２　竜の咆吼

　「やるぞ＿＿＿絶対にやってやる＿＿＿」
　ライディアはゾヴィス湖畔で幻影を貫いて城に飛び込んでいく天族の姿を見上げていた。光の眩しさに少し顔を顰める。
　「それにしてもアヌビス様は何で聖杯なんてものをほしがるんだろう＿＿＿？」
　栄光の城では目立つであろう黒服から、彼女の服は純白へと変わっていた。仮にも竜の使いであるのだから、気配に関してはそこそこごまかしが利くはず＿＿＿ただ竜神帝だけは本能が怖がっていた。
　「竜神帝の眼をかいくぐれるのだろうか＿＿＿」
　『案ずるな。おまえには私がついている＿＿＿』
　まただ。自分を本当の竜の使いにしてくれたあの女性の声。だが、ライディアはその声を聞くとなぜかとってもリラックスできた。
　「そうだね、心配いらないさ。今のあたしには失うものなんて無い＿＿＿あとは自分の幸福を一つ一つ手に入れていくだけだ！」
　ライディアは飛んだ。低空で、幻影のきわから入り込むことを目指し。
　「帝、一つだけ聞かせてもらえますか？」
　レミウィスは聖杯をさらに詳しく調べるため、そしてこの事実を皆にも伝えるために早々と竜神帝の前から姿を消していた。再び謁見の間には幻影の帝とソアラだけになる。
　「なんだ？」
　ソアラのあまりにも真剣な眼差し。その凛々しさだけで竜神帝には彼女が何を言おうとしているか察しがついた。
　「私自身のことです。」
　「やはりか。」
　竜神帝は深みのある声で言った。
　「先ず何が知りたいのだ？おまえの素性か？両親か？生い立ちか？」
　矢継ぎ早に言われたせいか、ソアラは言葉を返せなかった。すると帝は＿＿＿
　「何よりおまえは本当に知りたいのか？」
　「え＿＿＿」
　なぜかしら、肯定も否定もできなかった。そしてソアラは己が真実を知ることに躊躇しているのだと思い知らされる。たとえ竜の使いであるという認識を持とうとも、真実に対し拭いきれない恐怖心、嫌悪感を抱いているのだと。
　「真実を知ることへのおまえの怯えは分かっている。そしておまえはそれによって自分の意欲、決意までもが削げ落ちてしまうのではないかと恐れてもいる。」
　一言一言が神髄を剔ってくる。
　「もう一度聞く。おまえは本当に真実を知りたいのか？」
　「帝。」
　ソアラは不安を払拭するかのように強く言った。奥深き紫色の瞳で帝の幻影を見つめる。竜の使いにしても異色なその瞳に、帝でさえもが神秘を感じたことなどソアラは知るよしもない。
　「私はこの世で物心ついたときから自分の真実を知ることを目標としてきました。それは今でも変わりませんし、真実を知ることに恐れはありません。ただ＿＿＿自分がそれを生き甲斐としてきたのなら、意欲の低下に見舞われるかも知れません。」
　ソアラは毅然と、強く訴えるようにその手を胸に宛う。
　「ですが、私はそこまで弱い女ではありません。」
　百鬼が聞いたらなんと思っただろう。彼女が自分のことを強いと言ったのは初めてのこと。ソアラは強靱なようで脆く、弱気な側面を持っていた。思い悩み、何度百鬼やフローラに慰められたか分からない。
　私はそこまで強くないわ＿＿＿
　そんな言葉をどれほど口にしたことか。
　しかしそれは甘えに過ぎない。弱者でいることで逃げていたに過ぎない。竜神帝を前に、自我と主張を保つソアラ。成長の跡はありありだった。
　「しかし今は私が全てを知るときではないとも思います。ですからこうしてくださいませんか？全てはアヌビスに勝利したご褒美ということに。」
　「後悔はしないのか？生きて帰れるとは限らないぞ。」
　「生きて帰りますよ。絶対に＿＿＿紫色のままでね。」
　もはや色に引け目を感じることなど無くなったのだろう。彼女は自分の髪と瞳を美しく、そして神秘的に飾り付ける「彩り」に誇りを憶えていたに違いない。

　一方その頃、ライディアは栄光の城への潜入に成功していた。
