1 竜を食う

 「ソアラ、良くここまで成長した。正直、脆弱だったおまえが今こうして私の前にその姿を見せてくれるとは思っても見なかった___」
 竜神帝はまるで生き別れた娘と再会した父親のように、思いを込めて語る。ソアラは少しだけ気恥ずかしかった。
 「私一人ではとてもここまで来ることなんてできませんでした。みんながいたから、お互いに支え合ってきたからこうして帝とお話しすることもできたのだと思います。」
 ソアラの言葉に帝は満足そうに長い顎で頷いた。
 「その気持ちを忘れぬことだ。おまえは孤独でないことを誇り、最高の悦びであると知っている。それをミキャックにも教えてくれた。一人で全てを背負うことはないのだ、互いの絆を信じるのだぞ。」
 「勿論です。」
 「うむ、私もおまえがその心を失うことなど無いと信じているよ。大気を一つの位置にとどめておくのは至難の業。しかしそれが結晶となれば容易なこと。目に見えぬ絆だけではない、おまえにはその絆が生んだ結晶がある。」
 リュカとルディーは自分たちのことが話題に上っているとは思っていない。元気丸出しで謁見の間をかけずり回っていた。
 「どうもすみません、ちょっと教育が足りなくって。」
 「なぁに、あれくらい元気な方が我々も勇気づけられよう。」
 優しい言葉。幻影は無表情でも、ソアラは帝が二人を穏やかな眼差しで見てくれていると感じた。そしてその意味は少し違うが、かつてアヌビスに抱いた印象がここでも浮かんできた。
 「私は神らしくないか?」
 「えっ!?」
 考えていたことを見抜かれ、ソアラは少し焦った。
 「おまえはアヌビスと会ったとき、奴を神らしくないと思ったようだな。」
 「全てお見通しなんですね。」
 「戦劇だったか、あの場で覚醒を促すきっかけを一度だけ与えた。その程度のことしかできなかったがこちらの世界を見続けていたのは事実だ。」
 そうとも。竜神帝はずっとソアラのことを見ていたのだ。アヌビスの闇に食いつぶされていた世界にその思念を送る、それだけでも大きなリスクを伴うことだが、帝は一度だけソアラを救うために動いた。
 「ソアラ、私もアヌビスも神らしくないのではない。これが神なのだよ。」
 「?」
 「神は全知全能、この世の全てを操り、世界を創造したとされている。だがこの世界を創造した存在など私も知らぬ。」
 そうなの?ソアラは少し呆気にとられていた。
 「おそらく私が生まれるよりも遙か昔に神と呼ばれていた存在の仕業なのだろう。人々にとって、神は心のよりどころであり、絶対であって欲しいもの。だが実際に神と呼ばれる存在は、遠い昔に一事象を司ることの許された者のことを言う。つまり私は光を司ることを許され、アヌビスは邪念を司ることを許された。そういった人物が神だったのだ。」
 「それでもやはり世界の動向を左右する存在であることには変わりませんよ。」
 「それはその通りだ。我々は、私は捨てたが、この世界を滅ぼす力だけは持ち合わせているからな。」
 意味深な言葉に感じた。神と呼ばれる存在であっても、創造は限りなく困難な所業。反面、破壊は簡単___それを嘆き、帝はその力を捨てたのだろうか?
