2 懐古
独断でライディアを殺めたにもかかわらず、ジャルコは平然とした顔でヘル・ジャッカルに戻ってきた。八柱神の制服である黒いマントと装束、その袖のあたりにびっしりと残っているであろう彼女の血も、黒の中では血の匂いを醸すだけ。
「戻りました。」
全身に血の香りを携え、ジャルコはアヌビスの元へ。
「ご苦労。」
青絨毯の謁見の間にはアヌビスとダ・ギュールがいる。アヌビスはいつになく味のない顔をしていた。
「ライディアは化けたか?」
「ご覧の通りです。」
ジャルコは聖杯を懐から取り出した。輝きを失った杯は、もはや血の器と呼ぶのがふさわしい。
「ライディアを殺したことはあえて咎めん。リツィラスを知ればあいつはソアラの力になろうとする可能性もあった。さすがに二人の竜の使いを相手にするのは俺も面倒だ。」
血の器がダ・ギュールを介してアヌビスの手へと渡る。アヌビスはこれといって眺めることすらせず、ただそれを持っていた。
「恐縮ですな。」
「心にもないことをぬかすな。他に言いたいことはあるか?」
「ソアラの獲得には失敗しましたよ。ただあいつに致命的な傷は負わせました。」
ジャルコはサディストらしい笑みを浮かべ、アヌビスを少し不快にさせた。
「そうか。ご苦労、暫く休んでいろ。」
「は。」
ジャルコは深々と礼をして立ち去っていった。アヌビスは血の器を一瞥し、もてあましたかのようにダ・ギュールに放り投げた。
「やはりもぬけの殻だ。リツィラスは大した奴だよ。」
ダ・ギュールは自身の傑作である血の器を闇に翳し、食い入るように見つめた。
「なるほど。」
そして一言。血の器には力を食い、物質化するモンスターを宿らせていたはずだった。
「どんな苦境に立とうとももろともしない。最後には自分を犠牲にしてまで最悪の結果だけは避ける___素晴らしいことだ。リツィラスは世界的視野でものを見つめ、間違った選択をしない賢明な女。だが戦いはさほどうまくなかった。」
アヌビスは思い出すように語る。
「ライディアは戦いのうまい女だ。そして強いハートを持っている。ただ直情的になりやすく、少し幼稚なところのある多感な女だった。そのライディアにリツィラスを同居させた。」
アヌビスは目を閉じ、譫言のように話し続ける。長い耳も伏せたままでいた。
「理想的だが完全ではない戦士が生まれた。強さを手にしたが、ライディアは残酷じゃない。本領を発揮しているとは言い難かった。そこに現れたのがソアラ。」
アヌビスは大きな目を開け、ゆっくりと立ち上がる。
「どちらへ?」
ダ・ギュールが尋ねる。
「少し瞑想をしてくる。ライディアの供養もかねてな。」
アヌビスはダ・ギュールに背を向けたまま手の平を見せて言った。
「血の器の処理は任せるぞ。」
「御意。すぐに新たなケツァールを宿らせます。」
アヌビスは闇にまみれていなくなり、ダ・ギュールも血の器を抱いて消え去った。
「___」
謁見の間を後にして、一仕事終えた気分転換に酒でも飲もうと思っていたジャルコ。しかし途中で出会った人物を見て思わず足を止めた。
「よう、ラングじゃねえか。」
それはライディアと一際懇意だった男、ラングである。だがジャルコは恐れることも臆することもなかった。ラングは情に流され、忠義や理想を見失う人物ではないと知っていたし、なによりライディアの独りよがりだという噂は聞き及んでいた。
「ライディアが死んでしまったそうだな。」
事務的な、確認の会話のようだった。彼は無表情のままで、頬の入れ墨さえ歪めない。
「ああ、おまえには悪いと思ったが、奴がアヌビス様にとって邪魔な存在になったから俺が殺した。」
「そうか。任務ご苦労だったな。」
ジャルコの思った通り、ラングは無感動で実にあっさりとしていた。ジャルコに一切の敵意も見せず、彼とすれ違っていく。
「どこに行くんだ?」
「ライディアの部屋へ。彼女の部屋も空けねばならないからな。」
クールなもんだぜ。
ジャルコはラングの本心などに興味はない。それ以上ラングのことなど考えもせず、上等な酒を飲むためにハーレムへと向かっていった。
「___」
ヘル・ジャッカルには窓のある部屋がない。ライディアの部屋も無人では可哀想なほど暗かった。ランプに火を入れると部屋に光が広がっていく。落ち着いた、アヌビス曰く少し幼稚な女の部屋とは思えない、大人の雰囲気だった。