　正面にはミキャックがいたので気配を殺しながら死角へと回り込み、無人だった部屋の窓をみつけてそこから侵入した。しかしこれからが大変だ。なにしろ自分はあまりにも有名すぎる。ジャルコならばその顔を知っているのはソアラだけだが、ライディアはすでに皆への自己紹介をすませており、レミウィス、リュカ、ルディー、スレイを除いた全員に顔を知られている。この状態で聖杯をさりげなく盗むというのはなかなか厳しい。
　「救いは聖杯を持っているらしい＿＿＿レミウィスとかいう女と初対面なことか。」
　付け入る隙があるのならそこだ。レミウィスのことはグルーから聞き及んでいる。隙をついてこっそり盗むか、それとも一人のところを力尽くで奪い取るか。どちらにせよあまり派手にはやりたくなかった。なにしろここは敵の本丸だ。
　「牢獄に盗みに入る気分よ、全く＿＿＿」
　正直生きた心地はしないが、聖杯を手に入れられなければまた生きた心地がしない。
　「もし失敗したらどうしよう＿＿＿」
　物陰に隠れながらまだ人の少ない城を探るライディア。心中には弱気の虫が顔を出していた。
　「アヌビス様は許してくれるだろうか＿＿＿でも、またジャルコのやつに＿＿＿」
　ジャルコが憎い。あの男の顔は二度と見たくない。でもヘル・ジャッカルに戻れば見ることになる。そして奴は淫猥な薄笑いを浮かべるに違いなかった。
　「もし本当に追いつめられたらあたしは逃げ出すだろう＿＿＿ラングは＿＿＿あたしのことなんかどうでもいいはず。恋人同士みたいにしてくれても、いつも私の独りよがりだった＿＿＿」
　寂しいものだなぁ＿＿＿
　ふとソアラとミキャックが楽しげに会話をしていたのを思い出す。
　「仲間か＿＿＿」
　そして自分もそのソアラと、ヘルジャッカルで何度か楽しい一時を過ごした。あれはあれで本当に楽しかった。こういう立場でなければいい友達になれたのかも知れない。何より、今や唯一の同族。
　憧れはあったはずだ。
　「あ＿＿＿あれ使える。」
　ライディアは城の天井に風の抜ける穴を見つけた。金網で塞いであるが通気口のようだ。人目を気にしながら金網を壊して通気口へと侵入する。暗くて狭い道だが先々には下から明かりの差し込むところもある。どうやら各部屋に続いているようだった。
　「もし逃げたとして、一人でアヌビス様から逃げ切れるのかな＿＿＿」
　不可能だ。あの方は絶対だもの。
　「こういうときよりどころがない女って惨めね＿＿＿」
　酷く感傷的になっている。ジャルコに無理に抱かれたから？それもあるが＿＿＿自分の人生に嫌気がさしてきたのが本音だ。たとえアヌビスのために、ラングのために頑張っても、何をしても報われないことが嫌になっていた。
　「きっと世の中にはもっと辛い道を歩んだ人もいる。あのミキャックもきっと熾烈な道を歩んできた＿＿＿目にそれが出てる。」
　目の形じゃない、目線の作りだ。なにしろ顔には人の生き様が現れる。
　「あたしの人生ってなんだったのかなぁ＿＿＿」
　偉大な赤竜の娘に生まれ、エリートとして幼少時代を優雅に生き抜く。しかし両親の死に周囲は一変。魔族にしては甘やかされて育った高飛車な幼児に、差し伸べられる手があるはずもない。
　どうすれば自分を認めさせられる？どうすれば言葉を分かち合える？
　そこで支配の道を選んだのが失敗だった。
　強さを磨き戦果を上げる。その実力を知らしめる。だがそれでも憧れの男には届かなかった。苦しみを覚悟の上で、父からもらったドラゴンの力、母からもらった魔族の誇りを捨て、彼女はより強くなるために竜の使いに。
　しかしそれでもソアラに勝てなかった。
　ラングを振り向かせることが出来なかった。
　何が間違っていたのだろう。
　力に頼っていたことだろうか？
　考えても答えは見つからない。助言をもらえる人もいない。幸せなんてこれっぽっちも掴んだ気はしないのに、苦しみや不幸ばかりは嫌というほどやってくる。力でつかみ取った見せかけの幸せなんて、一皮むけば不幸に変わってしまう。
