1 アヌビスの掌

 光の源とはほんの掌サイズのガラス玉。しかし確かな力を感じるそれを胸に抱き、ソアラは走った。ライディアとミキャックの交戦を彼女は知らない。
 しかし予感はあった。実に嫌な、悪い予感が。
 「ミキャック!」
 幻影の壁をすり抜けるとすぐに彼女は叫んでいた。何もなかったそこには殺伐とした地獄絵図が広がっていた。鶏の調理場?そう思わせるほどに柔らかな羽がフロア中に散らばり、それにあわせるような赤い斑。
 一際大きな、赤い水たまりの上で羽を失った鳥が身を横たえていた。
 「ミキャック!」
 その姿を見てソアラがまた叫ぶ。すぐさま駆け寄って力無い体を抱き起こした。
 「ソアラ___」
 ミキャックの目は少しうつろだ。しかし言葉はしっかりしていた。ソアラの肩に掛けた手にも力がこもっている。無事なばかりか彼女はもう片方の掌を淡く輝かせ、自らの傷を癒していた。
 「よく頑張ったわねミキャック。あなたも私のことを知る権利を得たわ。それは一瞬の満足でしかないかもしれないけど___」
 聞き慣れない声ではなかった。
 「ラ、ライディア___?」
 声の主を見やり、ソアラは絶句した。ミキャックが心配で気づくのが遅れたが、いま目の前にいるライディアから発せられる力の性質、それが何であるかソアラにはすぐに分かった。
 「久しぶりねぇソアラ。あなたが無事で本当に良かった。」
 黄金のライディア。その微笑みにソアラは硬直するしかなかった。自分の目の前にいるのは間違いなく竜の使いだ。
 「なぜ___なぜあなたが!」
 「あなたもそこの天族と同じことを言うのね。まあいいわ、教えて上げる。」
 ライディアは力を消した。元通り、鮮やかな薄紅色の髪が流れ落ちる。その変化も竜の使いならではのもの。
 ミキャックは傷を塞ぐだけの治癒を終え、ソアラに肩を借りて立ち上がった。そしてライディアは淡々と話し始める。
 「私はライディア・サリバン。父は赤竜という神の化身にも近いモンスター。母は理性に長けた純粋な魔族。生まれた私は魔族だった。」
 つまり彼女は竜の使いではないということ。
 「私も資質を持っていた。多くの魔族は魔族でしかないし、モンスターはモンスターでしかない。八柱神みたいに力のあるものはその姿を両立させているけど先天的なものではない。でも私は違った。生まれながらにこの人の姿のほかに、強靱で雄大な赤竜の姿を持ち合わせていたのよ。」
 だがそれは竜の使いになり得る資質ではない。いったいどうして?
 「能書きはいいから早く教えろ!なぜ魔族のおまえが竜の使いなんだ!?」
 苛立ちがミキャックの声を荒らげさせた。だがライディアはマイペースを崩さない。
 「私は強かった。赤竜の力を発揮すればますます強いわ。でもね、あたしは赤竜になったことは二度しかない。一度ははじめて、小さい頃に怒った弾みで無意識に。二度目ははじめてアヌビス様にお目通りした時よ。見せてみろと言われたからほんの一瞬だけね。何で?決まってるわ。醜いからよ。あたしは戦士である前に女だもの。たとえ戦いのためであっても不気味なドラゴンになんてなりたくなかった。怪物とか化け物とか言われるのは私のプライドが許さなかったのよ。」
 それは同性なら分からることだ。現にミキャックは自分の大きすぎる身長を嫌っているし、ソアラも色のことで悩み続けていた。コンプレックスという奴だ。
 「私は赤竜にさえなれば八柱神として十分な力を持っている。アヌビス様も私を気に入ってくれていたし、男ばかりの八柱神にはしないとも言っていたわ。ただ、この魔族の姿では私はメンバーに入れるだけの力量を示すことができなかった。でも執念はあった。信念もあったわ。だからアヌビス様は私に大きな提案をしてくれたのよ。」
 ライディアは一つ呼吸を入れた。
 「アヌビス様はこう言ったわ___この前面白いものを手に入れた。竜の使い、竜神帝の系譜を継ぐものだ。」
 「!」
 ミキャックは唇を咬め締めて、ライディアを睨み付ける。彼女の隣でソアラは息を飲んでいた。
 「こいつの力だけを搾取してみることにした。もしよければおまえに実験台になってもらいたい___」
 話が見えてきた。ソアラの表情が険しくなる。
 「赤竜は神にも近い存在だ。おまえにはその力を受け入れられる器がある。おまえが竜になりたくないというのなら、人の姿で竜になってみればいい。搾取した力を植えつけてみたい。だが実験の結果は未知だ、命に関わるかもしれん。やってくれるか?」
 ソアラはゾッとすると同時に腹立たしさで拳を振るわせた。
 あの邪神にしては人当たりの良い黒犬が、自分に何をしようとしていたか___
 ドラゴンズ・バイブルまで奪わせて、竜の使いについて詳しくない素振りをして___
 竜の使いであると知って私をどうするつもりだったのか!?優しくしたりして、野放しにして、それもアヌビスが私を食いつぶすための布石でしかないのか?