 「おまえには神が絶対ではないということを知ってもらいたい。」
 なぜそんなことを教えるのか?それは甘えを与えないためだ。
 今後のアヌビスとの決戦に向け、竜神帝がいるからなどという甘え、依存、よりどころを与えないための戒め。帝はソアラに教えを聞かせ、光を与えることはできるが、それ以上のことはできない。
 「ソアラ、自分のやるべきことを言ってみよ。」
 「やるべきことですか___?」
 難しい質問だ。しかし答えは一つしかない。
 「それは___アヌビスを倒すことです。」
 「なぜアヌビスを倒す。」
 「彼の行為は世界の平穏を乱します。」
 「奴の存在が悪か。」
 ソアラの答えに多少の間があった。しかし彼女は落ち着いてゆっくりと言う。
 「いえ、全てが悪というわけではありません。光があれば闇があるように、全てにはバランスがあり、その調和がとれている状態が平穏なのだと思います。彼はそのバランスを著しく崩しています。私は調和を取り戻すために彼を止める、そうですね、それが私のやるべきことです。」
 優等生な答えではあったが、この汚れなき神を御前にして、ソアラの心もそれほどに澄みきっていた。
 「良い答えだ。安心したよ。」
 竜神帝の深みある声に、ソアラも内心ホッとして笑顔を見せる。
 「わーい!鼻ほじりー!」
 ズボ。はしゃぎ回っていたリュカとルディーが、浮き彫り竜の鼻の窪みにそれぞれの拳を押し当てた。ぐりぐりと回して子供らしい笑い声を上げている。
 「こ、こらっ!あんたたち!」
 ソアラは慌てて止めに入った。だが幻影を介して、竜神帝の笑い声が響いた。
 「良いではないか、子供はこれくらい活力があった方がいい。」
 「いえ、けじめは守らないといけませんから。」
 ソアラはしゃがみ込んで二人の肩に手をかけ、なにやら小声で叱りつけた。リュカとルディーはピシッと姿勢を正し、大きく頷くとまた元気満々に、それでも少し襟を正して謁見の間から走り去っていった。
 「レミウィスを呼んできてくれるか。話がある。」
 「はい。」
 立ち上がって幻影を正面に見る位置へと戻り、ソアラは頷いた。
 「だがその前に、最後の質問をする。」
 幻影の黄金の瞳がソアラを覗き込んだように見えた。ソアラは圧倒されそうになるも視線を逸らすことはしなかった。
 「もし私がおまえの言う調和を乱したならば。おまえは私に刃を向け、止めることが出来るか?」
 即答___だっただろうか?
 「出来ます。」
 多分即答だっただろう。自分はそれくらい割り切った性格の持ち主だから。
 「良い娘だ___」
 ソアラがいなくなった謁見の間。竜神帝はぽつりと呟いていた。

 「お話とは___」
 レミウィスは竜神帝の前に跪き、いつも以上に貞淑な声で問うた。
 「まあそう堅くなるな、敬虔なる賢者よ。」
 「勿体ないお言葉です___」
 レミウィスがここまで緊張している姿はそうそう見られるものではない。相手は竜神帝だが無表情な幻影。それでも彼女の指先と声は微かに震えているようだった。
 「レミウィスよ___己の行いに誇りをもつがよい。貴公の洗練された知識がソアラたちをここまで導いたのだ。さあ、まず立ち上がってその姿をしっかりと私に見せてくれ。」
 レミウィスは踏ん切りをつけたようにゆっくりと立ち上がった。だがその眼差しから羨望が消えることはない。
 「うむ。」
 帝の満足げな声を聞くと、レミウィスはすぐに顔を真っ赤にして俯いてしまった。
 (こりゃ一種の病気ね___)
 彼女の横に立っていたソアラは苦笑いしてそんなことを考えていた。
 「レミウィスよ、貴公を呼んだのは他でもない。貴公のその類い希なる英知に新たな事実を刻み込んでもらいたいがためだ。」
 「私に___?すると何か遺物に関わることですか?」
 話題が自分の分野になった途端、レミウィスの顔つきから緊張が薄れた。
 「そうだ。聖杯を持っているな。」
 「はい、ここに。」
 レミウィスは腰に結びつけている大きめの道具袋から銀色に輝く美しい杯を取り出した。
 「貴公はそれについてどこまで知っている?」
 「寸暇を惜しんで調べましたが___竜の使いを浄化する力と、これが帝様が作られたものではないということ、それから表面に刻まれている文字が天界に由来するものではなさそうだということ___くらいです。」