　でも＿＿＿
　そんなの今頃分かっても遅いのよ。
　「今は聖杯を探す。」
　もう一度気持ちを切り替えて、彼女は狭い通気口をほふく前進した。
　「どっちだろう＿＿＿」
　通気口は幾つにも枝分かれし、城の一階層を網羅しているようだ。たびたび現れる分岐点のたびにライディアは選択を迫られていた。
　「＿＿＿」
　深いことは考えない。勘を頼りに進む。
　「それにしても聖杯がそんな厄介なものだったとはなぁ＿＿＿」
　「アヌビスが狙ってくるわけだよね。」
　下から光が射し込むところ、恐らく何かの部屋だろう。そこから声が聞こえてきた。ライディアは物音を立てないように進み、金網の下の部屋を覗き見た。部屋ではライ、百鬼、サザビーが語らっていた。
　「しかしなぁ、六つのリングといい、四つの均整といい、今回もまた守りながら攻める形になりそうだな。」
　サザビーが煙草の煙を吐き出す。白い澱みは通気口へと吸い込まれていった。
　「う＿＿＿」
　慣れない臭いにライディアは顔をしかめた。咽が詰まって咳き込みそうになり、慌てて金網を通り越して通気口を奥へと進んでいった。
　「ん？」
　「どうした？」
　ライが天井を見上げる。
　「いや、何か音がしたような＿＿＿」
　「ネズミかなんかだろ。」
　「そんなのいるのか？」
　しかしそこで天井の話題は終わった。ライディアはホッとしてまた進み始める。
　「聖杯が厄介なもの＿＿＿どういうことなんだ？」
　ライディアは不可思議に思い首を傾げた。
　「それじゃあソアラ＿＿＿」
　今度は女の声だ。ライディアはまた金網に近づく。どうやらこのあたりが奴らが寝泊まりをしている部屋らしい。
　「もしも血の器もあなたもアヌビスの手に渡ってしまったら＿＿＿」
　ライディアに緊張が走る。部屋にいたのは確かフローラという名の女と、ソアラだ。ソアラの「感」の鋭さは良く知っている。ちょっとでも下手な真似をすれば気づかれる可能性は大きい。
　「アヌビスは間違いなく血の器に宿るリツィラスの力を消して、私の力を奪い取ると思うわ。」
　血の器？リツィラス？力を奪う？何のことだ？
　「そんなことになったらもうアヌビスは＿＿＿」
　「ただでさえ手強すぎる相手がさらに強くなるのよ。あたしたちじゃどうにもならなくなるかもね。いや、今だって時を止められたらどうにもならないけど。」
　アヌビス様が強くなる？どういうこと？
　「いっそ聖杯を破壊するわけにはいかないの？」
　「リツィラスの命を奪うというならあたしはやりたくないわ。」
　聖杯を破壊する？なんで？
　「最悪の時に備えて、自殺の仕方でも考えておこうかしら。」
　「ソアラ！」
　「ゴメンゴメン、悪い冗談ね。」
　ライディアは会話の内容が気になってその場でじっとしていた。聖杯について無知な自分にとっては恰好の話題だったのだ。
　「ねえソアラ＿＿＿」
　フローラが紅茶を入れ始めたので会話がとぎれ、ライディアもそろそろ行こうかと思ったとき。
　「ライディアはそのことを知っていたのかしら。」
　そのこと？＿＿＿自分の話題は影からこっそりとでも耳にしておきたいものだ。フローラがその名を口に出すとライディアは踏みとどまった。
　「＿＿＿知らなかったと思うよ。試してもいないんじゃないかしら。」
　どのこと？
　「確かに彼女はアヌビスに忠実だけど、自分をとても大事にしていたと思うし。」
　そうでもないよ。
　「もしアヌビスが実験をしたとしたら＿＿＿ライディアは竜の使いになることを持ちかけてきた彼を憎むと思うわ。間違っても八柱神なんかになってないと思う。」
　え？
　ライディアに不安がよぎる。会話の雲行きが怪しい。いったい彼女たちは自分の知らない何を知っているというのだろう？