「物は帰らぬ主人を待つか___」
ラングはボソッと呟いた。引き出しのいっぱい付いたテーブルの上には開いたままの本が置いてあった。帰ってきてから続きを読むつもりだったのだろうか?その風景に生活感はあっても生命力はない。
「___」
テーブルにはラングの視線を呼ぶ物もあった。小さな写真立てに納められた二人の姿。セピア色の中でライディアは心から嬉しそうな笑顔を見せ、ラングはいつもと変わらぬ表情でいる。
「供養くらいはしてやらねばならんか___せめて、あの娘のことを思い出すことで手向けとしよう。」
ラングは椅子に腰掛ける。テーブルの下に足を納めるにはかなり窮屈だ。ライディアが自分より小さい存在だったことを改めて実感する。
ラングがライディアに対してどんな感情を抱いていたのか。それはライディアでさえ、確証のある答えを知らない。いや、答えなどないのかもしれない。
彼がライディアのことをそこまで真剣に考えたことはなかったから。
「ラ、ライディアといいます!」
「ドラクロワ殿の忘れ形見か。」
二人の出会いは仕組まれたものではない、偶然だった。ライディアはより強くなるために集団戦闘訓練を受けていた。ラングはその教官だった。
ライディアはラングの前では緊張しっぱなしで、重圧がかかるほど燃えるものの空回りしてしまう、そんな女だった。
「君はいつも堅くなりすぎだ。物は柔らかい方がよく伸びる。わかるな。」
「わかってます。わかってますよ___でも______あなたに見られるとなんだか気持ちが高ぶっちゃって___」
二人でやり取りを交わしているうちに、ライディアは自分の恋心の芽生えに気づいていたのだろう。彼女は時折思い詰めた顔でラングを見るようになる。
「アヌビス様が優秀な戦士八人を抜粋し、八柱神という位を与えると述べられた。」
「そうなんですか?ならラングさんは八柱神になること間違いなしですね。」
この当時はまだ言葉遣いにも差があった。
「アヌビス様は全員に平等のチャンスを与え、公平な審査をするとおっしゃっている。あの方は数奇な考えを持っておられるから、単純な力の強さだけでは選びはしないよ。」
「そうですね。アヌビス様って意外性があって素敵です。」
「おまえにもチャンスはあるんだ。ライディア。」
「そんな、私なんて___」
勇猛果敢で積極的だが、出世欲は乏しかった。それともライディアが現状のラングとの師弟関係に満足していただけなのか?自分の実力の限界を知っているのか?
「八柱神候補だそうだ。」
「良かったですね!」
ラングは八柱神候補に選ばれた。それはまた別の波紋を生み、ライディアを窮地に立たせる。ラングは当時ライディアの気持ちを受け止めた瞬間のことを鮮明に覚えていても、そのときに自分がどう思ったかは曖昧だった。
「これからは八柱神候補として、アヌビス様より命を受け積極的に行動せねばならない。君に戦いを教えられるのもあと数日だな。」
「え___」
その当時ラングが戦闘訓練を施していたのはライディアだけでない。だがラングとの別れに涙を流したのはライディアだけだった。
「私はあなたを好きになってしまった___どうしょうもないほどに!どうか、どうかあなたの側に置いてください!」
それは求愛と言うよりも嘆願だった。両親を亡くした彼女にとって、愛ほど渇望を感じていたものはなかったのだろう。魔族の間にも愛はある。ましてや彼女のようなエリートは、幼少時に両親の愛を一心に受ける。
「今の君では無理だ。」
「なら、どうすれば!どうすればいいの!?」
ラングは愛だの恋だのに疎い。このとききっぱり断っていれば、一つの恋の終わりでことが済んだかもしれない。だが同情を知っている彼は無意識で救いを与えてしまっていた。
「君が僕と並ぶほどに強くならなければ、今のように出会い、話すことは無理だ。」
「なら___私も八柱神になればいいんですね!」
そのときからライディアは強くなり、手柄をあげることに必死になった。優秀な戦士ではあったが、あまりに一途すぎて周りを見る目には欠けていた。
だが___ライディアは確実に変わっていた。そして変えたのは自分。
