3 立ち向かえ!

 ソアラが負傷する前までは栄光の城からの出発に積極的だった皆も、状況の一変で気持ちが揺らいでいた。
 「ソアラの目が治らないうちは我々が死力を尽くさなければなりません。」
 「妖魔という立場を抜きにして協力しますよ。これまで通りね。」
 前向きには違いないのだが、これからはヘル・ジャッカルへの侵略を行うことになる。万全を期して出発したい思いは強かった。
 「あたしなら今のままだって大丈夫よ。ここからヘル・ジャッカルまで順調でも一月はかかるもの。その間に治るか慣れるかするわ。」
 「ずいぶん楽天的だな___」
 さすがというべきか、ソアラは視力を失ったその日のうちに杖を使って歩くことを始めた。はじめのうちはバランスをとることにも苦しむものだが、空中を歩むことを経験しているソアラは常識はずれな短時間で自分のバランスを取り戻していた。
 「私も付いていくことになったわ。」
 「本当に?ここにいた方がいいんじゃないのか?」
 「栄光の城を気にするくらいなら自分たちの心配をするべきね。」
 ミキャックはすっかり皆とも馴染んだ様子だ。初対面の頃が嘘のように明るい表情を見せていた。
 「近いうちに発ちましょう、アヌビスが待ちくたびれてしまわないうちに。」
 レミウィスには不安があった。血の器を手にしたアヌビスに必要なのは竜の使い。もうあらかたの謎が解明され、戦いの図式が明確となった今となっては、アヌビスだっていつまでも一つの場所にじっとしているとは限らない。彼やその部下たちは今まであまりにも大人しく、無駄な破壊工作はほとんど行わなかった。だがこれからはどうなるか___
 そしてすぐにレミウィスの危惧は現実のものとなった。
 「待たせすぎだな。」
 ヘル・ジャッカルの頂点。謁見の間よりもさらに上階にアヌビスの部屋がある。そこはおそらくヘル・ジャッカルの中なのだろうが、壁も天井も床さえもない、全てが闇の空間だった。ただ不思議と歩けば靴音がするし、人の目に見ても色が分かる。
 「奴等ですか?」
 ダ・ギュールはアヌビスの言葉に誤った判断をすることはない。
 「未だにゾヴィスの城を出た気配すらないといったな。」
 「ジャルコがソアラに傷を負わせたこともございましょう。」
 「切り札が期待できなければ出足も鈍るか。」
 アヌビスは闇の中、何もない無味な空間に掌を翳した。
 「誰か派遣いたしましょうか?それとも私目が___」
 「おまえは最後まで動くな。それが役目だろう。」
 「左様で___」
 アヌビスは微かに口元を歪める。妙案が思いついたとき、彼がこういう顔をするのをダ・ギュールは知っていた。
 「俺が行こう。」
 「まことですか?仮にも地界で最も竜神帝との距離が近い場所ですぞ。」
 「だったらなおさら顔見せしたほうがいいだろ。それに奴等にも多少の余興を披露したい。」
 ダ・ギュールは特にそれ以上意見しなかった。
 「んじゃ、軽くご挨拶といくかな。」
 アヌビスはその手を翳したまま軽く目を閉じる。部屋の黒が波打ったように見えたと同時に、彼の手に黒い輝きが集結した。
 「ブッ!」
 突然ヘル・ジャッカルに激震が走り、ジャルコは飲みかけの酒を吹いてしまう。
 「こ、こりゃまさか!」
 激震の瞬間、アヌビスはその掌より、黒く輝く波動を放っていた。波動は部屋の闇に吸い込まれてそのままヘル・ジャッカルから彼方の空へと突き抜けていく。その圧倒的なエネルギーの放出にジャルコでさえ驚いていた。
 ゴオオオオオッ!!!
