3 暴走
「ソアラ!いったいどうして___!」
物言わぬライディアを抱きかかえて戻ってきたソアラに、レミウィスが大きな身振りで声を荒げた。
「あなたらしくもない、これで聖杯、いえ、血の器はアヌビスの手に渡ってしまった!」
ソアラは俯いたまま反論しようとしない。だが皆はむしろソアラに同情的で、あの冷静なレミウィスの変貌に驚いているようだった。
「ソアラ!」
目を合わせようともしないソアラを振り向かせようと、レミウィスは力任せに彼女の肩を掴んだ。しかし___
「うるさい!!」
よろめいたレミウィスを側にいたライが支える。ソアラが肘で彼女を突き飛ばしたのだ。あっけにとられているのもつかの間、ソアラは一度も顔を上げないまま、ライディアを抱いて壁の穴から空へと飛び出ししまった。
「ソアラ!」
百鬼が慌てて身を乗り出して叫ぶが、ソアラはあっという間にその姿を眩ませていた。百鬼は溜まらず拳で穴の縁を叩いた。
「ここまで来て内輪もめって___そんなのあるかよ!」
そして振り返って怒鳴りつける。それはソアラへの怒りであり、レミウィスに向けられた怒号でもあった。
「レミウィスさん、今まであなたが守り続けた聖杯。感情的になる気持ちは分かりますが、あの男をソアラさん一人で追いかけるのは非常に危険です。深追いしなかったのは決して間違った判断ではありません。」
妖魔の経験深さか、揺らぐことのない落ち着きで棕櫚はレミウィスに優しく声をかけた。彼に諭されて、珍しく高ぶっていたレミウィスも落ち着きを取り戻す。己を戒めるように深く俯いて首を振り、気丈な顔を上げた。唇には強く噛んだ跡があった。
「そうですね___私もどうかしていました___きっとストレスでしょう。」
レミウィスはナババが苦しむ姿を背に感じながら、栄光の城を機動させた。光を取り戻すために、竜神帝と出会うために、アヌビスを倒すために死力を尽くしてきた。
だがそのために彼女は様々なものを失い、ついには愛しきナババまで失った。
「申し訳ありませんが、どなたか空を飛べる方にソアラの捜索を頼んでいただけませんか?このままでは危険です。」
目が潤んでいることさえ隠そうとし、声の震えも必死に殺しながらいつものレミウィスでいようとする姿は皆の心を締め付けた。
「それなら俺がミキャックに頼んでおくよ。」
と、サザビー。
「お願いします。私は少し部屋で休みますから___ソアラが戻ってきたら呼びに来てください。謝らないと___」
レミウィスは重い足取りでその場を後にする。その言葉一つ一つに自責の念が溢れていた。
「ごめんなさいね___和を乱すようなことをして。」
なによりソアラに腹を立てた理由が「恨めしさ」だったことに、彼女は恥を感じていた。
レミウィスの部屋の扉はライディアに壊されてしまった。仕方なく彼女は空いている部屋に荷物を移し、扉を閉めるなり鍵を落とした。
「私の役目はもう終わっているのかもしれない___」
ベッドに突っ伏し、彼女は呟いた。俯せのままクッと手に力を込めてシーツを握る。
「別に___何か欲しいものがあったわけじゃないんだ___地位とか、名誉とか、褒美なんて考えたこともなかった。」
でも、やるせなかった。
「ただ、彼らのために、信じる竜神帝のために、アヌビスを倒すために、正義感を剥き出しにして頑張ってきた。目に見える得はなかったかも知れないけど、おかげで知識や、素晴らしい人々との出会いを得た。そして夢にまで見た竜神帝___」
レミウィスは頭から毛布をかぶった。
「でも___そのために私はどれほどのものを失ったというの___?」
鍵も閉めた、俯せになった、毛布も被った、それでもまだ足りない。絶対にこんな泣き顔だけは誰にも見られたくなかった。
「ルートウィック___」
嗚咽混じりに口をついた名前の人物はもういない。口にするたびに戒められる気がして余計に悲しくなる。そして自分にとってナババがどれほどの存在だったか、改めて思い知らされた。
コンコン。
ノックの音がする。こんなときにどういうつもりか___あまりにも無粋だ。
「___」
しかし無視をするわけにもいかない。レミウィスは目尻を拭いながら扉の前へ。もう一度ノックがあってから彼女は鍵を開け、控えめにドアを開いた。
「よう。」
そこに立っていたのはサザビーだった。
「入ってもいいか?」
レミウィスは小さな溜息をつく。
「ごめんなさい、休ませてくださいますか?」
「一人で泣きじゃくってたって、余計に疲れるだけだぞ。」