___アヌビスが「八柱神には少なくとも一人、女性を入れたい」と言ったのも彼女を後押しした。当時彼女と八柱神の座をかけて争っていた女性は他に二人。ともにライディアとはかねてからの友人関係にあった、名はカレン、それからクレーヌだった。
三人ともに技巧に溢れ、戦いに対する熱意と強いハートを持つ人物だった。いずれ劣らぬ情熱家で、そして生真面目で真剣だった。当時期待されていたのはカレン。カレン・ゼルセーナは大盗賊ディック・ゼルセーナの娘だった。
だが三人とも、ラングやガルジャ、ジャルコといった強豪と比べると明らかな見劣りをしていた。ライディアに関しては赤竜に化ければそれ相応の力は見せられることが分かっていたが、それは彼女が嫌がっていた。そのとき竜の使いという女性だけの超生命体に出会ったアヌビスは、この力と彼女たちの融合という突拍子もないアイデアを持ち出した。
同じ頃、カレンが任務を失敗して右手を失うという致命的な欠陥と失態を負った。八柱神になりたいばかりに遮二無二なりすぎた結果だった。ライディアはライバルの脱落に心を痛めながらも気丈に任務をこなす。逆にクレーヌは熱意が失せて自ら身を引き、カレンの側に付いていたという。
とにもかくにも八柱神候補に残ったライディア。
「ラング、これからはラングって呼ぶね!いいでしょ?」
「好きにするといい。」
ラングもライディアの頑張りを素直に誉めたかったので、彼女の要求にはつきあっていた。その後ライディアはさらにラングと近づくために竜の力を得て飛躍的に強くなった。ついに二人は対等となり、互いの手を取って歩くことも許されるようになった。
互いの手を取り合い、愛を感じることを強く望んだライディア。
彼女の要求に応えただけのラング。
二人の関係は一つだけの需要と供給。本来恋人同士が持つべき二つの、互いの需要と供給の関係ではなかった。
ライディアに需要はあってもラングに需要はない。ラングの供給はライディアを喜ばせてもライディアの供給は実らない。かといってラングもライディアを嫌ってはいない。曖昧だが終わらない関係だった。
自分を捨ててまで竜の使いとなり、友情を裏切ってまで戦い続けた彼女。負い目があったから、彼女はますますソアラへの勝利に飢えていたのかもしれない。そのライディアを癒すことができるのはラングだけだったというのに___彼はあまりに無味すぎた。
「もっと想ってやるべきだったのか___?」
今更。
確かに今更だが、それではあまりにも可哀想だ。
ラングは写真立てから写真を抜き取って懐にしまった。今からでも彼女のことを想ってあげれば、それが供養になると本気で思えた。
「ん___」
机の上に開いてあった本が、文献ではなくライディアの日記だと気が付いたラング。それを読むことに罪悪感はなく、ゆっくり、最初のページから眺めていくことにした。
まるで、自分に可愛らしい彼女がくっついていた頃を懐かしむかのように。
一方、栄光の城___
「この城にいると___思い出してしまうな。」
夜を迎えた空を見上げ、テラスに立つミキャックはぽつりと呟いた。
確か、あの日もこんな夜だった___
「レネ様、代わります。」
その時、あたしはこのテラスで夜の見張りをしていた。交代の時間になって仲間がやってきたとき、それは起こったんだ___
ドンッ!
「なんだ!?」
テラスから見渡す森で火柱が上がった。それにあわせるようにモンスターの奇声が響く。続けざまに今度は目映い閃光!光は夜の森に二つの影を浮かび上がらせた。
「呪文だ___誰かがモンスターと戦っている!」
ミキャックは迷わず翼を広げて舞い上がった。
「レネ様!?」
「様子を見てくる、君はここで待て!」
「お、お待ちを!」
天族は彼女を止めようと手を伸ばしたが、ミキャックは森の中へと飛び込んでいった。
「ったく、俺が誰かわからねえってのか!?」
その男は迫り来るモンスターに手を焼いていた。全身に頑丈な甲殻を持った虫型のモンスターは、巨大でなおかつ素早い。先ほどから逃げながら呪文で応戦するがモンスターはそれを簡単に蹴散らし、ノコギリのような口をがちがちとならしている。
(まあ、魔族の気配を消してるからな___モンスターに狙われるのもしゃあねえか。)
男は素早く飛び上がってしっかりとした枝を掴んだ。不意を付かれた虫は男の下を通り過ぎていった。
「げげ!」
男がホッとしたのもつかの間、虫は木々をなぎ倒して方向転換してくる。男は慌てて隣の枝へと飛び移った。
「あら!?」
しかし無情にも枝が折れ、男は自由を失った。そこに虫が強烈な体当たり!
