだ。
「どうした棕櫚、風間!貴様ら二人掛かりで俺に押されてるとはなぁ!」
フォンは焦点のあっていない瞳で棕櫚とバルバロッサを交互に見てはケタケタと笑う。だがとうの二人は冷め切った顔で、しかも目立った負傷もない。押されるというよりは、手を出さないと言うのが正解だ。
「アヌビス様の力を借りて俺はおまえたちを凌駕するまでになった!やはりアヌビス様は偉大だ!あの方の側でおまえたちを待った甲斐があった!」
力量の上昇と容姿の変化はアヌビスの施したパワーアップの方法にある。アヌビスはフォンに新たな能力を与えることはしなかった。ただ本能の遮断機を破壊してやっただけだ。
人は常に自らの持っている力を抑制して生きている。そうでなければ力の影響で体が壊れてしまうから。火事場の馬鹿力とは追いつめられたときにその抑制が解けて発揮される力のことであり、そういった危機的状況を除けば、人は安静のために常に持てる力の多くをしまい込んでいる。だが今のフォンにはそれを抑制するものがない。
「グヒャヒャヒャ!」
力の暴走が体、精神も含む体に与える影響は大きい。それはフォンの醜悪な変化を見れば明らかだった。そして棕櫚もバルバロッサも、フォンがどのような方法でパワーアップされたか見抜いていたから、彼があまりに惨めに見えて冷めていたのだ。
「殺してやる!殺してやるぞ!」
フォンの掌が輝き、棕櫚に向かって強烈な生命力の波動を放つ。だがフォンの動作、エネルギーの蓄積時間ともにあまりにも緩慢で、棕櫚は容易に回避してみせた。波動は海へと吸い込まれていき、暫くして轟音と、膨大な水しぶきを巻き上げる。
「殺してやるぞ!!」
フォンはなおも汚らしく笑いながら生命力を具現化した波動を放つ。棕櫚とバルバロッサはただなにもせずに回避し続けた。バルバロッサなど剣を収めマントの下に両腕を隠している始末だ。
「馬鹿馬鹿しい。」
「まったく。」
二人は単調な喧噪の中でそんな言葉を交わした。はじめこそフォンの著しいパワーアップに戸惑い、同時にまだフォンが理知的な部分を保っていたために圧倒される場面もあった。しかし時が進むに連れ、二人から戸惑いは消え、フォンは勝手に暴走していった。それからは攻撃が掠ることさえなくなった。
「グヒャヒャヒャヒャ!!」
フォンは今度は拳で殴りかかってくる。しかしそれも力に拘るあまりに速度を欠き、到底棕櫚たちに当たるものではなかった。
「気にいらん。」
自分の愚かさに気が付かないフォンに腹を立てたバルバロッサが、漆黒の剣で拳を空振りしたフォンに斬りつける。しかしフォンは本能のままにその剣に向かって拳を突き出した。
ギンッ!!
砕けたのは拳ではなく剣の方だった。フォンの拳も裂けて血が噴き出しているが痛みすら今のフォンには分からない。強引なまでの力押しにバルバロッサ自慢の黒い長剣が真っ二つに折れた。
「!」
目を丸くして剣を凝視しているバルバロッサのマントを棕櫚が引っ張った。
「一回離れましょう。」
棕櫚に引き寄せられたバルバロッサの目前をフォンの野太い腕が過ぎ去る。
「おのれ!」
「待ってくださいって!」
剣をへし折られた口惜しさか、珍しく感情を露わにしたバルバロッサはフォンにくってかかろうとする。しかし棕櫚が必死に彼の腕を掴んで止めた。
「止めるな!」
「力であいつを始末するのは無理です。それに恐らく今の状態じゃ体をバラバラにでもしない限り息絶えることはない。」
フォンは拳から血を噴き出しながら、ゆっくりと二人に向き直った。
「妖魔の恥が___」
冷静さを取り戻したバルバロッサは舌打ちし、短くなってしまった剣を鞘に収めた。
「アヌビスもなかなか憎いことをしますね。彼に力を与えた代償に、本当の化け物にしてしまった。」
「そんな悠長なことを言ってる場合か。それともあの化け物をどうにかする策でもあるのか?」
「ありません。」
棕櫚は苦笑いを見せ、バルバロッサは呆れた様子で舌打ちする。
「おまえはいつもそうだ。ここぞで役にたたん。」
「そうです。でなければこっちの世界になんて来てないでしょう。」
「棕櫚ぉ!風間ぁ!」
フォンが嗄れた声で二人の名を呼ぶ。いつの間にかその両手は甚大なエネルギーが結集されていた。それを見てさすがの二人も顔色を変える。
「まとめて始末してやるぜぇぇ!!!!」
その光がフォンの手を脱するのにおよそ三秒かかった。フォンの手からフォンの体よりも巨大なエネルギーが発射される。それはライディアやソアラの竜波動を遙かに凌ぐ破壊の力で満たされていた。
「ちっ___」
「まった。」
回避しようとしたバルバロッサを棕櫚が引き留めた。
「ここはネルベンザックの北岸からさほど遠くない。大陸の形を変えさせる気ですか?」
すでに放たれた一撃。二人が身を翻すのは簡単だったが、その先のネルベンザック北岸。決して大きな街があるわけではないが、小さな宿場や集落はそれでも存在していた。
「だから何だ?」
「そりゃ俺たちは妖魔で、故郷は黄泉かもしれない。でも最後までソアラの戦いをサポートすると決めたんなら、これ以上無駄な命は散らすべきではないんです。彼女がそれを感じて心を痛めないために!」
綺麗事を___人を騙すことを得意としていた男がこんな言葉を吐くか。
バルバロッサは苦笑いを浮かべた。
「だったらどうする?」
「受け止めるか弾き返すかするに決まってるでしょう。」
棕櫚も笑みを浮かべ、その額に角を露わにした。
「貴様もずいぶんな偽善者だな。」
「お互い様ですよ。」
バルバロッサの左腕に赤が走る。妖魔の力を露わにし、二人は真っ向から迫り来る波動に向き直った。
「そうだぁ!そのままじっとしてろよ!!」
二人は息を飲んでその両手を突き出した。接近が高速ではないから余計に緊張が走る。何より光が秘めた破壊力は計り知れない者があった。
「くたばれぇぇぇぇ!!!!」
フォンの歓喜の絶叫!