レミウィスの驚いた顔を見てサザビーは微笑む。半ば強引に扉を開き、構わずに中へと踏み込んだ。
「何をしに来たんです?」
「慰めに。」
「必要ありません。」
いつも以上に厳しく引き締まった表情でサザビーを睨み付けるレミウィス。その鋭い眼差しこそリドン家の証だ。
「まあとりあえず報告だ。いまミキャックがソアラを探している。」
「そうですか。」
レミウィスはサザビーの顔も見ようとはせず、椅子を引いて腰を下ろした。
「ソアラも落ち着けばすぐに戻ってくる。あんまり気にするなよ。」
「気になんかしていません。」
プイと横を向いたままサザビーの顔を見ようともしないレミウィス。明らかな拒絶の態度だった。
「___強がりだな。」
バンッ!サザビーももう一つの椅子に座ろうとしたとき、レミウィスが掌でテーブルを叩いて立ち上がる。
「何が言いたいの!?用が済んだならさっさと出ていって!」
「ナババの死がそんなにショックか。」
その言葉にレミウィスはキッと歯を食いしばった。飛び出すようにして、サザビーの頬を張った。
「戯けたことを!愛する人の死にショックを受けない人がどこにいるというの!?」
「いって〜。」
サザビーは改めて腰を下ろして痛みの残る頬に手を当てた。レミウィスは肩で息をしながらサザビーを睨む。
「まあ座れよ。いつも教えるばかりの立場でしんどかったろ?たまには俺の話でも聞いてみなって。」
「う___」
この男は!___人を食ったように泰然自若としているサザビーを睨み付け、レミウィスは舌打ちをしてから腰を下ろす。彼女の潜在的な気の強さが滲み出ていた。
「レミウィスさんよ、俺は人を慰めるのはあんまり得意じゃないんだ。なぜだと思う?」
「想像もつかないな。」
「俺がご都合主義だからさ。あ、吸ってもいいか?」
「___」
レミウィスは無言で答え、サザビーは煙草に火をつけた。
「ポポトルにいた頃の俺の生活環境では、何よりもまず結果を求められた。そうしなきゃどうなっていたかわからねえしな。結果を優先するばかり、考え方が現実に走って、いつの間にかちょっち冷たい性格になっていたかも知れない。」
「なにがいいたい。」
「終わりよければ全て良しってわけじゃないけどな。どんなに茨の道だろうと、紆余曲折があろうと、結果がハッピーだったら俺はそれでハッピーになれる性格なんだよ。」
「ただの軽薄なお調子者じゃないか。」
レミウィスはまどろっこしいサザビーの言葉に余計に苛ついていた。
「そうでもないぜ。気楽なうえに、いつも前向きだ。たとえあの子が振り向いてくれなくても、まだ他にも可愛い子がいる。たとえ今あの子と喧嘩したとしても、ハッピーエンドならそれでいいって感じでな。」
サザビーはレミウィスを見てニッと笑う。
「何だってそうなんだよ。戦いだってな。向こうの世界でもそうだった。俺は敵の奴といい仲になって、みんなを騙したこともあったぜ。」
「そんなこと___」
愚劣な男のやることだ。レミウィスはサザビーを心の中で卑下した。
「でも躊躇はなかった。終わりが良ければなんでもいいと思ってるからな。そう、その意味ではこいつは矛盾だ。結末さえよければと思えば思うほど、今の自分に正直になれる。まあ甘えとか手抜きとかいうのかも知れねえが、計算はその都度やれば十分だってのが俺の持論でね。」
「だからなんなのよ___」
白い煙が立ち上る。
「状況が苦しくなったらなったで、もっとがんばりゃいいし、頼れる仲間と力を合わせればいい。前向きになれるんだよな、今が何だろうと明日があるってやつ?それに相手がやばけりゃやばいほど、前向きな気持ちってのがきいてくるんだよ。」
「あたしが前向きではないと言いたいの?」
「その通り。それからもっと俺たちのことを信用して欲しいってことだな。」
おもむろに指を差され、レミウィスは眉を顰めた。
「今でも信用している。」
「あ〜、信用っていうと違うな、信頼だ。」
サザビーは煙草の煙で輪を作った。レミウィスの顔は険しいままだが、闇雲な怒りは失せはじめていた。
「レミウィス。確かに君は年長者だし、俺たちより地界や竜神帝のことにも詳しい。それに血筋がリーダーシップをとらせている。みんなはきっと君のことを信頼し、完全に心を許している。それはフュミレイ、君があいつの姉だから余計に親しみやすかったというのもあるんだろう。」
そういえばソアラは悩みを打ち明けてくれた。レミウィスの脳裏にあの日の記憶が蘇る。