「うがっ!」
男は吹っ飛び、背後の木に体を打ち付ける。虫は彼を喰らうつもりなのだろうか、しめった大地に尻餅をついている男の前で、悠然と口を震わせた。そのとき___!
カッ!
虫の真上で、夜空が目映く光る。光につられるようにして、虫はその醜い顔を上げた。
「虫は光に目がない___モンスターでもそれは同じか。」
雄大な翼が光を浴びてキラキラと輝く。光の源はミキャックの拳だった。
(天族___!)
背中の痛みに顔をしかめていた男は、突如現れた女神の姿に釘付けになった。
「呪拳プラド!」
ミキャックの拳は虫の口の上あたりに激突した。その途端虫の頭に亀裂が走る。
「ガギギギギキ!」
虫の頭が爆音とともに弾け飛んだ。緑色の体液を溢れさせながら、虫はその場にとどまってピクリとも動かなくなった。
(こいつは___)
木に凭れながら、男はミキャックの顔、強さ、翼に目を奪われていた。
「大丈夫か___?」
ミキャックは翼から羽を抜き取り、魔力を込める。羽は光を放ち森の中に明かりを作り出した。
「いや___ああ、大丈夫だろう___」
ミキャックはその男の姿を見たとき、薄汚い身なりの中に何か独特の誇りのようなものを感じていた。男は顔を無精髭でいっぱいにし、煤けた肌をしていて、服は年季が入った皮のボロ着だった。しかしその眼光には力強い意志と、男の気高き心が現れているように思えた。
「あんたは天使か?その背中の翼___」
「どうしてこんな夜更けに森に入り込んだんだ?」
「いや、次の街に行くのにはこの森を突っ切るのが近道だと聞いていたから___」
ミキャックは男に手を差し伸べて起立を促す。男は彼女の手を取ってゆっくりと立ち上がろうとした。しかし、背中が軋んで顔つきを歪める。
「ありがとう___助かったよ。」
それでも男はミキャックの手を放すと、痛みの残る笑顔で彼女に礼を告げて立ち去ろうとした。しかし腰をまともに伸ばすこともできず、酷く苦しそうに背を向けた彼の姿。
「まて!」
放っておけるはずがない。
「その体では無理だ。」
この優しさが全ての始まりだった。
「治療___といっても、あたしは回復呪文ができないから___」
城に誰か呼びに行こうか?いや、この光と仲間の断末魔でモンスターたちが慌ただしくなっている。彼一人を森に残すのは餌を置くようなものだ。
「肩を貸そう。」
その時ミキャックはとにかく彼を助けたい一心だった。
「どういうことですか!?栄光の城に外の人間を連れ込むなど___あなたにはこの城を守るという自覚がないのですかな!?」
男を連れてテラスに戻ってきたミキャックを、天族たちは驚きの顔で向かえた。なにしろ彼女はこの城を竜神帝に任されるにあたり、城が魔の手の者の侵略を受けないよう言い聞かされている。そのためには外部からの侵入者を全て断つのが最善かつ最低限の方法だった。
「こんなところに城があると一人にでも知れれば、たちまち噂は広がってしまう!」
ミキャックは非難を覚悟の上での行動だったが、かねてより彼女を嫌っていたギュントという男性天族の剣幕は凄まじかった。それもそのはず、彼は竜神帝に仕えて長い人物であり、帝が彼ではなくミキャックに栄光の城の守護命を与えたことを酷く妬んでいた。
「確かに___皆を不安がらせてしまうことは謝るよ。でも、傷ついた旅人を見捨てることはできない。」
「その男をどうするつもりで!?」
「傷が十分に癒えるまで、ここで過ごしてもらおうかと思っている。」
「なんですと!?」
ざわついたのはギュントだけではない。今まで栄光の城に人を呼び込んだことなどただの一度もない。しかもミキャックが肩を貸しているのは酷く薄汚れた見るからに下世話な男だ。
「あまりに無責任ではありませんか!」
「おいおいもうやめてくれ。ようは俺がここにいなきゃいいんだろ?」
ギュントの詰問を見かねた男が、自らミキャックから離れようとする。しかし彼女はその腕を取って放さなかった。
「いくな。」
ミキャックはボソッと囁いて言い聞かせたが、男はその手を振り払う。
「俺は魔族だ!」
ディックはミキャックの優しさを無にしないため、声を大にしてそう言い放った。唖然とした聴衆が静寂に包まれるが、それを断ち切ったのもまたミキャックだった。
「関係ない。魔族だろうが天族だろうが、命の危機に晒されている人を見捨てることはできない。」
「お、おいおい。」
ディックはミキャックの真摯な眼差しに困惑した。天族と魔族は相対する種族、それは常識だというのに。
「魔族を城に導くとはなんたる失態!みすみすアヌビスの犬を城に侵入させたのですぞ!?」
ギュントはここぞとばかりにまくし立て、さしもの天族たちもミキャックを蔑むような目で見始めた。しかし彼女の意志は決して揺らがなかった。