 やはり___邪神アヌビスは恐ろしい男だ。
 「あたしは躊躇なく引き受けたわ。実験そのものがどういったものかは分からない。ダギュールに眠らされて、目が覚めたときには全て片づいていた。そしてそれから一週間以上、全身の激痛と異常な発熱、嘔吐、出血___地獄以上の苦しみを味わったわ。体は食べ物はおろか水さえ受け付けなかった。でも私はその苦しみを乗り切った。そして変わったのよ。体重も随分減っていたけどそれ以外にも変わっていた。何となくこつみたいなものは体が覚えていて___自然に力を表していた。赤竜の姿を呼び起こすような感覚で、私は光り輝いていた。嬉しかったわ___こんなにシンプルで、それでいてこの夥しい力。」
 ライディアが再び黄金色に変わる。
 「わかった?こうしてあたしは、この世界でただ一人___竜の使いの力を手にした魔族になったのよ。」
 ライディアの告白はそこで終わった。まだ衝撃で気持ちの高ぶりが収まらないが、ソアラは冷静さを取り戻すためにも口を開いた。
 「そうか___それであなたは私とはじめてあったときに、私の本質を知っているなんて言えたのね___」
 「そうよ。私にはあなたが竜の使いであるとすぐに分かったわ。幸いあたしは竜の使いに色の指定があるなんて知らなかったからね、純粋にあなたの潜在的な感触だけで判別することが出来た。」
 「それを知っていてあなたもアヌビスも、私をヘルジャッカルに呼び込んだり、あんな馴れ合いを演じてみたりしたわけ?」
 「さあどうかしら___」
 ソアラの力が著しく高ぶっていく。それを感じてミキャックがソアラから離れた。手負いの自分がいては邪魔になる___それもあるが、ソアラがこうしている間にもそっと彼女の掌に光の源を託したことが一番の理由だった。
 「アヌビス様はあなたが思っている以上に冷酷で狡猾よ。あなたは彼の手の上で踊っているだけ。」
 やっぱり___アヌビスが私を野放しにしているのには理由がある。もし本気で聖杯を奪い、栄光の城の復活を阻止し、私たちを葬り去るというのならば、とっくにあのジャルコなり、ダギュールなりが戦場にやってくるはずだ。
 ライディアが側にいた。何よりかつての竜の使いを仕留めたのではないか。アヌビスは竜の力がいかほどのものか私と出会うずっと前から知っていた、つまりメリウステスやグルーでは役不足だと分かっていたはずなのだ。
 するとあいつは___彼らを使って私の力の覚醒を促そうとしていたのだろうか?
 だが___理由が見つからない。
 「ショックかしら?あなたアヌビス様のこと嫌いじゃなかったみたいだものね。でもそんなに甘くないのよ。」
 そう、こうなることは分かっていた。いずれあの男の本性が知れるときが来る。それは分かりきっていた。だからソアラは決して揺らぎはしなかった。
 自分はアヌビスを討つために生まれた竜の使いなのだから。
 「分かっているわ。どうせそんなことだろうと思っていた。当然よね、あいつは邪神。あたしとあいつは戦わなきゃならない間柄なんだもの。私もあいつも運命とか宿命とかいうのって嫌いだけど___これだけは言える。」
 ソアラはキッとライディアを睨み付けた。その迫力にライディアは一瞬気圧される。
 「あいつを倒すのは私よ!そして私には何の躊躇いもないわ!」
 ライディアはその気迫に指先が疼くのを感じる。ソアラが紫色から黄金色に変わると全身が騒いだ。魔族にしては好戦的な気性に、竜の使いの戦士の本能が拍車をかけているようだった。
 「フフ、そうよ。そう来なくちゃ。」
 同族の戦いが始まる。戦場はアヌビスの掌の上___



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