「でも君は俺たちに悩みを語ってはくれない。今だって、泣き顔を見せることさえ拒んでいる。君のプライド、あるいは君自身が、自分の役割を頑なに守りすぎている。」
「あたしは別に___」
反論はしたかったが、はっきりとした言葉が思い浮かばなかった。確かにその通りだったから。
「ナババが死んだのは悲しいことだ。それはみんな分かっている。そしてみんなも君がどれだけショックなのか分かってるんだよ。だから君が泣いていたって何にも不思議にゃ思わねえし、胸につかえたもの、はけ口無くたまっているものをもっとぶつけて、吐き出して欲しいとも思ってる。分かるだろ?利口なんだから。」
レミウィスはふっと息をつき、ようやく表情を崩した。やるせないような笑顔を覗かせる。
「私は今までナババくらいにしか愛してもらったことがなかった。だから彼だけに縋り、彼にしか心を開くことが出来なかった___のかもしれない。」
身に憶えのあることだ。いまこんなことを話すにも気恥ずかしく、勇気が必要だった。
「百鬼とライは相手がいるが俺はフリーだ。俺で良ければいつでも愛してやるぜ。」
「軽薄な男は嫌いなんだ。」
だがおかげで吹っ切れた。笑顔は自然と出てきた。
「あ、そう。」
サザビーは苦笑いし、レミウィスもつられる。
「殴ったりしてごめん。」
「慣れてるよ。」
怒りは消え、心は解された。しかしレミウィスには悩みがあった。
この先、私の力は必要なのだろうか?役に立てるのだろうか?ということ。
しかしそれを聞くのはあまりにも野暮だ。きっとサザビーはこう言うだろう。
「必要ない奴なんか誰もいない。アヌビスを倒すには全員の力が必要だ。」
と。
そのとき、ソアラは見晴らしの良い丘に立っていた。ゾヴィス湖の景色が生え、爽やかな風の駆け抜ける丘。ただ彼女の顔だけは影が差し、曇りに落ちていた。
「ライディア___」
骸を抱いて髪を撫でる。彼女にこれほどの愛着を抱くのはなぜだろう。この最高の場所に埋葬するつもりだったのに、まだその体を抱いていたかった。
同族だから?いや、それだけではない。
『ソアラ。』
「___?」
雲で隠れていた日差しが二人に降り注ぐと、不思議な声が聞こえた。俯いていた顔を上げると、現実かどうかは問題ではないがそこに女性の姿が浮かび上がっていた。
黄金の長髪に空のように澄みきった青い瞳、竜の使いだった。
『悲しみを断ち切りなさい、ソアラ。』
声は霞のように仄かで、心を静寂に保たなければ聞き取れないかと思うほどだった。
『悲劇の魔族は息絶え、そして私も血の器を捨ててしまった。』
「リツィラス___」
教えられずとも、ソアラが彼女の名を呟くのに時間はかからなかった。
『厳しいときではありますが、今こそ良き仲間と痛みを分かち合うことが重要です。』
顔立ちはあまりソアラには似ていない。しかし感じるものを胸に秘めながら、ソアラは薄れゆく血の共有者の姿を凝視した。
『私はもうあなたの力にはなれない___天の彼方からあなたの勝利を祈ります。』
「待って___!」
『さよなら___ソアラ___』
光が雲間に隠れると、リツィラスの姿は簡単に消えてなくなった。全てが幻かと思えるほどあっけなく、ゾヴィスの風だけが吹く。だがソアラの胸を締め付ける感情、ライディアだけではない、リツィラスとの別れが彼女の悲しみに追い打ちをかけた。
「城に戻ろう、レミウィスに謝らなくちゃ___」
ライディアの皮膚がかなりくすんでしまった。美しいうちに安らぎに帰してあげなければ。ソアラはディオプラドで大地を削り、その暖かな自然の棺にライディアを横たえた。
「あなたとはもっと___色々な話がしたかった。」
最後に一度だけ、渇いてざらついている彼女の手を握り、ソアラは手早く土をかぶせていく。墓標は呪文で拵えた木板を使う。炎で「誇り高きドラゴンここに眠る」と刻みつけた。
「さよなら。」
また髪を結いはじめていたソアラはリボンを解き、板にしっかりと結わえ付けた。それくらいしか捧げられるものがなかったが、せめて側にいることを感じて欲しかった。
「城に戻るよ、みんなが待っている。あなたの無念はあたしが晴らすから___」
「それは俺を倒すってことか?」
「!?」
ソアラは驚いて振り返った。その男の姿を目の当たりにした瞬間、息が詰まり、毛髪が逆立った気がした。
「ジャルコ___!」
こともあろうかこの小男は、血の器を片手にソアラの前へと姿を現したのだ。飄々と、薄笑いを浮かべて!