 「う、うわぁ!?」
 栄光の城が大きく揺れた。椅子やベッドから転げ落ちた者も多く、ソアラなどは部屋にいた百鬼や子供たちとまとめて転倒して部屋の隅で団子状態になっていた。
 「帝様!今のは!?」
 慌てた様子でミキャックが叫んだ。しかし幻影の帝は落ち着いたものだった。
 「どうやら待ち人がこないことに苛立っているらしいな。」
 「えっ!?それじゃあ___」
 再び鈍い震動が走る。へし折られた物見塔が城の横腹を叩いて麓の森に転げ落ちたためだった。
 「今のはきっとアヌビスよ___」
 「アヌビスだって!?」
 ソアラの言葉が百鬼を驚かせる。
 「う、う〜ん。」
 「大丈夫?リュカ、ルディー。」
 「うん、大丈夫。お母さんは?」
 「大丈夫よ。」
 「今のでおめめ治らなかったの?」
 「う〜ん、治ったら良かったんだけどね。」
 「今のがアヌビスってどういうことだ?奴がこの側にいるのか?」
 子供たちに手を引っ張られて立ち上がったソアラは、少し間をおいて答えた。
 「違うわ。ヘル・ジャッカルから狙撃したのよ。今のは間違いなくアヌビスの感触だったし、ヘル・ジャッカルの方向から急激に迫ってきたから。」
 あ、目が見えないから余計に敏感に察知できたのかな。と思うソアラ。
 「ヘル・ジャッカルからって、まだかなり遠いんだろ___?」
 「遠いわ、遠いけど、十分にアヌビスの攻撃の射程距離内だったってことよね。」
 「___ゾッとするな。」
 百鬼は生唾を飲み込んで呟いた。
 「そうね。」
 割にあっさりとしているソアラの口調。皆の中で唯一アヌビスの性格を知っている彼女は、これで終わらないことを悟っているようだった。
 「じゃ、行って来る。」
 アヌビスはマントの一つもまとわずに、ヘル・ジャッカルの外へと飛び出していた。薄曇りを貫く日差しで、彼の黒い体がより艶やかに煌めく。
 「よーい___どん。」
 空中に制止していたアヌビスは、まるで床でもあるかのように空の上を走り出した。
 「くくっ、見物だな。」
 期待に体が疼くのか、そのスピードはどんどん速くなる。その気配を最初に感知したのは竜神帝、だがソアラもそれから遅れること僅かなうちに気配を察知した。
 「奴が来るわ!いてっ!」
 アヌビスの感触が近づいてくる、いても立ってもいられなくなったソアラはたまらずに飛び上がって壁に頭をぶつけた。
 「奴って、アヌビスがか!?」
 百鬼も色めきだち、部屋の壁掛けとして使われていた剣を手に取った。
 「そうよ!あなたはみんなを正面のテラスに集めて!リュカ、ルディー、私をテラスまで連れていってくれる?」
 「うん!」
 「任せて!」
 お手伝い大好きな二人は喜び勇んでソアラの手を握る。
 「待てよソアラ!おまえが真っ先に出ていったらアヌビスの思うつぼだろ!?」
 「大丈夫、あいつはそんなに気の短い男じゃないし、遊び好きなのよ。むしろあたしが顔を出さなかったらなにしたもんか分からないわ。」
 「うっ!」
 部屋から出ないうちに百鬼の体にもとてつもない寒気が走った。背筋を劈いた冷たい衝撃は一瞬で消えたが、彼にもその存在が確認できた。
 「早くみんなを、アヌビスはもうすぐそこにいる。」
 ソアラもいつになく厳しい表情になり、微かに汗を滲ませていた。
 そして城の外には。
 「ほう、ずいぶん立派な城だな。」