「天族が善で魔族が悪か?そんなの偏見だと思うけどね。現に彼はモンスターに襲われて負傷した、何らかの事情があって魔族としては生きられなくなった男だと思う。」
「うん___それは確かにそうなんだがな___」
ディックは余りの気まずさに声のトーンを落としながら、何度か頷いた。
「そんなはったりのために我々に毒を抱けと!?」
「そう思うのはあなたが曲がってるからじゃないのか?」
「なっ!」
「人一人救えないで、城が守れるものか。」
「くっ___」
「責任はあたしが取る、ルーフェル!治療を。」
ギュントの後ろで戸惑っていた女性天族は、ミキャックに呼びかけられると飛び跳ねるようにして彼女の元へと駆けていった。大儀よりも今そこにある命を大事にしたい、魔族を招き入れたことの反感は強かったが、ミキャックの思いは少しずつ仲間たちに伝わろうとしていた。
「なんだか申し訳ねえなぁ、事情があるんだったら助けてくれなくても良かったんだぜ。」
男はベッドで半身を起こして食事を取っていた。
「気にしないで。むしろ謝るのはあたしの方だ、こんなところでは居づらくてしょうがないだろ?」
「そんなことあるもんか。あんたみたいな美人に優しくされて嬉しくない男なんていないぜ。」
「そんなこと___」
少しお世辞に弱いところがあるのは自分でも知っていたが、ミキャックは照れを隠せなかった。
「なるべく早くここを出るよ。その方がいいだろ?」
「___その判断はあたしがする。中途半端な状態で出て行かれても心配になる。」
「魔族を心配するのか?」
「関係ない。あなたが魔族なのはたまたまだ。」
不思議といつもより舌が回った。彼の砕けた性格のせいか、ミキャックの心もいつもより鷹揚になっていた。初対面の、しかも魔族の男に親しみが持てる___過去の汚れで男を恐れていたミキャックにはこんな機会は今までなかった。だから余計にもう少し、彼にはここにいて欲しかった。
「名前を教えて。」
「名前?___ゼルセーナ、ディック・ゼルセーナだ。」
その名はミキャックの胸に深く刻まれることとなる。ただ彼女はその時、幸せな思い出として刻まれる可能性だけを考えていた。
髭をそり落として身なりを整えると、ディックの品格はより際だった。口元に皺を刻んだ年齢が与える貫禄だけではない、ギラリとした眼光、成功者だけが持つ強い威光を放っていた。彼はミキャックに旅の話を聞かせ、ミキャックはタブーに触れない程度に城や天族の話を聞かせる。はじめは二人を白い目で見ていた天族たちも、ミキャックが今までにない明るい笑顔を見せるようになったのを喜び、ディックに近づくようになっていた。
「あの男は魔族だ!悪党に違いない___」
頑固さだけを頼りに、身辺にそう漏らし続けていたのはギュントだった。十日が過ぎ、そろそろディックの体も回復に達しようかとしていたが、栄光の城の垣根を少し低くしたミキャックの信頼はむしろ高まっていた。彼はそれが気に入らなかった。だから、筆を走らせた。
「ここにいたのか。」
その日の夜、見張りでテラスに出ていたミキャックの元へディックがやってきた。
「ディック。」
「夜の見張りは寒いだろ?」
「楽しいよ。だってこれをやっていたおかげであなたに出会えたんだから。」
ちょっと気恥ずかしい言葉も自然と口をついて出る。そんな間柄が楽しかった。ディックは笑みを浮かべながらミキャックの隣に立ち、夜の森を眺めた。
「何で俺を助けてくれたんだ?」
ミキャックの方は振り向かずに、ディックが尋ねた。
「利用するためさ。栄光の城はあまりにも別世界でありすぎる。地界に少しでも溶け込ませるために、誰かいい人を連れてきたかった。でもまさか魔族だったなんてね。」
ミキャックは事務的に答えたが、言葉のはじめは少しだけたどたどしかった。
「本当に?」
そんな彼女の動揺を見逃さず、意地悪な笑顔で振り返ったディックが念を押す。
「それは___」
ミキャックは俯き、長い前髪で目を隠す。
「______になった___」
「ん?」
すらりとした体を少し丸め、恥ずかしそうに声を絞り出した。
「気になったのよ___あなたが素敵だったから___」
ディックはそれを聞いて口笛を吹いた。パンッとミキャックの肩を強く叩く。
「かーっ!お嬢ちゃん、こんなおっさんに惚れてどうする!?」
ディックは豪快に笑い、ミキャックはムッとして口を尖らせた。
「なにさ!恥ずかしかったのに___!」
「いや、すまん!だがなぁミキャック、親父趣味はよくねえぞ。」
「そんなんじゃない___あたしはただあなたが輝いているから話がしたかったんだ。外見とか、年齢なんて関係ない、魔族だってことも。あなたには誇り高い人だけがもつ輝きを感じたから___ただそれだけなんだ___」