　「ただ試す気持ちはあったと思う。もしあたしがライディアにやられていれば、彼女が血の器の犠牲になっていたと思う。それが骸を差し出すってことなんだと思うし。」
　ライディアは気配を押さえることも忘れていた。自分のことも、アヌビスのこともたいして知らない第三者が意味深なことを口にしている。だがそれだけ余計に不気味だった。
　「？」
　ソアラが上を向いた。ライディアはハッとして身を縮める。嫌な汗が額に滲んでいた。早くこの場を離れたい。
　「ところで、レミウィスは聖杯をどうしてるの？」
　ソアラは香り立つフローラの紅茶を口にしてから訊ねた。
　「自分の部屋で調べているみたいよ。」
　「二つ向こうだったよね＿＿＿まあ何かがあれば分かりそうな距離か。」
　「そういうのを油断っていうのよ。」
　二つ向こう。
　それを耳にするなりライディアは困惑のままに突き進んだ。何はともあれ聖杯を手に入れたい。そしてそれを持ってアヌビスの元に帰り、今の会話の意味を問いただしたかった。

　「リツィラス＿＿＿ああこの人か。」
　レミウィスは聖杯をテーブルの上に載せ、一冊の本を広げていた。栄光の城には書庫があり、たくさんの天界にまつわる書物が貯蔵されていた。もちろん簡単には入り込めない幻影のからくりつきで、レミウィスも竜神帝に教わるまではその存在に気づかなかった。
　彼女が熱心に見つめているのは記録。竜神帝が竜の使いについて書き綴ったものの複製版だ。
　「リツィラス・リュイン・マグファーネル＿＿＿」
　知りたかったのはその人物のこと。彼女の親族の名が記されていたから調べようと思えばソアラの由来も知ることができた。だがそれにはあえて目を向けないことにする。ソアラよりも先に知ってしまうのはあまりに無礼だと感じたから。
　「彼女の血筋なんてどうでもいい、重要なのは＿＿＿」
　内容は記録というよりも読み物に近い。リツィラスの歴史が竜神帝の感情を交えて克明に記されている。
　「最後のほうか＿＿＿」
　血の器に関する部分を探し、レミウィスはページを捲っていく。古びた本は少ししっとりとして、ところにより文字も掠れていた。
　「＿＿＿」
　それらしい部分を見つけ、楽な姿勢で読もうとしたレミウィスはベッドに移動した。聖杯が視界から外れることがないようにと、煌びやかな器を腕に抱くことを忘れない。
　「くそ＿＿＿」
　天井でその様子を見ていたライディアは心の中で舌打ちをしていた。
　「これじゃあ穏便にって訳にいかないじゃない＿＿＿トイレに行ったところを＿＿＿いや、きっと持っていくな。」
　どうしたものか＿＿＿目の前に獲物があるというのに。
　「我慢するしかないか＿＿＿」
　物音をたてないように長い緊張を保ち続けるのは酷なこと。自分が我慢の限界に来るのはそう遠くはないだろうとライディアは自覚していた。
　三十分が経過した。すっかり読み耽っていたレミウィスだったが、実に興味深いくだりを見つけて聖杯を抱く腕にも力がこもる。
　「これは＿＿＿」
　閃くのには時間が掛かった。その部分を読み過ごして少し進み、またページを戻っていた。
　「命を以て血の器を聖なる杯へと変える、悲しき偉業を彼女は成し遂げた。彼女の最後の力は杯に加護を与え、邪を砕き聖を守る。その力が潰えぬうちに、私は神殿の建設を命じた。」
　そこから竜神帝のリツィラスに対する思いが綴られ、問題はその後だ。
　「リツィラスの亡骸が無くなったのはあまりにも奇妙なことだ。彼女は魂こそ失ったが、遺体は尊き象徴として残されるはずだった。しかしそこには邪悪な感触だけが残され、彼女の遺体は消えてなくなっていたという。どうやら血の器を取り返そうとリツィラスを追ってきた魔の者が、彼女を奪い去ったというのである。嘆かわしいことだ＿＿＿」