 音速を超え、光速を超えるには時を止めるしかない。時のない世界に速度の概念などあり得ない。さっきまでは遠かった気配は一瞬にして栄光の城の前にいた。何度か幻影の内外を行ったり来たりしておもしろそうにそれを見上げ、一通り遊び終わると楽しそうな笑顔を見せて、アヌビスは大きく息を吸い込んだ。
 「邪魔するぞ!!!竜神帝!!!」
 その怒声は壁を突き抜けて城内に共鳴し、城にいる全員の耳に届いていった。彼なりの礼儀か、その怒声を挨拶代わりに栄光の城正面、テラスへと続く大階段にゆっくりと降り立った。
 「なんだつまらない、出迎えもなしか?」
 アヌビスは階段を一つずつ上がっていく。途中には踊り場があり、そこからさらにもう一つ階段を上るとテラスに出る。アヌビスの出迎えは踊り場で待っていた。
 「急な客の話は聞き及んでおりませんが。」
 ミキャックだ。
 「そうかい?かわいこちゃん。」
 彼女の周りには数人の天族が険しい顔でアヌビスを睨み付けている。ミキャックは落ち着いた表情をしているが、アヌビスと目が合うと口元が強ばるのを押さえるので必死になった。翼の根本は汗でぐっしょり濡れている。
 「まあ急な客はどこにでもあるもんだ。そう気にするなよ。」
 アヌビスが一段ずつじっくりと階段を上がってくると天族たちも一歩一歩後ずさる。目に見えぬプレッシャーが黒犬からは放たれているのだ。結局アヌビスが踊り場に上がってくるまで一歩も動かなかったのはミキャックだけだった。
 「すごい。おまえは根性が座っているな。たとえ動けなかっただけだとしても、ずっと俺と目を合わせているのは立派だ。大物の素質ありだな。」
 「っ___」
 すでにアヌビスはミキャックの正面、吐息も感じられる場所に立っている。ミキャックが相手を見上げる姿も珍しい。だが、邪神が天族の頬に手を触れている姿は極めて希少な光景といえよう。
 「震えないのか?本当に強いな___気の強さならソアラ以上だ。」
 ミキャックはアヌビスの肌の感触を味わいながら、毅然と立っていた。声を発することはままならないが、唇や指先が震えることはなかった。
 「ゥガアッ!」
 アヌビスが犬のような口を開いて牙を剥く。ミキャックの瞳孔が一瞬大きくなったが、怯えの声を上げることはなかった。彼女を取り囲んでいた天族たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、中にはその場で腰を抜かして失禁してしまっている者までいた。
 「はっはっはっ!気に入ったぞおまえ!名前はなんて言うんだ?」
 アヌビスはミキャックの頬をぽんぽんと優しく叩きながら笑った。
 「___ク。」
 「ん?」
 「ミキャック___ミキャック・レネ・ウィスターナスだ!」
 パンッ!ミキャックは頬にふれるアヌビスの手を思い切り払いのけた。そしてきつく睨み付けてくる。
 (かっわい〜!)
 アヌビスはこの手の強気に弱い。かなりだらしない顔になって、ミキャックを困惑させた。
 「ミキャック!大丈夫か!?」
 ようやくテラスに百鬼らが顔を出す。ライ、サザビー、フローラ、棕櫚、バルバロッサ、スレイ、レミウィス。腰の引けていたバットとリンガーは別として、皆がアヌビスの姿について一様の感想を得た。
 「あれがアヌビス___」
 階段の上と下。見下ろしている状況は心に余裕を持たせるものだ。それを差し引いてもいつもなら誰かしら冷静でなくなってミキャックを助けようと駆け出すもの。しかし今日は誰もそれ以上踏み出さなかった。あからさまな殺気も、プレッシャーもないのに見えない呪縛は確かに存在する。
 「おまえのお仲間たちか。やつらは確かソアラの連れだな。」