そして___!
___
___
___
なにも起こらなかった。
フォンが期待した瞬間はやってこなかった。
消し飛ぶのは特に憎き棕櫚と、それに協力している風間だったはずが___
消し飛んだのは自分の放った破滅の輝きの方だった。
いや、消し飛んだというと少し違うか___
輝きは突如空間に開いた黒い真円の穴に吸い込まれてしまったのだ。
「な、なな、ななななんでだぁぁぁぁ!?」
もはや獣以下の彼の脳では状況を理解できない。フォンは怒りに任せてまたも小粒な輝きを放つ。しかしそれも黒い空間に当たった瞬間、吸い込まれて消えた。
「___闇影の歪み。」
棕櫚は少々驚いた面持ちでその空間を見つめ、呟いた。
「や、闇影の歪みだとっ!?」
そして棕櫚の呟きを聞き取ったフォンは驚きと怯えの顔になる。その変化はあまりに如実だった。
全てはこの黒い空間を開いた人物。
棕櫚とフォンの因縁の一端を担う人物の仕業だった。
「久方ぶりよのう、棕櫚。」
ゆっくりと、空中に開いた黒い穴から一人の女が姿を現す。子供のように小柄で、膝の辺りまで伸びた緑の黒髪が印象的な若い女性。なにより黒い古風な装束に、丹前にも似た上着を羽織った姿はこの世界ではあまりにも異色だった。
「わざわざお出迎えなんて光栄ですね。」
「あわ___あわわ____」
笑顔の棕櫚、怯えるフォン。バルバロッサは無関心。
「その口振り、相変わらずか。」
「あなたも変わりないようですね、榊。」
そう、彼女こそ榊。闇影の歪みとは永遠の闇への架け橋。この榊こそ紛れもない、黄泉の永遠の闇に「出入口」を作る能力を持った妖魔だ。
「そっちの黒いのが風間じゃな?」
榊は猫のように大きくて、キリリとした目でバルバロッサを見る。だがバルバロッサは返事すらしなかった。
「つまらん奴め。まあ良い、すぐに黄泉に帰る。」
フォンに背を向けていた榊が反転する。フォンがあからさまに震えた。
「___といいたいところじゃが、そうもいかんな。」
ギンッ!墨汁のように真っ黒な瞳でフォンを睨み付ける榊。
「さ、さ、榊様!こ、こうなったのにはいろいろと訳が___」
「貴様が如何様な感情を持って棕櫚に対し執着を持ったのか、それはどうでも良いこと。問題なのはただ一つ___貴様の行いにある!」
榊の白く細い指先に黒い光が点る。
「貴様は今や妖魔にあらず。その愚かしき痴態で黄泉を知るなど以ての外。ましてや務めの一つも全うに果たせぬとは言語道断!」
幼く見える顔立ちとは裏腹の迫力。彼女の艶めいた黒髪がフワリと広がる。
「さ、榊様ぁ!」
榊は黒い光で空間に文字を記していく。文字は大気の中に赤く刻まれ、そして一気に霧散した!
ギュン!
怯えるフォンの真下。黒い真円が開く。
「闇は全てを吐き出す。出口を開いてやれば、ものは自然とそちらに流れる。」
彼女はそれ以上何もしない。開くだけで十分だから。
「げぇっ!?」
飛び出してきたのは先ほど空間の中に消えた、あの破滅の輝きである。光はフォンを飲み込み、その体を空の高見まで持ち上げていく。そして___
カッ!
ヘル・ジャッカル沖合の空に、新しい太陽でもできたかと思うほど壮絶な爆発が巻き起こった。
それは実に、派手だがあっけない最期だった。
「さ、始末はすんだ。帰るぞ。ゆるりと___昔の話でもしよう。」
「う〜ん、昔の話はまた今度にしましょうよ。」
「そうはいかん。」
榊は先ほどとは裏腹に愛らしく微笑み、棕櫚の手を取るとバルバロッサ共々闇の中へ。
「ああ、ちょっと待ってください。」
闇がその口を閉じる前に、棕櫚はターバンを解き、海へと放り投げた。
「何のつもりか?」
「こっちでも色々ありましたからね。彼は剣先を残し、俺はターバンを残す。思いを込めてね。」
やがて空間の穴が閉じると彼らの姿は完全に消える。何事もなかったようにターバンと爆発の残骸が海へ落ちていった。
そしてターバンは海面に広がり、水にまみれていく。記された小さな文字、「さよなら」の言葉はあっという間に滲んで消えていった。
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