 「帝、聖杯にはアヌビスも目を付けています。これには何か重大な秘密が隠されているんですか?」
 ソアラも真剣な顔つきで会話に参加した。
 「そうだ。それを今から話す。」
 真剣になったのは二人だけではない。竜神帝も同じことだった。
 「まず___」
 いきなり。
 「それは邪悪に端を発するものだ。」
 「!?」
 レミウィスとソアラは驚きで暫く硬直した。レミウィスはそれを竜神帝ゆかりのものと信じて疑わなかったし、ソアラも杯に宿っていたらしい声の主に救われた。それが邪悪に端を発するとは___正直信じられなかった。
 「元々はダ・ギュール、あの男が拵えた道具なのだよ。」
 ソアラはダ・ギュールの姿を思い浮かべる。あの長身、寡黙、浅黒。アヌビスに絶対の忠誠を誓い、同時に尤も信頼されているであろう男。腹の底はアヌビスと同じぐらい黒い霧に包まれ、真意を伺い知ることは出来ない男。
 「しかし___これが邪悪ですか?何よりソアラが八柱神の呪いに犯されたとき、彼女を浄化したのは聖杯です。」
 レミウィスは納得がいかない様子で眉間に力を込め、陽光を浴びて煌めく聖杯を睨み付けた。思わず眼鏡をかける。
 「そう思えるだけで実際はそうではない。それは聖杯を今の姿へと変えた人物の仕業だ。名をリツィラスという。」
 「リツィラス___」
 ソアラはしっとりとした声色で呟いた。
 「何か感じるものがあるか?ソアラ。」
 「え?いえ___」
 竜神帝に指摘されてソアラは首を横に振る。
 「おまえの親類だ。」
 「親類___!?」
 ソアラは震えの来る思いだった。親類とは___それを知っていると言うことは、竜神帝は自分の母を知っているということになる。いや、それが当然だ。竜神帝は竜の使いの全てを知っている。なのになぜ今まで自分のことを聞こうとしなかったのか不思議だった。
 「リツィラスは竜の使いとして極めて優秀だった。早くから私の元を離れて世界の有様を見つめ、見識を、視野を広げていた。同時にその感受性でアヌビスの危険さを嗅ぎつけていた。そしてアヌビスも、彼女に興味を持っていた。」
 まるで今の私とアヌビスの関係じゃないか___ソアラのアヌビスへの疑念は一層深まった。
 「リツィラスが聖杯を今の姿に変えたのはアヌビスが地界に現れてから間もない頃、まだ栄光の城をこちらに移すよりも前のことだ。かつて聖杯は『血の器』と言われていた。」
 「血の器___」
 レミウィスの辞書に新たなページが生まれた。今後このページは血の器の詳細で埋められていくに違いない。
 「ダ・ギュールは我が君主が永遠であればよいと思っていた。あの男を私は遙か昔から知っているが、かつては野心に満ちた邪悪の神官だったのだ。だが奴はアヌビスと出会うと、その全てをアヌビスに捧げた。そしてあらゆる尊敬を以てしても足りないほどに心酔し、アヌビスが永遠であれば竜神帝の世界を覆すことなど容易いと考えていたのだ。」
 帝の言葉には感慨が込められていた。遠い昔であればあるほど、感慨は強くなるもの。
 「そして奴は血の器を作った。それは恐るべきものだった。」
 恐るべきもの。レミウィスとソアラは思わず息をのむ。竜神帝が恐ろしいというほどのこととは?言葉を聞くのにも覚悟がいる。
 「器は竜を喰い、欲望と破滅の力を捧ぐ。」
 レミウィスはその言葉が何を意味するか直感的に分かったようだ。思わず聖杯を睨むように見る。
 「血の器は竜の使いの天敵だ。この器は竜の使いを食い、具現化する力を持っている。竜の使いから命を食いちぎり、力の源を器に満たす。それを飲み干せば、その者は大いなる力を得ることができる。」
 センセーショナルだった。レミウィスは息を飲み、ソアラは愕然としていた。
 「じゃあ___」
 指先の震えを押さえることが出来ない。ソアラはこみ上げてくる怒りを止められなかった。
 「アヌビスは___!」
 アヌビスはそのためにソアラを呼んだ。
 「それは竜の使いでなければ駄目なのですか?」
 拳を握ってわなわなと震わせているソアラを横目に、レミウィスが冷静に問うた。
 「そうだ、竜の使いの力の抽出器だからな。」
 「どうしてそんなものが作れてしまったのです?竜の使いの力とは?」
 「竜の使いから発せられる力は特殊なのだ。あれは単純な光ではなく、闇をも持ち合わせている。竜の使いの力は光と闇の融合から生まれたのだ。」