 「うっ、な、なにを___」
 「まあそう堅くなるな、上まで送ってやるっていうんだから。」
 アヌビスは突然ミキャックの肩に手を回し、自分の懐に抱く。ちょうど彼氏が彼女の肩に手を回して歩くような格好となった。
 「なるほど、邪神らしくねえ邪神か。ソアラの言うことももっともだな。」
 サザビーは落ち着くためか煙草をくわえた。
 徐々にアヌビスが近づいてくる。皆はその緊張をじわじわと肌で感じていたはずが__ 「わっ!!!」
 「にえええっ!?」
 叫んだ者も少なくなかったが、ここでは代表してライの叫び声をあげておく。なんとまだ離れていたところにいたはずのアヌビスが突然皆の目の前に現れたのだ。しかもミキャック同伴。最前列にいたライや百鬼、フローラ、ついでに離れたところにいたバットやリンガーまで、腰を抜かしてその場に座り込んでしまっていた。
 「???」
 もっとも一番驚いているのは、突然瞬間移動させられたミキャックである。
 「はっはっはっ、おもしろいぞおまえら。」
 「ば、馬鹿にするな!」
 ライは立ち上がれないまま声を張り上げた。
 「そうよ、人を驚かして笑ってるなんて神のする事じゃないわね。」
 「よう、ソア___ラ、目が見えないのか?」
 リュカとルディーにつれられてやってきたはずのソアラだが、潜在的にアヌビスの恐ろしさを感じているのか、子供たちはソアラの後ろで震えていた。そしてアヌビスの注目もソアラの閉ざされた瞼に行っている。何しろ彼は驚いて口ごもったくらいだった。
 「なによ今更、ジャルコが自慢げに話したんじゃないの?」
 「致命的な傷を負わせたとは聞いたが___まさか瞳とはな。奴にはあまり俺の楽しみを奪わないよう言って聞かせなけりゃ___」
 「なにが楽しみなのかしら?」
 ソアラはアヌビスの陽気さ、皆の油断を誘うほど社交的な姿が仮面であると知っている。彼は自分にもそういう接し方をしていながら、全く対局の本心を宿していた。だから彼の道化ぶりにはつきあわず、核心を攻める。
 「なにしに来たのよアヌビス!」
 アヌビス相手にまともな会話ができるのは、現状ではソアラだけだろう。棕櫚やバルバロッサまでもがアヌビスの人格に対して警戒を敷いている。
 「久しぶりだってのになにしに来たはご挨拶だな。お互い知らない仲でもないだろ。」
 「黙れ!!」
 ソアラは頑なだった。軽薄なアヌビスにつきあうことすらしない。彼もそれを分かったようで、少しだけいやらしい笑みを浮かべた。
 「ふふん、本気らしいなソアラ。冗談の一つも言わせてくれないなんて。」
 「あんたの怖さは十分に分かっている。邪悪と、風格でビンビン威圧してくる邪神じゃない、あんたの怖さはその飄々としたところだ!そうやって自分の軽い一面を見せて皆を惑わす、ちょっと本気を出せばここにいる全員を始末してあたしを奪うことだってできるのに!」
 ソアラは見えていない瞳でしっかりとアヌビスを睨んでいた。
 「ちょっと本気を出せばと言うのは違うな。存分に手を抜いても足りるよ。」
 アヌビスがこの城に来て初めて好戦的な言葉を発した。傍らでゾッとしたいたミキャックから手を離し、汗で塗れた背中を押して皆の元へと戻らせる。
 皆はようやく「ああ、やはりこいつは邪神なんだ」「恐ろしい奴なんだ」「気を許してはいけないんだ」と感じた。「ああ、こいつがアヌビスなんだな」と感じてからずいぶん後のこと、ソアラが彼の化けの皮を少しだけ捲ってくれなければ、印象が修正されることはなかったかもしれない。