ミキャックが少し悲しそうな目で話すと、ディックの顔つきは一瞬だけ硬直したかのように真剣そのものになった。しかしすぐにまた優しい笑顔になると、ミキャックの肩に手をかけた。
「おまえは素敵だ。いい女になれるよ。」
「___?」
「俺は明日ここを出る。」
「!」
ミキャックが震えたのを、ディックは掌で感じた。
「怪我が治ったからな、旅の続きだ。」
「___もう少しここにいられないの?」
「おまえねぇ、もうちょっとしっかりしろよ。」
哀願するミキャックの頬をディックは軽くつねった。
「おまえはこの城を守るんだろ?いつまでもこんなおっさんのこと考えてないで、仕事のこと考えなくっちゃ。」
「好き___なのに?」
ミキャックは自分でも信じられなかった。過去の苦痛を振りほどき、男に「好き」と言えたこと。だがディックは真剣になってはくれなかった。
「___ん〜、夢壊すようなことはいいたくねえがな、俺は子持ちだ。故郷にはカレンっていうおまえくらいの娘が___」
「だから?」
「だ、だからって___」
怯まないミキャックにむしろたじろいだのはディックだった。
「___ごめん、もういい。ありがとう。」
ただミキャックも彼が困っているのを見て、それ以上のことはしなかった。寂しげな視線を再び夜の森に向ける。
「そろそろ交代の時間なんだ、二人きりでいるのを見られるのは恥ずかしいからさ。」
「ん___あ、ああ。わかった。ごめんな、がっかりさせて。」
ディックは少し気まずそうに頭を掻いていた。そんな彼を横目で見て、ミキャックは素直な笑顔になる。
「いいよ、今まで楽しかった。あたしにはそれだけで十分だから。」
これで別れるはずだった。これで___ミキャックは小さな失恋を知り、ディックはちょっとした未練を残して城を立ち去る。それで済むはずだった。
だが、部屋に戻った彼のテーブルには手紙が置いてあったのだ。
「これは___!」
それは彼の眠れる衝動を刺激するものだった。
「レネ様、交代の時間です。」
「ああ分かった。」
ミキャックは平静のまま、やってきた男性天族を笑顔で迎えた。そのまま持ち場を彼に明け渡し、城の中に戻ろうとするが___
ヴォン___
「え?」
何が起こったのか?瞬時には理解できなかった。たとえ夜の中でも栄光の城はその外壁に淡い光の筋を纏っている。それは幻影の外に漏れることなく、それでいて周囲に蔓延るモンスターを威圧する力を秘めている。
これは竜神帝より授けられた「光の源」が城に力を与え、地界全体に闇に屈しない輝きをもたらしているものだった。しかしそれが突然にして失せた。
「こ、これは___どういうことだ!?」
ミキャックの額に嫌な汗が滲む。光の源に期限があるなんて話は一言も聞いていないし、ましてやこの光を止める方法なんて知る必要のないことだ。
少なくとも天族には。
「___!」
ミキャックは走った。彼がそんなことをするはずがないと己に言い聞かせ、疑いを胸の奥底に押さえつけながら。
「ギュント!」
謁見の間に駆けつけたミキャックは、そこで蒼白な顔をしながら打ち震えている男に呼びかけた。ギュントは瞬間、背筋を硬直させて振り返り、焦りが顔に表れているミキャックを見て思わず噴き出した。
「まんまとやられましたな!」
「なんだと___!?」
ギュントは謁見の間の奥に鎮座する竜の浮き彫りを指さした。それは輝きがなく、単なる彫刻と化していた。
「あの男ですよ!あなたは騙されたんだ!」
「そんな馬鹿な___!」
この一大事にも彼女をこけにして笑っているギュントには腹が立ったが、構っている暇はない。ミキャックはすぐに踵を返してディックの部屋へと走る。
「ハハハハハ___!」
ギュントの笑い声は酷く引きつっていた。勝ち誇って良いはずなのに、責任の重大さにむしろ心は混沌としていた。まさか___本当に盗むとは思ってもいなかったのだ。
「ハハ___」
ギュントは腰を抜かすようにその場に崩れ落ちた。彼はミキャックに泥を塗った代わりに、人生を失ったことに今頃気づいていた。竜神帝は空から彼の悪事を見ている。
ディックの部屋に「光の源」の秘密を綴った手紙を残したのは彼だ。
「ディック!」
勢いに任せて部屋の扉を開け放ったミキャック。しかし彼はそこにはいない。冷たいベッドに触れた瞬間、彼女は憧憬を諦めて覚悟を決めた。
「___逃がさない!」
騎士の顔を取り戻したミキャックは城の壁に手を触れて目を閉じた。壁から掌を伝い、小さな音、震動を感じ取る。騒然とした城を天族たちは飛び回ることはしても、床を踏みしめて走ることはない。ひた走る靴音___それだけを感じれば良かった。
ゾクゾク___!