　アヌビスの手に渡った竜の使いの亡骸。生命こそ無いが、その血は、資質は、体に残っていた＿＿＿そんなことがあるだろうか？あったのだろう。そうでなければライディアが竜の使いになれるはずはない。
　レミウィスが一つの確信を得たとき、天井のライディアも我慢の限界に達していた。
　ガチャ。
　「え？」
　うつぶせに肘を立てて読書していたレミウィスは、金属音に体を捻って上を向いた。金網を外してこちらを見ていたライディアに、顔つきは変えられても声は出なかった。
　「エスタクラウディア。」
　ライディアの瞳が鈍い光を放つ。乱れることのない真円がレミウィスの視界に広がり、脳裏が真っ暗になっていく。微睡みではない深い眠り。エルクローゼの上を行く催眠呪文。
　「残念だったわね。」
　ライディアの手が聖杯に掛かるのをぼやけた視界で見たレミウィス。抵抗しなければいけない。今できる最低限のことは＿＿＿呪文で大きな音を立てること！
　「マグナカルタ。」
　絶望的。魔力が封じ込まれる感覚に続き、彼女の意識も途絶えた。
　「危ない危ない。」
　意識を失っても聖杯はその手に抱かれている。ライディアは慎重にそれを取り上げた。　「とりあえず成功か。来た道を戻れば任務終了ね。」
　人生については後から考えればいい。とにかく生きる道を手にすることに成功したライディアは素直に喜んだ。
　「ふぅん、これが＿＿＿」
　聖杯をしっかりと両手で持って目線の高さに掲げてみせる。さて戻ろうかというそのとき、ライディアの体に異変が生じた。
　「！？」
　ゾクゾクッ！！
　全身を寒気が駆けめぐり、突如とてつもない不快感に襲われる。耳の奥底で無数の言霊が不協和音を奏で、腹の中を捻られているかのような不愉快さに彼女は蹲ってしまった。
　「な、何だこれ＿＿＿！？」
　酷い頭痛、吐き気がする。まるで強い毒素を浴びせられているかのようだった。原因は＿＿＿間違いない、聖杯だ。彼女の手元で聖杯は輝いている。ぼんやりと、少し赤み帯びた毒々しい光を放って。
　「うう＿＿＿苦しい＿＿＿苦しいよ＿＿＿！」
　顔を床に擦り着けるほどに喘ぎながら、ライディアはそれでも聖杯だけは離すまいとする。すると＿＿＿
　『私を離しなさい！でなければ息絶えてしまいます！』
　誰の声かはよく分からなかったが、酷く懐かしい、はじめて聞いた気がしない声だった。
　「うああああっ！！」
　カン！カカーンッ！
　ライディアは弾き飛ばすような勢いで聖杯を突っぱねた。杯は床や壁に跳ね返って甲高い音を上げる。そしてライディアは崩れた汗だくの体を四つん這いに起こし、消えかけた意識を呼び戻そうと何度か首を振った。まだ頭痛と吐き気、腹の辺りの不快感が残っている。
　「レミウィス！レミウィス！？どうしたの！何かあったの！？」
　最悪だ。ソアラの声とともに何度もドアが強くノックされる。
　（通気口、いや、すぐに追いつかれる！）
　侵入口を一瞥して、ライディアは決心を固めた。
　「レミウィス、開けるよ！！」
　ソアラがドアノブに手をかけた瞬間、内側からドアを突き破って強力な爆発呪文が飛び出した。凄まじい光と粉塵がその場にいたソアラとフローラを飲み込む。そしてその中から聖杯を片手に握りしめたライディアが駆け抜けていった。
　「どうした！？お、おいソアラ、フローラ大丈夫か！？」
　轟音を耳にした百鬼たちが慌てて部屋から飛び出してくる。
　「う、うぷ＿＿＿」
　わき起こる嗚咽。口元に手をあてながら、ライディアは全力で走る。どこだかも分からない出口に向かってとにかく疾走した。
　『およしなさい！あなたが私に触れることはできないのです！』
　また声がする。
　「できなくたってやんなきゃならないのよ！」
　『私は竜の使いの汚れを浄化します！魔族でありながら竜の使いでもあるあなたは、その魔族の部分を杯が浄化しようとしてしまうのです！それはつまりあなたの生命を、竜の使いでない部分を消し去ると言うことなのですよ！？』