 「そう怖い顔をするな。今日はあまりにおまえたちが待たせるものだから、否応にも急ぎたくなる余興を披露しようと思ったんだ。」
 「余興ですって___」
 「そうだ。まあ、しかしうまいこと命中したなぁ。」
 アヌビスは砕け落ちた物見塔を見上げて饒舌に語る。彼が訪れてからというもの、快晴の下にあった城の周りにはどんよりとした雲がたちこめていた。
 「ふざけやがって!」
 百鬼がアヌビスを睨み付けて怒鳴る。アヌビスも彼を見返して軽く口笛を吹いた。
 「おまえにはソアラの臭いがするな。愛し合うのもいいが程々にしておけ。」
 「な、なんだと!?」
 思わず顔を赤くしたのはソアラ。
 「でだ、その余興だが!」
 ___!!!
 いったい誰がなにをしたというのだろう。
 アヌビスは姿勢を変えていない。
 ただ彼の背後、ゾヴィス湖を囲む山岳を越えたところが光った。
 まるで火山が怒りを吹き上げるように、マグマのように___
 黒い波動を帯びた柱が山の向こうで立ち昇る。
 あらゆるものを昇華させる。
 その位置は丁度、ソアラとグルーが戦った場所。
 フレリーの町がある。
 「そ、そんな!」
 「何なんだ!?突然!」
 ゴオオオオオオオン!!!
 大音響が数秒遅れて轟き、ただならぬ圧力の熱風が栄光の城を激しく煽り、空を揺さぶる。すぐにまた空は快晴に戻った。
 黒い柱も静まった。
 「綺麗に命中したみたいだな。」
 全員の視線がアヌビスに集まる。アヌビスは皆の驚愕の顔つきに笑みで答えた。
 「まあこの距離だったらそうは外さないが、次からはヘル・ジャッカルから狙うんだ。そうそうは当たらない。」
 「何を___何をしやがった!」
 百鬼が血相を変えて叫んだ。声が上擦ってしまうほど、一瞬の激動は皆を動揺させていた。
 「街を消した。」
 「!」
 「これから一日一つだ。ヘル・ジャッカルから『狙撃』する。まあ、俺のところにある地図は少し古いからなぁ、ちゃんと街に当たるかわからないが。」
 「なんということを___!」
 レミウィスが口惜しさをにじませる。
 「できるだけ急ぐことだ。そうでなければ地界に住む人間の多くが知らないうちに死んでいくことになる。まあ死の苦しみを味わうことがないだけ良心的だがね。」
 「なにが良心的だ!」
 ソアラかと思いきや、アヌビスに敵意剥き出しで食ってかかったのはレミウィスだった。
 「易々と多くの命を奪うなど___!」
 「良心的だろう___」
 思わず数人が「あっ」と声を上げた。いつの間にかレミウィスはアヌビスの真正面に立たされてその顎を捕まれていた。
 「一瞬で全てを滅ぼさなかっただけ。」
 レミウィスは邪神に直面し、一身に注ぎ込まれる邪のプレッシャーに気を失いそうになる。ただそれでも怯まない強い精神を彼女は宿していた。
 「感謝してほしいな。俺はこれまで愚図な貴様らを待っていた。今もまたこうして猶予をくれてやっているんだ。俺は世界を滅ぼすつもりはないし、人間を皆殺しにするつもりはない。おまえたちが急いで俺のところにやってくればいい、それだけだ。後はおまえらを喰い殺し、邪魔を省いたところで竜神帝との勝負に挑む。」
 本当に本心の読めない男だ___嘘とも本当ともとれないアヌビスの言葉にレミウィスは苛立ちを覚えた。
 「ちなみにソアラ、おまえの推測通り俺は時を止める。だから俺の狙撃を阻むのは不可能だ。同時に貴様らが俺の牙から逃れるのも不可能だ。」
 やはりアヌビスは時を止める。ソアラの推測は当たっていたが喜びはない。当たっていたから何だというのだ。むしろ外れていた方が有り難かった。
 時を止められれば完璧ではないか。
 ___完全無欠ではないか。
 「そうだな、もう一つ___彼女を預かっておく。」
 「なっ!」
 アヌビスはレミウィスをその懐深くに抱いた。