「まったくライディアといいおまえといいサービスがいい。ライディアは俺に女をくれた上に、まんまとこいつをプレゼントしてくれた。今度はおまえがおまえ自身を俺にプレゼントしてくれるみたいだな。」
「なんだと___」
ライディアを嘲笑う言葉に、ソアラは激しい怒りを覚える。
「おまえ今ライディアに何をしたと言った!?」
「いや、おまえの攻撃からライディアを助けた見返りってやつかな。まああいつも負けておめおめとは帰れねえだろう。だから俺は親切で器を奪う任務をくれてやったんだ。あいつの体はその見返りさ。」
「貴様___!」
せせら笑うジャルコの鬼畜非道ぶりにソアラは冷静さを失っていた。口車、挑発に載せられてはいけないと分かってはいるが、この男だけは許せない!
「勝負するかソアラ?おまえも血の器を取り返すチャンスだ。」
ジャルコがソアラに向かって手を翳し、その指先から鋭い光線が噴き出した。
「っ!」
ソアラは慌てて防御姿勢を取るが、光線は彼女を避けるように歪曲して背後で爆発した。
「!?」
振り向いたソアラの感情は、怒りを通り越さんばかりに高まっていた。光線は稲妻のように木板を劈き、願いの籠もった墓標を燃え上がらせていた。
「馬鹿女に墓が必要か?あいつはどうせ飼い殺しの犬だ。」
「ジャルコォォッ!」
冷静でいられるはずがない。薄ら笑いを浮かべたジャルコはすでに彼女から離れ、素早く飛び去った。危険だとは分かっていても我慢していられるわけがない。ソアラも黄金の輝きを身に宿し、飛び立とうとした。
ガッ。
しかしその腕を力任せに掴む手が一つ。
「行くな。」
ミキャックだった。
「放せ!」
血の気に溢れた一喝だった。しかしミキャックは頑として退かない。彼女に同行していた男性の天族二人に合図を送り、ソアラの逆の手を抑えさせた。
「挑発だって分かるだろ?今あいつを追っかけることはない。ライディアは死んだし、ソアラはここにいる。血の器だけじゃ何もできないはずだ。」
ミキャックの説得は的を射ていた。まだ血の器だけなのだ、今はソアラの身の安全が何より。だが理屈では片づけられないのが感情というものである。
ゴッ___!