寒気と共に翼の羽が少しだけ膨らんだ。天族ではないであろう男の靴音、悪寒が走ったのはその颯爽とした足取りを感じ取ったときだった。
「また___いつも男は裏切る!」
ミキャックは唇を噛みしめながら翼を広げ、滑るように部屋を飛び出していった。
そして、対峙はすぐに訪れた。
廊下に広がっていた煙の先に蹲る二人の天族、彼らを仲間に任せてミキャックは単身滑空する。その道は行き止まりで、ディックに逃げ道はなかった。
「ディック___!」
小さな階段を挟み、下にディック、上にミキャック。
「よう。」
誇り高き男はその手に光の源を握っていた。
「はじめからそれが狙いだったのか___あたしを騙していたのか!?」
「騙していたといえばそうかもしれないな。なにしろディック・ゼルセーナは魔族の間ではちょいと名の通った泥棒だ。我慢するつもりだったが___この世界から光を盗めると知ったら、抑えがきかなかった。」
「信じていたのに___信じて___」
言葉にならない。ミキャックは双眼を潤わせながら、それでも槍を握りしめて彼を睨み付けていた。
「泥棒ってのは嘘つきなんだよ。」
「___なら___始末する!」
ミキャックは槍を振りかざして飛び出した。逃げ場のないディックは槍の動きをぎりぎりまで見極めて回避するつもりだった。
(くっ!)
しかし鈍っていた体で急に激しい運動をしたためか、腰に痛みが走って瞬発力を欠いた。
「っ___!」
本気で傷つけるつもりがなかったのか、ミキャックの槍も鋭さを欠いていた。それでも必死に身をよじったディックの腹部に裂傷が走り、血が溢れ出た。ディックはそのままよろめいて背後の壁にもたれ掛かる。
「なっ!?」
振り返る間もなく彼の背後で壁が開き、ディックは黒い空間に吸い込まれていった。
「こ、これは!?」
それは扉だった。ジェイローグの血の証を示せと記された扉。消えたディックを追いかけるため、ミキャックは迷わず竜神帝より授かった髪飾りを外して握りしめ、扉を押した。
不思議な感覚に全身が包まれた後、彼女は見知らぬ土地にたどり着いていた。
「ここは___」
それは竜の社のある島。目覚めた場所のほと近くに井戸を見つけ、新しい足跡がそこで消えているのを確認する。井戸の縁に血痕を見ると、彼女は息を飲んで飛び込んだ。
そこに広がる迷宮。不燈火虫はこの洞窟が天界に由来することの証であり、ミキャックは天界と地界を結ぶ古の土地があることを思い出した。
「ディック___!」
一度だけその名を呼び、ミキャックは額に滲んだ汗を拭って足早に血痕を追った。
「いきどまり___?」
たどり着いたのは開けた場所。まるでホールのように広いそこには柱が数本立っているだけで、これ以上進む道はない。しかし血痕を追っていくと、それは突き当たりの壁を右往左往して消えていた。
「これは___」
半分だけの血痕が床と壁の境に残っていた。不自然に感じたミキャックは、壁に手を伸ばすと簡単に向こう側へと抜けた。
「城を守る幻影と同じか___」
そこからはもう真っ直ぐだった。血痕の量が彼女を焦らせ、息づかいを荒くさせた。少し薄暗くなった廊下を進み続けるとその先に輝きが集まる場所が見えてくる。
「!」
光の注ぐその場所には台座があった。
「ディック!」
台座に横たわる人影を目の当たりにし、ミキャックは翼を広げて全速で滑空した。スピードに乗りすぎて通り過ぎそうになり、慌てて翼を畳むと横たわるディックの元へ降り立つ。
「ディック!しっかりしろ!」
「___」
彼の頬はすでに死体のように青ざめ、吐息さえ朽ち果てかけている。裂けた腹は真っ赤に染まっていたが、もはやそれ以上の出血はなかった。