 「俺は弱いものいじめは好きなんだ。」
 「レミウィスさん!」
 「くそっ!」
 目の前でレミウィスが奪われようとしている。ついにあらん限りの勇気を振り絞ってライと百鬼が剣をぬいてアヌビスに斬りかかった。
 「やめて!駄目!」
 金属音でなにが起ころうとしているのか感じ取ったソアラが叫ぶ。だが遅すぎた。
 二人が剣を振り下ろした瞬間に景色が変わった。
 「え___」
 夥しい量の鮮血が吹き出す。ライの刃はか弱き体を深々と切り裂いていた。切られた女はなにが起こったのかも分からずに、目を見開いてライを見つめていた。
 「え___」
 ライも信じられなかった。アヌビスに向かって斬りつけたはずなのに、自分の前にはフローラがいた。いや、自分がフローラに斬りかかっていた。自慢の剣の腕で、鋭い太刀筋で、フローラの右肩から腹部のあたりまで深く切り裂いていた。
 その事実を目の当たりにした瞬間、ライの手から剣がすり抜け、彼はその場に座り込んでしまう。そしてフローラはそれ以上言葉を発することもできずに倒れた。状況を理解できなかった皆だったが、慌てて駆け寄ったミキャックが回復呪文を施し始めた。
 「だ、大丈夫か!」
 一方では百鬼が棕櫚に深手を負わせていた。
 「クククッ、理解したか?時のない空間は人知を超える。俺は一切の流れのない世界を支配している。次は流れのある世界を我がものにしたいのさ。」
 「みなさん、無敵などありません!だから必ず!」
 レミウィスがそこまで言いかけたところで、アヌビスは姿を消した。
 皆はすぐにライやフローラの身を案じて動いたが、ソアラだけは___目の見えぬソアラだけはただ一人、いつまでも宙に残ったアヌビスの名残を睨み付けていた。

 「そんなに落ち込まないで。あなたが悪い訳じゃないんだから。」
 治癒が早かったことでフローラはあっという間に元気を取り戻していた。むしろ落ち込んでいたのはライの方で、彼女から逃れるように一人で部屋に閉じこもってしまった。フローラはそれを元気づけようと彼の部屋を訪れていた。
 「ライ、しっかりしてよ、あなたらしくもない。これからすぐにでも出発なのよ?」
 「うん___」
 レミウィスを奪われては黙っていられない。早速、各員準備を整えて一時間後に栄光の城のテラスに集合することにした。
 「ライ___」
 「フローラ___僕___君とはいたくない___」
 「え?」
 ライはベッドの上で蹲るように膝を抱えている。これほど感傷的なライは、きっとアレックスの死に直面したとき以来だろう。
 「君と一緒にアヌビスのところに行きたくなくなったんだ。」
 「どういうこと___?」
 「アヌビスに罠にかけられたとはいえ___僕は君を切った___あんな感触はもう絶対に味わいたくないんだ!」
 フローラは優しい面もちのまま、ライの背後に腰掛け、そっとその背中に身を寄せた。暖かい温もりがライの体を優しく包む。
 「ライ___私にはいい慰めの言葉が見つからない。でもあなたのしたことが誤りじゃないことだけは確かよ。それは断言できる。あなたはとても強い勇気を持っているんだもの___そのあなたの勇気がとらせた行動に誤りなんてあるはずないわ。」
 フローラはライの胸板に手を回し、切なそうに抱いた。
 「でも僕が君を切った事実に変わりはない___正直に言うよ、僕は怖いんだ。」
 ライは繊細なフローラの手に衝動的に掌を重ねる。フローラはその思った以上の冷たさに少しだけ驚いた。
 「アヌビスの前で剣を振るのが怖いんだ___また君や、他の誰かを切ってしまうんじゃないかって___だって僕はアヌビスの代わりに君が目の前に現れたのに、剣を止めることも、振り下ろすのを躊躇することさえしなかったんだよ!?」
 ライはフローラの腕をふりほどき、彼女に向き直った。二人の目があった瞬間、うっすら涙の浮かぶライの瞳にフローラは母性を刺激される。