「!?」
ミキャックと二人の天族の手に炎が灯った。驚いた天族はソアラから手を放したが、炎が熱くないと見抜いたミキャックはそれでもソアラの腕を握っていた。しかしソアラが彼女の喉元を指で一突きすると、力が緩んだ。
「ジャルコを倒して、血の器を手土産に帰る!」
ソアラは瞬く間に浮上し、高らかに言い放った。
「くっ___思い知らされてからじゃ遅いんだよ!」
苦しげに首に手を当てながら、ミキャックは必死に呼びかける。だがソアラは構わずに飛び去ってしまった。
「追いかけるぞ!」
「はっ!」
ミキャックと二人の天族も空へと舞い上がる。しかしスピードの差は歴然で、ソアラはもう遙か彼方に消えていた。
「ミキャックさんだけに任せきりというわけにはいきません。」
そう言いだしたのはレミウィスだった。栄光の城に残り、ソアラの身を案じてばかりというのはストレスが溜まる。そこで彼女が妙案を出した。
「ヘヴンズドアに挑戦してみましょう。」
空間を高速に移動するヘヴンズドア。いや、空間と空間の距離を縮めるというべきか、とにかく最も理解に苦しむ呪文だ。そしてそれだけに難度も高い。皆の中に使いこなせる人物はおらず、アモンやミロルグ、フュミレイといった「大」かそれ以上の敬称を以て称される魔術師だけが操れる最高級の呪文だ。ソアラは真似事じみたことならできなくもないと言っていたが、今回はその彼女に追いつくための秘策である。
「でも、人を目標にできる呪文ではないと聞いたけど___」
「え?そうなんですか?祖母は人を目標して使うことが出来ましたよ。」
フローラの疑問にはスレイがあっさりと答え、「できる人がいるのなら不可能ではない」とレミウィスは書庫に向かった。他にスレイとフローラを連れ、付いていくと言って聞かなかったルディーも一緒に魔道書を探る。
「俺たちもやれるだけのことはやるぞ!」
呪文に縁遠い者たちはせめて城から見える範囲に目を光らせようと、ある者はテラスから、ある者は物見台から、辺りを睨み付けていた。
そのころソアラは滑空をやめて宙にとどまり、警戒の網を張り巡らせていた。ミキャックを撒いたことを確かめ、周囲に漂うジャルコの邪悪に緊張を高めていた。
(正直、ジャルコほど仲間連れで戦いたくない相手はいない___)
ジャルコは手強い、それは分かっている。自分の行動がかなり危険な賭であることも承知の上だ。しかしジャルコとは、どうしても一対一で戦わなければならない。
仲間連れで戦いを挑めば、ジャルコはソアラよりもまず仲間の命を奪う。焦らしたりすることはない、一瞬で殺めてしまう。焦らすのはメインディッシュのソアラだけ。オードブルは貪るように食べ尽くし、残された本命だけをじっくりと味わう___サディストの典型のような男だ。
だからジャルコと戦うときは、自分の命だけに注意を払う環境でなくてはならない。その意味でも今は好機だった。
(どこにいる___?)
辺り一帯に強烈な邪気が蔓延りジャルコの居場所は分からない。なるほど、気配を消すだけが雲隠れの能ではないということだ。
(なら___)
ソアラは竜の力を解いて紫色に戻り、あからさまな隙を見せた。その直後___
ギュン!
「来た!」
眼下の森を突き破り、一筋の輝きが真っ直ぐに彼女を襲った。ソアラは素早く身を翻し、輝きはその肌を掠めるように空へと通り抜けていく。だがこれで終わりではない。
ガスッ!
ソアラは防御姿勢で背後を振り返る。伸びてきたジャルコの鋭いキックを、しっかりと両腕で受け止めていた。
「ほう。」
全てを予測していたようなソアラの動きにジャルコは口元を歪めた。
「隙を見せれば乗ってくると思ったよ、卑怯者。」
ソアラは殺気剥き出しの視線でジャルコを睨み付ける。馴れ合いの微笑などありはしない。今に牙でも生えてきそうな程、敵意一色だった。
「してやったりか?」
「それはあんただろ___」
ジャルコにしてみればソアラが追いかけてきてくれたことが何よりだ。
「分かってるじゃねえか。この前はライディアの馬鹿に止められちまったが、今度はおまえの体をしっかり堪能させて貰うぜ。」
ふざけた男だ。こいつの頭の中は肉欲しかないのだろうか?
「心配しないでも命まではとらねえよ。俺は反応のない女に興味はねえからな。」
「その減らず口を塞いでやる___!」
語気は強い。だが気持ちはそこまで強くなかった。かつて死の淵を見せつけられた記憶だろうか、容赦なく腕をへし折られて組み敷かれた記憶だろうか、女のソアラよりも二十センチは背の小さなジャルコだがソアラには大きく見えて仕方なかった。
「そうかい___そりゃすげえ!」
ジャルコがいきなり上昇し、落下してきたサーベルを空中で握ると流れるようにソアラに斬りつけた。だがソアラは大きく後方に動いてその攻撃をやり過ごし、ジャルコと距離を取ろうとする。
「っ___!」
しかし空中では勝手が違う。地上ならばジャルコの追撃には「着地、駆け出し、加速」という間とテンポが生じるが、空中ではどこにもクッションがない。ソアラが黄金に輝く暇すら与えず、ジャルコは距離を詰めてきた。
「おらおら!」
銀色のサーベルが装束の袖を切り裂く。息つく暇もない。ソアラの逃げる方向を的確に捉え、次から次へと服と皮膚が浅く切り裂かれていく。
(だめだ___!)