「ああ___何であたしは回復呪文を覚えてないんだ!」
ミキャックは頭を掻きむしって、とにかくディックの頬を叩きながら彼に呼びかけ続けた。だが彼の鼓動を、吐息を呼び覚ますことはもうかなわなかった。
「そんな___」
なぜ彼は光の源を手にかけたというのか?数日の楽しかった一時は、今日という日を境に全て悲しき思い出に変わってしまった。
「!」
悲しみに駆られながらも少しだけ冷静になったミキャックは、彼がナイフを手にしていることに気が付いた。
「これは___!」
台座に傷が彫り込まれている。ミキャックはディックの体を優しく抱き起こして台座から下ろした。彼の下に現れたのは、血糊とともに深い意志の込められた遺言だった。
『恩を仇で返してしまってすまない、だがあのとき君に助けられたのはまぎれもない偶然だ。俺はアヌビスを敵にし、魔族の気配を消して生きていた。だからモンスターに襲われた。そこに君が現れた。君は俺の命を救い、俺に誇りある男だと言ってくれた。それは、盗むことを人生としてきた俺にとって最高の褒め言葉だ。だがその誇りが君を傷つけてしまったことには詫びの言葉もない。でも今は謝るよりも、君に心からのお礼の言葉を贈る。ありがとう。この仕事は、俺の最期に相応しかった。』
最期の力を込めて、はっきりとは読めない小さな天界文字で刻まれた言葉。この短い間で彼は天界の語学をマスターしていた。それが光の源を簡単に盗めた理由でもあった。だがそんなものは、心が悲しみに慣れてから気が付くことだ。
「殺されて___礼を言う奴がいるか!」
ミキャックは言葉にならない後悔に苛まれ、手にした槍に力を込めた。そして___
「うあああああああ!」
祭壇を滅多突きにした。一切の文字が読めなくなるまで、悲しみをぶつけるようにただがむしゃらに___
後で分かったことだが、ディック・ゼルセーナはアヌビスの指示に背くことで有名だったという。もちろん利害が一致すれば別だが、彼はあくまで己の意志を貫き、己が狙った品を盗むことを人生としている。たまたまアヌビスにとって重要な品を狙ったことが、彼がヘル・ジャッカルにいられなくなった理由だった。
___
(外に出たら夜明けが来なくなっていた___あのときは驚いたな。)
そう、出会いも別れも夜だった。ただ別れの夜は永遠の夜。それ以来世界から光は失われ、栄光の城に戻ると天族たちは身の危険を感じてか城から消えていた。そしてミキャックは引きつけられるように彼の部屋に赴き、手紙を見つけた。
そこでようやく涙が出た。光の源のことが記された紙を見て、悔しくて嗚咽が止まらなかった。それから彼女は竜の社に籠もることにした。ただその前に、書庫へ一冊の書物を取りに。
「回復呪文の本___か。」
風がミキャックの頬を撫でていく。あの日もこんな気候、そしてこんな時間だった。
「お〜い、何やってんだ?」
煙草でも吸いに出てきたのだろうか、サザビーがやってきた。
「別に、考え事。」
「一緒に考えるか?」
「なにそれ?」
ミキャックはくすくすと笑った。
「ねえ、ちょっと話しでもしようよ。そこに座ってさ。」
「お、積極的じゃないの。俺に惚れたか?」
その声色。似ていたからミキャックは一瞬真顔になった。
「そんなことないよ。」
すぐに微笑みを取り戻し、彼女はサザビーを迎えた。
思い出を封じることには慣れている。そして、ソアラとの出会いで未来に希望を見いだすこともできた。ディックとの一時を懐かしむことはあっても、もうそれだけを悔やみ、悲しみ続けることはないだろう。
私は一人じゃないから。
前へ / 次へ