 「そこであなたが剣を振るのをやめてしまったら、アヌビスを喜ばせるだけよ。」
 凛とした瞳でライを見据え、フローラは幾分口調を強めた。
 「レミウィスさんが連れ去られようとしているのに、アヌビスに食ってかかる一歩が出たのはあなたと百鬼の二人だけだったのよ。私だって呪文を唱えることはできたはずなのに、アヌビスが恐ろしくて指先の一本も動かなかった。アヌビスは試したのよ。私たちの中に、不屈の強い精神と、戦う姿勢と、立ち向かう勇気を振り絞れる人間がいるのかどうか。あなたの剣は十分にアヌビスを手こずらせ、あなたの勇気は存分にアヌビスを悩ませるわ、だからもっと自信を持って。」
 だがライはフローラから目をそらしてしまう。フローラは少し怒ったような顔になり、大胆な一面を見せた。
 「んっ!?」
 突然のことにライは目を白黒させた。フローラは熱っぽくライの唇に自分の唇を重ね合わせたのだ。こんなことは初めてだった。体重を乗せられて横になったライの上にフローラの麗しい黒髪が広がっていく。唇が離れたのは暫くしてのことだった。
 「フ、フローラ!?」
 まだ口元に彼女の息吹が残っていたせいか、ライの声は上擦って、たどたどしかった。
 「私だってアヌビスは怖いわ___あんなに次元の違う悪魔を私たちの手で倒せるなんて、そんな可能性があることすら疑ってしまう。でもね、私は戦えるよ。私はいつだって、あなたがいてくれれば戦える。あなたがいつも私のことを守っていてくれたから。今まで私は何度もあなたに助けられてきたものね。」
 フローラの目尻が微かに煌めく。彼女はそれを隠すようにライの体に俯せになった。
 「お願い、強いライに戻って。でないと私まで怖くなっちゃうよ___それにそんなウジウジされたら、嫌いになっちゃうかも___」
 「___フローラ。」
 ライの表情が変わった。前向きになった?いや、開き直りというべきだろう。とにかく今は、これ以上彼女を困らせたくはないという単純な気持ちが、彼を平常に連れ戻した。
 「そうだねフローラ___僕がしっかりしなくちゃ。」
 「うん。」
 二人は互いの体を抱きしめあい、また自然と口づけを交わした。
 一方そのころ。
 「やだ!」
 「怖いもん!絶対にいやだ!」
 リュカとルディーが酷くぐずっていた。彼らはその幼く、純粋な感情でアヌビスに接し、本能に恐怖を植え付けられた。幼児体験。彼らにとって形容にし難いアヌビスのプレッシャーは壮絶な恐怖に他ならなかったのだ。
 「そう、だからここでお留守番していて。」
 「いやだぁ!お父さんもお母さんも一緒じゃないと怖いぃ!」
 リュカとルディーは今までのように、好奇心旺盛にソアラたちの旅に付いていこうとはしなかった。そこまでは良かったのだが、今度は両親と離れての城での留守番を酷く嫌がっていたのだ。ただそれも仕方ないことである。アヌビスがここまでやってきたことにより、彼らは栄光の城が安全な場所ではないんだという認識をしてしまったのだから。
 「リュカ、ルディー、ここにいた方が安全なんだ。竜神帝の近くにいるのが一番安全なんだよ。」
 「やぁだぁ!」
 百鬼とソアラは揃ってため息を付いた。そこへたまたま居合わせていたバットとリンガーが互いの意思を確認してからこう切り出した。
 「なら二人とも、俺たちが一緒にいるってのはどう?」
 その発言はソアラと百鬼を驚かせたと同時に、安心もさせた。
 「う〜___」
 「俺たちが一緒だったらいいだろ?たっぷり遊んでやるぜ。」
 そういってリンガーは軽くリュカの頬をつねった。
 「バット、リンガー、おまえら___」
 「俺たちにはちょっとこの先は無理ですよ。」
 「ブレンとあれだけまともに戦えただけでも十分自信になったし、はっきり言ってまだ死にたくないんっす。」