近接されると飛行の未熟なソアラでは回避もままならなくなってくる。
「ディオプラド!」
ソアラはジャルコではなく、迫るサーベルに向かって呪文を放った。爆発がジャルコの剣の動きを一瞬だけ止め、その隙にソアラは全力で眼下の森へと飛び込んでいった。
「空中じゃ勝てない___」
ジャルコを森に引きずり込まなくてはいけない。地に降りたソアラは枝葉の影から彼の様子を伺いつつ、木々の狭間を動いた。
「ふん、もう怖じ気づいたか?」
ジャルコは森を見下ろすが追うことはせず、空からソアラを捜すわけでもない。サーベルを鞘に収めて薄笑いを湛える。口元にしっかりと畳まれる皺が印象的。
「少し脅かしてやるか___」
その皺は彼の経験を物語る。歴戦の猛者にしてみればソアラの行動は稚拙だった。
「降りてこない___?」
空にとどまるジャルコを見上げ、ソアラは訝しげに呟いた。卑怯だということはそれだけ計算高いということ。とにかく短絡的に男を殺し、女を手込めにするだけがジャルコではない。戦い方は冷静でそつがなく、相手を慌てさせる術に長ける。
「ソアラ!隠れるなんて無意味だぜ!」
今もだ。人の誘いには乗らず、裏を突いて驚かせる。
「呪文!?」
ソアラはジャルコの両手に満たされた夥しい魔力に息を飲んだ。
「エクスプラディール!!」
激烈な輝きを放つ光弾がジャルコの手から大地に向かって放たれた。今まで感じたことがないほど強烈な魔力の波が森を駆け抜け、ソアラは足先から頭まで寒気が抜けるのを感じる。慌てて竜の力を呼び覚まし、黄金に輝きながら空へと飛び上がった。
カッ!!
光弾は大地に激突した瞬間に大きく弾け、波動の円を広げていく。そしてその円が最大になった途端夥しい魔力とともに光を吹き上げ、とてつもない大爆発を巻き起こした。
最上級の爆発呪文エクスプラディール。ミロルグがゴルガの街を半分吹き飛ばしたほどの威力ではなかったが、最も破壊力の高い呪文の一つであることには変わりない。
「こ、こんな呪文を使うの___!?」
上空に難を逃れたソアラは目映い光と突風を浴びる。魔力の熟練度はかなり高いつもりでいたが、彼女はまだこの呪文を使えない。ソアラは黄金の輝きを携えながら、微かに震えていた。
「!」
竜の使いの力を発揮するとソアラの感覚はより一層鋭敏になる。背後に邪悪を感じ、彼女は我に返った。
「くるっ!」
「なにっ?」
爆煙の中から飛び出したジャルコはソアラの背後を取ったつもりだった。しかし彼女は正面でジャルコを出迎え、そればかりか計ったような拳が空を切ったジャルコのサーベルを叩き折っていた。
「いつまでもやられてばかりだと思うな!」
「ちっ!」
ソアラの掌からドラゴフレイムの炎が放たれる。ジャルコは折れたサーベルを投げつけ、俊敏な動作でソアラから離れた。
(なるほど___短い間にこれだけ変わればアヌビスもおもしろがるわけだ。)
竜の使いの潜在能力の高さを実感してもなお、ジャルコは勝利の自信に溢れている。
「倒す!」
ソアラはここぞとばかりに攻撃に出た。ジャルコの姿を捉えて一気に接近し、光を纏った拳で殴りにかかる。だがジャルコは小気味よい動きで攻撃を掠らせもしない。
「ほらほらどうした?」
空中でのソアラの動きは細やかさに欠け、本来のスピードと技術を発揮できない。ジャルコはソアラの動き出しだけに注意していれば避けるのは簡単だった。
(一撃でも当たれば___)
当てるには工夫が必要。そう、例えば___
「ストームブリザード!」
「!」
エクスプラディールの熱が巻き上げた湿気が一気に冷却され、ジャルコを囲むように氷の壁が生まれる。ソアラは逃げ場を失ったジャルコに向かって、すぐさま渾身の拳を放った。
ガンッ!