　この危機的状況。ライディアの体を支配する嫌悪感。声の主が何かを諭したところで彼女の耳にはこれっぽっちも届かない。
　「うるさいっ！ごちゃごちゃ言うな！」
　『死んでも良いというのですか！？』
　「あんたを持って帰らなかったらどうせ命なんてない！」
　ライディアは自分が「あんた」といったことに気がついていない。彼女がいま言葉を交わしているのは聖杯。無意識がそれを知っていた。
　「くそっ！」
　ライディアは追いつかれる前に一つの部屋に飛び込んだ。
　「きゃっ！」
　「邪魔だ！」
　部屋には一人の天族がいたが、ライディアは鬼のような形相で輝く手刀を振るい、あっさりとその首を切り落とした。真っ白の装束が血の赤で染まる。そして辛苦の表情で聖杯を床に置き、手を離した。そうすると漸く呼吸が落ち着いてはきた＿＿＿しかし体力の消耗は信じられないほど激しい。ドッと疲労感が押し寄せてきた。
　「ライディアが無事だったなんて＿＿＿」
　「どっちだ！」
　「こっち、きっとこっちよ！」
　ソアラたちの声がする。もうすぐそこの廊下まで来ているようだ。だがせめて息を整えてから動きたい、聖杯を持つことがこんなに苦しいのでは休み休み逃げなければ。
　「！？」
　だが偶然はライディアに味方しない。一瞬で殺めるにももう少しやり方があったはずだが、先ほどの彼女にそんな余裕はなかった。部屋の床は血であふれかえり、それはドアの隙間を抜けて廊下へと流れ出していた。
　「こうなったら！」
　外で血を見つけた声がする。そのときライディアは竜の力を全開にして部屋の壁へと掌を向けていた。
　「ライディア！」
　ドアを開けて踏み込もうとしたソアラは、前方からのし掛かってきた圧力に向かいの壁まで押し返された。部屋の中でライディアは光り輝き、掌には圧力の源が満たされていた。
　「竜波動！」
　部屋中が黒い霧に包まれる。波動は壁を貫き、幻影までも蹴散らして外の青空へと広がっていった。
　「やった！」
　ライディアは再び聖杯をとって外へと飛び出した。しかしそこで彼女の動きが止まる。
　「え？」
　空中で急停止し、彼女は聖杯を見つめた。先程までの気持ち悪さはどこに行ったのだろうか、聖杯を手にしている彼女に辛辣な顔はない。だが一方の聖杯は輝きを失い、くすんだ灰色の器に変わり果てていた。
　「なんなのそれ＿＿＿」
　ライディアは聖杯を見つめたまま、茫然として呟いた。
　「ライディア！」
　「まってください、何か様子がおかしい。」
　竜波動の開けた大穴から外に飛び出そうとしたソアラを棕櫚が制する。
　「本当なの？＿＿＿リツィラス。」
　口をついたリツィラスの名。ライディアはぐっと奥歯を噛みしめた。口惜しさに溢れた表情だった。
　「何？何が起こったの＿＿＿？」
　ライディアに逃げる気配がないことにソアラは怪訝そうな顔をする。
　「恐らく＿＿＿」
　フローラに肩を借りながらレミウィスがその場へとやってきた。
　「彼女は真実を知ったのでしょう。」
　「真実？」
　と、サザビー。
　「そうです。聖杯に秘められた事実と、彼女自身がリツィラスの生まれ変わりであることを。」
　「！！」
　「それじゃあまさか！ライディアの竜の力って！」
　レミウィスは頷いた。
　「リツィラスのものでしょう。そしてソアラが聖杯の声を聞いたように、彼女も聞いたのではないですか？リツィラスから血の器の真実を。」
　ソアラは言葉を失った。竜神帝から血の器の効果を聞いたときでさえショックだったというのに、ライディアの心持ちを考えると慰めの言葉さえ意味がないように思えた。
　「フフフ＿＿＿ハハハハハハッ！！」
　鬼気迫る笑い声が空に木霊する。
　「あたしはなんて馬鹿だ！こいつがそんなものだとも知らずに＿＿＿そうか、実験っていうのはそういうことか＿＿＿あたしはアヌビスの保険だったのか！」