 百鬼とソアラは二人の言葉に難色を示すようなことはなかった。
 「賢明よ。私もあなたたちには無理をしてほしくはなかったの。戦いだってしっかり訓練した訳じゃないし、まだ若いし、私たちに巻き込まれてここまで来たんだもの。」
 「みんなも分かっているさ。」
 「すんません。」
 「その代わりリュカ君とルディーちゃんの面倒はしっかり見ますよ。もし万が一のことがあったとしても、二人だけは絶対に大丈夫なようにね。」
 胸を張ったリンガーの額をソアラが指でつついた。
 「縁起でもないこといわないの。」
 一時間などという時の流れはあっという間だった。
 テラスに集まったメンバーはソアラ、百鬼、ライ、フローラ、サザビー、棕櫚、バルバロッサ、スレイ、ミキャック。この世界に来てから様々な人との出会い、別れがあったが、最後の出発を迎えようとしたとき、中庸界から乗り込んできたメンバーに欠員がないというのは喜ばしいことだった。
 「おいスレイ、本当に行くのか?」
 「勿論です。全ての元凶を前にして引くほど臆病じゃありませんから。」
 サザビーとスレイが親子ながら少しぎこちない会話をする。
 「帝が話があるから、出発前によるようにって。」
 そして。
 「行くのだな。」
 幻影の向こう、天から見守ってくれている帝に決意に満ちた視線を送る九人。
 「おまえたちには苦労をかける___無力な私を許せ。」
 「今更そんなのは言いっこなしですよ。」
 と百鬼。
 「力及ばなければ無駄に命を捨てることはない、逃げることは恥ずべきことではないのだ。」
 「帝、みんなそれは分かっています。でも生きている限りチャンスがあると思うから、最後まで戦ってしまうんです。彼らはそういう人たちなんですよ。」
 「そうだな。」
 ミキャックの力強い言葉に答え、帝の暖かな声が聞こえる。
 「そうだ、一つ良いものを見せよう。」
 竜の浮き彫り、その瞳が空に向かって光を放ち、光はあらぬ屈折をして何処かの大地に降り注いだ。そして___空を臨める謁見の間の上空に何者かが影を落としてきた。
 「あ、あれは!?」
 「おまえたちは彼のことを忘れていたらしいからな、これまでの褒美と、彼の意欲を買って夢を叶えさせてやったのだ。」
 上空から「彼」がゆっくりと舞い降りてくる。それはこともあろうか飛べない鳥キュクィだった。今まで皆をキュクィ車で精一杯運んでくれた通称キュイである。
 「かつてキュクィは大空を接見していた天界の鳥だった。遠い昔、数名の天族とともに地上に降り立ったキュクィは長い年月を掛けて地上の生活に適応した、それが今の姿だ。地上に生まれたキュクィたちは空に対して強い憧れを持っている。彼の覚醒を促すくらいならこの城に秘められた光の力だけでもできるからな。」
 クゥルアアァァ!
 キュクィは甲高い声で嘶いた。
 「ミキャック。」
 「はい!」
 ミキャックは皆を一歩下がらせ、謁見の間の中央に跪き、床にその手を宛った。
 「この城には私の槍のように、様々な古の品が眠らされている。それを今ここに呼び覚ますよ!」
 ミキャックを中心に床全体に光が広がり、まるで水面に浮かび上がってくるように様々なものが床から浮上してきた。それは数々の武具と___
 「キュクィ車!?」
 目を引いたのは純白のキュクィ車だった。羽を象ったような紋様が描かれたそれは、神々しいほどに輝いて見えた。
 「これは天駆ける神の乗り物___導くのはもちろん彼よ!」
 キュイが甲高い雄叫びを上げる。力強い嘶きは皆に勇気と活力をみなぎらせる。
 「ようし、いくぜぇ!レミウィスを助け出し、アヌビスを倒す!」
 向かう場所はヘル・ジャッカル。
 恐らくこれが、この旅で最後の出発である。



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