拳はジャルコが翻したマント、その向こうの何かに阻まれた。
「!」
それは血の器。ジャルコは片手に握った血の器でソアラの拳を受け止めていた。そして逆の手には短刀を煌めかせていた。
シュッ!
短刀は空を切った。一瞬の間にソアラはジャルコから大きく離れていた。空を彷徨う爆煙が風に運ばれて消えていく。円形に露出した大地の上空、ここでようやく二人の動きが止まった。
「ククッ、いい盾だろ。」
ジャルコは血の器を掲げ、日の光に翳す。ソアラにまともに殴られたというのにひび一つは入らない杯、やはり不気味だ。
「それにしても思った以上に腕を上げたな。ここまでまともにやり合えるとは思わなかったぜ。」
ジャルコには似合わない清々しい台詞だが、ソアラはむしろ不気味だった。
「それを言いたいのはあたしの方だ___」
竜の使いについて理解しつつあったから余計に、このジャルコの強さが不思議だ。
「魔族が竜の使いとここまで互角にやれるのか?」
メリウステスは圧倒した。ライディアは竜の使いだから互角。だがジャルコはただの魔族だというのにこの強さはいったい何だ___?
しかしソアラの疑問をよそに、ジャルコは声を上げてせせら笑っていた。
「クハハハ___貴様は竜の使いという名前に頼りすぎているらしいな。たとえ将軍の名を駆ろうとも弱いやつは弱い。俺が強いんじゃねえさ___おまえが弱いんだよ!」
ジャルコの掌が輝き、魔力が波動となってソアラを襲う。ソアラは高々と舞い上がってジャルコに向けてディオプラドを連発した。だがジャルコはその網をかいくぐって一気にソアラとの距離を詰めてくる。ジャルコの拳とソアラの掌がぶつかった。
「えっ!?」
しかし今までとは様子が違う。こうなることを予測していたジャルコは逆の手でソアラの手首を掴み、確信の笑みを見せた。
「カァァァッ!!」
「うあっ!?ああああっ!!」
突如ソアラの目に異常な激痛が走った。一瞬のうちにそれはすべての感覚器官から、肺、頭に広がっていく。顔が、喉が、頭が引き裂かれるように痛い。
「うああっうああああ!」
宙で喘ぐソアラの髪が紫へと豹変した。
「おらっ!」
苦しみ悶えるソアラをジャルコは力任せに大地に向かって投げつけた。風をぶち抜いて落下するソアラだが、必死の思いで下方にディオプラドを放つ。光は空中で爆発し、ソアラの勢いを少しだけ殺した。
ダンッ!
「___っは!かっ、がはっ!___ぁぁぁぁぁっ!!」
大地に叩きつけられたソアラの息が詰まる。だが呼吸はすぐに戻った、問題なのは顔中を埋め尽くす痛みの方だ。ジャルコが口を開いた瞬間までは記憶にあるが、それから全てが真っ暗になり、痛みだけに支配されてしまった。
「ぁぁ___!」
叫びたいが喉が焼け付くようで掠れた悲鳴しか出ない。内蔵が飛び出しそうなほどに口を開け、顔を掻きむしるように押さえて裸の大地をのたうち回る。
そこにジャルコがゆっくりと降りてきた。
「バーニングミスト。粘膜に焼き付け、あらゆる感覚機能を著しく低下させ、残存する激痛を引き起こす。俺の奥の手だ。」
ジャルコの口元から赤い煙が僅かに昇る。ほかでもないこの煙の源、ジャルコの咽の奥底より吹き出された毒霧がソアラを焼いたのだ。魔族だからという先入観は口からの攻撃など想像させはしない。ジャルコらしい奥の手だった。
「っぅうっ___」
ジャルコは顔を押さえたままうつぶせで震えているソアラの側に立つ。だがソアラにはそれすら分からない。視界は勿論、音や臭い、口の中の感覚、全てが圧倒的な痛みに消し去られてしまう。顔の内側に酸を打たれたかと思うほどだった。
「がっ!!」
今度は背中に重い痛み。ジャルコが彼女の背をきつく踏みつけた痛みだった。ソアラはようやく彼が近くいることを知る。
「痛いか?情けねえ竜の使いだなぁ。俺の不意打ち食らってもうこの様だ。」
「___く___たれ___」
「くそったれ?苦しみから絞り出した言葉がそれか?」
ジャルコは高らかに笑う。ソアラは踏みつける足の形、向きからジャルコのいる場所を推測し、うつぶせのまま呪文を放った。
「うおっ!?」
一瞬背が軽くなったが___
バキバキッ!!