 光が竜神帝___なら闇は?レミウィスの脳裏に憶測が走る。
 「ソアラをはじめとした多くの使いは光に特化しがちだが、実際は闇をも持ち合わせている。闇というと邪悪を抱くかも知れないが、それは違う。」
 そう、それは肝に銘じておかなければいけない。光と闇は事象の一つ。善悪などない。そしてライディアがその力を示したように、闇に特化した竜の使いもまたあり得るのだ。
 「アヌビスの時を止める能力。あれこそ血の器の恩恵なのだ。五百年も前のこと、奴は不意に天界へと現れその身を隠していた。竜の使いがそれを見つけて挑み、アヌビスは逃亡したが彼女を生け捕りにし、血の器の実験台とした。おそらくアヌビスははじめからそれを目的に天界に顔を覗かせたのだろう。彼女は戦闘能力は乏しかったが、優しさに溢れ、時を僅かに操れるという変わった能力を持っていた。そしてアヌビスはダギュールの力作である血の器の効果を知った___器はアヌビスにより一層の力を与えただけではない、彼女の能力を、しかもより驚異的なものにして与えたのだ。」
 僅かな時の操作は、数秒にも至る時の停止へ。そんなことを微塵も感じさせなかったアヌビス。まるで生まれつき持っていた能力のように自慢げでいた___
 「それからアヌビスは暫く静かになり、竜の使いの制裁が及ばないよう身を潜めていた。だが奴は再び地界に現れた。何をするでもなく、絶海の孤島に住んでいるだけで脅威は微塵も感じさせなかった。私は様子を見るつもりでいたが、リツィラスは違った。あの子はアヌビスがこれ以上の存在にならないよう、血の器を破壊するという決意に燃えていたのだ。そして実行した。」
 成功___したと言えるのだろうか。いまレミウィスの目の前には血の器ではなく聖杯がある。
 「リツィラスは器を奪うことは出来た。しかし破壊することはかなわなかった。器は邪念に満ちあふれ、同時に生きているかのように竜の使いを強く欲していた。彼女は器に喰われる思いだったという___どうするか。迷ったあげくに彼女は命を捨てた。」
 辛辣な帝の面持ちが目に浮かぶ。
 「血の器には古代の魔物の命が宿っていたのだ。リツィラスは自らの命を器に投じ、その魔物を退治するという手段に出た___そして彼女は勝ち、杯にその命を宿した。」
 「そして聖杯が生まれた___」
 レミウィスは呟く。そんな紆余曲折があったとは思いも寄らなかった。
 「アヌビスが地界に居続けたのは、リツィラスが奪った血の器を取り戻すため。ゆっくりと支配を進めていったのは新たな竜の使いが現れるのを待っていたからだ。」
 「するとこれからは___」
 レミウィスは辛辣な面持ちで問いかけた。
 「アヌビスは先ず血の器を狙ってくる。そして次にソアラだ。」
 ソアラは生唾を飲んだ。現状は実にシビアだ。自分はアヌビスを倒さなければならない。が、もし敗れたならアヌビスはより強くなる。
 「リツィラスの命の封がある限り、血の器は聖杯であり、おまえたちの味方だ。だがそれをアヌビスに奪われたなら、最悪の敵に変わるであろうことを胸に刻みつけよ___これは忠告でもある。」
 栄光の城に光が戻ったことで、アヌビスも竜神帝がその英知を再び地界に注ぎはじめたことを感じているだろう。だからこそこれからはきっと、アヌビスは容赦なく手駒を使ってくる。
 そしてソアラはたとえその手駒を全てうち負かしたとしても、アヌビスを倒さなければ全てが解決することはないと分かっている。それがどんなに危険であっても、自分はもう一度アヌビスと会い、刃を交えなければならない。
 破壊の力を封じ、天界に居続ける竜神帝を頼ることなどできようものか。何より彼はアヌビスが地界にいる意味をもう一つ口にした。
 「奴の故郷は冥府。それは常に闇に満たされ、陰惨な欲望に満ち、邪神が生まれる場所だ。アヌビスは自ら先発隊を買って出ているだけに過ぎないと私は考えている。」
 アヌビスに全ての意識を向けることで、新たな脅威にさらされる可能性。それを恐れているのだ。
 (やはり私がやらなければ。私はアヌビスを倒すためにここにいる。)
 ___ソアラは決意を新たにしていた。決戦まではもうさほど遠くはない。



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