　皆はライディアの目尻に光るものを見た。事実彼女の衝撃は大きかった。一瞬にして全てを理解できたのは他でもない、リツィラスが聖杯を捨ててその命をライディアに移したからだった。聖杯の浄化の力はリツィラスの命の力、それがライディアを苦しめていた。だから彼女はライディアを救う道を選んだのだ。一瞬の転移はライディアにリツィラスの思いを伝え、同時に聖杯を血の器へと戻していた。
　そんなことができたのは、ライディアの竜の力が元はといえばリツィラスのものだからに他ならない。
　「ハハハッ！ハハハハ＿＿＿＿＿＿ああああああああ！！」
　ライディアは絶叫した。天を仰ぎ、髪を振り乱し、涙を迸らせて。
　信頼していた者から裏切られた。ずっと昔から利用され続けていた。口惜しいだろう。
　所詮彼女はアヌビスのモルモット。その気がなければ、力を植え付けるときに真実を語るべきだ。そして＿＿＿ラングがこれを知らなかったとも思えない。
　「＿＿＿だからラングは同情であたしに付き合ってくれたのか。どうせあたしは試されて死ぬだけの女だから＿＿＿！」
　怒りの後、ライディアは嘆きに染まる。溢れ出る涙を抑えきれず空で号泣していた。
　「哀れか＿＿＿あたしも同情できる身分になってたんだな。」
　ミキャックも皆と違う場所でその様子を見ていた。心なしか、日の光にも影が差している気がした。
　「ライディア＿＿＿」
　ソアラがゆっくりと浮遊してライディアに近寄る。
　「ソアラ＿＿＿」
　目を真っ赤にしたライディアの表情は疲れ切っていた。もはや戦意も敵意もこれっぽっちもない。
　「それを渡してもらえる？」
　「＿＿＿」
　慰めの言葉は彼女を傷つけるだけ。ソアラは率直に要求した。
　「＿＿＿」
　暫く躊躇していたライディアだったが、無言で杯を差しだそうとする＿＿＿が！
　「え＿＿＿」
　突然だった。
　「！」
　あまりの衝撃的な出来事にソアラは絶句する。それは皆も同じだった。
　「ご苦労さん。」
　背後から伸びてきた汚れた男の手が、ライディアの手から血の器を奪う。逆の手はいとも簡単にライディアの鳩尾を背から貫いていた。血しぶきがソアラをも染め、ゾヴィスに赤い雨を落とす。
　「ぁ＿＿＿」
　ジャルコがライディアを殺した。
　腕から抜け落ちた体は重力に任せて落ちていき、ジャルコは飛び去っていく。
　この場はジャルコを追わなければいけない。誰もが分かっていたがソアラの選択は違っていた。
　「ライディアァァッ！！」
　「ソアラ！あの男を追いなさい！」
　「いやよ！！」
　レミウィスの叫びも聞かずソアラは竜の力を剥き出しにして、落下するライディアを追い越し、その体を受け止めた。ジャルコはすでに見えなくなっていた。
　「ライディア、ライディア！」
　仮にも同族が目の前で息絶えようとしている。放っておけるわけがなかった。
　「ごめんね＿＿＿ごめんねソアラ＿＿＿」
　ライディアはソアラに抱かれ、嬉しさと悲しさの同居したような笑みを見せる。そして枯れ果てようとしている声を絞り出し、詫びの言葉を口にした。
　「ライディア！せっかく、せっかく本当のことが分かったんじゃない！これからでしょ！？」
　ライディアの瞼が力無く落ちていく。不本意に死に逝く者の姿はあまりにも悲しく、ソアラは声を裏返らせながら必死に訴えた。
　「死なないで、お願い！」
　ソアラは彼女の手を握り、急速に失われていく体温に震えた。
　「＿＿＿うん＿＿＿」
　最期に見せた穏やかな微笑み。そして全てが落ちた。
　「ライディアァァッ！！」
　神の城を見るゾヴィスの空に、ドラゴンの咆哮が響きわたる。同胞を胸に抱く姿は悲しみに溢れ、怒りに満ちていた。
　牙を剥き合い、敵として刃を交えてきた者の死がこれほど悲しいことはなかった。



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