たった今呪文を放ったばかりの掌に、鉄の塊でも落ちたかのような激痛。骨の砕ける痛みが全身の痛みに上乗せされる。
「___!」
「一瞬期待したろ。」
これでも保たれてしまっている意識が恨めしい。再び背中に足が乗せられると、ソアラの汗ばんだ体からは痛むことに疲れたかのように抵抗が消えた。
「もう気力も失せたか。無理もねえよなぁ、何も見えねえ、何もわからねえ、何もできねえ、しかも側には俺がいる。どうしようもねえな。」
横腹に足をねじ込まれ、ソアラの体が仰向けにひっくり返る。彼女の顔は少し赤み帯びているだけでいつもと変わらない。しかし双眼はしっかりと閉じられ、鼻での呼吸が苦しいのだろう、口を開けて必死に荒く息をしている。
「あの息をまともにかぶっちまったら失明は当然だ。臭覚も危ねえな。だが他の感覚は時間をかけりゃあ戻る。とりあえず何も感じないってのは寂しいだろ?」
胸が踏みつけられている。ジャルコの言葉は何となく聞き取れていたが、聞こえずともこの先どうなるかは分かっていた。そして心はすでに覚悟を決めていた。
好きにすればいい___どうせなら無抵抗と無反応を決め込んでやる。
「さて、楽しませろよ。」
惨めだ。勝手に飛び出して、ミキャックが止めるのも聞かずに深追いして、負けた。
思い知らされてからじゃ遅い。
(あなたの言うとおりだったね___ミキャック。)
自分が愚かすぎて涙も出ない。弱い奴は弱いとは、ジャルコもうまいことを言う。
(あたしは竜の使いであることに頼りすぎていた___あたし一人ではどうにもならないって分かっていたのに、竜神帝の前であんなに優等生な答えを口にしたのに___)
服の内側に手が入り込んでいる。残存する痛みの中では不快とは言い難かった。
(せめてみんなに謝りたい___レミウィスに、ミキャックに、百鬼に___)
枯れかけていた涙が、しっかりと閉じた瞼の下からほんの一滴しみ出してくる。
そのときだった。
「呪拳!ウインドランス!!」
「おぉっ!?」
ソアラには景色が見えない。だがそこで起こっている状況は分かった。
苦悶を切り裂いて空から一直線にジャルコに向かっていったミキャックの拳は、ソアラで遊ぶことに夢中になっていた小男を深々と捕らえていた。拳との衝突点から体の内側を走り抜けるように真空渦が巻き起こり、ジャルコの体を大きくはじき飛ばした。
「ソアラ!」
ミキャックはソアラを抱き起こし、二人の前には男性天族たちが立ちはだかる。
「ここは我々が!一刻も早く城にお戻り下さい!」
「すまない___」
ミキャックに躊躇はなかった。その翼を大きく広げてソアラを包み、手にはあの髪飾りを握りしめた。クリスタルの一かけは栄光の城に残してある。
「天の恩恵を受けし神器よ、我を導け!」
ミキャックが呪文を叫ぶと髪飾りは白い輝きを発して二人の体を包み込む。そして無数のきらめきを残してその姿を戦場から消した。
「ちっ___逃がした魚はでかいか___」
ソアラのいた場所に戻ってきたジャルコは体を内側から引き裂かれ、全裸を血で染めていた。ミキャックの呪拳の威力を良く知っている天族たちは、その生命力にギョッとしながらもジャルコを睨み付ける。
「あの羽女、美人だったな。タッパもあって胸もでかかった___気に入ったぜ。」
ジャルコが大地を蹴った。
「___?」
二人の天族はまだ現実を理解できていない。転がった首で、血を噴き出している自分の胴を見ていた。
聖杯を奪い返すこともできず、この戦いが生んだものは限りなく無に等しい。ソアラの暴走は、戒めと犠牲しか生まなかったのである。
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